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人 間 の 生 物 主 観 の 精 神 ・ 物 理 的 論 理 構 造

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(1)

人間の生物主観の

精神・物理的論理構造

は し が き 田  村  三  四 郎

 カントの所謂三批判書なるものはそれが飽くまで客観︵述語的個

物︶に関する批判的研究であって主観︵主語的個物︶に関するそれ

ではなかつたと云ふ考へからカントの研究を前提しながらカントに

残存したと思はれる主観の素朴性を形式主観に対する質料主観とい ふ観点から追及し質料主観を先験的主観一般の基底に存在する入聞

の生物主観と考へこの生物主観を基底とする主観推論式ー自我主観 から言へば矛盾を潜在せしめる自我主観を中闇項的契機とする主観

推論式ーを構成し麟つて逆に質料主観の素朴性に先験的解釈を与へ

ることが出来るといふ考へに基づいてその基底となる生物主観の論

理的購造を明瞭ならしめんとしたものである︒途中他家の所説に論

及したところに誤解のあらんことを恐れる︒

L主観推論式の基底としての生物主観 §

 主観推論式は我主観を矛盾を含む中闇項︵M︶とする入間の可能的

経験の体系である︒そしてこの体系の基底が生物主観であつて質料

主観︵§彗oユ亀o切の&甘簿︶は内容に即しての生物主観の呼び名であ

る︒従つて先づこ玉から生物主観は意識的11物的といふ構造を持つ ていなければならないがしかし生物主観が主観推論式の基底である といふ関係から言へば主観推論式の頂点に位する汝主観に対しては 生物主観の意識的契機は﹁直接的﹂であるが物的契機は﹁聞接的﹂であ る︒そして生物主観のこの意識的契機の直接性と物的契機の聞接性 に於て人闇精神は物理的客観と連結している︒従つて生物主観の論 理的構造は精神・物理的中闇層に所属する主観の構造として始めて 正当に理解することが出来る︒純粋精神乃至純粋物質のいつれに於 ても生物主観の論理的意味はたちうどこに消失する︒ 実存︵国×・ 瞬ω8護︶は常に精神・物理的であるからである︒従つて実存は叉常 に精神・物理的矛盾を含まなければならないが︑その矛盾は主観推 論式の基底が生物主観であることに基づくのである︒しかし生物主 観それ自体が矛盾構造を持つと考へるべきではない︒むしろこの矛 盾は主観推論式全体に於ける生物主観︵質料主観︶と悟性主観︵形 式主観︶との反省的関係の派生現象と解すべきものである︒  カントは共の遺稿︵○℃綴︒︒︒ωεヨロヨ︶に於て形而上学から物理学

への移行︵U霞dげ¢嶺碧σq︿O昌山o瓢ヨ09想ゴ・︾・O讐山oN2ぐ刈・N鎧㌣

憎ξ吻幹︶を研究し其の過程に於て﹁反省的判断力の曖昧﹂︵︾目唱繧びo一δ

山o﹃鴇山oぼ一〇器昌畠odH8二m吋鎚津︶の起ることに警告を与へている︒

この形而上学から物理学への移行は彼に於ける精神・物理的中闇層

の.研究であるがこの中聞層は物理学から形而上学への移行といふ逆

関係ではあるべきでないと言ふのである︒その故はかxる場合には

物理学から形而上学への移行に当つて論理的飛躍︵︒︒冒雪αq︶の不合

理を犯さなけ加ぽならないと言ふにある︒そして仮令かxる逆関係

が事実として起り得るとしてもそれは反省的判断力の曖昧さに因る           と言ふ︒即﹁自然科学の形而上学から物理学へのそして逆に経験的

認識から先天的認識へではない移行は運動する力の体系に於て主観

−一

(2)

的者︵質料癩者︶を客観的者︵形式的者︶と序列に於て混同しか

くて物理学の中に握み込んでその概念は経験的である機械的運動力

を黙って力動的運動力説明の基礎に置きそしてこのものを無条件に

要請することの無いやうに曖昧さを防禦する原理を含んでいるしと︒

カントがこXで括弧して質料誉者︵審ω﹈≦碧〇二巴︒︶とした主観的者

︵費︒︒︒︒9㎞︒繁く︒︶は質料主観を指し叉括弧して形式的者︵魯ω周07

目巴︒︶とした客観半者︵計︒・○ぴ㎞・貯ユく︒︶は物理的客観を対象とする

悟性主観を指し両者の問には後者ではなく前者を後者の基礎に置く

正しき反省的関係の存することを示したものである︒従って反省的

判断力の曖昧によるこの序列の顛倒的混同は反省的関係一般の派生

現象として主観推論式の根原現象に帰着せしめらるべきものであら

う︒かxる観点からナれば更に進んでカントの所謂反省的判断力の

曖昧なるものの根源をも用かにし得るであらう︒カントはこの曖昧      へ ゾ について﹁反省的判断力の曖昧は︵先天的に原理に従って起る︶結

合に於て経験的統覚を知的統覚と考へる自己欺隔である︒そして形

而止学から物理学への階段状的進行によってではなく飛躍によって

結びつけることである︒何故なら中闇項即自然探究の進行に於ける

綜合的統一の意識が欠げているからである﹂と言っている︒この中         る  闇項とは既に﹁判断力批判の第一序文﹂ ︵国﹃︒・8国凶年︒一言昌σq冒象︒ 囚葺詳号Nd昌︒涛ξ珠δ︶で ﹁偶然者そのものの合法則性﹂と呼ん

だ自然の主観的合目的性︵合目的性は自然の客観的性質ではないと

いふ意味で主観的である︶の意識なのである︒遺稿ではこの意識が       ハらり 外物の知覚として把へられそして自然の主観的合目的性は﹁自らの

物体を持って物体に運動力を伝へる運動する主観自身﹂即質料主観

の先験性として把へら加ている︒従って質料主観のこの先験性の欠

如のために反省的判断力の曖昧が起るとすればその根源は主観推論

式の内部に於ける質料主観の素朴性の発生に求める外ないであらう︒ 純粋理性批判に於ては質料主観に関する限り未だ素朴性を残し質料

(]

・ラ︒ユ︒︶は触発︵︾三舞ユ8︶なる概念に一義的に固定せしめら

卜いた︒従って﹁経験的統覚を知的統覚として取り違へる﹂とか言 ふ場合はこの質料主観の素朴性の立場に於て言っているのでありし

かもカントの言ふが如く物理的客観を対象とする悟性主観︵形式主

観︶の基礎には質料主観が存在しなければならない︵その逆であっ

てはならない︶とすれぽ触発なる概念の根源も主観推論式の内部に

於ける質料主観の素朴性の発生にあるとしなければならないであら

う︒かくて触発なる概念は派生現象として主観推論式の内部に吸収

され客観的には只客観物の物的契機の直接性を残すのみとなる︒客

観物にも叉物的耐意識的といふ二重構造の契機がある︒その意識的

契機は闇接性でありカントの意識一般 ︵切︒≦島︒︒窃︒言口ぴ︒︸魯ξ貯︶

とはかくのごときものである︒

乞生物主観の精神・物理的論理構造 §

餌で明らかにしたことの当然の帰結として生物主観の精神・物理的

論理構造は次の如くなるであらう︒

     餅書階醐  陛  雷鰻雲嚇翻㊦醸露盤繍        一        一      ︵紳瑚実父︶     ︵序醐蜜§︶        ﹁        一       醜聾書ロ曹書     湯番11録甦書        /

        ◎熱難曲・雷零 蓄啓・鋳難番       爵勲醸露    謡勲噛露

 生物主観は論理的には主語的個物でありこ承に対し連結関係にあ

る物理的客観は論理的には述語的個物である︒そして生物主観の論

2 一

(3)

理的契機は意識的H物的であり物理的客観の論理的契機は物的意

識的である︒直接性巣闇接性と言ふは凡て主観推論式の頂点に位置

する汝主観に対す関係の直接性叉は聞接性︵故に先験的直接性叉は

聞接性︶の意味であって︑生物主観の意識的契機は直接的︑物的契機

は間接的であり物理的客観の物的契機は直接的︑意識的契機は聞

接的である︒従って生物主観と物理的客観の連結関係に於て意識的

・物的直接連結と物的・意識的聞接連結の逆相関から来る逆的交叉

関係が存在することになるがこの場合物的・意識的間接連結が物理

的客観の論理的構造である物的H意識的契機が直接的H聞接的結合

であるのとは根本的に異なっていることに 意すべきである︒この

性質のために物的・意識的聞接連結は主観推論式に於て根原性を主

張することが出来ない︒従って逆的交叉関係に於ては意識的・物的

直接連結に優越性を認め物的・意識的闇接連結は生成し消滅する派

生現象として認めざるを得ない︒敏に我々が物的・意識的闇接連結

に哲学的立場を写ることが出来ないにも拘らずその生成消滅性の故

に主観推論式の中闇項的契機として共の不可欠の要素たることを叉 認めざるを得ない所以がある︒

 この物的・意識的聞手連結といふ精神の述語個物的︵物理的客観的︶

顛落現象はハイデッガーもこ加を頽落として取り扱っているがしか

しこ治を主観推論式の中間項的契機としてこれに合理性を持たそう

としていない︒彼は現存在の基本体制としての関心︵o︒o嶺︒︶を定義       へ   して次の如く言ふ︒ ﹁︵内世界的に︶遭遇する存在者の処に在るもの

として先取紫色︵世界︶内存在﹂であると︒そして﹁先取的﹂︵︒︒言7

くoH屯︒σq︶には実存︵︼円×㎞ω再O鋤N︶を﹁雲足存在﹂︵oり︒ゲ︒塾あ︒繭亭言︶には

事実性︵︼刃陶一︵凶一N一け93齢︶を﹁遭遇する存在者の処に在る﹂には頽落

︵<o塊9=o昌︶を夫々当てている︒﹁既内存在﹂としての事実性につい

ては真理問題或は認識の本質に関する問題に重て理想主観或は意識 一般を前提する普通の認識論的見解に批判を加へ真理叉は認識の問    ほ   題には事実的主観︵h騎︒圧ω3⑦︒・︒︒昌費す︶の先天性即現存在の事実性 が存在論的に要請されることを主張している︒しかしハイデッガー の意識一般乃至純粋自我に対する考へ方は甚だ消極的であって一面 積極的に意識一般︵悟性主観︶と事実的主観︵質料主観︶の反省的 関係の分析が不足している︒現存在の事実性の﹁既内存在﹂といふ 事実的主観の先験性は意識一般との反省関係の分析によって始めて 全貌を明らかにせられるのである︒現存在の事実性の既︵世界︶ 内存在は世界外存在によって下から破られなければならない︒そこ に頽落の合理的意味も生ずる︒現存在の事実性の先験性は世界の ﹁内﹂に在ると共に世界の﹁外﹂になければならない︒即その構造 は意識的物的となって意識一般的客観︵物的H意識的︶に通路を 持たなければならない︒頽落はこの通路の閉塞として存在の不安で ある︒何故なら通路は意識的・物的直接連結として仮装された物的・ 意識椿聞接連結の地平にそれを下からつき崩す地下道を掘るからで ある︒そこに物的・意識的聞接連結の崩解消滅即無が現はれるが︑ その無は実存の通路と同一に帰しかくて物的・意識的間接連結はき 根源に帰着するのである︒しかしハイデッガーにはこの地底から突 破って出て来る現存在の事実的先賞翫︵生物主観の先験性︶が無 い︒従って頽落は常に実存と事実性の最終項として取り扱はれ両者 の中底項として取り扱はれてはいない︒  判断や認識に関するハイデッガーの見解がそれ故に現存在の事実 性の﹁既内存在﹂といふ存在論的素朴性に止まっているといふことは 上の事情から止むを得ないであらう︒彼は伝統的真理概念としての ﹁認識と対象の一致﹂の持つ困難さの長い歴史が存在論的に明らめ       ハ   られていない﹁観念的か実在的か﹂といふ実在的なものと観念的な

ものの分離に問題設定の抑々の最初の誤りがあるとしこXでも現象

3 贈

(4)

      ︵10︶ 学的志向概念を用ひて﹁陳述は存在する物そのものへの存在である﹂          ^114 とする︒そして﹁知覚に於て関示されるものは陳述に於て考へられ

たものが存在者自身であるといふこと以外の何物でもない︒確認に

は陳述されたものへの陳述的存在はそれが志向的に存在する存在者

を発見するといふ存在者の三三が帰せられる︒・::・⁝⁝陳述的︑自

己確認的認識は存在論的意味からすれば実在的存在者自身への発見

的存在である﹂と言ふ︒ハイデッガーはこxで﹁観念的﹂と﹁実在

的﹂の一致を存在の自己性︵oり¢一σ駒﹃qκ¢一侍︶といふ志向的自同性に於

て成立せしめている︒従って陳述的存在は依然として観念的存在

でありそれが志向する存在者は実在的存在であり︑前者の意識的

物的性格︑後者の物的意識的性格が共の杢貌を現はし兼ねてい る︒しかるにこの点が明らかとならなければ﹁観念的か実在

的か﹂の問従って主観と客観の聞の劃然たる境界線は取り除かれる

ことは出来ないであらう︒カントは既に客観について北ハの物的口意

識的性格を明らかにした︒ハイデッガーの陳述的存在は未だ主観の

意識的H物的性格を露はにしたとは言ひ難い︒先に述べた現存在の

事実的主観の先異性が意識一般との反省関係に立て徹底的に追及さ

れていないためである︒認識と対象との一致の問題は存在論的問題

ではあるがしかしそれは存在の志向的自同性といふ存在の形式性に

求むべきではなくむしろ存在の質料性に基づく存在の通路の問題で

ある︒通路によって質料的に主語が述語に或は主観が客観に出会ふ

ことである︒出会ふことが発見することである︒かく解する方が古

血ハ的な方法︵ζo島︒畠︒︒︒︶の意義や陳述︵﹀鋸︒・旨σΩo︶根源分割として

の判断︵d円8ε或ひは新知識の獲得等の意義をよりょく理解するこ

とにはならないであらうか︒

 ハイデッガーはこの存在の質料性の不足をヲマニスムスについ て﹂︵Oげ⑦H山8類¢ヨ§♂ヨω︶に於て補はんと試みてはいる︒現存在 の事実性即被投︵︵甲Odく◎MhO昌げ〇一け︶が既内存在の観念性を脱していな        ・12一 いために起る企投︵国葺ミξ︷︶の主観性を克服せんとして﹁旧聞は むしろ存在自身から存在の真理の中に投げられている﹂と言って現 存在よりも存在自身の方を強調し国×一︒︒8コNを国胃虫ω8震と書いて       ・13・ 実存の﹁外へ﹂的契機を現はそうとしている︒これが存在の公開性 ︵O頃05ず︒評傷︒ωω①貯切︶ でかNる意味に於︑ける実存の本質を世界内 存在︵山勢︒り 一昌一山OHI♂︿O一け一ooO凶口︶と云ふと言っている︒従って﹁世界﹂ が存在の公開性を意味することになるがかΣる世界とは如何なる世 界であらうか︒質料性なき世界とはおよそ室語であらう︒こNにハ イデッガーの存在論が存在の質料性と結合すべき契機があると思ふ︒ そして頽落は中脳項化し存在に残存した素朴性は取り除かれるであ らう︒存在の質料性は生物主観の物的契機であって周接性であるか らこの間接性に於て理性が実存の一契機として導入されることにな るが叉この順接性は質料主観の素朴性を発生せしめ理性が根源を離 脱して存在頽落を結果する因ともなる︒故に実存の通路は常に開か れているが叉必ずしも常に開かれてはいないといふ矛盾的性格を免 れないものとなるのである︒これが最初に述べた主観推論式に於け る我主観が潜在的に持つ矛盾である︒  志父通出思士心︵国OHロヨ仁昌⁝岸9什団O昌︒り三一一一〇︶を口説くヤス︒バースは実嚇仔に於       ︵14︶ ける理性の重要なる役割を認めている︒例へば﹁実存に実体を持つ 理性として存在から存在への本来的伝達は結果する︒しかも現存在 現実と意識一般及精神が恰も理性現象の身体であるかの如くに︒如 何なる瞬聞に於てもこれ等のものが無ければ理性は存在しないし叉 これ等のもの凡ては理性から動かされそして変化せしめられる﹂と 言ふが如きである︒しかしそれはどこまでも実存の機関︵Oお§︶        ^15︶ としてであって本来的根源性を有しない︒ ﹁理性は何等本来的根源

4 口

(5)

を有せず実存の道具であるところの我々の聖なる包括者であるしと   ︵16︶ も叉﹁実存の底は共の深処に於て包括者の凡ゆる仕方に現前しなが

ら凡ゆる固定から駆り立てる不安定並びに普遍的紐帯であるところ

の機関を持っている︒﹂とも言っている︒しかし主意主義に立って理

性を単に機関劃しては質料主観の先養性は曖昧となるであらう︒理

性は実存の一契機ではあるが実存の通路としてその根原性にあっか

るがために質料主観も先験性を有し得るのである︒根原性からの離

脱は通路の一時的閉塞である︒従って生成消滅する過程的現象であ

る︒

脇附 録ーカントの判断力批判から遺稿への移行

 前号に載せた﹁カントの意志の格率の客観的実在性について﹂に

於ては当時遺稿を手にする機会を得なかったためにヒユプナーから

の引用によって判断力批判に於ても見るを得ない﹁質料主観﹂の考

へが遺稿の中に存することを指摘するに止まっていた不完全をこの

機会に補って置き度いと思ふ︒

 判断力批判に於ける自然の技術︵目︒魯三鼎自①NZ彗霞︶としての

自然の合目的性なる概念は周知のやうに美的合目的性としての主観

的合目的性と自然目的としての客観的合目的性の二方面を持ってい        ︵17︶ るが主観的合目的性は更にそれが質料的︵藍碧︒ユ巴︶と形式的︵♂㌘ 日出︶1本来の美的反省判断は後者である一との二つの契機に       ︵18︶ 於て考察され客観的合目的性も同様形式的と質料的の二契機として

考察されている︒そして前者は直観に於ける自然の合目的性︑後者

は自然目的︵ヴ鞠け口叩N≦①O障︶としての有機体の内的可能性として定

義されている︒勿論そのいつれに於ても主観が客観に関する主観的

反省的原理であって客観自体の客観的性質を現はすものではないが それにも拘らずカントのこの自然の合目的性に関する研究は客観的 自然に関する研究であって主観的自然に関するものでなかったとい ふ点は判断力批判を通じて︼貫した態度でありカントの客観に関す る批判的研究の体系的完成として第一批判・第二批判の中聞項的特 異の位置を占めると同時に両者と共に客観に関する批判的研究であ

って主観に関するそれではなかったといふことでは同一水準に立っ

ている︒従ってこXから判断力批判に於ては合目的性の基礎とな

る反省的判断力は決定的判断力と如何に連結するかの問題は遂ひに

取り上げられずに終るといふ結果を生じたのである︒そのため叉判       ︵19︶ 断力批判に於ける合目的性なる概念が現実的事実性を欠ぎイエナの

ランプレヒトの言ふやうな﹁カントが世界を最高叡智者の作品と見

る目的論的判断は現実世界に向けられた素朴な入間には無縁な一

かのやうな︵巴ω6び︶的−見方を結果するに過さない﹂といふ厳

しい批判をも生ぜしめるのである︒

 元来カントの合目的性なる概念は物理的客観︵第一批判で論ぜら

れた︶に立法的︵σΩ︒ω︒玉高q︒び︒&︶で従って其の判断に於て決定的で

ある悟性を偶然者そのものとしての主観へ反省して得られたもので

あるから合目的斜なる概念の中には反省的に立法的な悟性の綜合統

一との連結が含まれていなけれぽならない筈である︒しかるにカン トは反省的判断力の対象としての自然の合目的性を立法的な決定的

判断力の対象としての自然及道徳と同一水準に併存するものである

かの如く取扱はんとしたため決定的判断力との内的現実的連結の

問題を逸したのである︒この﹁かの如く﹂はカントが次の如く言        ︵20︶ つた場合の﹁かの如く﹂と因果関係にある︒ ﹁反省的判断力の先験

的原理は次の事より外の何物でもない︒即悟性が自然に規定する凡

ゆる普遍的自然法則︵只自然そのもの普遍概念に従ってではあるが︶

は我々の悟性に根拠を持つから︑特殊の経験法則に於て彼の普遍的

5 一

(6)

法則によって.は未決定に残されているものに関し特殊的経験法則が

恰も同様に特殊的自然法則に従って経験の体系を可能にするために

我︐々の認識能力のために悟性︵我々の悟性ではないとしても︶が与

へたかの如き統一によって観られなければならないといふことであ

る﹂  カントは概念と認識の対象との関.係に次の三つを区別している︒

対象の認識が可能か不可能かに係はりなく概念が対象に関係.せしめ

られる限り概念は場︵司︒筍︶を持つと云ひその場は只概念の客観物

が我々の認識能カ一般に対して持つ関係によって規定される︒そし

て我々にとって認識が可能な場の部分は概念及びそれに必要な認識

能力にとっての地盤︵頃︒山︒旨︶でありしかもこの概念が立法的であ

る地盤の部分がこの概念及それに役立つ認識能力の領域︵Oo玄無︶

である︒今カントによって悟性と理性の中聞項的認識能力とせられ

る判断力はそのいつれに属するであらうか︒カントによれば悟性と

理性との類推によって判断力には次のことが推測さるべき理由があ        へ21︶ ると言ふ︒即﹁判断力は同様に自らの立法ではないにしても高々単

なる主観的先天性だが法則を求める自らの原理を含むことが許され

る︒即この原理には対象の如何なる場も領域として立ってはいない

がしかも何等かの地盤を持っている﹂と︒これは判断力を悟性︑理

性の両者と同格化しないもので当然であるがしかし判断力が両者の

中聞項であるといふ意味は少しも現はれていないから実は同格化し

たも同然とも言へる︒カントは哲学を理論的部分と実践的部分の二

つの主要部分.に分ち判断力の固有原理にぞくするものはその中理論

的部分に算へられなければならぬだらうと考へているがそれにも拘

らず哲学体系可能のためには体系を企図する前に凡てのことを決定

しなければならぬ理性批判は三部に分たれ純粋悟性批判︵純粋理性

批判︶純粋判断力批判︵判断力批判︶純粋理性批判︵実践理性批判︶ が夫々純粋と呼ばれるのはそれ等の能力が先天的に立法的だからと 言っている︒しかるに判断力は立法的領域は持たなかった筈である からこの立法的も上述した﹁かの如く﹂の意味であらう︒これ等は 凡て客観の批判的研究であったカントの立場からの当然の帰結であ って質料︵竃暮︒ユ︒︶を触発︵﹀矯︒犀二〇ロ︶に一義的に固定せしめる ことに於ても第一批判︑第ご批判の説き方とも一致するものである︒ 従って美的合目的性に於ても感覚即質料は快・不快の感情の中に含   へ22︶ めその規定として取り扱はれ独自の意義を認めることに困難を感ん        へ23︸ じている︒このことは更に次のこととも関連を持って来る︒ ﹁世界 の現存在の即創造自身の窮極目的﹂としての畑野は無条件的である からそのものを生じ叉そのものの理念に従ってそのものを齎らすの に自然で十分であるやうな目的ではない︒と言ふのは自然︵感性的 存在としての︶の中には自然自身の内部に見出される決定根拠がも はや再び条件づけられていないやうな何物も存在しないからである︒ このことは我々の外なる自然︵質料的︶のみならず我々の内なる自 然︵思惟的︶にも妥当する︒とこのやうにカントが言ふ場合質料は 我々の聖なる自然即有機的自然に限定され我々の内なる自然即主観 的合目的性にはロバ思惟的形式性のみが帰せられている︒これは美的 合目的性に於ける感覚の意義が曖昧なところがら来ると思はれる︒ 従って有機体と感覚との内的現実的結合が困難となっている︒判断 力批判の終結と見るべき自然の窮極目的としての入事に於ても遂ひ に質料主観の考へは十分明らかとなることが出来なかった︒  しかしこれは批判主義の挫折と見るべきではなく批判主義自身の 力によって超へらるべき︼つの限界点であると思ふ︒上述したやう にカントの批判的研究は客観に関する先験的研究であって従って共 の限りに於ては主観は先験的批判の対象とはならず従って叉素朴性

を残存せしめざるを得なかったと見るべきである︒そして問題は反

6 一

(7)

心的判断力の原理としての自然の主観的合目的重工自然の技術が現

実性を得るためには決定的判断力との連結が明らかにせられなけれ

ばならないといふことに帰着する︒即こ&に形而上学と物理﹁学との

連結の問題が浮び上って来る︒かくして理性と悟性の闇に中間項的

位置を占める規制能力としてのが判断力真に現実性を得るに至るの

である︒アメリカの客●ウィーナーのサイバネチックス︵O菩︒ヨ吐

け一

W︶の基本構想であるヨ︒島§δ日とO茜碧一ωヨの比論的連結もこ

Σに領域を持つであらう︒

 カントはこの形而上学と物理学との連結の問題を遺稿に於て馴に

於て既述したやうに形而上学から物理学への移行の形で把へ体系と しての可能的経験の基底に感覚と有機体を内的現実的に結合するも

のとして質料主観の先天性を分析しこの質料主観を通して可能的経

験の規制原理が構成原理として自己を確立することを述べている︒

︵24︶ 彼は先づ単に自己触発に基づく内的経験の対象としての知覚主観

︵山岸≦9︒女口魯日⑦巳⑦o︒口玄⑦客が経験及物理学への移行にとって不充

分でありこのためには相互に並序された運動力が経験のための体系       へ25︶ に迄客観的に統一されることの必要を論んじ次いで観察と実験を通 して主観的条件を経験的認識︵の基礎に置く︶ことによって上述した

やうに可能的経験の規制原理が構成原理として自己を確立すること

になるがその並序︵OOOH傷一昌即侍剛O︶の原理による経験的多様の連結の

形式的者︵畠直冑O同三巴︒︶が連結の主観的者︵魯︒︒ω¢三︒謀貯︒︶1

上の主観的条件を指す一を経験に於ける連結の全体に迄客観的死 軍天的ならしめると論んじている︒こΣに可能的経験の全体系の基

底にある質料主観の先験的条件性が明白に現はれたのである︒この

ことは必然的にカントをして従来頑強にその存在を主張しつ父けて

来た質料の触発なる概念への一義的固定性から離脱せしめた︒彼は  26︶ ﹁経験のために経験的表象の集合としての物質運動力の体系の先天 的認識は如何にして可能か﹂なる問に対し次の答へを提出する︒

^27︶ ﹁経験は直接知覚の集合から生ずるのではなく経験的表象の多様を

そのものの体系に並序する形式的原理の結果である︒この場合現象

に於ける即主観の直観形式︵時室︶との関係に於ける対象は直接客

観に関係せしめられて表象はされない︒このことから如何にして不

可思議な︵逆説的な︶自然科学の形而上学的原初原理から物理学へ

の移行が中断されざる連関に於て︵単なる経験的なものから理性的

なものへの飛躍従って自然傾向を通してではなく︶移り行くことが

出来叉移り行かねばならぬかが洞見されると共に叉物理学には感官

を直接触発する物質の運動力を倹つことによって経験対象となり得

るもののみならず可能的感官対象︵ヨασq一一9醇︒︒言器昌㈹︒鵬︒美馬潜民︶

としての経験によってよりは考へ得られないものが属するといふこ

とそして一そうでない場合にはそれ自身としては蓋然的であるが

︵例へば有機的物体︶一そのものの可能性は経験からではなく経

験に対して体系的に理解され分類されることが出来ることも洞見さ

れる﹂と︒こxでは経験対象は第一批判に於ける時聞・塞聞との素朴

的直接結合から解放され別に恐らく前者をも含む可能的感官対象と

しての経験の可能性が考へられている︒可能的感官対象とは感覚と

有機体の内的現実結合としての質料主観︵生物主観︶の先験性を指       へ28︶ すであらう︒カントが別の箇所で﹁有機体すら彼自身の意識の内に

含まれている︒主観は先天的目的に従って彼自らの形式をつくる︒﹂       へ29︶ とか或はそれを要約したものとも見られる﹁我々自身それなしには

如何なる器関をも持たないであらう物質の有機的体制の概念の自

律性﹂とかについて語る場合入聞の生物主観の先験性を考へていた

とは言へないであらうか︒それは兎も角としても少くともカントは

共の遺稿に於ては従来の客観の批判的研究から進んで主観そのもの

のそれに入って来ているといふことは言ひ得ると思ふ︒ベルリンの

7 欄

(8)

        ︵30︶ G.レーマンが﹁批判主義とカント哲学の発展に於ける批判的動機﹂

を論んじて批判の目的は﹁純粋理性﹂でもなく叉﹁純粋実践理性﹂

でもなく二重の適用形式に於ける理性即道徳的実践的理性と技術

的11実践的理性であった︒そしてこの二つを結合統一ナるものが世

界に於て彼の存在を先天的綜合的に決定しつ玉ある入間・世界事物

の補足即先験哲学の﹂一つつ目的物︵神と世界︶を一つの命題に結合

する繋辞としての入聞であると言ふ場合それがあるべき先験哲学の

姿であったといふ意味なら認められて然るべき提言であると思ふ︒

︵1︶ 可能的経験の体系といふ用語は殊更カントに倣ったのであって拙稿

  ﹁行的有経験﹂ ︵長崎大学教養部研究報告第一巻第二号所載︶で述べ   た行的有経験の体系を置き代へてもよいがしばらくこまxにしてお

  く︒ ︵2︶蜜艮︒・ω︒鼠h巨pH︾○虐い℃婁§§一・︒︒・2ω

︵3︶葦伽・融・︒︒.ω8

︵4︶囚きドω≦︒井︒し︒ω.HOc︒

︵5︶野・尻ω︒巨h巨B90℃蕊℃︒・・鼠目琶閏●︒a・ω8

︵6︶ 生物主観と物理的客観の連結関係の分析では論理的形式としては両

  者の逆相関から生ずる逆交叉関係にω意識的・物的直接連結対物的・意

  識的間接連結の︸対②物的・意識的直接連結対意識的・物的間接連結

  の一対と都合二対の関係が存し得るが本交で取り上げたのは其のωで

  あった︒②に於ては意識的・物的間接連結が主観推論式の中間項的契

  機となるが意識的・物的間接連結は物理的客観の物的一1意識的結合と

  比較する時全く異なるに止まらず︵そしてそれは当然だが︶正反対に

  観念的要素が優勢であるからかNる要素を媒介とする時は主観推論式

  は独断的非科学的となる︒

︵9︶拝出・乙⑦器︒♪ω︒猷目●N集︒︒.PH①一q ︵10︶ 乾α・GQ・曽︒︒ ︵11︶ 筐9 ︵12︶ 9ぎ鴇dげ・︒・自8缶pヨ獅三ψ日島○︒・日Φ ︵13︶ 薫自.Q︒・ω切 ︵14︶ 囚・冒︒・℃塞<︒旨§瞥戸国昏p窪No︒●日O ︵15︶ 象ぎ︾U費℃ぼδ︒・︒嘗駒ω︒訂9琶9Qo●ω⑩ ︵16︶ 象ぎりく︒ヨ暮津賃●国×謬一・冨ω.刈O ︵17︶ 内磐駐話窪5辞QQ・8心 ︵18︶ 筐自●ω・日悼 ︵19︶ 類つ∋銭肛ヨげお9r︾冨︒げ器⑦巳①q.弱品ユ盤9・卑犀窪三三いQ︒●刈O    ︵N⑦箭︒窪・隷民嘗㎞一●蜀︒話︒ゴ轟切ρ客出h一・HH8①︶

︵20︶ 囚9三騎ノ寄纂︒辞Qα・Dお

︵21︶ ま茜・     Oo●逡ω

︵22︶ 今戸●     Qα・三厩

︵23︶ 凶げ峯・     ω・αH切

︵24︶ 囚き冨oQ︒訂餐窪鱒PO℃臣℃o︒・巨悪ロ巳 閾噂ω︒ω①o︒

︵25︶ 量ρ

   この箇所の原文は不完結で結末が切れている︒括弧して︵の基礎に

  置く︶としたところは筆者が前後の意昧の上から補ったものである︒

  念のため原文を掲げる︒

   U器民£三9汚く︒鷺ぎ6巳£=9影面h9穿琴σqげ£目曾巳・3帥号︒・︒一冨一身︒

   9﹃8ロ︒・一町言豪霧臼巴q吋鼻餌9︒・︒・①ω費︒︒・βε8幽く︒守巳ロσq序品餌墜下

   ○び︒・導く・︒二〇づ暮◎国x℃・二琶︒ロρ曾の・B鳳昏9・卑冨暮一コ尻

︵26︶ 圃三q●ω・戯O︒・

︵27︶ 筐ρ

︵28︶ 録ρQo・日︒︒

へ29︶ 詮ρQ∩・︒︒①

︵36︶ O・葭笛aピ昌§きy囚鴇三N綻日蕊§自寄三ω9︒い鑑︒一ぞ貯生意国艮三︒写

   菱縫q霞内需一ぎげ・・妃三一︒の︒9一①Qα・c月心︵囚弩7QQヨ象窪bd空心︒︒出P・

   一.おα①\H⑩田︶

       ︵昭和三十二年一月二十一日脱稿︶

8 嗣

参照

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