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人間の主観推論式の体系的研究

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(1)

人間の主観推論式の体系的研究  

田 村 三 四 郎

 日冨箸○ω竜おB①B貴巨ω︒︷三巴①巳︒三巴︒B㌧囚唇堵

§遂①ヌ 騨口◎寓9昌一ω昏Φ嵐①霧霞ρげげ震Φ囲︒同ρ 霞Φ昌︒梓貯

8艮=9白詳げ$︒げ○夢Φ昌まH宅詳げ夢①壁9ωo隔まρ巷畠

田Φ貯嘆︒ぞ①HO器白p巳℃巳p廿δp     円ρQQ■ω〇三一一①同

凱 は し が き

 人間の主観推論式の体系的研究e︵長崎大学学芸学部︑人文科学

研究報告第一〇号所載︶では人間の主観推論式には消滅と離脱の両

契機の存することそしてこの両契機は我主観の崩壊消滅と生物主観

の我主観からの離脱であることを論じたが︑その帰結として生物主

観の根源媒介による我主観の汝主観との出会ひ︵時︑室的通路に於

ける︶という現象の生ずることも述べた︒

 この研究ではこの帰結を更に詳細に分析することによって人称代

名詞を以って人間性の諸契機の論理的表現とすることの可能性を示して見たい︒このために先づ人間の主観自体を主語と考えこの主語

としての主観を客観的に限定する述語を夫汝一人称︑二人称︑三人

称代名詞と見ることである︒従って主語としての主観自体は無限定

と考えられなければならないことになるから不定人称代名詞﹁誰か

・皆の人﹂ ︵P︼P︽○口①︑ ①ぐΦH︶NO⇒Φ︶ 等がこの主語としての主観の言

語的表現となるであろう︒ ﹁誰か﹂は自己自身を述語的に一人称或 は二人称或は三人称として限定するものを求めている主観自体である︒ ﹁皆の人﹂は同様に自己自身を述語的に一人称そして二人称そして三人称として限定するものを求めている主観自体である︒それが不定であるということは他面それが限定を求めているということ       ①である︒ムーアがその著﹁倫理学原理﹂の中で﹁私は楽しい﹂という命題と﹁快楽は善である﹂という命題を類比的に取り扱ひ﹁私は楽しい﹂は﹁私﹂という者と﹁快楽を持つということ﹂とが同一物であるということを意昧しないと同様﹁快楽は善である﹂は﹁快楽﹂と﹁善﹂とが同一物であるということ即ち﹁快楽は善を意味しそして善は快楽を意味する﹂ということを意味しはしない︒ ﹁快楽は快楽であって他の何物でもない﹂﹁善は善であって他の何物でもない﹂従って﹁快楽﹂も﹁善﹂も絶対的に不可定義的であると主張する時ムーアの研究が倫理学の原理にあって哲学のそれではないにしても﹁快楽﹂や﹁善﹂には︵快楽は私との関係に於て善は快楽との関係に於て︶包摂判断が許容されないこと従って絶対に判断の主語となることなく常に不定主観自体の倫理的述語の位置を保つことを言ったものと見るべきである︒不定主観自体の述語的限定の一つは生物主観であってその述語的限定は自然的であるから快楽は先づこの生物主観の意識的内容である︒先の﹁私は楽しい﹂という命題と﹁快楽は善である﹂という命題とは主語述語の混同によって﹁楽しくある﹂ことを意味する快楽と善とが命題の主語の位置に来た場合誤謬に陥るという点で類比的に考えられているにも拘らず﹁私は楽しい﹂という命題について起る誤謬は﹁仮令それが倫理学に関して私が自然主義的と呼ぶ誤謬と同じものであろうともそれを自然主義的誤謬と呼ぶべきではない﹂として﹁快楽は善である﹂について起      ②る誤謬と区別しその理由をムーアは主語も述語も共に自然物であっ

て一個の自然物である彼自身を他の自然物である快楽と混同してい

1 }

(2)

るからであるとしている︒﹁私﹂という一人称がいつの間にか﹁彼﹂

という三人称に置きかへられたようであるが︑これは寧ろ﹁私﹂と

いう一人称と三人称的生物主観との深き結び付きに於て主語︑述語

の混同の起ることを示すものと見るべきであろうし又三人称が特に

性別を有することは三人称的生物主観の実在性を証するものと言へ

よう︒

 生物主観の意識的内容としての快楽が﹁快楽は善である﹂という

命題を構成しそれがムーアの言う自然主義的誤謬に陥らず正しき意

味に理解せられるならばこの命題構成が我主観の外に別個の主観を

必要とすることは明らかであるがその主観とは述語的限定として二

人称である外ないことも明らかであろう︒生物主観の我主観からの

離脱は同時にそれが汝主観へ媒介されることであるからこ〜に生物

主観が三人称的となると共に三人称的生物主観と二人称的主観との

結合も存することになる︒ ﹁快楽は善である﹂という命題の述語

﹁善﹂は従って二人称的主観の意識的内容に求められることにな

る︒このように単に倫理学の問題一つを取って見ても人間性の諸契

機の論理的表現として人称代名詞を考えることは決して無意義では

ないと思はれる︒人称代名詞に哲学的意義を与へんとした試みは寡

聞な私の知るところでもブオイエルバツハの著に散見するもの︑エ

ム︑ブウベルの﹁私と汝﹂シユテルγの価値哲学巻三の価値の内

念︑ミードの﹁心︑自己そして社会﹂の﹁一般化された他者﹂ ﹁主

格としての私そして目的格としての私︵賎︑Hこ 9昌α へ︑目P①︾︾︶末木剛博

の﹁二人称の認識﹂ ︵東京大学教養学部人文科学科紀要哲学WiM

所載︶﹁不定人称の認識﹂︵同上W所載︶等がある︒いつれも示唆に

富むものでありその中ミードや末木氏の所論には啓発されるところ

が多いが只私にとって飽き足りなく思はれる点はその殆んどいつれもが三人称的生物主観という考えを欠いでいるか或はそれに触れた にしてもその考えが明確さを欠いでおり原則的に生物主観を一人称的︑二人置的主観に対立する独自の基底的主観であるとする私の考えからすれば遺憾の点が多い︒しかし言断って置かなければならないのは基底的主観としての生物主観はアリストテンスのヒユボケイメノγとは異なるということである︒アリストテレスのヒユボケイメノγは主語となって述語とならないものであるが基底的主観としての生物主観は不定主観自体の述語的限定の一つであるからその限り箏ろ逆に主語とはならないものである︒しかしそれが主観推論式の基底である限りでは主語的性質を持つのである︒従ってこの限りでは両者の問に矛盾があるとは言はれない︒何故なら前の場合は不定主観自体に関して言っているが後の場合は述語的限定をも含めた全体について言っているからである︒矛盾が生ずる場合は本文で分析したい︒

罰 人間性の諸契機の論理的表現としての人称代名詞︒

 我汝は日常会話に於て﹁彼︑彼女︑それ﹂などと語るがこれ等

﹁⁝⁝について語られるし ︵ω℃o閃Φコ︒︷⁝⁝︶ものを三人称と呼び

そしてそれが﹁⁝⁝について語られている﹂当のものである限りそ

れ等が何であれ話題の対象となっているものである乙とに間違はな

い︒その意味でこれ等のものを対象と呼ぶことは正しいにしても只

一般的な称呼としての対象という言葉で片付けることの出来ない特

殊の意味を持っている︒即ちこの時は単なる対象ではなく雑多の対

象群の中から抽出せられ謂はゴ会話の一成員となっている対象であ

って人間の情緒や欲望との関はりなしには無意味な存在である︒即

ち何等かの主観的性質に関はらしめられている存在なのである︒三

人称として一定の対象が人格的性質を帯びるのはこのためであるか

らこ︑では主観的性質の実在性と直接性が決定的意義を有するので

2

(3)

対象の客観的性質はこれにとっては寧ろ附帯的である︒附帯的とは

そのものが非実在であるということではなく主観的性質の実在性が

直接的であるから対象の客観的性質は間接的であるということに過

ぎない︒しかるに科学的研究の目にはこの対象の客観的性質の実在

性と直接性が決定的である︒従ってこ︑では会話の時のような対象

の主観的性質の実在性は消え失せそれは只対象の客観的性質の実在

性に附帯した間接的なものとして遠のくのである︒勿論こ︑でも色

とか香とかの主観的性質が非実在となるのではない︒只その実在性

が間接的となるのである︒従ってロックが対象の主観的性質を第二

性質と言って非実在としだ考えは誤りであって右に述べたように間

接化するに過ぎない︒これに依って見るも三人称を簡単に対象と同

一に考え去ることは分析の粗筆を免れ⁝難い︒対象は二通りの意味がある︒従って対象にも対象的主観というものも考えられそして存在するのである︒この対象的主観が質料主観であって﹁人問の生物主

観の精神物理的論理構造﹂及び﹁人間の主観推論式の体系的研究e

に於て論んじたようにこのものは意識的H物的結合で意識的契機は

直接的︑物的契機は間接的で意識的H物的契機の直接的H間接的結

合であるからこれに対する対象的客観の物的H意識的契機の直接的

H間接的結合との間に意識的・物的直接連結と物的・意識的間接連結

の交叉する二様の連結関係が存することになる︒ ﹁はしがき﹂で引      ③序した末木剛博氏の論文で氏が無分別とか分別とか言うのはこの関

係であろう︒この初めの意識的・物的直接連結に於て我六は﹁熱した鉄瓶しに触れた時思はず﹁あ︑熱い﹂と叫び﹁寒い戸外﹂に出た

時思はず首を縮めて﹁あ︑寒い﹂と言うのである︒この時意識に於

ても物に於ても夫六その直接性に触れるのであるからそれまで意識

的・物的直接連結を覆っていた物的・意識的間接連結が突然崩れ意

識に全ても物に於ても最初の直接性が間接性に転換されて無人称的 ﹁熱い﹂若くは﹁寒い﹂という述語が例へば﹁この鉄瓶は熱している︒私は手に焼けどした︒﹂若くは﹁今日は風が寒い︒私は薄着では風邪を引く︒﹂となるのである︒物的・意識的間接連結は対象的客観的であって一見対象的客観と酷似しているが実はその物的・意識的契機のいつれも間接性であるから対象的客観そのものとはその物的契機の直接性に潤て対象的主観とはその意識的契機の直接性に於てそのいつれとも根本的に区別のあるものである︒只自我との結合に於て対象的客観性の外観を呈しているに過ぎないのである︒この区別が結局物的・意識的間接連結引いてはこれと結合した自我の対象的客観化を崩壊に導くのである︒この場合自我の対象的客観化が自我自らの力︵仮令それが実践的であろうとも︶によって取り除き得るかの如く思い込んではならない︒このような自我の対象的客観化が生ずるのも自我に先って対象的主観︵質料主観︶が存在するからである︒尚詳しく言へば前述したような対象的主観と対象的客観の組合せが存在するからである︒もし素朴的に対象を単なる対象と考え自我に対する他者とするならその客観的性質の故にこれを三人称と呼ぶとすれば存在するものは一人称自我と三人称他者の二つとな      ④り二人称は一人称自我の三人称他者への投入であるということにならざるを得ないであろう︒このような考えは未だ主観主義を脱しないものでその根底には何等かの形で自我を実体視する考えがあるであろう︒しかしこのように実質的には人称を二つにして終うような考えは日常言語の実際とは一致しないものである︒寧ろこれに反し対象的主観を第三者として立てこれをして一人称と二人称︵他者︶を媒介せしむる方が日常の実際と一致するであろう︒話題となる対象が無ければ会話は成立し得ないからである︒そしてその対象は何等かの形で自他の情緒欲望とつながりを持つものであろう︒このことは同様に商品の売買についても言える︒もし二人称を単に一人称

3

(4)

の三人称他者えの投入と考えるなら二人称は自我によって存在する

と見倣された三人称に過ぎないものとなり実在の会話ではなくって

結局は独語の変形であろう︒商品の売買について言えば実在の売買      ⑤ではなく商品の独占の変形であろう︒ミードの﹁一般化された他者﹂

︵夢①σQ魯興聾N巴︒芸ΦH︶という概念はその著﹁心・自己そして社

会﹂の編者が﹁ミードの最も幸福な言葉・最も稔り多き概念の一

つ﹂と言ったものであるがその中心思想は﹁自己に対し他者の態度を

身につけること﹂︵学割昌σQ昏Φ暮葺&①ωOhO夢Φ誘8窯餌a匡日ωΦに︶

或は﹁他者の役割を演んずること﹂︵富匹⇒αq夢①δ冨9夢Φ○叶げ震︶

であるという︒凡て会話とか通信とか流通とかの根底にはこのよう      ⑥な考え方が無ければならないだろう︒ミードは﹁個体は如何にして

彼自身への目的となるような仕方で︵経験的に︶彼自身の外に出る

ことが出来るか﹂という問を設けて﹁彼自身に対し他の個体の態度

を身につけるることによって﹂であると答えている︒この場合﹁彼

自身﹂とは主格としての私﹁目的﹂とは目的格としての私を意味し   ⑦両者は社会的の私を知っている私︵..H︑︑芝三︒げ一ω9譲錠Φ○州昏Φ

ω︒9巴・︑旨①︑.︶ の関係だとしている︒ミードは社会的行動主義

︵ωOO一図一 げ①げρく一〇H一ωb﹈.︶ の立場からこのような結果に到達したが彼

が二人称︵他者︶の実在性と普遍性をこのようにして証明し得たの       ⑧は三人称からの推理によるのである︒彼は三人称的な﹁生物的個体﹂

︵江︒δσq皆ヨ9<δ亘巴︶を考えている︒そして別に一人称的・二人

称的に﹁社会的に自己を意識した個体﹂ ︵ω○︒芭甘ω華華︒口ω90目ω営島く乙自巴︶を考え人間行動に於ける行為のこの二つの型の区別

に最大の重要性を認めている︒にも拘らず両者は分離せられた平面

に在るものとは見ていない︒相互に所動と能動とをやり取りし大抵

の場合如何なる分裂によっても切断せられるようには見えない経験 を構成しているとしている︒この場合理性が能動的で生物的個体が所動的であるのではなく生物的個体が所動的能動であるということが基底に在るがためにそのことによってか︑る経験が構成されるというのでなければならない︒もしそうでないとすれば人間は単に﹁生物的個体プラス理性﹂的存在という通俗的見解を一歩も出ることが出来なくなり生物的個体と理性との内的本質関係を従って自己

︵︒︒①5 との内的本質関係をも理解出来なくなる︒そうして見れば

自我の社会的経験としての﹁一般化された他者﹂は生物的個体の﹁所動的能動﹂的契機によって媒介されているのである︒従って﹁はし

がき﹂の末尾で述べたように主観推論式の基底としての生物主観は不定主観自体に関して言えば述語的であるけれどもその述語的限定

をも含めて全体としての生物主観は主語的であるからミードの生物

的個体はこの意味の生物主観に還元出来る訳である︒現にミードも

生物的個体を形成する心理的要素としては生の情緒・欲望を列挙し

ている︒しかしミードは経験論者であるから生物的個体の理性的       ⑨意義は看過せられその所動的能動の契機も習慣的反応︵げ9σ犀葺巴

おω℃o霧①︶ に帰せしめられている︒しかし経験の意義は反って理性によって定まるのである︒習慣でも反って逆に所動的能動の関係

によってそれが惰性的で停滞的習慣となったり或は活動的で創造的

な習慣となったりするのである︒人間の習慣は下等動物の習性とは

全く同一ではなくそこには理性の存在が前提されているのである︒従って生物的個体と言ってもそれは人間の生物的個体或は人間の中      ⑩なる生物的個体或は又シエーリγグの﹁神の中なる自然﹂をもじっ

て﹁人間の中なる自然﹂ということも出来る︒

 ミードの生物的個体に関する考えにはこの点で限界がある︒人間

の自己乃至主観との本質的関はり合ひが曖昧となり﹁主格としての

私﹂ ﹁目的格としての私﹂を説くはよいが同時にその自我が生物的

4

(5)

個体の所動的契機との関係に於て対象的客観化する現象を理解する

ことが困難となっている︒しかしこの現象の理解を除外しては生物

的個体の人称化への変形的発展をも理解し難くなる︒感情移入の如

き主観的方法では到底不可能である︒何故ならこのような主観的方

法では結局一人称三人称はあっても二人称の実在性は証明し得ない

からである︒しかるに二人称と三人称の結合が一人称との結合より       ⑪も根源的である︒本居宣長の古事記伝によると日本の古語﹁イザナ

ギ﹂﹁イザナミ﹂の﹁イザ﹂は﹁誘う﹂に通ずる二人称の呼び掛け

       キし      メギミ

﹁ナ﹂は二人称﹁汝﹂﹁ギ﹂は﹁君﹂﹁ミ﹂は﹁女書﹂の省略又はつゴまったものであると言う︒二人称﹁ナ﹂に呼び掛けの言葉と語

尾には夫汝男女の性の別を示す語が結合している語の構成は恐らく

二人称と三人称の結合の根源性の一つの例ではないかと思はれる︒その他﹁こなた﹈﹁そなた﹂﹁あなた﹂の如く二人称﹁な﹂に﹁こ

れ﹂﹁それ﹂﹁あれ﹂という近中門の関係を示す三人称が結合した

場合も同様である︒そしてこれ等の場合二人称﹁な﹂の普遍性に注

目することが大切である︒がしかし三人称は未だ二人称から独立の

ものとして分化していない︒これが分化して来るためには一人称の

発達が必要であったであろうしその意味に於て一人称と生物的個体

との関係が重要性を持って来るのである︒この関係の一つに不可避

的現象として先に挙げた自我の生物的個体の所動的契機との関係に

於ける対象的客観化がある︒しかるに生物的個体は所動的能動であ

るからもう一つの能動的契機に於て生物的個体が自我の対象的客観

化に反発することの必然的帰結として自我は矛盾を内包するものと         ⑫なる︒従ってこ︑に反射的統覚というような概念を持ち込んで反射

的統覚は見るものと見られるもの︑相反するものが合一しようとする作用だから矛盾を含むとするが如きは自己の目を持って自己の目

を見ようとするもので何等自我が内包する矛盾の原因を説明したこ とにはならない︒自我が内包する矛盾は帰結であっても自己の理由ではない︒従ってカγトが﹁負号量の概念を哲学に導入する試み﹂      ⑲に煮て指摘したような理由と帰結の同一性の規則は如何なる意味に於てもこ〜には妥当しない︒自我と生物的個体との間には距離がある︒自我の内包する矛盾もこの実在等距離に於ける矛盾である︒こ      ⑭の実在的距離に於ける矛盾をカγトは右の論丈では﹁実在的対立﹂

︵巳Φお巴①国暮σQΦσq①pωΦげN鐸旨σq︶と称し単なる論理的対立としての

否定即ち﹁欠如﹂と区別して積極的否定即ち﹁剥奪﹂と言っている

従ってか︑る考え方からすれば先の自我の対象的客観化は積極的否

定としての剥奪なのである︒勿論彼がこのようなことを説いている

と言うのではない︒寧ろ彼は論理的理由︵δσQ一ωoげ興〇三⇔α︶と実

在的理由︵お巴ΦHO崔巳︶とを峻別するに急であって自我の内包す      ⑯る矛盾などは考えていないようにさえ見える︒対立を矛盾による論

理的対立か或.は矛盾なき実在的対立かに分けて考察を進めているが      ⑯如きである︒桑木厳翼先生はこの論丈にヒュームの影響を指摘する

がしかし勿論力γトの独創的思想が現われている︒只彼は当時の伝

統的論理学に従って矛盾を外延的に考えていたのである︒従って彼

が積極的否定を定義する場合矛盾概念を使用しないけどもそれを使       ⑰博した場合と同一の結果に達している︒即ち﹁否定が実在的対立の

結果である限りその否定を私は剥奪と呼ぶが否定がこのような拒否

から生ずるのでない限りその否定は欠如と呼ぶべきだ﹂と︒自我の

内包する矛盾は実在対立の結果であって矛盾を内包するがため結局

自我は崩壊消滅せぎるを得ないからである︒

 しかし積極的否定としての剥奪は主観推論式の基底としての生物

主観と自我との関係に於て生成し来る矛盾と否定の生成であって謂

はば主観推論式の前半に過ぎない︒古きもの〜生成である︒勿論基

5 一

(6)

底としての生物主観の意識的直接的契機︵別な言葉で言えば生物的

個体の能動的契機︶に於ける自我の対象的客観化への反発はそれが

未だ自由とは言えなくとも少くとも自由への前奏曲の温々を持つこ

とは極めて重大である︒この反発に於て自我は内部から崩壊するが

この崩壊を通路として媒介は直接性からの間接性への転換として現

はれる︒この過程は先づ生物主観を三人称的に限定するがこの限定

は他者︵汝︶への生物主観の媒介に基づくのである︒次に三人称的

生物主観に媒介されて他者︵汝︶へ運ばれる自我を我主観として一

人称的に限定し他者は汝主観として二人称的に限定される︒この順

序は自然発生的順序から見れば寧ろその逆であるが自由への道から

すればかくならざるを得ない︒三人称はそれが生物主観的であるか

ら﹁彼・彼女﹂の性を以って呼ばれるが又それが対象的主観として

対象的でもあるため﹁それ﹂とも言うのである︒ ﹁それ﹂は指示代

名詞の人称的変形的発展であろう︒従って一人称・二人称・三人称

は主観自体詳しく言えば不定主観自体の対象的に生物的として三人

称的に限定される主観を基底とした主観の限定態であり主観は主語

人称は夫汝その主語が限定を受ける述語なのである︒しかしその述

語となる人称は夫汝構成を異にしているにも拘らず孤立したもので

はなく相互に連関性を持ち一つの全き詣りを構成している︒例えば

主観の基底的限定となる生物主観は対象的に生物的限定を受けた対

象的主観であるがその意識的契機に於ては依然として直接的である

からこの点に於て我主観の間接性と差異を認めなければならないにも拘らず同一主観の限定であるということに重て連関性を持つから

両者の間には﹁私の生物主観﹂という関係があり自我から言えばそ

れが客観視される端緒を得るのである︒先に挙げたミードの﹁目的

格としての私﹂の如きはこの関係に於て先づ生ずるものと思はれ

る︒しかし自我と生物主観との連関性は自我の一面である︒何故な ら自我は主観として間接性を本質とするからこの主観を主語として自らの述語となることが出来る︒これが﹁主格としての私﹂である︒この自我の述語的客観性は先の自我の生物主観との連関性が持つ客観性と連関性がある︒自我は関係の関係なのである︒しかし関係はもう一つある︒何故なら対象的に生物的として限定された主観に媒介されて自我は他者に運ばれ主観に於て我は汝に関係せしめられるからである︒しかるにこのような媒介は対象的に生物的として限定された主観の意識的契機に於ける対象的客観の物的契機との直接連結を前提しているから主観に於て我が汝に関係せしめられる関係は自我の述語的客観性が汝の述語的客観性に関係せしめられて客観性の客観性︵述語の述語︶となり以上の三つの関係が第一の関係即ち自我と生物主観との連関性を介して一つに即ち汝の普遍的客観性に纏まることである︒この一つの纒りに於て存在の再結が実現し汝の普遍的客観性に於て自我の再生が実現するである︒従ってこの一つの疑りに於ては自我はその三人称的生物主観との連関性に於に我は汝の一人という関係に入ることになる︒この我は汝の一人という関係に於てする自己表現︵行動によるにせよ言葉によるにせよ︶が自我の自由である︒生物主観の能動的契機に於ける反発は自由の端緒ではあってもその完成ではない︒こ〜に発する自由は存在の再結汝の普遍的客観性に於ける自我の再生によって完成する︒従って自我は何等実体的なものではない︒寧ろ生物主観によって在りそして汝主観に於て在るものである︒この関係は不易であるが自我はこの関係に於て変移する︒何故なら自我はその生物主観の所動性︵物的契機の間接性︶との関係に於て崩壊消滅するがその能動性︵意識的契機の直接性︶との関係に於ては汝主観に於て再生するからである︒

翻 アリストテンスの個物の定義と三人称代名詞﹁それ﹂

6

(7)

         ⑱ アリストテレスが個物︵推論式の基体︶を主語となって述語とな

らないものと定義したのは周知の通りであるが人称代名詞の中でも

三人称﹁それ﹂はそれが﹁そのもの﹂として指示された事物の物的

概念をも含めて指示代名詞的に用ひられの時はアリストテレスが主

語となって述語とならないものと定義した個物即ち﹁このもの﹂と

同じものである︒只遠近の違いがあるだけである︒しかし﹁それ﹂

が単に指示代名詞としてではなく人称代名詞として用いられる時は

意味が異なる︒異なる意味構造を持つのである︒成程指示代名詞は

対象的客観物としての﹁その個体﹂を意味するが人称代名詞としての

﹁それ﹂は対象的客観物としての﹁その個体﹂ではなく対象的主観としての﹁それ﹂を意味し従って個体も単なる個体ではなく何等かの

意昧に覧て人格的個体を特に意味するからである︒そこには人間の

情緒なり欲望なりとの関係に於て既に生命的性格があるのである︒

もしそうでないとすれば﹁それ﹂を人称代名詞とすることは無意味

となるであろう︒時枝誠記氏がその著﹁日本丈法ロ語篇﹂で名詞と      ⑲人称代名詞の区別を論んじて﹁人称代名詞は常に言語主体即ち話手

と事物との関係を表現する場合にのみ用ひられる語である﹂と言っ

ているのはこのことを言ったものであろう︒そして﹁第一人称の代

名詞は話手が自分自身を話手という関係に於て表現する時にのみ用

いられ第二人称の代名詞は話手が他者を聞手としての関係に於て表

現する時にのみ用ひられ第三人称の代名詞は話手が他者を話題の事

物としての関係に曾て表現する時にのみ用いられるのである﹂と言っているのも首肯される︒しかし三人称﹁それ﹂が人称代名詞であ

るかそれとも指示代名詞であるかの区別を話手との特定の関係の表       ⑳現としての﹁それし︵対象︶が人であるかそれとも事物・場所・方

角であるかに求めようとすることは対象︵個体︶の物的概念の区別 に左右された見解であって一般に代名詞の特質は言語主体としての話手との関係の表現であるとする氏の考えと矛盾はしないか︒もっとも氏は﹁人﹂という物的概念を人称代名詞に含ませた体言的或は名詞的人称代名詞を考えているからこの観点からは一応矛盾は無くなるがしかしその代り三人称代名詞と指示代名詞の区別は本質的なものではなくなる︒この両者に本質的区別がないのが日本語の構成であるかも知れないがしかしそれにも拘らず言語主体の自覚を基礎として一般に代名詞を関係概念を表現する言語として把握する限りはその関係概念を三人称﹁それ﹂について分析することによって三人称代名詞と指示代名詞の本質的区別を明らかにしなければならぬではないか︒先にも述べたやうに指示代名詞としての﹁それ﹂は﹁そのもの﹂を意味し﹁それ﹂はそれによって指示された個体的事物の物的概念を含んだ関係の表現であるが三人称代名詞として用いられる﹁それ﹂は関係概念としてはこれと異なり﹁それしと個体的事物の物的概念との同一性の関係を表現する言葉である︒従って氏が ⑳ この絵は立派な絵ですね︒この作者はだれですか︒という文章を引例して文章の前半﹁この絵は立派な絵ですね﹂に於ける﹁この﹂の﹁こ﹂は体言的或.は名詞的代名詞と異なって﹁話手と事物との関係概念だけを表現してそのやうな関係にある物を含めていない﹂と言うのはこのような情緒文章では﹁この絵﹂の﹁これ﹂と﹁絵﹂は前者が後者を含むという関係にあるのではなく﹁これ﹂と﹁絵﹂は同一性関係に於てあるがためである︒この関係の相違は次のような丈章を作って比較して見れば一層明らかである︒ この絵は雲仙嶽を描いた絵ですね︒このような叙事文章では同じく﹁この絵﹂と云っても﹁これ﹂が﹁絵﹂の物的概念を含む関係にあるからである︒情緒丈章では﹁こ

7

(8)

れ﹂は﹁絵﹂の物的概念とは同一性の関係にある︒ ﹁これはこれは

とばかり花の吉野山﹂である︒ ﹁この絵は立派な絵ですね﹂という

場合の﹁この絵﹂は﹁これとしての絵﹂という意味構造を持ってい

ると言える︒﹁この人・その人・あの人﹂ についても﹁これ・そ

れ・あれ﹂と﹁人﹂との関係の仕方には同様に右の二種類がある︒

 この人は富裕な人である︒

 この人は尊敬に価する人である︒

の如きである︒ ﹁これ﹂が﹁人﹂なりや﹁絵﹂なりやは本質的には

関係は無い︒但し上記の文章が統一されて複文﹁この人は富裕であ

って同時に尊敬に価する人である﹂となるときは﹁この人﹂は﹁こ

れ﹂と﹁人﹂との同一性関係と同時にその関係に置かれた人の物的概

念︵こ︑では富裕︶を含むという関係をも統一的に表現することに

なる︒先に氏が引例した印章の後半﹁この作者は誰ですか﹂の﹁こ

の作者﹂の﹁こ﹂は﹁この絵﹂の﹁こ﹂の場合が純粋な関係概念の

表現であるとは少し異なり﹁話手と作者との関係を言ったのではな

くこの話手とこの絵との関係概念と同時にその関係に置かれた事物

即ちこ︑では﹁絵﹂をも含めて表現しているものであることは明ら

かである﹂と氏が言う時﹁この作者﹂は﹁この絵の作者﹂の省略で

あることが解るのであって﹁こ﹂が二種類の関係の仕方の統一的表

現たることに変りはないのである︒

 従って先に指示された事物の物的概念を含めて指示代名詞的に用

いられた﹁それ﹂を﹁その個体﹂としたのに対し今一つの関係即ち

﹁それ﹂と事物の物的概念との同一性関係を表現する三人称代名詞

的に用いられた﹁それ﹂を﹁それとしての個体﹂として区別するこ

とにする︒このような三人称代名詞的な︵その意味では客観的な︶

﹁それとしての個体﹂はアリストテレス的な個体の如く主語となっ て述語とならないものではなく反って逆に述語となって主語となら       ⑳ないことも出来るのである︒例えば﹁春は曙﹂で始まる枕草子の

﹁⁝⁝は﹂ ﹁⁝⁝もの﹂の形式を持つ丈章の如きはそのよい例であ

ると云えよう︒ ﹁春は曙﹂は﹁春は曙をかし﹂の省略でこの省略に

よって反って印象は簡潔な強さを加えているがその丈長的構成は

﹁春﹂が主語︵謂はゴ不定的︶で﹁曙﹂によって述語的に限定した

ものである︒この述語的限定が﹁をかし﹂と言うような情緒の動き

と結びついているのである︒このために枕草子の文章は事物の変化

と個性とを描くことに於て躍動しているのである︒しかし文芸に於

けるこのような個体的限定は不定対象自体に関するもので右の例で

は﹁春﹂は﹁曙﹂に対しては不定対象である︒ ﹁心ときめくもの﹂

などについても同称のことが言はれる︒しかるに哲学に於ても不定

主観自体の個体的限定ということが少くとも基底としての主観三人

称については言われるのである︒前節で生物主観を対象的に生物的

として限定された主観であると言ったのがそれである︒従ってこの

生物主観の対象性に於て哲学と芸術とは相交はるところを生じ一般

的に言って主観と対象的客観との接合点を生ずるのである︒こ︑か

ら人称の脱落した﹁それ﹂の無人称的使用も起るであろう︒このよ

うに﹁それ﹂という三人称は不定主観自体が対象的に生物主観とし

て限定される場合の対象的限定としての﹁それ﹂なのであるから

﹁こなた﹂﹁そなた﹂﹁あなた﹂と二人称﹁な﹂と結合して用ひら

れる場合は別として単に指示代名詞として用いられた﹁それ﹂とか

らは区別されなければならない性質を持っているのである︒ ﹁それ

としての個体﹂即ち﹁述語限定としての個体﹂は﹁その個体﹂とは

異なるのである︒そしてこの﹁それとしての個体﹂は不定主観自体

の一方面的な述語的限定であると共にそれが基底的主観であるとい

う点から言えば主語的である︒従って﹁それとしての個体﹂は主語

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的述語的の両面を持つ訳になるがこの限りでは矛盾は存しない︒只

﹁その個体﹂と﹁それとしての個体﹂との区別乃至距離が無視され両

者の混同が起る場合に矛盾も生ずるのである︒元来この場合﹁それ

としての個体﹂が主語的串語的両面を持つということは両者が並列

的に考えられているのではなく不定主観自体の対象的に﹁それ﹂としての述語的限定を含んだ全体が主語的であるのであって謂は∫主

語と述語は次元を異にしているのである︒従って両者の区別が取り

去られたとすればその主語性は対象的客観物としての﹁その個体﹂

の主語性と同一と見徹されることになるからこ︑にブウベルの言う ⑳﹁我主観的それ﹂︵H−犀︶の関係として我主観の述語性と﹁それとし

ての個体﹂の述語性との結合が﹁それとしての個体﹂を基底とした

主観に生ずることになるのである︒ ﹁はしがき﹂で述べたムーアの

﹁私は楽しい﹂という命題に於ける﹁楽しくあること﹂と﹁私﹂と

いうものとの同一視という錯誤がこ︑に生ずるのである︒しかしこ

れは只不毛の死に導くことでしかない︒ そしてこの死の不毛とは

﹁それとしての個体﹂の主語性・述語性の次元の違ひが取り去られ

たことを前提としているがこの﹁取り去られた﹂ということはこれを主語性の側から言えば主語性の剥奪ということである︒主語性の

剥奪ということがこ︑に導いたのである︒剥奪は反発を惹起する︒

死の不毛への反様は生である︒ 死は単なる生の欠如ではない︒ カ

γトの言う如くそれ自身否定的生であって生の剥奪なのである︒従ってもし﹁それとしての個体﹂の述語性が我主観の述語性との結合

を離脱して述語の述語としての汝主観の述語性と関係せしめられこ

れと結合するに至るならば﹁それとしての個体﹂の主語的述語的相

剋は止むのである︒しかしこの結合は﹁それとしての個体﹂の主語性

の我主観の述語性と自己の述語性との結合への反発を介して行われ

るのであって﹁それとしての個体﹂の述語性から汝主観の述語性へ のこの主語的媒介なき移行は論理的飛躍であって一種の主客合一的直観に訴へるものであろう︒又もし﹁それとしての個体﹂の述語性

︵実際は不当に拡張されたものだが︶が主語を含んでいるとすれぼ

この移行は主語的・述語落網剋矛盾が直接論理の推進力となるであ

ろう︒しかるに既に見たように﹁それとしての個体﹂の主語的・述

語的相剋は﹁それとしての個体﹂の述語性と我主観の述語性とが主観に於て結合するところに生ずるのであるから主語が述語性に含ま

れるということは唯だそれが主語性の剥奪という意味を持っている

場合のみに限られそれ自身何等独立的意義を有するものではない︒

寧ろ派生現象としてカγトの言う実在的対立の結果としての否定

に導くものである︒この相剋矛盾と否定の生成は常山の蛇である︒ ⑳﹁高直を撃てば則ち尾至り其尾を撃てば則ち首至り土中を撃てば

則ち首尾倶に至る﹂破壊である︒この破壊によって﹁それとしての

個体﹂の述語性は我︐主観の述語性との結合から離脱して汝主観の述

語性に結合するのである︒従ってこの過程は﹁それとしての個体﹂の主語性の反発を介して言い換えれば主語が述語性に含まれるとい

う関係の否定に於て成立するのであるから相剋矛盾は只間接性に於てしか論理の推進力となり得ないということになるのである︒そし

てこの否定的間接性が論理の通路性である︒占人の言うように路に

よって︵bPΦ叶9 げO匹○ω︶ のみ論理は推し進め得られるからである︒

媒介という概念はこの通路性の機能と見るべきであろう︒この通路が無ければ後段の存在の再結合ということもあり得ないこは明らか

である︒田辺元博士の﹁繊侮道の哲学﹂にはこの通路性についての         ら 卓見が見られる︒﹁絶体無の場所といってもそういうものが直接に

あるのではない只相対と相対とが相関係する種的有が平等なる交互性に依って類化せられ絶体媒介として絶体転換たる無に化せられる

を謂うに過ぎない﹂として西田幾太郎氏の絶体無の場所即ち無的述

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語性の直接性を七花八裂の破壊によって通路性としての否定的間接       ⑳性に転換することを説いているが只私が疑問に思う点は﹁自力的自

己が結ばれる間は通れない矛盾が自己の死を選び自己を放架せしめ

られると共に矛盾のま︑で通過が容され自ら融けて流れるに依って

矛盾の関が無擬になる︒それが分裂のま︑統一たる所以である︒﹂

と言って矛盾がそのま︑残ることを強調していることである︒何故に路通ずは矛盾の消滅を伴はないのか︒私の疑問はこ︑には矢張実

在と論理の混同がありはしないかということである︒しかし先に述

べたように矛盾は実在的対立の結果ではあってもその原因とはなり

得ないものである︒実在的対立の結果としての矛盾は否定に導くが

従って無も亦超越的に実在の原因とは成り得ないものである︒超越

的に無を原因とする実在はもはや実在ではなく虚有であろう︒従っ       ⑳て結局無に帰すべきものとして﹁無の媒介として方便的有即ち察有

たるものである︒﹂のである︒しかしこのような虚有乃至室有はこれ

も先に述べたように矛盾を内包する自我の有ではないか︒その故に

否定に導いたのであるから無は結果であっても原因とは成り得ない

ものである︒原因は別に無ければならないだろう︒もし結果を以て更        ⑳に原因とすれば﹁無は絶体無として相対の有無を超ゆるが故に超越

的に自己に対立せしめられ有無に拘らぎる自覚の統一根拠となる︒﹂のである︒これが先の﹁矛盾のま︑で通過が許容されるということ

であろう︒別の言葉で言えば﹁あれもこれも﹂でもなく﹁あれかこ

れか﹂でも無く﹁何れでもない﹂ ︵ノ<①AμΦ目一⇔OO一H︶ であろう︒しか

しこの超越性には不安がある︒何故なら規定が消極的でのみあるか      ⑳らである︒ ﹁無の媒介としての有は翌翌でそれが﹃何れでもない﹄と云はれる所以である︒﹂と言ってそれを無の媒介としての室有に

依拠せしぬるのみでその無を媒介する室有の実在根拠を不問に付し ているからである︒実在根拠とは言うまでもなく主語的実有の室有に対する反影である︒そしてこ︑に又矛盾の解決もある︒従って﹁無の媒介﹂という否定的間接性も主語的実有に内在的となり﹁何れでもない﹂も主語的実有に内在化するのである︒しかるに主語的実有はそれが実有である限り無の媒介としての室有とは異なり肯定的直接性でなければならない︒従って否定的間接性と肯定的直接性とは正に両方向に相対立するけれどもこの両者は主語的実有の主語性       ⑳に慌ては内在的に調和するのである︒私はヘルダーりγの﹁調和的に対立する一言﹂ ︵げ霞旨︒巳ωoプ①簿σQ①σQ①麟σQ⑦ω♀暮国首①ω︶とは言い得て妙であると思う︒主語的実有の主語性は一如なのである︒何故なら述語性は否定的間接性に点て実有の肯定的直接性と内在的に結合しているに過ぎないからである︒実有の主語性とは実有の述語的限定を含めた全体に関するものなのである︒西田幾太郎氏の﹁絶体に相反するもの〜自己同一﹂は頗るこれに近い響を持っている︒しかし異なるところもある︒何故なら彼は無的述語性︵場所︶の直接性に於て主語的実有をそれに内在せしめ自己同一を主語的実有の述語性と場所的述語性の自己同一と解釈しこれを枢軸︵M︶として主観と対象を行為的直観に於て統一せしめているからである︒従って主語的実有の肯定的直接性は主語性の一者的構造と共に失われていると見なければならない︒何故なら右の結果として主語的実有の肯定的直接性は否定的述語性︵場所︶の方向に奪び去られる乙とになり主語的実有の述語性は間接性を失って反って直接化し芸術に於ける不定対象の個体的述語限定と同性質を帯びてこのものによって述語的に限定される不定対象として有の一般者を爆ぜざるを得ないからである︒これと同時に主語的実有の主語性は反って否定的間接化せられその述語性との対立︵主語的個体と述語的個体の対立︶は場

所︵M︶の自己限定としての限定するもの無き限定に於て媒介され

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       ⑫るのである︒ ﹁弁証法的世界﹂の﹁Mの自己限定﹂に関する左の要

約的一丈はこれを示している︒ ﹁Mの自己限定と考えられるものは

個物と個物との媒介として限定するものなき限定即ち無限なる直線

的限定と考えられると共に何処までも一般者の限定として考えられ

るという意味に於て即ち所謂一般者Aの限定有の一般者の限定とし

て無限に円環的限定と考えられるものでなければならない︒而もM

の自己限定というものはか︑る両方面の交叉面という如きものでは

なくしてか︑る両方向というものは却ってMの自己限定から考えら

れねばならない︒場所が場所自身を限定することから考えられねな

らない﹂と︒しかし先にも述べたように芸術と哲学はその個体的述

語限定︵即ちその生命であるということ︶に於て相交はる点を生ず

るけれども両者ではその意味を異にしている︒芸術ではその個体的述語限定は不定対象の直接的限定として直観的であるけれども哲学に於ける個体的述語限定は不定主観の否定的間接性に於ける概念的

限定だからである︒もしこの限定が芸術に於ける如く直接的だとす

れば限定されるものが不定対象でなく不定主観である場合には主観

自体の個体的述語限定は単に所動的衝動とならざるを得ないからで

ある︒そしてこ︑に又所動に対する能動性の反発を生ずることにな

る︒この能動的衝動の問題は行為的直観の消極性に於てはもはや処

理し切れない問題である︒こ︑に直観からのある種の離脱が要求さ

れる︒それは行為的直観に於ける主語的実有の否定的間接性から肯

定的直接性への解放であるが主語性に於ては述語性の場合とは異な

りこの肯定的直接性は有的にではあるが一般的にではなく即ち個別

的に直観的にではあるがしかしそれが経験的に行的有経験として主

語的実有は経験されるのである︒実有の主語性は能動性である︒

凡ての体系の最初にあるものは述語でもなければ主語でもない︒ 最初に在るものは人間の経験的有なのである︒人間が経験的に有るということには二つの意味が含まれている︒一つは人間が所動的に経験されるものとして有ることでこれは人間が述語的に有ることだとも言える︒その二は人間が能動的に経験するものとして有ることで人間が主語的に有ることだと言える︒前者は理性的︑ロゴス的であるが後者は行為的︑パトス的である︒しかしこの二つは人間が経験的に有るという事の二側面であるから綜合的統一をなしていなければならないが人間が綜合的統一体として経験的に有るということは唯だ行三田経験として経験的に立証される外なきものである︒先に述べた主語的実有の否定的間接性から肯定的直接性への解放は解放であると同時に否定的間接性︵理性の否定的間接性︶を通路とする存在の隆起でありその限り存在は理性的であるがしかし存在の隆起そのものはもはや行的有経験として受け止める外なきものである︒      昭和三十六年一月二十八着脱橋

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(12)

 引 用 文 献

①②旨ooおO・国・

③ 末 木 剛 博

④ 末 木 剛 博

呂Φρ90●国●

象詐︒・象算︒●

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末 木 剛 博

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国ρu踏目・

︾H一の什O梓①一①Q︒

時枝 誠 記

時枝 誠 記  b昌ま首㌶国昏一s●     やお不定入称の認識︵東京大学教養学部入文科学科紀要哲学W所載︶二人称の認識︵東京大学教養学部人文科学科紀要 哲学w所載︶

寓言9QQo一︷ρ昌qω09Φな噛

ぴ乙●一げ蜀.

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古事記伝三三三

不定人称の認識

紀要折口学W所載︶

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カントと現代の哲学

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日本文法口語篇

同書 ℃.℃・℃●や●℃.

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    ︵℃ま一〇ωo℃ぼωo冨しd一げ=o夢Φ閃︶

       ︵東京大学教養学部人文科学科

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      頁二七

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      頁七三

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時枝誠記時枝誠 記

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⑫ 西 田 幾太郎 同書      頁七六同書      頁七七全講 枕草子 上     頁一

H㊤昌α導︒錫︵霞㊤葛一暮巴び団切●○・

ωヨ一夢︶         やα

拙稿﹁人間の主観推論式の体系的研究e﹂参照鏡野︵蟻墾書九+六種上盤書局

発行︶俄悔道の哲学

同書

同書

同書同書

鵠α一9⁝蕊QQ競旨菖一〇げ①をoH閑Φ︵冒ωΦ一−︾蕩σq9び①︶℃

dび興α9︒︒妻oa①嵩一白く①お︒げ①p

   拙稿﹁入間の主観推論式の体系的研究e﹂

   参照

   全集 巻七 弁証法的世界 頁三三五i六 頁二〇1二一頁五〇頁四七頁五〇頁一五六 ω・N9−NO①

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参照

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きたい)に表現するか。そこで浮上してくるのが,「認識」という概念である。筆者は「ある物

る︒従つて先づこ玉から生物主観は意識的11物的といふ構造を持つ

及と同じ‑誤ってそれに言及しているWolff,1995,180[334]

つまり重要なのは、即自の無化、虚無、空 虚と呼ばれる中で、葛藤を抱きながらも生き

すると同時に︑それに対するかれ自身の立場をできうる限り明らかにしている︒

多くのしるしが現われている﹂のを認めるが︑これを結果としてそこから原因を求めていくと︑自然という﹁創作物

 五は︑習慣︵oロω8ヨ︶が推理においてだけでなく︑情念においても大きな影響を及ぼすということである︒こ       ︵49︶

生態系では、主体が能動的に環境形成作用する場合だけでなく、環境も能動的になり環