「教会外だけでなく,教会内でも必要とされている ことは悔い改めです。信仰をさらに深め,主に仕える
決意をさらに強める必要があります。」
ジョセフ・フィールディング・スミスの生涯から
ジ
ョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のように教えている。「罪の 赦ゆるしは信仰と心からの悔い改めによってもたらされます。」1 スミス大管長は
「信じるだけではなく,悔い改め〔る〕ことも必要です」と述べ,信仰をもって 最後まで善い行いをするとき,わたしたちは「忠実な者が受ける報いを得,神の 日の栄えの王国で一つの場所を受ける」と教えた2。すべての人にこの報いを 得てほしいと願いながら,スミス大管長はその務めの期間を通じて絶えずイエ ス・キリストについて証あかしし,悔い改めを説き続けた。
使徒として務めを果たし始めたころ,スミス大管長は次のように述べている。
「わたしは自分には次のような使命があると考えてきました。シオンのステーク を巡りながら,主の御み霊たまの導きを受けてそのように感じてきたのです。すなわ ち,わたしの使命は人々に向かって
今
が悔い改めの時であると言うことです。そして末日聖徒に向かって,主と交わした約束である聖約を覚えて主の戒めを 守り,聖文に記されているとおりに神の預言者であるイスラエルの長老たちの 教えと指導に従うよう呼びかけることです。主の聖なる御霊によって祝福と導 きを受けられるように,すべてのことにおいて主の前をへりくだって慎み深く歩 まなければなりません。今きょう日は警告の日であると思います。福音が回復される という示しを預言者が最初に天から受けた日以来,警告の時となっています。」3 ある日曜日の聖せい餐さん会で,スミス大管長は自分が警告のメッセージを語る理 由を会衆に話した。集会に出席していた大管長の息子のジョセフは,後に次 のように書いている。「そのときに〔父〕が述べたことの一部を鮮明に覚えて います。『皆さんの友とはだれでしょうか。皆さんを最も愛しているのはだれ でしょうか』と,父は会衆に問いかけました。『シオンの中では万事がうまく いっており,繁栄の時が近づいていると言う人でしょうか。それとも,福音の 原則を実践しなければ,災いと困難に見舞われる恐れがあると警告する人で しょうか。皆さんに知っていただきたいのですが,わたしは教会員を愛してお
第 5 章
り,わたしたちが現世の幕の向こうに行くときに,だれからも指をさされて次の ように訴えられたくないのです。「あなたが警告してくれてさえいたら,このよう な苦境に陥らずに済んだでしょう。」ですから,わたしの兄弟姉妹が栄光の王 国に入る備えができるようにと願って,わたしは警告の声を上げるのです。』」4
スミス大管長の身近で働いた人々は,その厳しい警告の言葉の背後に,罪 に苦しむ人々を深く心配する者の姿を見た。大管長会の秘書を務めたフラン シス・M・ギボンズ長老は,スミス大管長が教会宗紀の問題について検討する 場にしばしば同席した。ギボンズ長老は次のように回想している。「スミス大 管長の決定は常に,優しさと愛のうちに,その状況において正当とされ得るか ぎり最大の憐あわれみをもって下された。深刻な事例を取り巻く事情について知る と,大管長はよくこう言った。『なぜ人は正しいことをしないのだろう。』これは 責めているのでも非難しているのでもなく,悲しく,残念に思って言っているの であった。」5 十二使徒定員会の会員としてスミス大管長とともに働いたスペン サー・W・キンボール大管長は,次のように述べている。「わたしたちは何度も このように言ってきました。十二使徒はイスラエルを裁く者になるわけですが,
わたしたちは皆,喜んで彼の裁きを受けたいと思います。彼の裁きは思いやり があり,憐れみ深く,公正で,神聖だからです。」6 スミス大管長は,ビショップ を聖任するときによく次のように助言した。「覚えておいてください。だれにで も弱点があり,どんな場合にも立場によって少なくとも二つの見方があります。
もし判断を誤ることがあるとするなら,必ず愛と憐れみに深すぎて誤るようで あってください。」7
ジョセフ・フィールディング・スミスの教え
1
福音の第一の原則は主イエス・キリストを信じる信仰である
わたしたちの信仰の中心は主イエス・キリストであり,わたしたちは主を通し て御父を信じています。キリストを信じ,神の御子として受け入れており,バプ テスマの水の中でキリストの名を受けました。8
イエスがキリストであり,生ける神の御子であって,わたしたちに命を得させ るためにこの世に来て命を落とされたことを,わたしたちは今も,そして常に心 の中で第一に考えていなければなりません。これは根本的な真理です。わた したちの信仰は,この上に築かれています。この真理が損なわれることはあり ません。世の教えや人の考えがどうであろうと,わたしたちはこの教えを離れて はいけません。なぜならこの教えは最も大切な教えであり,わたしたちの救い に不可欠なものだからです。主はわたしたちが戒めを守り,いつも主を覚える という条件の下に,御自身の血によってわたしたちを贖あがない,わたしたちを救って
くださいました。この条件があることを忘れてはいけません。わたしたちは戒 めを守り,いつも主を覚えるなら救われるでしょう。その一方で,人々の考えや 愚かな行いは地上から消滅するでしょう。9
わたしたちは信仰によって神のもとに行きます。もし主イエス・キリストを信 じておらず,主の贖しょく罪ざいも信じていないならば,主の戒めに注意を払おうとは思 わないでしょう。わたしたちが主の真理と一致した者になり,主に仕えたいとい う望みを心に持つのは,そのような信仰があるからです。……
……福音の第一の原則は,主イエス・キリストを信じる信仰です。当然のこ とですが,御父に対して信仰を持たずに主イエス・キリストを信じるということ はありません。ですから,もし父なる神と御子を信じるならば,また受けるべき 聖霊の導きを受けるなら,主が代弁者として立ててこられた主の僕しもべたちを信じ ることでしょう。10
2
信仰とは行いを意味する
「信仰はすべての行いの動機となるものです。」〔 Lectures on Faith ,第 1 講〕立ち止まって少しの間そのことについて考えてみるなら,それが物質的な事 柄においても霊的な事柄においてもまったく真実であることに,皆さんも同意 することでしょう。これはわたしたち自身の行いについても,神の行いについて も当てはまります。……
「行いのない信仰〔は〕死んだものなのである。」〔ヤコブの手紙 2:26〕つ まり,そのような信仰は存在しません。ヤコブの真意を明確にすれば次のよう になると思います。「行いを伴わないあなたの信仰なるものを見せてほしい。
何も起こらないことだろう。しかし行いを伴うわたしの信仰を見せてあげよ う。何か良いことが成し遂げられることだろう。」〔ヤコブの手紙 2:18 参照〕
信仰とは行いを意味します。……したがって,信仰は信念よりも力があります。
……
信仰は神の賜たま物ものです。すべての良いものは神の賜物です。それは聖文の教 えであって,ヘブル人への手紙第 11 章で(この章は信仰についての実に見事な 論述です),〔また〕教義と聖約やそのほかの聖典の中で,主がわたしたちに下 さっている啓示にあるとおりです。信仰は何もせずにいたり,無関心でいたり,
あるいは言われるままに信じていたのでは得られません。信仰を得たいと望む だけでは信仰を得ることはできません。それは,音楽や絵画の技能を身に付け たいと望んでも,理にかなった行いが伴わなければ上達しないのと同じことで す。ここにわたしたちの問題があります。わたしたちは福音についての証あかしを得
第 5 章
て,ジョセフ・スミスを信じ,イエス・キリストを信じ,福音の原則を信じていま すが,それらの事柄にどれくらい熱心に取り組んでいるでしょうか。
……もし揺るぎない篤あつい信仰を得たいなら,この教会の会員としてすべての 義務を積極的に果たさなければなりません。……
ああ,ニーファイの示した信仰がわたしたちにあったならどんなによいでしょ う。ニーファイ第一書第 17 章を読んでください。この章の中で,ニーファイが 船を造ろうとしたために,兄たちはニーファイに反対し,あざけって次のように 言います。
「弟は愚か者だ。弟は船が造れると思っているし,この大海を渡れると思っ ている。」〔 1 ニーファイ 17:17〕
ニーファイは兄たちに次のように答えました。
「どのようなことでも神がわたしに命じられれば,わたしにはそれができる。
もし,神がわたしにこの水に向かって『陸になれ』と言うように命じられれば,
水は陸になる。わたしがそう言えば,そのとおりになる。」〔 1 ニーファイ 17:
50〕
それがニーファイの信仰でした。11
わたしたちは今,現世に来る前のように完全な知識をもって歩んでいるので はありません。主はわたしたちに信仰によって歩むように求めておられます〔 2 コリント 5:7 参照〕。信仰によって歩みつつ,わたしたちの救いのために与えら れている戒めに従うならば,義の報いを受けるのです。12
人は真理を受け入れ,与えられた戒めを守って,教義に従い,信仰によって歩 まなければ,いくら口でイエスはキリストであられると告白しても,御父が人類 の贖あがないのためにキリストを世に送られたと信じていても,永遠の命を受けること は不可能です。ヤコブの言うとおり,悪霊たちでさえ「信じておののいて」いま すが,彼らは悔い改めません〔ヤコブの手紙 2:19 参照〕。13
3
悔い改めは福音の第二の原則であり,救いと昇栄にとって不可欠である 悔い改めは福音の第二の基本原則であり,信仰から生じるものです。14 教会外だけでなく,教会内でも必要とされていることは悔い改めです。信仰 をさらに深め,主に仕える決意をさらに強める必要があります。15
重い罪,きわめて大きな罪でないかぎり罪を犯しても問題はなく,依然として 神の王国に救われるという考えを持っている人々がわたしたちの中にいるとい うのはほんとうでしょうか。ニーファイはわたしたちの時代を見ており,人々が