﹃大鏡﹄における朱雀院の処遇
勝
倉 壽
一
↓ 村上・朱雀紀への疑問
帝紀は歴代の帝の誕生から崩御に至る記録であるが︑﹃大鏡﹄にお
いてはさらに若干の挿話を加えることもある︒第六十二代﹁村上天
皇﹂紀も帝の年譜的記事に挿話を加えているが︑その構成︑記載内容
は読む者に違和感を生ぜしめる︒即ち︑村上帝の帝紀に村上帝の事績︑
逸話についての言及がなく︑母后穏子関係の記事︑前皇太子︵先坊︶
故保明親王の乳母子大輔の君の哀傷説話が配されていることがそれで
ある︒ 母后穏子についても︑保明親王の死去による悲嘆の中で朱雀院が生
まれ︑また立后が実現したことが記されるのみで︑村上帝の出生︑立
太子︑践祚等の年譜的記事は︑穏子・大輔の説話とは無関係に紀の冒
頭に記されている︒村上帝の帝紀に兄宮保明の死︑生母穏子の中宮立
后︑同母兄朱雀院の出生︑保明に寄せる乳母子大輔の哀傷歌が配され
るという落ち着きの悪さをどのように考えるべきなのであろうか︒
﹁村上天皇紀﹂の構成は︑次のようになる︒
①村上帝の年譜的記事︒父母︒誕生・元服・立太子・践祚の年月
日と年令︑在位期間︒帝紀の記録的性格︒
②母后穏子関係の記事︒先坊保明の出産年次と年令︒女御宣旨の
年次と年令︒朱雀院の出生年︒中宮立后の宣旨の年月日と年令︒ 村上出産の年令︒ ③ 穏子立后の日における︑先坊の乳母子大輔の君の先坊追慕の歌 のこと︒ ④先坊の法事果ての日の大輔の哀傷歌と︑この歌が後生に伝えら れたことへの賛美︒ ⑤先坊の薨去︑朱雀院の誕生︑中宮立后と︑悲喜こも.こもの年を 過ごした穏子の心境の忖度︒ 帝紀には他に外祖父名︑院号︑崩御年月日︑卒年令などが記されることもあるが︑東松本の﹁村上天皇紀﹂には外祖父の記載はなく︑古活字本には①の部分に崩御年月日︑卒年令︑御陵についての補入がある︒右の構成のうち︑①の村上帝関係の年譜的記事と②〜⑤の穏子・保明・朱雀院・大輔関係の記事の間には︑内容的に直接の有機的な関連性は認められない︒ そもそも︑﹃大鏡﹄全巻を通じて︑村上帝と穏子の間には生母であるという記載以外に接点は見られない︒一方︑朱雀院の出生と穏子立后の密接な関係︑朱雀院に対する穏子の鍾愛ぶりは第六巻﹁昔物語﹂に詳述されており︑穏子関係の記事は﹁村上天皇紀﹂に先立つ第六十
一代﹁朱雀院﹂の紀に記されることが相応しいように思われる︒しか
し︑﹁朱雀院紀﹂は帝紀中で最も短く︑最小限書くべきことの記録に
止まっている︒それではなぜ︑穏子関係記事は﹁朱雀院紀﹂に記され
(一
j
︵二︶
勝倉壽一:r大鏡』における朱雀院の処遇 49
なかったのか︒﹁村上天皇紀﹂が構成・内容の不統一性を露呈し︑穏
子関係の記述の場に相応しいと思われる﹁朱雀院紀﹂が院の年譜的記
事のみに止まった事情について︑従来︑論者の関心は乏しい︒
﹁朱雀院紀﹂が無味乾燥な年譜的記事のみに止まった事情について
は︑﹁他の帝紀では短くとも何かひと言世次にコメントさせるのだが︑
帝系が後に続くのは︑同母弟村上帝なので︑そちらに物語を譲ったら
りニしい︒﹂と解されるにとどまる︒しかし︑﹁昔物語﹂に﹁朱雀院むまれ
をはしまさずば︑藤氏の御さかへいとかくしも侍らざらまし︒﹂と記
された藤原氏興隆への決定的な役割を担って誕生した朱雀院への期待
は︑なぜ﹁朱雀院紀﹂に記されなかったのであろうか︒保坂弘司氏は
朱雀院誕生の意義は﹁この帝と藤原氏との相関関係においていうこと﹂ デヨユであり︑朱雀院自身の業績ではなかったことを指摘されたが︑そうで
あるとすれば︑この一文はなぜ外戚にあたる第二巻﹁太政大臣忠平﹂
の伝に記されなかったのであろうか︒
なお︑古活字本には﹁朱雀院紀﹂に﹁昔物語﹂と同内容の浦人記載
がある︒そのことは補入者にも同様の疑問が存在したことを示してい
ると言ってよい︒しかし︑補入記事は﹁昔物語﹂との重複を生じるこ
とになった︒むしろ︑﹁朱雀院紀﹂に書かれなかったことを問題とす
べきであろう︒
一方︑﹁村上天皇紀﹂に穏子関係の説話が配された事情について︑
保坂氏は﹃大鏡﹄作者の歴史を語る目的から言えば︑村上帝の政治へ
の意欲や天暦の治の事績は特筆すべきことではなく︑説話に関心が向
けられたからであると説かれる︒
いきおい︑︿村上紀﹀の記述は極度に切りつめられ︑筆はむしろ
朱雀・村上の二天皇を産んだその生母穏子のことに向けられるの
である︒その穏子の記述が︑御乳母子の大輔の君の嘆きの和歌に
よって説話風に運ばれているところに︑やはりわれわれは説話好
きな作者の横顔をみないわけにはゆかないのである︒ しかし︑これらの所説は︑﹁村上天皇紀﹂の構成・内容︑及び﹁朱雀院紀﹂に関わる上述の疑問に正確に対応するものとは言いがたい︒ ﹁朱雀院紀﹂﹁村上天皇紀﹂の構成・記載内容の不可解さは︑﹁昔物語﹂における穏子の朱雀鍾愛の逸話︵以下︑﹁穏子の朱雀鍾愛説話﹂︶︑および穏子の言による朱雀の村上への譲位秘話︵﹁朱雀の退位説話﹂︶と密接な関わりが伏在していることを暗示している︒穏子鍾愛の朱雀院はいかなる事情で退位せざるをえなかったのか︒穏子の朱雀鍾愛と朱雀譲位の説話は︑なぜ﹁昔物語﹂の場において語られなければならなかったのか︒村上の立太子︑即位にはいかなる事情が介在したのか︒朱雀・村上の帝紀と﹁昔物語﹂の二説話に関わる問題は︑忠平流の要請による穏子の﹁朱雀下ろし﹂の複雑な背景を暗示するものであると考えられるのである︒
二 朱雀院鍾愛説話の解釈
﹁昔物語﹂における朱雀院関係の二つの説話には疑問とすべき点が
多い︒その一︑朱雀の出生時における母后穏子の異常な鍾愛ぶりは︑
次のように記されている︒
八幡の臨時のまつり︑朱雀院の御時よりぞかし︒朱雀院むまれ給
て三年は︑おはします殿の格子もまいらず︑よるひる火をともし
て︑御帳のうちにておほしたて!\まいらせ給︑北野にをぢまう
させ給て︒天暦のみかどは︑いとさもまもりたてまつらせ給はず︒
いみじきをりふしにむまれをはしましたりしぞかし︒朱雀院むま
れをはしまさずば︑藤氏の御さかへいとかくしも侍らざらまし︒
さてくらみにっかせ給て︑将門が乱いできて︑その御願にてとぞ
うけ給はりし︒
この逸話の背景とその史的位相を概観しておくならば︑大略つぎの
ように要約されよう︒
延喜三年︵九〇三︶二月二十五日︑前右大臣菅原道真は流謫の地筑
紫において五十九年の生涯を閉じたが︑延喜二十三年︵九二⁝三月
二十一日︑皇太子保明親王︵醍醐皇子︑母は穏子︶は二十一歳の若さ
で薨去し︑﹁菅帥霊魂宿分心所為也︒﹂︵﹃日本紀略﹄︶という噂が世上を
駆けめぐった︒皇太子には四月二十九日︑慶頼王︵父は保明︑母は時
平女︶三歳が立てられたが︑同年七月二十四日︑寛明親王︵朱雀︶を
出産した穏子は道真の霊への怖れから︑寛明︵朱雀︶とともに三年間
昼夜弘徽殿に籠もったという︒慶頼王は二年後の延長三年︵九二五︶
六月十九日に五歳で薨去され︑同年十月二十一日︑寛明︵朱雀︶が三
歳で皇太子に立った︒寛明︵朱雀︶は穏子には保明から二十年ぶりの
男皇子の誕生であり︑慶頼王の立太子により時平流に傾きつつあった
皇統は︑穏子所生の寛明︵朱雀︶の立太子︑さらに即位により叔父の
忠平流に栄華の道を開いたのである︒﹁いみじきをりふしにむまれを
はしましたりし﹂とは︑その謂であろう︒
しかし︑この穏子の朱雀鍾愛説話は︑その前後を将門の乱への祈願
として朱雀院の治世中に石清水八幡の臨時祭が始まったとする記事に
挟まれる不可解な構成をなしている︒また︑道真の霊に対する穏子の
極度の怖れと朱雀庇護の異常な行動の記述に続く︑﹁天暦のみかど﹂
︵村上︶への冷淡とも言える穏子の処遇はいかなることを意味するの
であろうか︒
この疑問について考察するために︑年譜による確認を行っておきた
い︒・延喜三年︵九〇三︶一月二十日 保明親王出生︑醍醐皇子︑母穏子︒
同年 二月二十五日 道真死去︑五十九歳︒
・延喜四年︵九〇四︶二月十日 保明立太子 二歳︒
・延喜九年︵九〇九︶四月四日 左大臣時平薨去︑三十九歳︒
・延喜二十三年︵九二三︶三月二十一日 皇太子保明薨去︑二十一歳︒
・延長元年︵同年︶ 四月二十日 道真を本官右大臣に復し︑兼ねて
年年 同同
同年
・延長三年
同年
・延長四年 ︵九二五︶
︵九二六︶
・延長八年︵九三〇︶
同年
同年
穏子の朱雀鍾愛説話を右の年譜に重ねて見る時︑
穏子の極度な畏怖と朱雀庇護との関係に注意しておく必要がある︒
保明太子の薨去により︑慶頼王が延長三年四月に皇太子に立ち︑穏
子所生の寛明親王︵朱雀︶はその三ヶ月後に誕生している︒次いで︑
二年二ヶ月後の延長三年六月に慶頼王は五歳で薨去され︑同年十月︑
寛明︵朱雀︶は慶頼王と同じく三歳で皇太子に立っている︒このこと
を説話に徴してみれば︑穏子が格子も上げずに昼夜寛明︵朱雀︶と弘
徽殿に籠もった﹁三年﹂間は︑まさしく慶頼王の太子時代に相当する︒
従って︑この三年間に慶頼王の夭折は予想されていなかったことにな 正二位を贈り︑昌泰四年正月二十五 日の詔書を破棄︒四月二十六日 穏子中宮立后︒四月二十九日 慶頼王︵保明息︑時平女腹︶立 太子︑三歳︒七月二十四日 寛明親王︵朱雀︶出生︑醍醐皇 子︑母穏子︒六月十九日 皇太子慶頼王苗屍去︑五歳︒十月二十九日 寛明︵朱雀︶立太子︑三歳︒六月二日 成明親王︵村上︶出生︑醍醐皇子︑ 母穏子︒六月二十六日 宮中に落雷︒大納言藤原清貫︑ 右兵衛佐美努忠包即死︒右中弁平希 世︑紀蔭連︑安曇宗仁ら大火傷︒醍 醐帝衝撃により病臥︒七月十五日︑ 醍醐帝咳病︒九月二十二日 醍醐帝︑寛明︵朱雀︶に譲位︒ 二十九日︑醍醐崩御︒十一月二十一日 朱雀帝即位︑八歳︒ 道真の霊に寄せる
︵三︶
︵四︶
勝倉壽一1『大鏡』における朱雀院の処遇 47
るのであり︑穏子の恐怖は時平女所生の慶頼王の死によるものではな
く︑もっぱら自らの所生である保明の急死への衝撃と︑その災厄が寛
明︵朱雀︶に及ぶことへの怖れであったことになる︒
﹃日本紀略﹄によれば︑保明太子の薨去時︑これを道真霊の祟りで
あるとする噂が出たが︑保明は醍醐帝の皇子で穏子の所生であり︑時
平流ではない︒一方︑慶頼王は時平女︵保明女御仁善子︶の所生であ
り︑時平流として道真霊の祟りを受けることはあり得る︒即ち︑第二
巻﹁左大臣時平﹂伝には時平︑時平女︵仁善子︶︑その所生の孫宮慶
頼王︑時平の一男保忠︑三男敦忠らの死因として﹁皆光余・四十にす
ぎ給はず︒其故は︑たの事にあらず︑この北野の御なげきになんある
べき︒﹂とあり︑讒言による道真左遷という時平の﹁あさましき悪事﹂
のために時平の子商は絶えたと記される︒当然のことながら︑時平流
ではない保明は時平の子商の早世記事には登場しない︒従って︑保明
の死が道真霊の祟りであるとする世上の噂に穏子が極度に怯えたとす
れば︑その理由は他ならぬ醍醐帝の系統に属することによる︒
延喜二十三年三月の保明の死を道真霊の祟りとして衝撃を受けた醍
醐帝は︑穏子の立后︑孫宮慶頼王の立太子に先立って︑四月十一日︑
まず道真霊や水禍︑疫疾を撰うために﹁延長﹂に改元するとともに︑
二十日には道真を本官右大臣に復し︑兼ねて正二位を贈り︑昌泰四年
正月二十五日の詔書を破棄している︒醍醐の中宮である穏子が我が子
保明の死を道真霊の祟りとする噂に怯え︑同年出生の寛明︵朱雀︶の
身に祟りが及ぶことを極度に怖れたことは想像に難くない︒慶頼王の
死から寛明︵朱雀︶の立太子に四ヶ月を要したことも︑穏子の畏怖の
強さを物語るのであろう︒
延長八年六月︑醍醐帝は宮中への落雷による大納言藤原清貫らの死
傷に激しい衝撃を受けて病臥︑咳病を発して︑九月二十二日には寛明
︵朱雀︶に譲位するとともに︑二十九日には崩御するに至る︒我が子
保明の死︑孫の慶頼王の夭折︑宮中への落雷による惨禍︑さらに醍醐 帝の道真恐怖と崩御に接した穏子の道真霊の祟りへの恐怖は︑八歳で即位した朱雀の胸中に決定的に刻印されたはずである︒即ち︑朱雀は幼時のみならず︑その即位後も父醍醐帝︑母后穏子の道真霊への畏怖を全身で受けとめなければならない運命を負わされていたのである︒ 一方︑穏子が﹁天暦のみかど︵村上︶は︑いとさもまもりたてまつらせ給はず︒﹂とあるのは︑藤原氏繁栄の掌中の玉とも言うべき寛明
︵朱雀︶の立太子により︑その身辺守護に余念のない穏子に成明︵村
上︶への祟りの波及を思量する心の余裕がなかったことを示している︒
醍醐の血筋であれば︑保明・寛明︵朱雀︶に等しく成明︵村上︶も道
真霊の祟りに晒されるはずであるが︑穏子があまり成明防御の手だて
を講じなかったのは︑皇太子寛明︵朱雀︶の守りに心身ともに忙殺さ
れていたからであろう︒即ち︑出生当時は︑成明︵村上︶は母后穏子︑
叔父の忠平にとって期待されない皇子であったことになる︒そのこと
は︑成明︵村上︶の立太子が朱雀の即位から十四年後の天慶七年︵九
四四︶︑成明十九歳の時にようやく実現したことからも窺われる︒
ところで︑穏子の朱雀鍾愛説話は︑石清水八幡の臨時祭の起源と平
将門の乱平定の御願によるとする記載の間に位置する不可解な構成を
なしている︒石清水臨時の祭と道真の御霊︑および朱雀帝の誕生の関
係については︑﹃将門記﹄﹃道賢上人冥途記﹄等の考察により︑当時︑
将門の乱に道真の怨霊が関与していたと信じられていたことを解明さ
れた加藤静子氏の所論が備わる︒
いま︑承平・天慶の乱を年譜により確認しておくと︑次のようにな
る︒
・承平元年︵九三一︶ 平将門︑叔父良兼と争う︒
● ● ■ ●
天天承承 慶慶平平 二元七五 年年年年
ハ ハ
九九九九 九八七五
) ) ) )将門︑伯父国香を殺害︒
将門上京︒
将門︑平貞盛を破る︒
武蔵介源経基︑将門の謀叛を奏上︒将門叛し︑
自ら新皇と称す︒藤原純友叛す︒
・天慶三年︵九四〇︶ 平貞盛︑藤原秀郷ら将門を誅す︒
・天慶四年︵九四一︶ 小野好古ら藤原純友を破る︒橘遠保︑純友を
誅す︒
これを朱雀の治世に重ねて見れば︑承平・天慶の乱は朱雀即位の翌
年︑即ち朱雀の九歳から︑十九歳までの時期に相当する︒
朱雀の治世において︑経済的な行き詰まり︑疫病︑天災︑出羽の国
の俘囚の乱とともに︑承平・天慶の乱が朝廷に激しい動揺を与えたこ
とは︑﹃日本紀略﹄安和二年三月二十五日の条に安和の変を記して﹁禁
中騒動︒殆如■天慶之大乱︒﹂︑乱の顛末を詳述した﹃扶桑略記﹄に﹁愛
天下騒動︒古今無双︒﹂︵天慶二年十二月十五日条︶とあることからも
窺われる︒その大乱が道真霊の跳梁によるとする噂に畏怖する朱雀に︑
将門の乱のただ中︑承平六年七月には大納言・右大将藤原保忠︵時平
一男︶の死︑乱後の天慶六年三月には権中納言藤原敦忠︵時平三男︶
の死が追い打ちをかける︒さらに︑翌七年四月には弟成明︵村上︶の
立太子︑八年十二月には時平女仁善子︵保明女御︶の死という衝撃が
朱雀を襲う︒道真霊への畏怖と︑成明立太子という廟堂の動きに心身
ともに疲労しきった朱雀の天慶九年四月の退位は必然であったと言っ
てよい︒
三 朱雀院下ろし
﹁昔物語﹂には穏子の朱雀鍾愛説話からやや離れて︑朱雀院の退位
に関わる次のような説話が語られている︒
さて又︑朱雀院も優におはしますとこそはいはれさせ給ひしかど
も︑将門が乱などいできて︑おそれすごさせをはしまし墨ほどに︑
やがてかはらせ給にしぞかし︒そのほどのことこそ︑いとあやし だモ う侍りけれ︒母きさきの御もとに行幸せさせ給へりしを︑﹁か墨
る御ありさまの思やうにめでたくうれしきこと﹂など奏せさせ給 て︑﹁いまは東宮ぞかくてみきこえまほしき﹂と申させ給けるを︑ ﹁こxろもとなくいそぎおぼしめしけることにこそありけれ﹂と なヂ て︑ほどもなくゆづりきこえさせ給けるに︑きさいのみやは︑ ﹁さもおもひても申さ父りしことを︒たどゆくすゑのことをこそ おもひしか﹂とて︑いみじうなげかせ給ひけり︒さて︑おりさせ ゑぎ チ 給てのち︑人々のなげきけるを御らむじて︑院よりきさいのみや にきこえさせ給へりし︑くにゆづりの日︑ ひのひかりいでそふけふのしぐる墨は︑いづれのかたのやま べなるらん﹂︒ ヂ きさいのみやの御かへし︑ しらくものおりるるかたやしぐるらん︑おなじみやまのゆか りながらに﹂ れま などぞきこえ侍りし︒院は数月綾綺殿にこそおはしましxか︒の ちはすこし悔おぼしめすことありて︑位にかへりつかせ給べき御 いのりなどせさせ給けりとあるは︑まことにや︒御心いとなまめ ピヨヂ かしうもおはしましx︒御こxちをもくならせ給て︑太皇大后宮 のをさなくおはしますをみたてまつらせ給て︑いみじうしほたれ おはしましけり︒ をお ダ ぜ くれたけのわがよはことになりぬとも︑ねはたえせずぞなを なかるべき﹂︒ まことにこそかなしくあはれにうけ給はりしか︒ 従来︑この朱雀院の退位説話については︑朱雀の優柔さを示す事実として︑また復位願望の無定見への﹃大鏡﹄作者の批判を語るものと ヨいして理解されてきた︒しかし︑この説話は母后の言葉を誤解した朱雀院の軽率な行為を語ったものと解するべきであろうか︒朱雀院の退位に関わって︑語り手は﹁そのほどのことこそ︑いとあやしう侍りけれ︒﹂と語っている︒その懐疑は朱雀院の誤解の指摘のみならず︑朱
雀の退位に関わる複雑な政治的背景の存在を暗示するものではなかっ
︵五︶
︵六︶
勝倉壽一:『大鏡』における朱雀院の処遇 45
たか︒ 保坂氏は穏子の言葉﹁いまは﹂が﹁﹃もうこれまで﹄といった悲観
的な意味に用いられる﹂ことから︑﹁あるいは母后のこのような語気
が朱雀院を圧迫したものか︒﹂と捉え︑朱雀退位の政治的背景を次の
ように推測している︒
さきに︑八幡社臨時祭の縁起に因んで︑世次に朱雀院のことを語
らせた作者は︑数段を経ずして︑今度は重木にふたたび朱雀院の
ご譲位の事情を語らせている︒一方は﹁朱雀院むまれをはしまさ
ずは︑藤氏の御さかへいとかくしも侍らざらまし︒﹂という讃美
︑ ︑
た朱雀帝の心を悩ませ続けた道真霊の祟りと将門の乱︑
もなく母后のもとへの朝覲行幸の折の母の一言が心弱い朱雀を追い詰
める︒この譲位説話は︑母后穏子による朱雀への譲位勧告を語るもの
と解するのが自然ではなかろうか︒
朱雀退位の背景について︑つとに藤木邦彦氏は︑
母后のことであるから︑皇位継承については特にその意向が強い
影響力をもったことが考えられる︒朱雀天皇から村上天皇への譲
位は全く穏子の言葉に出たものであったようである︒ を含んだ明るい話題であり 一方は﹁そのほどのことこそ︑﹂とあやしう侍りけれ︒﹂という懐疑を含んだ暗い話題である︒この 対比は偶然であろうか︒いままで数々の昔話を語り聞かされてき たわれわれの観照意識は︑そこに一つの意味を読まないわけには いかない︒穏子のことばに象徴される藤原北家の力が︑まさにそ の意味である︒われわれは︑母后穏子のことばに対する朱雀院の
受け取り方とその行動をそのまま信ずるより先に︑このご譲位の
裏に︑やはり藤原北家からのなんらかの圧力が存したことを考え
ないではいられない︒﹃大鏡﹄の作者の筆力は︑その隠微なもの ニむ を読者に感じさせるのではなかろうか︒
この秘話を前掲の朱雀院鍾愛説話に重ねてみれば︑﹁優におはし﹂
その終息後ま と推定し︑﹃大鏡﹄の記事についても﹁穏子はその意外な結果を後悔したとしているが﹂﹁むしろその本心から出たものであった︒﹂と説い ヨユている︒保坂氏の推測された朱雀譲位の裏にある﹁藤原北家からのなんらかの圧力﹂︑藤木氏が説かれる穏子の﹁本心﹂の内実については検証しておかなければなるまい︒ ﹃公卿補任﹄によれば︑延喜四年二月︑穏子所生の保明が二歳で皇太子に立ち︑同八年︑時平政権において参議の忠平は春宮大夫を兼任した︒翌九年四月︑左大臣時平の死により忠平は権中納言︑延喜十四年には右大臣に昇り︑同十八年には忠平女貴子が東宮妃となった︒しかし︑貴子に皇子誕生はなく︑延喜二十三年︵延長元︶の保明薨去にともない時平女所生の慶頼王が立坊︑外舅にあたる中納言保忠︵時平 ハもこ一男︶が春宮大夫に任ぜられた︒皇統は時平流に定まるかに見えたが︑
延長三年の慶頼王の夭折により穏子所生の寛明︵朱雀︶が立坊し︑左
大臣の忠平は東宮の外舅として春宮傅に就き︑忠平政権が確立する︒
﹃尊卑分脈﹄によれば︑忠平には貴子の他に二女があったが︑一人
は醍醐皇子式部宮重明親王の北の方︑もう一人は信濃守師房の室にな
っており︑朱雀の後宮に入れるべき女子を持たなかった︒朱雀後宮に
は承平七年に時平女所生の熈子女王︵保明女︶が入内しており︑忠平
流は天慶四年七月に↓男実頼女慶子︵時平女所生︶が入内した︒角田
文衛氏は忠平の傀儡とならず︑時平流への配慮から朱雀の御息所の選
定にあたった穏子の意向に﹁忠平も不満の意を表することができなか はヨつたであろう︒﹂と説いている︒しかし︑朱雀は後嗣の皇子に恵まれ
なかった︒一方︑忠平の二男師輔は天慶三年︑成明︵村上︶に女安子
を入内させており︑実頼も同八年︑東宮成明に女述子を入内させてい
る︒ 今日︑天慶七年の成明︵村上︶の立太子︑同九年の朱雀帝譲位の事
情は明らかではない︒しかし︑朱雀院は即位後十四年を経ても後嗣皇
子の誕生がなく︑他方︑忠平流は成明︵村上︶の後宮に女を配してそ
の立坊の機会を窺い︑天慶七年四月︑成明︵村上︶の立太子が実現し
た︒春宮大夫は大納言の師輔が兼ねており︑天慶九年の時点における ロユ村上即位の外的条件は整いつつあったと言ってよい︒
その外的条件について考えるとき︑さらに︑朱雀の退位説話が退位
後の朱雀の復位願望を記していることに注目しておく必要がある︒
朱雀院の復位の意向は︑﹃保元物語﹄下﹁新院讃州に御遷幸の事﹂
に︑ 朱雀院は母后の勧によって︑天暦の御門に位を譲りたてまつらせ
給ひしが︑御後悔有て︑伊勢へ公卿を勅使に立てられしかども︑
終叶はせましまさず︒
とある︒いま︑﹃保元物語﹄の記載の典拠は詳かにしえないが︑この
物語の成立当時︑右のような伝承が存在したこと︑及び﹃大鏡﹄の作
者がその伝承に基づいて朱雀院の復位願望の記載をなしたことは想定
されよう︒
また︑内大臣藤原忠親の日記﹃山塊記﹄永暦元年︵一一六〇︶十二
月四日の条に︑
朱雀院幸太后之時︑令奉問思食置事御︑太后被仰云︑不見宮在位
之時事遺恨也者︑朱雀院為叶彼御意趣忽遜位︑村上践祚︑働天暦
御時為先院宣︑参内人先可参院之由被宣下︑依母后≡易心有即位
事︑依難令謝彼恩給︑難無例有忌月云々︑⁝⁝
皇后宮権大夫源師時の日記﹃長秋記﹄保延元年︵一二一一五︶六月七日
の条に︑ 民部卿談云︑朱雀院禅位後︑又還入内裏︑與帝共可行除目叙位之
由有議︑依是又称有琿之由︑不奉入云々︑⁝⁝
とあり︑村上の即位を期待する母后穏子の言に従った朱雀院が参内人
に対し先に朱雀院に参院すべしとする院宣を下し︑村上帝とともに除 ハロリ目叙位を行うなど︑村上治世に関与したことが記されている︒これら
の記載は︑保元・平治の乱後の混乱した朝廷における先例準拠の記述 中に見られるものであるが︑﹃山塊記﹄に記された朱雀に対する穏子の退位勧告の典拠となった史料の存在は詳かではない︒ しかし︑朱雀院が院宣をもってしばしば政務に関与した事実は︑母后穏子の譲位要請への不満の表出と︑政務への強い意欲が存在したことを窺わせる︒﹃大鏡﹄﹃保元物語﹄における朱雀の復位願望の記事は︑この譲位への不満と︑親政への意欲︑及び退位後の院宣による政務関与の事実を基盤として成立したものであろう︒ 一方︑この政務関与の事実を︑朱雀に対する穏子の退位勧告に重ねて見れば︑在位十六年に及び︑青年期に達した朱雀が外戚である忠平の廟堂運営に関与し︑譲位を余儀なくされたことも想定しうる︒即ち︑在位十四年を経て後嗣の皇子を持たない朱雀に危惧の念を抱いた忠平流が穏子に迫って成明︵村上︶の立太子をはかり︑政務に関与する朱雀の退位について穏子の決断を求めたことになる︒ ﹁昔物語﹂の朱雀の退位説話における母后穏子の涙は︑自らの譲位要請に敏感に反応し︑﹁朱雀下ろし﹂を求める政治的背景を察知して従順に位を下りた愛息朱雀への愛惜の涙であったと言ってよい︒朱雀の退位説話が﹁そのほどのことこそ︑いとあやしう侍りけれ︒﹂という語り手の懐疑を含む言葉から語られ︑後嗣皇子を持たず︑血筋の継承を幼い昌子に託す朱雀院の臨終の悲話に﹁まことにこそかなしくあはれにうけ給はりしか︒﹂という語り手の感想をもって閉じられていることも︑その複雑な政治的背景を暗示している︒
四 ﹁昔物語﹂所収二説話の位相
﹃大鏡﹄が序・帝紀・大臣列伝に続いて﹁藤氏物語﹂﹁昔物語﹂を含
む五部構成を取っていることについて︑保坂氏は﹃大鏡﹄の初発の構
想は帝紀と列伝の二本立てであったが︑列伝を書き進める過程で﹁藤
氏物語﹂が発想され︑改めて︑帝紀の説話の乏しさに思い至った作者
は﹁︿昔物語﹀を設定して︑︿藤氏物語Vに対置させ︑︿藤氏物語V
︵七︶
︵八︶
勝倉壽一:r大鏡』における朱雀院の処遇 43
には藤氏のことを︑︿昔物語Vには皇室のことを語らせるという構 コは 想﹂が立てられたと説いている︒この保坂氏の所説を承けて︑その後 テほり ワめ ﹁藤氏物語﹂﹁昔物語﹂の成立過程論︑両物語の別作者説が提起される
ことになった︒
いま︑この成立過程論︑別作者説はしばらく措いて︑先に提起した
問題︑即ち﹁朱雀院紀﹂が無味乾燥な年譜的記事にとどまり︑﹁村上
天皇紀﹂が村上帝の年譜的記事とは直接の関わりを持たない穏子・保
明・朱雀院・大輔関係の記事が量的に約七割を占めるという構成・内
容の不統一性を露呈していること︑及び﹁昔物語﹂に母后穏子の朱雀
鍾愛説話と朱雀の退位説話が配された事情について考察したい︒
まず︑﹁昔物語﹂に収められた説話の配列と年代との関係について ヘロ は︑安西迫夫氏の詳しい調査が備わる︒それによれば︑﹁昔物語﹂の
前半部は光孝︵二話︶・宇多︵二話︶・醍醐︵八話︶・朱雀︵二話︶・
村上︵三話︶と歴代順に配列されており︑﹁作者は説話を一聖代ごと
にまとめ︑それを時代・ことに配列しようとする意図をもっていた﹂と
推定されるという︒そのうち︑朱雀院関係の二説話については︑朱雀
の退位説話は醍醐と村上の間に置かれて時代.ことの配列に従っている
が︑穏子の朱雀鍾愛説話は宇多帝関係の二説話の間に割って入る形で
置かれている︒安西氏の表示の一部を借用すれば︑次のようになる︒
・式部卿宮と賀茂明神の対話⁝⁝・⁝−⁝元慶六︵八八二︶⁝⁝光孝
・賀茂臨時祭の起源⁝⁝⁝⁝・⁝⁝・⁝⁝⁝寛平元︵八八九︶⁝⁝宇多
・八幡臨時祭の起源︵穏子の朱雀鍾愛説話︶⁝天慶五︵九四二︶⁝
朱雀
・宇多帝譲位と伊勢の歌⁝⁝⁝⁝⁝・⁝寛平九︵八九七︶⁝⁝宇多
前半部を構成する十六話が帝の歴代・時代順に整然とした配列をな
している中に︑穏子の朱雀鍾愛説話のみが配列を乱していることが分
かる︒この配列順序の不整合について︑安西氏は直前の説話が賀茂臨
時祭の起源を語っていることから︑関連説話を並置するという方針が 存在したと解している︒氏の所説のように︑賀茂明神−賀茂臨時祭一八幡臨時祭と続く説話の類似性・関連性が配列順に影響を与えたことは否定しえない︒ しかし︑この朱雀院関係の説話は︑道真霊の祟りを畏怖する母后穏子の朱雀への異常な鍾愛を語るものであり︑道真霊の跳梁による将門の乱への祈願として八幡臨時祭の起源を語るという構成をなしている︒道真霊の祟りは醍醐帝を朱雀への譲位・崩御に至らしめ︑道真霊の支配する将門の乱は朱雀の治世を震撼せしめるとともに譲位へと追い詰める︒そう考えてみれば︑朱雀関係の二説話は連続するものとして年代順に醍醐と村上の間に配列されるのが相応しい︒﹃大鏡﹄の作者が歴代・年代順の配列を乱して穏子の朱雀鍾愛説話を現存の形に配したについては︑別角度からの検討が必要になる︒ 既述したように︑この説話中には﹁朱雀院むまれをはしまさずば︑藤氏の御さかへ︑いとかくしも侍らざらまし︒﹂という一文が存在する︒この一文の﹃大鏡﹄における意義について︑加納重文氏は﹁藤原氏興隆の歴史と︑望ましい政治の歴史とを︑作者は厳密に区別して考え ぼ ているのである︒﹂と解し︑福長進氏は﹁天皇紀・大臣列伝には見ら のりれなかった摂関時代史に対する別角度からの捉え方がなされている︒﹂と説いている︒しかし︑両氏ともに論の主旨との関係で︑この一文と﹁朱雀院紀﹂及び朱雀院関係説話との関わりには言及されていない︒ 一方︑朱雀の退位説話には︑﹁優におはし﹂た朱雀帝の突然の退位に寄せる語り手の﹁そのほどのことこそ︑いとあやしう侍りけれ︒﹂という懐疑の言葉が置かれ︑朱雀院と母后穏子の和歌の贈答︑及び幼い昌子内親王に寄せる朱雀院の愛惜の歌が配されている︒この﹁朱雀院も優におはします︒﹂という語り手の評価と︑君徳の一つである和歌説話が朱雀の退位時と︑その死の前に据えられていることについて︑菊地真氏は﹁天皇の側に君徳のあることが︑君臣の道徳的秩序の基本
であり︑この点で朱雀天皇は道徳秩序を尊重する時代の君主の条件を
備えていを︒﹂と説いている︒
また︑﹁昔物語﹂で穏子の朱雀鍾愛説話を語る世次の翁に対して︑
夏山重木は﹁寛平︵宇多︶・延喜︵醍醐︶などの御譲位のほどのこと
などは︑いとかしこくわすれずおぼえ侍るをや︒﹂と語り︑﹁藤氏物
語﹂末尾に﹁朱雀院・村上などのうちつゴきむまれおはしましxは︑
又いかゴ﹂という翁の言葉に︑語り手は﹁あまりにおそろしくぞ︒﹂
と感想を記している︒即ち︑朱雀・村上の出生時から醍醐の退位など
の事情は︑翁︑重木にはきわめて鮮明な記憶として残っていたことに
なる︒にもかかわらず︑重木は朱雀の退位事情については﹁そのほど
のことこそ︑いとあやし﹂という強い疑念を込めた語りを展開してい
るのである︒
右のような論説と﹃大鏡﹄の記載を踏まえるならば︑藤原氏興隆の
ための功績者であり︑君徳を備え︑母后穏子の鍾愛を受けた朱雀院は︑
自らの意志ではなく︑当時の政治力学のために退位へ追い込まれ︑か
つ︑﹃大鏡﹄はその事情記載に朧化表現を必要としたことが窺われる︒
﹃大鏡﹄の作者がその捉えた摂関政治史の展開を語るにあたり︑皇
位継承史における﹁正統﹂と︑藤原氏の﹁正系﹂を強く意識していた
ことは疑いえないであろう︒福田景道氏は︑﹁正統﹂天皇の﹁紀﹂に
﹁母后﹂︵国母︶の存在感が集中され︑その結果﹁正統﹂と外家との連
結の強さ︑後見の強さが顕在化し︑﹁正系﹂藤原氏との血縁の締結が
﹁正統﹂の要件をなすことを説いている︒一族から東宮や母后を出す
ことが﹃大鏡﹄に追求された栄華の根本的な要因であるとするこの摂
関政治史観を母后穏子の扱いについて見れば︑母后記載を備えた村上
の﹁紀﹂が村上の﹁正統﹂性を一証するとともに︑母后穏子の外家をな
す基経︑朱雀・村上の外舅である忠平流の﹁正系﹂性を確定させるこ
とになる︒
一方︑摂関政治史における母后の位置の重さを視点とするならば︑
﹃大鏡﹄に記載された十二名の母后のうち︑安子︑詮子とともに強い 影響力を有した穏子の扱いは︑安子︑詮子が列伝中に相応の位置を占めるのに比して︑著しく均衡を欠くものと言わねばならない︒そのことは︑﹃大鏡﹄の作者にとって︑その摂関政治史観を展開するうえにおける穏子の存在意義が︑朱雀への鍾愛と朱雀譲位の不可解さを語ることが必要であり︑かつそれで十分条件をなしていたことを意味するのであろう︒ 安子︑詮子の例に倣えば︑忠平政権における穏子の存在意義を語る場には﹁基経伝﹂﹁忠平伝﹂が相応しい︒しかし︑﹁基経伝﹂は﹁此おとビ︵昭宣公︶の御女︑だいごの御時の后︵穏子︶︑朱雀院井村上の御母后におはします︒﹂という無味乾燥な系譜記事にとどまり︑﹁忠平伝﹂には登場しない︒即ち︑摂関政治史における穏子の位置を語ることは︑時平の遺児の優遇︑醍醐の遺詔の遅延問題など︑忠平との齟齬︑忠平の廟堂運営への穏子の介入を語ることに繋が昏︒ 穏子の忠平政権への関与︑朱雀退位問題の忠平への波及を避けるとすれば︑いきおい﹁朱雀院紀﹂は無味乾燥な年譜的記事に止まらざるをえない︒一方︑村上の﹁紀﹂に保明への哀傷説話が配された不可解さは︑保明への哀傷歌にまつわる説話が村上の﹁紀﹂と﹁時平伝﹂に分断された形をなしていることから見れば︑皇統の﹁正統﹂をなす村上の﹁紀﹂に母后関係記事を加えるための形式的整合性を整えるという要請に従ったためであると考えられるのである︒ ︵平成一四年四月一C日受理︶︹注︺
︵1︶
︵2︶ ﹃大鏡﹄の本文の引用は日本古典文学大系﹃大鏡﹄に所収の東松本に拠る︒また︑古活字本系については根本敬三編﹃対校大鏡﹄︵昭和五九年︑笠間書院︶に拠った︒
新編日本古典文学全集﹃大鏡﹄︵橘健二・加藤静子校注︑平
成八年︑小学館︶三八頁頭注︒
︵九︶
勝倉壽一一:『た鏡』における朱雀院の処遇 41
54 3
) ) )
︵6︶
︵7︶︵8︶
︵9︶
︵10︶︵口︶ 保坂弘司著﹃大鏡全評釈・上﹄︵昭和五四年︑学燈社︶一〇八頁︒ 保坂弘司氏︵3︶の著書︑︑一六頁︒ 加藤静子﹁﹃大鏡﹄における歴史語り二−天神信仰と時平伝1﹂︵﹁相模女子大学紀要﹂五二集︑平成元年三月︶︒ 河北騰﹁大鏡の批判性についての一考察﹂︵﹁平安文学研究﹂第四四輯︑昭和四五年六月︶︒﹃歴史物語の世界﹄︵昭和五七年︑明治書院︶所収︒ 保坂弘司著﹃大鏡全評釈・下﹄︵昭和五四年︑学燈社︶四八○・四八二頁︒ 藤木邦彦﹁藤原穏子とその時代﹂︵﹁東京大学教養学部人文科学科紀要﹂一.一三輯︑昭和三九年七月︶︑﹃平安王朝の政治と制度﹄
︵平成三年︑吉川弘文館︶所収︒なお︑福田景道氏は﹁﹃大鏡﹄
の構想と皇位継承過程1﹁正統﹂の確定と顕在化1﹂︵﹁島大国
文﹂一七号︑昭和六三年一一月︶で︑﹃大鏡﹄における母后重
視の具体例として︑﹁天皇の決定を覆した安子中宮︵﹁師輔伝﹂︶
と﹁天皇に譲位を促した穏子皇太后︵﹁昔物語﹂︶﹂を挙げてい
る︒ 森田悌﹁藤原忠平政権の動向﹂︵﹃古代史論叢・下巻﹄昭和五
三年︑吉川弘文館︶︒
角田文衛著﹃紫式部とその時代﹄︵昭和四一年︑角川書店︶
﹁太皇太后穏子﹂︒
赤木志津子氏は﹃摂関時代の諸相﹄︵昭和六三年︑近藤出版
社︶において︑
天皇︵注︑朱雀︶は八歳から廿四歳まで位にいて心ならずも
譲位した︒︵略︶早い譲位は︑次に立った同母弟村上天皇の
背後の圧力があったにちがいない︒村上天皇妃安子は︑何人
もの女御の中で第一の女御といわれ︑また兄や弟達が︑安子 ︵12︶︵13︶ ハ ハ ハ
17 16 15 14
︵18︶
︵19︶ハ ハ
21 20
︵22︶ ︵一C︶ の后となる日をまっていて︑それは安子の力強い後楯であっ た︒︵八三頁︶と説いている︒ ︵2︶三八○頁頭注︒校注者は朱雀院の復位願望の記載を﹁風評として語り継がれたものか︒または︑この一文注記の混入か︒﹂と記す︒ 倉本一宏著﹃摂関政治と王朝貴族﹄︵平成一二年︑吉川弘文館︶第一部第一章﹁摂関期の政権構造﹂参照︒ 保坂弘司著﹃大鏡研究序説﹄︵昭和五四年︑講談社︶﹁﹃大鏡﹄の構成上の突然変異﹂︒ 松村博司著﹃栄花物語・大鏡の成立﹄︵昭和五九年︑桜楓社︶三﹁﹃大鏡﹄の成立﹂︒ 森下純昭﹁﹃大鏡﹄巻五・六﹁藤氏物語﹂﹁昔物語﹂の作者をめぐって﹂︵﹁岐阜大学国語国文学﹂一七号︑昭和六∩︶・三︶︒ 安西迫夫﹁大鏡﹃昔物語﹄の構成﹂︵﹁国文学言語と文芸﹂五八号︑昭和四三年五月︶︒ 加納重文﹁﹃大鏡﹄の歴史意識﹂︵山中裕編﹃王朝歴史物語の世界﹄平成三年︑吉川弘文館︶︒ 福長進﹁昔物語の位相﹂︵山中裕編﹃王朝歴史物語の世界﹄所収︶︒ 菊地真﹁﹃大鏡﹄の君臣関係における時代変遷−摂関・大臣と天皇の関係の変質1﹂︵﹁中古文学﹂五八号︑平成八年一一月︶︒ 福田景道氏︵8︶の論文︑同﹁﹃大鏡﹄の編年史的側面1﹃栄花物語﹄の克服と追認1﹂︵﹁島根大学教育学部紀要﹂二二巻二号︑昭和六三年一二月︶︒
藤木邦彦氏︵8︶の論文︑角田文衛氏︵10︶の著書︑黒板伸
夫著﹃摂関時代史論集﹄︵昭和五五年︑吉川弘文館︶﹁藤原忠平
政権に対する一考察﹂など︒
The treatment for the ex−Emperor Suzaku in Okagami
Toshikazu KATSUKURA
contents
1,question of the description for the ex−Emperor Murakami and Suzaku 2,interpretation for the narrative of Suzaku
3,abdication of Suzaku
4,situation of two narrati〜・es in Okagami