さらに言えば、スパイラル・モデルではこの敵対する国家間の動機に対する認識のギ ャップが緊張形成要因であると捉えるがゆえに、合理性の変質による危機不安定性
(crisis instability)の浮上までの段階を適切に説明可能となる。この反面、アクターの動
機の固定化を前提とする抑止モデルにおいては、危機不安定性の浮上はあくまで被抑止 側の拡大的動機によるものとしか説明できない。第
3
に両理論間のこの認識上の差異は、政策の違いとして顕著に表れる。抑止モデル は危機の形成は敵対国の現状変更を目的とした拡大的動機の具現化によってもたらさ れることを想定しているために、現状を維持するには相手国の拡大的動機の具現化を強 硬政策をもって抑止しなければならないと主張する。したがって、前述のように抑止モ デルでは自らの強硬的な意思を敵対国に歪めて伝えうる協調的行動は宥和として排除 されるのであった。この反面、スパイラル・モデルでは、協調政策の実行を通じて動機 に対する認識のギャップを縮小することが緊張緩和の手段であると考える89。換言すれば、抑止モデルにおいては期待効用の観点から抑止政策は緊張の維持・緩和 をもたらし、協調政策は緊張を一層あおると考える一方で、スパイラル・モデルにおい ては認知心理学の観点からは抑止政策こそが緊張が強化される要因であり、緊張の緩和 を達成するには協調政策が遂行されなければならない。
以上の抑止モデルとスパイラル・モデルの差異を踏まえ、とりわけ以下の点に注目し つつ、事例検証を試みる:第
1
に冷戦体制崩壊以後から2013
年まで米朝が期待効用ア プローチの前提に基づくパワー・マキシマイザーであったといえるのか。この見極めの ために動機は計測不可能であるという点を前提としつつ、事例中まず①拡大的動機に基 づく行動が観察されるのか、次に②自制的行動が観察されるのか、に着目していく。第
2
に冷戦体制崩壊以後における米朝間の緊張が一方向的に形成・強化されているの か、について検討する。ここでは米朝間に形成された緊張に変化、強化と緩和があるの か、緊張レベルの変化があるならば、なぜそのような観察がなされたのか、についての 考察が肝要である。とりわけ緊張強化局面において、非合理的な戦争に近づく非合理的 選択が米朝によって段階的になされたメカニズムを解明する必要がある。抑止モデルで あれば期待効用アプローチに依拠しこれを説明する必要があるが、抑止モデルの性質上 その説明は被抑止側の非合理的行動は「アクターの非合理性に帰結せざるをえない90」 という論理から脱することはできない。よって、この点における本論の考察は、認知心 理学的アプローチであるスパイラル・モデルの観点に集中することとする。またこの考察過程では、政策の効果も検討する。抑止モデルが想定するように協調政
89 認識のギャップと緊張形成についてのディフェンシブ・リアリズムにおける見解については、土山(2004)、
前掲書、p. 152。抑止モデルとスパイラル・モデルの差異についてはGlaser(1997), op cit., p.193.
90 鈴木(2000)、前掲書、pp. 74‐75。
44
策によって緊張形成・強化が促進され、抑止政策によって緊張の強化の阻止および緊張 の緩和が観察されるのであれば、抑止モデルによって冷戦体制崩壊以後における米朝間 の緊張形成要因が説明可能であると結論づけられるであろう。
逆に抑止政策によって緊張がより強化される一方、協調政策の実行と連動して緊張の 緩和が観察されるのであれば、冷戦体制崩壊以後における米朝間の緊張形成要因につい ての説明は、スパイラル・モデルにその妥当性があると指摘しうる(図
2-4
参照)。またこの検討過程においては抑止政策が現状維持に成功しているかについても、注目 していく。
(図2-4)抑止モデルとスパイラル・モデルにおける政策上の違い 出典:筆者作成
第
2
項 合理性の変質に至るメカニズム 第1
目 プロスペクト理論では次にスパイラル・モデルにおける緊張形成のメカニズムについて、より具体的に 説明する。合理的アクターであるはずの国家間でなぜ非合理的帰結へ向かう緊張が形成 されるのか。R. ジャービスや
N.
ルボウ、J. スティンなどのスパイラル・モデリスト は、この答えを認知心理学の観点から導き出す。この理論的支柱となるのは認知上の偏 見(biases-Ex. availability:利用可能性、representativeness
:代表性、anchoring and adjustment:係留と調整など)という心理的誘因がリスク下における合理的意思決定に
及ぼす影響を実証、確立したA.
トヴァスキーとD.
カーネマンの「プロスペクト理論91」 である。プロスペクト理論は価値関数と確率加重関数を用いて、心理的誘因を踏まえた意思決 定のメカニズムを説明する。まず価値関数であるが、参照点依存性、感応度逓減性、損
91 プロスペクト理論と失う恐怖については、Kahneman and Tversky (1979), op cit., pp. 263-291.や土山
(2004)、前掲書、第5章を参照。プロスペクト理論によれば、価値を獲得する意思決定よりも、価値を失
う状況における意思決定の方が、リスクを享受する傾向がある。
抑止モデル
抑止政策:緊張 ↘ 協調政策:緊張 ↗
スパイラル・モデル
抑止政策:緊張 ↗
協調政策:緊張 ↘
45
失回避性から構成され、それぞれの事象が生じた時の主観的価値を示す(図
2-5
参照)。またここでは意思決定において参照点より損失であると価値判断する場合、意思決定に おいて合理性の歪みが生じるということが実証される。
(図2-5) “A Hypothetical Value Function(プロスペクト理論の価値関数)”, quoted by D. Kahema and A.
Tversky(1979), “Prospect Theory: An Analysis of Decision under Risk”, Ecoometrica, 47(2), p. 280.
次に確率加重関数はそれぞれの事象が生じるであろうという主観的確率を表す(図
2-6
参照)。この特徴はまずアクターが見積もる主観的確率が期待効用アプローチが前提 するところの客観的確率とは一致しない点である。次に、人はある事象が起こる確率を 主観に基づき小さく見積もる際過大評価する傾向がある一方、確率が大きいと見込む時 に過小評価しがちであることである。そうして低確率と認識した場合には利得に関する リスク追求と損失に関するリスク回避性が顕れ、中~高確率と見積もった事象について は利得に対しリスク回避と損失に対するリスク追求性が観察される92。92 友野(2006)、前掲書、No. 1270‐1400。
46
(図 2-6) “A Hypothetical Weighting Function(プロスペクト理論の確率加重関数)”, quoted by D.
Kahneman and A. Tversky(1979), “Prospect Theory: An Analysis of Decision under Risk”, Ecoometrica, 47(2), p. 284.
これら
2
つの関数が計算されることで意思決定がなされる。具体的には、編集段階に おいては意思決定に関連のある事象が認識される。これを踏まえ、評価段階においては 価値関数によって価値判断がなされ、確率加重関数を用いて主観的見込みを反映した確 率が算定され、その合計が意思決定を決める基準となる93。当然、この意思決定プロセ スは期待効用アプローチの意思決定基準とは異なり、常に客観的合理性に沿うものでは なく、時に客観的には非合理的な決定がなされうる。このプロスペクト理論によって得られるのが、「フレーミング効果94」である。
フレーミング効果とは問題が表現される「枠」-フレーム-がいかに主観に基づき設 定されかによって、意思決定が変化する現象である。より端的に言えば、同じものでも その捉え方次第で異なるように見え、結果として選択が変わるのである。例えば、同じ 現状を認識するにおいても、現状維持がなされる見込みが強いというフレームと現状変 更がなされる見込みが強いというフレームでは意思決定の結果が異なる。
このフレーミング効果が持つ抑止理論への重要な示唆は
2
点ある。第1
にフレーミン グ効果による選好の変化可能性である。これは期待効用アプローチの前提である選好の 不変性と対照的であり、その矛盾を浮かび上がらせる。より端的に言えば、フレーミン グ効果に依拠すれば、抑止モデルにおける国家は常にパワー・マキシマイザーであると いう前提は成立しない。第
2
にリスク認識下における意思決定においては、国家はリスク受容型となるという93 友野(2006)、前掲書、No. 1419。数式とすれば、V=w(p)v(k)+w(q)v(y)となる。
94 R. Jervis (2004), “The Implications of Prospect Theory for Human Nature and Values”, Political Psychology, Vol. 25 (2), pp. 171-172; 久保田徳仁(2005)、「人間と人間集団の意思決定―失敗の政治心理学
―」、『アクセス安全保障論』(山本、河野編:2004)、pp. 52‐54; 友野(2006)、前掲書、No. 1802-1863.
47
点である95。価値関数(図
5)における左下の象限~リスク認識下においては、国家は損
失回避に囚われる傾向にあり、この損失を埋め合わせるためにはリスクを伴う行動も厭 わない96。つまりは差し迫った脅威というリスク認識下において、国家は損失回避のた めにはより非合理的選択をする傾向があるといえる。この傾向によって、合理性の変質 が生じ元来非合理的であるはずの先制攻撃オプションに、合理性が帯びる可能性が生じ るのである。そしてこの傾向は確実性効果によってより顕著となっていく。換言すれば、アクター が確実な利得を見込んだ時にはリスク回避性がより強く働き、逆に確実な損失が見込ま れた場合においては、アクターはよりリスク受容的となる97。
第
2
目 合理的誘因と心理的誘因の関係性このように認知心理学アプローチに依拠したスパイラル・モデルでは、プロスペクト 理論などに基づき現状を失う恐怖、すなわち心理的誘因に起因する合理性の変質が国家 を非合理的選択へと誘うと説く。ただし、ここで注意が必要なのは心理的誘因が意思決 定に大きく作用するにせよ、国家が持つ合理性が消滅するとは考えにくい点である98。
個人レベルにおいては心理的誘因によって意思決定のエラーを招きうる可能性が高 いものの、安全保障上の知識とノウハウを持つ政治家、官僚などの政策立案者らが複数 携わる意思決定においては、合理性の作用がまったく消滅するということは想定しがた い。よって本論においては心理的誘因に加え、合理的誘因も依然作用するという前提に 立つ。以下、意思決定に作用する合理的誘因と心理的誘因の関係性について考察してい く99。
合理主義者(rationalist)である
J.
フィアロンは自身のアプローチがネオリアリスト のそれと重複していると明らかにしながら、なぜ動機に対する不確実性が生じるのかを 不可分性(indivisibilities)、情報不完備(incomplete Information)、コミットメント問題(commitment problems)といった合理性の側面から説き、ディフェンシブ・リアリスト
であるC.
グレーザーやA.
キィドも合理性の観点から最悪の場合に備えた準備の連鎖 としてのスパイラル・モデルの解明を試みているように、ネオ・リアリズムの前提-国95 この傾向はアジアの病気問題としてトヴァルスキーとカーネマンが端的に示している。
96 損失回避についてはJervis(2004), op cit., pp. 165‐167にも詳しい。
97 Jervis(2004), op cit., p. 174. しかしながらこの傾向は価値関数と確率加重関数を踏まえると、この確実 性効果は確率が中~高では成立するが、確率が小さい場合には利得を認識した時にリスク追求的、損失を認 識した時にリスク回避的となる。友野(2006)、前掲書、No. 1192。
98 Jervis(2004), op cit., p. 170.
99 ちなみにここでの誘因は主因以外の原因、つまり副因と定義する。例えばガソリンに火を近づけると爆 発する。この時ガソリンの爆発するという性質が主要因であり、火はその主因を駆り立てた誘因であり、
爆発は結果である。本論文では緊張の形成が結果であり、その主要因として動機に対する認識のギャップ に着目し、その認識のギャップを緊張形成へと駆り立てる副次的な要因―誘因―として心理的誘因、合理的 誘因という認識作用を設定している。