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原子力「平和利用」の拡大とトルコ

ドキュメント内 学位授与年月日 2020‑03‑21 (ページ 46-50)

トルコがエネルギー政策において原子力の将来性に着目し始めたのは、1950年代のこと であった。トルコは1955年に米国との間で原子力協定を結んで原子力の研究・開発を開始 し、将来的な原発導入を見据えるようになった。

原発の利用が世界に広がるきっかけとなったのは、米国のアイゼンハワー大統領が1953 年に原子力の「平和利用1」を提唱した「アトムズ・フォー・ピース」宣言である。米国は はじめ、原爆の開発で得た原子力に関する技術と核物質の国外移転を禁止し、その独占によ る軍事的優位の維持を図った。だが1949年にソ連が、続いて1952年に英国が原爆実験に 成功し、米国による核兵器の独占は崩れた。米国は1952年に水爆実験に成功し優位を取り 戻したが、翌年にソ連も水爆実験に成功した。ソ連が水爆を獲得したことは、通常戦力で劣 る米国にとって大きな脅威となった。さらに、米国はソ連が原子力の「平和利用」を米国に 先んじて打ち出したことにも焦りを感じていた。米国は原子力の軍事利用を優先していた ため、原発の開発ではソ連や英国に後れをとっていた2。「平和利用」を進めるソ連に対し、

広島・長崎に原爆を投下した米国は、冷戦下のプロパガンダ合戦でも不利な立場に立たされ た[鈴木2014: 192-193]。さらに1954年にはビキニ水爆実験で第五福竜丸の被爆事件が発 生した3。米国は日本および同盟国で反核・反米感情が爆発することを懸念し、原子力の平 和利用キャンペーンの必要に迫られた[木村2015: 20-21]。

1 原子力の「平和利用」は民生用原子炉での発電や医療での利用のことを指す。だが原発と 核兵器には密接な関わりがある。もともと原発は核兵器の材料を製造するための施設であ り、それを発電施設に転用したものである。

2 発電を主目的とした世界初の原発は、1954 年にソ連が稼働させたオブニンスク原発であ る。英国は1956年にコールダーホール原発を稼働させた。米国初の発電用原発は1957年 に稼働したシッピングポート原発である。なお、原発は米国のマンハッタン計画の時代から、

核兵器の原料であるプルトニウムを製造するための施設として使用されていた。

3 日本では第五福竜丸事件の直後から反核運動が拡大した。核実験禁止を求める署名は 1955年8月までに3000万人分に上った。1955年8月6日には最初の原水爆禁止世界大会 が広島で開かれ、5000人の参加者を集めた。

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アイゼンハワーによる「アトムズ・フォー・ピース」は、こうした背景のもとに、米国が 原子力利用の主導権を握ることと、核兵器保有国を増やさないことを意図して宣言された。

これをきっかけに、米国は同盟国・友好国に対して原発や核燃料の輸出を開始した4。 米国は原子力技術を同盟国へ輸出するにあたって、相手国に原子力協定の締結を求めた。

原子力協定は、米国が供給した原子力に関する技術や施設、核物質の軍事利用や第三国への 移転を禁じ、相手国の原子力活動を米国の管理下に置いた。原子力技術の独占はもはや不可 能と見た米国は、原子力技術を「輸出して管理する」体制を敷いたのである[鈴木2014]。 米国だけでなく、ソ連も自陣営の国々へ「平和利用」目的の原子力技術支援を行った。原子 力技術の提供は、米ソ両陣営にとって核管理の手段であると同時に、同盟国との関係強化の ための手段であった[ファーマン 2015]。

1955年、トルコは米国が原子力協定を結んだ最初の相手国となった。トルコがいち早く 原子力協定の締結に至った背景には、当時の冷戦構造と、親米姿勢を強めたトルコ外交が挙 げられる。トルコで1950年に政権を握った民主党は、それ以前の共和人民党(Cumhuriyet

Halk Partisi: CHP)政権による中立外交政策を転換し、冷戦構造の中で西側陣営、特に米

国への全面的な協力という外交政策を採った。ソ連の影響力が地中海沿岸地域に及ぶのを 恐れた西側陣営もトルコを自陣営に囲い込むことを重視し、トルコをマーシャル・プランの 受益国にも組み入れた。トルコは CHP による一党支配の時代にすでに欧州経済協力機構

(OECD)に加盟し、北大西洋条約機構(NATO)にも加入を打診していた。さらに 1950 年に勃発した朝鮮戦争で、民主党政権下のトルコは国連軍への参加を決定した5。朝鮮戦争 での貢献はトルコのNATO加盟を前進させ、1952年にトルコはNATO正式加盟を果たし

た。1954 年にはトルコへの米軍配備に関して二国間協定が交わされたほか、アダナ県にイ

ンジルリック空軍基地が建設された。インジルリック空軍基地は現在でもNATOや米軍の 重要な地域拠点として使用されている 6。ほかにもトルコ各地に NATO や米軍の空軍基地

4 アイゼンハワーが「アトムズ・フォー・ピース」を宣言した国連総会で、トルコの国連大 使は「トルコ政府は原子力の平和利用に関心があるものの、そのための技術がトルコでは不 足している。したがって、IAEAが創設されるまでの間は二国間協定に基づく支援をトルコ は歓迎する」と述べている[United Nations Department of Public Information 1955]。

5 トルコは朝鮮戦争に国連軍として4500人規模の旅団を派兵し、死者706名、負傷者2111 名、行方不明者168名、捕虜219名を出した。

6 全米科学者連盟(Federation of American Scientists)の調査によると、インジルリック 空軍基地には米軍の核弾頭50個が配備されており、この数は欧州に配備された米軍核兵器 の3分の1に値する[Kristensen and Korda 2019]。

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や海軍基地、レーダー基地などが建設された。黒海に突き出たトルコ最北端の半島という地 理的条件から、シノップにも1992年まで米軍のレーダー基地が置かれ、対ソ諜報活動を担 った。さらに1955年にはトルコ、英国、パキスタン、イラン、イラクが参加し米国がオブ ザーバー参加するバグダード条約機構7が発足するなど、トルコは西側陣営の一員としてソ 連包囲網に加わった。米国との原子力協定締結は、こうした一連の西側による対ソ包囲戦略 および、トルコによる親米外交の一環として実現したものであった。

以下、本章では1955年以降のトルコの原子力開発の歩みを、第1期から第6期までに分 けて追っていく[図2-1]。

7 中東条約機構とも呼ばれる。本部をイラクのバグダードに置いたが、1958 年に革命が起 きたイラクは翌年に機構から脱退。その後はアンカラに本部が起かれ、名称も中央条約機構 へ改称された。1979年のイラン革命によるイラン脱退を受け解体された。

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図2-1: 原発導入に向けたトルコの歩み

原発建設計画 事業パートナー 政権与党 1 :

1955

~1971

研究炉を導入。重水炉建設とウラン採掘に

向け研究開始。 ―

DP/CHP-AP/

CHP-CKMP-YTP/AP 2 :

1973

~1980

アックユを原発建設地に選定し、600MW規 模の原発建設に向けた入札を実施。

2基目の研究炉が稼働。

スウェーデン企 業連合(アセア・

アトム社・スタ ル・ラバラ社)

AP-CGP/CHP- MSP/AP-MSP-MHP-CGP/

CHP/AP 3 :

1980 年 代 前半

アックユにカナダ式重水炉1 基、加圧水型 原子炉1基を建設。

AECL社(加)

KWU社(独)

軍政/ANAP シノップに沸騰水型原子炉2基を建設。 GE社(米)

4 : 1980 年 代 後半

アルゼンチンと共同で小型原子炉開発。 アルゼンチン ANAP

5 : 1992

2000

アックユ原発建設に向け入札を実施。応札 企業は 1~4 基のカナダ式重水炉や加圧水 型原子炉の建設を提案。

AECL 連合(加

日土)、WH連合

(米日土)、NPI 連合(独仏)等

DYP-SHP/

DYP/DYP-CHP/ ANAP- DYP/RP- DYP/ANAP-DSP-DTP/DSP/DSP -MHP-ANAP 6 :

2004 年 以

アックユ原発建設に向けロシアと政府間交 渉。VVER-1200型原子炉を4基建設。

ロスアトム社

(露)

AKP シノップ原発建設に向け韓国、カナダ、日本

と交渉。日仏企業連合が ATOMEA-1 型原 子炉4基の建設を受注内定。

日仏企業連合

イイネアダ原発建設に向け中国などと交 渉。

中国が関心示す

出所:本文中の資料をもとに筆者作成。

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