第一章 『余は如何にして基督教徒となりし乎』と「伝統物語」の比較分析
第三節 伝統物語の分析
A群物語には「四書五経」、「漢学」、「儒教的な教育」という用語が出てくる。この物語で の内村は、(1)武家に生まれ、(2)武士にして儒学者である父から(3)儒教教育を受けた、
という共通した経歴を持っている。この経歴を支える用語として「漢文素讀」「四書五経」
「大学」「論語」「陽明学派」「儒教的訓練」「儒教的な教育」「漢学的な家訓」がある。実は これらの用語は『余は如何にして』には見出されない。『余は如何にして』中の「漢学者で あった父」という一節を素地として、上記の諸用語が連想されたのである。
たしかに、他の内村文書にも短文ながら、幼年物語が載せられているが、日本伝統との関 係を強調する内村物語のすべてはやはり『余は如何にして』を参考にしている。
内村を直接に知る門下生や友人たちでさえ、『余は如何にして』から逸脱する幼年時代の 物語を語ることはない。つまり、伝統物語と『余は如何にして』の間には、用語の置換こそ あれ、『余は如何にして』が提供する筋書きからの逸脱はない。その理由は、(1)物語の記 述者たちが、『余は如何にして』以外の幼年物語を知らなかった(ということは、1930年以 前は幼年物語に関心がなかったことを意味する)。(2)他の物語(例えば、伝統物語と相反 する)を知っていたにもかかわらず、時代的な状況に合わせて『余は如何にして』に一点集 中したことが挙げられる。これら二つの仮説は、伝統継承者としての内村の根拠が『余は如 何にして』に探されたという点で共通している。
また A 群物語の特徴は四書五経という小道具である。それが内村に結び付けられるのに は、1935 年を待たねばならなかった。つまり、儒教教育物語の創出は1935年以降である。
四書五経の登場により、内村が受けたとされる儒教教育の内容が朱子学であった、という具 体的な推論が展開する。たとえば小原信は、内村が父から教わった儒教を「朱子学派」のも のと特定し、B群の編集者はそれが「朱子系のものか陽明学のものか、はよくわからない」
と述べつつ、別の個所で、「士道の精神的バックボーンである儒教(とくに朱子学)では見 性が重んじられていた」と具体的に推測している。朱子学に言及する両者の説は、四書五経 の位置を補強し、固定化している。A群物語における儒教や四書五経という用語は、内村の 儒教的素養を強調するために動員されたシンボル用語である。父からの教育という、A群物
語の強調点はB-D群物語にも共通している。
だが、それは預言者物語には見られない特徴でもある。以下の預言者物語の例で教祖の特 徴に伴って、記述内容も変わるのが検討できる。
3-1-1 預言者物語の例
預言者物語は内村こそが本当の教会の創設者だと主張する物語である。その際には、エレ ミヤ―やルターと内村とが比較される。この物語は、内村の伝統継承者としての側面への関 心が希薄である。
矢内原は『内村鑑三と新渡戸稲造』において、内村を「武士の子」とするものの135、A-
D群物語のように武士道や儒教の教育には言及しない。また、『余の尊敬する人物』では、
内村の父の身分に触れた後136、ただちに明治7年の物語を取り上げている137。このように 矢内原は伝統物語を省略するが、それでも彼が『余は如何にして』を参考している事は確か である。『余は如何にして』は二つの内容から組み立てられている。(1)幼年期から帰国ま での物語、(2)アメリカ的キリスト教批判、である。矢内原の『内村鑑三伝』(未完)は、
『余は如何にして』の増補版とみなすことができ、(1)を土台としている 138。同書でもや はり、伝統物語が省略され、直ちに札幌農学校時代が語られている。この省略は、内村の儒 教教育物語が自明であったためかもしれない。しかし矢内原による伝統物語の省略は、彼の 様々な文書に見られるため、意図的だと考えられる。
同じく『余は如何にして』を底本としている鈴木俊郎の『内村鑑三伝』と矢内原の『内村 鑑三伝』の内容を比べてみると、その差は顕著である。鈴木俊郎の場合は伝統物語に詳しい が、矢内原はそれよりも札幌農学校以降の物語に重点をおいていることが見て取れる。
預言者物語が内村を武士の子として紹介することはまれであり、その代わりに、藤井武の 場合、パウロとルターと内村を比較しながら、内村を「アメリカの子」として表現している。
先生も亦アメリカの子 として現はれて、而もアメリカを克服した。139
135 矢内原忠雄編『内村鑑三と新渡戸稲造』日産書房、1948年、67頁。
136 矢内原忠雄『余の尊敬する人物』岩波書店、1949年、156頁。
137 矢内原の『余の尊敬する人物』のような省略はWilliam H.H.Normanの記述でも検討できる。彼のKanzo Uchimuraにも“Kanzo Uchimura was bon in Yedo, as Tokyo was then called, on March 23,1861, the oldest child of samurai and minor official of the Takasaki feudal clan”(William H. H.Norman,“Kanzō Uchimura: Founder of the Non-church Movement,” Contemporary Religions in Japan (4:3), 1973, p. 264.)と述べた後、直ぐキリ スト教に出会った物語が展開される。
138 『YTZ』(24)、629頁。
139 『藤井武全集』(10)岩波書店、1972年、122頁。
「アメリカの子」という表現の意味は、阿部行蔵による描写との対比によってさらに明瞭 になる。
内村鑑三の精神と肉体とをつらぬくものは、祖父より父に、父よりかれにと、三つの 世代を貫流し浸透する武士の血であったことは疑うもでもない。140
阿部によれば、内村は幼年期に儒教の精神主義を受け入れ、その後、キリスト教倫理主義 をも受け入れようとしたが、それは挫折で終わった。内村のアメリカ留学時の福音との出会 いは 141、日本的伝統の断絶、もしくは日本という場所の断絶を意味する。そしてこれは太 田雄三的な断絶というより、回心に重点をおいた断絶を意味する。預言者物語では、内村の 信仰における日本伝統の否定が特徴的である。しかし、藤井は阿部行蔵とは異なり、アメリ カ的キリスト教の影響をも超えた内村を描いている。
預言者物語も『余は如何にして』に依拠して内村像を作り上げている。
しかしこのうちの誰にも余が早く少年時代に獲た余の『宗教的感受性』の起源をたず ねることはできない。142
預言者物語は、キリスト教信仰の完成による伝統との決別を大枠としている。それに対し、伝統 物語は、キリスト教信仰の完成による伝統の補完を大枠としている。伝統への見解が両物語を区別 しているのである。無教会の起源物語としての伝統物語も、この枠組みによって語り口が規定され る。預言者物語に結び付けられた伝統物語は次のような様相を呈する。
(1) 父は彼に道徳教育をほどこした。しかし 宗教教育はほどこさなかった 。内村鑑三の 宗教心は遺伝的なものでも、特別の家庭教育の結果でもなく、全く天から 彼にのみ 下ったものであった。143
(2) 欧米においてキリスト敎とは離すべからざるものと考えられた種々の儀式や、
習慣や、伝統等も無関係な、また全く反対な 習慣や伝統 の下に成長した一日 本人でありました。それゆえ、欧米人が当然と考えておった敎会制度や礼拝形 式等は、むしろ先生にとっては邪魔物であったと思われます。144
(3) 先生は…日本精神の傳統たる武士道精神をうけついで生れた者である。しか
140 阿部行蔵『若き内村鑑三』中央公論社、1949年、17頁。
141 同書、139頁。
142 鈴木俊郎『余は如何にして基督信徒となりし乎』岩波書店、2010年、14頁。
143 政池仁『内村鑑三伝』三一書店、1953年、8頁。
144 『独立』(6)明和書院、1950年、22頁。
し、直接その父祖から受けつなかった。…一つの性質があった。それは・・特 別なる宗敎心であった。145
(4) 内村鑑三の場合にもまた、かれの特別なる「宗教的感受性」は、かれの知ら ざる先に神によってその霊魂に植えつけられたものであった。146
(1)は、伝統と信仰の断絶を示している。阿部行蔵も、内村の「宗教的感受性」は彼の 家族とは関係なかったと主張し、内村を数多の日本の神々から解放させたのがキリスト教 であったと述べている 147。伝統教育が内村の信仰とは無縁であることを証明するために伝 統物語が引用されている。(2)は既存の教会と第二期無教会の差を示している。内村の信仰 が西洋キリスト教(アメリカ的キリスト教)とは異なることを証明するために伝統物語が引 用されている。(3)は「神社宗教」とキリスト教の調和を示している。(4)は内村が無自覚 のうちに、神によってその霊魂に植えつけられた、という典型的な預言者神話のモデルを使 用している。
(3)は(1)と同様な物語と見られるが、それが載せられているテクスト 148には「神社 宗教」に熱心であった幼年内村物語が載せられている。そしてそれが「少年時代における内 村先生の宗敎心であった」149と記述している。つまり、内村のキリスト教への改宗は極端的 ではなく、「神社宗教」からキリスト教へという比較的にたやすい移行であった。
伝統物語は各集団によって肯定されるにせよ、否定されるにせよ、重要な素材であった。
教祖像の相違は、宗教団体法制定下での第二期無教会集団の教祖解釈によってもたらされ た。伝統物語は日本的基督教を目指し、預言者物語は本当のキリスト教を目指した。内村の 幼年期の逸話の意義も、それにしたがって異なったのである。以上、預言者物語を検討した。
儒教教育を強調するA群の物語は、HIBC1895ではなく、鈴木俊郎訳を種本としている。A 群の物語の儒教用語は、鈴木俊郎訳が提供した儒学者父や四書五経といった訳語に、A群の 物語の記述者たちが付け加えたものである。鈴木俊郎訳は、日本伝統に傾倒していた記述者 たちに解釈の場を提供したと言える。儒教色の濃いA 群の物語は、主に内村の友人や弟子 たちによる、『余は如何にして』を参考にして創出されたのである。
鈴木俊郎訳に注目に値するのは、それが本邦初の完訳版 HIBC1895だったからであり、ま た、鈴木俊郎という人物が持つ象徴性150のゆえでもある。鈴木俊郎訳について亀井俊介は、
「内村の日本語の文体を見事に体現した名著」151と評価している。
鈴木俊郎訳は内村関係者の間だけではなく、一般読者層まで影響力を伸ばしている書物
145 石原兵永『内村鑑三の思想と信仰』木水社、1948年、31頁。
146 石原兵永『無教会史』無教会主義論集、1950年、35頁。
147 阿部行蔵『若き内村鑑三』中央公論社、1949年、32頁。
148 石原兵永『内村鑑三の思想と信仰』木水社、1948年、32-33頁。
149 同書、33頁。
150 鈴木俊郎は、長い間『内村鑑三全集』の編集者として参加していた人物であり、数多の研究者たちは 彼の書物をよく引用する。W・H・Hノルマンは「彼こそは無敎會運動の尊敬さるべき指導者の一人で ある」(W・ノルマン「現代無教会主義の一研究」『神學研究』(7)、1958年、313頁)と評価している。
151 佐伯彰一編『自伝の名著101』新書館、2000年、75頁。