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人間の主観推論式の体系的研究

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(1)

人間の主観推論式の体系的研究

は し が き ︵一︶

田 村 三 四 郎

 この研究で述べようとすることは﹁主観推論式に於ける我主観の崩壊消滅と生物主観の我主観からの離脱とは同一の事柄であり︑且

つ同時に起る﹂ということである︒しかしこれで体系的研究が完成した訳ではないその︵二︶として﹁人間性の諸契機と自由﹂が残さ

れている︒今は昭和三十二年度長崎大学学芸学部人丈科学研究報告

第七号所載の﹁人間の生物主観の精神︒物理的論理構造﹂を前提し

ながらこれとの連関性に於て右に述べた﹁消滅﹂と﹁離脱﹂の問題

を取り扱うのである︒

   凱﹁人間の生物主観の精神・物理的論理構造﹂との連関

    について

 ﹁人間の生物主観の精神・物理的論壕構造﹂に於て分析した存在

の通路によって主観が客観に出会って自己同一を実現するという関

係は主観推論式の基底としての生物主観に関する限りのものであっ

たが既にそこで存在の通路に閉塞を生じ人間の生物主観と物理的客

観の通路が塞がれることを述べた︒そしてそれが主観推論式の中間

項的契機としての我主観が含む矛盾として現われることも分析し

た︒この研究ではか鼠る現象が如何なる原因から起り︑叉如何にし

てこの現象が消滅し如何にして新な主観と客観の出会いが起るかを

述べて見度い︒この研究は﹁人間の生物主観の精神・物理的論理構

造﹂の研究を前提しているが︑叉それ自身独立的意義を有し前研究 では明らかにし得なかった新結果を期待し得るものである︒前研究は自然科学への展望を開くものであるが︑この研究は社会科学への展望を開くものであり︑両者を侯って根源現象としての主観推論式の体系は完成する︒

留﹁我主観﹂の含む矛眉の原因と性質

 主観推論式の基底としての人間の生物主観は前研究で既に明らかにしたように意識的11物的契機を含み意識的契機は直接的︑物的契

機は闇接的である︒ ︵物埋的客観はこれに対し︑物的11意識的であって物的契機は直接的︑意識的契機は間接的である︒そして生物主

観との間に意識的・物的直接連結と物的・意識的間接連結の逆的交

叉関係が存し単なる物心平行論的関係ではない︶生物主観の物的契

機はかく間接的であるからーアメリカのヂイ・エッチ・ミードの

 ①

用語を用いると一そのものは何等かの意味に湿て物理的刺戟でな

ければならないにしても物理的客観物とは異なり聞接的物として感

覚的過程としての刺戟︵ω江8巳一鋤ωωΦ昌ωo昌窟ooΦωω︶ という意

味を持っていなければならないであろう︒これに反し物理的客観物

としての刺戟は物理的客観の直接的契機であるから前者とは異なり

刺戟としての感覚的過程︵ω①口︒・o曼b88ωωΩ︒ωω斜日帽ε と言い得

るであろう︒少くとも人間の生物主観と物理的客観の交錯過程に於

てはその過程を感覚的過程として把握するにしても︑その把握の仕

方に以上のような区別が無ければならないであろう︒人間と下等動

物の間には絶対的断絶の存しないことは明らかであるにしても︑物

的刺戟に対する反応に企て下等動物は直接的である︒勿論下等動物

の意識は物理的であって間接的であるから︑この反応には意識の媒

介があり︑中枢神経組織に通路が存することは明らかであるけれど

も︑この意識の媒介は物的刺戟の同一性を媒介するに過ぎない︒即ち

条件反射的媒介である︒人間の生物主観はか﹂る媒介を基底とする

1

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けれども︑その上その物的契機が間接的であるから︑この物的刺戟の

間接的に於て基底以上に出で意識の媒介は意識が意識自身の同一性

を媒介する意義のものとなる︒この意識が即ち主観︵自己︶であって

生物主観の直接的契機としての意識である︒しかるにこの過程に於

て厄介なことが不可避的に起る︒生物主観の物的契機の閥接性に於

て生物主観はその基底たる生物以上に出るが︑又同時にその物的刺

戟の間接性の故に物理的客観の意識的契機の間接性との間に同一関

係を生じ︑この物的・意識的同一性は主観を殆んど生物と同列にま

で引き下げようとする︒殆んどと言うはこの物的・意識的同一性は

生物に於ける意識の﹁物的刺戟の同一性の媒介﹂とは酷似している

が生物意識に於ける物的契機は直接的であるのに対し前者の物的契

機は︑聞接的である点で根本的に異なっているからである・叉その意

識的契機の問接性ということでも生物主観の意識的契機が直接的で

あるという点では︑このものとも根本的に異なっているのみならずこの場合は意識的契機と物的契機の順序が全く逆であるという点で

二重にも異なっている︒従って物的・意識的同一性の原因はもはや

これを生物主観の中にのみ求めることは出来ない︒別個の主観を要

する︒我主観がこれであって生物主観と物的・意識的同一性の間に

生じた矛盾は生物主観の物的契機の間接性︵物的刺戟の間接性︶の

ために生じた我主観の物理的客観的転落現象でありその結果であ

る︒電子頭脳が発明せられたために人間思考力の創造作用の働く範

囲が狭めら︐れたと考える如きは自分で判断し工夫する人間頭脳が︑

その機能を電子頭脳に奪われ︑それ自身は下等動物の頭脳のレベル

に引き下げられているという幻想に愚かれたもので物理学者の自己

撞着に外ならいが卓越した頭脳にして尚且つか玉る幻想に殆んど不

可避的に引きずり込まれる程に︑この傾向は人間性に強力である︒

従ってそれ自体は幻想であるとしても人間性にとっては人間性剥奪

の現実的意義を有するのである︒ カ¥はをる幻狸形而上学批判の態を求めこれを認霊

者の夢しで分析している︒想像力の表象は脳の神経組織申の一種の

運動︵質料的観念と呼ばれる︶によって伴われ︑その運動は感覚的

印象がその模写であるような神経運動に類似している︒しかしこの

場合想像に於ける神経運動と感覚に於けるそれとは立派な区別があ

る︒前者では運動方向は脳の内部で交わるが︑後者では脳の外部で

交わる︒従って意識の焦点i対象がそれに於て表象される一iは前者では私の内に後者では私の外に置かれ普通の場合この両者は混

同されることはない︒しかし私が何等かの偶然か叉は脳のある器官

の病気かによって今迄想像力と調和して運動していたかの運動神経

が引きずられて脳の外で交錯するような運動方向に於て起るように

なると仮定すれば意識の焦点は﹁思惟する主観﹂の外に置かれ単な

る想像の仕事である映像が外的感官に現在しているような対象とし

て表象されるというのである︒このような物的・意識的同一性のも

とでは思惟する主観はその機能を剥奪されるであろう︒何故なら幻

想的思惟は思惟する主観の外に置かれているが故にそれ自身一つの

思惟でありながら人聞性とは関係なしに進行するからである︒しかしこのことは矛盾である︒しかもこの矛盾は絶対的である︒カント

が負号量を哲学に導入する試みしに於て論じたように︑その否定は    ③単に欠如︵﹈≦⇔コαqΦ一︶としての否定ではなく剥奪︵じdo目β︒自げq冨ひq︶としての積極的否定である︒人間性の剥奪としての我主観の物理的客

観的転落現象が含む矛盾はこのような絶対的矛盾である︒我主観は

到底か詐る絶対矛盾を内包するに堪えない︒こ玉に御主襯の崩壊が

起るが︑このことを明らかにするためには我主観と生物主観の関係

を更に分析しなければならない︒

   齢人間の﹁我主観﹂と﹁生物主観﹂の論理的関係

 人間の主観推論式の体系はその基底として生物主観を持ち我主観

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は生物主観に担われている︒従って生物主観の物的契機︵物的刺

戟︶の間接性によって思惟能力としての我主観に物理的客観的転落

も起ったのである︒デカルトはコギトーという問題意識から出発しスムという存在意識を結論したが︑しかし存在意識はむしろ問題意

識に先って存し反って後者を喚起する︒存在意識は先づ人間の生物

主観であるが︑しかしこれだけでは足りない︒という訊は前節で述

べたように存在意識の剥奪ということが存在意識には殆んど不可避

的に生ずるからである︒そしてこの存在意識の剥奪という現象の原

因は生物主観の物的契機の間接性に於てこのものと相結ぶ我主観の

被触発性に外ならないからである︒かくて我主観の物理的客観的転

落は存在意識の剥奪となるが︑存在意識は先づ生物主観であるから

従って存在意識の剥奪は先づ生物主観の剥奪となって現われる︒し

かるに生物主観の剥奪は我主観の物理的客観的転落私募に内包され

ている絶対矛眉に外ならない︒しかるに又我主観は到底か玉る絶対       ④矛盾には堪えられない︒こ玉にバーナムの森が居城ダγシネーソへ

動いて来るのを見たマクベ入のように我主観の崩壊消滅現象が起る

が︑この崩壊消滅は同時に生物主観の我主観からの離脱である︒こ

の離脱は生物主観が我主観の荷担者としての役目からの解放であ

り︑こ﹂に生物主観は我主観の持つ一切の矛盾から−1否むしろ我

主観そのものから解放されて汝主観へ媒介される︒この媒介は奈落

の底から存在が隆起して来ること︑存在の連続性の回復である︒こ

れによって我主観は転落から確かと守られる︒ この点に関しエム・ブウベルの﹁我と汝﹂は一種の神秘主義的ア

ホリズムではあるが︑注目すべき内容を持っている︒彼によれば物も       ⑤我と同じく根源的経験i彼の用語法によれば﹁我−汝の関係﹂

︵H−目げO仁 目①一顧梓一〇昌︶1が粉砕され関係づけられていた仲聞が離れ

た後で起る︒そこに﹁我!それ﹂ ︵剛一#︶という汝を彼︒彼女・そ れとして客観黙視する我の意識的態度が始めて発生する︒しかし最初にあるのは関係−存在範疇としての構え︑把握する形式・魂の       ⑥範型である︒そしてそれが関係のアプリオリであり内生一回︵魯Φ

冒び︒ヨ臼げ︒億︶ である︒このようにブウベルによると関係のアプリオリは汝であるから上記の﹁我−汝﹂の関係は論理的には﹁汝−

我﹂の関係となり主観推論式の頂点に位する汝主観との接触も生じ

て来るであろう︒彼の言う﹁我1それ﹂という我の意識的態度は元

来我主観の物理的客襯的転落現象であり﹁我iそれ﹂の﹁それ﹂は

従ってブウベルでも純粋な﹁それ﹂即ち物理的客観とは区別され知

覚の担い手衝動の執行者としての身体が周囲の世界︵汝︶から切り

離されて単に並列を意味するものとなっていることで﹁我﹂と﹁そ

れ﹂の絶対的分離ではないとされている︒従ってブウベルでは︑明

瞭な概念規定を悔いでいるが︑物を意味する﹁それ﹂には三種の別

がある︵a︶ ﹁我iそれ﹂の﹁それ﹂で絶対的客観物としての﹁そ

れ﹂−一勿論絶対的というは我に対して言うことであるが一とは

異なり従って我主観的な﹁それ﹂ ︵b︶我に対し絶対的客観物とし

ての﹁それ﹂ ︵c︶周囲の世界︵汝︶から切り離されていない﹁そ

れ﹂1このものは勿論物的であるが︑しかし﹁汝1それ﹂の構造

を持った﹁それ﹂である︒このものは﹁我1それ﹂の﹁それ﹂とは

厳に区別されなければならない︒従って主観的ではあるが︑我主観

的ではない﹁それ﹂である︒しかるにブゥベルにはこの︵c︶の独

立的意義に関する明瞭な自覚が欠げている︒このことは彼の﹁我−

汝﹂と﹁我1それ﹂という二種の態度を平行的に考え︑この二種の態度には共通者﹁我﹂に於て矛盾の現われることの洞察を欠いだこ

とに基づくであろう︒その洞察を妨げたものは﹁我i汝﹂を主客未

分的根源経験とする神秘主義的傾向の著者に顕著なためであろう︒

 それなら上記の主観的ではあるが︑我主観的ではない﹁それ﹂と

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は何か︒ブウベルが知覚の担い手衝動の執行者と呼んだ身体であっ

て︑しかもそれが周囲の世界︵汝︶と切り離されていない﹁汝1そ

れ﹂の関係にあるから一1もし︑それが周囲の世界︵汝︶と切り離

されているなら︑その主観性は我主観的であるが︑そうでないので

あるから一これを我主観と区別して生物主観として独自の意義を

与えることは許されるであろう︒この生物主観としての﹁それ﹂に

は我主観に絶対的にそれから切り離された﹁それ﹂が許される︵b︶

の如くには物理的客観は対立してはいない︒むしろ両者の問に通路

の存することは﹁人間の生物主観の精神・物理的論理構造﹂で論じ

たところであるから︑こ鼓では繰返さない︒

 しからば︵b︶ ︵c︶との関係に著て︵a︶はどんな意義がある

か︒ ︵a︶は﹁我iそれ﹂の関係で ︵b︶ ︵C︶とは区別される

が︑既に論じたように生物主観の物的契機の間接性に於てこれと相

結ぶ我主観の被触発性は我主観の物理的客観的︵それ的︶転落を結

果するが︑これがブウベルの言う周囲の世界︵汝︶からの身体の切

り離しであって﹁我1それ﹂の関係に外ならないが︑この切り離し

は同時に﹁我iそれ﹂の関係によって物理的客観︵b︶と生物主観

︵c︶の間に介入が行われたことである︒そしてこの介入によって

我主観は矛盾を内包するものとなる︒矛盾の内包は﹁我主観的そ

れ﹂の崩壊消滅に導き生物主観は我主観を離脱して汝主観へ媒介さ

れる︒そして媒介されることによって我主観を汝主観へ媒介するの      ⑦である︒これがブウベルの言う出会︵日Φ醇営σq︶であって我が汝に

出会い自己同一を実現して汝が﹁内生出営﹂となるのである︒これ

によって我主観は真に転落から確保される︒従って﹁汝−我﹂の自

己同一性は決して直接的神秘的合一ではない︒生物主観の離脱によ

る根源媒介であるから﹁汝−我﹂の出会いには時︒空々通路があ

る︒

   解主観推論式の時・空性 デカルトは動物を機械と見徹しコギタチオを別個の実体とする二元論的見解をとったが︑しかし我主観はそれ自身に於てあるものでもなければそれ自身によって在るものでもない︒さきに示したように生物主観に担われているが故に︑時間的存在として生成し消滅するものである︒そして消滅に断て未来へ蘇るものである︒我主観の未来への蘇りは生物主観の我主観からの離脱によって汝主観へ⁝媒介されることであるから時間は生物的時間の基底を越えて歴史的時間となる︒生物的時間は生物主観によって︑物理的時間への通路を持つが︑又かくして歴史的時聞への通路をも持つ︒歴史的時間は入って出る︵μ昌−qコΩ山口ω︶通路である︒過去に消滅して未来に蘇るからである︒歴史的時間はこの意味に於て記憶的である︒単に過去のことをそのま玉憶えているというだけならば︑そのような記憶は実際的にも存しないであろう︒忘却ということが無ければ記憶ということもない︒記憶は過去に忘却したことが未来に蘇ることである︒現在はその転換点である︒歴史はこれを過去的に見れば殆んど必然的とも見られるが現在に立って未来を見れば歴史は種々なる可能性を包含していると考えられるのも︵そしてその胎動する可能性の選択が勝義に於ける政治であるが︶歴史的時間が過去に消滅して未来に蘇るからである︒しかし我主観の崩壊消滅は一つの契機−時間的契機であるが︑同時にこのものを生物主観の我主観からの離脱について見れば︑このものはもう一つの契機−空間的契機なのである︒従って主観推論式に於ける﹁生成﹂は時間的契機と空間的契機の体系であってその消滅的契機に託て時間︑離脱的契機に煮て空間なのである︒この離脱的契機の空間性は生物主観によって物理的空間に通路を持つが︑しかし叉消滅的契機の時間性と生成に於て関係せしめ

られる時は基底を越えて歴史的時間に空問性を与える︒従って生成

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に於ては消滅的契機と離脱的契機は相互に要求し合うもので歴史的

時闇には生物主観の離脱的契機の媒介が予想れさていたし︑こ鼠で

は我主観の消滅が要求されている︒これは我主観の崩壊消滅と生物

主観の我主観からの離脱とが同一の事柄であり︑且つ同時に起るが

ためである︒

 ハイデッガーの﹁存在と時間﹂に於ける時間性の分析は未来優位

であって﹁入って出る﹂通路としての時間は﹁未来の入ってそして出

る﹂であるとして︑一つに未来に帰着せしめられているから過去従       ③って又現在の意義が軽視される結果となっている︒これは﹁既世界

内存在﹂がそれ自身に於て過去性を証明するが︑その過去性は未来

からしかも ﹁在りし未来﹂ ︵OΦ芝︒ω魯①Nβ騨餌昌坤︶ がそのものか

ら現在を解き放つという仕方で生ずるという存在の時間的規定に基

づくのである︒しかもか&る時間規定は﹁在りし未来﹂の仮定なくしては不可能であり﹁在りし未来﹂の仮定は過去を未来へ吸牧する

ものである︒ こ玉に過去軽視の生ずる根拠がある︒ ﹁既世界内存

在﹂は存在の基本的性格から言えば事実性︵岡鋤胃酔一N一↓餌け︶でありそ

れは世界に投げられていることだと言う︒しかし事実性は仮令それ

が前道具的者としてなまの事物性ではないにしても被投性とは全く

同一の箏柄であるとは言われないであろう︒それが寸寸性を持つは

頽落との関係に於て現在が過去性に押しやられるためであろう︒事

実性そのものが過去性ではない︒従って事実性と被投性との関係は

未来と現在評者との間に過去性が中間項として介入して来る関係で

あって︵つまり時間の通路の閉塞であって︶これが現存在の頽落で

ある︒ハイデッガーは﹁死に至る存在﹂を﹁在りし未来︵もっとよ

く在りしものでありつ玉ある未来︶﹂という考えによって死に至る

先駆的決意として把えているが︑しかし﹁死に至る存在﹂は未来的

ではなくむしろ過去的である︒過去的存在として存在の頽落であ       ⑨る︒存在の頽落は存在の崩壊消滅に導く︒ ﹁凡て昨日という日は馬.鹿者共が土になりに行く道を照した﹂である︒ ハイデッガーに存在の崩壊消滅という考えが無いのは︑頽落の過去性を中間項とする矛眉が意識されていないためであろう︒しかるに消滅的契機は同時に離脱的契機である︒この離脱的契機に於て﹁事実性﹂は消滅の底から隆起する︒この隆起が未来への転換点としての存在の現在性である︒且つ離脱的契機は空間性であるから存在の現在性に於て時間性に空間性が与えられる︒彼が時閥性を以って﹁根源的な自己の外﹂

︵二幅︒ω罎ω箕口Pσq犀OゴΦ︾自ωu・費−忽Oゴー国屏ω雷怠8ωOげ一①Oゴ魯冒︶という

時は勿論未来優位の考えで離脱的契機の空間性を時間性の中に吸牧

したもので︵其の限り時間性が反って無時間性となる虞れもある

が︶国恩ω仲Φ昌Nもか玉る時間性に於て把えられていたが﹁フウマニ入ム      ⑩入について﹂以後に断て図箆ω審尋は国写忽ω梓9Nに国耳ωo霞︒ωω①昌げ①坤は

国コぐω︒巨︒ωωΦづげΦ#に書き替えられているのは専ら時間性の中に隠さ

       ⑫れていた離脱的契機が畏めて強調されるに至ったもので盆ωぎ己①門

毒①写ω①貯をO建①ロ冨搾密ωQりΦざ︒・とするも同巧異曲である︒

 従って存在は根源的には主観推論式として合理性を許すもので独

逸語の還魂ωo一二ωωの接頭語国昌けは﹁分離︒脱落・除去・否定﹂等

を意味し︑根源現象としてのωo巨信ωωの離脱的契機を示すものであ

る︒しかし離脱は只一つの契機であってその他面は崩壊消滅の契機

である︒消滅と離脱と相侯って全一性をなす︒現在を転換点として

前者は過去に関係し︑後者は未来に関係する︒しかるに消滅と離脱とは交叉関係に於て同時的に全一性をなすから離脱は過去的には消

滅に於て無限の時間の経過を持たなければならない︒この消滅に於

ける無限の時間の経過が一刹那に縮ま..たものが即ち離脱である︒

従って離脱の契機に於ける存在の隆起︵存在の現在性︶には過去的に

無限の時間の一刹那に於ける蓄積がある︒同様に消滅の契機は未来

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的には離脱の契機に於ける存在の隆起︵存在の現在性︶に於て無限

の未来を獲得する︒

   騒主観推論式に於ける生成の概念とヘーゲルに於ける生成

    の概念

 ヘーゲルの論理学に於ける生成は主観推論式の中闘項としての我

主観の内包する矛眉に基礎を有し︑しかもその生成の運動は我主観

の外に出ることが無い︒矛盾は自我のより高き発展段階に簸て宥和

されるのである︒従って決定的刹那に出会うことも調いに無い︒こ

れは生物主観の我主観からの離脱の契機を欠ぐからである︒そして

この事はヘーゲルの体系的思惟の最初に於て定められている︒ ﹁精         ⑬神現象学﹂に於ける﹁感覚的確信﹂の分析はこの事を証明してい

る︒ヘーゲルは本質を分析する場合︑この我がこの対象を感覚的に信

んじているという﹁この我﹂ ﹁この対象﹂と両者の個別的関係を本質

に前提するが︑しかしこの前提を我主観的それ即ち私念︵寓①ぎ①ε

として把え従って﹁我﹂も﹁それ﹂も単なる並列関係のものと考え

られるところがら︑このものは﹁単に在るが故に在る﹂もの即ち純

有に外ならないとする︒そして更にこれを本質として前提し︑この空

虚な本質から媒介的にさきに挙げた﹁この我﹂ ﹁この対象﹂が転落

すると言う︒さきに﹁この我﹂ ﹁この対象﹂の個別的関係は直接的

であったが︑今や媒介的となるのである︒しかしヘーゲルのこの媒

介は﹁我主観的それ﹂の関係を異なった言葉で︵感覚的な言葉を理

性的な言葉で︶言い替えたまでであって両者には同一性の前提があ       ⑭る︒ヘーゲルは媒介は直接的者自身であるとも言う︒しかしこれで

は我主観の外に出ること出来ない︒生成は我主観の将内に於ける生

成でしか無くなるし感覚的個別関係も純有という無色透明物の中

に昇華されて終う︒これは感覚的個別性の捨象ともなり︑後にマル       ⑮ク入によって別の立場から抽象力として利用され﹁我主観的それ﹂の関係が内包する矛盾の暴露として役立ったが︑しかし理論的にはヘーゲルに於ては﹁我主観的それ﹂の関係と媒介された﹁この我﹂と﹁この対象﹂の関係との闇に前提された同一性のために﹁我主観的それ﹂の関係が内包する矛盾が宥和せられる傾向をとったまででマルクスも主観推論式の申間項としての我主観の内包する矛盾にその理論を依拠せしめている点では異ならない︒只ヘーゲルの如く宥和に終らず﹁我主観的それ﹂の関係が矛盾のために展落することを説くところにマルクスの独創がある︒これによってマルクスはヘーゲルを乗り越えるのであるが︑これにはフォイエルバッハという仲介を必要とした︒フォイエルバッハは熱心なヘーゲル学徒として︑ ヘーゲルの純有的思惟に対し痛烈な反杭の叫び声を挙げた最初の人である︒彼はさきに挙げた﹁精神現象学﹂の冒頭の媒介されたこの我がこの対象の感覚的意識を持つ関係に関するヘーゲルの叙述について       ⑯次の如く言う︒ ﹁此処は樹である︒しかし私は先に行って言う此処は家である︒初めの方の真理性は消え失せたのである︒今は夜である︒しかしそれは長くは続かない︒そこで今は昼であるとなる︒初めの方の推定された真理が今や陳腐となったのである︒かくて今は

一つの普遍的今単一的︵消極的︶多であることを示す︒此処につい

ても同様である︒⁝⁝だが一体これは感性的意識の実在性に対する

弁証法的反駁だろうか︒普遍的なものが実在的なものであること

が︑それによって証明されたであろうか⁝⁝私の兄弟はヨハγと称しアドルフと称する︒しかし彼以外に︑なお無数の他人も叉ヨハγ

・アドルフであり︑そう称する︒さてこの事から私のヨハγは何等

実在でないということになるだろうか︑ヨハンたることが真理だと

いうことになるだろうか︑感性的意識にとっては一切の言葉が名で

あり︑固有名詞である︒前者にとっては言葉はそれ自体に於ては全

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くどうでも構わぬものであり︑最捷径に於て前者の目的を達成する

ための記号に過ぎない︒しこのフォイエルバッハの感性的意識の実

在性の主張には唯名論の響きさえあるが︑しかしヘーゲルが感学的

個別関係を﹁我主観的それ﹂即ち私讐の中に於てのみ理解しようとする傾向に対する反機として重要なる意味を持っている︒感覚的個

別意識はそれが自然学的である限り︑空虚な純有を本質とする﹁我

主観的それ﹂とは区別さるべき実在性を持ち従ってヘーゲルの如く

﹁この我がこの対象を感覚的に信じている﹂とは言い得ないからで

ある︒この対象を感覚的に信じているのは︑この私の感覚的個別意

識それ自身なのである︒私の生物主観がこの対象を感覚的に信じて

いるのである︒これから如何にして﹁我主観的それ﹂が発生するか

は﹁我主観の含む矛盾の原因と性質﹂の題下に詳説したからこ玉には

繰返さない︒只フォイエルバッハはこの過程を経ず︑従って﹁我主

観的それ﹂の関係が内包する矛盾i生物主観の剥奪即ちフォイエルバッハの用語によれば感性的意識の実在性の剥奪iの考察なしに換

言すれば主観推論式の中間項としての我主観の崩壊消滅と生物主観      ⑰の離脱という生成の思想なしに言語によって我を汝に媒介せんとし

ているが︑その言語とは生成の言語でなければならないであろう︒     ⑱マルクスの﹁フォイエルバッハは感性的な1思考客体から現実に区

別されている客体を執えようと欲している︒しかし彼は人間的活動

そのものを対象的活動として執えていない﹂という有名な評言はフォイエルバッハの感性が非生成的であることを言ったものであろう

が︑しかし離脱を完成し我主観を汝主観へ根源的に媒介する生物主

観はもはや自然学的基底的ではなく人格的である︒人聞性から従っ

てその一契機としての三人称的生物主観から対象的活動として分離

せしめられた感性的︒人聞的活動は﹁我主観的それ﹂と選ぶところ

は無いであろう︒こ玉にマルク入によるヘーゲル的考え方の採用が ある︒只ヘーゲルの論理が意識的・物的︵両契機とも間接的で生物主観の如く両契機が直接的・闇接的ではない︶で意識優位に立ち我主観の増内での生成であるのに対しマルクスはフォイエルバを仲介することによって︑但し自然学的ではなく社会科学的に意識の優位を脱して物的・意識的︵両説機とも間接的で物理的客観の如く両契機が直接的・間接的ではない︶に物優位の立場に於て﹁我主観的それ﹂の関係が内包する矛盾とその没落︵しかし根源的ではないが︶を説く立脚地を獲たのである︒観念論唯物論の論争は久しいものであるが︑少くともヘーゲルとマルクスに関する限りでは﹁我主観的それの﹂の意識的・物的解釈か物的・意識的解釈かの相異である︒思想の物的・意識的間接連結は生物主観の物的契機の間接性による我主観の物理的客観的転落現象として生ずることはさきに詳説した︒従って史的唯物論は人間の自然学的基底に充分な基礎を有する人聞性剥奪現象の史的説明として︑叉充分な意義を有する︒何故ななら我主観の物理的客観的転落は物理的客観とは異なるそれ・自体としては一つの幻想ではあるが︑それが人間性の剥奪となる限りに湿て社会的現実性を有するからである︒しかしこれのみでは人間性の回復とはならない︒人間の自然学的基底としての生物主観はその意識的個別的契機の直接性に於てその自然性を脱して汝主観に媒介され人格的とならなければならない︒自然学的基底としての生物主観が人格的三人称となるためには生物主観の我主観からの離脱的契機が従って﹁我主観的それ﹂の根源的消滅が自覚されなければならないにしてもフォイエルバッハがヘーゲルの純有的思惟の架空性に反対して生物主観の意識的個別性の直接性︵マルク入の如く生物主襯の物的契機の聞接性ではないが︶とその実在性を強調した点では

マルクスにも欠げているフォイエルバッハ自身の独自の存在意義を

認めなければならない︒

 採ヘーゲルの純有はさきに述べた如くに﹁我主観的それ﹂即ち我

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主観的対象の自己同一的一般性に過ぎないのであり︑感覚的意識の

個別性と直接性がこれに反機するとすれば一そしてこの反機は当然

だが︒何故なら感覚的意識の個別性と直接性はヘーゲルに於ては私

念と同一に見徹されることによって自己の正当の権利まで剥奪され

ているからである︒−純有はそれ自体矛盾を内包するものとならざ

るを得ない︒此処に生物主観の意識的契機から物的契機への移行も

ある︒マルクスはこの物的契機によってヘーゲルの純有的思惟の内

包する矛盾を利用したのである︒しかるにこの矛盾のために純有は

崩壊消滅する︒従って﹁我主観的それ﹂は根源的に消滅する︒何故な

ら純有は﹁我主観的それ﹂の本質と考えられているからである︒し

かるにこの消滅は同時に生物主観の我主観からの離脱である︒ ヘーゲルは論理学をこの純有から始めるが︑もし純有が上述したような矛眉を内包しているのでないとしたらどうして﹁有﹂が﹁無﹂

に移行することを理解し得ようか︒只純有それ自体の崩壊消滅とし

てのみ﹁無﹂を理解することが出来るし︑純有自体の崩壊消減には

感覚的意識の個別性と直接性の反擾が前提されている︒さればこそ

﹁無﹂は自己の前提へ移り行かねばならないが︑それはもはや純有

ではあり得ない︒何故なら純有は崩壊消滅したから︒この崩壊消滅

に発て離脱する感覚的意識の個別性と直接性こそ﹁無﹂が移り行く

当のものなのだ︒しかるにヘーゲルに於ける生成はかようにはなっ

ていない︒ ﹁無﹂が移り行くものは純有なのだ︒ヘーゲルに煮ては

前提は純有以外には何物もない︒しかし﹁無﹂が帰り行く純益は媒介

された純血即ちこれがヘーゲルによって理解された生成の概念であ

る︒従って純有即ち﹁我主観的それ﹂の本質は消滅することなく依然

としてこの過程の中に生きているのである︒しかも無心に自己の生

命を豊富にしながら発展し行くものとして︒この生成の思想は一見

魅惑的ではあるが︑しかしこれでは我主観の消滅ということは遂に

あり得ないし︑従って又生物主観の我主観からの離脱ということも あり得ない︒主観推論式に於ける生成はヘーゲルに於ける生成とは別種の概念である︒   駈主観推論式に於ける生成の概念とヘルダーリγに於け    る生成の概念      ⑲

詩人のヘルダーりγが﹁殴落に於ける生成し︵≦①aΦロ一日ぐoHσqΦげΦづ︶ という小論で展開した﹁観念的解体﹂︵島︒乙①包富︒げ①諺亀δωβごσq︶

という概念は同じく観念的ではあってもヘーゲルのそれとは異なるところがある︒ヘルグーリγは観念的解体の過程を次の三段に分析する︒e新なものが知らざる力として無限に古きものに対する関係一個体 的なものの無限なものへの︑個別的なものの全体的なものへの優 位口無限に新しきものが解体する知らざる力として個体的に古きもの に対する関係−無限なものの個体的なものへの︑全体的なものの 個別的なものへの優位日無限に新しきものが生命感情︵自我としての︶として対象︵非我 としての︶としての個体的に古きものに対する関係!この日にはH口にあったような関係を特に説明した文句が無いが︑前後の関係や他の箇所との関係から考えて日には次のような説明書きを附加するのが適当と思われる︒即ち﹁調和的に対立する一夕﹂︒この丈句は﹁有機的心霊を

賦与された器官︒調和的に対立する一者﹂ ︵び①ωΦo洋ΦO村σq彗①田津

︒目ぴq9︒巳ωoび禽ωΦ包P国墨壷〇三ωoげ①三σq①σq①昌σq①ωΦ異爆撃⑦ω︶とあることで明らかな.ように質料主観を意味し生命感情としての新な個体的なものと対象としての個体的に古きものとの調和的に対立する一者と解して差支えないと思われる︒

 さてこの観念的解体の過程の始めをなすものは無限に古きものに

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(9)

優位を主張する知られざる力としての個体的に新しきものである

が︑無限に新しきものが解体する知られざる力として個体的に古き

ものに臨む関係を経過してからは個体的に新なものは新な個体的な

ものとなり生命感情の中にその終結を見出すのである︒ヘルダーリ

ンはこの関係を語って孤立化したもの︑個体的に古きものが自己を

一般化し︑そして無限の生命感情の中に自己を解体しようとすると

丁度同じ度合に於て新な個体的なものは︑自己を孤立化し︑そして

無限性から自己を引き離そうとすると述べている︒勿論この場合の

無限性からの離脱とは無限に古きものからの離脱を意味し︑叉無限

の生命感情の中に自己を解体しようとする個体的に古きもの︵孤立

化したもの︶とは無限に古きものに属くし︑対象としての個体的に

古きものとは区別しなければならないであろう︒何故なら解体は観念的であるから︑従って個体的に古きものの解体は襯念的である筈

であるが︑しかしこのものは解体して無限に実在的なもの︵無限な

生命感情︶ へ移り行くのであるから︑この移り行きには質料︵象︒

竃鉾興δqΦωdび①茜きσqΦω︶が存在しなければならないからである︒

この移り行きの質料が即ち対象としての個体的に古きものであり︑

生命感情は薪な個体的なものをこれと対立せしめつ玉も調和的一者

を形成するのである︒これがさきに述べた﹁有機的心霊を賦与され

た器官﹂という調和的に対立する一斗で︑このヘルダーリンの考え

は質料主観の分析と見ることが出来る︒ 一者としてはその対立にも

拘らず︑それ自体としては矛盾もなく分裂もなき統一体であるが︑そ

の質料主観が主観一般との関係から無限に古きものを生じ︑このも

のの抑圧に反駿するものとして質料主観は個体的に新しきものとな

るであろう︒そして其の反機は無限に古きものが内包する矛盾となって現われ無限に古きものに属する個体的に古きものは解体して新

な個体的なものが出現するであろう︒しかるにヘルダーリyはこの

個体的に新なものを無限に古きものに対する﹁知られざる力﹂とか 叉個体的に古きものに解体作用を及ぼす無限に新しきものを﹁解体する知られざる力﹂とするのみで︑それ以上の分析を行なっていない︒従ってその生成の分析は根源的で主観推論式の基底としての質料主観︵生物主観︶に徹しているが︑しかし生成は新なものの生成

︵存在の再生作用︶に止まらず︑又古きものの生成︵矛盾と否定の

生成︶でなければその概念は完全とはならないであろう︒新しきも

のの生成も存在の連続性の回復とはならないであろう︒この古きも

のの生成従って矛盾と否定の生成を理解するためには質料主観の分

析と共に主観一般との関係が反量的に考察されなければならない︒

勿論ヘルダーリγにも解体という考えや非我という概念が存在して

いるが︑しかしその解体という考えに当然含まれるべき矛盾や否定

という概念は明確には決して分析されてはいない︒そのためには古

きものの生成の問題が反省されなければならない︒ヘルダーリγで

は非我という概念も単に対象としての個体的に古きものを意味する

ことになっている︒しかしそれでは自我としての生命感情との関係

はどうなるであろうか︒非我は自我と対立するものとのみなって︑

その基底に存する質料主観の調和的に対立する一坐的構造を破壊す

る結果になりはしないか︒これはジγメルが其の著 ﹁レソブラγ       ⑳

ト﹂の中で言っているように非我︵同∠一〇げけ−HOげ︶は対自的には自我で

あり︑従って非我は即ち汝︵q9ωUβ︶であるとして非我を対象性か

ら離脱せしむる必要があるであろう︒要するにヘルダーリγの生成

の思想は人間の主観性の研究にとって示唆に富むものであるが︑尚

消滅と離脱の契機の徹底に於て不充分なものを残して居ると言うべ

きであろう︒

昭和三十四年九月十日脱稿

9

(10)

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  ⑪α葺︒・   ま律 く︒旨gΦMω・ト㎝

  ⑤罎鋤葺国●  9ω鰹葺芭る目ω8bロ欝mρ<︒ヨ︒暮

  ⑧フォイエルバッハ ヘーゲル哲学の批判︵佐野文夫訳岩波文庫︶

       頁四一一四三

  ◎      同書頁二二 ⑱エンゲルスマルクス フォイエルバッハ論︵佐野文夫訳岩波文庫︶

       頁一〇三⑤口O置①島P即 国α置Φ忌器巽ヨ岳9ΦミΦ喬¢︵H房①一トロ︒︒σQ呂︒︶       dげΦ弓号ω零Φa喘ぎく︒お①げ①戸ω.日Oトiδω⑧ω言欝①凝ρ 国Φ日ぴヨ巴計N毒Φ坤Φ︾珪冨σqρω﹄①

      ︵昭三五・一︒二八受付︶

10  「

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