第 1 節 ワークショップ
1.1 ワークショップとは何か
ワークショップと銘打つセミナーや勉強会など最近頻繁に耳にするようになった。そ れでは、ワークショップとはどう定義づけられるだろうか。
中野(2001:11)では、ワークショップという言葉が広範囲で用いられているとし、
ワークショップが行われるそれぞれの分野(演劇、美術、まちづくりなど)において、
それぞれの歴史や定義があり、一つの定義ではカバーできないという。すなわちワーク ショップという言葉の使われ方が、分野によってその意味することが異なるため、定義 づけることが難しいことを意味する。しかしながら、暫定的に「講義など一方的な知識 伝達のスタイルではなく、参加者が自ら参加・体験して共同で何かを学びあったり創り 出したりする学びと創造のスタイル」だと述べている。
また、中野は日本で行われている様々な分野のワークショップの分類を試みている。
以下ページの図11にその分類を示した。
図11 ワークショップの分類の試み(中野2001:19より転載)
この図の横軸である「個人的、社会的」は、個人の内的変容や成長に向かう「内向き」
の方向と、現実の社会や世界を変革していこうという「外向きの方向」を示している。
縦軸の「創造する、学ぶ」は、何かを実際に創り出していき成果を重視する「能動的」
な方向と、感じたり理解したり学んだりするプロセスそのものを大切にする「受容的」
な方向を示すという。この縦軸と横軸は矢印で示されているものの、「個人的、社会的」
「創造する、学ぶ」は互いに深く関係しあっており、矢印の先端は離れていくというよ り、大きな輪となって円環する可能性を指摘している(中野2001:17-18)。
この図11で示した中野(2001)の分類は、ワークショップという言葉が持つ多義性 が複数の背景から生まれてきたことを気付かせてくれた図だと苅宿(2012a)は言う。
そして、現在ワークショップの活動は「中野による活動領域の分類、まちづくり系、教 育・学習系などだけでなく、それらの周辺分野に越境しあい、新しい分野を作っている」
(苅宿2012a:4)と述べている。
また苅宿は、現在ワークショップは社会構成主義学習観に基づく学習法であると主張 している。社会構成主義学習観では「学習を『知識の意味は教科書の中に存在するので はなく、学習者の道具的思考や他者とのコミュニケーションを通して構築されるもの』
としてとらえられている」と言い、「分かち合う」学習観であるとする(苅宿 2012b:
79)。この「分かち合う」とは、「知識の獲得が目的ではなく、他者と知識を「分かち合 っている」状況、プロセスを学習としてとらえること」(苅宿2012b:80)とされてい る。具体例として学校教育を例にとると「子どもたち同士がアイディアを出し合い、自 分たちで作品づくりの共同体に参加して、それぞれが役割を果たしていくことで『自分
たちが考え、協働して作った作品』という成果とそのプロセスに込められた意味を生成 したことが学習」(苅宿2012b:79-80)ととらえることである。
また苅宿(2012b:80)では、この社会構成主義に基づく学習において「協働」の実 態が大切であると指摘し、協働について次のように述べる。
協働は単なる話し合いや仲よくなることではない。何のために、なぜやるのかとい う目的とそのプロセスを共有し、多様なずれや行き違いが生まれていくことを重要 な結節点としてとらえ、それらの問題を解決していくことを通して、合意を形成し、
より納得できる取り組みが生まれていくことなのだ。(苅宿2012b:80)
つまり、協働はただ一緒に取り組むことを指すのではない。苅宿では社会構成主義学 習観に基づきワークショップの活動定義を「コミュニティ形成(仲間づくり)のための 他者理解と合意形成のエクササイズである」(苅宿2012a:18)とし、その方法論の定 義に中野で定義付けされた「講義など一方的な知識伝達のスタイルではなく、参加者が 自ら参加・体験して共同で何かを学びあったり創り出したりする学びと創造のスタイル」
(中野2011:11)としている。
ではこの協働の場で何を経験するのか。
佐伯(2012:64)は、ワークショップは「型こわし」と「型探し」を経験する、「ま なびほぐし(unlearn)」の場であると言う。この「まなびほぐし(unlearn)」と言うの は、「まなび(learn)のやり直し」であるといい、「型」とは、これまでの「まなび」を 通して身につけてしまっている「型」としての「学びの身体技法(まなび方)」である。
ワークショップは、「型」としての「学びの身体技法(まなび方)」を改めて問い直し、
解体して、組み替えることを意味するという(佐伯2012:62)。
佐伯は、親から子供、先輩から後輩へと文化が伝承される多くの場合「意味がわから ないまま」伝承されることが多いと指摘している(佐伯2012:49)。この点に関し、苅 宿(2012b)でも同様の言及が見られる。
私たちは、この社会的・文化的な学習で身につけてしまった「型」をなかなか意識 できない。それは、当たり前のことを当たり前として身につけてきたから当然(当 たり前)なのである。(苅宿2012b:69-70)
両者の指摘を言い換えれば、「当たり前」として受け止められるものは、無意識に身 につけた「型」であり、疑問を持たないものと言える。よって、ワークショップで起こ
っていること、経験することは、他者との協働を通し、「当たり前」だと感じることや、
知らず知らずのうちに構築された自分のものの見方や価値観に揺さぶりをかけたり、自 分自身身につけていたものの見方や価値観がどのようなものかを他者を介して意識化 する経験とも言えるだろう。
また近代以降、社会においてこの「型」の幾度とない更新、すなわち古い当たり前か ら、新しい当たり前といったように明確なゴールへ移動してきたと述べている。しかし、
現代は、その当たり前に身につけてきた「型」を見直すことが迫られていると言う。そ れは社会・文化が多元的となったことから社会の価値観を一元的にまとめることが不可 能になってきていることによるからである(苅宿2012b:70)。つまり、かつてのよう に、当たり前の「型」の更新をしようにも明確な新しい「型」が存在しないのである。
明確な「型」が存在しない社会は、様々な「当たり前」を持つ人の集合体と言える。
これらの人が共生する上では合意を形成していく他ない。この合意形成や他者理解のエ クササイズとしての場が、ワークショップなのである。
総じて、ワークショップの参加者は、当たり前とされていること、あるいは、無意識 に構築された自分のものの見方、捉え方を、他者との協働を通し、揺さぶりをかけてい く、または意識化していく経験をすることになる。すなわち佐伯(2012)の言葉を用い れば「まなびほぐし」なのである。
このワークショップの定義、ならびにワークショップを通して参加者が経験すること は、9章にて述べたキーコンセプトに共通する点があると筆者は考えた。次項でこの点 をについて深め、介護現場における日本人職員と外国人介護人材とのコミュニケーショ ンを円滑に進める一具体策としてワークショップが妥当であることを述べる。