2. 音韻論
2.6. モーラ音素/ H /の解釈
2.6.5. モーラ音素/ H /の設定
(61) //so//→/H/:/oHka/'遅い'、/aHko/'あそこ'
しかし、/hosoka/'細い'は/*hoHka/にならないなど、用例は限られている。調査では、この 2 語のほかに用例がみられなかった。//so//は、//osorosi-ka//'恐ろしい'が/otoroH-ka/になるな ど、歯茎破裂音化する語もみられる。
また、/miso/(味噌)、/heso/(へそ)は/*mih/、/*heh/にならないなど、語末が//so//の語 は[ç]になる語がみられない。母音の弱化による/*asuko/という語が、/aHko/'あそこ'と発音さ れている可能性がある。
2.6.4. [ç]がみられない語
以下に挙げる語は、[ç]になる可能性があるにもかかわらず、[ç]では発話されない。
(62) a. //si//→/si/:/kasi/'歌詞'、/kasi/'樫'、/kaNzasi/'簪'、/haburasi/'歯ブラシ'、
/risi/'利子'、/gesi/'夏至'、/kokesi/'こけし'、/mikosi/'神輿'、
/huNdosi/'褌'、/sasimi/'刺身'、/nisime/'煮しめ'、/osibori/'おしぼり'、
/kagosima/'鹿児島'
b. //su//→/su/:/kasu/'糟'、/uguisu/'鴬'、/isu/'椅子'、/kisu/'鱚'、/risu/'栗鼠'、
/mesu/'雌'
c. //zi//→/zi/:/azi/'鯵'、/mazime/'真面目'、/ukuzima/'宇久島'、
d. //zu//→/zu/:/kazu/'数'、/uzu/'渦'、/kuzu/'屑'、/suzu/'鈴'、/juzu/'柚'、
/mozu/'百舌鳥'、/azuki/'小豆'、/nezumi/'鼠'、
e. //se//→/se/:/ase/'汗'、/kaze/'風'
(63) 表 5 無声摩擦音の音韻解釈において問題となる語形(中村(2018:21))
区分 単独形 主格形
牛 /us/[ɯɕ] /usno/[uç̬ĩnõ]
鱚 /kisu/[kjsɯ] /kisun/[kjsɯ˜n]
鷲 /wasi/[wɐɕi] /wasin/[wɐɕĩ]
夕日 /juuhi/[jɯːçi] /juuhin/[jɯːç̬ĩn]
上記の表から、語末音節に母音のない/us/'牛'は「ノ」が接続し、そのほかの語形では「ン」
が接続していることがわかる。なお、この/us/'牛'は、与格の助詞「ニ」に接続するときは /uusi/[ɯːɕi]、主題の助詞「ワ」に接続するときは/uusja/[ɯːɕɐ]となる。
中村(2018)の指摘する主格助詞での区別は、当該方言の音節構造を分析するうえで、有 効である。しかし、この分析は表層音素レベルで音節構造がそのようになっていることを 示すことにはなるが、基底音素レベルで語末音節に母音がないこと示すものではない。
2.6.5.2. 平方言の基底形
野方方言と同じく、平方言でも助詞//=wa//がついたとき、[ɯç]'牛'は[ɯɕaː]'牛は'のように 発話される13。
(64) a. //usi//'牛'+//=wa//→/usjaa/ [ɯɕaː]
b. //kusi//'串+//=wa//→/kusjaa/ [kɯɕaː]
c. //usu//'臼'+//=wa//→/usjaa/ [ɯɕaː]
これらの形式は、「語末音素が狭母音//i//であるとき、//=wa//は[ja]となる」という前述の 音韻規則「主題の//=wa//の同化」に沿うものである。また、平方言では、//usi//'牛'を[ɯç]と 発話することもあれば、[ɯɕi]と発話することもあり、両形式は異形態であるといえる。
これらのことから、基底音素レベルでは、//usi//'牛'のように語末に母音音素があるものと 解釈しておく。そのうえで、平方言にモーラ音素の/H/を設定する利点を考察する。
2.6.5.3. モーラ音素の連続不可
平方言では、モーラ音素が続けて現れることはないと考えられる。
(65) a. /*NQ/,/*QN/,/*QQ/,/?NN/14 b. /*HN/,/*HQ/,/*NH/,/*QH/,/*HH/
「サ行子音+狭母音」でみられる[ç]は、モーラ音素と連続ではみられない。
(66) a. /*HN/ :/sjasiN/'写真'、/zisiN/'地震' b. /*HQ/ :/hasiQko/'端っこ'
c. /*NH/ :/taNsu/'箪笥'、/kaNsi/'監視'、/kaNzi/'感じ' d. /*QH/ :/zaQsi/'雑誌'、/maQsiro/'真っ白'
また、/sisi/という連続で、/si/が[ç]になることもない。
(67) a. /inosisi/→/*inosiH/, /*inoHsi/
b. /sisitoo/→/*siHtoo/
2.6.5.4. モーラ音素/H/の主格助詞/=no/への接続
中村(2018)で示された分析は、平方言の音節構造の分析にも有効である。平方言の主格 助詞//=no//は、/no/と/N/という異形態を持っている。平方言の基本音節であるCGV1V1Mと いう構造を守るため、モーラ音素/H/の後では、/no/で接続する。
(68) a. /haH {no/*N}/'橋が':はひ{の/*ん}でけた(橋ができた)
b. /hoH {no/*N}/'星が':ほひ{の/*ん}いっぴゃ 出ちょーばい
((宇久島の夜空は)星がいっぱい出ているよ)
c. /kwaH {no/*N}/'火事が':くゎひ{の/*ん}出て 燃やろーばい
(火事が出て燃えているよ)
d. /waH {no/*N}/'鷲が':わひ{の/*ん}飛んぼー(鷲が飛んでいる)
e. /araH {no/*N}/'嵐が':あらひ{の/*ん}とーすぎたごて 戻ったよ
(嵐が通り過ぎたように帰ったよ)
語末にモーラ音素/H/がくるときは、助詞/no/しか用いられない。これは属格助詞//=no//で も同様である。
(69) a. /keH {no/*N}/'芥子の':けひ{の/*ん}花
b. /garaH {no/*N}/'ガラスの':ガラヒ{の/*ん}戸
c. /mukaH {no/*N}'昔の'/:むかひ{の/*ん}料理わ 見ためーも んもなかそ
ーやったねー(昔の料理は見た目も旨くなさそうだったね)
d. /keNkagoH {no/*N}'喧嘩腰の'/:喧嘩ごひ{の/*ん}ごて ゆーた
(喧嘩腰のように言った)
e. /nuNnokoH {no/*N}'塗り残しの'/:ペンキば 壁いっぴゃー ぬんのこひ
{の/*ん}なかごて ぬった
(ペンキを壁いっぱいに塗り残しのないように塗った)
//tanisi//'田螺'は、(52)に示した通り/taniH/という形式でみられる。しかし、/tanisi/という形
式で用いられることもある。/tanisi/のようにモーラ音素/H/が用いられないときは、助詞/N/ が接続する。//inosisi//も同様に、助詞/N/が接続する。
(70) a. /tanisi+no/'田螺が':たにしん 山んごて おー(田螺が山のようにいる)
b. /inosisi+no/'猪が':いのししん いっぴゃ 出て 困っちょーとちた
(猪がいっぱい出て困っているんだって)
モーラ音素/H/に助詞/N/が接続しないのに対し、/hi/はその後に/N/を続けることができる。
(71) /mjaahi+no/'毎日の':みゃーひん こったい((そんなのは)毎日のことだ)
これらのことから、「サ行子音+狭母音」でみられる[ç]を、/hi/と別の音素と捉え、モー
ラ音素/H/であるといえる。