第三章 宗教団体法(1939 年)と内村物語創出の背景
第二節 「日本的基督教」を巡る論争
2-1 第二期無教会集団と日本の教会との論争
内村の反教会主義は第二期無教会集団にも伝承された。無教会と主流教会の対立の流れ は次のようにまとめられる458。
【図17】
1928年 塚本虎二 『聖書之研究』 「真の教会」
反)岩下壮一 『カトリック研究社 講義録』
「高等批評に譲歩する新教徒の矛 盾」
反)塚本虎二 『聖書之研究』 「教権か聖霊か」
1929年 高倉徳太郎 『海南教報』 「教会観」(無教会批判)
1932年 渋谷治 『無教会基督教会』 「無教会基督教会」
黒崎幸吉 『永遠の生命』 「教会の本質」
1934年 畔上賢造 『日本宗教講座』 「無教会とは何か」
1936年 由木康 『新興基督敎』 「教会主義より観たる無教会主義」
『新興基督敎』 「無教会主義批判後記」
1937年 黒崎幸吉 『永遠の生命』 「支離滅裂なる教会主義者」
1948年 関根正雄 『独立』 「無教会主義の弁証論」
1949年 渡辺善太 『独立』 反)「無教会主義の弁証論を読む」
上下
関根正雄 『独立』 反)「批評の空転―渡辺善太氏の批 評に答う」
関根正雄 『独立』 「基督教の社会的実践」
北森嘉蔵 『独立』 「十字架の言―関根正雄氏に答う」
※反)は反論である。(筆者)
これは泉治典の分類を筆者がまとめたものである。そのうち、1936 年以降の論争に注目 してもらいたい。主流教会対無教会集団の論争は1936年以前からあったが、主流教会によ る本格的な反無教会運動の始点は1936年であると見られる。もちろん、それ以前から、主 流教会は無教会集団に関心を寄せていた。たとえば、1932 年の『基督教新聞』には無教会
458 泉治典「内村以降の教会対無教会の論争・批判・対話」『内村鑑三研究』(22)、1985 年、108-113 頁。
集会の状況、開催場所、出席人数といった、詳細な動向を報告している459。1936年の『新 興基督敎』主催の講演会については、先に進んで詳しく論じる。
1936 年以降の論争は、それ以前のような単純な教会論的論争ではなく、宗教団体法施行 下での生き残りをかけた論争であったと筆者は考える。すなわち、その時代の論争は、対内 的なものではなく対外的なものであった。その論争には、主流教会と無教会集団以外のキリ スト教団体(賀川系)も参加した。無教会集団側の急先鋒は塚本虎二と畔上賢造であった。
両名とも第二期無教会の指導者であり、現存する無教会側のテクストは二人に由来する。ま た二人の見解が異なったいるで、本論文ではこの両名の発言を主に取り上げる。
泉治典の分類における主な資料はキリスト教系雑誌上の論争であったが、以下で筆者は 新聞上での議論に焦点を合わせる。それにより、対外的な議論を分析することができるはず である。しかし雑誌上と新聞上のいずれも、内と外に読まれたものであろうが、各論争が載 せられた新聞という場を対外的と筆者は定義し、その内容を検討する。
それでは教会雑誌上でも披露できるはずの論争を、なぜ彼らはわざわざ新聞上で展開し たのか。それは社会向けの弁明を意図したからであり、その動機にも宗教団体法が影を落と していたと考えられる。本論争は、既存の教会を無教会化しようとする立場と、それをなん とかして防ごうとする立場のせめぎ合いでもある。
2-2 日本の教会と第二期無教会集団の論争
(1)畔上賢造の批判
畔上賢造によれば、日本プロテスタント教会信徒数が少ない理由は、「日本民族特有の精 神を土壤として生ひ立つたものではない」460からである。外国教会の組織をそのまま受け入 れた日本の教会には根がなく、それゆえに生命もない、という。日本の教会は、説教はして も、「聖書の內容をはっきり敎へないで、どうして眞の信者ができようか」461というのが彼 の批判であった。また神学校、洗礼、聖餐式など、すべてが西洋教会の模倣、「機械的飜譯」462 であるので「社会的に無力」と彼は指摘する463。そして、「どの點から見ても、・・・臭紛々 である」既存の教会は464、「根本的に改革する必要」465があるというのである。彼が提示す る根本的な改革とは、「基督敎の日本化」である466。「基督敎の日本化」とは、「日本民族本 來の精神に堅立して、基督敎の獨立的尊嚴を十分に認めながらも、あくまで生粹の日本人と してそれを信じ受けようとする」467ことであった。
459 『基督教新聞』基督教通信社、1936年3月14日、3頁。
460 「将来のキリスト教について(1)」『読売新聞』、1936年6月25日、朝刊。
461 「将来のキリスト教について(5)」同新聞、1936年6月30日、朝刊。
462 同新聞。
463 「将来のキリスト教について(2)」同新聞、1936年6月26日、朝刊
464 同新聞。
465 「将来のキリスト教について(5)」同新聞、1936年6月30日、朝刊。
466 「将来のキリスト教について(6)」同新聞、1936年7月1日、朝刊。
467 同新聞。
以上の畔上の諸発言は、無教会の擁護論として理解できる。なぜなら、彼が言わんとして いるのは、既存の主流教会が将来的に無教会的な教会となるのが望ましい、ということが骨 子だからである。畔上はあくまで、日本的基督教として自ら定義した無教会理解の立場から、
主流教会を批判しているのである。
(2)額賀鹿之助の反論
畔上の批判が新聞に連載されてから11日後、主流教会側の反論として額賀鹿之助の記事 が紙面に掲載される。額賀は、日本の教会を外国教会の模倣であると断言する畔上の主張に 反対する468。畔上の「模倣」という見方は、日本の教会に対する「認識不足」に由来し、日 本の教会はすでに「日本の土壤に立派に根を下して伸びゆきつつある」469と反論する。無教 会集団の教会に対する認識不足への批判はすでに同年1月からあった。由木康は「無敎會主 義の人々の敎會に對する 認識が非常に不足 してゐる」470と指摘している。また、日本の教 会が聖書研究をせずに、説教ばかりしているという畔上の批判に対しては、神学校や教会も
「原典の硏究に熱中」していると反論し、「聖書研究を以て生涯を献げ盡くされた内村先生 ですら左様な暴言はお吐きにならなかった」471と額賀は不快感をあらわにしている。額賀は さらに内村の名前を引き合いに出し、「内村先生の如きですら晩年餘程考へが變られたやう で敎會..
に接近して來られたやうに我々に見えた」472と述べて、内村と主流教会の親密さを強 調している。このように額賀は、内村を肯定しつつも、第二期無教会集団を否定している。
(3)畔上賢造の再反論
このような額賀の反論に対して、畔上はさらに再反論する。まず自らの批判が「認識不足」
という一言で否定されたことについては、その批判は、自らの伝道師としての経験と各教会 の信徒たちからの聞き取りに基づいている、と弁明する 473。そして、主流教会が西洋の教 会を機械的に移植してきたことを繰り返し指摘する474。額賀による内村の言及については、
都合の良い根拠に欠ける憶測であり、自分勝手な引用である、と非難している 475。畔上は 額賀による内村への言及に苛立ちを隠さない。
自分に都合のよいやうに過去の巨人を引張てくる代りに、もう少し その巨人の著書 に でも目をさらしたらどうか。476
468 「畔上賢造氏の論を読みて(1)」『読売新聞』、1936年7月12日、朝刊。
469 同新聞。
470 『新興基督敎』(1)日獨書院邦文部1936年 44頁。
471 「畔上賢造氏の論を読みて(2)」『読売新聞』、1936年7月14日、朝刊。
472 「畔上賢造氏の論を読みて(4)」同新聞、1936年7月16日、朝刊。
473 「額賀牧師に答う(1)」同新聞、1936年7月24日、朝刊。
474 「額賀牧師に答う(2)」同新聞、1936年7月25日、朝刊。
475 「額賀牧師に答う(4)」同新聞1936年7月28日、朝刊。
476 同新聞。
(4)額賀鹿之助の反論
額賀は畔上が根本的な問題には答えておらず、その姿勢は「回避」的だと批判する。そし て、畔上の言う「獨創的基督敎」とは一体何かと問いかけ、畔上は既存の教会を破壊し、新 しい教会を建てようと言うが、そこには無教会の誤謬と勝手な聖書解釈がある、と断罪す る 477。以上の甲論乙駁は、教会内部の論争というより、外部の目を意識して公表されてい る。この論争に賀川系も参加する。
(5)大島豊
大島豊は賀川系の立場から、畔上と額賀の両陣営に反対する。大島は理想的な教会につい て、「それは傳統的なエクレシアの理念を絶對的信條とすることでもなく、又無敎會主義で もない」478と主張する。そして、日本で教会が発展しない原因を、牧師たちがイエスの愛の 精神を「身に以て示さうとしない」ことに求める 479。大島も畔上のように、日本の教会は 西洋教会の模倣であることを指摘し、日本の教会には「特殊性の自覚」が必要であると説い ている 480。明治維新以降の日本キリスト教は「教養的基督教」、「神学的基督教」であり、
このようなキリスト教は、日本人にとっては「同化され難しい基督教」であり、「完全に消 化」されていない、と大島は評している。一見すると、大島の主流教会に対する批判は、畔 上に与しているようだが、彼の批判の矛先は内村にも向けられる。
内村先生も亦「基督の再臨を信ぜざる者は基督者に非ず」と斷言してこの敎養を説し たので西洋流の敎養的基督敎と化して、日本人には面倒なるパウロ神學の宣傳に終 わった。481
大島は、内村の無教会も「教養的基督教」、「パウロ神学」の宣伝で終わったと指摘する。
結論として、賀川派の教会こそが「日本的」であると説いている。
以上の畔上、額賀、大島による三つ巴の論戦は、究極的には、自集団の正当性を提示して いる。彼らは自らの団体がいかに日本的であるかを強調している482。
塚本虎二の場合は、「平民であったイエスの宗敎は平民宗敎でなければならぬと無敎會主 義は言ふ」483と、キリスト教の理念のかざし、カトリックを制度的な教会として批判する。
塚本は畔上と異なり、日本の伝統より教会の在り方に関心を示し、その観点からカトリック を批判している。塚本は自らの連載記事でイエス(1930年9月2日)とルター(9月4日)
477 「敢えて畔上賢造氏の反省を促す(上)」同新聞、1936年7月30日、朝刊。
478 「キリスト教の運命(1)」同新聞、1936年8月18日、朝刊。
479 同新聞。
480 「キリスト教の運命(3)」同新聞、1936年8月20日、朝刊。
481 「キリスト教の運命(4)」同新聞、1936年、8月21日、朝刊。
482 畔上の論を支えたのは松村介石である。彼もまた外国ミッションからお金を貰わない教会が望ましい と述べている。「日本的キリスト教の確立」同新聞、1938年1月09日、夕刊。
483 「カトリックに対して無教会主義は斯く言う(1)」同新聞、1930年9月02日、朝刊。