人間的欲求の疎外と能力主義教育
一他者関係の問題を中心にく覚え書き〉一
佐 藤 広 美
は じ め に
今日,子どもたちの多くは,学校内における学力の選 別的システムと家庭・地域社会における人間形成力の衰 弱との二つの「否定的連動」1)によって深い内面的危機に さらされている,
1979年,大学教授を祖父・父親にもつ有名私立高校生 の祖母殺し自殺事件はまだ記憶に新しいが,その彼が遺 した遺書は,現代目本の子ども,青年の内面に宿る危機 を端的に表現したものであった.彼は事件の動機を「エ リートをねたむ貧相で無教養で下品で無神経で低能な大 衆・劣等生どもが憎いから」とする.彼は,大衆・劣等 生の嫉妬とねたみにまみれた心理を攻撃し,77年,家庭 内暴力の激しい開成高校生を父親が殺した事件(「開成 高校生事件」)のその高校生が叫んだ言葉,「教養もない お前ら夫婦が一人前に説教できるか」に共感を寄せる.
ぴ 本多勝一一}&,彼が大衆の「いやらしさ」を描くとき,し かしそれは彼自身のいやらしさであり,劣等生の「しっ
と心」とは彼の「しっと心」にほかならなかった,と指
摘した2).
「きびしさの復権」など教育実践に貴重な提言を行なっ ている三上満は,この事件をとらえ,「勉強すればする ほど,頭脳が発達すればするほど,大衆を軽蔑する感清 や理屈が強固に固められていく.そして,そのために,
ついには自分自身をほろぽしてゆく.こんな勉強とは成 長するとはいったい何なのでしょうか.」3)とのべ,他者 への嫉妬にまみれ,人間的な欲求を屈服させていく今日 の学校の学習にひそむアポリアの解明を求めている.
一方,子どもの家庭・地域生活はどうか.子どもたち の生活は,かつてないほどの商品への欲求刺激を不断に うけ,物質的欲求に深くとらわれている点で特徴的であ る.たとえぽ,中・高校の女生徒が読む雑誌が最近急速 な変化をとげ,少女漫画の退潮とそれに代わるファッシ ョンとタウンの情報誌が浮上してきたとされる.現代の 少女たちは,少女漫画の虚構の世界にPtマンを求めるこ
とにほとんど興味を失い,日常生活のファッション化と
消費する欲求に夢を代償させてきているともいえるので
ある4).
三上満は,生活の中の他者の不在を子どもの危機の重 要な要因にあげ,人間への共感の豊かさのとりもどしを 教育実践の核心にとりあげる3).偏差値への,商品への 欲求刺激は,ともに「もの」へのとらわれであり,他者 との人間的関係を疎外させ,生活のうちに他者を不在に させるように働く.:豊かな人間的欲求は姿を消していく のである.,
もともと人間の生活は,生命の生産と再生産,生活手段 の生産と所有,すなわち物質的生活を基礎に人間的欲求 の発展を通して自己を実現していく過程であるといえ,
教育実践はこの自己実現のための目的意識的形成の人間 的行為であった.教育実践は人間の欲求について,それ をより豊かで質の高い,多面的で個性的なものにつくり あげ,それをわがものとして自己実現する人間の関係行 為であるといえよう.また,欲求とは,本来的には,な にものかについての自分自身の欠如ののりこえであり,
自分に欠けているより高次の段階における全体性にむか っての自己自身の飛躍にほかならないものであろう5).
欲求の本質は深く教育作用と結びついているのであ り,われわれは人間的欲求の構造にまで目的意識的な形 成を働かせる教育実践の創出を今日においてこそ実行し ていかねぽならないのではないか,
本稿では,子どもの内面の世界における危機こそが現 代日本の子どもの能力と人格の発達をめぐる危機の核 心である6),との指摘に学びながら,能力主義教育の 矛盾あるいは社会関係に内在する矛盾を子どもの主体 的苦悩や葛藤においてとらえ返すこと7)を目的にして,
具体的には,子どもの内面の危機を人間的欲求の疎外と
して把握し,それを学校と家庭・市民生活のなかで検討
し,さらに市民社会が直接に内包する基本矛盾において
それをとらえ返すことを試みようとした.したがって本
稿は,先行する研究では十分に位置づけられてこなかっ
た人間的欲求の疎外という視点にたって,能力主義教育
の批判を行なっていこうとの目的にそい,その視角設定
を試みようとしたものであり,一つの「覚え書き」であ
る.
1 能力主義教育批判の検討
E.フロムは,人間の最大の恐怖は仲間からの完全な 孤立であって,それは死の恐怖以上であるとする8).現 代の多くの子どもたちは,この孤立の恐怖という感情に 揺さぶられ,他者への嫉妬にまみれ,虚栄心を競い合い そして共感の体験を喪失させてきているのではないか.
本節は,こうした子どもたちの人間的欲求の疎外を「他 者関係」のあり様に原因をもとめることを狙いにして能 力主義教育批判の諸論稿を検討していくことにする.
村山士郎は9),70年代に民間教育研究団体を中心に多 様にとりくまれた基礎学力の回復のための教育実践は,
今日「能力主義にもとつく競争原理にどこまで対決でき るか」と,能力主義批判への本格的な検討の開始を提起 している.村山は,「学力はその性質上個人に属するも ので」あって,「今日,子どもたちが学力獲得の活動を 積極的に取りくめぽ取りくむほど,個人主義や競争主義 を子ども自身の内側にとり入れざるをえない」とし,「こ れは,現代社会と学校における学力がもっている矛盾で ある」とのべた.「学力」の蓄積がすすめぽすすむほど,
子ども自身の自己疎外は一層激化されていくというので ある,こうして基礎学力の獲得は,同時に子どもの個人 主義や競争との闘いとなり,自己の生き方の転換を求め るより深い教育実践を展望しなけれぽならないとする.
村山自身は,この展望を現代の社会生活の課題との関連 でとらえることを指摘した.
村山のこの学力獲得とそれがもつ能力主義への陥穽と いう指摘とその克服の途を社会変革との連動にもとめる 構図は重要である.しかし村山は学力の獲得が能力主義 へと転化していくそれ自体の矛盾の構造に十分立ち入っ ているわけではなかった.われわれが今必要とされるこ とは,学力の獲得につきまとう内在する矛盾それ自体の 解明であり,そのことを通し子どもたちの内面に深く刻 まれている危機の様相を明らかとすることではなかった
か.
従来能力主義教育の批判は,社会の構成原理との関連 を問う中でその核心を,「教育の商品化」1)「能力の市場 能力への転化」1°)あるいは「経済的範疇の人格化」11)など と表現してきた.教育の矛盾構造をその基底において捉 える点でこれらの指摘は重要である.
や
ところで,今われわれが注目したい論述は,1963年に 小川太郎が行なった「学力の商品化」「学力と人格の疎 外の教育」という能力主義教育批判である.なぜならこ
のはやい時期になされた小川の努力は,子どもをめぐる 内外の構造的矛盾が一層深刻化し,するどさを増してい る今日,とりわけ特筆されてよい理論的核心を含んでい るとともに,現代に生きるわれわれがそれをどのように 発展させていくべきかをみる試金石ともなっているから
である.
小川は,学力と人格の形成過程における矛盾を教育の 構造矛盾とし,それを資本主義社会の生産力と生産関係 し
の矛盾に規定させている.資本主義社会は商品生産の支 配する社会であり,学力も商品価値に転化し,そこに人 格の疎外が生じるとし,教師や学校の善意をこえて子ど もの学力向上が資本主義的人間疎外の執行となっている 冷厳な事実にわれわれは目を開かなけれぽならない,と 小川はのべる.小川はさらに次のようにいう.
「この学力の疎外の論理は,そのまま人格の疎外の論 理なのである.というのは,学力の質にかかわらず,
より高い商品として自己を売るために学習にはげむと いう学習の態度は,それだけですでに人間性の喪失を 意味している.人間となることではなくして,商品と なることが目的となっているからである.人間である 自己の主体的な要求ではなくて,人間を支配するもの の人間を物化する力に,人格が従属しているからであ る.この論理は,子どもの学力がその問題の質を問わ ないテストの成績で測られ,子どもの学習意欲がテス トの成績の競争や五段階の相対評価における地位の向 上の喜びと転落の恐怖によってはげまされる過程をも 貫いている.そうした過程で,子どもは自分自身のも のではない価値に従わされ,人間的ではない動機に よって学力の疎外に向かってかりたてられるのであ
る.」12)
また小川は,学力の商品化は必然的に学力のための競 争をひきおこし,子どもたちは互いに対立し敵対する存 在と化し,共同体的な人間の破壊をもたらすとする13>.
そして解放の途を差別と競争の原理から団結の原理の転
換に求めた12).
この小川の「学力の商品化体制」という指摘は,もと
もとテストは個人の質的差異の測定のために開発された
ものが個性の確認ではなくそれを量のちがいとして序列
化するものへと転換することになってしまった14)ことの
基本的原因を衝くものであろう.あるいは,共通一次試
験を頂点に国家権力によって子どもの学力の相対比較と
差別的ランキソグ付けが行なわれるようになり,人間の
個性と能力の具体性が捨象され,抽象的で一元的な評価
めメカニズムという,いわゆる「偏差値教育体制」の今
日における完成もこの小川の「学力の商品化」論によっ
て基本的にその原因は解明されるものであろう.
しかし同時に,小川の論は教育の矛盾が労働の疎外に 直接結びつけられ,学校教育をストレートに社会の解放 と結びつける弱点をもっていたとされる15).そうである ならぽなおのこと学力の獲得と人格の分裂・対立をその 形成過程にそってより構造的に分析し,子どもの欲求の 具体相において把握していくことが必要となってくるの ではないか.
われわれはそこで,教育過程の「評価」における「目 的と手段との転倒」を指摘した佐藤興文16)に学びたい.
佐藤は,教育の一過程にすぎない評価が逆に学習や学力 の内実の価値をおおってしまい,それが学習者と学習内 容とのあいだの必要な媒介物となり,結果的にこの評価 の規制こそが学習者の意欲を抽ぎだし学習を成り立たし める不可欠の条件にいたるとする.そしてこの評価その ものは種々の学習内容をすべて唯一の価値次元に換算し 還元するよう作用を及ぼすとし,この「媒介関係」にお いて,子どもぱ学習内容そのものへの意欲をなくし,抽 象化ざれた価値にとらわれてしまうとする.
この「媒介関係」こそ「受験学力」の矛盾の本質とす るのである.
教育過程の内側から経済・社会の矛盾の条件をとらえ ようとしたこの佐藤の試みは重要である.子どもの学ぶ 欲求も「評価」を媒介とする「自主的主体的」欲求であ り,まっすぐに教育内容への質にむかう欲求とはちが う,みせかけの疎外された欲求であることをこの論文は 教えてくれる.しかし佐藤はあくまで学習者と学習内容 の関係にのみ分析を限定していた.だが,さらに問題と なるのは評価そのものが一つの価値次元に換算されてい
く外的規制,すなわち評価を相対評価においやる選抜体 制下の競争原理であり,この競争のために学習内容への 本質的無関心ボ生じてしまうことを説明することであろ う.ここに「他者」の問題が生まれるのであり,そして 学習内容の獲得も「他者」関係のあり様において本質的 に規定されている,というあらたな論点が提出されてく るのである.
今日の能力主義教育による矛盾は,学力の獲得によっ て他者が敵対的存在と化し,孤立と不安にさいなみ,小 川のいう自己のうちの「共同体的な人間」を破壊させて いくことにこそあった.佐藤の「評価」という媒介概念 をさらに「他老」のそれにおき換えて,能力主義下の人 間疎外を検討してみなくてはならないのである.
競争を一つの社会過程として,その機能様式を分析 し,「能力主義」論議に新しい視角を提出しようとした のは久富善之17)であった.久富の試みで注目したい点
は,受験競争は学歴の経済的効用を規定要因としつつ も,入学の困難さが「一つの直接的価値」になって,競 争者が後の効用の明確でない一,二のランクの上昇がま るで至上の価値ででもあるとする,すなわち「競争にお ける成功を至上の価値とする心性を生み出す」ことを指 i摘した点である.久富は,教育過程が「敵対的競争」に 転化していく理由を次のようにのべる.
「自己の才能・能力の発展を一つの絶対的目標とする 立場に,他との相対的比較の立場が混入して来ると,
達成の満足感が他者との比較に制約されて,一方の満 足が他方の満足排除につながり,さらにこの心理が社 会化されればそこに一つの新しい名誉・威信が形成さ れる.本来協同的な主体指向的競争も,他者との相対 比較を媒介として,名誉・威信という報酬の限定され た敵対的対象指向的競争に容易に転化する.」
他者を「媒介」することによって教育過程は容易に
「敵対的競争」に転化する.こうして「敵対的競争」は 競争における成功を至上の価値とさせ,教育価値(内容
・方法)にたいする本質的無関心をつくるとともに,個 人間に敵意,攻撃性,不安,同調等の心理過程を生じさ せる.久富は敵対的競争過程の激化した学校において,
おちこぼれ,非行,暴力,怠学,登校拒否が生まれるの は必然であったとするのである.
久富の試みは,「他者との優位性を競う」という人間 的欲求のうちに教育の疎外をとらえ,競争における人間 の欲求のあり様を通して能力主義下の非教育性を解明さ せてみる,という視点をわれわれに示唆しているように 思われるのである.
H 能力主義教育批判の視角 一人間的欲求の疎外と他者一
さて,以上の検討を通してわれわれは,能力主義教育 批判の視角を次のように設定することができるのではな いか.すなわち,主体(子ども)一客体(学習内容)と いう二項関係から,媒介物を通す三項関係,つまり自己 一他者一学習内容という三角形の関係論理において能力 主義による教育疎外を分析してみるということである.
三上満や村山士郎が指摘した,学力を獲得すれぽするほ ど競争意識をつのらせ自己疎外に陥っていく矛盾は,次 のように説明されるだろう18).
子どもは「他者」を媒介することで学習内容を獲得
し,学力をみにつけ,そしてそれゆえ競争意識にとらわ
れていく.媒介を経るゆえに自分の主体的で自主的な欲
求は喪失し,「自主的で主体的」であるかにみえた欲求
は実は他者を媒介したにせの,みせかけの欲求,他者の
欲求であった.学習内容をわがものにしようとする欲求 は自己の内面に発する要求ではなく,他者に支配されそ れに依存する要求でしかなかった.ここに学力が獲得さ れれぽされるほど深く自己疎外の感情を味わう「なぞ」
があった.
他者を媒介とする人間の欲求は必然的に競争的欲求に 転化する.他者との優位性を競うということが自己目的 化し,はりあうことが努力目標に転化する.そこに学習 内容への無関心が生じる.学習への動機も教材の具体的 な内容にあるのではなく,他者との順位の争いにあり,
学習内容の獲得による喜びも偶然のうちにまかされ,次 々と無限の競争という「不安」にかられていくことにな る.学習内容の価値はこうして他者とのしのぎをけずっ た難易度という抽象物に換算されていく.学習内容への 欲求はきわめて排他的感情におおわれ,ここに個人主義 的感情が必然化する.
他者を媒介する競争的評価は,抽象的価値による評価 となり,かけがえのない個性を量的測定においやる.子 どもの豊かで個性的な欲求は,単一の計測可能な質の欲 求へと変質させられる.学力は測定された知という実態 をこうむり,相対的位置をはかる道具にうけとられてい く.抽象的単一物の一・元的な価値が子どもたちをとり結 ぶ関係を支配し,それをめぐって自他を評価し合い,こ うして「個性」の発揮ははぽかれ, 「苦悩」がはじまる のである.
子どもたちの関係が抽象化し,結果における測定値が 最高の価値に転化するとき,時間は量的に測定できる同 質物の流れとみなされてくる.時間の単位で個人の努力 が計測され,未来の自分のために今ある自分が犠牲とな り,現在の自分が軽蔑され,夢中になることを忘れさせ
る.
こうして他者はライバルとなり,敵対的存在となり,
他者に向って尊敬と嫉妬を,憎悪と崇拝を,反発と同調 をというまじりあった感情を喚起させ,共感を喪失させ ていく.他者へのおそろしいばかりの分析をおこなう一 方で,自分は盲目的情念にひたりこみ,虚栄心を高めて いく.自分の気持ちが他者に共感されていないという不 安と孤立の恐怖におちていくのであり,そして「たわむ れ」と「ふざけ」が他者との唯一の「絆」となワてい
く.
これら教育の疎外は,「学力の商品化」の全般化によ ってひきおこされたものにほかならなかった.労働力市,
場におけるより高い地位の獲得のための競争は,自分の 自己確立のための諸欲求を他者との競争と差別において しか充足できないものとさせるのである.
この教育における疎外状況は,ルネ・ジラールが欲望 の模倣性を指摘したr欲望の現象学』でとりあげた「ド ソ・キホーテ」の「悪魔のテニス」の様子とぴったり符 合する現象であった.この「悪魔のテニス」とは,他者 媒介の欲望の典型的現象であって,競技するものは相対 してはいるが,全くよく似ていて,入れかえてもおかし くなく,なぜなら全く両者とも正確に同じ身振りをする からであり,誰も負けたくはないのだが,奇妙なことに この競技には「敗者」だけしかおらず,誰もかれも「ぶ つぶつ不平」をいい,お互いに「悪口」を言いあい,ど ちらも自分を圧しつぶす不幸の責任を別の他方におしつ け,そして遊戯者という自由な組み合わせの人々である のに彼らはこの「不毛な争い」からはどうしても抜けら れない,というものであった,そしてこの悪魔のテニス は数を無限に増大していくのである(p.115).
学力の獲得は,他者を媒介することによって行なわ れ,こうして獲得された学力は他者を敵対的存在へと必 然化させ,これら媒介過程をふんで自己は深い自己疎外 へとおちていく.能力主義教育の原理とは徹頭徹尾「他 者の論理」19)であったのである.
では,この人間的欲求の疎外を克服するためには,他 者媒介を拒否することで可能なのだろうか.そして,そ もそも学力はいかにして本来なり立ちうるのであろう
か.
われわれは,そこで人間の知の成立について他者の問 題がきわめて重要な問いである,との「他者の現像学」
を論じた次の意見に注目したい.
「今日の知の状況のなかで,広く人間科学全般にわた って相互主観性または他者性の理論がかってないほど の重要な役割を演じている.それらに共通しているの は,伝統的な自我中心論から脱却して,他者性を最初 から本質的契機として自らに取りこんでいる人間の在 りかたに立脚して他老問題を論じようとしていること
である2°).」
すでに,1968年,坂元忠芳は「対人関係」と認識能力 の関係についてとりあげ,「幼児心理学の研究は感覚的 な諸性質や空間の知覚など一見最も公平で最も非感情的 にみえる外的知覚でさえも,パーソナリティや幼児がそ のなかに生きている人間関係によって深く変容されてい る」事実を示している点を指摘していた21).あるいは,
最近の人格研究でも,人間の全面的発展の問題や認識論
もほとんど主体一客体関係においてのみ考察されてきた
とし,人間と他の人間との相互作用・交通・コミュニュ
ケ』ションと個人の諸能力の発達がいかに関連している
か,についての本格的研究の開始を提言している22).学
力の獲得は,学習内容それ自身の検討とともに他者をめ ぐる関係のあり方の探究を不可分の課題としているので
ある.
人間の学習内容からの,そして他者からの欲求の疎外 は,他者媒介を「人間的関係」に転化させることを,言 葉をかえていえば他者との「共同的関係」の創出によっ て克服すべきことを求めているといえるのである.競争 ではない真に豊かな人間的欲求の創出は,学習内容の全 体性と普遍性をわがものとする他者関係の創出において はたしていくことを,.そしてそのために他者そのものを 真に人間的に欲求していくことが必要となるのであり,
この点においてこそ能力主義の克服の重要なカギがあっ たのである.
自己と学習内容と他老という三角形的関係における人 間の欲求のあり様を,坂元の言葉にならえば社会科学の 立場から,批判的に発展させて,教育学的方法論のなか
に生かしていく必要が生まれてくるのである.
皿 市民生活における人間的欲求の疎外 前節までは,学校における子どもの欲求疎外を検討し たが,子どもは現在生活全般にわたって欲求の疎外にお ちいっているといえ,以下では家庭・市民生活をめぐる 人間的欲求の状況をみていくことにしたい.
高度経済成長を経過したわが国は,家族関係はもとよ り地域生活様式にいたる生活様式の全般的変化と新しい 形の貧困化(生活環境の悪化,生活保障の不十分さ,家 族の危機など)をもたらしたが,これは根本的には重化 学工業生産力と貨幣商品市場体制が賃労働をはじめとす る全国民の生活の基本的領域を掌握し支配した結果であ る.地域生活は農村的生活様式から都市的生活様式へ移 行し,家庭は耐久消費材を中心に貨幣商品経済にまきこ まれ,いわぽ商品経済が生活のあらゆる部分に全面的に 浸透し,生活は商品の消費活動として現象し,一見華や かな生活文化の意識を与えたが,しかしその一方で水と 空気の汚染,交通災害,有害食品という公害による生命 と健康の損傷や家計破産と家族の危機が広く社会現象化 してきた.人間的欲求の問題は,基本的にこの「貧困 化」の過程にあらわれる点がまず確認されなければなら
ない23).
では人間的欲求の疎外はどのような姿をとって現われ
ているのか24).
人間の生活は生産過程と消費過程に大別されるが,そ の中で消費過程は労働力の再生産の場であるぼかりでな
く,人間の文化的・精神的な欲求を発展させる機会でも ある.そして今日,疎外の深刻さは生産過程よりはむし
ろこの消費過程においてより鮮明にあらわれているとさ えいえるまでにいたった.消費が拡大し,余暇は現代固 有の問題となったのである.人々は物を豊かに所持する ことがあるいは消費することが人間的豊かさと思い,そ れが幸福であると確信するようになった.新しい車,新
しい家具,その他新しいものを得ることが生活目標とな り,人々は深く「もの」にとらわれ,そうした形式にお いて自己を確証するようになる,すなわち,私とは,私 が持つものおよび私が消費するもの,であると25).こう して人々は内面的空虚と不安を逆につのらせ,ますます 街の騒音の中へと消えてゆく.人間的欲望は,「人間的 統一性を喪失して,量的に肥大するとともに,質的に風 化し空洞化」し,人々は「物質的富にむかって死の飛躍 をくりかえす5)」のである.欲求の充足は刹那となり,
失望は他の物への欲求に容易に転化されるのであった.
ところで今日,人間的欲求の疎外は,さらに深刻な事 態をつけ加える.それは人々の欲求が操作され,意図的 に作り出された欲望となっていることである.人々は同 じ本や雑誌を読み,同じ映画やテレビ番組を見て,休暇 には同じところへ出かけ,同じ食物を口に入れ,慣習は 同質化し,生活の平準化・標準化が起きる.人々は操作 するたえず増大する需要の奴隷となり,生き生きとした 感受性を喪失させ,退屈に追いこまれる.カレル・コシ ークは,この世界を操縦実践と特徴づけ,疎外の幻想的 克服に人々を疎外させているとし,これは「人間的世 界」の生成を指示するものでないことをするどく指摘し
た26).
操作された欲求に生きる人々は,時間の意識を疎外さ せていく.人々は物質的に豊かな末来のために現在を犠 牲にさせ,現在の空うさを未来の期待に「昇華」させ
る.現在は未来の手段に転化する.
操作された欲求に生きる人々は,自分の欲求を他者の 欲求と比較させる.人々は自分自身が望むというよりは 他者がのぞむ対象をのぞむようになる。物の固有の質に おいて欲求するというより,その所有が他者に差異を感 じさせるために欲望する.他老への嫉妬が,羨望が,あ るいは優越が欲求の源泉となり,本質となる.欲求の充 足は,その実質においてではなく形式に転化する。内面 的充足ではなく,他者への「表示」としての,「誇示」
としての欲求となる.人々は自分の欲求を,その判断を 他者の欲求に,あるいは他者がまだ所持していない欲求 によっておこなう。欲求に主体性は消え,他者の視線を 気にかける弱々しい欲求となる.情熱的人間は姿を消し
ていく.
他者の欲求にとらわれた欲求は,他者を敵対的存在に
一57一
し,自分の欲求をみたす手段とみなし,そして自分を孤 立化させる.
欲求が他者に媒介され,操作され,物にとらわれてい く人々は,こうして有頂点から意気消沈へ,希望から絶 望へ,賞讃から軽蔑へと揺れ動き,激烈であるとともに 順応家となり,群居しながら孤立を深める人間へとなっ ていくのである.
以上は,人間一般の欲求疎外の状況であったが,これ は基本的に子どもの欲求のあり様に反映しているものと 思われる.子どもは学校ぽかりでなく生活全体のなか で,人間的欲求の疎外に侵されているわけであった.
では,疎外された欲求,他老を媒介し操作された欲求 からの克服,豊かな人間的欲求の創出,その実践をにな う教育実践はどうあるべきなのか.われわれはこの問題 を考えるうえでも子どもの人間的欲求の疎外のあり様を 市民社会が内包する基本矛盾においてとらえ返えさなく てはならないのではないか,それは人間的欲求の疎外へ の批判そのものが批判されるべき世界のなかにすでに現 実的条件をそなえて存在していることを明らかにしなけ ればならないからでもあり,そうしてはじめて教育実践 の基本課題も明らかになると思われるからである.
そのさい,われわれはアグネス・ヘラーの次の言葉に 注意をむけたい,
「マルクスは,r二豊かな人間的欲求』という価値の観 点から,資本主義的な私的所有の社会を拒否する27).」
マルクスは人間的欲求という裁断基準をもって市民社 会を認識していたのである.しかし,人間的欲求はマル
クスによってさらに重大な意義が付与されていた.ヘラ ーが,未来社会の移行は純粋な経済的過程ではありえ ず,それを保証するのは「ラディカルな欲求」(p.90〜
p.125)であるとのべたように,マルクスは人間的欲求 を解放運動を可能にする主体的な変革原理のもとにすえ ていたのである.マルクスは,人間的欲求の疎外と克服 を市民社会が内包する基本矛盾としてとらえていたので
ある.
欲望の模倣性を指摘した先のルネ・ジラールは,マル キストはブルジヨア社会を廃棄することで一切の疎外を 廃止すると考えたとし,むしろ問題は新しく起ってきた 疎外の形態,すなわち他者による生活の支配であると
し,それは同じ建物の中の隣人,階級を共にする仲間,
同じ職場のライバルであるとのべた.(p.246〜p.247).
現代人の欲求疎外の核心を衝いたジラールの指摘は重要 であるが,でははたしてマルクスは他者問題を論じるこ とがなかったのか.むしろマルクスは人間の欲求疎外を 対他者関係のあり様においてとらえる視点を明確にもっ
ていたのではなかったろうか28).
最後にわれわれは,人間的欲求の疎外を他者関係のあ り様においてとらえた能力主義批判の内容を,市民社会 が内包する基本矛盾としてとらえ返すことを,マルクス の初期の論述を手がかりにして試みていきたい.
IV 市民社会と人間的欲求 一r経哲草稿』rミル評註』を中心に29)一 マルクスは市民社会の日常的な具体的な天間の姿を想 いうかべながらも,そこから歴史貫通的な「人間の本 質」を抽出し,そのうえで具体的現実を反省的にとらえ
ようとした.そしてマルクスは,具体的現実を「人間の 本質」の転倒された疎外された形態ととらえるととも に,「人間の本質」の成熟過程として現実をとらえ,人 類史の発展を描き,未来社会を展望した3°).
本節は,この「人間の本質」をマルクスが「共同的存 在」ととらえた点に注目し,この共同的存在が他者との 真の共同と承認という内容をもつことをみ,またこの共 同的存在が現実には貨幣に媒介されることによって疎外 された形態となって現出し,人間の欲求は疎外され,し かしその転成そのものも人間の欲求によって生みだされ
るという,すなわち人間的本質に固有のものとして欲求 がとらえられていることを,したがって社会主義もまた 豊かな人間的欲求においてそして他者を真に欲求すると いう点で展望していることを,以下検討していきたい.
第一草稿「疎外された労働」では,「人間の本質」
(menchliches Wesen)は,人間の自然的存在性そして意 識的存在性に焦点を絞るかたちで把握されているが,マ ルクスは後半,衆知の疎外の第一・二規定(「事物の疎 外」「自然の疎外」)に対し,第三・四規定として「類 的存在の疎外」と,その直接的帰結としての「人間から の人間の疎外」を論じた.すなわちマルクスは「自然的 意識的存在」である人間は,現実的には人間と人間との 社会的かかわりのなかではじめて現出することをのべた のである.「自然的意識的存在」としての「人間の本質」
は,社会的存在つまり「共同的存在」(Gemeinwesen)と してはじめて現実的となるのであって,そしてこの「共 同的存在」としての人間の本質把握こそ,われわれが今 まで論じてきた他者問題の核心を衝く内容をもっていた のであった.
人間は社会の中で生き,社会を再生産することで現実 的となるが,マルクスはこの人間の社会的性格をいった んは「人間の本質」において抽象してみる,これが「共 同的存在」であり,それはなにより他者との共同と承認 を内容とする,対他者関係という視角からの人間の本質
一58一
把握であった.
マルクスはこの共同的存在としての人間をrミル評 註』で展開するが,それは次の「われわれが人間として 生産した」場合,「われわれはそれぞれ自己の生産にお いて自己自身と他者とを二重に肯定したことになる」と のべたことにつづく,以下の四点に整理にされる.その さい注意しておきたいことは,マルクスはいずれも共同 的存在の確証を「喜びをあじわう」という人間の欲求の 享受においてとらえている点である.
マルクスは,
(1}生産活動において,人間はその個性とその独自性を 対象化したことになり,それゆえ,「個人的な生命発 現の喜びをあじわい」,対象物に対し,その人格性を 「感性的に直観し」「疑問の余地のない力として知ると いう個人的な喜び」をあじわうことになる,という.
この点は「疎外された労働」でおもに分析された姿の 克服の叙述となっている.しかし,他者関係で重視され
るところは12以下の点である.
② しかし個にとって生産の意義はそれにつきない.自 己の生産物は他者の享受となるが,そのことで人間は 「人間的な欲求を充足するとともに,人間的な本質を 対象化し,かくして他の人間的な存在の欲求にそれに ふさわしい対象物を供給した」という喜びをあじあう ことになる.
(3)こうして人間は,他者と類(Gattung)との仲介者 となり,他老自身の「本質の補完物」となり,それゆ え他者の「思惟と愛とにおいて私自身を確証するすべ を知っている」,とする喜びをあじあう.
そしてマルクスは総括的に,
④ 人間はその個人的な生命発現において直接に他老の 生命発現をつくり,そのことで自己の「人間的な本質 を」,つまり 「共同的な存在であることを確証し,実 現した」と意識する喜びを直接にあじわうことにな る,とするのである.
ここには他者との相互補完的なそしてまた相互充足的 な関係が結ぼれ,それをとおして自己が実現されていく ことが示されている.そしてこの共同的関係の実現は対 自然関係における本質の実現とともに「一箇同一」の過 程として把握されている.
しかし,この共同的存在は現実的には疎外された形態 として現出するほかないのである.「人間が自己を人間 として認識していず,したがって世界を人間的に組織し おえていない間は,この共同的存在は疎外の形態のもと に」「人間の真の類的生活のカリカチュア」としてあら われる.つまりそれは人間の社会的な行為が貨幣・商品
に媒介され,「人間の外に質料的なもの・貨幣の属性」
になり,「ものとものとの関係そのもの」の活動となり,
そして自分と他者とにたいする関係が自己自身から「独 立した力」となってしまっているからである.人間と人 間の関係が,「私的所有と私的所有との抽象的な関係」
となり,事物こそが相互に認めあう価値となり,人間は 相互に無価値の状態となる.人間と事物との転倒した関 係,すなわち事物による人間の支配が惹起する.事物は 他者を支配する手段としての意味をもち,他者は自己の 欲求充足のための手段となる.マルクスは,人間の相互 手段視こそ市民社会の特色であると,次のようにのべ
る.