2. 音韻論
2.6. モーラ音素/ H /の解釈
2.6.2. 先行研究
2.6.2.1. 鹿児島県諸方言
語中や語末の「サ行子音+狭母音」の無声化について、柴田(1959)に考察がある。鹿児島 県揖宿郡頴娃町の方言は「鈴」が[su]su̥ ]、「西」が[ni]ʃ i̥ ]と無声化している。当該方言では
「鈴を」が[su]su]、「西に」が[ni]ʃi]となるため、「鈴」を/susu/、「西」を/nisi/と考えたと き、両者の形態的な区別がつかない。そこで、「鈴」を/sus/、「西」を/nis/と解釈し、/Q/や
/N/以外に、/s/の閉音節を考えている。
鹿児島県岡児ケ水方言を記述している九州方言学会編(1991)は、柴田(1959)の解釈に従い ながらも、当該方言で「石」が[iʃi̥ ]~[iʃ]、「椅子」が[isu̥ ]~[is]となることを述べ、どちらも /is/になることを問題にしている。音韻表記では/is/でも、具体的な音声が異なるためである。
そこで、前者を/ś/、後者を/s/と解釈し、/si/に/ś/という新たな音素を立てている。
前述の通り、平方言では、/si/も/su/もどちらも[ç]となり、[ɕ]と[s]の違いはなくなってい
る5。
2.6.2.2. 五島列島方言
五島列島方言では、平山他(1969)、上村(1969)、古瀬(1983)に考察がある。平山他(1969:
24-69)では、五島列島の各地の方言で「シ・ス」にあたる形式が、どのような形式になるか を挙げている。それらをまとめて、表にして示す。
(50) 表 4 五島列島方言の「サ行子音+狭母音」の様相(平山他(1969:24-69))
地域 音韻表記 用例の一部
福江(上大津郷) /hi/ [çi̥ ] /'uhi/[uçi̥ ]'牛'、/muhi/[muçi̥ ]'虫'、/hahira/[haçi̥ ra]'柱' 玉之浦(玉之浦)6 /hi/ [çi̥ ] /'uhi/[uçi̥ ]'牛'、/kohi/[koçi̥ ]'腰'
富江(浜ノ町、小島) /hi/ [çi̥] /mukahi/[mukaçi̥ ]'昔'、/'ihi/[içi̥ ]'石'、/kahi/[kaçi̥ ]'貸す' 富江(山下) /s/ [ʃ] /'us/ [uʃ]'牛'、/kwas/[kwaʃ]'菓子'、/higas/[çigaʃ]'東' 富江(黒瀬) /h/[х][ç][F] /kah/[kaх]'菓子'、/'ih/[iç]'石'、/'ah/[aх]'足'、
/okoh/[okoх]'起こす'、/'uh/[uF]'牛'、/'uh/[uF]'臼' 三井楽町(浜ノ畔) /hi/ [çi̥] /'ihi/[içi̥ ]'石'、/'ohi/[oçi̥ ]'押す'、/ki'jahi/[kijaçi̥ ]'消す' 樺島(本竈郷)7 /hi/ [çi̥ ] /'uhi/[uçi̥ ]'牛'、/kihi/[kiçi̥ ]'傷'、/mimihi/[mimiçi̥ ]'蚯蚓' 奈留(夏井) /hi/ [çi̥ ] /'uhi/[uçi̥ ]'牛'、/'ihi/[içi̥ ]'石'、/'uhi/[uçi̥ ]'臼'
若松(若松郷) /hi/ [çi̥ ] /'uhi/[uçi̥ ]'牛'、/muhiro/[muçi̥ ro~muiro]'筵'
魚目(榎津) /hi/ [çi̥ ] /'uhi/[uçi̥ ]'臼'、/nahi/[naçi̥ ~nai]'梨'、/ahi/[açi̥ ~ai]'足' 上五島(青方) /hi/ [çi̥ ] /'asamehi/[asameçi̥ ]'朝食'、/hahira/[haçi̥ ra]'柱'
上記の表から、この現象が五島列島方言で、広くみられることがわかる。平山他(1969)で は、富江島の山下方言や黒瀬方言以外では、/hi/になると述べている。
古瀬(1983:195)も、福江市をはじめとするほとんどの地域の特徴として、/si, su,so/が [çigaçi]'東'、[mɯçiko]'息子'、[açiko]'あそこ'などを挙げ、ハ行子音の[ç]になることを述べて いる。さらに、無造作に言うときは[çiɡakkaT]'東から'、[mɯkkoɡa]'息子が'、[akkokaT]'あそこ から'のように促音化することも述べている。平方言では、この促音化はみられない。
2.6.3. [ç]がみられる語
2.6.3.1. 語末
平方言で//si//、//su//が[ç]になる語をみていく。まず、語末にみられる語をみる。//si//、//su//
が[ç]の前のモーラがア段である語を挙げる。[ç]の前の母音が長母音になるものもみられる。
どちらの回答もある語は長母音を括弧に入れている。
(51) a. //asi//→/aH/:/kwaaH/'菓子'、/kaH/'貸し'、/naaH/'梨'、/daaH/'出汁'、/jaH/'椰子'、
/waH/'鷲'、/ha(a)H/'橋、箸、端'、/muka(a)H/'昔'、/hada(a)H/'裸足'、
/higaH/'東'、/juwaH/'鰯'、/hizaH/'日差し'、/kuQbaH/'嘴'、/hajaaH/'早足'、
/toogaraH/'唐辛子'
b. //asu//→/aH/:/maH/'枡'、/kamaH/カマス'、/hiraH/'ヒラス'、/kara(a)H/'烏'、
/garaH/'ガラス'
前のモーラがイ段であるものを挙げる。/isu/が/ih/になる語は、調査時にみられなかった。
(52) //isi//→/iH/:/iH/'石'、/kiH/'岸'、/niH/'西'、/taniH/'田螺'
前のモーラがウ段である語を挙げる。
(53) a. //usi//→/uH/:/u(u)H/'牛'、/ku(u)H/'串'、/muH/'虫'、/kuuH/'櫛'、/suuH/'寿司'、
/uruH/'漆'、/kainuH/'飼い主'、/tjawaNmuH/'茶碗蒸し'、/kezuubuH/'削り節' b. //usu//→/uH/:/uH/'臼'、/kuH/'楠'
前のモーラがエ段である語を挙げる。/esu/が/eh/になる語は、調査時にみられなかった。
(54) //esi//→/eH/:/me(e)H/'飯'、/keH/'芥子'、/deeH/'弟子'
前のモーラがオ段である語を挙げる。/osu/が/oh/になる語は、調査時にみられなかった。
(55) //osi//→/oH/:/koH/'腰'、/hoH/'星'、/ototoH/'一昨年'、/tjoH/'調子'、
/nakajoH/'仲良し'、/booH/'帽子'、/rjooH/'漁師'、/hjooH/'表紙'、
/toomoroko(o)H/'玉蜀黍'
上記の例から、前の母音に関係なく、[ç]が現れていることがわかる。少数ではあるが、
この語末の[ç]は、サ行の有声音/zi/、/zu/でもみられる。
(56) a. //zi//→/H/:/onaH/'同じ'8、/kwaH/'火事'
b. //zu//→/H/:/zjoH/'上手'、/boH/'坊主'、/omowaH/'思わず'
2.6.3.2. 語中
次に、語中で//si//、//su//が[ç]になる語をみる。[ç]の後の子音が、阻害音の語を挙げる。
(57) a. /Hk/: /muHko/'息子'、/taHkuu/'助ける'、 /miHkaka/'短い'
b. /Ht/: /nuHto/'盗人'、/aHta/'明日'、/doHte/'どうして'、/noNnoHta/'軒の下'、
c. /Hg/:/keHgoN/'消しゴム'、/iHguruma/'石車9'、
形容詞語幹末が//si//である形容詞に、「非過去」の屈折接尾辞/-ka/が接続するとき、その 語幹末の/si/が[ç]になる。
(58) 形容詞語幹/si-ka/→/H-ka/:
/isogaH-ka/'忙しい'、/jakamaH-ka/'喧しい'、/haNkaH-ka/'恥ずかしい'、
/muNkaH-ka/'難しい'、/mugeraH-ka/'かわいい'、/suzuH-ka/'涼しい'、
/omoroH-ka/'面白い'10、/tanoH-ka/'楽しい'、/hoH-ka/'欲しい'
[ç]の後の子音が、共鳴音の語を挙げる11。
(59) a. /Hm/: /muHme/'娘'、/haHme/'初め'、
b. /Hr/: /waHruu/'忘れる'、/uHro/'後ろ'、
これらのことから、後の子音にも関係なく、[ç]が現れているのがわかる。
オノマトペのABAB型で、Bの位置に[ç]が現れる語もみられた。しかし、「ますます」
のような副詞では、[ç]がみられない。*は、その語が当該方言において非文法的であること を表す。
(60) a. /muHmuH suu/'ムシムシする'、/giHgiH/'ギシギシ'、/geHgeH/'ゲジゲジ(虫)' b. /*mahmah/'ますます'
2.6.3.3. //so//が[ç]になる語
共通語で語中が//so//の語も、[ç]になる語がみられる。
(61) //so//→/H/:/oHka/'遅い'、/aHko/'あそこ'
しかし、/hosoka/'細い'は/*hoHka/にならないなど、用例は限られている。調査では、この 2 語のほかに用例がみられなかった。//so//は、//osorosi-ka//'恐ろしい'が/otoroH-ka/になるな ど、歯茎破裂音化する語もみられる。
また、/miso/(味噌)、/heso/(へそ)は/*mih/、/*heh/にならないなど、語末が//so//の語 は[ç]になる語がみられない。母音の弱化による/*asuko/という語が、/aHko/'あそこ'と発音さ れている可能性がある。
2.6.4. [ç]がみられない語
以下に挙げる語は、[ç]になる可能性があるにもかかわらず、[ç]では発話されない。
(62) a. //si//→/si/:/kasi/'歌詞'、/kasi/'樫'、/kaNzasi/'簪'、/haburasi/'歯ブラシ'、
/risi/'利子'、/gesi/'夏至'、/kokesi/'こけし'、/mikosi/'神輿'、
/huNdosi/'褌'、/sasimi/'刺身'、/nisime/'煮しめ'、/osibori/'おしぼり'、
/kagosima/'鹿児島'
b. //su//→/su/:/kasu/'糟'、/uguisu/'鴬'、/isu/'椅子'、/kisu/'鱚'、/risu/'栗鼠'、
/mesu/'雌'
c. //zi//→/zi/:/azi/'鯵'、/mazime/'真面目'、/ukuzima/'宇久島'、
d. //zu//→/zu/:/kazu/'数'、/uzu/'渦'、/kuzu/'屑'、/suzu/'鈴'、/juzu/'柚'、
/mozu/'百舌鳥'、/azuki/'小豆'、/nezumi/'鼠'、
e. //se//→/se/:/ase/'汗'、/kaze/'風'