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Kyushu University Institutional Repository
春日博士所藏二十一代集中の新古今和歌集に就て
小島, 吉雄
https://doi.org/10.15017/2557015
出版情報:文學研究. 23, pp.19-30, 1938-06-30. The Kyushu Literary Society バージョン:
権利関係:
近代の書寓ではあるが春日博士は二十一代集の善本を所減してをられる︒而もその二十一代集中の新古今集︵胡蝶
装一冊︶は些か特色あるものであるから︑此のたび博士の還暦記念にその書をこ&に紹介して日頃の御春顧に報いた
いと恩ふO
古筆の極め書によれば此の二十一代集巻頭和歌筆者は各集毎に鍵ってゐる︒そして新古今集の巻頭歌は左衛門督冷
泉爲全卿の筆であるといふ︒爲全は弘化二年九月廿八日四十四歳で蕊去してゐるから︑此の古筆極めを信用するなら
ば此の書は幕末仁孝天皇の御宇頃に書かれたものらしいといふことが川來る︒何れにしてもその書嘉年代は左程古い
ものではない︒しかしその奥書を見ると︑
本云
承元三年六月十九日害之
同七月廿二日依重勅定被改直之
赤日博士所識二十一代集中の新古今和敬集に就いて一九︑︵一一ゞ五一九︶ 新古今和歌集に就て 春日博士所藏二十一代集中の
1
小
島吉雄
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↓
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11111111J︲︲︲ロⅡ
家自筆本はその料紙が鳥子の色紙であり︑表紙には式子内親王筆と博へられる喪模様があったといふのである︒ 元應元年閏七月十六日不達文字書為之
北山入道相図家本也同十八日校合畢
と識されてゐるから︑此の本は元應元年閏七月十六日に北山入道相國家本を害為した書物の縛嘉本であって︑北山
入道相閏家本なるものの悌を博へてゐることは明かである︒元應元年といへぱ︑後醍醐天皇御即位の翌年︑紀元一九
七九年にあたる︒北山入道相閏は前太政大臣西凰寺変兼のことであって︑査粂は正應四年十二月任太政大臣︑五年十
二月僻任正安元年六月出家︑元亨二年九月十日苑去︒元唯元年はその蕊去に先だつこと三年である︒ところで︑壷兼
家硫の新古今集は承元三年六月十九日書嘉︑同七月二十二日改訂の藤原定家自筆本を膳海したものであって︑その定
承元三年六月十九日書之
同七月二十二日依重勅定被改直之
といふ奥書を有った嘉本は︑その数妙なくない︒所謂柳瀬隠岐本を初め︑石津本︑吉澤博士所藏本︑彌富氏所藏本 本云
文學研究錐二十三稗
以定家卿自筆本書篤之本草子料紙鳥子色紙表紙謹岡式子内親王筆云々
I
二○つ一五二○︶
’
一
等此の種の奥書を有する傳本は陵丈我れ等の目に鯛れるところであるが︑本書の如く料紙や書物の艘裁にまで言及し
たものは稀である︒柳瀬氏本には︑藤原爲氏の識語として︑
弘長二年十月什五日以證本魂廼校合畢彼本上下二帖也表紙有川季納無表害料紙白紙
とあり︐吉澤博士所藏本にも同じ様な識語がある︒蓋し︑﹁承元三年﹂云糞の奥書は所謂定家自筆本に存するものであ
って︑二條家に傅はって露氏が證本とした本は白色の料紙に四季の納ある表紙を川ゐ︑表題は書いてなかったと思は
れるのである︒然るに︑今此の木日博士所賊本には︑﹁本草子料紙鳥子色紙﹂とある︒同じく定家自筆本ではあって
も︑果して柳瀬氏本等の所訓定家自筆本と同一本であったかどうかは問題である︒
その本文を訓裾するに︑所訓切出された歌は之れを本文中に含ます︑取纒めて奥書ののちに後出歌と題して收載し
てをる難が柳瀬氏本や吉澤氏本等と異なってゐて︑その総裁は佐交木博士所職の甘露寺親長本と同じである︒但し甘
露寺親長本よりはその後出歌の数が多く︑十七首の多きに及んでをる︒元來︑此の切出され歌の職も多くを含んでゐ
るのは石津本であるが︑本書に收載せられた被切出歌は全く石津本に一致するのである︒参考のため︑本書奥書後に
減せられた切出歌を次に掲げておかう︒
4
後出歌 新古今一二中納言家持
承元四年九月出
故郷に花は散つ里みよし野の山の櫻はまたさかすけり
太祁宮に百肯歌たてまつり侍し中に
赤日博士所識二十一代集中の新古今和歌集に就いて一二︵二五二二
111
が同四被出之
︲朝露のをかのかや原山風にみたれて物は秋そかなしき
宇治前關白太政大臣の家に七夕の心を談侍りける
︑同入金葉之内雅經朝臣申之
契けんぼとはしられと七夕の絶せぬけふの天川かせ
同三被出
時烏花たちはなのかはかりに啼や昔の名残なるらん ︽﹂●■■同三被出
郭公昔をかけて忍とや老のねさめに一難そするたいしらす 同被出
五月雨の空たにすめる月影に涙の雨ははるるまもなし 同
被出也
いかにせんよにふるなかめしはのとにうつろふ花の春のくれかた
文:學軒・究
太祁宮に奉りし秋の歌の中に 第二十三稗
之 之 之
顯昭法師
二二︵二五二二︶太上天皇
赤染術
増太上天ロ皇 基法師
門
同五同八
同被出之
世中のはかなきことをみるころはねなくに夢の心ちこそすれ何十被出之
浪のうへにほのに見えつつ行舟は浦吹風のしるへなりけり
除目ののち雁の鴫けるを聞てよめる
都にて春をたにやはすぐしえぬいつちか雁の啼や行らむ
たいしらす
群日溥士所蔵二十一代集中の新古今和舩集に就いて 高砂の尾上にたてる鹿の一昔にことのほかにもぬるる袖かな
題不知
誰成とをくれさきたつほとあらは形見に忍へ水くきの跡
醍醐の御かとかくれたまひてのころ人の許につかはしける 入金葉集之内云垂
ロ
、
惠慶法
和躬
盛明親王
−F〃・
二 一以
一
泉
之
︵二五二三︶
−1当
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部
i亘 QJ帝T▲lilll
以上十七首のうち︑妓初の﹁故郷に﹂の歌の胴にある﹁新古今三﹂は﹁新古今二﹂の書誤りであり︑﹁都にて赤をた
にやは﹂の歌の后に﹁同十六﹂︑その次の﹁幾世へし﹂の歌の肩には﹁同十七﹂︑簸後の﹁おへしをきて﹂の歌の肩に 願は花の下にて非しなむその二月のもち月の比
奉幣使にてすみよしに参りてむかしすみけるところのあれたりけるをみてよみ侍ける
津守有基 同十九被出之
住よしとおもひしやとはあれにけり刺のしるしをまつとせしまに
依樺迦迩教念捕陀といふところを
肥後 披出之
おしへをきて入にし月のなかりせは西にところをいかてかけまし 同
文學研究節二十三脚
入拾迩集之内權中納言源朝臣巾之
幾世へし磯邊の松そ昔よりたちよる浪のかすかしるらん
題不知 同十八被出之
みつくぎの跡にのこれる玉のこゑいとともさむき秋の風かな
たいしらす
西 ヒヒ
会Ⅱ 二四︵二五二四︶
行
一 M 一
法 朝
師 臣
は一︲同二十﹂と夫共にあるべきが書きもらされてゐる︒また︑巻五の悪慶法師の歌﹁高砂の尾上にたてる﹂の註書に
﹁入金葉集之内云々﹂とあるは︑此の本にのみあるものであって︑他の傅本の何れにも存在せぬところである︒以上の
諸軸を除き︑此の後出歌はその字句が全く石津本と一致してをり︑他の傅本と一致しない︒
文學研究第八聯に﹁所謂石津本新古今和歌集に就て﹂といふ拙文を載せ︑その中で︑諸本に出入りのある歌の一随
表を禍げておいたが︑あの表によっても分るやうに︑巻五の切出歌﹁商砂の尾上にたてる鹿の一昔に﹂の一初句は烏丸光榮
本では﹁たかまどの﹂とあるが︑石津木及び本書には﹁商砂の﹂となってをり︑また︑巻十七貫之の﹁いくょへし磯ぺの
松ぞむかしより﹂は柳瀬本には第二句﹁入江の松ぞ﹂となってをるが︑石津本は﹁磯べの松ぞ﹂とあり︑﹁入拾通﹂云交の
注書までが此の春日本に同じいのである︒また︑巻十八の大中臣能宣の﹁水華のなかに残れる﹂の歌も流布本は第三句
﹁瀧の難﹂第五句﹁秋の鑿かな﹂とあるが︑石津本は此の赤日本のやうに﹁玉の鑿﹂﹁秋の風かな﹂となってをる︒また︑西
行の﹁ねがはくば花の下にて春しなむ﹂の歌等石津本にのみ存在する歌は悉く本書にも塞げられてをり︑柳瀬本や流布
本等にのみあって石津本に閲けてゐる歌はまた本書の後川歌には勿論︑本文中にも全然見常らぬのである︒すなはち
此の一事のみから推定すれば︑宋書は石津本と同系統のものといふことが出來る︒ただ︑本文を仔細に校合してみ
ると︑必ずしもその字句が石津本と同一でないQ霊へぱ︑石津木に︑春上川一の歌は︑
をられけり紅にほふ梅の花けさしろたへに琴はふれれど
とあって︑流布本と同じいのであるが︑本書では︑その結句が﹁雪はふりつ上﹂となってゐて︑而もイ本は﹁ふれ上ど﹂
とあると註記してゐる︒かういふ例は他にも妙なくないのであって︑石津本と本書とは同一書本から出てゐるとは言
奔日博士所識二十一代集中の新古今和欺集に就いて二五︵二五二五︶
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文學肝・究第二十三脚一二︿︵二藝二︿︶
ひ難く︑寧ろ本書が校合に川ゐた一本の方が石津本の本文に近かったといふべきである︒糖細に見れば︑かういふ風
に字句上の異同があるが︑その所收歌並に歌の排列順序から見れば大朏石津本の系統に脇し︑殊に切出歌の部分だけ
から言へぱ全く石津本と同数といふととになるのである︒
・石津本は切出歌もその文中のあるべき場所に收め︑鍵章を附してその被切出歌たることを註記してゐるのであっ
て︑その軸は本書が切出歌を奥書に別掲してゐるのと趣を異にしてゐる︒また︑夏の部二二八﹁︲みしまえの入えのま
とも﹂の歌から二三一﹁さみたれはをふの河脈のまとも草﹂の歌に至るまでの四首︑約牛丁分が本書には脱落してを
る︒さういふ鮎で新古今集の原形態を考察する上からいへぱ︑石津本の方が重蛮であると言ふ今へきであるが︑所鍋の
切出歌の数の多きこと石津本と同じき黙に於て︑本書は石津本と共に珍亜せらるべき傳本である︒
而もその本文の方には︑全然切出歌を有せす︑艇も新古今集の定本に近き形態を有してゐるとともまた謀ぶ寺へきで
一侭︑新古今集には定本と稲すべきものがない︒元來が後鳥羽院の親撰であるから院の恩召しに依って始終洲訂を
加へられてゐる︒た轡建保四︑五年頃を以て一時川訂の事が中絶したらしく推定せられるから︑此の時期に於て新古
今集は一應定まった形を有ったことになるので︑所訓家憂本と稲せられるものがその定まった形態を博へてをると言
はれてゐる︒切出歌を含まぬ此の春日氏二十一代集本新古今集も︑すなはち此の家長本の形に近きものといふ善へきで
ある︒ あらう︒
・新古今集は︑その後︑後烏銅院が應岐に遜らせ給うたのちの御徒然に選抄を試みさせ給うて新古今抄といふものを
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瀬本とか宮内省の合鮎本とかはその種類の代表的なものであるが︑石津本や此の春日博士本等は隠岐本の悌を鱒へな
い側に脇する︒
また︑新古今の傳本中には︑各歌の選者名を注付したものが存在してゐるが︑此の春日博士本は巻第一の極く一初め
の部分にだけ選者名の頭書がある︒それも第十七番の﹁谷河のうち出︾つる波も難たてつ﹂の歌までしかないから︑全
僻から言へぱ︑先づ選者名のない傳本の部類に脇せしめてよろしい本である︒
参考までに泰日博士本の選者名を左に掲げておかう︒歌頭の番號は剛歌大槻の番號である︒
定︑隆︑誰︑︵一︶み吉野は山も煙みてしら雲の
雅︑︐︵三︶山ふかみ春ともしらね松の戸に
︵四︶かきくらし猶ふるさとの雪の中に〆イリ︑︐仁上︑
耐訓
術︑有︑︵六︶非といへば瞳みにけりな昨日まで
有︑︵七︶岩間とぢし氷もけさはとけそめて?
雅︑︵八︶風ませに雪はふりつ上しかすかに
︵九︶ときは今は春になりぬとみ雪ふる佐胆︑副
定︑隆︑雅︑︵十︶春日野のしたもえわたる草のうへに
有︑定︑隆︑誰︑︵十一︶あすからは若菜つまむとしめし野に
赤日椰士所誠二十一代集中の新古今和歌集に就いて二七︵二五二七︶
作らせられた︒此れが所謂隠岐本であるが︑新古今の傳本中には此の隠岐御選抄本の悌を博へた本が妙なくない︒柳11
│■
文學研究第二十三戦二八︵一五二八︶
雅︑︵十二︶かすか野の草はみとりに成にけり
術︑有︑雅︑︵十三︶わか菜つむ袖とぞみゆる春日野の
術︑隆︑︵十四︶行てみぬ人もしの・へと非の野の
定︑隆︑雅︑︵十五︶灘に生ふるわかなならねどいたづらに
有︑定︑隆︑︵十七︶たにかはのうちいづる波もこゑたてつ
以上畢げた以外の歌には選考名がないのである︒前川家本︑久原本その他にあって柳瀬本に選者名の間けてゐる場
合など此の僅少の断片的記録も亦力強い参考養料たり得るであらう︒
現在わたくしの知ってゐるところでは︑全巻にわたって選者名の存してゐる傳本に︑岡害寮合戦本︑同烏丸光榮本
︵佐盈木博士所藏中山本は此の原本︶︑柳瀬氏應岐本︑武川氏賊近藤礎行本︑前田家藏爲親本があり︑巻第十まで選者名
を附してゐるものに︑岡書寮雁司本︑同永緑七年克本があり︑巻第十一以後にのみ選者名あるものに︑吉澤博士赦永職
三年爲本がある︒最近︑弘文莊侍曹書目にも巻十までに選者名のある新古今集が載ってゐたし︑京都の猪熊翁の賊書
中にも全巻にわたり選者名ある新古今集があるといふことであるが未見である︒奮久原文庫所職古庵本は︑巻一の半
ば頃まで選者名が附せられてゐる︒凡そ︑此の選者名は諸本により異同のあるものであるが︑それ等を對校すること
によってその正確なるところが略女推定せられ得るから︑わたくしの手許でも前記諸本の對校を行ってゐる︒但し學
者の間には此の選者名・を過営に評慨して︑これを以て各撰者の選歌傾向を察知し得る唯一の手掛りとする考もあるや
うであるが︑わたくしのやうに後鳥羽院親撰説を信ずるものには︑この選出歌には各選者の意志の一部分しか反映し
1 1
てゐないと老へられるから︑これを以てのみ選者の選歌傾向の全般を判定するわけにはゆかぬと恩ふ︒
なほついでだから附記しておくが︑圖書寮合軸本には源通具の選歌が不営に注記を洩らされてゐて︑それには何か
原脚があるのであらうとする先輩の考へは正しいと恩はれるが︑合鮎本は全然迩具を洩らしてゐるのでないからその
鮎注意を要する︒すなはち︑他本では杵通︑迩具の名の略號に術の字を用ゐるが︑合鮎本には右の字を以て略號と
し︑さうしるしてゐる個所が数ヶ所あるのである︒從來︑その事を述べた人がないから︑此の際特記しておく︒ま
た︑明月記に︑藤原定家が父の喪に服してゐたゆゑ祁祇歌の郡類に携はらなかったといふ記事のあるのを以て︑定家
が全然川祇歌を選進しなかつたかの如く説く説が一部の學者に行はれてゐるが︑明月記の記事は︑定家が部類に携は
らなかつたことを意味してゐるので︑選進しなかったといふのではない︒価って︑柳瀬本のやうに祁祇歌の選者名に
定家の名を閥いてゐるのは何かの川逹ひで︑他の傳本に定家の名のあるのに從ふべきである︒
元來︑此の選者名は鳥丸本の奥書によって定家自筆本に既に存在してゐたといふ説が有力であるが︑定家が自分で
これを注記しておいたか︑他の者がのちに書加へたものであるか︑或は石津本の如く定家自誰本の艸為本であっても
選者名のないものがあるところから見て︑すぐなくも承元三年六月辨蛎の定家同筆本には選者名がなかったのではな
いか等の諸問題は更に考究を要するととどもであらう︒
また︑同じ定家自罐本を底本としながら︑柳獺本や吉澤本や石津本や此の春日本やが︑夫共にその歌数に相述があ
り︑切川歌に出入のあるのは︑どうした課か︑その事涯をどう解淫すればよいか︑これまた輕凌に速断し得ざる問題
である︒加之︑石津本には切出歌が本文中にあり︑春日博士木には切川歌が砲韮回中に別掲せられてゐるが︑これは何
赤日岬士所識二十一代集中の新古今和歌柴に就いて二九こ玉二九︶
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で次の機御に此れ等の諸軸に就いて符兇を披瀝したいと恩ふ︒ れが定家自筆本の眞面日を仲へてゐるのか︑この推定も亦困難事に脇する︒わたくしはもう少し諸仰本を研究した上要之︑存日博士所紘二十一代集本新古今尖は︑隠岐本の伽を博へず︑選者名の頭註も十餘首を存するのみであるが
切川歌数が石津木と同数であって︑その他の諾仲本中第一位を占めてをる鮎で珍重せらるぐへく︑而もその切川歌の排
列の朏裁が石津本と異なってゐる鰍がわれわれの興味を呼ぶのである︒なほ石津本は︑その奥書によれば︑正安二年
十一川下旬に冷呆爲相が定家目筆本を以て諜為校合したものの聴嬬本であるから︑まさしく冷泉家傳本の形態を仰へ
た珍本であるが︑しかし︑今此の春日本の川現によって︑冷泉家所傳本以外にもそれと同じに切出歌を含む本が博存
してゐたととが明瞭になったのであって︑此の鮎にも亦興味を兇えさせられるのである︒
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研
究
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一
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● 三○︵二五三○︶