化学と生物 Vol. 50, No. 10, 2012
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今日の話題
有用希少イノシトールの微生物生産
新たなイノシトール代謝経路の発見とその応用
イノシトールとは,シクロヘキサンの各炭素上の水素 原子が一つずつヒドロキシ基に置き換わった構造をもつ シクリトールの総称で,ヒドロキシ基の立体配座の違い によって9種の異性体が存在する.
自然界に存在するほとんどのイノシトールはミオ-イ ノシトール(図
1
のMI)である.ミオ-イノシトールは ビタミンBの一種と考えられ,脂肪肝や高脂血症の治療 に用いられる場合もあるが,生体内である程度は生合成 されること,またさまざまな食品中にも広く含有される ことから欠乏症の発生はまれである.工業的には植物種 子のリン酸貯蔵物質であるフィチン酸のリン酸を切り出 す方法で生産され,米ぬかなどを原料として安価に供給 される.一方,そのほかの異性体はいずれも希少かつ高価であ るが,特筆すべき有用な生理活性を示すものがある.た とえば,d-キロ-イノシトール(図1のDCI)は,糖尿病 治療や多嚢胞卵巣症に有効であると期待される(1)
.この
生理活性はd-キロ-イノシトールがインスリン様の機能 を発揮して血糖値を低下させる,あるいは4型グルコー ス輸送担体の小胞体から細胞膜への移動を促進させるこ とに由来すると考えられるが,その詳細はいまだ研究の 途上にある.一方,シロ-イノシトール(図1のSI)は アルツハイマー病治療への有効性が注目され,この異性 体の効能発揮のメカニズムについても研究が進展中であ る(2).少なくとも,アルツハイマー病の典型的症状であ
るβ
-アミロイドの重合・蓄積を抑制し,アルツハイマー 病モデル動物(マウス)の認知症を緩和し正常な寿命を 全うさせることが示されている.微生物のなかにはイノシトールを炭素源として効率的 に分解利用するものがあり,枯草菌はその代表として詳 細な研究がなされている(3)
.枯草菌におけるミオ-イノ
シトール分解経路の多段階酵素反応の一部を図1に示 す.この経路で機能する一連の酵素群は基本的にからなる遺伝子クラスター, オペロ ンにコードされている.ミオ-イノシトールはIolGに よって触媒される初発反応で脱水素されてケトン体2-ケ ト-ミオイノシトール(図1の2KMI)となり,次いで 2KMIはIolEによって脱水され,その後は加水分解によ
る環構造の開裂,異性化とリン酸化,アルドラーゼ反応 による分断など複数のプロセスを経て最終的に解糖系あ るいはTCA回路へと流入する.一方,d-キロ-イノシ トールもミオ−イノシトール同様にIolGによって脱水 素されて別のケトン体1-ケト-d-キロ-イノシトール(図1 の1KDCI)となり,さらにこれがIolIによって異性化さ れ2-ケト-ミオ-イノシトールとなる(4)
.すなわち,
d-キ ロ-イノシトールも中間代謝産物2-ケト-ミオ-イノシトー を介してミオ-イノシトール分解経路に流入し,以降同 様にして分解されるのである.加えて,シロ-イノシ トールはIolXとIolWという2種酵素の基質となり2-ケ ト-ミオ-イノシトールに変換されることが判明した(5).
前者酵素はNAD+ 依存型でシロ-イノシトールの存在に よって誘導されてシロ-イノシトールの酸化分解のため に機能する.後者は構成的に発現するNADP+ 依存型酵 素であり,2-ケト-ミオ-イノシトールをシロ-イノシトー ルへと還元する逆反応を優先させることが示されてい る.上記のような枯草菌のイノシトール分解経路において
図1■枯草菌のイノシトール代謝経路の一部
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今日の話題
注目すべきは,ミオ-イノシトールとd-キロ-イノシトー ルおよびシロ-イノシトールをつなぐ反応経路がいずれ も可逆反応であることである.すなわち,ミオ-イノシ トールを十分に供給しながらIolEを不活性化すると,
論理的にはこの反応経路を経て3種のイノシトール異性 体を相互変換できるはずであり,うまくすれば安価なミ オ-イノシトールを原料とする有用希少なd-キロ-イノシ トールやシロ-イノシトールのバイオコンバージョン生 産が可能となりそうである(図1)
.すなわち,ミオ-イ
ノシトールからd-キロ-イノシトールを生産するために は,IolEとIolX, IolWの3者をすべて不活性化してミオ- イノシトールの分解をせき止めるとともにシロ-イノシ トールへの転換経路を完全に遮断する戦略が考えられ る.そして,シロ-イノシトールを生産するためには,IolEに加えてd-キロ-イノシトールへの経路にかかわる IolIとシロ-イノシトールの酸化を行うIolXを不活性化 してIolWのみの活性を残すとよい.そこで,実際に上 記のような変異をそれぞれ施した枯草菌を用いて検討が 行われた結果,前者のd-キロ-イノシトール生産の場合,
理論どおりに生産を確認することができたものの,IolI 酵素による2-ケト-ミオ-イノシトールから1-ケト-d-キロ- イノシトールへの異性化が律速となるためか,残念なが ら生産効率があまり上がらないことが示されている(4)
.
一方,後者のシロ-イノシトール生産については,原料 として添加したミオ-イノシトールの約半量をシロ-イノ シトールへ変換して培地へ蓄積させることが比較的容易 に達成されており,シロ-イノシトール細胞工場の実現 に迫る技術が確立されつつある(6)
.安価な微生物生産法
が現実的となり,近い将来には希少ですらなくなること が期待されるシロ-イノシトールは,アメリカ食品医薬 品局 (FDA) により早期開発のターゲットとして指定さ れ,そのアルツハイマー病治療への有効性を評価する臨 床試験が進行中である.1) J. Larner : , 3, 47 (2002).
2) J. McLaurin, M. E. Kierstead, M. E. Brown, C. A.
Hawkes, M. H. Lambermon, A. L. Phinney, A. A. Dara- bie, J. E. Cousins, J. E. French, M. F. Lan, F. Chen, S. S.
Wong, H. T. Mount, P. E. Fraser, D. Westaway & P. St.
George-Hyslop : , 12, 80 (2006).
3) K. Yoshida, M. Yamaguchi, T. Morinaga, M. Kinehara, M.
Ikeuchi, H. Ashida & Y. Fujita : , 283, 10415 (2008).
4) K. Yoshida, M. Yamaguchi, T. Morinaga, M. Ikeuchi, M.
Kinehara & H. Ashida : , 72,
1310 (2006).
5) T. Morinaga, H. Ashida & K. Yoshida : , 156, 1538 (2010).
6) M. Yamaoka, S. Osawa, T. Morinaga, S. Takenaka & K.
Yoshida : , 10, 69 (2011).
(吉田健一,神戸大学農学研究科)
烏 山 一(Hajime Karasuyama) <略 歴>1978年東京医科歯科大学医学部卒 業/1978筑波大学医学専門学群付属病院 研修医/1980年東京大学大学院医学系研 究科博士課程(免疫学:多田富雄教授)/
1984年スイス・バーゼル免疫学研究所研 究員/1987年東京大学医学部免疫学教室
(多田富雄教授)助手/1990年スイス・
バーゼル免疫学研究所研究員/1995年東 京都臨床医学総合研究所(臨床研)免疫研 究部門室長部長/2000年東京医科歯科大 学医歯学総合研究科免疫アレルギー学分野 教授,現在に至る
國枝 里美(Satomi Kunieda) <略歴>
1987年日本大学理工学部工業化学科卒 業/高砂香料工業株式会社に入社.製品開 発のための官能評価に従事すると同時に,
実験心理学的なアプローチから匂いに対す る人の感覚や嗜好研究を行っています<研 究テーマと抱負>人の発達の過程における 匂いの知覚とその役割,食行動や地域によ るフレーバーの嗜好について興味をもって います<趣味>スキー,ゴルフ,ピアノ,
食べ歩き
齋藤 雅典(Masanori Saito) <略歴>
1981年東京大学大学院農学系研究科修了
(農学博士)/1981年農林水産省へ入省.
東北農業試験場,草地試験場(現在の畜産 草地研究所)を経て,2002年(独)農業環 境技術研究所へ異動.2008年より東北大 学大学院農学研究科附属複合生態フィール ド教育研究センター教授.現在に至る<研 究テーマと抱負>アーバスキュラー菌根菌 の生理生態.土壌生態系のリン循環とその 制限要因.LCAによる農業活動の環境影 響評価<趣味>クラリネットを吹くこと.
オペラ・音楽を楽しむこと.お酒を飲むこ と.
佐々木幸子(Yukiko Sasaki) <略歴> 1961年京都大学農学部農学科卒業/1966 年同大学大学院農学研究科農芸化学専攻博 士課程修了/同大学農学部食品工学科助手
(1年間ペンシルバニア大学博士研究員)/
名古屋大学農学部教授/株式会社コンポン 研究所(トヨタ)特別研究員/2005年同 退任<興味をもっていること>女性研究者 の環境改良を希望.社会の改善を志向する 各リーダーの教育観に興味がある<趣味>
バイオリン(京大OB有志アンサンブルに て)
佐々木隆造(Ryuzo Sasaki) 1961年京都 大学農学部農学科卒業/1966年同大学大 学院農学研究科農芸化学専攻博士課程修 了/京都女子大学家政学部講師,助教授/
京都大学農学部食品工学科助教授,教授/
京都大学大学院生命科学研究科教授/滋賀 県立大学人間文化学部教授/長浜バイオ大 学客員教授,現在に至る<研究テーマと抱 負>新規がん遺伝子の発見(長浜バイオ大 学水上民夫教授のプロジェクト),退職後 すべての生命科学に興味をもつようになっ た<趣味>ゴルフ,囲碁,麻雀
清 水 昌(Sakayu Shimizu) <略歴>
1968年京都大学農学部農芸化学科卒業/
同大学院博士課程修了,助手,助教授,教 授(2009年退職)/2009年東レ(株)先端融 合研究所所長(2012年退職)などを経て 2010年より現職<研究テーマと抱負>微 生物のユニークな機能の探索と開発<趣 味>木工,レコード蒐集