文 体 と 構 造
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文
体 と 構 造
一「オッペルと象」の場合一
菅 野 宏
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賢治の作品「オッペルと象」は,梅原猛のいうrまだ解かれていない」(1)彼の作品のうちでも,い くつかの解釈と批評の加えられた比較的めずらしいもののひとつである.
その解釈と批評の共通な特徴は,この作品を「社会批判の立場の鋭くあらわれたもの」と見ることで ある.小倉豊文の「彼の社会批判がはっきり出ている数少い作品,地主的資本家と愚直な労働者の明る いカリカチュアである」 (角川版「宮沢賢治集」解説)をはじめとし,
この作品は,賢治童話の中では,いちばん積極的に社会問題を扱っているため,賢治童話の本 道からはみ出した感があり,いまだに決定的な評価がなされていないようです.「オッペルと象」
が書かれた時期は不明ですが,この童話がr月曜」という雑誌に発表されたのは大正15年,賢治 の31才の1月でした.この時期を賢治自身に即して考えれば,彼の思想の根抵にあった宗教科学 労働芸術などを,教壇上から説くことにあきたらなくなって,「ぎちぎちと鳴る汚い掌を おれ はこれから持つことになる」という決意はしたものの,実践活動へはいるため,さまざまの煩悶 をしていたにちがいありません,……暗い現実の壁を突き破るために,彼の読書経験の中にあっ たマルクスやブハーリンの唯物論哲学の考えが,彼本来の仏教思想と烈しく交叉したことがある に違いありません.このような賢治の心理的葛藤をはっきり表現したものが「オッペルと象」な のです.……従来この作品は賢治讃美の側からは異端者扱いを受け,賢治批判者側からは,この 一作のみが積極的なテーマによって書かれたと見なされてきました.(大木正之r宮沢賢治」日 本文学1960−1)
のような文章に至るまで,一貫して変りがない.なかで異質的な谷川徹三の解説においてさえ,このこ とはいくらかのためらいをともないながらもなお,断定されている事実である.
なるほど賢治の中には第四階級的立場が全くなくはありません……オッペルは,あわれな貧し い人たちを搾取する無慈悲な物持と見ることができる.そうすると,あの気のいい白象は,そう いう無慈悲な搾取者に搾取されているあわれな貧しい人となり,最後にその白象を救い出すため に,仲間の象の大群がグララアガアグララアガアと胞えながら,「森の中から花火みたいに野原 の中へ飛び出し」走って走ってオッペルの小屋も屋敷もオッペル自身をも押しつぶすのは,そう いうあわれな人たちが最後に団結して立ち上った姿だと解釈することもできないではない.一歩 を進めて,この白象を都市の工場労働者が農村にまぎれ混んだ姿と見ることもできなくはないの で,この最後の想定はとにかく,この童話に何か寓意があるとすれば,全体を今のように解釈す るのは,極めて自然であります.(「宮沢賢治の世界」)
中村稔においては,「象の集団も,オツペルの桎梏から仲間の白象をすくい出すためには,オッペル
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の塀を踏みにじり,牢をこわすことを躊躇していない」r労働は契約に基いている.象は倦怠して労働 を欲しており,オッペルは労働力を欲している」(「定本宮沢賢治」)などと述べられてもいて,この作 品の基調にあるr祈りと生活のかなしみ」の旋律が消去されているかのごとくである.後年のr雨ニモ
マケズ」のような作品は,この「オッペルと象」を書いた花巻農学校教師あるいは羅須地人協会のとき のようなはりつめた時期であったとしたら,過失としても書き落されることがなかったろう,とさえい
うかのごとくである.
いまこれらの解釈,批評の要点を再び整理し簡約化すれば,つぎのようにならべあげることができ
る.
(1)積極的に社会問題をとり扱っている (2)明るいカリカチュアの作品である
(3)倦怠して労働を欲している,あるいはあわれな貧しい,象の姿をえがいている (4)仲間の象たちが団結して立ちあがった姿をえがいている
(5)精神の高揚の時期の作品である
だがしかし,これらの考え方は,「オッペルと象」のストーリ,プロッ㌧人物の性格,主人公副主 人公,主題などなど,作品の構成要素を順序正しく分析する作業をすすめていくと.どうしても不十分 なあるいは誤った分析であって,かなりの修正と補足を必要とすることが明らかになる,このことにつ いてはすでに論証し発表したのであった.(「客観的に読むということ」国語教育1967−2,「オッペル
と象の読み方」表現研究3)
「オッペルと象」はたしかに社会問題を反映しそれを扱ってはいるが,単にそれだけではなく,むし ろ地主的資本家オッペルの存在の基本要因としての貪欲,悪徳を描いているのであり,問題を単に問 題として無解決にあつかっているのではない.悪徳の末路をひとつの理法としてうっし出してもいる
(この点ではある意味で平面的である).他方労働の使命を信じ神の啓示をうけるものの無欲と美徳が 貪欲に対してどんなにたいせつか,労働の使命をはたすことがどんなに楽しくかっ悲しく苦しいかとい
うことを主として説いているのである.白象はすくなくとも社会的実在ではないし,ここには当時の社 会問題に対する姿勢はあっても,反映はないのである.白象は「労働へのかぎりない関心と意欲をもつ
もの」であってそういうものとして作品の中に具体化されている.「都市工場者」「倦怠した象」という のは全くまちがったうけとり方といわねばならない.「労働が好きで好きでたまらない」という白象の 考え方は,アプリオリの原理であって,たまたま冷酷残忍なオツペルの職場をふらりとえらんだこと は,白象のみでなく一般的によくある運命であり,その運命の試練にさらされていくかなしみとにがさ こそが,この作品の中核になっているのである.あかるいうわべの物語の深層には,実はくらくかなし い賢治の世界観がのぞかれるのである.通説はかなりそこからはずれていると見るべきであろう.すく なくとも「白象」の労働に対する決意と挫折の傷痕が見おとされていることはまちがいがない.
ところで白象を助けにやってきた象の大群をつぎのように解釈する考え方もある.
白象に対して黒象をみにくい色にしたてているのも問題ですが,……自分のつかえた主人は殺 され,建物は破壊され,仲間たちのためにかえって多くの犠牲を出した,いっそのことそんな多 くの犠牲のうえに自分が救われるのなら,わたしは静かに死んでいったほうがましだった,とい う苦悩の表情があらわれている.……(大木正之 前掲論文)
こういう誤解は,象の大群を黒象であると解釈し断定したところがらきている。白象の苦悩を全く通 俗的にうけとっているのだが,実はこの苦悩はすでに述べたように,使命の自覚の至らなさ浅さについ ての自廟と反省のものであって,大木の説くようなものではない.なぜそういいえるか,それは,象の 大群は,悟れる者たちである故である・
作品のなかに,仲間の象を黒くは書いてはいない.「象は一せいに立ちあがり,まつ黒になって吠え だした」とあるだけである.自象だって,怒れば黒くなるであろう.賢治の作品のなかで,林のなかな
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どで「碁などを打っている」というイメージは,悟れる者たちに帰属する.
下草はみじかくて奇麗で,まるで仙人たちが碁でもうっ処のように見えました.(「虞+公園
林」)
とあるとおりである(2).「沙羅樹のもとの暗がり」で碁などをうち楽園の生活を楽しむこの白象たちの 大群には,社会主義的ユートピアのイメージをかさねて見ることのできる要素もあるが,やはりむし ろ,r諸の魔賊を破し,生死の軍を填り,諸余の怨敵悉く堰減せり,善男子百千の諸仏,神通力を以 て,共に汝を守護したまふ」(「薬王菩薩本事品」第二十三).というイメージを考えていいであろう.そ して,貪欲の化身,諸余の怨敵オッペルなどなどに対してというよりも,自らの能力の限界に対する自 嘲と悔いのほうが,作品の構造に対して論理的に基本的に忠実であるといいうる.
またっぎに,ストーリのはこび方に関してっぎのような解釈もある.
本文とは無関係に,「おや君川へはいつちゃいけないったら」ということばをおしまいに書い ていること……つまりこの警告の一行をなぜ書かずにいられなかったのかという点です.これは 本文のストーリーとは無関係ですが,本文の積極的なテーマに対する警告であり,賢治が自然に 社会運動に近寄りっっあったことに対するきびしい自戒のことばだったのです.「川」というこ とばを「社会運動」の代名詞と見てさしつかえないと思います. (大木 前掲論文)
「オッペルと象」の構成の外枠にある,牛飼ときき役と牛との関係をこのように意味づける理由はど こにも明示されていないのだが.やはりこの考え方はあやまり,読みすぎというほかはない.彼の生涯 のもっとも主要な作品「銀河鉄道の夜」においても,労働と建設を使命とする真の社会主義はつぎのよ
うに明確にいいきられているのである.
ジョバンニはだんだんこころもちが明るくなってきました.……ジョバンニは思わずカムパネ ルラとわらいました.もうそして天の川は汽車のすぐ横手をいままでよほど激しく流れてきたら しく,ときどきちらちら光ってながれているのでした.うすあかい河原なでしこの花があちこち 咲いていました.汽車はようやく落ちついたようにゆっくり走っていました.
向こうとこっちの岸に,星のかたちとつるはしを書いた旗がたっていました.
こう書いてあって,工事の発破の音がひびき,カムパネルラもジョバンニもrこおどりし」たり,
「はねあがりたいくらい気持が軽くなって」いぐのであって,やがて,この世にいきる自信をとりもど す場面になっていくのである.賢治は,貪欲・虚偽・権威に対して警告を発し否定して,社会の未来像 について苦悩し焦慮し,かぎりなく傷ついてはいるが,大木のいうようなことは考えられないと思う.
一般に物語の技法一たとえば如是我聞などなど一それが本文のテーマを消去する役割で使われるこ とが,理論的にありうるはずがない.テーマに対する技法の思想的優先はいかなるジャンルにあるので あろう.すくなくとも童話では尋常のことではない.
賢治の語り方の特徴のひとつに,一種のr転調」というべきものが存在する.「どんぐりと山猫」「ビ ジテリアン大祭」などの幻想の世界から現実への転調は好例である.r銀河鉄道の夜」も一種の転調で ある.これは,理想と現実のかなしい明暗をきわだたせる手法として,賢治の愛用したものと考えるこ とができる.r川」を「社会運動」と曲解するよりも,オッペル的人間白象的人間についての真実につ いて無関心であるもの,無関係であることへの,警告とみるほうがまだまだ穏当である.基本的には,
物語の真実からかなしい現実への移調の手法であるにすぎないのである.ここにも一種,賢治のロマン チックな理想主義をみることはできても,社会運動への傾斜に対する自戒といった要素は存在しない.
彼には他になすべきしごとがまだまだあったのである.
以上要するに,「オッペルと象」の構造を,抽象化してしまえば,基本的思想として,
大きい琥珀のパイプを口にくわえ,吸殻も藁に落さないほど用心深く,冷酷に血も涙もなく,搾 取しうるものは搾取しつくす,そういう貪欲な人間が終りをまっとうするはずがない.一方無欲で ただはたらくことが好きな善意というものは,労働がいかに辛く絶望的であうても,神の加護があ
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るのである.決意はかなしいが,善意がうら切られることはない.
というようなことを仮定することができる・
この基本思想は,r雨ニモマケズ」の諸観念と全く共通していて,うわべの戯画風幻想風な非現実的 な物語の深層に,低くっぶやくような祈りの旋律が存在するといえる・r昂ぶりを警めて低く制御す る」 (中村稔)といった旋律は,この作品にも全く該当する.r雨ニモマケズ」の無限にくりかえされ るごとき中止法・対句もまた,祈りの旋律であるはずだが,世上多くは,空転するスローガンの調子と して誤解され定着したかのごとき感がある.だがしかしこれからしるしていくように,この「オッペル と象」「雨ニモマケズ」は,ともに「蜘蛛となめくじと猫」「ツエねずみ」「カイロ団長」「ビジテリアン 大祭」「銀河鉄道の夜」などなどの旋律と,互に相補いひびきあうものであって,賢治的世界を形成し っっ一貫していたものといいうるものである.
賢治の作品を平面的に分析し,内面的構造を捨象して分類するこころみがある.(国分一太郎r宮沢 賢治研究入門』未来社r生活記録,児童文学」所収)そしてここから「どれをとってみてもみんなひど
くちがっていて全然似たところがありません」 (坪田譲治「宮沢賢治の童話について」賢治研究全集別 巻所収)という考え方が出てくる.とんでもない誤解ではないだろうか.賢治の作品にはつねに低音部 の旋律が強くひびいているのである.
皿
「オッペルと象」の作品分析に際して,不明なあるいは説明しにくい細部を排除して,人物設定の意 味,主題基本思想の仮定と検証に関する第一次の手続きを記しておいたが,しかし,不明なあるいは説 明しにくい細部の意味を放置して許されるはずがない.この細部と残余の価値的意味が,一次的にな
された手続きの結論に対して矛盾しないとするならば,作品の構造分析の全体の検証がすんだというこ とになるであろう.残余の細部はまず限りもないほど底しれないが,それらに注意してみればほとんど がr表現性」に関するものと考えていいであろう.くり返しくり返し読んで発見されるおどろきもまた この表現性の領域,象徴的世界,指示する事物に関係するのであろう.「文体とは話し手あるいは書き 手の本性と意図によってきまってくる表現手段の選抜から生じた,陳述の様相である」 (ギローr文体 論」クセジュ版)という概念をもってすれば,それは文体的諸特徴というべきものにほほ該当するとい
ってもよい.
現実の象徴的反映の過程において,文章は二つの体系をあらわす.その第一は言表者があらわ したいと思っている当の対象である.インキ・腹のイタミ等がこれであって,私はこれを文章の r意味」と呼んでいる.第二の系列は,言表者があらわしたいと思ってもいないのにひとりでに rあらわれ」てしまうのであって,これを小林英夫博士はr流露」と名ずけておられる.あらわ そうと思わないのに出てしまうものである.しかし人間はここまでに止まらない.人間のうち特 に表現に興味をもち,又表現にすぐれている人一芸術家,文学者一はこの流露をr意識的に 利用しよう」とする.腹のいたい人が顔をしかめてr腹がいたい」という.この場合の顔の表情 はr流露」である.スタニスラフスキーが舞台の上で顔をしかめてr腹がいたい」といったとす れば,それは流露ではなくて,流露を意識的に利用しようとしたのである.このような利用,こ れを私はスタイルと呼んでいる.少なくともこのような利用の結果,ある人に綜合的統一的に生 み出されてくるものがスタイルなのである.だからスタイルは「流露」だけではない.流露もス タイルの一部を構成するが,芸術家や文学者たちにあっては,流露だけではスタイルは成立しな い.流露が意識され,積極的に利用され,自分の表現したと思う「意味」の形成に役立っている ものである.
意味×流露=スタイル
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こういう公式が成立するであろう.これに反して 意味+流露
これはスタイルを形成しない.ごく普通の人の,つまりスタイル前の文である.(波多野完治 r近代文体の展開」コトバ昭24−8)
こういう流麗な文体の定義にあてはまるかどうかは別として,ごくおおよそ,オッペルや白象などの 描写表現に用いられた手段の選択に関して,以下注目されることのうち二三を記したい.
A rおいお前は時計は要らないか.」
丸太で建てたその象小屋の前に来てオッペルは琥珀のパイプをくわえ,顔をしかめてこういつ た.
B 「靴をはいたらどうだろう.」
rぼくは靴などはかないよ.」
「まあはいてみろいいもんだ」オッペルは顔をしかめながら,赤い張子の大きな靴を,象のう しろのかかとにはめた.
C 小屋はずいぶん頑丈で.学校ぐらいもあるのだが,何せ新式稲扱器械が六台もそろってまわっ てるから,のんのんのんのんふるうのだ.中にはいるとそのために,すっかり腹がすくほど だ.そしてじっさいオッペルは,そいつで上手に腹をへらし,ひるめしどきには,六寸ぐらい のビフテキの,雑巾ほどあるオムレツの,ほくほくしたのをたべるのだ.
一見してABCはそれぞれ作品に含まれるなにげない表現にすぎないものであるかもしれない.しか し,これらは,他の叙述の手段をもっておきかえうるものでもないし,従って文体的意味づけを拒否す るはずもない.行きずりの読者であれば,それらに「表示」されているかぎりの直観的な意味でうけと って十分であろうが,もしこの表現の基層に深い意味がこめられていて,質的にも量的にも特異なもの であれば,その体系的な基層を無視することは許されるはずがない.その深層事実の存在の証明は,
賢治の価値体系の構造的部分の証明であって,作品研究の重要な課題であるはずである.これを単なる
「読みすぎ」として排除してよいはずがないのである.「指示」するものは読みとらねばならない.
Aのr琥珀のパイプを口にくわえ」というポーズの表現は,詩などにも二三散見する.
A① 今朝空青く気は澄んで/車窓シガーの煙をながし/峡の二十里平野の十里/旅程明るく午を 越すいまを/何たる説詐何たる不信(「県技師の雲に対するステートメント」)
A② 月賦で買った緑青いろの外套に/しめったルビーの火をともし/かすかな青いけむりをあげ る/ひとつの焦慮の工場にすぎぬ(「空明と傷病」)
前者A①は,羅須地人協会の頃の作品,1県技師が自らをr小官」と称し,あたかも「どんぐりと山 猫」の「山猫」のごとく,「雲」に対しr測候長」に対し,怨みをいい責任をなすりつける作品のなか
にあって,「小官」と自称するごとき修羅のひとりに対する譲刺の一句である.後者A②は花巻農学校 時代の作品,ピアノを獲んとする計画について,自問自答し焦慮する,
癩気の海の青びかりする底に立ち いかにもそういう敬虔な風に シガロしサト
一きれ白い紙巻煙草を燃すことは 月のあかりやらんかんの陰画 つめたい空明への貢献である
という詩句ではじまる.無用の音楽にうき身をやつすことへの自廟の一句であり,これも修羅のひとり の属性のひとつとして添えられている.「しめった」煙草の火をともすよりは,「なべての悩みをたきぎ
と燃やす」(「農民芸術概論9ことのほうがはるかに第一義のことであった彼にとって,Aのような嗜 好が悪徳貪欲の一部であったことはいうまでもない,オッペルにrパイプをくわえさせる」ということ
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は,ささやかな意味以上のものを含んでいるのである.それはp戚tiveな価値に対してnegativeな 価値のイメージであることを意味する.つぎの詩句もそのひとつである.
A③仕立の服の見本を見つけた/まだうら若いひとりの紳士/そのひとはいまごくつつましく煙 草をだして/電車がきしり/自動車が鳴り/自動車が鳴り/ごくつつましくマッチをすれば /コンクリートの函はのほって/青ぞら青ぞらひかる鯖ぐも/ほら何たる驚異/マッチがみ んな爆発をして/ひとはあわてて白金製の指輸をはめた手をこする/……その白金が大ばく はつの原因ですよ.……(「丸善階上喫煙室小景」)
r日金が大ばくはつ」の触媒であるという誕刺とrシガーのけむり」「琥珀のパイプ」という詩句と は,このように同一の脈絡になっているのである.「どんぐりと山猫」の山猫も巻煙草をくわえ,虚勢 をはって一郎にもすすめている(3).
Bのr靴」も,Aの嗜好と同様,装身に関する貪欲の象徴のひとつと見ることができる.
B① 「このごろヘロンの方ではゴム靴がはやるね」
ヘロンというのは蛙語です.人間ということです.
「うんよくみんなはいてるようだね.」
「僕たちもほしいもんだな」(「蛙のゴム靴」)
B② 「や君はもうゴム靴をはいてるね.どこから出したんだ.」
「いやこれはひどい難儀をして大へんな手数をしてそれから命がけほど頭を痛くして取って きたんだ.君たちにはとても持てまいよ。歩いて見せようか,そらいい工合だろう,僕がこ いっをはいてすっすっと歩いたら,まるで芝居のようだろう.」(「蛙のゴム靴」)
この童話の筋は,カン蛙・ブン蛙・ベン蛙の三匹のうち,カン蛙が野鼠にうまく頼んでゴム靴を手に 入れ,得意になっている.そのせいでルウ蛙という娘と結婚もできる.ブン蛙ベン蛙はたいそう怒り嫉 妬して,いたずらをしかける.
B③二匹は両方からぐいぐいカン蛙の手をひっぱって自分たちも足の痛いのを我慢しながら,ぐ んぐん萱の刈跡を歩きました.……
実際もうゴム靴はボロボロになってカン蛙の足からあちこちちらばってなくなりました.
(「蛙のゴム靴」)
明治末から第一次大戦にかけての日本資本主義の発達の裏面史にありそうなこの「靴」の意味は,人 間の争いの原因であるように描かれている.恐らく,ボール紙の底の靴を輸出してほろもうけしたとい う話が賢治の心をかなしませたのであろう.とにかく,装身に対する欲望が権威や嫉妬の原因になり,
争いの原因にもなるようなものの代表として,r白金」の指輪と同じように「靴」が使われている.
「注文の多い料理店」の世俗的で貪欲な二人の紳士についても,
B④ rきれいに髪をけずって,靴の泥を落しました」
と描写することを忘れていないのである.煙草同様,negativeな価値のイメージの脈絡に属し,やは り貪欲の一部分を意味している(4).
Cのr雑巾ほどあるオムレツ」という譬喩が,いかに意識的なものであったか,それがいかに食欲と いう貧欲の脈絡の代表であったか,それが,賢治の深層の価値体系としてどれだけの比重をしめていた か,これがつぎの問題である.
皿
賢治の詩における「食欲的風景」は特異である.
C① 起伏の雪は/あかるい桃の漿をそそがれ/青空にとけのこる月は/やさしく天に咽喉を鳴ら し/もいちど散乱の光を呑む.(「有明」)
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C②いちょうの葉ならみんな青い/冴えかえってふるえている/いまやそこらはalcoho1瓶のな かの景色/白い輝雲のあちこちが切れて/あの永久の海蒼がのぞき出ている/それから新鮮 なそらの海鼠の匂(「真空溶媒」Eine Phantasie im Morgen)
C③おれは数しれぬ星のまたたきを見る/草はみな葉緑素を恢復し/葡萄糖を含む月光液は/も うよろこびの脈さえうっ(同上)
C④蛇紋山地に簿をかかげ/ひのきの髪をうちゆすり/まるめろの匂のそらに/あたらしい星雲 を燃やせ(「原体剣舞連」)
C⑤稲とよばれるがさつな草の群落が/タアナアーさえもほしがりそうな/サラドの色になって ることは……(「不貪慾戒」)
C⑥ その白っぽい厚いすぎごけの/表面がかさかさに乾いているので/わたくしはそれを麺麭と もかんがえ/ちょうどひるの食事をもたないところから/ひじょうな饗応とも感ずるのだが (「溶岩流」)
C⑦月は崇厳な麺麭の実に凍って/はなやかな賜いろの空にかかれば(「有明」)
C⑧ ああ友だちよ/空の雲がたべきれないように/きみの好意もたべきれない(「停留所にてス ヰトンを喫す」)
C⑨青くかがやく死火山列から/風はいちめん稲田をわたり/また栗の葉をかがやかし/いまさ サツノ
わやかな蒸散と/透明な汁液の移転(「和風は河風いっぱいに吹く」)
C⑩つめたいゼラチンの霧もあるし/桃いろに燃える電気菓子もある/またはいまつの緑茶をっ けたカステラや/なめらかでやにっこい緑や茶やオリーブの蛇紋岩/むかし風の金米糖でも /Waveliteの牛酪でも/またこめっがは青いザラメでできていて/さきにはみんな/おお
レ ジ ン
きな乾葡萄がついている/みやまういきょうの香料から/蜜やさまざまのエッセンス/そこ には碧眼の蜂もふるえる(「下背に日の出をもつ山に関する童話風の構想」)
C⑪みんなでいっしょにこの天上の/飾られた食卓に着こうではないか/たのしく燃えてこの聖 餐をとろうではないか(同上)
これらのおびただしい風景が,一様に幻想食欲とでもいうべきもので色どられているということは,
いったいなにを意味するのであろう.彼は,「わたしたちは,氷砂糖をほしいくらいもたないでも,き れいにすきとおった風をたべ,桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます」とr注文の多い料 理店」の序文にかきしるしているように,現実の食欲を超越した幻想をもって生命のかてとしていたか
に見える.したがって最上級の形容句をもって美化し,観念をもって実質的な現実とおきかえようとす るかのごとくである.これらを彼の創作した食欲的風景のうちの,positiveな価値のイメージとしてま とめておくことにしよう。
C ① 卑しくひかる乱雲が/ときどき凍った雨をおとし/野原は寒くあかるくて/水路もゆらぎ/
穂のない粟の塔も消される/鷹は鱗を片映えさせて/真ひるの雲の下底をよぎり/ひとはち ぎれた海藻をきて/煮られた壇の魚を思う(「郊外」)
G ② 男が三人乗っている/じつにうまくないその面の風/じぶんたちだけせいぜいほうとうをし て/それでも不足で不平だというっらっきだ/今夜もみんな集まって/百五十円ほど貰いろ な水を呑もうというのか/そのはけそこないの酵母の糞を/町まで買いにいこうというのか (「つかれてねむいひるまごろ」)
C ③ あっちもこっちも/ひとさわぎおこして/いっぱい呑みたいやつばかりだ/羊歯の葉と雲/
世界はそんなにつめたくて暗い/けれども間もなく/そういうやつらは/ひとりで腐って/
ひとりでに雨に流される/あとはしんとした青い羊歯ばかり(「政治家」)
C ④ 赤い花火とはるかにひかる水のいろ/たとえばまぐろのさしみのように/妖冶な赤い唇や/
青々としてそり落された淫蕩な眉/鋭い二日の月もかかれば/つかれてうるむ瞳にうつる/
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町並の屋根の灰色をした正反射(「浮世絵三 展覧会印象」)
C ⑤ その高級な種類のなかの青年たちは/あんまりじぶんの勉強が/永くかかってどうやら/若 さもなくなりそうで/とてもこらえていられないので/大てい椿か鰯の油を頭にっける/そ して十分女や酒や登山のことを考えたうえ/ドイツ或は英語の本も読まねばならぬ
(「丸善階上喫煙室小景」)
C ⑥ 十字になった白い量さえあらわれて/空も魚の最球に変り/いずれあんまり磯でもないこと が/いくらもいくらもおこってくる(「善鬼呪禁」)
C ⑦ ぬさをかざして山っ舐/舞ふはぶらいの町の書記/うなじはかなく瓶とるは/峡には一のう ためなり(「雪の宿」)
C ⑧ 中空は晴れてうららかなのに/西嶺の雪の上ばかり/ぼんやり白く淀むのは/水晶玉の揚り のよう
……さむくねむたいひるのやすみ……/そこには暗い乱積雲が/古い洞窟の人類の/方向 のないLibMoの像を/肯像のようにいくつかかかけ/そのこっちではひばりの群が/いち めん漂い鳴いている(「休息」)
C ⑨みんなの ことばはきれぎれで/知らない国の言語のよう/ぼうとまなこをめぐらせば/青 の
い寒天のようにもさやぎ/むしろ液体のようにも煙って/此の堂をめぐる萱むらである (「穂孕期」)
C ⑩ 宿世のくるみ はんの毬/干割れて青き泥岩に/はかなきかなやわが影の/卑しき鬼をうっ すなり(「川しろじろとまじはりて.D
さてここにあげたC ①一⑩の詩句は,C①〜⑪に対して対照的である.彼のpositiveな価値のイメ ージに対して,negativeな価値のイメージであると見られる.「塩の魚」「酵母の糞」など伴ってそ こに点綴されたり,登場したりしてくる人物たちは,一様に欲望に支配された者の姿であり,
C ⑪ いやしくものはみあげつらふわがおもて/テートの類に劣るといふや(5)(「手張より」)
のごとく,賢治自身であることも多い.唾棄すべき人間たち,撮厭すべき自己自身,ともに.餓鬼,畜 生,阿修羅の姿といわばいえよう.実在であることをねがわないにもかかわらず,現実である人間の姿 である.これらの詩句C C ①細⑪は,食欲に関する思想の直接的な表出と見られる.そこでつぎに,
彼の童話,散文などの描写,表現性について,彼の与えた情緒的価値体系を考えてみることにすると,
そこにも,いちじるしい特徴的事実が見出される.
C⑫ その場でバーユー将軍は,鎧もぬげば,兜もぬいで,かさかさ薄い麻を着た.そして自分の 生まれた村のス山の麓へ帰って行って,粟をすこうし播いたりした.それから粟の間引きも やったけれども,そのうち将軍は,だんだんものも食わなくなって,せっかくじぶんで播い たりした粟も一口たべただけ,水をがぶがぶ呑んでいた.……そのうちいっか将軍は,どこ にも形が見えなくなった.そこでみんなは,将軍さまは,もう仙人になったといって,ス山 の山のいただきへ小さなお堂をこしらえて,あの白馬は神馬に祭り,あかしや粟をささげた り,麻ののぼりをたてたりした. (「北守将軍と三人兄弟の医者」)
C⑬ お礼に黄金色をした円い花粉をほかの花のところへはこんでやったり…… (「蜘蛛となめく じと狸」)
C⑭……石の閻から奇麗な水がころころころころ湧き出して,泉の一方のふちから天の川へ小さ な流れになって走って行きます.私どもの世界が旱の時 痩せてしまった夜鷹やほととぎす などがそれをだまって見あげて残念そうに咽喉をくびくびさせているのを時々見ることがあ るではありませんか。
今は空はりんごのいい匂でいっぱいです.西の空に消え残った銀色のお月様が吐いたので す.ふと野原の向こうから大きな声で歌うのが聞こえます.
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「あまのがわの にしのきしを すこしはなれた そらの井戸 みずはころろ そこも きらら まわりをかこむ あおいほし一・…」 (「双子の星」)
け C⑮ rこいづは鹿さけでやべか,それ鹿来て喰」
嘉十はひとりごとのようにいってそれ(栃の団子)をうめばちそうの白い花の下におきまし た.(「鹿踊のはじまり」)
これらはすべて英雄ソンバーユー将軍や,密蜂のようなはたらきものや,チュンセやポーセのように 自分をかえり見ず,大鳥やさそりやのためにひとのためにつくすかわいらしい双子の星や,鹿のこころ のわかる嘉十のような,positiveな人物たちの描写のためにささげられ,そえられている表現の用例で ある.彼らは,なにも食わなくなったり,水や花や木の実やだんごを口にいれるだけである.これに対 して,つぎの用例に出てくる人物たちは,いわば,すべてわりきっていえば悪玉であり,望ましくない イメージのものである.
C ⑫ rそこできょうのお礼ですが,あなたは黄金のどんぐり一升と塩鮭のあたまとどっちをお好 きですか」
「黄金のどんぐりが好きです」
山猫は鮭のあたまでなくてまあよかったというように,口早に馬車別当にいいました.
「どんぐりを一升早くもってこい」 (「どんぐりと山猫」)
C ⑬ ところが諸君,困ったことには,腐敗したのです.食物があんまりだまって腐敗したので す.(「蜘蛛となめくじと狸.D
C ⑭ 「なまねこ,なまねこ,世の中のことはな,みんな山猫さまのおぼしめしのとおりじゃ,お まえの耳があんまり大きいので,それをわしに噛って直せというのは,何というありがたい ことじゃ,わしがおまえの大きな耳をかじるのも,みんな山猫さまのおぼしめしじゃな……
(同上)
C ⑮ 「鷺を押し葉にするんですか,標本ですか」
、 r標本じゃありません.みんなたべるじゃありませんか」
rおかしいねえ」
「おかしいも不審もありませんや,そら」
その男は立って網棚から包みをおろして手ばやくくるくると解きました…… (「銀河鉄道の 夜」)
C ⑯ r幻燈は第一が〔お酒をのむべからず〕これはあなたの村の太右衛門さんと清作さんがお酒 を飲んで,とうとう目がくらんで野原にあるへんてこなおまんじゅうやおそばを喰べようと した所です……」
r狐こんこん 狐の子 去年狐のこん助が焼いた魚をとろうとしてお尻に火がっききゃんき ゃんきゃん」 (「雪渡り」)
C ⑰ r舶来ウエスキー,一杯二厘半」
うすぐろいとのさまがえるがのっそりとすわって,退くっそうにひとりでべろべろ舌を出し て遊んでいましたが……(「カイロ団長」)
C ⑱ とのさまがえるは,そこでにやりと笑って,いそいですっかり店をしめて,お酒の石油罐に はきちっと蓋をしめてしまいました.(同上)
C ⑲ 酒を呑まずに水を呑む そんなやつらがでかけてくると ポランの広場も朝になる
酒くせのわるい山猫が
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黄いろのシャツで出かけてくると
ポランの広場に雨がふる」(「ポランの広場」)
権威主義者のからいばりのr山猫」,くいしんぼうの「蜘蛛」,悪がしこいなまぐさ坊主の「なまね こ」,なにか生きものを殺した罪をおっているらしいr暗いかげの男」,「酔っぱらい」,「魚を失敬する こん助」,悪がしこくずるいrとのさま蛙」,これらの人物たちに添えられた食欲の対象は,ひとつの型 といっていいと思うが,魚・酒・などなどそれほど,多数のおびただしいイメージである.善良な山男 が町に出てきて感じる空腹の風景は,
C @入口にはいつもの魚屋があって,塩鮭のきたない俵だの,くしゃくしゃになった鰯のつらだ のが台にのり,軒には赤ぐろいゆで章魚が五っつるしてありました.(あのいぼのある赤い 脚のまがりぐあいはほんとうにりっぱだ.郡役所の技手の乗馬ずぼんをはいた足よりまだり っぱだ.こういうものが海の底の青いくらいところを大きく眼をあいてはっているのはじつ さいえらい)山男は思わず指をくわえて立ちました.(「山男の四月」)
のように記される.まずしいがりっぱな猟師小十郎は,熊の皮を町にもっていって買いたたかれる・そ のとき町の旦那が小十郎をもてなす風景はつぎのように記される.
C ⑳ ……そこへ塩引の鮭の刺身や,いかの切り込みなどと,酒が一本,黒い小さな膳にのってく る(「なめとこ山の熊」)
旦那の策略と一方的な取引きで,小十郎が涙しっついとなむ熊とりを,酒と肴に交換するのである.
恐らく賢治の心のなかでは,食欲という貪欲がさまざまの悪の根源であること,それが他人ごととして はうつっていなかったことと思われる.そして,
C ⑫ 童子は母さまの魚を砕く間,じっとその横顔を見ていられましたが,俄かに胸が変な工合に 迫ってきて気の毒なようなかなしいような,何ともたまらなくなりました.(「雁の童子」)
という叙述は,彼の自伝的部分であると見ることもできるであろう.このようにCC の二つの系列で,
くりかえしくりかえしあらわれるこの表現の脈絡のみなもとに,彼のといつめた社会悪の根源である貪 欲のうちの食欲のプラス,マイナスの二つの姿を認めることが可能である.そして,慈悲と愛とを旨と する仏の教えの一分派の偽善に対する痛烈な批判となってあらわれてくる.
C ⑳ 釈迦は出離の道を求めたが為に,檀特山と名づくる山中に於て六年精進苦行した.一日米の 実一粒亜麻の実一粒を食したのである.されども遂にその苦行の無益を悟り山を下りて川に 身を洗い,村女の捧げたるクリームをとりて食し,遂に法悦を得たのである.今日牛乳や鶏 卵チーズバターをさえとらざるビヂテリアンがある.これらはもし仏教徒ならば論を侯た ず,仏教徒ならざるも,又大いに参考に資すべきである.更に釈迦は集まり来れる多数の信 者に対して,決して肉食を禁じなかった.五種浄肉と名づけてあまり残忍なる行為によらず して得たる動物の肉は,之を食することを許したのである.今日のビジテリアンは,実に印 度の古の聖者たちよりも食物のある点において厳格である,されどこれは畢竟不具である,
畸形である.食物のみ厳格なるも,釈迦の制定したる他の律法に一も従っていない.特にビ ジテリアン諸氏よくこれを銘記せよ,釈迦はその晩年,その思想いよいよ円熟するに従って 全く菜食主義者ではなかったようである.
見よ釈迦は最後に鍛工チェンダというものの捧げたる食物を受けた.その食物は豚肉を主 としている.釈迦はこの豚肉のために予め害したる胃腸を全く救うべからざるものにしたら しい.その為にとうとう八十一才にしてクシナガラという処に寂滅したのである.
(「ビジテリアン大祭」)
ピジテリアンの主人公は,これに対して夢中で,論難を加えるのである.こういう脈絡において,賢 治の作品のうち傑作といわれるものの純粋さが意味をもってくると思われる.
C⑯ふたきれのみかげせきざいに
文体 と 構造 11
さびしくたまったみぞれである わたくしはそのうえにあぶなくたち 雪と水とのまつ白な二相景をたもち すきとおるつめたい雫にみち このつややかな松のえだから わたくしのやさしいいもうとの
さいごのたべものをもらっていこう.
おまえがたべるこのふたわんのゆきに わたくしはいまこころからいのる.
どうかこれが兜卒の天の食に変って やがてはおまえとみんなとに
聖い資糧をもたらすことを(「永訣の朝」)
C⑰けらを着粗い縄をまとい 萱草の花のようにわらいながら ゆっくり二人がすすんでくる
今日でない日は青いっるつるの 蓴菜を入れ,
欠けた朱塗の椀をうかべて
朝の爽かなうちに町へ売りにも来たりする(「腰原淑女」)
はじめの問題にかえれば,「オッペルと象」のなかのなにげない表現r六寸ぐらいのビフテキの,雑 巾ほどあるオムレツ」という発想は,『賢治が直観的に選択したと一見おもわれるものではあるけれど
も,その表現の脈絡はこのように深く広いのであって,賢治の情緒的価値体系の.必然的な露出のひと つである.地主的小資本家オッペルの性格の根本因子が,貪欲を中核にしている,ということをあらわ すための表現手段であったと考えられる.
「雑巾ほどあるオムレツ」というイメージは,賢治の作品中,おそらく他に見出しがたい特異なもの であるが,しかし,その特異性は,以上にのべたような,賢治の思想情諸の体系の普遍的な部分を背負 っている特異性である.酒をおおくの場合rきいろい水」ということがあるように,r雑巾ほどある」
という譬喩は,いかにも農民的土俗的地方的な即物的ないいかたであって,C ②購母の糞」C ⑱rお 酒の石油罐」(「カイロ団長」)という表現と好一対のユーモアとペイソスがある・
オッペルのくうr雑巾ほどあるオムレツ」に対して,自象は,日に藁なん把という食生活であり,さ いごにはそれもろくろくもらえなかった.オムレツと藁の対比において,オッペルの貪欲と残忍さは具 体化されているのである.この自象もはじめは,
夕方象は小屋に居て,十把の藁をたべながら,西の三日の月を見て rああ,稼ぐのは愉快だねえ,さっぱりするねえ」と云っていた・
晩方象は小屋に居て,八把の藁をたべながら西の四日の月を見て,
「ああ,せいせいした.サンタマリア,」とこうひとりごとしたそうだ.
その晩,象は象小屋で,七把の藁をたべながら,空の五日の月を見て,
「ああ,つかれたな,うれしいな,サンタマリア.」とこういった.
といったように,粗食に甘んじ。信仰と生活のよろこびに安んじているかに見える.たいへんな自己犠
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性を覚悟のうえで,自己の最低の欲望の抑制によって労働にいそしむ白象の姿は,賢治の理想とした善 意と美徳の象徴であろう.この白象のイメージの脈絡に,
C⑱ わたくしはまったく気の毒になって/汽車賃を引いた残りを三十銭ばかり/お礼にやってし まいました/それからも一度走って走って/ようやく汽車にまにあいました/そして昼めし をまだたべません/どうか味噌汁を出してごはんをたべさせて下さい(「母に言う」)
C⑲ 丈夫ナカラダヲモチ/欲ハナク/決シテ瞑ラズ/イツモシズカニワラッテイル/一日二玄米 四合ト/味噌ト少シノ野菜ヲタベ/アラユルコトヲ/ジブンヲカンジョウニ入レズニ/ヨク ミキキシワカリ/ソシテワスレズ/野原ノ松ノ林ノ蔭ノ小サナ萱ブキノ小屋ニイテ……
(「手帳より」)
C⑳金だらいを出して顔をぶるぶる洗うと,戸棚から冷たいごはんと味噌を出して,まるで夢中 でざくざく喚べました.(「風の又三郎」)
のようなイメージが連結していると考えられる.日常茶飯事というべき食欲が賢治の作品では,日常事 ではなく,つねに,最大の問題事であったように読みとることができる.子規の日記とはちがった文脈 と意味で,比較することはできないけれども,彼の書簡には,かなり数多くの食物についての記述があ って,単に儀礼的日常的とは思えない意味を感じる.
……今治水塩剥御送り上候,鮪廉価に候へども,風呂敷包みにて明日到着致しては却って宜し からずと存じ,御送り不申候間御地にて氷を載せたる品を御買ひ枝下度候(西鉛温泉の父あて 大7−8−16)
よくよく刺身などの好きな家族であったのであろう,妹とし子の病床から彼が家族に報じた手紙はつ ぎのとおりであった.
……刺身を折角望み居り候間明後日頃までに尚熱も下り他の菜を食して差支へなきようならば 魚屋にてまぐろの切身の新鮮なるものを求め病院にて刺身に作りて貰ひて食する様に致すべく 候(父あて 大8−1−18)
彼の作品のなかに上述した意味を含んでおびただしく見られる美しく幻想的な食事は,彼の日常茶飯 事としての実生活のうらがえし,曲折した反映であって,その反映が,さきにあげたっぎのような原罪 意識を形成したものと考えられる.
いやしくものはみあげつらふ わがおもて/テートの類に劣るといふや (「手帳より」)
C⑳ ……人がものを喰うということは何という悲しいことだろう一どんなに嫌いなひとでも,
そのひとが食事をしているところを見ると,もうどうしても憎めなくなってしまう.」とい い,「音や匂だけをたべて生活できたらどんなにいいだろう.今度はお互いにそんなところ に生まれてくることにしよう」と言った兄のことばを今なつかしく思い起すのです. (「全 集月報11」)
おそらくr雑巾ほどあるオムレツ」と「藁三把」の二つの対比は,原罪に対する反省のない貪欲とそ れに対するあがないとしての労働とを指示していると考えていいであろう.rオッペル的人間」とr白 象的人間」とを単純に社会的関係におきかえて読むよりは,社会的関係の成立の要因として読むほう が,CC に徴して作品の事実にちかいと思われる.いわば,賢治にとっての理想的性格である自象は,
常識的にいえば,破滅型ともいいうるが,それを「雑巾ほどあるオムレツ」と「藁三把」とで対比し てユーモラスなイメージに転化したところに,彼の思想と情緒の深さと痛々しさがあり,「オッペルは 自己自身の問題でもある,よそごとではない」という提起をさえ含むものである.くり返していうよう に,社会問題の根源的解決において,貪欲の承認はありえないこと,すなわちr白金が大ばくはつの原
因で」あることを,彼は書いているのであって,単に社会問題の反映などではないのである.
文体 と 構造 13
1V
作品のなかで,文体的諸特徴は,いったいいかなる位置にあるか,この小論の目的は,賢治の一作品 をとり扱ってそれを明らかにすることであった.文体的諸特徴は,作品の構造の深層にあって,かつ作 品の表層に露出している.表層にあるすべてが深層からっき出ているという保証はないかもしれない.
しかし,表層にあるすべては,構造と無関係であるはずがない.プロット,人物,基本思想,主題など などと無関係であるはずがない.これら構造の中核の基盤にあるr文体の脈絡」と,したがって無関係 ではないであろう.
作品の構造分析の作業をすすめるに従って順次抽象されていく構造要素は,つまり人物や主題やなど などは,すべて,深層の文体特徴,それの指示する具体的な脈絡と,論理的情緒的に連絡しうるもので ある.遠い連絡は意味があさく,堅い連絡は意味が深い,これはいうまでもないことである.よし,作 品の構造に統一がないにしても,非統一の統一という形で,連絡しうるはずである.したがって,人 物,主題,基本思想などなどの設定や解釈は,作品の表層のどんな些細な部分にも片々たる細部にもそ の必然性を承認させるものであるはずである.作品の表層のどんな一句もどんなパラグラフも,作者の 価値体系から説明しうるものであるはずである.
逆にいえば,作品の諸要素の設定と解釈との検証の手続のひとつとして,文体的諸特徴の考察の意味 がある.とさえ極論しうる.従来こういう点からの文体論的方法の利用はあまりかえりみられなかった ように思う.それは,文体的事実が深層の事実であることが意識的に明確ではなく,作品の本質と切り 離して相補的な側面なしで,考察され論議されてきたこととも関係がある.夢という深層事実を夢見る ひとと無関係に論じる傾向があったといってもよい.わたくしが,文章について類型的総括的考察をし なかったこと,統計的観察をしないことは,文章のほんの表層の事実に対しても,その作者の本質のど んな部分を含むかについて,それが説明しっくさないか,説明できないか,そのどちらかであると考え たからである.作品の構造分析の基底的領域として,あるいは検証の手続きとして,文体と構造の二つ の関係をこのように空疎でなく考えること,これが,作品論と文体論の両方をおしすすめる結果になる ように思う.
一方作品論がすぐ作家論になり構造分析的視点を欠いてしまう欠陥も,文体論的方法によって是正さ れるのではないかと思う.作品のなかの部分部分は,その作品のなかでそれぞれ構造上の機能をもち,
意味をもっているのであって,その意味や機能の共通性,特異性と作家のおかれた時代や環境や実生活 におけるある形態の共通性,特異性が,層をなし束をなし脈絡をなしていくのであって,ことなったレ
ヴェルを混同することは許されないはずである.作品の構造の分析に対し,つまり作品の本質に対し,
さらには作家の本質に対し,文体論的方法は,方法論的洗練を加えるものと思う.
rオッペルと象」の主題r貪欲」とr労働」をrオムレツ」や「藁」にあまり簡単にこじつけてしま ったかもしれない.もういちど考えなおしてみるつもりである(1967−9−10)
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註
(1) 「修羅の世界を越えて」(「地獄の思想J所収
(2) 「信安郡石室中,膏時樵者王質,逢二童子棊,与質一物如棄核,食之不飢,置斧干坐而観,童子日,汝斧桐 煽号,質帰郷間,無復時人」 (「述異記」)後撰集巻二〇,曾我物語九にも「斧の柄朽つ」ということが見 え,俳諧でも,斧・仙人・碁は付合になっていた.(「類船集」など.)賢治の典拠はむしろ民話にあったか と思われる.
(3)A④「山猫はふところから,巻煙草の箱を出して,じぶんが一本くわえ,
『いかがですか.』と一郎に出しました.一郎はびっくりして,
『いいえ』といいましたら山猫はおおようにわらって
rふふん,まだお若いから』といいながら,マッチをしゅつと擦ってわざと顔をし浄めて,青いけむりをふ うと吐きました.」 (「どんぐりと山猫」)
(4) 「……なんべんも何か云いたそうにしては/すこしわらって下を向いているこの人は/たしかに町の二年か 上の高等科へ赤い毛布と栗の木下駄で/通ってきていたなかまのひとり/……けれどもいまになってわれ われが/気候や品種やあるいは産業組合や/珠にも塩の魚とか/小さなメリヤスのもも引だとか/ゴム靴 合羽のようなもの/こういうものについて共同の関心をもち/一緒にそれを得ようと工夫することは/じ っに楽しいことになった/……(「こっちの顔と」)
ここにあらわれる「塩の魚」「ゴム靴」などなど,他のすべてがnegativeな価値のイメージであるに対し 姻dveな価値をになっていることについての,特別の説明はいま・まだ十分に用意していない・
(5)恩田逸夫さんのご教示によれば,「テート」は,TOter>t6teロではないかといわれる.賢治が,ドイツ語 に親しみを感じているらしいこと,発音など時に誤記が見られることによるといわれる。
(6,トーニー「宗教と資本主義の興隆」(岩波文庫)の図式を参照すれば,中世における「理想と現実」の混乱 が,ちょうど賢治のおかれた時点と彼の姿勢に対応するように考えられる.彼が「労働」を「貪欲の罪」に 対置しているのは,近代への踏みこみであったと思われ為.賢治の思想のいわゆる「反近代性」つまり「貢 欲の否定」の視点にたたず,「労働」の提起の視点にたてば,賢治に対する評価は,意外な方向に展開する と思われる.「貪欲の否定」の強烈さは,クロポトキンの「パンの略取」の深い影響のように思われるが,
このことはまだよく考えていない.
以上の考察は,福島大学文学研究会における発表にいくらか筆を加えたものである、
また引用の詩句は多くかなづかいを改めた.
また恩田逸夫さんからの私信を利用させていただいたことについてのおわびとお礼をしるしておきた
い.
文体と構造
15The Rd陵丘on between S壇1e and S血cture h伍e Opperu to Zδ
H丘α血Kamo
Ih his work,the Qpp㎝1to Zδ, by K㎝ji Miyazawa,is said to have exp,essed s1鷹ply bs attitude towald the social problem.S㏄h hterpretation,however,seems to be wr㎝g,
when we exa血e廿1e s鵬e and de舳of the work.For the sけhs廿。 cha路。㎞of
the work give evidence d皿t it蛤the rule of avarice and labour 樋皿t he tookロP並置1e work.
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and jusdfied by the sqFle analys蛤, and viceve㎜L T】鵬 procedure蛤 expedω to Put foward the stロdy of hte町works and the style.