人間本性の問題(1)−ホッブズの利己的人間観を めぐって−
著者 若松 謙
雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学
巻 27
号 1
ページ 97‑113
発行年 1978‑11‑25
その他のタイトル The Problem of Human Nature (1) URL http://hdl.handle.net/10105/2501
人間本性の問題(1)
‑ホップズの利己的人間観をめぐって‑
z‑ & 謙 (倫理学教室) (昭和53年4月28日受理)
I は じ め に
1651年に出版された『リヴァイアサン』において、ホップズは国家権力の絶対性を肯定する思 想を展開したが、周知の如くその根底には徹底的に利己的な人間観があった。人間も他の動物と 同じく絶えず外的琵境から衣食住に役立つものを確保しなくては生きてゆけない存在であるが、
ホップズによると人間は自分の生命維持に役立つもの、自分の利益になるものには必然的に快を 感じ、それを得ようと欲求するし、逆に妨げるものに対しては苦痛を感じ、それを避けようとす る。そこで人間は究極的には自分の利益、自分の生命維持のみしか求めないO生まれつき与えら れた本来的な力(肉体的、精神的諸能力の中越性など)であろうと、或いはそれらを介して得ら れた手段的な力(富、名声など)であろうと̀1㌧ とにかくあらゆる力を用いて、ますます自分の 力を増大させ、そのことによって自分の生命を少しでも安全に維持しようとする。 「そこでまず第 一に、私は死においてのみ消滅する、力への絶えざる、尽きることのない欲求を、あらゆる人間 の一般的傾向とみなす(2)。」他人を尊重し、他人のために自分を犠牲にするといった愛他的傾向は、
人間本性に全く具わっておらず、人間は他人を押しのけ、排除してでも、自分の力の増大を求め る,とされるのである。
そして人間本性がこのようにまさに利己的であるがゆえに、ホップズは国家権力の絶対性(国 民の国家‑の絶対服従)を肯定したのである。利己的な人間がその本性をむき出しにして、他人 を無視してでも自分の欲しいものを勝手に奪おうとし合うならば、 「万人の万人に対する戦い(3リ が生じざるを得ない。他人の支配欲、権力欲の犠牲になって、何時何時自分の生命そのものが奪 われるかもしれない。そこで殺人、盗み、契約違反、自分の分け前以上のものを横領しようとい った不公平などに対して、国家が公平に刑罰を加えて、利己的在り方を抑制した方が、かえって 人々の生命維持がより安全に確保されることになる。こうした理由のためにホップズは, (法律 を制定し、それに違反した者には厳しい刑罰をもって臨む)強力な国家権力の存在を指定したの である。不正に対して刑罰が加えられることになれば、人々は自分の利益のためにも不正を犯さ ない。合法的に自分の利益を追求せざるを得なくなる。そして患返しを期待したり、自分の権力 や名声を高めるためにも、他人に親切にするといった道徳的に望ましい行為を為すようになる軸。
そこで国家権力に絶対服従することに危険が伴うのは事実であるにせよ、ホップズは敢えてそれ を肯定しようとしたのである。
しかし国家権力から、むしろ国民の基本的権利(自由、私有権など)を守ることが大きな関心 となってきた時代に、ホップズのこうした思想が人々に受入れられなかったのは当然と言える。
97
1688年に名誉革命が遂行され、その2年後に出版された『統治論』において、ロックが、国民の 権利を守るために国家が存在することを強調した時、ホップズ的国家観は全面的に否定されるこ とになったのである。そして18世紀になると、ホップズの国家観の根底に存する利己的人間観そ のものに注目し、それを批判、否定しようとする一連の思想家達も登場してくる。彼らは刑罰と いう外的強制、或いは自分の利益への打算に基ずいてしか道徳的に善い行為を為し得ないという、
ホップズの悲観的人間観に反捺し、人間の善性を擁護しようとしたのである。そこでこの小論で はそうした思想家達のうち、シャフツベリ(1671‑1713)とバトラー(1692‑1752)を取り上げ、
彼らの思想も吟味しながら、人間本性の問題を考察してみたいと思うのである。なおこの小論で は、ホップズに対する彼らの批判と彼ら自身の固有な思想とを一応区別し、前者を主として本文 で述べ、後者は注の形で補うことにする。
II シャフツベリのホップズ批判
まずシャフツベリのホップズ批判を紹介すると次のようになる。
(1)ホップズは、人間本性は徹底的に利己的であり、道徳的に善いものを人間が(自分にもた らされる利益‑の考慮を離れて)直接、それ自体で望む、愛する、といったことはないと考えて いた。人間が道徳的に善いことを為すにしても、それは刑罰を免れて、より合法的に生命維持を 図るためであって、道徳的に善いものを、直接それ自体で是認、愛好することはないと考えてい たのである。しかしシャフツベリは、人間が理性的存在である限り、決してそうしたことはない と主張する。自他の行為や感情を理性的に反省する時、その道徳的善し悪しによって、善いもの を愛好し、悪いものを嫌う傾向が、すべての人間に生まれつき具わっていると主張するのである。
「事物の一般的観念を形成し得る被造物においては、感覚に示される外的存在だけが、感情の対 象なのではない。行為そのもの、憐み、親切、感恩や、それらの反対の感情が反省によって精神
にもたらされ、その対象となる。それゆえこの反省的感覚によって、すでに感じられている感情 そのものに対するもう一つ別の種類の感情が生じる。かくして前者の感情は今や新しい愛好、嫌 悪の主題となる̀5)。」引用文中の「反省的感覚」が有名な「道徳感」であるが、人間は道徳的な善 悪の区別に関して、生まれつき全く無関心であることはできない。善いものを愛好し、悪いもの を嫌う傾向が生まれつき具わっているとされるのである。 「理性的対象によって試みられるよう になり、正義、寛大、感恩、その他の美徳のイメージないし表象を、その精神に受取る理性的被 造物が、これらに対する愛好、その反対のものに対する嫌悪を抱かず、彼らに示されるこうした 種類のものに対して、絶対的に無関心であると考えることは一一不可能である16)。」時に人間は道 徳的に娘落し、こうした善‑の愛好、悪への反掩、嫌悪を十分に感じないことがあるかもしれな い。しかし如何にEli落しようとも、善悪の区別を全く否定し、悪を悪と知りながら平然とやる、
といった悪魔的存在にまでなり下がることは決してないとされるのである。 「人間の心がそれ自 身の内部で如何に歪み、堕落しているにしても、 ‑・・・それは一つの心と別の心、一つの感情と別 の感情‑・・.との問の違いを見出す.‑,従って利害を離れたすべての場合において、それは或る程度
自然的で誠実なものを是認し、不実で汚れたものを否認するに違いない(7)。」
従ってシャフツベリは単なる自分の利益、自分の生命維持を図る在り方と道徳的に善い在り方 とをはっきり区別し、しかも前者から明白に異なる後者を、人間が自分の力だけで為すことがで きると主張する。ホップズは、国家などの外的強制なくして人間が道徳的に善い行為を為すこと
など不可能と考えていたが(8)、シャフツベリは(人間に善への愛好、悪への反綾が生まれつき具 わっている限り)それが可能だと考えているのである。そしてホップズ的な在り方、即ち外的強 制ゆえに悪を為さない在り方、或いは自分の利益ゆえに善を為す在り方そのものが、未だ十分に 道徳的に善くはない、不純な在り方だと非難するのである。 「我々は手を縛られた時、意図する悪 行をしない人、或いは一一切迫した刑罰の恐怖、又は或る外的報酬の誘惑によって悪い意図を遂 行するのをやめる人を、善い人であるとは言わない。 ‑‑・彼がそれに対して関係を有する体系
(社会全体‑筆者付記)の善ないし悪が、彼を動かす情念ないし感情の直接的対象である時に のみ、被造物は善と想定される(9)。」これは我々自身の良心体験に滑らしてみても正しいといっ てよいと思われる。
(2)ホップズは国家の外的強制によってのみ人々の問に初めて秩序や平和がもたらされると考 えていた。 「人々の一致は、人為的な契約によってのみ存在する。それゆえこの一致を恒常的で 永続的なものにするために(契約以外に)何か他のものが必要とされることは何の不思議もない。
この他のものとは、人々を畏怖させ、彼らの行為を共同の利益‑導くように命じる公共的権力で ある(10)。」それほど人間は本来、利己的で排他的、反社会的な存在であるとホップズは考えていた のである。これに対してシャフツベリは、社会生活こそ人間にとって、むしろ自然的、本来的な 在り方であると考え、人間性そのものの中に、他人との共存の感情や連帯感を認めているOすで に動物の場合においても、敵の侵入に対して自分の仲間が無事であるように、個体が自発的に自 分の生命を犠牲にして害を防ぐといったことがある。個体は種属全体のために自然にそうするの であり、種属全体と一つに融け合っているといえる画があるO これと同じく人間の場合にも、個 人は仲間や社会全体との一体感を有し、何ら抵抗なく友好関係を結ぶ。或る場合には自分を犠牲 にしてでも、社会や仲間のために奉仕しようといった自発的衝動を有していると主張するのであ る。 「単なる感覚的被造物が、感覚的対象によって試みられるようになる瞬間から、彼の種属に 対して如何なる善い情念も有さず、憐み、愛、親切や社会感情の如何なる基礎も有しないという ほど、初めから悪く構成されており、不自然であると想定することは不可能である(ll)。」 「すべて の社会愛、友情、感愚、或いはこの寛大な種類のもののすべてが、その本性上白分の利益‑向か う情念にとって代わり、我々を我々の外‑連れ出し、我々自身の便益や安全に考慮を払わないよ うにさせることは確かであるll2'。」ホップズの場合にはたとえ友好や愛が成り立つにしても、そ れは恩返しの期待とか、自分の支配欲の増大といった打算に基ずくとされていたが、人間はそう した打算抜きで、他人や社会のために進んで奉仕する傾向を生まれつきもっているとされるので ある。コプルストンが述べているように、シャフツベリは「慈愛的、愛他的衝動が、利己的衝動 と同じく人間に自然的であることを示す・‑‑ことによって、ホップズの人間観を斥けようとし た(13)」といってよいのである(U)。
(3)ホップズは人間が利己的存在である限り、その幸福も、利己的欲求を一つずつ確実に充足 させてゆくことをおいて他にない、と考えている。〕 「人が次から次‑と欲求するものを獲得する ことにおける持続的成功、即ち持続的繁栄が、幸福と呼ばれるものである。 ‑‑この世に生きて いる限り、精神の永続的平静といったものはないO何となれば生はそれ自体運動にすぎず、感覚 なしであり得ないと同様に、欲求や恐怖なしであり得ないからである(15)。」人間が他の動物と同 じく生きている限り絶えず自分の生命の維持、増大を求める(或いは求めざるを得ない)生命体 である以上、そうした自分の生命の維持、増大に向かう欲求の充足と切放された形で、人間の幸 福が成り立つことはあり得ない。欲求から離脱した精神の安らぎ、平静といったものはあり得な
いとホップズは考えていたのである。しかしシャフツベリは、これにも反対する。人間が社会的 存在であり、仲間との連帯感、一体感を有するものである以上、仲間との交友を抜きにして人間 の幸福は成り立たないと主張するのである。 「これら二つの部門(即ち、他人の快を共有し、これ に与ることと、他人からよく評価されているという信念)から、人生において享受されるものの 十分の九以上のものが生じる‑‑‑。かくして幸福の主要総計において、社会的愛から派生し、直 接的に自然的で親切な感情に依存するもの以外、殆ど何もない(16)。」暴君、非道な悪人といった、
社会に反抗し、社会から爪弾きにされているような人々でさえも、それなりに自分の仲間を求め、
共に楽しみを分ち合おうとするといったことがある。それ程、互いに価値を認め合い、楽しみを 分ち合うことができる仲間が存在するということは、人間の幸福にとっても決定的な意義を有し ている。如何に自分の富を確実にふやし、権力を得たにしても、喜びを分ち合うことができる友 人ももたず、世間から憎まれ、軽茂され、爪弾きにされているとすれば、決して人間は幸福であ ることができない。ホップズの主張するように、反社会的、排他的に、自分の利益ばかりに専心 する人間には、決して真の幸福は得られない、とシャフツベリは考えているのである(17)。
以上三つの点からシャフツベリのホップズ批判を紹介してきたが、いずれも尤もであるといえ る面が含まれていることは否定できない。そして先行する時代との関連で考えてみれば、シャフ ツベリのこうした思想が大きな歴史的意義を有していたことも、又否定できないと思われる。ヨ ードルはその『倫理学史』において次のように述べているO 「シャフツベ))においては人間の生 得的善への信頼がある。自然そのものにおいて与えられた人間の素質や構造が道徳的なものに適 合しているという信頼がある、,こうしたシャフツベリの喜びに満ちた楽観主義と、人間やその力 に完全に絶望し、人間本性のうちに虚弱、無能、哨落のみをみる、かの陰気な世界観‑・‑との対 立ほど、鋭い対立は考えられ得ない(18) 」 17世紀のイギリスにおいてはピューリタンにおいて典 型的にみられるように、人間についての悲観的な見方が顕著であった。人間が神の助けなしに自 分の力で道徳的善を実現することなど不可能だと考えられていた。そうした考え方とシャフツベ リの考え方とは著しい対照をなしている。人間本性(自然)についての見方が根本的に違うので ある。 「道徳と自然との険しい対立は、教会理論の基礎を形成していた。そして非常に異なった傾 向と根拠とによってであれ、ホップズによっても主張されていた。しかしそうした道徳と自然と の険しい対立にとって代わって、シャフツベリにおいては、真に自然的なものと、真に道徳的な
ものとの殆ど完全な同一視が姿を現わす。自然との戦いが倫理なのではなく、 ‑‑‑あらゆる人間 のうちに自然的素質として存在するものの調和的、斉合的形成が倫理なのである(19)。」人間が生ま れつき与えられた素質そのものによって、 (神や外的強制を必要とせずに)自分の力だけで道徳 的善を実現し得るという確信がシャフツベリのうちには明白にあるが、それは(これ迄述べてき たように)ホップズの考え方と対立するのみならず、教会の考え方とも対立する。従ってシャフ
ツベリの考え方は、ホップズを含めた17世紀に固有な悲観的人間観そのものの否定であり、人間 肯定的な、新しい世紀の幕開けを告げるものだったとヨードルは考えているのである。そして又、
このことは当然倫理学そのものの宗教からの独立、自立をもたらしたという点でも固有の意義が あったと考えている。 「この関係におけるシャフツベリの理論が如何に不十分であるにしても、そ れは歴史的な立場からは最高の注意に値いするO それは倫理学の神学からの完全な解放への重要 な第一歩である。そして道徳についての哲学的理論の豊かな形成への重要な第一歩である(20)。」
神学からの独立という課題は、近世以後のあらゆる学問にみられる一般的傾向であるが、シャフ ツベリにおいて、神という超自然的権威から独立に、遺徳現象を探求する哲学的倫理学の道が開
かれているというのである(21)っ 私は人間本性そのものに基ずいて、倫理と宗教とがおのずから一 つに結び付いているといえる面があると考えるから、宗教からの倫理の独立を無条件に肯定しよ うとは思わない。しかし当時の宗教の現状、先行する17世紀との関連において、シャフツベリの 思想が、それなりの固有の意義をもっていたことを認めるのは当然だと考えている。
III バトラーのホップズ批判
バトラーもシャフツベリと同じくホップズの利己的人間観を批判する。 「我々が行為において 他人から如何なる拘束も受けず、又他人‑の如何なる配慮も有していないということは、我々の 同胞達に対して関係を有するものが、我々の本性の中に一一何もないと考える思弁的不合理であ る。そしてこれは手ないし或る部分が、身体全体、或いは他の部分に対して全く自然的関係を有 さないと想定するのと、同じ不合理である(22)。」バトラーからすれば、我々人間が「我々自身の生、
健康、私的善を配慮するために意図されていたのと同様、社会やその幸福を促進するために造ら れている(23)」ことは明白なのである。そこでシャフツベリと基本的には全く同様に、自分の利益 を目指す傾向と、他人や社会の利益を目指す傾向との調和、釣合いを意図するのであるが、具体 的に次のようにホップズの考えを批判している。
(1)ホップズは、人間の個々の具体的欲求、衝動はすべて快、自分の生命の維持、増大を求め ている、という意味において、自分の利益のみと密接な関係をもっていると考えていた。個々の 具体的状況で人間が何を求めているにせよ、それは結局自分の快を得るためであって、人間は自 分の利益以外の別の何かをそれ自体で求めることはないと考えていたのである。しかしバトラー は、ホップズのこうした考えを思弁的独断として斥ける。自分の将来全体の利益、幸福を配慮す
る在り方を自己愛と規定するならば、状況との関連で人間が抱く個々の特殊な感情、欲求などは、
必ずしもすべてそれに還元できるわけではないと主張するのである。 「あらゆる特殊な感情、我 々の隣人に対する愛でさえも、実際自己愛と同じく我々自身の感情である。そしてその充足から 生じる快は、自己愛が一一有する快と同じように、私自身の快である。それであらゆる特殊な感 情が或る人目身のものであり、又その充足から生じる快がその人自身の快、或いはその人自身に とっての快であるがゆえに、そうした特殊な感情は自己愛と呼ばれねばならないと仮定してみる。
こうした言い方に従えば、如何なる被造物も自己愛に基ずいて以外は行為し得ないことになる。
そしてあらゆる行為、あらゆる感情は、自己愛というこの唯一の原理に還元され得ることになっ てしまう。しかしこれは人間的な語り方ではない。 ‑‑・我々はその行為が私自身の利益になると いう冷静な考慮から生じる行為原理と、例えば復讐、友情一一といった行為原理との間の違いを 表現する言葉を求めたい。これらの行為原理が全く異なり、区別されるための異なった言葉を必 要とすることは明白である。これらの行為が共に人間的自己の或る傾向から生じ、それを充足さ せるために為されるという点では、両者は一致している。しかし一方の原理ないし傾向は、自己 愛である。他方は他人に対する憎しみ、又は愛である。それゆえ、我々の本性の一部分、一つの 行為原理としての自己愛、又は我々自身の幸福への一般的欲求という冷静な原理と、我々の本性 のもう一つ別な原理、もう一つ別な行為原理としての、特殊な外的対象に向けられた特殊な感情 とは区別される。それゆえ自己愛に対してどれ程多くのものが認められようとも、それは我々の 内的構造の全体であると承認されることはできない。何となれば、 ‑‑‑それに属する他の部分、
ないし原理があるからである(24)。」人間は個々の具体的状況でr何か食べたい」、 「或る人に復讐
してやりたい」、 「親切にしてやりたい」といった感情、欲求を抱いている。そしてそうした欲求 が首尾よく充足されれば、それなりの満足、快を感じる。しかしこのように欲求の充足に快が伴
うからといって、我々は何もその快を求めて行為しているわけではない。 「何かを食べること」、
「仕返しをすること」、 「親切にすること」が、それぞれの欲求のそれぞれの目的なのである0(欲 求の充足に快が伴うからといって、何も快が欲求の目的ではない。その証拠に例えば何かを食べ たい、という強い欲求がなくなれば、いくら食べてもそれ程快が得られない、といったことが現 実に生じ得る。)このように個々の欲求がそれぞれ固有の目的をもっている以上、それをすべて、
直接的に自分の利益を目指したものと考えることは間違っているというのである。又たとえホッ プズが、こうした目的の各々が、すべて究極的には何らかの形で自分の利益に還元できる、と考 えていたにしても、それも間違っているとバトラーは考える。或る場合には、自己愛に対立する
というのである。例えば復讐欲に駆られて他人を傷つければ、自分も又社会的制裁を受けること になり、復讐という欲求は決して自分の利益にならない。飢えを満たす場合でも同じである。一 定の節度を保つように食欲をコントロールしないと、健康を害い、かえって自分のためにならな いといえるからである。こうしたことを考える時、すべての感情、欲求が自分の利益を目指して 生じるといったことは単純に言えない。自己愛のためには、むしろ個々の具体的欲求を前提し、
それの充足を自分の利益に通うように意識的に調整する必要があるといえるからである(25)O徒つ て個々の欲求、感情がすべて自分の快、自分の利益のみを目指しているというホップズの主張は 思弁的独断だというのである。富や権力を求める欲求と並んで、他人に親切にしようといった愛 他的欲求も現実に存在するというのである。
なおMaclntyreによると、貧しい人に施しをするのを牧師によって目撃されたホップズは、
「自分が施しをしたのは、それが貧しい人を喜ばせるからだけではなく、貧しい人が喜ぶのをみ ることが、自分を喜ばせるからだ」と、答えたそうである(26)。貧しい人に施しをするのも結局自 分を喜ばせるため、自分に快を与えるためであって、利己的意図に基ずいていることには何ら変 わりがない、と主張したというのである。しかしこれはホップズ自身のこじつけだといえる。も
しも人間が徹底的に利己的だとすれば、 (お返しが期待できない場合に)他人に親切にしようとい った気持は全く起らない筈であろうし、しかも相手が喜ぶのを見て、自分もそれで喜ぶ、といっ たことも決してないと思われるからである。勿論施しをするといった場合には、利己的意図がそ れとさまざまな形で結び付く可能性は実際絶えずある。ホップズが述べていたように、自分の支 配力を増大させるため、或いは何らかの形でお返しを期待するために、それが為される可能性は 絶えずあるからである。しかしことさら自分にもたらされる利益を念頭におかなくても、他人に 親切にしようといった気持を現実に人間が抱き得ること、そしてそうした際、相手が喜ぶのをみ て、それだけで自分も喜ぶといったことがある限り、人間に愛他的傾向が全くない、ということ はできないと思われる。現実には如何に利己的意図と絡み合っていようと、事実として愛他的傾 向が人間本性に具わっていることは否定できないと思われる(27)。
(2)ホップズは、憐み(pity)を「他人の災難に対する悲しみ」であり、 「同様な災難が自分 自身にふりかかるかもしれないという想像から生じる」と規定している(28)。憐みも自分の利益、
自分の生命維持との関係で定義したのである。しかしバトラーはこうした憐みの定義が十分でな いと批判する。 「ホップズ氏によれば、悩んでいる我々の最大の友でさえも、決して我々にとっ て同情の対象ではない。我々の心の如何なる感情の対象でもない。一一我々が災難に陥いるかも しれないという考え、そしてその恐怖のみが、我々の精神に感情を生じさせるのである。人間本性
のそうした説明の仕方は、その本質をあるがままに示されるのが望ましい。何となれば正義一般 や誠実さの基礎全体を害なう一般的図式が、そうした説明の仕方の上に築かれるからである(29)。」
ホップズは人間のすべての在り方を利己的であると考えるところから、それの明白な例外である 憐み、同情といった在り方でさえも根底において利己的なものであると不当に歪曲しようとして
いる。これは間違っていると言いたいのである。但しバトラーも、我々が悩んでいる人をみる時、
唯単にその人の苦痛を除去しようといった愛他的同情のみが生じるとは考えていない。そうした 同情と共に、その人の不運と、 (そうした災難に襲われなかった)我々自身の幸運との比較におけ る安らぎの気持とか、ホップズが認めていたような(自分も同じ災難に襲われるかもしれないと いう)我々自身の将来に対する不安な感情とかが付随することは認めている(30)。しかし憐みや同 情によって意味されているものは、何処までも他人の苦しみに共感し、それを除去しようとする 心の在り方である。ホップズは同情体験に付随的で、しかも同情とは異なる体験を、同情という 言葉の下で説明しているにすぎない。同情という愛他的傾向は、事実として人間本性のうちに兄 い出される独白の根源的素質であり、それを自分の利益を目指す在り方から派生したものと考え ることは間違っているとされるのである。これは正しい批判であるといってよいと思われる。「人 間のうちには慈愛の自然的原理がある。それは自己愛がその個人に関係するように、或る程度社 会に関係する。そして人間のうちに友愛‑の何らかの性向があるとするならば、同情‑‑‑のよう なものがあるとするならば、親の愛ないし子の愛といったものがあるとするならば、又それの対 象や目的が他の人の善である或る感情が人間本性のうちにあるとするならば、これはそれ自身慈 愛、或いは他人への愛である。それがどれ程短く、程度が低く、残念なことに非常に制限されて いようと、それはその主張を証明する。そして我々が一一何のために意図されたのかを示す(31)。」
(3)さらにバトラーは、何が善いか、悪いかを識別し、善を選び、悪を斥ける良心という道徳 的能力が、現実にすべての人間に与えられていると主張する。 「しかしすべての人間のうちには 反省ないし良心という、より卓越せる原理がある。それは彼の外的行為のみならず、心の内的諸 原理も識別する。それは彼自身やそれらに判断を下す。或る行為はそれ自体において公正、正、善 であり、他のものはそれ自体において、邪、悪、不正であるとはっきり宣言する。それは相談さ れることも忠告されることもなく、権威をもって振舞う。そして行為者である人間を是認ないし 否認する(321。」そしてバトラーは、この艮心という能力が人間の他の一切の在り方を秩序付け、
コントロ‑ルする、本来最高の権威を有すべきものであると考えている(33)。 「行為の諸原理の一 つである、良心ないし反省は、人間本性に共存する残りのものと比較される時、明白にそれらの すべてにまさる権威の印しを具えている。そしてそれらの充足を認めたり禁じたりすることにお いて、それらのものの絶対的指導を要求する0 ‑‑・もしもこのように卓越せる原理に、それに当 然帰せられるべき絶対的権威を認めないとすれば、如何なる人間も自然の構成に一致して行為し ていると言われることはできない(34)。」良心は本来、我々の在り方のすべてを支配、管理すべき Hproper governor1351'であり、その良心に従うところに、古代のストア派の言うように「自然 に従う」という在り方が成り立つ。勿論人間は時に感情や欲求の渦に巻き込まれ、そのために良 心の命じることを無視することもある。しかし感情や欲求という本来良心に支配さるべきものが、
逆に良心を圧倒することは、単に纂奪にすぎず、人間本性そのものへの不当な襲撃、それの侵害に しかすぎない(36)。自分自身を反省してみれば、すべての人間がそれを認めざるを得ないとされる のである。従って良心による支配、 「良心が互いに悪行をし合うことを止めさせ、善を為すこと に導く(37)1と主張する限り、バトラーは(シャフツベ1)と同じく)ホップズの利己的人間観、お
よび「外的強制がなければ、人間は自分の力だけでは善を為し得ない」という主張を明白に斥け ているといえる。そしてこうしたバトラーの批判が正しいといえる面があることは無論否定でき ないと思われる。
(4)バトラーもシャフツベリと同じく徳と幸福との究極的一致を確信している。 「普通の生活 の仕方において我々の義務と利益と呼ばれるものとの間に、殆ど不一致がないということは明白 である。義務と、利益、幸福、満足によって意味されている我々の真のこの世の利益であるもの との間に不一致があるということは一層稀である。自己愛はこの世の利益に制限されているとは いえ、一般に完全に美徳と一致する。そして同じ生活の仕方に我々を導く。しかもこれに対する 如何なる例外があろうとも一一、すべては事物の最終配分において正される。完全な精神の指導 や管理の下で、悪が究極的に善にまさると想定することは、明白な不合理である(38)。」(この引用 文の最後で示されているように、バトラーは神‑の信仰をもっている。そこで徳と幸福との究極 的一致の根拠として神が導入されているという点では、シャフツベリと立場が違うといってよい.
しかし現実にこの世においても徳と幸福とがおのずから一致に向かう傾向があると主張している 限りにおいては、シャフツベリの思想と同一線上にあるといってよい。)従ってホップズのよう に利己的欲求を一つずつ確実に充足させてゆくことによってだけでは、決して人間の幸福は得ら れないと考えていたことは明らかだといってよい。そこで最後にバトラーが、徳と幸福との一致 を主張する理由を紹介して、この章を終えることにする。
① 状況との関連で生じる感覚的快への欲求、嫉妬、怒りといった特殊な感情や欲求に振り回 されているだけでは、決して自分の本当の幸福も得られないとバトラーは考えていた。理性的自 己愛によって、そうした感情や欲求を秩序付け、コントロールするところに、真の自分の利益、
幸福も達成されると考えていたのである。しかもそうした感情や欲求のコントロールは、良心が 命じる道徳的に正しい行為の仕方とおのずから一致する面がある。 「習慣的な放噂、放蕩な生活の 仕方が、我々が友人、家族、国に対して有する義務の一般的軽視を意味することは明白である(39)。」
肉体的快楽への過度な耽溺が、自分自身の真の幸福にとって有害であることは言うまでもないが、
しかもそれらが又、他人に対する義務を等閑にすることに人を導き易いのである。従って過度の 快楽耽溺を押さえることは、自分の幸福にとっても望ましいし、他人に対する義務の遂行にとっ ても望ましい。このことは怒り、嫉妬といった特殊な感情についてもいえる。これらは他人を傷 つけるのみならず、白からの身の破滅を招き易いからである。そこで自分の真の幸福に到達する 道と、良心が命じる義務に従う道とは一致し得るC 「人々は他人に対してと同様、自分自身に対 してもしばしば不正である。そして大抵は同一の行為によって、等しく両者に対してそうなので ある(40)。」
④ シャフツベリも述べていたように、悪徳はそれ自体忌わしく悲惨であるのみならず、さま ざまな苦痛をもたらす。例えば怒り、嫉妬、憤激などの望ましくない情念を抱くことは、それ自 体惨めである(41)。しかもすべての悪徳には、恐怖、恥ずかしさ、うわべを偽りごまかすこと、卑 屈な屈従などが必然的に伴う。 「それによって囚えられ、しかも振り切ることができない悪徳の 鎖の下に繋がれているのを感じ、認め、大声で泣き11帰ミ場合が如何に多いことか?患い情念を充 足さすためには、それを克服するために必要以上の苦痛や自己否定を明白に人々が経験する場合 が、如何に多いことか(41)9」これに対して柔和、赦し、同情、善意などの美徳は、それ自体喜び を生じさせる。これらは積極的な喜びや楽しみの源泉である。又公正、正直、親切であるといっ た評判を受け取ることも安らかな満足を与える(41)。それゆえ有徳であることは、幸福であるた
めの不可欠の条件となる。これに対して悪徳に染まることは不幸をもたらす原因となりうる。
⑨ さらに富や権力がもたらす喜び、或いはそれらを持っているがゆえに、人々から受ける評 判のよさよりも、公正、正直、親切から生じる喜び、評判のよさの方が一層望ましい。富を得よ
うとする食欲、権力や名誉を得ようとする野心には、当惑、苛立ち、いろいろな厄介な事情など が必然的に結びついているが、美徳の実現にはそうしたことがない。精神の平和や平静さが常に 伴う=1'。しかも単に名誉なら名誉を得ようといくら努力しても果たせなかった場合、当然大きな 失望が伴うが、美徳の実現の場合にはそうしたことがない。自分が善いことの実現に努力したの だ、という満足感は、 (たとえその実現が途中で阻まれても)心の慰めとなるからである(42)。そ
こで単なる名誉、富、権力などよりも、美徳の方が幸福にとってもより一層望ましい。
人間は一般に富などの所有物を十分に貯えることが即幸福だと考え易い。そしてそのように考 えられるならば、徳と幸福との一致の確信は、確かにそう簡単には得られないといえる。何とな ればブロードが言うように、 「もし私が或る額の金を持っているとするならば、私が自分自身の ためにより多く使えば使う程、私は他人のために使うことがそれだけより少なくならざるを得ず、
その逆のことも言える、ということは明白である。それゆえ、一見して自己愛と慈愛とは必然的 に対立せざるを得ないかのようにみえる(43)」からである。しかしバトラーは、富などは単に楽 しみの手段、ないし素材であり(軸、それを持つことが即幸福だとは考えない。むしろ他人に親 切にしたりすることの方が、人間の幸福にとって決定的意義をもっていると考えていたのである。
④ すでにシャフツベリのところで述べたように、過度の自己愛は、自分の将来に対する無駄 な配慮や心配を惹き起したりして、かえって苦痛をもたらすだけである。 「我々が利己的と呼ぶ 性格は、幸福を得るために最も有望であるとはいえない。そうした気性は、不必要で無駄な心遣 いや不安を生じさせる程度や仕方において尽力する。過度な自己愛は、それ白身の利益を極めて 悪い仕方で考慮する(45)。」子供に対する溺愛が、かえってその子供を駄目にするように、過度の
自己愛もかえってその人自身を幸福にしないとされるのである。
およそこうした理由によって、徳と幸福とはおのずから一致する傾向があると、バトラーは考 えていたのである。
IV シャフツベリ,バトラーの意義と問題点
以上ホップズの利己的人間観に対する、シャフツベリ、バトラーの批判をできるだけ忠実に紹 介してきた。いずれも尤もな批判であるといえる。ホップズの主張にかなり独断的で極端な面が 含まれていたことは否定できず、彼らはそれを正当に批判したといってよいからである。特にバ トラーは、良心という道徳的能力が人間において本来最高の権威を有すべきもの、他の一切の在 り方を秩序付け、コントロールすべき最高の使命を有するものと考えていたが、こうした道徳的 能力の人間本性における卓越性の強調は、今日でも十分意義があると思われる(46'。ここでは人 間の価値の問題を考えることによって、まずその理由を述べておきたい。
一般に人間の価値を決める規準となるものはいろいろあるが、それらは大きく① 人間の自由 によってはどうにもならない価値規準と、 ⑧ 人間の自由に依存する価値規準とに分けることが できるO①は例えば、白人、黒人といった皮膚の色の違い、 (アメリカ人として生まれる、日本 人として生まれるといった)国籍の違い、素質や能力の違い、性の違い、或いはもっと卑近な例 でいえば、容貌とか身体の恰好の違い、といったものである。我々は無意識のうちにもこうした
違いによって種々の評価をなし、特定の性質を持った人に好意を抱いたり、逆に反感や軽蔑を抱 いたりしがちなのである。しかしこうした種類の違いは、人間自身の努力によってはどうにもな らない違いである。例えば黒人に生まれた人は、自分の意志で黒人に生まれたのではなく、又生 まれた後で黒い皮膚を白い皮膚に変えようとしても、自分の思い通りに変えることは決してでき ないのである。性の違いなどについてもこれは言える。そこでこうした人間の自由にとってはど うにもならず、努力して変えることもできないような違いだけで、人間の価値を決めるのは明ら かに不合理だといえる。それでは生まれた後、何を考え、どのように生きようとも、そうしたこ とに全く関りなく、いわば生まれた時の条件の違い、遺伝的素質などの違いだけによって、人間 の価値を決めてしまうことになるからである。これでは運、不運だけがすべてを決定することに なってしまい、人間の努力は全く無視されてしまうことになるといってよい。
④の人間の自由に依存する価値規準とは、例えば富、権力、文化的業績などの有無、身分、
職業、地位の違いなどである。勿論、富や権力などをより多く持っている人、より高い地位に就 いている人などを、人間としてより価値があるとみなすのである。こうした違いによる価値評価 は、或る程度まで人間の主体的努力によって獲得されたものを規準にして人間を評価していると いえる。従って①の種類の違いによる価値評価に較べれば、人間の価値を決める規準としてまだ ましかもしれない。しかし問題もある。富を得たり、よい文化的業績などを挙げるためには確か に人間の主体的努力が必要であるが、しかしこれらを現実に達成するか否かは、単に人間の努力 だけに依存するとはいえず、それ以外の運、不運にも依存しているからである。 (例えば全く同 じように努力しても、素質、運、不運の違いなどによって、これらを達成する人もあれば、そう でない人もある。)そうである以上、富なら富を得ている、得ていないといった単なる結果だけ で、人間の価値を決めるのも不十分だといえる。人間の主体的努力そのものを十分に評価してい るとは言えないからである。しかも主体的努力といっても、その主体的努力が真に人間らしい仕 方で為されたか否かが、より一層重要である。そのことが人間の価値を決める規準としては一番 望ましい筈である。不正を働いて富や地位などを得ることは決して望ましくないからである。従 って如何なる仕方で主体的努力が為されたか否かを問題にせず、単に結果として得られた富、文 化的業績、身分などだけによって人間の価値を決めることは、真に正しい仕方で評価することで はないといえる。こうしたことを考える時、結局道徳的に善いか否かのみを規準にして、人間の 価値を決めることが一番望ましいといえる。一般に道徳は、人間における、自由によってはどう にもならない側面(例えばさっき述べた、一定の皮膚の色、性、素質などを持っていること、或 いはいろいろな意味で、運、不運に付き纏われることなど)と、自由な側面(自分の意志で自分 の行為の仕方、生き方を決めること、自分で考え、自分の意志で、富、権力、文化などの達成に 向かうことなど)とを区別し、しかもその自由の使用の仕方の善し悪しだけを問題とするからで ある。そこで人と接する場合であろうと、或いは何かの実至削こ向かう場合であろうと、常に道徳 的であるか否かを重視し、それによって自分の在り方、行為の仕方を秩序付け、コントロールす ることが、人間にとって一番大切なことだといえるのである(47)。
このように人間の価値の問題を考えてみれば、良心という道徳的能力が人間において最高の権 威を有すべきであり、我々の一切の在り方を秩序付け、コントロールすべきだ、というバトラー の主張は十分に理解できると思われる。従ってこの点に関しては、バトラーやシャフツベリの考 え方には何ら問題がないといえる。むしろ現代においても十分意義があるといえる(48)。しかしこ のように我々において本来最高の権威を有すべき道徳的能力に、現実の我々が完全に従っており、
それゆえ我々自身が完全に善であるといえるか否かは別問題である。良心が善いことを為せと命 じても、それに十分に従い得ないとすれば、 (たとえホップズが主張する程ではないにせよ)我 々自身の本性は矢張り利己的であり、悪に傾き易いということになると思われる。勿論シャフツ ベりなどは、はっきりと人間の善性を強調し、決してそうしたことはない、と主張しているので あるが、それが正しいか否かは、現実の人間の在り方を細く吟味した上で、初めて決定できるこ とである。そこで以下、こうした点に留意しながら、シャフツベリやバトラーの思想の意義や問 題点を吟味してゆくことにする。
(なお枚数の都合上、後半の部分は、別の機会に発表させてもらうことにする。)
注
(1) Leviathan, chap. 10. 1651年版 p.41.
(2) ibid. chap. ll. p.47.
(3) ibid. chap.13. p.62.なおホップズが「万人の万人に対する戦い」が生じると主張する理由をここで紹介 しておくと三つある(1)競争(例えば誰か二人の人が土地なら土地という同じものを欲求し、しかも双方 が同時にそれを享受することが不可能だとすれば、彼らは敵となり、相手を屈服させてでもそれを自分の ものにしようと争うとされる)。 (2)自信のなさ(すべての人間が利己的であり、他人を無視、或いは排除 してでも自分の欲しいものを奪おうとし合うならば、人々は自分が矧こ所有しているものを何時何時他人 によって奪われはしまいかと、絶えず心配せざるを得ない。そこで自分の安全を確保するためには、機先 を制して白から他人を制圧することが、最善の手段となる。しかもすべての人間がそうしようとすれば
「万人の万人に対する戦い」が生じざるを得ない。自分の安全に対する不安が、かえって人々を争いに導 くとされるのである.) (3)栄誉(人間は自負が強いから、他人が示す過小評価や侮蔑には我慢できない0 そこで自からの力を誇示するためにも、他人を攻撃する。)こうした三つの理由で「万人の万人に対する 戦い」が生じるとホップズは主張するのである。
(4)例えば感患(他人から恵みを受けた人が、感謝してお返しをすること)の望ましさを説明するさい、ホッ プズは、誰もが自分自身にもたらされる利益を期待して他人に恵みを与えようとするOそれで恵みを受け た人がお返しをしないことは、相手の期待に背き、よくないと述べている(chap. 15.p.75)他人に親切 にするといった道徳的に善い行為も、現実の人間は自分にもたらされる利益を念頭においてしか為さない と考えているのである。
(5) An Inquiry concerning Virtue, or Merit.なおこの小論ではD. D. Raphaelによって編集されたBritish Moralists 1650‑1800 (Oxford University press 1969)のvol. 1.によって引用真数を示す p. 172.
ibid.p.174.
(7) ibid. p.173.
(8)ホップズも理性を有する限り、 (何処までも平和的に生命維持を達成する手段としてではあるが)人間が 道徳的善を、自覚し得ることは認めていた。しかしいくら理性が目覚めていても、それは「我々を不公平、
自負、復讐といったものに導く」 (chap. 17. p.85.)情念を十分に制御し得ない。そこで国家による外的 強制が不可欠だと考えたのである。
(9) ibid. p.172.
chap. 17. p. 87.
(ll) ibid. p. 174.
(1のibid. p.176.
Copleston. A History of Philosophy, vol. 5. p. 210.
(14)ホップズに対する批判を離れて、シャフツベリの考え方をもう少し細くみておくと、彼は人間を支配する
感情を以下のように三種矧こ分けている。 (p‑ 178) (1)公共の善に導く自然感情‑親の子供に対する愛、
社会に対する愛、友情や交際への愛、或いは憐み、相互援助などに導く感情などが、その例とされる。他 人や社会のことを心から配慮し、その善のために喜んで奉仕することに導く感情なのである(2)個人の善 のみに導く自己感情‑自分の生命維持や利益を得ることに導く感情で、食欲など肉体的、感覚的欲求の 充足、富や名誉などの追求に導く感情である。 (3)公共善にも個人の善にも導かない非自然感情‑例えば 他人に対する憎悪、復讐、抑圧、嫉妬、残虐などに導く感情がその例。これらは他人に有害であるのみな
らず、本人自身にも有害であるとされる。 (例えば自分がどうなろうと相手さえ傷つければそれでよい、
といった場合のように)激しい復讐心、憎悪などは本人自身をも破滅させてしまう恐しい面をもっている からである。シャフツベリは、こうした非自然感情は端的に悪であり、迷信、野蛮な慣習、社会制度の不 十分さなどによって生じると考えている。公共の善に導く感情が、人間性そのものを構成する、自然で適 切な感情だとすれば、これは環境の不十分さから人間に生じる(本来存在すべきではない)不自然な感情 だとされているのである。
このように人間を支配する感情を三種類に分類した後、シャフツベリの関心はもっぱら自然感情と自己 感情との調和、釣合いだけに向けられている。自然感情が公共の善に導く以上、無条件に善として肯定さ れているのかというと、実はそうではない。シャフツベリは自然感情について次のように述べている。
「しかしこの種のどれか単一の善い感情が過度であるところにおいては、それが常に他の感情に対して有 害であるに違いないこと、それらの力や自然的作用を或る程度傷つけるに違いないことは、非常に確かで ある。何となればそうした行過ぎの情念をもった人は、その一つの感情に余りに多くのことを許容しすぎ、
‑・‑・その目的に関して同じように自然的で有益な、他の同種類の感情に対しては、余りに少なすざるもの しか認めないからである.そしてこれは必然的に不公平と不正の機会であらねばならない。一つの義者 ないし一つの自然的部分だけが執心に従われ、 ・・・‑・他の部分や義務が蔑ろにされる限り、そうである。」
(p.179.)自然感情に属するものも過度になり、他の自然感情の作用を抑圧したり傷つけたりする限り、
不十分な面があるとされるのである。又余りに過度となった自然感情は、その日的そのものを十分に果た し得ないともいわれる。例えば「憐みがそれ自身の目的を破壊する程、圧倒的で、必要とされる援助や救 助を妨げる場合、或いは子供に対する愛が、親を破滅させる程の溺愛であり、従って子供そのものを破滅
させる場合がそうであるo」 (ibid.)そこで社会や仲間に対する愛、肉親に対する愛などが、釣合いと調和 を保つように絶えず心掛ける必要がある。そしてこうした釣合い、調和が正しく保たれているかどうかを 判断するものが、先程述べた「道徳感」であることは言うまでもない。
ところでシャフツベリは、他方においてホップズと同じように、自分の利益、自分の生命の維持、増大 に向かう自己感情も、人間に必然的に具わっていると考えていた。彼はこうした自己感情も一概に否定し ようとはしない。勿論この感情が激しくなればなる程、公共善を志向する自然感情の占める余地がなくな ることは言うまでもない。例えば富なら富への執着が強くなり過ぎれば、他人に施しをするといった愛他 的在り方が抑圧されてしまう。そこで他人や公共善を害なう面がある限り、有害で窓であることは認めて いる。絶えず公共善に一致するように制御される必要があると考えている。しかし彼はこうした自己感情 も人間本性に根ざす限り、絶対に必要であり、善の本質的要素を形成すると主張する。「ところで特殊な場 合に一方において公共感情が余りに激しすぎるように、他方において私的感情(自己感情のこと‑‑‑‑筆者 付記)は余りに弱すぎる。何となれば被造物が自分を蔑ろにし、危険を感知しないとすれば、或いは彼が 自分自身を守り維持するために有益な程度の情念に欠けているならば、これは確かに自然の意図と目的と に関して悪徳とみなされねばならないからである。」 (p.179.) 「かくして私的善に向かう感情は、善に必 然的で本質的となる。如何なる被造物もそれらの感情を単に所有するだけで善ないし有徳であると、呼ば れないとはいえ、しかし公共善は‑一・一それらなくして維持され得ないから、それらに欠ける被造物は実 際或る程度善や自然的正しさに欠けていることになる。かくして悪徳で欠陥あるとみなされることにな る。」 (p.180.)一般に健全な仕方で自分の生命を維持しない人は、社会の一員としての健全な在り方もで きないといえる。例えば自暴自棄の人、無鉄砲に危険な賭けに夢中になったり、麻薬や酒などに溺れ易い 人は、自分を駄目にするのみならず、社会に対しても有害になり易いといってよいO自分の周囲の社会悪
を平気で見過したり、又白から進んで悪に赴くといったことになりがちだからである。そこでシャフツベ リは、 「私的善に向かう感情は善に必然的である」とか、 「公共善は私的善に向かう感情なくして維持され 得ない」とか、述べているのだと思われる。勿論公共善に一致し、それに役立つ限りにおいてであるが、
彼は私的善に向かう自己感情も肯定しているのである。そこで公共善に向かう自然感情と、自分の利益‑
向かう自己感情とを(何処までも前者に優位を認めながら)調和、釣合いを保つこと、それが人間の道徳 的課題だ、と考えているのである。 (そしてこの際決定的役割を果たすのが「道徳感」であることは言う までもない。)これがシャフツベリの感情についての考え方なのである。
chap. 6. pp. 29‑30.
06) ibid. p. 185.
(17)シャフツベリは、道徳的善と人間の幸福とが究極的に一致すると確信しているO彼にとって道徳的善は、
すでに述べたように、社会、仲間などに対する愛、同情といった自然感情を釣合い正しく調和的に有して いること、それに自己感情が従属していること、非自然感情をもたないことにおいて成り立つ。しかしこ うした善が,同時に人間の真の幸福にも繋がる、という徳と幸福との究極的一致を彼は確信していたので ある。 「かくして自然において・‑‑・支配するものの智慧は、一般的善(公共善‑筆者付記)に向かって働 くことが、各人の私的利益や善と一致することであるようにした。もしも被造物がその一般的善を促進す ることを止めるならば、彼は実際それだけ自分自身も困り、自分自身の幸福や安寧を促進することを止め るのである。このために彼は直接的に彼自身の敵である。彼は社会、即ち自分自身がその一部分である全 体に対して善であり続ける場合のみ、自分自身に対しても善ないし有益であり得るのである。」 (p.188.)
「ところで理性的被造物の自然の構成によって、彼を他の人々に窓くさせる欲求の不調和が、又彼を彼自 身に悪くさせるとするならば、そして彼を一方の意味で善にさせる感情の調和が、他方の意味においても 彼を善にさせるとするならば、その時それによって彼が他の人々に有益となるその善は、真の善であり、
彼自身にも有利である。かくして美徳と利益とはついに一致することが見出される。」 (p.p.169‑170.)そ してその理由は次のように三つある(1)愛、憐み、寛大といった自然感情をもつことが、それ自体快適で ある。しかも100頁の引用文で示されていたように、他人の快と共感し、他人によく評価されているとい う喜びも得られる。かくして自然感情と、それから生じる結果とは、人間の幸福の本質的要素を構成す る。 「理性的被造物において然るべく樹立された自然感情は、一連の恒常的な精神的快楽を彼に手に入れ させる唯一の手段であるQ従ってそれらは確実で安定した幸福を手に入れさせることができる唯一の手段 である。」 (p.182.)これに較べれば肉体的快楽、感覚的享受は、とるに足らないものであり、本来それに 従属すべき程度の喜びしか与えなし、。 「社会的快(自然感情の充足に伴う快‑筆者付記)が他の快に如 何に貞越するかは、 Ejにみえる印しや結果によって知られ得る。その外的特徴そのもの、この種の喜びに 伴う印し・・‑・は、混き、飢え、その他の激しい欲求の充足に伴う快よりも、より一層強く、明白で、妨げ られない快を表現している。 ・・・‑それは他のあらゆる快の運動を沈黙させ、和げる。単なる感覚の如何な る喜びも、それに張り合うことができない。」 (p.182.) (2) 「私的ないし自己感情を余りに強く持ち過ぎる こと、或いは思いやりに満ちた自然感情への従属の程度を超えて持つことは、悲惨である。」 (p.180.)過 度の自己愛は、絶えず自分の将来に対する不安や心配を惹き起したり、又他人からの疎外感や孤独感をま
したりして、かえって苦痛をもたらすだけである。余り利己心に関われすぎると、他人との連帯感や一体 感も失われ、他人と喜びを分ち合うこともできなくなってしまう。従ってそれだけ他人に有害であるのみ ならず、自分自身も不幸になるとされる。 (3)前に述べたように、他人に対する憎悪、復讐、抑圧などに導 く非自然感情は、他人に対してだけではなく、自分白身に対しても有害だとされた。それゆえ非自然感情 は悪だけではなく、その人自身を不幸にする。 「邪悪ないし悪徳であることは、悲惨で不幸なことである。」
(p.186.)