第一章 『余は如何にして基督教徒となりし乎』と「伝統物語」の比較分析
第四節 父と四書五経の定着、そして創設神話
4-1 四書五経の定着
A-D群物語の関心は内村と父との関係、四書五経などに集中している。儒教を強調する A群物語と鈴木範久らの記述には、四書五経への執着が見られる。そして伝統物語における 四書五経の起源が鈴木俊郎訳であった。ではそれはどのように固定化したのだろうか。
鈴木範久は『内村鑑三日録』で「(内村の)父は、このほか「孟子」を子が暗唱するほど 教えている」と語っている 219。内村は『孟子』を暗唱できた、との鈴木範久の主張の根拠 は内村文書である。
近頃に至り、嘗ては 少年時代 に暗誦してゐた 孟子 を取り出し、毎日少しづつ之を 読みて大に感じ又益せらるる所がある。…自分の生みの 父が幾たびか孟子の此言を 引いて 自分を慰めて呉れた。今之を読んで父の言を聞くが如くに感ずる。220
この独白は、内村が少年時代に『孟子』に親しみ、彼の父が「幾たびか」孟子のある一節 を引用して自分を慰めた、という二つの回想で構成されている。以下でもう一つの内村文書 と比較するため、ここで上記の文の形式を整理する。(1)少年時代に「暗誦してゐた孟子」
(2)それを最近、再読する(3)父の口からの一文、これが上記の形式である。
鈴木範久の主張にしたがって、内村は父から『孟子』を学んだという推測することは不可 能である。なぜなら上記の引用には『孟子』を教えた父が登場しないからである。登場する のは、あくまで孟子の言葉を引いた父である。したがって、内村の父が、内村が暗誦できる ようになるまで内村に『孟子』を教えた、という鈴木範久の筋書きは、彼の想像であると言 わざるを得ない。このような解釈構造は、上述したHIBCの「My father was a good Confucian scholar, who could repeat from memory almost every passage in the writings and saying of the sage.
So naturally my early education was in that line」を父が四書五経を内村に教えたと解釈してき た構造と同様である。内村文書には、上記の『孟子』物語と同形式をとっている別の一文が 載せられている。
219 鈴木範久『内村鑑三日録』(1)、教文館、1988年、22頁。
220 『UKZ』(30)、159頁。
何十年振りで孝経を読んだ 。依然として偉大なる書である。殊に近代人は之を精読熱読 する必要がある。其内に深い真理がある。夫孝徳之本也 とは今日と最も動かすべからざ る真理である。今より六十年前、我が父の口からより学んだ所である221。
(1)過去に読んだ孝経、(2)最近、再読する、(3)父の口からの一文、これが上記の形 式である。このように、二つの内村文書の引用は、同形式を持っているにもかかわらず、伝 統物語では『孝経』が強調されない。鈴木範久による『孟子』の強調は、やはり彼の四書五 経への執着に由来するのだろう。鈴木範久の四書五経への偏りは、「内村鑑三研究の方法に ついて」にも表れている。
A群物語において、内村が伝受した儒教の系統は朱子学とされた。この主張は四書五経を 念頭に置いていると考えられる。朱子学が四書五経を重視しているからである。さらに、内 村が伝受した儒教を陽明学とする立場も存在する。たとえば、定形日佐雄は鈴木範久の『内 村鑑三とその時代』の書評で「内村にとって、陽明学の権威は父のそれでもあった。彼が『父 は、すぐれた儒学者でありました』…と誇るとき、その誇りは、父と 陽明学 双方のに成り 立っている」と内村の陽明学伝承を解説している222。この書評に対して鈴木範久は、「私が 儒学と言っているのは、内村が少年期に接したいわゆる 朱子学的な儒教 のことを言ってい る」223と反論している。陽明学とキリスト教の関係は頻繁に言及されるテーマであり 224、 明治キリスト教指導者たちもそれに共感しているため、内村にそれが関連付けられるのも 無理はない。たとえば、植村正久は「王陽明の『立志』」で陽明学を次のように評価してい る。
儒學は人をして地を離れしめず。然ども陽明學は人をして天に臻らしめんとす。…
アスピレーションは即ち王陽明なり。陽明學は則ち一種の宗敎なり225。
ところが、内村と儒教の関係を語る物語群では、朱子学への言及が支配的である。その理 由は、伝統物語が四書五経を強調していたからである。四書五経への傾注は、鈴木範久に限 られるのではない。内村文書の原文を脚色して四書五経を強調するテクストもある。その際 に原典とされた内村文書をまず見てみよう。それはMoral Traits of the Yamato-damashiiの一 文である。
221 『UKZ』(35)、254頁。
222 『UKZ』(6)、81頁。
223 『UKZ』(10)、130頁。
224 金正坤「内村鑑三と陽明學」『陽明學』34 한국양명학회(韓国陽明学会)2013年。
Nakajima Takahiro, “The formation and limitation of modern Japanese Confucianism: Confucianism for the nation and Confucianism for the people,” in Roger T. Ames and Peter D. Hershock, eds., Confucianisms for a Changing World Cultural Order, Hawaii: University of Hawaii Press, 2018を参照。
225 『植村正久著作集』(7)、植村全集刊行会、1932年、327頁。
Filial love is the source of all virtue, reads the first lesson the Book of Confucius226
ここでの「the Book of Confucius」とは何を指すのだろうか。文頭の「Filial love is the source
of all virtue」とは、おそらく『孝経』中の一節、「夫孝徳之本」227(それ孝は徳の[根]本な
り)の英訳であろう。「Filial love」は「孝」と、「The source of all virtue」は「すべての価値 の根本」と訳せるからである。そして、『孝経』の「The first lesson」に「夫孝徳之本」との 一文がたしかに見出せる。こうして、「The Book of Confucius」は『考経』を指す、と結論付 けられる。これに対し、道家弘一郎は「Filial love is the source of all virtue」を「孝悌なる者、
其れ仁をおこなう本か」228と訳している。道家弘一郎は、その出典を示していないが、おそ らく『論語』の「孝弟也者其爲仁之本與」229を参考にしたのであろう。
しかし、その訳は不適切である。道家弘一郎は四書五経に固執するあまり、本来は『孝経』
からの引用を、『論語』からの引用であると誤解した。このように、かつて鈴木俊郎が採用 した四書五経という訳語が、幼年期の内村の儒教教育の証明として定着し、内村の幼年物語 の解釈の場を提供したのである。
『孝経』は、儒教教育における基礎的な書物ではあるものの、四書五経には含まれない230。 伝統物語には『孝経』が引用されていない、とは断言できないが大半の伝統物語は、四書五 経に属す書物によって物語を補足している。このパターンは『愛の宗教家:内村鑑三』にお いても顕著である。同書は、駕籠物語を語った後、『孝経』について解説し、それは「孔子 と曾子が、孝道について論じあったのを、その門人たちが筆記したのである」と述べてい る231。そして四書五経については、「儒教のよりどころとなっている書物で、いちばん重ん じられているのは『論語』だ」としている232。
伝統物語において四書五経は、内村が幼年期に儒教的高等教育を受けたことを証明する 機能を果たしており、同じことは『愛の宗教家:内村鑑三』の場合にもあてはまる 233。同 書は、四書五経を学ぶことが、「この時代の子供たちにとっての、いちばん高尚な学問」だ った、と説明している234。この解説では、「父」が「藩の学校」に改変され、それを通して、
内村が幼年期に儒教の 高等教育 を受けたと主張している。鳥井足も内村の儒教教育につい て語っている。
226 『UKZ』(1)、115頁。
227 大宰春臺點『孝経』小林新兵衛、1792年、開宗明誼章 第一、1頁。
228 道家弘一郎「一高不敬事件以前の内村鑑三」『宗教と文化』24、2006年、38、43頁。
229 『十三經注疏附校勘記』(8)藝文印書館、1955年、「論語注疏」5頁。
230 『孝経』は宋代に確定した『十三経』に属している重要な経典の一つであったのは確かであろう。
しかし、南宋の朱子が五経を勉強する以前に読むべき経典を集め、『四書集注』を執筆する。
231 鑓田研一『内村鑑三:愛の宗敎家』ポプラ社、1952年、22頁。
232 同書、22頁。
233 『愛の宗教家内村鑑三』は児童向け偉人伝である。しかし児童向けだとしても、それはイデオロギー と密接な関係を結んでいる。土田知則、青柳悦子『文学理論のプラクティス』新曜社、2001年、36頁 を参照。
234 鑓田研一、前掲書、30頁。
四書五経は申すに及はず、漢籍一般の広く本格的な学習が鑑三に課された。235
四書五経は内村が儒教の高等教育を受けたことを暗示する用語であり、さらに儒教の高 等教育、朱子学を強調する用語である。
ではなぜ朱子学だったのか。まず、内村の儒教は陽明学とされた。キリスト教思想と内容 的に共鳴するのが陽明学であったからである。また、内村の生きた時代の日本化の主流が陽 明学であったことも理由に挙げられる。これに対して、再日本化されたのが朱子学であっ た236。こうして朱子学は内村の教育系統として提示されたのである。
いずれにせよ、『余は如何にして』が舞台である1861年から1888年までの期間に書かれ た内村文書に見出される漢書は『孝経』のみである。その27年間に生産された内村文書の うち、儒教経典に言及するテクストは、Moral Traits of the Yamato-damashiiと1880年の作品 の二点のみである。後者には、「身ヲ立 道ヲ行ヒ 父母ノ名ヲ後世ニ挙ルハ孝ノ至りナリ」
との一文がある237。この一文もやはり『孝経』からの引用であり、その原文は、「立身行道 揚名於後世以顯父母孝之終也」であると考えられる238。この以外に、儒教経典に言及する、
1861年から1888年までの期間に属する内村文書は見当たらない。
以上のように、内村文書においては『孝経』への言及が顕著であるにもかかわらず、伝統 物語の記述者たちは、内村が幼年期に接した儒教経典を四書五経に限定してきた。それは彼 らが、儒教の高等教育を受けた内村像を必要としたからである。その必要を満たす手助けを したのが、鈴木俊郎訳であった。たしかに、内村文書のあちこちで儒教経典は引用されてお り、内村その人が生涯中のどこかの時点でそれらを読んだ可能性はある239。
その可能性を認めた上でなお問いたいのは、なぜ伝統物語において、内村の儒教的、武士 道的な素養の起源が彼の幼年期に集中させらているのか、である。内村文書では多様な漢書 が引用されているにもかかわらず、儒教教育の側面を浮き彫りする物語記述者たちは(道家 弘一郎のように)、ある引用が四書五経に由来せずとも、それを四書五経からだと判断し、
解釈しようとしてきた。しかし、すべての漢書引用が儒教経典に変更されたことではない。
内村文書には次のような引用もある。
尭曰く男子多ければ則ち懼多く、富めば則ち事多し、寿ければ則ち辱多しと…240
235 鳥井足『評伝:内村鑑三』あさを社、1979年、19-20頁。
236 呉震「戦後日本の学界における『儒学の日本化』問題についての考察」『国際哲学研究』(5)、2016年、
108頁。
237 『UKZ』(36)、7頁。
238 大宰春臺點『孝経』小林新兵衛、1792年、開宗明誼章第一、1頁。
239 これは人間内村が読んだという意味より、ある時期から時代言語が引用されたことを意味する。
240 『UKZ』(20)、75頁。