D ・ヒ
ーヒュームの共感論 ユームの経験論的人間学の研究︵二十︶
︵二︶一
序文第一章 ヒュームのキリスト教神学批判 ︵第四十一・二号V
第二章ヒューム体系の哲学的基礎
第一節 ヒュームの知覚論︵第四十三号︶
第二節 ヒュームの因果論︵第四十四・五号︶
第三章 ヒュームの方法論
第一節 懐疑主義と自然主義︵第四十六号︶
第二節 ヒュームの道徳哲学方法論
︵i︶ 近代自然科学の方法論
︵11︶ ヒュームの実験的・経験的方法論
︵以上第四十七号︶
︵⁝m︶ ヒュームの歴史的方法論︵第四十八号︶
︵︒W︶ ﹁存在﹂と﹁当為﹂の問題
第四章 情念について
古賀 勝次郎
第一節 同一性の関係
第二節 ﹁知覚の束﹂としての心︵第四十九号︶ 第三節情念の分類
第四節 間接的情念と直接的情念
第五節 必然と自由について
︵iV 自然意志論争
︵帥11︶ 両立説︵8昌ロ四二げ罠ωヨ︶︵以上第五十号︶
パ⁝m︶︑必然と自由とル間の責任
第六節 情念と理性
第五章 ヒューム社会科学の基礎
第一節 ヒュームの先駆者達︵以上第五十一号︶
第二節ヒュームの道徳論
︵・−︶ 合理主義道徳論批判
︵・11︶ 利己主義と利他主義︵以上第五十二号︶
︵血︶ヒュームの道徳感覚論
57 早稲田社会科学研究 第60号 00(H.12).3
︵1︶﹁自然﹂概念の転換
㈲ 古代・中世の自然概念
ω 近代の自然概念
④合理主義の自然概念︵以上第五十三号︶
回理神論とケンブリッジ・プラトン主義
㈲経験主義の自然概念
㈲ロック・バークリの自然概念
︵以上第五十四号︶
︹中間考察︺ヴィーコとヒューム
はじめに
︵i︶ ヴィ:コの基本命題一く㊤昌目口噛国02B
(P1︶ ヴィーコの学問体系
(…香j ヴィーコのデカルト主義批判
㈲ デカルトの幾何学的方法論
㈲ ヴィーコのデカルト主義批判
︵V.−︶ ﹃新しい学﹄におけるく①歪轟け賦︒ε巳
と冒︒<乙①暮貯︵以上第五十五号︶
㈲ボイルの機械論哲学と﹁キリスト教神学﹂ 第六章 第一節 第二節 第三節 第四節 第五節 第六節第七章第八雲客九章 ㈲道徳感覚学派の自然概念i シャフツベリとバ.トラー ︑︵以上第五十六号︶・11 F・ハ.チソンの目的論的自然
…m@A・スミスの﹁見えざる手﹂
︵第五十七号︶
㈹ヒュームの自然概念︵以上第五十八号︶
ヒュームの共感論
共感をめぐる議論
自我の社会的性質︵以上五十九号︶
情念と共感︵本号︑以下続くV
共感と道徳的判断
共感の拡大
A・スミスの土ハ感論
ヒュームの正義論
法理論と統治論
近代の経済社会
58
第六章
第三節 情念と共感
D・ヒュームの経験論的人間学の研究(二十)
上述のごとく︑G・R℃モロウもいうように︑ヒュームの共感論は一種のコミュニケーション原理である︒とこ
ろで西洋中世における人間と人間の間のコミュニケーションは︑神を媒介としていた︒即ち︑キリスト教神学にお
いては︑人︵個人Vと人︵個人︶︑人と人々︵集団︑社会︑⁝⁝︶︑人々と人々などの間のコミュニケーションは
神を媒介として成り立つとされていた︒例えば噛トマス・アクィナスの法理論において︑永久法︵一①× 僧⑦一Φ﹁昌9︶
と人定法︵一⑦× ︼P二目P9ρづ⇔︶の間に自然法︵δ×轟ε轟︶があるのもぞうしたことを意味しているのであって︑人定
法は単独に存し得るものではなかった︒近代になっても︑自然法の問題は長く残り︑・自然法をどう扱うかで合理主
義者も経験主義者も苦悩した︒自然法の問題は何れ詳しく述べるが︑しかし何れにしても︑人間と人間の間にコミ
ュニケーションが存しない限り︑いかなる社会も成立し得ない︒とりわけ︑分業︵α叩く凶⑳hO昌 Oh 一鋤ぴO窪N﹀が発達し
ている近代社会においてそういえる︒そしてこの人間と人間とのコミュニケーションの問題についても︑やはり基
本的に二つの考えがあって︑一つは合理主義思想に基づくものであり︑いま一つは経験主義思想に基づいて導かれ
たものである︒
人間の理性に無限の信頼を置く合理主義者は︑時間や空問に制約されない︑従ってすべての人あらゆる人々に普
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遍的に妥当し理解され得る絶対確実な知識の存在を信じる︒例えば︑三角形の内角の和は二直角であるとか︑ニュ
ートンの万有引力の法則といった知識は︑絶対確実な知識であって︑時間や空間によって制約されない︒そうした
絶対的知識は︑十八世紀のイギリス人にも今日のイギリス人にも︑また十八世紀のその他の国の人々にも今日の他
の国の人々にも等しく普遍的なものとして理解され得る︒人間がその偉大な理性を働かせば絶対確実な知識は理解
できる︒そのような知識は︑文字とか記号とか書物などを通して知ることができる︒合理主義下達は︑自然科学的
な知識はいうまでもないが︑人間の精神や︑人間社会に関する知識も大体絶対確実な知識だと考える︒そして︑人
間の精神や人間社会についての知識も︑文字や記号や書物によって理解できるとする︒以上が︑合理主義における
人間と人間との間のコミュニケーションの考えである︒
これに対して︑理性の能力に限界を認める経験主義者は︑自然科学的な知識はともかく︑人間の精神︑人間社会
に関する知識の多くは︑絶対確実な知識ではなく︑せいぜい確率的・蓋然的知識であると考える︒それは知識とい
うものが経験に由来すると考えるからである︒従って経験主義においては︑人間と人間との間のコ・︑︑ユニケーショ
ンは個人や人々の経験を通して行われるとされる︒しかし経験にも種々なものがある︒ヒュームは経験の最も基礎
に情念︵O僧ωω﹁Oづω︶があるとした︒そしてヒュームは︑情念を扱う際︑自我︵ωΦ5を前提として論じている︒し
かし既に述べたように︑ヒュームは実体としての自我︑自我を本質主義的に解釈する自我論を否定した︒そして心
を﹁知覚の束﹂と理解することによって︑自我のポジティブな面の認知に道を拓いたのであった︒﹃人性論﹄第二
篇の情念論は︑自我のポジティブな面の存在を前提に議論されている︒そしてその情念論の中でヒュームは共感論.
を展開しているのである︒
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D・ヒュームの経験論的人間学の研究(二十)
ヒュームは︑自負や自画などの情念の起源を︑対象︑性質︑主体といった側面から検討しているが︑その﹁対
象﹂︵o豆①o梓︶が自我であって︑そこでは自我の存在は前提とされている︒そして周知のように︑自負や尊卑は︑
﹁観念と印象の二重の関係﹂︵αoβ巨Φお5口︒づ︒暁δ①鋤ω帥巳一員胃①︒︒臨︒房︶によって生まれる︒例えば自負について︑
ヒュームは次のように述べている︒﹁およそ︑快の感覚的気持を与え且つ自我と関係する﹁切の物は自負の情念を︑ ︵42︶すなわち同じく快適で且つ自我を対象とする自負の情念を︑喚起するものである﹂︑と︒しかしここでは︑自負の
対象は自我のみで︑自負の起源の説明としては十分でない︒そこでヒュームは︑以下の諸点を指摘することによつ ︵43︶て︑上の説明をより十全ならしめる︒情念というものが社会的性質を有しているからである︒一︑自負や自卑を生
むには︑自我との関係でなく︑自我と自負の主体との関係が緊密でなければならない︒二︑自負の主体は︑われわ
れにとって特異であるべきであり︑少なくとも︑われわれと共有する人物は少数であるべきである︒三︑快あるい
は苦を与える対象は大いに識別されやすく分明であるべきで︑それはわれわれにとってばかりでなく︑他人にとっ
ても同様であるべきである︒四︑自負を生むためには︑その主体は︑かなり恒常的︑持続的なものでなければなら
ない︒五︑一般的規則が自負や自卑に対して与える影響は非常に大きい︒
以上五点の中で︑自負の社会的性格を示す説明として重要なのは︑こと三と五であろう︒
二では自我ばかりではなく他人が関わってくる︒つまり自負は︑自分を他人と﹁比較﹂することによって生まれ
る︑というのである︒自分と関連を有する対象に価値があっても︑その対象が多くの者の共有するところのもので
あれば︑それは自分と他人を区別しないので自負を生まない︒ヒュームによれば︑われわれは︑﹁事物をその真実
の固有の値打から判定するより比較︵OO昌ρO鋤﹁一ωO口︶から判定する方が多く︑︹他物との︺対比によって価値を陞め
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︵44︶ることができないときは︑本質的に良いものさえ︑ともすると看過する﹂︒こうした心の性質は自負にも喜悦
(Un矯︶にも影響を与える︒喜悦を生むには快を生むものが必要なだけなのに対して︑自負を生むには快を生むもの
ばかりでなく︑情念の真の対象たる自我が必要である︒もっとも︑喜悦を生む快を生じせしめるものは自我との関
係を必須とする︒とはいえそれは︑そのものをわれわれに快適にするために必須なだけであるから︑自我は本来的
に言って︑喜悦という情念の対象ではない︒
三では︑他人が自負にとって絶対必要であることが指摘されている︒即ち︑他人は単に比較の対象としてだけで ︵45︶はなく︑自負の主体を識別し︑自負を強めるアクターとしても必要とされている︒この議論は︑﹃人性論﹄第二篇
第一部第十一節﹁名声愛について﹂︵い麟O臨けゴ①一〇<ΦOhh帥ヨΦ噂矯︶一この節こそ︑後に述べるように︑ヒュームがその
共感論を展開し始める節である一おいて更に論じている︒ヒュームによれば︑自負を惹起するすべての原因は︑ ︵46︶﹁他人の意見や感情に鴛助されないときは殆ど影響力を持たない﹂︒つまり︑他人がある人の自負を後援しないなら
ば︑自負は持続しないであろう︒これが意味するのは︑あるものが自負の価値ある主体であるかを判定する基準が ︵47︶﹁公的基準﹂︵p・陰匪︒ω3a母eだということである︒要するに︑自負を生み自負を持ち続けるためには︑その主
体が実際に自負に値するものだと他人が同意していることが必要なのである︒
ヒュームは︑情念が﹁観念と印象の二重の関係﹂を持たない限り生まれないという考えを裏づけるため八つの実
験を行っているが︑その中の一つにおいても︑自負の社会的性格を明らかにしている︒即ち︑第八実験において︑
ヒュームは次のように述べている︒﹁料る人物が我々の行為や性格に対して贈る称讃ほど該人物に対する好意と愛
情を即座に産むものはない︒同様に他方︑その誹誘や侮蔑ほど強い憎悪を我々の心に吹き込むものはない︒⁝・そ
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D・ヒュームの経験論的人間学の研究(二十)
もそも該人物が最初の情念︹すなわち自負又は長喜︺の真の原因であって︑従って最初の情念と緊密に結合してい
るが故に行われるのである︒︹換言すれば︑︺自負を産むものは該人物の称讃であるし︑自卑を産むものはその否難
︵48∀なのである﹂︒ここでは︑ある人の自負の原因が他人であることが述べられている︒つまり︑ある人の自負の原因
は︑その人のある性質を他人が是認することによって︑以前その人が持っていなかった自負を喚起しているところ
に求められているのである︒
五は︑習慣︵oロω8ヨ︶が推理においてだけでなく︑情念においても大きな影響を及ぼすということである︒こ ︵49︶こでヒュームは次のような仮定をしている︒もし︑われわれと同じ本性を有する人物が︑突然われわれの世界に送
り込んでこられたとすると︑あらゆる事物に困惑するであろう︒そしてそれらの事物にどれほどの自負や自刃とい
ったものを帰してよいか直ぐには分からぬであろう︒何故というに︑情念はちょっとした原理で変化するもので︑
特に初めての試みではそうであるからである︒しかしながら︑われわれには経験というものがあって︑習慣と実践
が情念の動きに関するあらゆる原理を明るみに出しすべてのものの正当な価値を決めている︒このことが情念を生
むことを容易にし︑われわれを導いて︑ある事物を他の事物より選好する場合守らねばならない割合を違わないよ
うにしてくれるに違いない︒つまり一般的な規則が自負や自慰といった情念に甚大な影響を与えるということであ
る︒このことからわれわれは︑人々の異った階層の観念を彼等が所有する権力や富に応じて形成する︒そして各人
の健康や気性の特異さが権力や富の所有から得られるすべての楽しみを奪うことがあっても︑そうした理由でこの
一般的な観念を変えることはない︒以上のようなヒュームの議論をつきつめると次のように言ってもよいのであろ
う︒﹁自負を生む快の感情は︑習慣的価値評価︵08<⑦o氏○コ巴く巴§江︒づω︶によって規制されるようになる︒それ
63
故に︑自負の適切な主体は文化の問題︵曽旨口鋤什けΦ﹁ O︷O=一け=﹃Φ︶である︒従って︑自負の主体は文化の違いによって ︵50︶大いに変り得る﹂︒
このように自我と情念の議論の中で︑ヒュームの共感論は論じられていくのである︒ヒュ:ムが共感論を展開し
始めるのは︑上にも述べたように︑﹃人性論﹄第二篇第一部第十一節﹁名声愛について﹂からである︒ヒュームは︑
同節において直ちに﹁共感の本性﹂︵薮Φ冨雲霞①oh超§犠§Vの考察に入っているが︑その前に︑それを行う理由
について︑極めて簡単だが触れている︒即ち︑自負の原因である徳や美や富などでさえ︑他人の意見や感情によっ
て後援されない限り殆ど影響力を持たない︑この現象を説明するにはいくらか遠回りして︑先ず初めに共感の本性
から考察しよう︑と︒ここには︑この現象がいかに複雑でしかも非常に重要な一社会現象の理解にとって一も
のであるかということ︑そしてこの現象の最も根本に共感が横たわっているということが表明されている︒ヒュー
ム曰く︑﹁およそ入園の性質︵ρ¢翌翌︒囲げニヨ碧づ舞震①︶のうちで︑それ自身にも又その結果に於ても最も顕著な
性質と言えば︑他人に共感する向癖︵寓8Φ曇日身⁝⁝8ω団ヨO讐乞N①註夢︒昏Φ屋︶︑すなわち他人の心的傾性や感
情が我々自身のそれといかほど異っていても︑いや反対でさえあっても︑それら他人の心的傾性や心持をコミュニ
ケーションによって受取る向暑︵嘆︒需昌ω諜胃⁝:8おOo寄①ぴ︽8ヨヨ§甘鋤鉱O質量①凶﹃貯O闘づ簿δ旨ω倉︒巳の①口け凶ヨΦ簿ω︶︑ ︵51︶これに勝るものはない﹂︑と︒
ここでは先ず︑共感が人性︵人間の自然︶の性質の中で最も顕著なものであることが表明されている︒ヒューム
の自然概念が︑古代ギリシア・ローマ時代の自然概念や︑中世のキリスト教神学における自然概念と違うことは既
に述べた通りである︵ヒュームの自然概念については︑上の議論を補う形で︑これからも機会あるごとに述べるけ
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D・ヒュームの経験論的人間学の研究(二十)
れども︶︒古代ギリシア哲学︑少なくともソクラテス以後の哲学においては︑自然は︑万物の根源・窮極的原因︑
普遍性の基準といったものであった︒ローマ時代になると︑自然概念は古代ギリシアのそれよりかなり柔軟・弾力
的になり︑例えばキケロに見られるように︑自然は慣習と同様な意味を持つようになり︑しかもその慣習はアリス
トテレスのいうそれよりも相対的・可変的なものであった︒しかるに︑中世のキリスト教神学においては︑自然の
概念は再び絶対化・普遍化された︒しかもその絶対性・普遍性の強さは︑古代ギリシア哲学のそれよりもより勝っ
ていたのである︒ヒュームの自然概念は︑キケロの自然概念を更に相対化したものであって︑自然概念の多様性と
いうことが説かれる︒従ってヒュームにおいては︑人性︑人間の自然の多様性が主張される︒しかしいかに多様性
が認められているとはいえ︑ヒュームの自然も一般的規則によって制約されている︒そしてヒュームは一般的規則
を原理と略々同じものと解する︒それ故に︑ヒュームが共感を人間の自然の最も顕著な性質という場合︑共感はそ
の一つの原理と理解されているのである︒つまり共感は人間の自然を構成する重要な原理ということである︒それ
は勿論︑そこからすべてのものが由来するようなあるいは演繹されるような窮極的な原因ではない︒しかし共感は︑
ヒュームにとっては︑その道徳哲学・社会科学の土台あるいは起点になり得る原理なのである︒
では何故︑共感はヒュームの社会科学の土台あるいは起点になり得るのか︒それは共感が情念と性質を異にする
ものだからである︒このことは︑上の引用文にもあるように︑われわれがコミュニケーションによって受取る他人
の心的傾性︵貯︒ぎ黛︒ユ︒口ω︶や感情︵ωΦ昌鉱筥Φ暮ω︶が︑われわれのものとどんなに違っていても︑否︑反対のもの
であってさえもよいとされていることから明らかであろう︒つまり共感は︑仁愛や憐欄を導くかもしれないけれど
も︑またその反対のものをも導き得るのである︒要するに︑共感は︑情念よりょり基本的な︑情念の土台に存する
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一種の情動︵降雪民oh①ヨ︒鉱︒巳だ︑ということである︒そしてまた共感は︑他人の感情や情念をわれわれに伝
達するものなのである︒例えば︑﹃人性論﹄第三篇第三部第二節では︑共感は﹁感情ないし情念のコミュニケーシ ︵52︶ヨン﹂︵8ヨ目¢巳8ま昌︒︷ωΦ身躯①艮ω鋤巳冨ω臨8ω︶と昌﹁員われている︒恐らくこれが︑ヒュームの共感について
の最も簡潔で適切な定義であろう︒では︑感情や情念のコミュニケーションということはどういうことであろうか︒
結論を先にいえば︑それは観念が印象に変化・転換するということである︒
上の﹃人性論﹄第二篇第一部第十一節の最初のところの引用文の少し後でヒュームは次のように言っている︒
﹁或る情愛︵鋤鍬8什δ昌︶が共感によって心に注入されるとき︑最初はただ結果によって知られるだけである︒換言
すれば︑顔貌や会話などに於ける外的標徴︵①×8ヨ9︒一同蓉ω︶によって知られるだけで︑この標徴が情愛の観念を
心に伝えるのである︒然るにこの観念︵けげ一ω 凶αΦ節︶は忽ち印象︵鋤昌ぎ震①ωωδ昌︶に転換する︒言換えれば︑強い
程度の勢いと活気を獲て︑情念そのものになり︑︹他人のうちにある︺根原の情愛と等しい情動を産む︒ところで︑
この.観念から印象への・変化︵け霞ωoゴ餌コひqΦo喘夢Φ置Φ蝉一コ8騨昌凶目買Φωωδ巳は︑どれほど刹那的に行われよう ︹53︶と︑心の或る視方ないし省察から生ずる﹂のである︑と︒ここでは先ず︑他人のある情念が共感によって心の中に
受取られる時︑最初は︑ただその結果によって︑例えば︑顔貌︵oo§差口碧︒Φ︶や会話︵oo頂く︒諺讐凶8︶などの外
的直心によって知られるだけだと言われている︒何故ならば︑憎悪︑怨讐︑敬重︑勇気︑憂滲といった情念を︑ ︵54︶﹁私は自分自身の気性や性向から感じるより︑︹他人の情念の︺コミュニケーションから多く感じる﹂からである︒
例︑えば︑他人の機嫌のよい顔を見ると︑晴々とした爽やかな心になるし︑悲歎にくれた表情に接すると︑ただちに
心が傷むのである︒そして次にヒュームは︑このような外的標徴が情愛の観念を心に伝えるが︑﹁この観念は忽ち
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D・ヒュームの経験論的人間学の研究(二十)
︵55︶に印象に転換する﹂︑という︒ここにヒュームの土ハ感の本性についての本格的議論が始まるのであるが︑その前に︑
簡単にヒュームの知覚論について復習しておこう︒
ヒュームによれば︑心に現れる一切のものが知覚︵O①円8甑8︶である︒そしてこの知覚は観念︵凶α①器︶と印
象︵一5P℃﹁Oωω一〇︼Pω︶からなる︒印象にも二つあって︑一つは﹁感覚の印象﹂︵一ヨ蔑Φωωδ諺︒眺ω9ω讐一8︶であり︑
いま一つが﹁内省の印象﹂︵凶冷只Φωω凶︒づωo︷﹁Φ自Φ×陶︒巳である︒前者は︑未知の原因から感官を通して最初に心に
生じる印象で︑後者はおおむね観念よりくるものである︒ところで︑印象と観念の違いは︑心に現れる時の勢い
(h曙l︒Φ︶と生気︵嵩くΦ嵩コΦωω︶の種類ではなく程度の違いである︒より勢いよくより生気に富んで心に現れるのが
印象である︒従って︑観念は思惟や記憶において知覚される印象の模写︵oob凶Φωoh一日胃Φωωδロω︶とされる︒従っ
て︑﹁観念は忽ち印象に転換する﹂は︑﹁強い程度の勢いと活気を獲て︑情念そのものになり︑︹他人のうちにある︺
根原の情愛と等しい情動を産む﹂と言い換えられるのである︒そして︑この観念から印象への変化は︑いかに瞬間
的に行われても︑﹁心の盛る視方﹂︵o旨旨ぎ三Φ毛ω︶ないし﹁省察﹂︵﹁駄一①〇二8ω︶から生まれるという︒では︑こ
のような観念から印象への転換・変化はどのようにして起るのであろうか︒
ヒュームによれば︑われわれ自身に関する観念−と言って︑直ちに﹁むしろ印象﹂︵鐙9Φ﹃一日只Φωω凶︒昌︶ζ一直
い換えられているが一は︑われわれにとって常に親しい︒われわれの意識︵〇二﹃ OOコωO一〇¢07昌Φωω︶は︑われわれ
自身の人格についてこれ以上ないというくらいの生気ある想念を与える︒上述した信念︵げΦ=臥︶の原理などから
も明らかなごとく︑われわれに関係ある対象は︑われわれ自身についての想念が活気あるのと同様の活気でもって
考えられねばならない︒そしてわれわれ自身のこの関係つまり類似と接近という関係は因果性ほど強力ではないが︑
67
連合関係として無視されてはならない︒要するにヒュームは︑観念から印象への転換・変化の過程を︑類似︑接近︑
因果性の関係によって説こうとするのである︒ ︵56︶.ヒュームは先ず類似︵おω①日面碧︒①︶の関係によって説明する︒確かに人間は一人一人異っており多様である︒
だがまた︑人間の間に著しい類似が存しているのも事実である︒他人に認められる情念は︑われわれのうちにも何
らかの程度に見出され得る︒また︑身体や心の仕組みも︑それぞれの各部分の形や大きさはどんなに異っていても︑
構成や構造は大体同じである︒そしてヒュームは︑このような類似が︑われわれを他人の感情のうちに入らせ︑こ
れを自分の感情として軽易にそして快適に抱かせる上に︑すこぶる多くの貢献をなすというのである︒つまり︑類
似はわれわれを他人の感情に共感させるのに極めて大きな作用を及ぼす︑というのである︒われわれの自然︵o霞
5讐霞Φω︶の一般的類似︵ぴqoコΦ﹃巴 おω①ヨげ冨琴Φ︶に加えて︑われわれの行儀や性格︑国土や言語に特異な相似
︵℃Φo島9︒﹁ω冒隅一⇔葺矯︶がある場合︑共感は促進される︒何故というに︑われわれ自身とある対象との関係が強けれ
ば強いほど︑想像はますます容易に推移し︑われわれ自身の人格について観念を形成する時常に伴う想念の活気を︑
ますます容易に︑関連した観念に伝達するからである︒
同じことは接近︵8昌鉱碧芽︶と因果性︵$器興国〇昌Vの関係についても言える︒即ち︑これちの関係において
も︑その関係が密接になればなるほど共感は大きくなるというのである︒他人の感情は︑同人がわれわれから遠く
距っている時には殆ど影響がない︒従ってこの感情のコミュニケーションを完全に果たすには接近の関係が要請さ
れる︒また︑一種の因果性である血縁関係もしばしば同じ効果をもたらすことに貢献するだろう︒血縁関係は︑両 ︵57︶親の子供に対する愛情を極めて強力なものとするけれども︑この関係が希薄になれば︑愛情も弱くなる︒同様のこ
68
D・ヒュームの経験論的人間学の研究(二十)
とは知己︵90ρ口曽一昌け9づO①︶関係についても言える︒即ち︑ある人物と深く交り親しくなれば︑たとえその人物に
優れたところがなくとも︑見知らぬ他の人物よりも︑その人物を選ぶようになる︒同じようなことは︑隣人︑同じ
商売人︑同じ職業人︑同国人についても言える︒またヒュームは︑習慣︵o器8導︶や教育も知己関係と同じよう
に作用すると言っている︒習慣も︑対象の想念が心に入ることを促し︑想念を強める︒教育は︑作為的に行われる
習慣的反復に過ぎぬ︒
ヒュームは以上のように論じた後︑再びその哲学の出発点である知覚論に立ち戻り︑共感の本性に迫ろうとする︒
既に述べたように︑知覚は観念と印象とからなる︒観念と印象の組成部分は非常に似ているし︑両者が現れる様式
や順序も言々同じである︒それ故に︑両者の違いは︑勢いと活気において後者が前者に勝っている点に認められる
だけである︒ところでヒュームは︑﹁この相違は︑印象と観念とのあいだの関係によって或る程度まで除去するこ ︵58︶とができる﹂︑という︒何故か︒それは︑﹁感情ないし情念の観念がこの︹印象と関係づけられる︺手段によって非
常に生気づけられて︑感情そのものもしくは情念そのものになる﹂︑つまり︑﹁ある対象についての生気ある観念は ︵59︶常に該対象の印象に近づく﹂からである︒いま少し説明を加えよう︒周知のようにヒュームによれば︑何らかの印
象が心に現れると︑それは心をその印象と関係を有する観念に移行させるだけでなく︑その観念に生気を与える︒
その際︑観念に生気を与えるのが︑類似︑接近︑因果性である︒これらが上述したように作用するのである︒そし
てヒュームは︑生気を与えられた観念は常にその印象に近づく︑という︒その過程で︑影響力を及ぼしているのが
想像力であることは言うまでもない︒ヒュームは別の箇処で︑﹁共感とは︑⁝⁝観念が想像の力によって印象に転
換することに他ならない﹂︵ゴ︽ヨb9ξ⁝⁝Lωpo昏ぎσqσ暮9①08<⑦邑80hき乙8ぎ8蝉巳ヨ鷲Φωωδpξ夢Φ
69
ま§︒含督墨壷︶と述べている・確かに・われわれは想像力だけで︑病気苦痛を感じるかもしれぬし︑そ
のことをしばしば考えると本当に病にかかってしまうかもしれない︒しかし信念︵び巴庶︶を欠いた想像の単なる
虚想︵臨6ユ︒昌︶はいかなる情念にも大きな影響を及ぼさない︒信念とは現前する印象に関係をもつ生気に富んだ観
念である.そして生気ある想像は通常生気ある情念を伴う︒従って︑他人の信念ないし所信︵意見︒o豆巳︒巳
を知らされる時︑われわれは他人の信念・所信に深く入り込む︒この時︑生気ある観念は容易に印象に転換される︒
また︑同様のことが情感︵珠︷①o口︒二︶の場合にもいえる︒情感は︑他のどんな印象よりわれわれ自身に依存する
ことが多い︒そのため︑情感は想像から︑また︑われわれが情感について作るすべての生気ある観念から︑比較的
自然に起るからである︒ヒュームによれば︑このようなことこそが︑共感の本性であり原因である︒ヒュームは次
のようにいう︒﹁我々が他人の情念や感情に共感するとき︑︑この︹心の︺動きは︑初めは我々の心のうちに単なる
観念として出現するだけである︒我々はこれを︑他の何らかの事実を想うときと同様に他人に属するものとして想
う︒また明らかに︑こうした情感の観念は︹忽然として︺その表す印象そのものに転換し︑他人の情感に就いて造 ︵61︶る心象に適合した情念が︹我々のうちに︺起る﹂︑と︒要するに︑共感においては︑観念の印象へのハッキリした
転換があるということである︒この転換は︑対象がわれわれ自身に対してもつ関係から起る︒われわれ自身は常に
われわれに親しく現れているからである︒
ヒュームは以上のような共感の一般的考察から次第に︑共感と具体的な情念との関係に議論を進めていく︒既に
述べたが︑﹃人性論﹄第二篇第一部第十﹁節﹁名声愛について﹂の初めのところでヒュームは︑自負や三半などの
情念の二次的原因に触れ︑それらの情念も﹁他人の意見﹂の支援がなければ殆ど影響力を持たないと述べていた︒
70
D・ヒュームの経験論的人間学の研究(二十)
共感の一般的考察の後に︑先ずこれについて少し詳しく説明されている︒ある人物がある性質を持っているという
ことで︑他人から賞讃されるためには︑それを有している当人がその性質に対し自負の情を持っていなければなら
ない︒およそ賛辞︵色︒ぴq貯B︶︑権力︑富︑家族︑徳などに向けられる︒そしてそれらはすべて自己誇示︵11虚栄
心︒ぴ蝉巳ξ︶の主題である︒ある人物が︑その賞讃者に現れる自己と同じように自己を考える時︑その人は先ず自
負とは違う快を︑そしてその後︑自負あるいは自己満足︵ω色帖−ω鋤毒舌︒甑︒巳を感得するだろう︒ところでこの場
合︑他人の意見をそのまま受け入れるほどわれわれにとって自然なことはあるまい︒それは︑権威と共感の二つの ︵62︶原理︵箸︒℃二昌6凶且①ωo︷⇔¢夢︒葺掃きαω︽ヨO簿ξ︶とに︑即ち︑他人の感情のすべてをわれわれに親しく顕わす共
感と︑他人の判断を彼等が断言することに対する一程の証明と思わせる推論︵お器︒巳昌αq︶とによる︒これら二つ
の原理はわれわれの殆どすべての意見に影響を与えるが︑とりわけわれわれが自分自身の価値あるいは性格を判定
する時︑特異な影響力を有しているに違いない︒というのはこのような判断には常に情念が伴うからである︒意見
と情念とが結合する場合ほど︑知性を撹乱して︑どんなに不合理な意見にもわれわれを陥れる傾向を持つ時はない
のである︒情念は想像の上に行き渡って︑情念に関係のあるすべての観念に更に勢いを加えるからである︒また︑
われわれは自分自身を著しく偏愛していることを意識している︒それ故に︑われわれは︑われわれ自身に関する良
い意見を確認するようなことは何事でみれ特別喜び︑それに反するものには不快を感じるのである︒
さてヒュームは︑具体的情念として先ず名声︵二目①︶を取り挙げ︑以上のような共感に関する一般的・理論的 ︵63︶議論の妥当性を検討する︒ここで最初に問題とされるのは︑名声への欲望や悪名︵ぎ賦ヨ︽︶に対する嫌悪が︑何
らかの原生的本能︵o比轟轟=旨ω自昌9︶から心が感得したものではないということである︒もし︑名声への欲望や
71
悪名に対する嫌悪が︑原生的本能から感得されるものであれば︑他人の意見はすべてそれらを平等に喚起すること
になろう︒だが事実はそうではない︒それらは︑他人の判断やそれに対する共感に大いに影響されるのである︒そ
して︑他人の判断の影響も︑その他人が自分の尊敬する者か軽蔑する者かによって︑非道く異る︒もし自分が尊敬
する人から称讃されるならば大きな満足を得るけれども︑軽蔑している人から称讃されてもそれ程満足しない︒同
じように︑自分が価値を置く判断を下す人から侮蔑されると著しく意気消沈するが︑そうでない他の人々の意見に
は殆ど無関心でいられる︒また︑他人の称讃も︑自分の意見と一致していて︑しかも自分が主に卓越している性質
に対してのものでない限り︑多くの快は与えられない︒例えば︑兵士は能弁という性質を︑民間人は勇気という性
質を︑主教はユーモアという性質を︑商人は学理という性質を︑それぞれ殆ど評価しない︒確かに抽象的に考えれ
ば︑人は優れた性質であればどんなに尊重してもよいのである︒だが︑自分がこのような性質を持ってないことを
意識する時には︑たとえ全世界の意見といえども︑この点で快を与えることは殆どないだろう︒何故というに︑全
世界の意見に従って︑自分自身の意見を描き出すことはできぬだろうからである︒ ︵64︶ ここでヒュームは一つの例を挙げかなり詳しく検討している︒その例は︑家柄はよいのに貧窮に陥っている人々
が抱く感情となす行動である︒そうした人々は︑大概︑自分の国や友人の下を去り︑異郷の見知らぬ人々の間に交
って︑卑しい手仕事に就いて生計を立てようとする︒そうした人々は屹度次のように言うだろう︒異郷へ行けば自
分の行先は知られることはなかろう︑自分がどのような家柄の出か︑誰一人怪む者はないであろう︑すべての友人
知己から遠く離れられるし︑貧しくとも気持ちはずっと楽になろう︑と︒ヒュームはこのような人々の感情を細か
く検討し︑以下のような議論を導いている︒
72
D・ヒュームの経験論的人間学の研究(二十)
一︒上のことから推論されるのは︑侮蔑されることから起る不快は共感に依存していて︑共感はわれわれ自身と
対象との関係に依存している︑ということである︒というのは︑われわれは︑血縁関係によって結ばれ場所的近接
の関係にある人々から軽蔑される時︑最も不快だからである︒だから︑そうした関係を絶って見知らぬ人々の間に
自らを置くことによって︑共感と不快とが減少することを求めるのである︒二︒関係は共感にとって必要欠くべか
らざるものである︒だがそれは絶対的に考えられた関係ではない︒それは︑他人の感情についてのわれわれの観念
をわれわれ自身の感情そのものに転換する際︑当該人物の観念とわれわれ自身の観念とを連合することによって影
響を及ぼす限り必要とされる関係である︒上の例の場合でいえば︑親族関係も接近関係も共に存続しているのであ
るけれども︑両者は同一人物のうちに結合されていないので︑共感への貢献は小さい︒三︒関係の分離による共感
の減少という事情は注目される︒自分が貧しく見知らぬ人の間に置かれ粗略に扱われたと仮定しよう︒この場合も
親戚と歳入とから二重の侮蔑を感じるだろう︒しかし親戚は近くにはいない︒従って︑血縁関係と接近関係で結合
される人物は同じではない︒それ故︑人物の観念が異ることは二重の侮蔑から起る印象を分離して合一させないの
である︒四︒上に挙げた例のような境遇に置かれている人物は︑誰かに今の生活よりはるかによい家柄であること
に感づかれれば非道く不快になろう︒というのは︑︑この世界のすべての事柄は比較︵OOヨ℃鋤同一ωO昌︶によって判断 ︵65Vされるからである︒︸平民にとっては莫大な財産も王侯にとっては貧困に過ぎない︒贅沢な生活をしていた家柄の
よい人が︑急に貧しくなり︑それまでの生活以下の生活をしなければならなくなった時は︑不快︑いや恥しささえ
タ
感じる︒そのような人は︑過去のことを隠すことに汲々とする︒この場合︑その人は自分の不運を知っているので
ある︒だが︑共に生活をしている人々はこのことを知らないので︑当人は︑自分自身の思惟によってのみ示唆され
73
る不快な内省や比較を行い︑他人の思惑に対する共感によってそれを受け入れるのではない︒そのため当人は︑安
心と満足とを感じるのである︒
ヘ ヘ ヘ ミ ヤ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ も ヘ ヘ ヘ ヘ へ.ヒュームはこの節の最後に一言述べている︒以上の議論は︑﹁称讃から受ける快は感情のコミュニケーションか
︑ ︑︑︵66︶ら起る﹂︑という仮説に立っている︒確かに︑この仮説に対して反論があるかもしれない︒だが︑いかなる反論も︑
適切に考察されれば︑かえってその仮説を補強することになろう︑とヒュームは言う︒例えば︑通俗的名声は︑庶
民を軽蔑する者にさえ快適である︒それは︑庶民が多数であることが︑重みと権威とを付加するからである︒盗作
者も自分では称讃に値しないと意識しつつ称讃されることを喜ぶ︒しかしこれは砂上に楼閣を築こうとするごとき
ものであって︑想像が自らの虚想を楽しんで︑他人の感情に対する共感によってその虚想を堅固に安定したものに
しようとしているのである︒誇り高い人間は︑人から軽蔑されると︑それに決して同意することはないにも拘らず︑
非常なショックを受ける︒その理由は︑自分にとって自然な情念と共感によって受ける情念とが対立するからであ
る︑とヒュームは述べている︒ ︵67︶ 次に憐欄︵冨蔓︶あるいは同情︵ooヨ冒︒ωωδ昌︶について見てみよう︒ヒュームによれば︑われわれは他人に対
して抱く愛︵一〇<Φ︶あるいは憎悪︵げ緯お血Vに従って︑他人の幸福あるいは不幸を望む欲望を持っている︒この欲
望は︑人聞の自然︵7信5P動O 昌90け=﹁Φ︶に植えつけられた本能であるが︑この欲望は︑愛や憎悪とは関係なく︑二次
的諸原理から起り得る︒憐欄もそれで︑憐欄とは他人の不幸に対する憂慮である︒しかしこの場合も︑その憂慮を
惹き起す友情︵ま①巳ω三℃︶は少しもない︒われわれは︑見知らぬ人や全く関係のない人に対してさえ憐欄の情を
抱くのである︒この憐欄の情感は根原的情感から発生した二次的情感であって︑それは︑思惟や想像のある特定の
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D・ヒュームの経験論的人間学の研究(二十〉
指向によって改められたものである︑とヒュームは言い憐欄という情念を共感によって解明する︒
上述したように︑われわれは自分に関係あるすべての事柄について生気ある観念を持つ︒すべての人間︵鋤目
ゴ毒9︒昌臼⑦跨霞︒ω︶は類似によってわれわれに関係づけられている︒従って︑人々の人格︑利害︑情念︑そして快
や苦は︑生き生きとわれわれの心を打ち︑根原的情動に相似の情動を生むに違いない︒生気に富む観念は印象に容
易に転換されるからである︒もし以上の議論が一般的に真であるならば︑懊悩︵命毛︒口︒コ︶や悲嘆︵ωo旨○≦︶に
ついては更に真であるに相違ない︒これらは常に︑快や享楽よりもより強く永続的な影響力を持っているからであ
る︒ ヒュームは例を挙げて説明する︒悲劇を見る観客は︑詩人が登場させる人物の中に表わす悲しみ︑恐しさ︑憤り
といった情感を自らも経験する︒そして多くの悲劇はハッピーエンドとなり︑運命の逆転のない優れた悲劇はない
から︑観客はすべての変化に共感してフィクションのもたらす喜悦やその他の情念を受け入れるに違いない︒従っ
てあらゆる違った情念が異った根原的性質によってコミュニケーションされ︑しかも共感の一般的原理に由来する
ものでないと主張されるのでなければ︑すべての情念はその共感の原理より起ると認められねばならない︒一つだ
けを例外とすることは甚だ不合理である︒というのは︑情念はすべて︑最初に詩人の心に︑その後︑観客の心に現
れるのであり︑また︑最初に観念として︑次に印象として現れるのが情念の現れる様式であって︑このことはすべ
てにおいて同じであるから︑その心の移行は同じ原理から起らなくてはならぬからである︒そして︑このような推
論の方法は︑自然学︵ロ二業巴9まωooξ︶でも日常の生活でも確実なものと考えられる︑とヒュームは言う︒
また憐欄は甚しく接近関係に依存している︑とヒュームは言う︒そしてこれは開渠が想像に由来する証拠とされ
75
る︒婦人や子供は専ら想像によって導かれるので︑漁燈の情に最も感じ易い︒婦人や子供の心はか弱いから︑悲し
みや懊悩に沈んでいる人を見ると極端に憐欄を感じるのである︒また︑哲学者の中には心血の起源を運命の不安定
についての省察に求める者もいる︒ホップズもその一人であって︑﹃リヴァイアサン﹄︵卜四竃ミ§§ま望︶の中で︑ ︵68︶﹁他人の災難に対する悲しみは︑出訴であり︑同様の災難が自分にもふりかかるかも知れないという想像から起る﹂︑
と述べている︒しかしかかる議論は観察によって反駁される︑とヒュームは述べている︒
最後にヒュームは︑共感をコミュニケーションする情念が︑その根原となる情念が弱いためかえって強さを増す︑
いや全く存しない情感からの推移によって起ることすらある︑と論じている︒例えば︑逆境にめげない人は︑耐え
忍ぶためにいよいよ痛ましく思われる︒そしてこの徳がすべての不快感を取り除くほどになれば︑われわれの同情︑
即ち憐欄の情は一層重きぐなる︒ヒュームはその理由を以下のように説明する︒優れた功績のある人物が︑世俗的
に見て大逆境に落ち込むと︑われわれは共感の原理によって︑その情況についての思念︵口︒鉱︒昌︶を形成する︒そ
してその原因から通常見られる結果へと空想︵貯昌昌︶を働かせ︑先ずその人物の悲嘆の生気ある観念を思い︑次
にその印象を感じる︒われわれは経験によって︑この程度の情念はこれほどの逆境には通常結合していることを見
出す︒勿論︑この場合は例外的なものである︒にも拘らず︑想像は一般的規則︵σq①内旨悪霊芭によって影響を受
け︑あたかも逆境に落ちた人物が実際に悲嘆の情念によって震い立たせられたとした時と同じように︑われわれに
情念の生気ある観念を思わせる︑否寧ろ︑情念自体を感じさせるのである︒更に︑逆境にいる人物が逆境の下で見
せる無頓着や平気さに︑われわれはその人物への憂慮を増す︒それは︑無頓着が徳や度量から生まれるのでない時
すら見られる︒この点は︑例えば︑敵に捕えられた幼い王について︑歴史家達が︑自分の惨めな境遇に気づかなけ
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D・ヒュームの経験論的人間学の研究(二十)
ればそれだけ同情︑憐欄に値する︑と言っていることからも明らかだろう︒この場合︑われわれはその幼い王の悲
惨な情況をよく知っているから︑その情況がわれわれに悲嘆の生気ある観念を︑更に︑その感覚を抱かせるのであ
る︒そしてその人物に見られる安心と無頓着との対比︵8葺轟ω仲︶によって︑その悲嘆の観念はいよいよ生気を増
し︑感覚はますます強烈になるのである︒そしてヒュームは︑憐欄についての議論を以下のように述べて締め括る︒
﹁およそ対比は︑いかなる種類にせよ︑想像を動かさずには決しておれない︒特に︑主題が︹自己のうちに︺対比 ︵69Vを表すときは︑想像を動かさずにはいない︒そしてこの想像に︑憐欄は完壁に依存するのである﹂︑と︒ ︵70︶ 次に︑富や力︵権力や能力︶に対する尊敬について見てみよう︒ヒュームによれば︑ある人物の富や力ほどその
人物に対する尊敬︑敬重の念を与えるものはない︒その理由としては︑一応次の三つが考えられる︒即ち︑一︑富
や力を存する者が持っている︑例えば︑家や庭や身の回りの品物などが︑それ自体で快適で︑それらを見る者の心
に快の感覚を生む︑二︑富や力を有する者から彼等が持っているものの分前に与かることによって得られる利益の
期待︑三︑われわれに近づくすべての人の満足をわれわれに共有させる共感︑である︒ヒュームはこれら三つの理
由をそれぞれ詳細に検討し︑結局は三が最も強力で普遍的な理由であるとする︒そこでここでは三の理由について
のみ詳しく見ることにする︒
例えば富はそれを有する者に満足を与える︒この満足は︑他の人にその想像によって伝えられ︑この想像が富を
有する者の抱く印象に似て勢いと活気を帯びた観念を生む︒ところでこの快適な観念あるいは印象は︑感覚におい
てそれ自体に快適な情念である愛情と結ばれている︒同じ観念ないし印象は︑富を有する者かち起るが︑その人物
の観念が愛情の対象そのものなのである︒実に敬重という愛の主概念たる情念は︑このような印象間の関係と観念
77
の同一から起るのだ︑とヒュームは言う︒
ヒュームはこう論じた後︑人間の自然についての簡潔で鋭い考察を行っている︒それは前節の最後に引用してい
る文章だが︑要するに︑﹁完全な孤独は恐らく我々の受ける最大の罰である﹂︑﹁情念に生命を吹込む原理は︑共感
である﹂︑ということであった︒それを言い換えると︑﹁我々が他人の思想や感情を全く度外視しょうとするとき︑ ︵71︶それら一切の情念は勢を失う﹂︑ということである︒そしてヒュームはこのことを︑共感の力︵昏①♂﹁89︒︒く∋−
層簿ξ︶が特に顕著に見られる例を挙げて確証しようとする︒
その例としてヒュームは美︵σ雷三巳を挙げ︑美の大半は共感に由来していると説く︒われわれはある事物を
見る時︑最初その事物は生命を持たぬ一片の物質に過ぎない︒だがわれわれはそこに止まらない︒われわれは更に
その物質が︑人間や動物などにいかなる影響を及ぼすか︑ということまで考える︒例えばある人がわれわれを家や
建物に案内する時︑それぞれの部屋やその位置の利便を指摘するだろう︒実際︑家の美の主な部分は明らかにそう
した利便に存する︒それ故︑利便を見ることは快を与える︒利便︵8コ︿①三〇口8︶は美だからである︒しかし︑利
便はいかにして快を与えるのだろうか︒われわれ自身の利害が少しも関っていないのは確かである︒だがこの美は
言わば形式の美ではなくて利害の美︵げ①碧ξohヨ8﹁①ωけ︶であるから︑その美がわれわれを喜ばせるのは︑感覚
のコミュニケーションによるものでなくてはならない︒換言すれば︑家の所有者に対するわれわれの共感によらな
ければならない︒その場合︑想像によって家の所有者の利害のうちに入り︑家がその所有者に自然に惹起する満足
と同じ満足をわれわれは感じるのである︒
同様のことは︑テ〜プル︑椅子︑机︑煙突︑馬車︑鞍︑摯︑いやすべての人工品︵Φく①﹁<≦o芽︒︷霞け︶にも言
78
D・ヒュームの経験論的人間学の研究(二十)
える︒というのは︑それら人工品の美は︑主としてそれらの効用︵耳筐蔓︶からくる︑つまりそれぞれのものが予 ︵72︶め定められた用途に適していることからきているからである︒だが︑これはその所有者一人にかかわる利益である︒
ただ共感だけが︑これを見る者の利害とするのである︒また︑同じことが︑野の肥沃︑絵の均衡︑人間の風貌など ︵73︶についても言える︑とヒュームは述べている︒
かくしてヒュームは次のように言う︒即ち︑一般的に言えば︑﹁人間の心は互いに鏡である︵昏Φ8ぎαωo︷日Φコ
母①臼凶霞︒窃88①鋤8夢Φ﹁.︶そしてその理由は︑人間の心が互いに他の人の情動を反射し合うからだけでない
︵づ︒け︒巳︽げΦo曽ロωΦ匪Φ︽﹁①臣①9Φ帥︒げ︒昏霞ωΦヨ︒鉱︒ロω・︶︒そうした情念や感情や意見という光線はいくたびも跳ね
返って︑次第に気づかれない程度で衰えて行くことができるからでもある︵び9巴ωoげΦ8二ω①夢︒ω①︻亀ωoh℃鋤ω● ︵74︶ωδ嵩ρω①昌ニヨO韓ω曽aOO一旺8ωヨ錯σΦ昧8﹁﹁Φ<興σ①冨89碧αヨ塁画①O富国≦9︒︽ξ貯ω①旨俄包ΦαΦ鴨①Φωの︶︒﹂ヒ
ュームはこの一般的原理に立って︑再度︑富が何故その所有者に対して敬重の念を与えるかを説明する︒富める者
が自分の所有物から受け取る快は︑これを見る者の心に投げ入れ快と敬重の情を惹き起す︒しかしこの感情は更に︑
富める者がこれを看てこれに共感することによって︑富める者の快を増す︒そしてそれは更にいま一度反射して︑
見る者の快と敬重との新しい土台となる︒以上の過程をいま少し詳しく分析すると以下のようになろう︒先ず確か
に富に対する原生的満足︵き〇酔ひq冒巴ω讐葱置け一〇昌︶が存在する︒それは︑富が与える人生のあらゆる快を享受さ
せるあの力に由来する︒この満足こそ富の本性であるので︑富から生じるすべての情念の第一源泉でなくてはなら
ない︒富より起る情念の中で最も顕著なものは他人のうちに起る愛ないし敬重の情念である︒従って︑この愛︑敬
重の情念は︑富の所有者の満足ないし快に対する共感より生じるのである︒しかしそれだけに止まらない︒富の所
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有者の心には︑このように他人の愛と敬重を獲得することから︑富に対する二次的な満足︵餌ωΦooβ住碧︽ω9臨騨︒−
口8︶が起って︑富を誇るようになる︒それ故この満足は︑富の所有者から生まれた原生的快の第二の反射︵騨
ωΦ08魁N亀Φo甑80暁昏鋤什︒識αq貯巴覧09︒ω霞①V以外の何ものでもない︒そしてこの二次的満足︑即ち自己誇示は︑
富の主要な取り柄となる︒それは︑われわれが自分自身のために富を望みあるいは他人の富を敬重する主たる原因
である︒そうであればそこに原生的快の跳ね返り︵9夢二巴おσo募ら︒︷毎Φoユαqぎ巴覧Φ⇔ω霞9がある︒そしてその
後は︑心象︵ぎ四ぴq①ω︶も反射︵憎亀Φ9δ昌︶もその弱さと曖昧さのために両者を区別することが困難になる︒以上
のようにヒュームは説明する︒
ヒュームはまた多くの具体的例を挙げて詳しい説明を行っているが︑以上で照々︑共感と情念の関係についての
ヒュームの議論は理解できたと思う︒そこで次に︑共感と道徳の問題についての議論に移りたいのであるけれども︑
その前に︑動物にも共感が見られるというヒュームの考えを見ておこう︒ヒュームが動物の間に共感を認めるのは︑
ヒュームのこれまでの議論から当然予想されることであった︒つまりヒュームはそれまで︑動物も人間と同様︑理
性や意志や情念といったものを有している被造物であると論じていたからである︒いま極く簡単に︑テキストに添
って振り返ってみょう︒
ヒュームが﹃人性論﹄において︑動物に関して︑最初にまとまった形で扱っているのは︑第一篇第三部第十六節 ︵75︶﹁動物の理性について﹂︵o︷窪①お四ωoづ︒喘坦巳ヨ巴ω︶である︒そこでは︑動物にも人間と同じく理性と思惟とが賦
与されていると説かれている︒理性は目的に適合した手段を考え選ぶ能力のことともいえるが︑そうした能力は人
聞にも動物にも見られる︒この場合︑目的とは自己保存とか快の獲得とか苦の回避といったものだが︑そうした目
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D・ヒュームの経験論的人間学の研究(二十》
的を目指す点でも︑また︑そうした目的を達成するために最も適した手段を選択しようとする点でも︑動物も人間
と似ているというのである︒そして︑﹃人性論﹄雄節の議論は︑﹃人間知性研究﹄の同じタイトルが付されている第
九章においてより緻密に行われている︒﹃人性論﹄第二篇では︑先ず第一部第十二節において︑動物の自負と自卑 ︵76︶について論じられている︒同仁では先ず︑動物にも人間と同様な自負や自卑といった情念が見られることがいわれ
ている︒次に動物が示すそうした情念の原因も︑人間の情念のそれと略々同じであるといわれる︒勿論︑ヒューム
は︑人間と動物が全く同じといっているのではない︒知性において︑人間の方が動物より優れていることは言うま
でもない︒また︑人間にはある徳や悪徳に対する感覚は動物にはない︒更に︑動物は血縁関係を早く失うし︑権利
関係や所有関係を持たない︒それ故︑動物の情念の原因は心あるいは外的対象ではなく専ら身体に存する︒だが︑
人間の情念の原因は身体にも存するのである︒例えば︑人間でも動物でも︑自負の原因は︑身体の美︑強さ︑速さ︑
その他その有用または快適な性質に負っている︒最後にヒュームは︑情念の原因が作用する様式も︑観念の関係︑
印象の関係について検討を加えた上で︑同じであると結論を下している︒そして︑﹃人性論﹄第二落第十二節で動 ︵77︶物の愛と憎悪について論じられているが︑動物にも共感が認められることが説かれているのはこの節においてであ
る︒動物も人間と同じく愛や憎悪といった情念を抱く︒だが勿論︑動物と人間の場合︑全く同じというのではない︒
例えば︑動物は想像の快苦を殆ど感じないし︑動物の愛情は人間ほど関係によっては惹起されない︒また子供に対
する親の愛情は︑人間の場合と同様︑動物においても本能から生まれる︒ヒュームはこのように論じた後︑共感は
動物の間にも見られるとして︑以下のように述べる︒﹁共感︑すなわち情念のコミュニケーション︵超§亀§霞
9①oo冬日¢三8口80hO⇔ωωδ霧︶︑これは明らかに︑入間のあいだに劣らず︑動物のあいだに生ずる︒恐怖・分心
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怒・勇気・・その他の情愛は頻繁にある動物から他の動物へ伝達され︑しかも彼らは根源の情念を産む原因に就いて
知るところがない︒悲嘆も等しく共感によって感得されて︑人間の場合と殆ど全く同じ帰結を産む︒換言すれば︑
同じ情動を喚起菱﹂・例えば・犬の遠吠えや泣声は仲間を大いに心配させる︒また︑遊ぶ時も争・時も︑同じ器
官を使い同じように行動し一牡牛は角を用い︑馬は後足を使うといった具合に一︑仲間の怒りを恐れる必要が
ないにも拘らず︑仲間を害することのないよう細心の注意を怠らない︒このことは︑動物が互いの快苦を感受して
いる証拠と見倣されてよい︒また︑犬は別々に獲物を追う時よりも︑隊を組んで追う時の方が意気盛んであるが︑
これは明らかに共感から生じているのである︒猟師達はよく知っていることだが︑相互に知らない二隊の犬が一緒
になると︑その効果はてきめん大きくなり︑予想さえしなかったほどにさえなる︒しかし︑もしかような現象と似
たものをわれわれ人間が経験していなかったとすれば︑われわれはそうした現象の解明に手こずったであろう︒更
に︑嫉妬や悪意は動物に顕著な情念であって︑多分憐欄よりも一般に見られる︒というのは︑監置に比べると︑嫉
妬や悪意は思惟や想像力を要することが少ないからである︑とヒュームは言う︒
ヒュームは︑﹃人性論﹄第二篇第三部では︑動物の意志や直接的情念については検討していないが︑それは︑そ ︵79︶のことが余りに明白である故に︑そのことを﹁読者自身の観察に任せ﹂たためである︒
さて︑以上のようにヒュームの動物論とも言うべきものをやや詳しく論じたのは他でもない︑そこにも︑中世の
キリスト教神学の世界観・自然観との違いが見られるからである︒周知のように︑キリスト教神学においては︑動
物は植物や鉱物などと共に自然の世界に属していて︑人間や人間に関わる世界とは全く切り離されていた︒近代の
動物機械論︵デカルトVや機械論的自然観︵例えばR・ボイル︶などが︑こうしたキリスト教神学の世界観.自然
82
D・ヒュームの経験論的人間学の研究(二十)
観の上に形成されたことは疑い得ないし︑また︑進化論︵ダーウィン︶がキリスト教主で大問題となるのも︑その
根はそうしたキリスト教神学の世界観・自然観に存しているのである︒しかし現在︑動物機械論や機械論的自然観
に対して強く反省が求められている︒それは当然︑キリスト教神学の世界観・自然観に対する反省を伴うことにな
ろう︒即ち︑人間と自然とを切り離し︑自然に対する人間の優越的立場を説くキリスト教神学の世界観・自然観が ︵80V問題になろう︒が︑それはともかく︑ヒュームは動物と人間を連続的に捉えた︒勿論このことは︑ヒュームが人間
と動物とを全く同じものと理解していたということではない︒上述したように︑動物は権利関係を持たない︑血縁
関係を早期に失なう︑また︑徳や悪徳に対する感覚を有しないなどの点において︑人間と異る︒しかしそれはあく
までレベルの違いであって次元の違いではない︒ヒュームは︑人間と動物それぞれの存在の土台に共通性を見た︒
それは︑自己保存︑快を獲︑苦を避けようとする欲望である︑そして何よりも仲間を作る欲望である︒ヒュームは
次のように言う︒﹁すべての生物には︑仲間を造る顕著な欲望がある︒この欲望によって彼らは結ばれ合うが︑し
かもこれから被りそめにも利益を収めようとは目論見さえできないのである︒この点は人間に於てなお一そう歴然 ︵81︶としている﹂︑と︒﹁すべての生物﹂︵鋤=o希讐霞①ω︶の中に︑動物が含まれていることは言うまでもなかろう︒こ
の引用文の直ぐ前で︑﹁すべての動物的生き物﹂︵島①≦げ︒一①9巳匿巴自Φ讐一8︶を通して﹁共感の力﹂︵昏①8零①o︷
契ヨO象ξ︶が見られることが言われており︑しかもその﹁共感の力﹂が﹁思惟するものから思惟するものへの感
情の容易なコミュニケーション﹂︵昏Φ$ωくoo目ヨ¢三〇讐一80hωΦ旨ニヨ①再ω時︒ヨopΦ9貯匹轟σ①ぎゆq8碧︒夢Φ﹁︶︑
と言い換えられている︒この﹁思惟するもの﹂の中に︑人間だけでなく動物も含まれていることは言うまでもない︒
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︵42︶ 出離送PP鴇匹δ§導鳴駄聖§黛§さミ越︑わ﹄︒︒︒︒●前掲邦訳日︑三〇頁︒ 注
︵43︶ ♂ミ鳴O﹄8ム●
︵44︶ 奪ミ◆も﹄︒︒ド前掲邦訳国︑三四頁︒
︑︵45V <巴5︾.︾愚﹂馬︑こPQ︒ω巳
︵46︶ =ニョρ︐卜δ§駐鳴ミミ§趨§さミ蕊噂︒■ω一φ●前掲邦訳日︑六九頁︒
︵47︶ <巴す諺;魯.叙︑轟PQ︒ω.
︵48︶ 霞ロヨρU■︾郎ぎミ帖怨ミミ§黛§冬ミ越も○︒降9前掲邦訳口︑一〇九−一〇頁︒
︵49︶.奪ミ4唱﹄㊤ωム﹁
︵50︶ <β︒因四μ︸−愚●禽性二炉︒︒α驚
︵51︶ 寓⊆ヨρ∪郎ぎミ営黛ミ§9謡﹀言ミ誉O.鐸ゆ■前掲邦訳日︑六九頁︒
またヒュームは﹃人性論﹄第三髪結三部第︸節では︑共感を絃楽器の絃の共鳴に讐え︑共感の本性を次のように述べている︒
コたい︑すべての人の心はその感じ及び作用に於て相似する︒⁝⁝︹揮えば絃楽器の︶二つの絃を等しく張ると︑一つの絃の
運動は︹共鳴によって︺残りの絃に伝達されるが︑それと同様に︑すべての情愛はひとりの人物から他の人物へ即座に移って︑
すべての入間︹の心︺に対応的な運動を生む︒⁝⁝﹂︵P出門ヨρ︾ぎ黛駐鳴駄ミ§§さミ蚕OO﹄胡よ︒前掲邦訳四︑一八五
−六頁︒
︵52︶ きミも.$P前掲邦訳四︑二〇九頁︒このように︑ヒュームは共感を感情あるいは情念のコミュニケーションと定義している
が︑コミュニケーションという用語がヒュームの道徳哲学において重要な意味を持っていることは言うまでもなかろう︒コミュ
ニケーションという語は︑中世時代かちしばしば使われてきたが︑近代に入って世俗化されると共に︑頻繁に用いられるように
なった︒トマス・アクィナスの神学においても︑コミュニケーションは極めて重要な意味を有していた︒アクィナスは︑8目・
ヨ唱三〇僧二〇を8ヨ∋ロ巳︒とooヨ琶口巳3ωの意味に使った︒それは︑世俗的意味も持っていたが︑宗教的色彩の濃いものであっ
た︒それは︑あらゆる愛の伝達と交わりを意味していた︒そこでは︑神の愛がすべてのコミュこケーションの土台にあった︒
人々を神の普遍的愛によって結びつけるのがコミュニケーションである︒人々の間のコミュニケーションは慈善によって︑神と
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