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原発導入に向けたトルコの歩み

ドキュメント内 学位授与年月日 2020‑03‑21 (ページ 50-60)

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ジェブルン、クルクラレリ県のイイネアダが挙がり、トルコ電力庁は最終的にアックユを建 設地に選んだ。アックユが選ばれた理由は、トルコで地震の影響が最も少ない場所というこ とであった。1976年にはトルコ原子力委員会がアックユ原発に土地ライセンスを発行し、

1977年には原発事業の国際入札が開始された[Kibaroglu 1997; Stein 2012: 3]。

入札にはスウェーデンの半国営企業であるアセア・アトム社(ASEA-ATOM:沸騰水型原 子炉製造)とスタル・ラバル社(STAL-LAVAL:タービン製造)の企業連合が応じ、建設事 業や燃料供給サービス等について交渉が開始された。

一方、アックユ周辺では地元漁民らを中心に反原発運動が始まり、その動きは次第に周辺 自治体や専門家、労働組合などにも広がっていった(第3章で詳述)。さらに、1979年のス リーマイル島原発事故をきっかけにスウェーデンでも反原発世論が高まり、スウェーデン は1980年3月に実施した国民投票で国内での原発新設の禁止と、2010年までに全ての原 子炉を閉鎖することを決定した。

1970年代末には経済危機や左右政治勢力の対立激化でトルコの政治情勢が不安定化し、

1980年9月にはクーデターが発生した。スウェーデン政府は自国内で高まる反原発世論や トルコの政情不安を背景に、アックユ原発事業への借款保証を取り下げた。これによって原 発建設計画は継続困難となり、幕を閉じることになった[Erdoğdu 2007: 3069-3070;

Kibaroglu 1997: 34-35; Stein 2012: 3]。

第2期の出来事としては他に、1979年にトルコ2番目の研究用原子炉がイスタンブール 工科大学で運転を開始した。この研究炉は米国のゼネラル・エレクトリック社(General Electric: GE)製の軽水炉(TRIGA Mark 2)で、規模は250kWである。燃料は米国が20%

濃縮の燃料棒を供給した[Stein 2012: 3]。

2-3. 原子力開発第3期(1980年代前半)

1983年、トルコ電力庁はアックユに加え、シノップを2番目の原発建設候補地に選定し た。トルコ原子力委員会から改組されたトルコ原子力庁(Türk Atom Enerjisi Kurumu:

TAEK)は1983年、アックユとシノップにそれぞれ2基の原子炉建設を決め、国際入札を 行った。その結果、アックユではカナダ原子力公社(Atomic Energy of Canada Limited : AECL)と西ドイツのクラフトヴェルク・ユニオン社(Kraftwerk Union: KWU)がそれぞ

れ655MWのカナダ式重水炉、990MWの加圧水型原子炉を建設することになった。シノッ

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プでは米国の GE 社が、合計 1185MW の沸騰水型原子炉 2 基を建設することになった

[Atiyas, Çetin, and Gülen 2012: 146-147; Kibaroglu 1997: 35; Kumbaroğlu 2015: section 1, para 3]。

だが、シノップでは GE 社とIAEA による予備調査の結果、地震の可能性と安全対策の ための費用増加が報告された。GE社はより徹底的な地震調査が行われるまで原発建設は不 可能であると判断し、プロジェクトから撤退した[Kibaroğlu 1997]。

アックユ原発については、トルコ側が当初のターンキー方式から建設・運転・移転(Build-Operate-Transfer:BOT)方式へ契約変更を求めたことで交渉が難航した。BOT方式の契 約では、契約企業が建設費と一定期間の運転費用を負担し、建設費用と一定の利益を回収し た後に施設をトルコ側へ受け渡す。アックユ原発でのBOT契約では、KWU社とAECL社 はトルコ電力庁との共同出資で原発を建設し、15 年間運転した後にトルコ側へ運転を移管 することとされた。だがKWU社は出資条件で合意に至らず、1984年に計画から撤退した。

AECL社との交渉はその後も続き、1985年にはトルコ国会がカナダとの原子力協定を批准 した。だがカナダ政府はAECL社から求められた政府と銀行による融資保証に応じず、ト ルコ政府による保証を要求した。しかしトルコ政府も融資保証に応じることができず、1987 年頃までに計画は暗礁に乗り上げた[Kumbaroğlu 2015: section 1, para 3; Stein 2012: 3;

Ülgen and Stein 2012: 75]。

さらに1986年にチェルノブイリ原発事故が起きたことで、この時代の原発建設計画は一 旦下火となった。1988年、トルコ電力庁の組織改革で原発部門は解体され、原子力に関わ ってきた多くの職員が電力庁を去ることとなった[Kumbaroğlu 2015: section 1, para 5]。

2-4. 原子力開発第4期(1980年代後半)

1988 年、トルコはアルゼンチンと15 年間の原子力協力協定に署名し、アルゼンチンと の原子力開発協力を開始した。両国はまず、アルゼンチンが開発中だった25 MW規模の小 型原子炉「CAREM-25」を、トルコが資金調達することで両国に1基ずつ導入することを 目指し、1990年に合弁企業を設立した。この計画が成功すればさらに、380 MW規模の加 圧水型原子炉「Argos」の建設を進める計画であった。長期的な目標として、両国は共同事

業としてCAREM-25型原子炉を途上国に輸出することを目指した。これにはオザル首相と

アルゼンチンのカルロス・メネム(Carlos Saúl Menem)大統領による強い働き掛けもあっ

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たとされる[Kibaroğlu 1997; Kumbaroğlu 2015: section 1, para 5]。

しかし米国とソ連を含む国際社会は、トルコとアルゼンチンの原子力開発協力がパキス タンなどへの核拡散につながることを懸念した。国際社会からの圧力に対し、トルコはアル ゼンチンとの原子力開発協力をこれ以上進めれば、将来にわたって他国と原子力分野で協 力する機会が失われると判断し、アルゼンチンとの原子力開発計画を中止することになっ た[Kibaroğlu 1997; Kumbaroğlu 2015: section 1, para 5]。

2-5. 原子力開発第5期(1992年~2000年)

1992 年、エネルギー天然資源省は、トルコは2010 年までに新しいエネルギー源を導入 しなければエネルギー危機に直面するとして、原発導入の検討を勧める報告を政府に提出 した[Erdogdu 2007: 3070]。1975年から当時まで、トルコのエネルギー消費量は年に8%

ほど増加していた。同じ年、トルコ電力庁は主要な原子力企業に対し、2002年までに1000 MW規模の原発をBOT契約で建設するために必要な技術と資金の情報を求めている。1993 年には、トルコ政府の投資計画に原発建設計画が再び盛り込まれた。科学技術研究機構

(TÜBİTAK)の科学技術上級評議会によって、原発の建設は国の3番目の重要政策として

位置付けられた[Kumbaroğlu 2015: section 1, para 6]。

1996年、トルコはアックユ原発事業の国際入札を開始した。入札にはカナダのAECL社 が率いる企業連合(AECL 社・日立・トルコのBayindir、Gama、Guris)、米国のウェス ティングハウス社(Westinghouse: WH)が率いる企業連合(WH社・三菱重工業・トルコ の Enka)、ドイツのシーメンス社(Siemens)とフランスのフラマトム社(Framatome) の企業連合、イタリアのアンサルド社(Ansaldo)・米国の GE 社・東芝の企業連合が応じ た[Stein 2012: 4]。AECL連合は2基の669.5 MW、もしくは4基の665.5 MWのCANDU 炉(カナダ式重水減速重水冷却圧力管型炉)の建設を提案。WH連合は1218MWの加圧水 型原子炉1基の建設、独仏企業連合は1482 MWの加圧水型原子炉1基もしくは2基の建 設を提案した[Kumbaroğlu 2015: section 1, para 7]。

だが1996年にネジメッティン・エルバカン(Necmettin Erbakan)が率いる親イスラー ム政党の福祉党(Refah Partisi)が政権を握ったことによる政局の混乱で、原発建設に向け た交渉はなかなか前進しなかった。エルバカン政権は、非濃縮燃料を使用するCANDU炉 であれば、トルコ国内産のウランを使用できると期待してAECL連合を有力視した。エル

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バカン政権が軍の圧力によって退陣を余儀なくされた後、メスート・ユルマズ(Mesut Yılmaz)の祖国党が率いる連立政権はWH連合を有力視した[Stein 2012: 4]。

結局、トルコ政府は自らが定めた交渉期限を 7回以上も延期し、交渉を 4年間にわたっ て長引かせた[Stein 2012: 4]。軍部の圧力による1997年のエルバカン政権退陣、短命の 連立政権の度重なる交代など、この時期のトルコの政局は不安定であった。1999年にはマ ルマラ大地震(マグニチュード7.4)とデュズジェ地震(マグニチュード7.2)が発生し、

それぞれ1万7千人と800人以上が犠牲となった。経済状況の悪化も深刻で、巨額債務と 高インフレに悩まされていたトルコは、2000 年に IMF の経済改革プログラムを受け入れ た。IMF はトルコに対外債務の削減を求め、トルコ財務省も原発事業に対する政府保証は 不可能だと判断した[Ülgen and Stein 2012: 75; 柿崎2012: 155]。さらに1990年代には 反原発運動が拡大し、原発への反対世論の大きさが示された(第3章で詳述)。2000年7月 25日、民主左派党(Demokratik Sol Parti: DSP)のビュレント・エジェヴィト(Bülent

Ecevit)首相が率いる連立政権は原発建設の凍結を閣議決定した。

2-6. 原子力開発第6期(2004年以降)

2002 年に始まった AKP 政権は、原発建設計画を再始動し、紆余曲折を経ながらも原発 建設に向けたステップを確実に進めてきた。エネルギー天然資源省の下で原発事業を担当 することになったTAEKは、2004年に原発の建設計画を発表した。最初の原子炉の建設開 始は2007年、運転の開始は2012年が目標とされた。当時のエネルギー大臣ヒルミ・ギュ

レル(Hilmi Güler)は、原子力はトルコの発展に貢献し、技術の発展やトルコの名声に貢

献すると強調した[Udum 2010: 367]。

2006 年にはアックユとシノップが原発建設予定地に選ばれた[EMO 2013: 179; EMO 2016: 87]。2007年には「原発の建設・運転・売電に関する法律」(法律第5710号)が成立 した。この法律では原発事業への参加について民間セクターに優先権が与えられたほか10、 原発の運転開始から15年間、トルコの電力会社に原発の発電電力を一定量購入することを 義務付けている。この法律によって、原発の運転事業者は一定の資金回収をトルコ政府に保 証されることになった[柿崎2012: 156; 日本原子力産業協会2014: 16]。

10 公的機関と民間セクターのパートナーシップも可能であり、必要に応じて原発の建設と 運転に公的な投資もあり得るとされた[日本原子力産業協会2014: 16]。

ドキュメント内 学位授与年月日 2020‑03‑21 (ページ 50-60)