第一章 『余は如何にして基督教徒となりし乎』と「伝統物語」の比較分析
第二節 伝統物語の検討
万延2年(1861年)、高崎藩士・内村宜之とヤソの6男1女の長男として江戸小石川 の武士長屋に生まれる。三度自己を鑑みるという意味で父が「鑑三」と名付けたと言 われる。慶応2年(1866年)頃、鑑三が5歳の時に、宜之は意見の不一致で高崎に 謹慎を命じられ、家族で高崎に移った。幼少期より、父から儒学を学ぶ。103
「ウィキペディア」の解説文から察するに、世間一般では、内村は幼年期に父から儒教を 学んだ、とされている。この定説に基づいて、さまざまな伝統物語が創出されてきた。本論 文が扱う伝統物語すべてを「父子物語」と理解してもかまわない。この物語群はさらに四つ の群に細分化される。しかしその区別を明確化することは難しいが、この分類作業により、
伝統継承者像を描く伝統物語が『余は如何にして』を参考に作成され、変化と再創出を経て きたことが明らかとなる。ただし、これは各物語の起源が『余は如何にして』に一点集中し ているということを意味するのではない。教祖像の構築という解釈集団の急務がそこに投 影されたということを意味する。以下では、それぞれの資料類の特徴を説明する。
A群: 儒教と四書五経を中心とした幼年物語 B群: 武士道教育を中心とした幼年物語 C群: A・B群と異なる系統の幼年物語 D群: 鈴木範久によるまとめ
上掲の四つの群はいずれも、HIBCに関連する。
My father was a good Confucian scholar, who could repeat from memory almost every passage in the writings and saying of the sage. So naturally my early education was in that line104
103 内村に関する引用はウィキペディアを参照した。2018年11月18日閲覧。
(https://ja.wikipedia.org/wiki)内村鑑三検索。
104 HIBC1971, p. 19.
2-1 儒学をめぐる幼年物語:A群
1917年 湊謙治 父が漢學に造詣深かった關係上、毎日猛烈な 漢文素讀を强要 さ
れた。…漢學だけは一般より幾分深く廣く知識づけられたや うに思ふ。105
1931年 江原萬理 先生の家は武士の家であり、漢學が家憲 となって居た。その敎 の中心思想は君に忠、父母に孝、師に敬の三つであり、身は鴻 毛の如く輕く何時にても君の馬前に打死することを名譽とし、
父母のためには雪中にも筍をも堀り、三尺去って師の影を踏ま ざること、この精神が武家の精粹であったのである。106 1932年 宮部金吾 君はかくて江戸に生まれて間もなく故郷の高崎に移り、其処に
生ひ立つて寺小屋式の小学校に通学しました。父君が漢学に造 詣深かつた関係上、日夜厳しく漢文の素読を強要されました 。 斯くて11、2才の頃迄温かき父母の膝下に在つて 厳格なる儒教 的訓練を受けた のであります。107
1935年 益本重雄 漢學者であり 論語 は一字一句を 暗誦してゐたらしい。108 1958年 大島正健 幼児より父のもとで儒教的な教育を受けた ので東洋道徳の思
想を受けつぎ、当時に日本の神々を崇拝する宗教心もきわめて 強かった。109
1964年 斉藤宗次郎 先生七、八歳の頃、父上は膝を 正して儒教の本を教えられた が、
一度教えられると直ちに覚えてしまうので、人々はその鋭敏に 驚いたということである。110
1967年 関根正雄 家庭にあって、内村は早くから儒教的教育を受けた 。数え年 五 歳の時「大学」を読みだした 。以降その他の中国の諸聖賢の教 訓を学んだ。まだその内容はほとんど理解できなかったがその 教えの全体的を感じには感化されたという。111
1976年 小原信 武士の子として父親から 漢学と儒教精神をつぎこまれるが 、 そ
れは、陽明学派の実学を基盤とするものというよりは、保守的
105 湊謙治『信の内村鑑三と「力」のニーチェ』警醒社書店、1917年、41頁。
106 内村祐之『内村鑑三追憶文集』吉英舎、1931年、94-95頁。
107 宮部金吾『内村鑑三君之小伝』独立堂書房、1932年、3頁。
108 益本重雄、藤澤音吉共著『内村鑑三傳』獨立堂書房、1935年、7頁。
109 大島正健『クラーク先生とその弟子たち』宝文館、1958年、133頁。
110 斎藤宗次郎『ある日の内村鑑三先生』教文館、1964年、101頁。
111 関根正雄『内村鑑三』清水書院、1967年、13頁。
な 朱子学派の傾向 をもつものであって、112
1976年 山本泰次郎 深く漢籍に通じた父に手をとられて 四書五経を学び 、また手 習
いに励んだ。113
1977年 畔上道雄 彼は鑑三の他、三人の弟と一人の妹に徹底して 儒教的精神を注 入した。114
1996年 政池仁 父は一かどの漢学者で、四書五経 をほとんどご各節を暗誦する ことができた。内村ら兄弟は幼少のころからこの父によって東 洋道徳をしっかりとたたき込まれた。115
2001年 A・コズィラ 内村鑑三は儒学者でもあった父から、子供の時に孔子の『大学』
を教えられた。内村の父は 四書五経 のほとんど各節を暗記し て
いたのである。このように内村の初期の教育は儒学的であり116
2011年 M・ラファイ 内村は高崎藩の武士の長男として生まれ、子どものころは父か
ら 儒教を学んだ。117
A群を創出したのは、主に内村の友人や弟子たちであり、その内容は内村が受けた儒教教 育である。それを武士道教育に関連づける物語もある。A群の強調点は、内村が幼年時代か ら父の下で儒教の教育を受けたこと、その際の教科書が四書五経であったこと、である。
112 小原信『評伝内村鑑三』中央公論社、1976年、24頁。
113 山本泰次郎『内村鑑三、信仰、生涯、友情』東海大学出版会、1976年、297頁。
114 畔上道雄『人間内村鑑三の探求』産報、1977年、15頁。
115 政池仁『内村鑑三伝』キリスト教図書出版社、1996年、7頁。
116 A・コズィラ『日本と西洋における内村鑑三』教文館、2001年、41頁。
117 ミシェル・ラファイ『なまら内村鑑三なわたし』星雲社、2011年、12頁。
2-2 武士道物語:B群
1932年 田村直臣 君は東京本郷に於て武士の家に生まれ、上州の高崎で十才まで 武士の訓練を受け 、君は何處までも日本魂を有する武士であっ た。基督者になってもこの日本魂を失ふことなく、この日本魂 をキリスト化した。118
1950年 石原兵永 父君宜之氏は高潔にして敎養ある立派な武士であった。かくて 少年内村の血管には生粋な日本人の血が流れ 、ことに日本精神 の 傳統たる武士道精神 が受けつがれていたことは言うまでも ない。…内村鑑三は日本人の中の日本人 であった。119
1958年 大島正健 君は 武士の家に生れて 自国を愛する心深く、欧米伝来の宣教 師
流の宗教を嫌忌し、日本人日本流の精神を以て、直接に神を拝 する道を開くべきことを主張するに至った。120
1968年 国谷純一郎 内村鑑三は武士の子であった。…ところで日本の武士道がそ の精神において儒教を根幹としていることは言うまでもな い。…「儒教のおおよその気分」は、単に気分のままに終わ らず、やがて自覚的に儒教精神としての武士道を体得し、終生 これから離れることはなかったのである。内村が武士道を重要 視した理由は、とにかく彼が武士の子として生れ、儒教的武士 道教育を受けたことである。121
1974年 編集者 幼小年期の内村の人格を作り上げた教育は士道教育であった 彼の父は武士であり同時に優れた儒者であったから、この父か ら受けた教育は武士道に接木された儒教というべきである。朱 子系のものか陽明学のものか、はよくわからない。122
1976年 森有正 内村鑑三は、上州の藩士の子として生まれ、誠実な両親から武 士道的儒教的教育を十分にきたえこまれた。123
118 田村直臣『我が見たる植村正久と内村鑑三』向山堂書房、1932年、72頁。
119 石原兵永『無敎會史』三一書店、1950年、31頁。
120 大島正健『クラーク先生とその弟子たち』宝文館、1958年、133頁。
121 国谷純一郎「内村鑑三における伝統と近代化」『明治大学教養論集』、1968年、49頁。
122 編集部「余は如何にして基督信徒となりし乎」『内村鑑三研究』(2)、1974年、114頁。
123 森有正『内村鑑三』講談社、1976年、23頁。
1991年 武田友寿 武士の家に生まれ、武士道をそのままに生きた父・宜之から儒 教を叩きこまれて幼年期を過ごした鑑三が、124
2004年 呉敬姫 内村鑑三は明治維新の7年前である1861年に、日本の武士道 精神を受け続いた高崎藩士の息子として生まれた。125
A 群とB群を一つにまとめてもいいかもしれない。儒教と武士道が混ざって記述される 場合が頻繁にあるからである。しかし、主に父による武士道教育が強調されていることがB 群の特徴である。
2-3 駕籠物語:C群
1955年 田邊南鶴 鑑三は父と向いあってカゴに乗っていました。そして孝経を読んで おります。読方をまちがえると宜之がこれを直して「そこはこう読 むのだ」。126
1978年 由木康 幼少年期に高崎で父から漢学の手ほどきを受け、127
1979年 鳥井足 高崎へ帰る道中を、鑑三は、駕籠の中で父から大学や中庸の素読を うけながらくだった。学問の好きな鑑三は、江戸から三日もかかる 中仙道の長い道程も、すこしも長いとは思わなかった。128
1981年 渋谷浩 五つという年から『大学』の素読をさせれた、と。「天子自リ庶人 二至ㇽマデ、壱二是レ終身ヲ以て本ト為ス」。こういう文章を、意 味が解ろうと解るまいと、ひたすら大声を挙げてくり返しくり返し 朗読させられたのである。129
1985年 木戸三子 内村が五歳のとき、彼は父から漢学の手ほどきを受けはじめた。高 崎藩きっての儒者である父から講じられた「大学」130
2003年 李慶愛 内村は揺れる駕籠のなかで父から『孝経』の素読を受けたことを記 憶している。優れた儒者である父はもちろん論語をすべて暗誦して いたが、内村自身も孔子や孔孟子の言葉を繰り返し父より教えら れ、儒教的道徳の世界で幼少年期を送ったということができる。131 2005年 渋谷浩 彼は揺れる駕籠の中で父から孝経の素読を受けながら中仙道を下
った。…深く漢籍に通じた父に手をとられ、また藩校に通じっ て四書五経を学んだ。…この儒教的倫理、武士道的倫理は深く
124 武田友寿『正統と異端のあいだ』教文館、1991年、138頁。
125 呉敬姫「内村鑑三と金教臣-無教会主義を中心として」『言葉と文化』(5)、2004年、18頁。
126 田邊南鶴「内村鑑三の青年時代」『ニューエイジ』(8)毎日新聞社、1955年、95頁。
127 由木康『私の内村鑑三論』教文館、1978年、38頁。
128 鳥井足『評伝:内村鑑三』あさを社、1979年、19、20頁。
129 渋谷浩「国家と家庭と個人」『内村鑑三研究』17、1981年、5、6頁。
130 木戸三子『内村鑑三』新人物往来社、1985年、22-23頁。
131 李慶愛『内村鑑三のキリスト教思想』九州大学出版社、2003年、16頁。