第 11 章 人間は何者であるべきなのか?
ろう)をめざしつつ、自分に向かって言う。私たちはそれをさらに超え られるはずだ、と。つまり、「最良の人間性を超えたもの」が私たちのめ ざす一つの答えである。
・私たちは夢想を求めることもある。スーパーマン、フランケンシュタ イン、特異点、X-メン、SF の異星人などの伝説は、集合的無意識によっ て将来の人類の変種を想像する試みである。SF に登場する超人や異星 人の例をすべて収集して、どのような能力を持っているかを分類して検 討することにより、未来の人類に対する願望の輪郭を調べるというよう な研究は、社会学か何かの大学院生の良い課題だと思う。(そのような収 集事例があれば知らせてほしい。)超人類の可能性は非常に広範囲にわ たっていて、空想小説業界の何百年かそこらの歴史では、たぶん何か変 化できそうな方法を考え始めたところにすぎない。人間の想像力の貯水 池は広大であり、私たちがどうなりたいかという願望の主要な水源であ り続けるだろう。
・最後に、私たちは技術を探求して、そこにどのような潜在力が隠されて いるかを調べることもある。人間が技術と融合すると、その潜在力が人 間に移転する。私たちが技術を使って遺伝情報を操作したり、人間を延 命させたりするときには、技術の力学の一部を吸収せざるを得ない(そ れは、進化や適応を技術の創造に取り入れるときに、技術が自然の力学 を吸収せざるを得ないのと同じである)。新しい技術の中にのみ存在する 全く新しい能力または潜在力を発見して、私たちは決心することもある だろう。そうか、人間はこのようになればいい、と。ありふれた例とし ては、私はスクロールバック・バーを見て、未来の人間は好きなときに 人生を巻き戻し(スクロールバック)できることが不可欠だと思ってい る。技術が求めるものに耳を傾ければ、人間が何になれるか、何になり
第 11 章 人間は何者であるべきなのか?
たいか、という疑問に対する答えが見えてくるかもしれない。
この可能性の水槽がどんなに広く深いとしても、人間は望みどおりの いかなるものにも自分自身を作りかえることはできないと思う。一部の 人々、たとえばトランスヒューマニスト(超人主義者)たちは、人間を作 りかえるという課題を真剣に考えている。彼らは、人間性は白いキャン バスであり、技術の力によって人類を、あるいは少なくとも個人を、望 みどおりの形に作りかえることができると宣言したりする。一部の人が 信じるところによると、特異点において想定される超能力が、この変換 を(他の人はそんなものいらないと思っているのだが)可能にする秘密 のソースだという。この枠組みの中では、十分に時間をかけさえすれば、
知性ができることには限界がないらしい(私はこれを思考主義(第 5 章)
と呼ぶ)。アーサー・C・クラークがこう述べている。「何らかの技術につ いて不可能であると言った場合には、その人はきっと間違っている。」
第 11 章 人間は何者であるべきなのか?
図: 世界トランスヒューマニスト協会(World Transhumanist Association)による
しかし同時に、宇宙は限界があるからこそ実在する。実在するものは、
物質、物理、法律、その他の基盤によって、ある方向に可能性が制約され ているから実在する。そうでなければ、魔法のように何でも起こりうる ことになる。すなわち、私たちはあらゆることを想像できるが、その一 部は現実の制約によって実現を阻止されているのである。
短めの長期的には、人類として進化する可能性について、そのすべて を使い果たした状態に近づいているわけではない。人類にもたらすこと ができるものが、まだ他にあるだろう。生物的不死、テレパシー能力、完 全無欠の記憶、風邪に対する免疫、背中の改良、無痛出産などなど。自 分の体がすごい可塑性を持つように操作して、各個人が自分の能力の得
第 11 章 人間は何者であるべきなのか?
意不得意を調節できるようになるかもしれない。
しかし、私たちが何になりたいか(あるいは、何になるべきか)を決 めるのは、もっと大きな難問であると思う。現実はトレードオフのある 機械だとわかっている。エネルギーや情報を消費するものは何でも、ト レードオフが必要である。新しい能力は新しい問題を生み、どこか他の ところで新しいコストを負担する。すべての方向に無限というのはあり 得ない。
人類がどうなることを望むのかと考えるとき、いくつかの大きな問題 が待ち受けている。人間は一つの種のままでいるか、多くの種になるか
(なるべきなのか)? どこか人間が向かっているところに集団で行くこ とが重要なのか? 私たちはそもそも人間でありつづけるべきか? 人間 性(それがどんなものでも)は守り続ける価値があるか? 私たちはどこ まで進化することができるか、そしてどこまでが人間と呼べるか? その とき普通の人はまだいるか? あるいは統計上の異常値、極端な変種、将 来の巨大なアインシュタインやモーツァルトたちで人間というものを定 義しなおすのか?
最後に、次のように主張する人も一部にいる。人間性は能力や才能に はあまり関係がなくて、道徳性に関係がある、また「人間性とは何か」と いう中核は心に存在する、大いなる道徳性の進化は肉体にではなく社会 に現れる、と。何をするかよりも、物事をどのように行うかが重要であ るらしい。
何者になることを望むかについて、一つの種として人間はすでに決心 しつつある。高齢の新しい親たちは遺伝について定期的にカウンセリン グを受けている。彼らの小さな選択は、将来の世代の遺伝子について実 際に下流への影響を持つ。環境化学物質も人間の遺伝子に影響するが、
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その状況は今のところわからない。眼鏡や義肢などの人工装具技術や グーグルも、大きく見れば人間をある方向へ変化させる。
人間は自分自身を作りかえつつある。しかし私たちは、そのときに疑 問を問いかけていない。人間は何者になりたいか? 人間は何のためにあ るのか? 人間は何者であるべきなのか?
(初出: http://memo7.sblo.jp/article/23255436.html) (原文: Who Should We Be?)