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近世の種子島における放牧 - fukushima-u.ac.jp - 福島大学

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(1)

近世の種子島における放牧

初 雄

1.縫

 種子島は九州窮螺大購半鶴の毒方4§粁の海上によこたわる.この島は北詑東から毒麦醤に細 長くのび,長さ6轡粁,緩欝舞楽,嚢綾4葬方粁の小島である.鹿箋島から船で§縛灘の露離に あるが,多少の風波で綴は欠航するから,旅行者は疑程を総額豪ではきめかねるほどで,九州 本島に遍いが離島の一つである.この島には麟治の末年象で艮縫の牧が多数あ甑近量におい       くエう

嘆瀬主の経営にかかわる敏もあって,金離こいたるところで,筆者の藪講r謬撤数」を行

ウていた.この稿は主にi鰯年夏の現地講査をもとに.して,近徴の種子島における遷替数数に ついての擬酪を逮べたものである、

2.種茅島概観

 種子島は大部分熊毛贋とよばれる古第三紀藩からな参,南東鍛の平出・茎永地藝に新第三紀 の茎永屡がでている.島の中央部でそれらは主に.火霧灰蟹の堆穫物からなる洪穫屡で覆われる.

最高、嶽は+三謝挺の三角点282.3米で,一般織濾§倉米内外畷筋交は台地釈の地形を示ナ  詑部・中鶴および露都では多少地形が板違する.増譲・竹之購以銘は解読が進んだ豆陵で,

おお もす む     げんな

大花難から現灘に.かけ斜にのびる低地帯に.よウて二つに分けられているが,それぞれの丘陵頂 には1波釈の趨伏を示す平縫藏を残している.ここでは1東灘霧海舞江段丘が発達するが,東ll岸の それが殊によく原地i彩を残している.いずれも主段丘は龍部で6蝋ばかりの高度をもつがナ薦 に進むにしたがって高慶を増し,総濠に達する.覆岸では主段猛の下に第二段壺がつき,薩之 表の毒街地で鵠米,南方で給米の高さをもウている.

 率部毒ま野離麓近で串が最も狭く,5.5粁にすぎず,高接:も低㌧・台地である.

 屋久津,熊野蕎透を境に.して,その毒方は靴部に次いで高慶も高く串も嵐い.ここは東麟講 鑓で地形が板違し,中央以』癒には長谷野,野大野その飽欝倉から2むG米に.達する台地が鉱潜る.

その護岸には略i倉倉米高凄の主役昼と6G米の第二段豊があ参,ことに牽蟻透くで段丘地形ぶよ

く発達し愈・る.鉄砲伝来紀功鋤騰る門鋳付透の綺漂熱紅の主段丘上にある.これに薄

し東餓象甚だしく侵館が進んだ趨状i倉倉米以下の丘陵で,段丘面の保嘗はよくない.

 この島の中部以外では,近糞以前1こ発生した古載韓1殆んど大籠分海岸叉はその替近の毅堂上 にあり,内陸部の開発は新しい.この内陸藻は大捷分教野として鵜霧され,瞬治,以降懸高歩奄 美大島,桜島などからの入麺考を逢え開藷された.近量の初幾においてはこの島の人爵密凄は

        ゆ       

一方粁当むi4人から玉8入で甚だ低く,耕地率(土地全藏1穣に:冠する耕地嚢穫の養分墨ヒ)も2懇%

にすぎなかウた.鰺轡:紀末には多少人爵も増し,一方粁叢り37人に達したが,欝灘総揚頭には 32人に減ごン北海道半島部のi当鋳の人鶴密度と透徴していた.近毯末明治雑i新石窟雛iでのi癖地

       

率は3%ばか参であるのに,明治i2年にはi2%になりている.透量末においても特に新地率が       くむ

低いのは,表高ばか参について計算したためかも知れない.すなわち後に記達する熱く敬野内

(2)

驚  纏島大学学芸学部譲葉 第鴛弩のi 欝窃一3 第i鐵 種子島の地形と集落

のあらき嬢・せじょうの燐などが高        そのちをうけず,承瞬や騒地とは麟あつか いされていたのではなかろうか.醗 治鴛年の地穏改蕉でそれらも新地の 中に粧えら潟,慈に繋地率が一とワた

よ う董こも見える. 琶嚢牽轟i3年までξこ壽書

    地率は25%に上罪するがその増大は 購治以降の急激な綴搦の進行にもと づくものである.

3、種畢島の牧

 種子島の敦には表方御教・塩墨敦・

小牧・議牧などがあウた.表方簿牧 は単に御牧とも鱈び,領主である種 子島蒙直営の牧である.塩渥教は塩 撰部落の経営にかかわり,小数は一 般の部落の共講経営にかかわる牧で,

霞牧は編入の牧である.

       まぎぼむ  いづれも教の纈翼には「徴塚雌と 呼、騨土塁をめぐらし,…器ではその 上に編綴を伜って,数数発馬の逸疑義 を紡いだ.牧の窟わ警に堀を撰む,

その欝土を外麟に積み,一重の土塁       むヨぎ

を築いた、牧の灘入醸こはr門3と

禽される木戸を設けた.その木戸の

     くむまかど たれかど  ヨかど

様式によッて車輿,里門.差門など の区疑があウた.車鍔はまわし戸の 木戸で,主な還露に設けられ,里門 は榛木をたれさげた木戸,差門は豪 せ俸を揮うけの柱に:差し込んだ木戸 で,農道や嬢の入織るよくあウた.

  一説勿論   :磁ノー=二《》・ノ」二

 一毒 ノーノ 癖}

肇三、嘱ルε一

■二:

%嚢

       赫       志展.﹄﹃隅一ロ一−丁重恥      韓

  

鳶鐙羅

ウ、Pび⁝藁蓑饗︑〜簗社

霧穿壕

載麗重縁野

梅〜汐汽瀞〆

 手ニボ葬鋭廷1i

響墨

o

1麟

 難極地

暴鰭機丘

荘蝦血 翅3地

 ノ

 (》瞬難題    麟.

ζ    跨

「かど盛やド墓門雄などの地名もあウて,今はない逝去の糠1麺の跡をしのばせる.牧内にある 集落では集落の識入舞にも門があった、

        おろ

 それぞれの教に.は笠がありた.これは野馬を遍い込める「叢り」で,遠い込むのに謬合がよ い懸をみはからウて設けられる.大方は経欝米余の轡形に.土堤をめぐらし,一方に欝をあけ瓢 おいた、その簑にノ聾蓬重たは当才笠と呼ぶ経3:米ばかりの萱を設けてある、これは惑才馬を入 れるの1こ堪いる.これらは薩摩藩顎内各地でみられたのと講様である.

 多くは笠の透く1こ牧糠が縫ってある.穂捧として騒の大木玄たは蘇鉄などを麟羅し,中1こは 隆然石を懐偏したものもある.これらの挿木は残るとたたると振えられている潜,選年では伐 りたものも,牧傭を移してしまりたものもある.綾牧牛爲の繁礒と牧経営者の家内安全を極ワ たというが,今は薮のしげるにまかせ,年に二度のお雛こばか絵入がおとづれる牧緯もある.

 殺牧家蓬は馬が宅であるが,小牧や善教の串には牛を綾すものもあワた.r牛を放す窮合も隼        ぐひ馬の混牧である.この島の馬は本部在来種で今欝の畦礁麟罵の無く丈の低い馬であウた.

(3)

蜜縷;遙1縫の種子轟寿こおける数数 5毒

 表方簿牧の馬は,鑛主の藪有勃であるが,飽の牧では領野の燧人膚で,塩屋鞍や小牧では膏       く 

姓が共罰で敏致していた.教の牛、霧1こは1,牧毎に一定のしるしをつけた.無数で轄1…続印をつけ,

罠翻敬では焼馨豪たは耳じるしをつけた.ここでは麟入の醗有鍵を曙かにする舞鋒轟ま薯幾こ定め なかりた.一牛馬の才議,毛色その難の特徴で,湊麿の医欝が煢然としていたという.生れた豹 綾も親等、馬に.ついているから霧;膏が不覊のものは余命なかウた.時に藪羅不覊の雛綾があれば,

共有として延分された、

 牧の讐二、馬に焼馨をつけるの琶ま「かねやき」「饒羅さし」,葺:じるしを{募るのはF馨つけ」と よび,いづれも、霧追に藤して行ワた.馬追は舞牧では際8鍔,畏驚牧では譲6海下簿,綴麺が 終ウてからそれぞれ行う.輝牧と昆簡牧では馬追に乏もなう行事に多少の麟違があるが,要す       あるに,、馬を萱1こ追い込み声仔は小笠に入れて2才駄1こ露をつけ,2才麟は搭1えた.

 御牧では捕えた牲、霧の5ち喪い、罵を舞的始の餐手に.褒美として授与しか一部の馬は私》下げ た、昆露の牧でも時には舞軍役馬を差鐵すことがありたといわれるけれども,簿軍役、織ま欝頭

と定められていたから,どの敦でも必ず差離す磨要はなかったものと思われる.

 斑聡牧の2才駒は大都分、霧遥峯霧鐘夷に付したから多数の馬喰が集りてきた.

 またこの,霧遠の騒:観をみるため,見勤人が群がむ,それを舞あてに商人も誌をだすなど歩、馬        まきまつう

追蟻醸ま大いににぎわりた.疑聡教の場合は軟禁と称し,醤落の人達が総鐵で酒餐を持ちよ肇 盛大な擾宴をもようした、

4.牛馬の欝要と放牧

 御牧も戻聡徴もともに隼馬の飼育,繁殖を一つの霞的としていたことは疑いない.藤子島家        ぼむでは,御籤1という役蘇を設け,畜産の行政をつかさどらせ,殊に、鴇の繁殖に努めていた.次の 諄藤が1示す如く籏昆が牝馬を領主に藏上し,;永代郷士1こと警たてられたなどのことからみても,

この地で、馬漢重要視されていたことがうかがわれる.

      むまヌ    文亀十年八葺二十九韓 安城替足軽醸文七之霧,以藪牝羅8獲 為続々郷士       ぐ き

   難+畔往謝醤難鰯牝翫欝勧叙羅となる.

 塩堅牧の翻設も一つ1こ慮1軍羅馬の確傑をねらりていたとみるものもある.軍馬もさることな がら農疑に.とウても薦は必要であウた.それ被篤の籠が高くなると,黄土購藩と共1こ馬を持た ない農罠も灘りた.

       く     丈鷺十年八月 馬無を定め,三貫…滋買支を以て綴とす.髭薄薄姓馬詩合壁無之繧ては一一資も難威躾  以上の熱く、馬の懸1の上昇をおさえるため,最高懸格を定めたのであるが,そ才媛ま凡金二分に       くぬき

旛当する懸馨で,盛時の震蕩や会津の馬懸に鐘し蓬だしく低議であワた.この最高懸緒設定は 鷹姓の保護をうたりてい嶺ナれども,主に武士の馬購入に優賞をはかワたものであろう、この 幾簿1がどの程度守られたかは題かでないがシ定額以上の嬉で馬を買ワて麺舗されたものもある.

       く き    天保置年老爆八嚢 鞍賞舞浜津臨講ノ孫君徳門 納科銭二〇〇文 整逡定騒蟹霧笛  この事実は,霧の需要が大きかりたことを示している.

 Ei綾蟹ま駿艶の生塵や物み運搬に.馬を蟹得したが,殊に承鐵の縫代を作るのに掘鍵代(縁いと う〉をやるため多くの、馨が必要でありた.

     鰹  上  覚    導出聾 東海ぎ撃       薦立燐之痛き撃       霧傘之渡壁之撰ぎ鯵       詑深濃瀬之携き舞

       る  む  ロ

   震之場所安義解舞・欝欝鐵二郷発鞍{翠世変奉顯鑑 導替之儀慧邊学年馬轟轟撰驚氏仕種子廷鍾串鋲 然ハ錘    季ヂ隼馬を{撫1襟江替蛎・・種子時分後に罷銭 迷惑二欝1葺事蘇}(])御薩躾甦 窟之場湊御嬢地二御免緩鐸付    鞍=1く継ハ穿替傘入擁隼馬趨聚散置串繰講 陶キ孝叢む次第二轟趣諮残髄:毒麦牢諮躾 舞文

(4)

52  福島大学学芸学部講薬 第捻暑のi 鱒撹一3

右之場霧髭舞鶴○○窺牧鐸賑え方も稗趨鶴雛 其ノ時分よ撃惣暢二爾支宰鉄敷 讃交差畿不幸躾 褻 畷キ聾二罷域其上赫々御髪露雄巌欝・薄靄無勢罷減不嚇叢工猛諜堅麟之懸各護播韓再欝座談依 之奉講嫉右次第之儀二轡塵毅 蕗壕御発分の上聴本江御慈悲之上輿発破舞営破落度奉訴鉄条鍵等之趣舞頭 上穂申幾憲頚上鉄    以上

 駕選手豊海       妄雛重症髭

       藁野藤†郎

御 饒 方      (外5入連署)

  書 鞠 壱 遜       安城替役 者

  麟姻蹴紋簿御離縷織騎二て礁雛瞬僻灘罐難解て婦礁藪擬

  分にも御産蟹象第二奉灘露猛鉄    以上

   豊襲薙七舞       岩擁 深之丞 臨       くむき

  御取次乗率

 これは醤之表毒安城の平出1こ箋する交書である、踏代はゼほいとう」とよませ,政教ヰ馬を 露に追い込んで,縫代を踏むことをいう.その縫いとうに放踏の文字をあてた人もある.卑の 場合は牛ほいとう,罵の場合は馬ほいとうであるが,牛ほいとうは後者よ参よかワたともいわ れる.人力重たは隼耕で薪起した蜀に隼馬を入れふませて酔止するの溺麟代である、

 この島の承蟹は多くはぜむた」とよばれる灘鐙で,そこでは無いとうは代掻の投資ををまたす.

「むた」でない場合は,踏代によって地がためをしないと,水がもって麗りたとい凱そのため 麟代をやらぬと燐になるともいわれた.毎年春,牧から3{}頭乃至総頭の牛馬を遵いだし,承を はりた露を踏霞せる.牛馬の掻いに習熟した入が「はなひき雄の隼馬をたくみに追いまわすと,

絶の牛馬は駿まなひき」について瞬を燐み重わる.この踏・代は玄づド主さ豪」といわれる地主の 瞬からはじめ,小作人の瞬におよぶ.認藩中の承欝を二蔭位で鎮みおわウたという.ほいとう が終ると泥まみれの隼馬はその玄憲牧に矯された.隼はその豪重爆えすが馬は洗ワた村もある.

       く き      くま 

欝に入れ母馬の箋のところの泥を洗うのである.常種子では畷治欝年,中種子では縁25年,そ れぞれ馬隷の披講が導入されるまで,踏代が実施されていた.豪たこの縛まで穏作は実播で行 われ,その蟹行は一部で購治韓年代家で残ウた.踏代ととも1ここの島の農業の後進雛を示す.

 この舞上覚1こよると安滅村では麟代をやるのに饒村から隼馬を欝りなければならなかりたの で,濠懇に踏代がでぎなかワた.それ故単機に牧を鰯験することを願いでたのである.この文 書の末尾についた添書に依ると,芦野舞教から遠く離れているとあ甑遍い場合には郷教の馬 も鏑代に季琶罵でぎることを暗示している.{甕の簿教においても領主臨場のもとで踏代をやりた こどもあるというから,御数の、韓を民縫でかりて露代をやワたのであろう、豪たこの記事には 安唆村上之町に近い大峯牧の記載がないから,この欝上書が大筆鞍雛設の寛政蟹蕪にだされた

こと溝知れるぷ,翌年潜どの年・にあたるかは不瞬である.

 塩渥藻i落でも承溝繋蕪を亭ワていたから,塩麗牧の馬を鎮代1こ使賭したことは小数の場合と 懸様である.

 このような必要があワて,この島では多数の罵を飼育していた.近貴解霧では住昆6人にユ

頭の隼馬で,穏馬領内の5人にi頭の麟1こ近かった.すなわち藍保2年(L6蕊〉藤子島の人

  く き      にゆ

貸約6,魯○倉人に薄し牛馬数i,騒唇頭で,この数はその後定数とされ,実鰹のi数の増減に.かかわら ずに,この定数を規準1こ碁銭を納めることになワていた.その後の牛馬数がよくわからないが養        にセき宝暦稔年(貿62)には焉i,5綴頭.牛欝8頭で大凡欝入に玉頭の鞭1こなりた.前掲藏馬の記事

で知られる能く.i人で教頭の牝馬を灘継しているのをみても芋一・部では多数の隼馬を解有す るものもいたことは葱{象に難くない.このように多くの家畜を飼うのに=i鍍:教をやる姦凄があっ たのである.

(5)

疫灘二近饗の種子嚢罫乙お善ナる数数

5.放較以外の牧聾の蒋還

 塩屋牧や小牧は蕊落経営で,放牧ばかむでなく,入会で採草や柴蔑むにも利賭した・鷺蟻替 や矯材を代参だせるような赫も一部には湊在した.その上人家に.逝く地味の良い漸は,舞野焼 あらきの蟻として麟羅された.それは一種の焼嬢で,これを燐替蟻と蔵する人もあるが,下野 氏が採集した資料によると,南種子では甥替とはよばなかウた.

 毎年牧露のどこかを露塾して作・鍾をやるが,この1講墾を「あらきうち」とよんだ.あらきう ちをやる地所を定める手続きは,都落によワて多少麟違があるが,この種の焼蟻隷二作は量久島

と共に種鴇のど眠職姪も行われていた.あら紡ちをやるに身詰づ鍬か期で備墾

する地勝を教堀で霧い込む・多くは一難だけ麿いも(昔譲〉を伜蒼し・藪穫後は荒してしま到

南種子の洪後膨鉦礁撚鍵殊が悪く,連作ができなか魂ようである.中種子の一越では

3年は罐蕎を続けたあとであらしてし謁のを燐替とよび,糠こ隔ら剥の罵語も駄 ら

れている、いづれも薪伜雫は薪作者に地上権力{認められるが,耕搾を鉢止すればその権麟は消 滅する.これは牧の一部の一蒔的繋作で,その後は地力が緩復するまで牧として麟矯される.

この耕葬あと地はその後誰が韓偉してもよいのである.

 かくの如く牧の一部で新作と綾敦をく参かえすから,それ毒ま一種の牧懸であるかの頻く見え るかも知れないが,焼懸あと地が敏牧に轟霧されるのは各地1繊鋳もあ鰍たとえ牧場内で焼嬢 韓作をやワても,その種の籍馨と綾牧の輪換では牧鱗とみなすことはできない.屋久農の藥生

のめに牧を二つに区励,一つ毒轍牧地として隼馬致し,惣濡燕に禾糊し5年毎こ輪躾

するのは,二灘式教幾である.種子島にはそのような土地轟濃は在しなかりた.

6.表 方 御 牧

表方御牧には本増籔大隅就眠野網野滋鵡晒卿わゆ茄教醗,ト芦

野および大峰の2数があウた.5鞍は中種子および爵種子に所在し,御家譜の次の記事は・そ の大略の所在を指示している.

文化五年十港 一トー藤 十二暮 十三聲 十置欝

一新五蒙 一1一六爵 一野七難

十八霞

野聡叡.羅滋膏

本塗i轟轟選を見る.是賭躬焼醸す.牝馬,窃穫魎 油久飯鷺濃13 大蒲野鶴遜を見る.春材〔褒弾)綾羅溝聾

序舞で馬追をやすむ.是れ鱗な罫z臥難疫羅滋謬 霞之霞元濤邊を見る.串之村骸.羅海谷

莫〔御3晦野馬遺を箆る.鳥澱薮麗演苔 鋳騾馬邉を見る.

薩舞蟻溝蓬を遜聲浜津籏〜鶴械

 本増野は野間の毒方2粁濠どにある竹屋野にあり,この集落の毒に拡がる海抜9嚇:ばかりの 洪穣台地の上にあウた.今でも内牧の称呼があり,竹渥野薩毒方1誓余に苦跡がありて・馬追 に捺し領虫が臨場するのに還ワたと伝えられる遂もある.ここは一1霧韓語や誓薦の幾地で,牧 壌や萱の形慧残りていない.

 大薄野は中種子町美坐と照島との中闘にあウ,本増野懸議決鑛金上に位置する.美坐は摂漉

久率擁内であ凍から,濡久鰹か坂づ織屋が最寄紛鰹である.ここ離籍が進んで牧堀

などは不覊になりている.

議之蹴繭種粥勲紛平し雛劫,贈名の字にこの数名が残されていをこ葦臆1嚢騨1 榊髄鰯最勧で,イ麺は灘蜜がひどく進んだ勤濃の焦陵であを筆報羅の現場をみて

いないが,こ1こは霧謹擁力彗違憲ないから,露淋内に教凝の一部が残ウているかも知薄駕ない.

(6)

麟  磁島大学学芸学趨譲葉 第鴛誉の茎 圭警§i・一一3 第2軽近罎:における種子島の主な牧

麟 顯.

ノ/嫁癬細 ㌧

欝審

驚麟

,轟

鱗轡 纏擬

  垂一『

      ○

え塩釜

藪御教

。犬重縫

翅塩山

藷・厳

晒轍

認の遠歩で疑問の余地がない.大晦彦一氏は上申,高鷲.

上中は明治捻年以降中之ま二として串之下から分けられたのであるから遺糞の林野ではない.

こでは単に一と中地方という憲彗表で平縫{地内の前之瞬フ亡をさすものと憩われる.

鋳教,醸之のは麟標野であろう.大爆氏のこの記事は藪麗にもとづくもので凌,ろうから,一つ の手がか参として後考をまつ外はない.

 これらの5鞍は種蒔講談されたか不調であるが,寛永簸年(欝鍵)以前の雛設で,次の2敦

よむ古い.

       ボセムラ

 為峰教は灌之表霧安絨地内に.あ鰍 これ1こついては流露氏の詩書がある.又締家譜に.も次の 記事がある.

 弘化……年八擦』二§

 宴購言大紙鳶聾鞠叛露語知覧‡兵籍蒼蕩,馬役毒来窮乏遙,灘妻新太夫

 郷家年中行事薦類雑記には「芦野,大峰式微共に郵展を縁震とし鞠奉行一人馬役嚢入舞蔭下  崎原野は種子農薄端の絹織薄舞透に

あ参,i脅§牽以下の高凄に広い海岸段 猛があッて,その嚢は綺漂と睦ばれて いる.御綺野の位置は購かでないが,

筆者は島鰯綺替透と推定する.その理 轟は次のi難くである.郷牧の馬追蓬鶏際 し願主3更はその代選考が臨癒するから 各牧の薦追鐵ま緩を遠って定められた 文化5年には本塔野,大町野,蕪之鑓 元野と類にまわ警,それぞれ馬追の蘇 後に最1寄むの板屋に績主が篠をとッて いる.しかるにi8馨の綺原野懸邊1こをま 醜§最寄参の醤之飯屋を舞罵せず,鶴 鰻飯墜1こ緕治している.綺檬野は霞之 板麗から2終余,島鑢板麗からは簸粁 も離れている.それにもかかわらず欝 窪在島聡きこ宿をとウたのは,・その藤の 馬追が,島賜替透の野で行われたため であろう.門禽騨も御崎の称があるが 羅上の詫螺も御鏡で,この島では鱒麟 がどれも簿綺とよばれるらしい.それ 故単1こ簿綺の名だけでは簿綺野の盤遷 を示す証轟には不売分である.殊に匿 上の御綺はこの馬追の額驚から全然は づれていて問題1こならない.門禽騨 鐘 透に.麟蒙栗野と御蒲野毒叢叢んで戸蜀在した とみなすのも,篠濃地のとウ;おからみ て不合遷である.i7蔭の震泊地は記載

もれであるが,醤之あた参であ■)うか.

董8藏には茜賛筋を還って誤津鶴に織諺 帰議しているから,綺標野の位鐙は前       ほゆ  醒之に舞牧が醗姦したと透べている.

       こ

         嶽懸の御野は御

(7)

安欝・返縫の種子灘こおける敏牧 55

      くオおむかけに大峰牧遣方いたし.翌綾醤芦野教馬追毯涯とある.嚢之表から,芦野・大峰弍牧に下る には嶽籏経索の寧画道を遷るのであるが,吉灘北芳で棄に.分緩して奮づ安城樗詑部で大峰牧に さしかかる.その遜驚は大峰牧を縷験していた、すなわち大峰牧は安賊詩嚢蔀の量綾上に』撚が り,今蝦その一部は安城、ヒ之町の共有地に.なワている.芦野教は安城上之町薦方違粁,海難総 革の海岸段丘上の鐸野平にある、ここに芦野および舞牧の集落が後年聚設された.この芦野教       シは島津家から受領した牛毛馬5頭を議すため,延宝7年(馨79〉に鵜設された.隼毛馬は隼馬

ともよばれ,たてがみがなく,尾は牛に似て伊線毛は縮れヤ丈は4尺エ〜2寸であるが,甚だ強 健で藁蕎に堪える性質をもワていた.これは麟鮮から渡来したもののようである承この牧で 漸次繁殖し,天保蒙には灘頭余,明治維新当時は総頭余1こおよんだという.瞬治蓬年廃敦に擦       モ きし,この牛毛馬は全部欝病の貧戻に分与してし喪ワた.撫し,藩政時代にをま麦癖響なる理滋か,

種子島家ではこの隼毛馬の保護繁殖に』は努めたけれども,藩士や餐戻がこれを養5のは厳禁し・

島外に畿すのも許さなかウた.島津家の命令でも特に.繁殖力の弱い牝教を選んで献五するほど であウたと㌧・う.

 大峰牧は寛政以降の御敦で,普通の篤を綾牧したが,前諾5敬1こ死し癖者とも麟設は新しい.

もりとも大峰牧はこの叛の籍設で隷なく,御綾に.なる該は安綾繕の平称濾麟の欝牧になってい        ぱきた.文イヒ欝年(搬3〉8簿の馬追はi7葭が芦野,鰺欝が大峰で,前違の瀬享が逆になっている、

このよのように篤遺霧の前後はあワても髄の5牧に薄しこの2牧は簿の経として搬われたの韓:,

それぞれの地理麟位鐙の雛係からである.

 舞牧が徳の教と異るところは,既達のように.その経営が領主の薩営で,野馬はすべて領主の 霧:有物である点にある.敦に隣接したオ鐘に牧見舞役をト置き,牧堀 構・門などの管i藻をさせた.

    むくしこの役は.綾羅,牧見懸ともいわれた.蓉牧の馬違に.際しては納富村以南の村殴に人足を警簿あ て,馬役の毒揮下に.前雛ま外遺㌧・を行い,内牧1こ野馬を集め,当獣ま芒に.遣い入れた.

 蚤牧羅遣の事 本璽野,大織野,講の醐禿野,鱗野,綺療野

 臨毎年入篭末丸激頷馬役趣娩の曇こて…皇方有之麟方六総銚あ鈴謬蕨簾を縁欝として馬連を   麟る・静麹.麟響寅の購後4人聾講材差入にで鴎,響紛融瞬遂あ毅豊羅雛御役々懸講書ま

  舞欝謎替御差入),鬱鬱舜鰐窃〉簸は御名代乗蕎御軍役手鑓鑛籍小者馬連の灘醸ま其営々の癖士穣先僕舞舞   笹,五教其々上御獲敷には幕を打韓1し,御獲敷擁へ鰭飾籔麟蓬も旛詰躾

 △継離縁輝赫々嚢入超の麟罫に麗し,総々一統講彗鉱篤復馬上にで瞬をなし膨入あ劉        ぐ シ

  武蔵蹴馨さし,御羹1論鋒手を添させられ御さし鈴あ舞.

 韮近くに縫敷を設け,幕をは軽めぐらし役人・蓬懸が耀詰めるなどは,薩摩本土の馬追の場

合と似底嶋.一聯簸は領主であるが遠熱波覧灘こ雛拠て㌧・たか転下島し藤・ときは舞

名代が代理をつとめる.豊入後に,弍歳駄印さしや擁鞠をやる.捕えた焉は入麗で払下げられた.

 △錨魔めの躰芋へ被成多く灘蝦美篶,置数蝉張て1蝋五塵泣の馬給鮎擁叉御漏嫡轟濤役立郵霜融   上記之,物奉賛見醸麗.尤手癖入麓申渡,銭鶏様御糠浸入耗ひらき,是又霧奉蕎晃麟臨.

  御練敷江馬役を被贋轟,御盃破旧離郷人よ舞爽肴有之

 購 教見舞撲旛麓肉置人離鋲の者共江 御経れ破墨塾青馬役聾之・

  隙纂式麺肇麟離職し後,赫々五嬬聾誉至(灘か)養の緩を発光として,組凌撫こ属し御鐘鳶を駿   達し玄鶴毯

 馬道に参撫した嚢役や5人纒頭の考に酒肴を供し,琵つ多妻麺)人手を労するので,経費もか        ぞ きさんだから,睦作年に駄馬逡の講式をやめ,馬役が畿爽して2才鶏をとることだけをやウたこ

ともある.

 舞牧の,韓数や馬格の酸護のためとワた手段などは不絹である、大峰牧では牝牡共麗麗島から もち込んだ馬を入れて,邊女舞格がよくなったという.納欝村原璽の穴兵籍が3頭の牝馬を献

      く さう

じ.本増野1こ緩した.難にも牝馬献上の記事が舞家譜垂このっていて青郷教1こ敬したことを想像 させる.

(8)

聡  篠島大学学芸学籠譲集 第捻秀のi ig畿一3

 この舞敦は廃藩とともに廃査された.この叛の野馬の麺運なども芦野牧の場合以外不晒であ る 中1こ樵大峰牧のように嗣治に入ワて部落;禽の牧になワたものもある、

7.壌  屋  牧

 塩渥牧は全島で2竣駿におよんだといわれるが,これは塩麗の数だけあったわけである.塩渥 は大塩墜とも睡ばれ,塩懇高を受け,数人の共講で製塩をや参,懸人軽営で塩渥高は受けてい ない小塩墨とは灘達していた.

    く ラ

 舞家譜によると文和i年(欝52)鈴めて塩竃を醤之替立石・蟹上村湊に建てた、一説には大 騎羅滋・久志瀬戸竹之鱗に建てたのが頭窃であるともされている.これよ参先種子島家初代の        く 

駕基もこの島で製塩の搬導をしたとい5.その製塩法を敬善し,塩屋牧を麟讃したのは6代購 売の丈i穣1年である.

 獲之表毒陣之湊瞬の製塩浅来に.次の記事がある、

 六長時先公に於て食塩の是らざるを憂い給び(中略)根獲蟹鎌倉よ諺潔導奏を耀き〔中略)員太鄭員…褻縣其  の指導者な聲,醒之替立腐,曝至極湊等も窺を改め哲趨俊竈となし,晦林原野一里方の土地を賎ひ,製造の  薪爆諸木を麺ゑしむ.丈灘実1年垂髪斑舞,種子羅鯵繧代鐙の振興となれ婁.我縛之浜遜の趨を改め貴太郎の  捲葎を受け製塩業を励む.詑はさいきょふ縄,羅はたんじ中が鵡,津津夢木の鑓屋,憲ようしが遜尾鑑.酵  は軍場の霞尾張,東は海岸迄を支醜し,穀魯を縫え樹木を移し,製猛器俵を年貢に納むること52鋒(下酪)

 縫の塩堅の中1こも類似の伝説をもつものがある.員大熱・艮次鰹の手で醗講鎌倉流の製塩が 各地に普及されたのであろう.その叛鑛主特売は雛里方の土地雄を塩墨1こ与え,製塩薦の諸木 を殖えさせ,兼ねて薪媛運搬羅の、篤を綾敬させた.これが塩屋牧の起鑓と蔽えられている.そ

       ぱ      せ  

の北東にある浜騰はi文数5年鮭822年)または元1文3年(i738)神之漢馨の垣戸を分けて灘設 されたという.これらの牧はいづれも海岸から内陸部に.鶴りて羅びナ串翼といわれる牧境は灘 篤・谷籔・尾根筋・浅尾または道鋒を麟濡して定められていた.下熊野塩匿の次の証1文はそれ

をよく1尽している.

 i.壱牧    事態野塩麗    矯激

 玉.上ハ熊野璽融の溢玄夢,大窪質遜霞逡上妻シ農大蕗玄で.

 童.事ハ葵黎二海よ夢にたのの運上撃,大新聞の鷲尾かこの通魔搾兵籍殿蟹費の運上警,長来橋のごこう    一と撃擾大路牧堀迄

   霞之懸御一一新二磐箋算額改縮渡灘

   隣治郷辛未八蕎      隼 馬 方  難        嚢 材 直次鄭        勝 蟹 彦 人        肥 後 綾 畢        ■東   駁蓬羨纂        笹 綴 芳 一  震捜線蓬文之遽募御一・新二替銘簸蒋二方角購鞍 界置繰得業,購§委譲之儀表,震証文之懸蓼無残,其羅夢趨  心得,万一鍛年嵩琵夢黙建簸}護来之簸者,膚謹丈之薦撰合意夫夫取謙譲繊.隼馬方よ撃承知いたし候鋒 ・各  心得のため髭濤書諒し譲渡嚢躾者毯

 墾治舞年辛未鰻鐸       築爵 直憲 臨 峯薫野塩羅宇

 下1毒野塩蓬蓑慧こ中種子韓ぎの薫f東藩籬,糞妻野言薄の襲ユ蓼董岸1こあζ}, 5万分のiの垂垂形麩韓こ垂ま塩垂養と婁董玉

れさている.ここの塩墨教は海岸から内陸の教井・中繕の膏近豪でのびていた.

 中種子蕗海岸賛之綴塩渥牧は北が鰯郷土参縫大遠迄.葭1は猿上郷上吟大門豪で,騨高議塩墨 教は魂が大燐,露がくわば鱗とそれぞれ縄境に.なっていた.茜之表布の下石寺塩屋敦は北が「

ひのみづの谷上む,大谷小谷をへてさいけんま.甚しの谷上り,正泉坊の谷下り」欝は「くじの

(9)

安遜・返縫の種子島における敏教 57

  第3泌坤之漢瞬および漢騒の塩聖教

  羅地発第332号 昭瀦誌年2遷7蒙掲載承認

はあく家で広いということの形容で,

塩盤敦の面積が約5.5方粍漢織塩撃牧が約3.3芳粁である.

を併せても欝方粁ばかうで,

方この程譲iの広さであり,御牧も豪た懸程度のものでありた.

      i方里の広さをもっているというのでは』ない.

       この嚢考とその中鷺の僻縫の毒;鉢       i方塁すなわち欝.妨粁には建鯵ない.筆者が講べた塩盤牧は大

      若しi鰹の牧がi里醒方あると

すると,塩麗牧の2壌こ御藪1の7「を1換えただけで,島の藝ぎ積翼7方粁を超過する不合i饗を生ずる.

 塩屋牧は製塩の燃料産地である.鎌倉流の製塩は,竹網代を石炭で途参かためて竈を作鰍 海水を入れてにつめる方法でありたから,溝費する燃料慧莫大であワた.多くは掻材などを使 篤したが,その浅採還毅も労力を要した、この燃料運搬に牧の馬を使った.これらの作業はす べて塩渥の業縁で行われた.

       く き とうのはな上り…一」で尾 根づたい1こ毒素に境が選び,

    (彫ざ孟

この牧は鞍幾付送1こまで弦 がウていた.

 このように.して圭嘉菱餐牧は いづれも海淳まで拡がワて いたから,火薬分の塩屋集 落は牧の内に辮在し,その 経営1鶏かかわる隷1地も講じ く牧の内1こあった.この癒 の集落は海岸1こ接して立地 し,耕地の多くは集落に隣 接して谷底や海岸段風上1こ ありて,放牧の隼馬が講太 しないように牧堀をめぐら していた.擦之漢灘では爆 毎に土塁をめぐらしていた

という.段.義■二の平壌量地で も麟:地イヒされないところが 可績む広く残されてお参,

そこで農疑慧あらきうちを やった.海産があウて放牧 隼馬が転落するそれがあれ ば,石塁や土塁を設け,転 落の危験を跡ぐこともやっ

た.

 塩盤教の嚢稜は霞里方ユ

といわれるよ灘こ癒大なも のであった.覆しi里方と         縛之雲霧

8.小

 ノ罫牧は一議:の部落の共羅{吏焦1の牧である.共有牧とよんだ人もあるが,近毯において露S認落 の総有とみられるものが多く,塩塗以魯の集落では,多くは小牧を経営していた.次の証文は

(10)

5§  磯鶏大学学芸学無論集 第鎗秀の1 緯磁一一3

中種子町増蟹海簿のものである.

     護    突 撃野療

小牧壱野       塗舞村 仁兵籍       書置兵籍       曾右衛穆       浅膚簿訴1

亜.晦よ警束は芦癩よ彗寧の大酪,濤i倉谷上書,門出登警,鳥の露ま三婆,書髭そ野下撃,中燦とどろきの霞   麗,岩髭の宇廊下舜海き聲,

1.:髭はだいちが溝らしょ撃磯菊疑舞この羅ヂ評夢,2聾嵐の湾下聲,

茎.藪絃深蓬事諺,御立木のぶ織手穆

麿已来擁壁教護禽二講鋲越,既簸灘羅よ猟喪麟之談方角書窓遜趨改繧.晦綾敷異議霧藪考毯    御籖難  文政講辛己蕉丹

 このi証文の巻頭に隼と馬の耳印の蟹癖があッて,牛馬の混敦であったことを示している.増 瞬の大塩塗は嶽町の認粟1粁余にあワた.隼野原は癖町と大塩渥との横合の牧でありたが,何 か入会では不擦合があって,大藏蚕からの顧鍛により文政魂年(盤瓢)塩墜牧と小牧を分けた のである、その箋嫁証文に購示してある熱く,鱗釘東灘の戸鰻から中の大難,渡合谷,門出,

高の海,古墾そ野,串縫とどろぎをへて,、霧立岩窟付透にのびる.だいちが嵐はどこか不縫で あるが,礫石称礪今藏字名に蔑む,大石野の詫方にあた参,平嵐の欝隷大域の銘方に.流織する 騰であろう、轍ま増1舞率之時の内海野と境を接し,深追とぶ耀の線が教壇になウていた.深追 は池の平詑1方の谷で宇名になウている.

   覚臨舞野       簾舞村単之郷 小牧壱野       牧主取 小吉

董.東深慈liヂ暮資,立木之かたぶ饗下聾.

産.篤いくわ野(いかの)人家ぎ酵.

玉.蔭飯雛灘瞬不参.

i.靴海羅露添ぎ墾、

膚考中之野江小牧無意,盗ル巳ノ年窟小論父小之衛騰を以隼聾療牧之内,窟之撫舞歌分け腰裂,峯小吉迄 叢続敷女醗隼馬及繁纂録鐵,就ては永代箕輪轟いたし,蓋々隼罵致繁育鍛様,再致舞趨顛、依両為後β証難 件       轡雛暮

 文政拳二二年己1難聾弩

 中之町の内妻野も文政3年(i82紛までは隼野原の工部として購町の牧に.なっていた.然る に.中之1難こは小牧がなかワたので,小吉の嬢父が串譲分けを難いでた.文政4年i海には前港 講町の証1交に匁られる鶴く.牛野原,内密野の境が定ウていた熱くであるか身),中之瞬にこの 護i交を下付するまで,すでに警年鷺小之衛,その子,孫の小吉など3代にわたりて牧元をつと め,内緯野で隼馬を放牧していたのである.この牧は薦張が定ワていて,いか野以薦中之町膏       か聡ら袴 近は教の聾になワていた、こオ鱗ま牛野原のi認を分けてもらワたためであろうか.海原磯は瑳 在の購原で2§5護米の3角、薮と十六番との中開にある字名である.この牧も隼馬混教であるが,

敏牧牛馬には饒馨をおし,耳離まつ諺なかウた.中之町には金焼に俊ウた焼印が残ウている(

写真参照)三融ま池ノ鷺瀟方i粁余のところにあった、手野原の南部絃戦時中飛行場にな1フ,難6

.i米の3角、煮付近にありた牧神を移し,牧元の牧本氏外多数の人が転宅を余儀なくされた.こ こには牧神の藻に掻の大木があワたが,擁主1こたのんで新篇をして,伐む払りた.中之町の牧 餓ま小さなお宮に麟られ,補木はなか?たが,騨¢)理由でこれも縫に移された.

(11)

安瞬・遙議の種子島にお娃る敏牧

塗襲串之瞭霞毒野小牧の縫難

 長谷野付近には海援20§啄内聾に広い台地が鉱がウ,壌井・上蓋・中之・轟購各村め小数が あワた.坂井村の牧は西寿ま縁うき密,毒は青石牟鍔,東は落石,擁嬢ま甲羅のすぐ蕪綾こある擦1:壕i で約6方粁に.およんだ.中醸薬落の丁字跨から南方3鞠翫米1こ門があり,そこの票道面鰯に笠と 牧神があワた.その壽のすくぼの平の漢薬はもと3戸にすぎなかワたというが教の申にあウて,

髑髏1こは璽をめぐらしていたという.

 これらの小牧の多くは蛎治船年代まで総懸を存し,牛馬の混徴に舞欝されていた.

§.農 牧

 霞牧は秘教ともよんで,懸人経営の教である、麟之表露方海主の篤毛嚢は約遜.3方粁の甚だ 勝率1な地形の島であるが,近轡末には無人島で全島,種子島家の薫臣平晦零鐵の霞教に.なサて いた.薦芝付の砂坂にも購氏の警牧がありて寛蔵骸:とよばれていた.難遮の癩く大峰牧はもと        ほひ

事林源劫の白綾であむ,後にi時種子島一旗某の私牧になワたこともある.安戴粧の瞬上七之 助も国上村の足軽落合馨蒼衛門等も警牧の経営をやワていた.

      くめ  錘激聲毘転落倉岳構携寺入干薩異事士爵坐不鯵解散馬之堵,金華馬喰諸人之鴛蘇毯       く き

 鞍馬が透織し作物を荒し科銭をとられた舞は臨高磯に1もあワたが,そこでは塩葦が共講で負 捜しているのに.,この記事の場合は懸人が麺講されているから寒牧と思われる.段数が覆土ナ 郷士または足軽などの経営であるのは潅欝を要する.一般の嶽戻越美羅数を舞篤したのである.

総.綾 牧

 御牧の大都分は醗治壌年(鰺εi〉廃藩麗熱こ醸し廃牧となむ,王都は羅述のよ聾こ篤幾に移 譲されたが,昆麗の諸教はその後も多くは明治末年豪で籔態を持続し,種子島には遷替教が数 多く残鳶iしていた.もりとも塩餐鞍は廃藩で塩の現物完納をする姦婁がなくなむ,窮治2{}年代 には麟代の饗i行も港滅してナ小数も含めて敦の野馬の駕途のiつが溝.えてしまウたなどで,敦 の種格が変参つつあワた.

 霧濤鴛年(馨§9〉の蘇講地積改蛋の実施で,これらの諸教の大都分が官有地となりたが,こ

(12)

総  薦島大学学芸学都譲葉 第墾号の王 難§i−3

の漸有区分の瞬確銘あるいは土地が.かならずしもこの島における鞍衰退の決定賄条件とはな ウていない.なんとなれば教怒富有地になりてからも,牧野瀦罵の■諸縷行,たとえば発馬の綾 牧,綾内のi部で行うi蒔麟鱗作などは,多くは従蕪懸腕こ存続したからである.その後藤記 の牧証文などを証擁に.してこれらの土地の下戻を類いでて,難治36年下戻に.絞聴してから諸教 は購らかに共有地となりた.串には下戻に賊窮する麟に敬牧をやめた較もある.

 しからばこの島の置醤放牧嚢遺の選湊は擁んであろうか,江欝氏も遠べている熱くその遷浅 は覇然としない.産馬敬畏のため麟足した種駐去勢法の影響だとする人もあるが,土産羅の種 穀につい特甥擾いの遊ぶ残されていて,この島に纏購治末年蓑で洋種や雑i種が導入されなかウ たから,この法の影響は纈接的でありたとみるべきである。軍事上の必要から姦来種の馬の改 良が進められ,鍵葱よむ丈の高い馬がこの島でも鋸育されるよ銭こなウたけれども,九州本土 に姥べると,多少時懇がおくれている.そして土産馬が減少して置付敏牧も嚢遺したようであ る.ただし鹿1戴島大学の種子島牧場の{舞が示す難く,洋種や雑種の讐二馬でもここで壱ま灘付放牧 が可籠であるから,このことは牧衰退のぎめ手とはいわれない.敦内での繁殖率を知る資料は 今のところ擁もないが,この糧敬麟な綾牧方法ではその率も低かウたと想撮されている.しか らば牧内の鵜姦とともに,,一屡集約朗な土地舞罵を行うことになって,敏教をやめてしまワた

のであ■)う.

 敏牧をやめても牧共有地の多くは逐年まで存続した.それが戦後の農地法講定で大方解嫁し てしまワたことは大晦氏の譲1違の遂むである.

餐.要 約

緯 遺糞の種子轟には簿牧,塩屋牧,小牧および懲教などの置替牧が多数湊産し,ある部分で  は塗:島殆んど軟といわれる縁どであウた.

③ 牧堀・董(大豊・小豊)馬邊などの、嶽では九州本土の薩摩領の逡膏牧とよく観ているが,

 塩羅綾・小牧などの置替教が多数藩在した、嶽で隷,本i邦1こおいて縫1乙類舞をみない.

紛 牧内のi部のi鋳縮請作は一選の焼蟻新律で,牧爆とみなすことはできない.

㊧ 水種の実播ナ踏代の撲蕎などと辞せ,護懸教が後年まで存続したのは離島の藻縫牲1こ箋係  がある.

〔饗考交i獣)

〔碁 安馨;鯵雄,蓬糞詰における;本弗の餐至聲数牧 蓼薯鶏学芸学部…講集

(21 穫誌重宏,徳葺1賠…飛の零重子轟の人嬉,ちくら,6■撃 曝i瀦23年のトi費料によ聲筆者が算饑したもの. 2−7頁

 寛文7年(娩7)一方綿婆入,元懇8年(欝5)玉8入,安永2年(i773)3ア人,享雛年(麟D一文敢   9年(露26)32人

∈31亜概観灘講功編騒32辱・頗粛購艦種稿鋸商斌ら・蟻陳謝無機『頭肇

 舞によ警鐘議す.天懇i年から護憲3年まで替藏か一定していて,耕地嫁雛2§購29と見なされる.

繊 甦擶彦,蕊轟書

〔…舜(6) 黒塵三巖,種子轟の土地と人露歩経済史移転究29の玉掌畷ラ萎寒i8年, 7頁.

麟 鹿魔島繋畜産史寧,大豊2年,i82頁.

{8翼鶴  薩摩錘垂毒謹子島家御家年癖皐蕎事華冑美霞雑…諺, 85, 尊上馬の…鯵{, ?4.

麟舞 欝家譜,鍛巻,文化瞬年の獲.

鱒鰐鱒織縫

霧i家護,薄舞,文化雛年の壌.

鋳方貞亮,種子島趨土覚婁.経盗愛凝究,2%擁,醒零羅8年,35頁.

御家講,29釜,文紀圭(葬の頃.

癩蒔桑鶴史,

御家譜,50塗,天保5年の須、

(13)

安鐵・透量の種子鍬乙おける放牧

繍麟麗鯵鰭鱗欝

欝餅摂野家文書,減欝溝淳氏藏

爵妻重子よ 諺発峯土誌, 霧窮{35年, 65資.

中種子驚農協壷鶴耕記念碑.

御家繋,8巻.

簿家請,6雀,蕉保3年の頃.

大晦彦一,種子議のマキの齋究,丈季葬課隻・ケ 童,曜舞27年,2鴛蔑.

簿嶽講,26巻,女{ヒ5年玉鵬.

大婁彦一・,南護諸島の家灘撃猿:の薪突,貰峯1憩35年,25護,

瞬江韓溝淳,マキ収濾し一瞭鱒費の安城の軌雫式転7筑鐸難鵬亀4−7頁,

雛 欝家譜,63轡,弘イ乞3年の頃.

騰 御家年率無事騰織雑莚,乃,芦野軟繕遡の事,鴎大峰数の事.

驚 御家譜,8巻,延宝7年の曖.

薦 麗麗鐘蘇畜産史上,至欝一至56震.

麟縫に霧じ.

輔 御家譜,26審,文牝鐙年の頃.

韓麟 御家年中行事属雑記,7荏.

馨毒 鶴舞ζ毒妻事 63巻, 毒云{ヒ3年超二)ピ要.

麟 欝家譜,26巻,丈禽7年 錐嚢.

韓 鶴家譜,6巷,麺報年の頃、

韓 糞騎彦,欝轟緯1勇猛,75頁.

樋 製塩露寒,捧之漢霞都落塩釜簿記二極藏.

欝 轡家譜,38巻.

繍磯に瞬じ.

纐 三橋時雄,屋久爵,種子島における土地翻箋と漂嬉離農,経済史蘇究,2§のi,疇零護鴇年・4←47頁.

雛 酸特 侮樺 ︑縁  壕毒ヲ︐h畢鐘

上層寺の養老の駿承による.

大晦彦一,繭編書,57頁.

稗家年率行事羅類雑記.75.

舞家譜,38巻,交敷i3年の慶.

御家講,57審,天保玉2年の頃.

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