メーヌ・ド ・ビランの美学︵こ
掛 下 栄 一 郎
フランスの思想の流れの中での左下ヌ・ド・ビラソ︵﹈≦巴p⑦住①切冒簿旨ミ①①一おト◎心︶の重要な意義については︑
わが国でも多くの思想家たちによって︑かなり以前から指摘されてきたところであるが︑現在に至っても︑彼に関
する著作といえぽ︑若干の研究論文を除いては︑昭和初期に啓蒙的な哲学叢書の一部として刊行された︑沢潟久
敬氏による入門的︑綜合的研究書﹁冊を数えるのみである︒ ︵沢濾久敬﹃メーヌ・ド・ビラソ﹄昭和十 年︑弘文
堂刊︶当然のことながら︑ビラソ自身の著作に関しても事情は同様で︑現在までのところ︑彼の著作の翻訳︑出版
は︑わが国ではまだ一冊も実現してはいない︒
その作品の﹁全集﹂が︑本国のフランスにおいても刊行されていない特殊な思想家の著作が︑わが国ですでに
﹁全集﹂の名のもとに出版されている例をい.くつか知っているが︑そうした半面︑マールブラソシュ︵乙8冨
﹈≦巴①げ箪50げ①HOQ︒◎Q−H謡㎝︶︑ボアロ︵ZぎO冨ゆO躍¢餌亭UΦω宮ひ二二×δω①1垂目H︶︑コソディアック︵国難O昌冒Φ切O首昌9
qのOop島=碧Hβα一嵩◎︒O︶︑オルバック︵男望信一 用︷Φ⇒﹃一 ︼︶一①け同一〇げ 住︑用田O一げ⇔Oげ 日刈bこω一H刈◎◎㊤︶といった︑フランス哲
学史安きわめて重要な思想家たちの著作が︑ビラソとほぼ同様の処遇に甘んじていることを思うとき︑わが国の出
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版界の︑外国思想の受けいれ方に見られる破行的歪に疑問を感じないではいられないのである︒
しかし︑メーヌ・ド・ビラソの著作に関しては︑本国のフランスにおいても事情はかならずしも良好ではない︒
フランス学士院の後援を得て︑ピエール・チスラソ︵勺一ΦH﹁O ﹈り一ωωO﹃9コα︶が︑ビラソの書簡を含む主要作品を網羅
した︑最も権威ある全十四巻の著作集の刊行に着手したのは一九二〇年であるが︑その後チスラソの死去︵一九三
五年︶︑第二次大戦の勃発などによってこの出版は難行し︑﹃人間学新論︵20薯①窪区¢ωω臥ω畠.唱導訂oooδα身冨︶﹄
の刊行をもって全十四巻が完成されたのは︑ようやく一九四九年であった︒しかも︑前後二十九年にわたって刊行
されたこの全十四巻の著作も︑部分的に版の重ねられた若干のものを除いては︑その後全巻一括して発売されたこ
とはなく︑現在では︑この全集を揃えることはきわめて困難である︒私もこの二十数年間︑あれこれ手を尽して入
手に努力してきたが︑いまだに全巻が揃わない有様である︒
また彼に関する研究書の方も︑さすがに本国では︑ほとんど見当らないというわけではないにしても︑他の著名
思想家に関するものに比べれば︑その数はきわめて少いと言わざるをえないのである︒もっとも︑ビランの著作に
関しては︑チスラソの編集した著作集が決定的なものであるというわけではなく︑まだまだかなりの分量の未校訂
の原稿が保存されており︑その校訂も含めた従来の版の改訂など︑地味な努力が着々と進められているとも聞いて
おり︑今後︑より完全な著作集が︑一日も早く完成︑出版されることを期待しているのが現状である︒
著作の出版状況に話が外れてしまったが︑要は︑メーヌ・ド・ビラソという思想家が︑本国のフランスにおいて
も︑また外国においても︑比較的重要な人物とされているにもかかわらず︑かならずしもそれに適わしい多彩な研
究成果に恵まれていないということである︒
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メーヌ。ド・ピランの美学(一)
もう二十年近くも前に︑私はメーヌ・ド・ビラソについて若干書いたことがある︒︵﹃メーヌ・ド・ビラソ論放﹄
早稲田大学高等学院研究求点第七号︑一九六二年︶もちろん︑ビラソについては何ほどのことも理解でぎていなか
った頃のことで︑研究というよりも︑当時の自分のビラソ思想理解のあとを︑みずから確かめてみるという気持で
書いたもので︑彼の思想の骨子︑それも︑主として﹃人聞学新論﹄を介して理解しえた晩年の思想の一側面を︑せ
いいっぱい忠実に叙述することの域を一歩も出るものではなかった︒
しかし︑当時からほとんど誰もが︑少なくとも公けの場ではとりあげることのなかったこの特異な思想家にひか
れ︑研究態勢の不備や︑理解の末筆をかえりみることなく︑あえて論述の対象として選んだのは︑彼が終生一貫し
て抱いていた︑﹁内感の原初的事実︵δ貯騨寓冒三︷α⊆ω窪ωぎ直垂︒︶﹂という︑その独自の見解が︑決して特殊
で個別的なものではなく︑人間本性の核心に鋭く迫る普遍性に貫かれていると確信したからであり︑私自身︑主た
る研究の対象としてたどってぎた近世以降のフランスの思想の流れの中でも︑とりわけ︑ ﹁心情派﹂と呼ばれてい
る思想家たち︑特に︑当時最も大きな興味を抱いていた思想家パスカル︵国十重︒℃pωo巴目Ob︒も︒一HO①b︒︶の系譜に︑
深く密接につながる人物であることを︑直観的に印象づけられたからにほかならないのである︒そしてその直観
は︑今日でも決して間違ってはいなかったと確信している︒
私がビラソにひきつけられたのは︑彼の研究の焦点が︑かりてデカルト禽︒審U①ωo母8ωHαO①1目象O︶やパス
カルもそうであったように︑常に﹁人間﹂に向けられていたからである︒ビラソの﹁入間学﹂が︑ ﹁人間性の単な
る一部分︑一側面だけを扱うものではなく︑全的な人間﹂︵ビラソ﹃人間学新論﹄Z●︾. Pおα︶を対象とし︑同
時に︑﹁人間の内的現象︵δωOげひロOヨ①ロ①ω言審ユ︒ロ﹁ω︶﹂︵ぎ5P卜︒ON︶︑言いかえれば︑自己自身への鋭い内省に
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思索の焦点が向けられていた点でも︑デカルトやパスカルの系譜につながるものであることは明らかであろう︒
しかしデカルトが︑コギト︵ooσq詳︒︶の明証性の上に自我の主体性を基礎づけることによって︑近代哲学の原点
設定に成功はしたものの︑そうした比類のない自我の権威を︑ ふたたび旧態依然としたスコラ的﹁実体︵ω信げω雷・
耳漏︶﹂に化身させてしまったこと︑あるいは︑鋭い自我の内面との対決を介して︑﹁人間の真の状況﹂として把握
した︑﹁考える葦﹂としての人間の内面性を︑余すところなくわれわれに示してくれたパスカルも︑その根拠を充
分に説得しうるに足りる﹁心情の論理﹂を︑ ついに語りえなかったことで︑﹁内省の権威﹂の基礎づけに苦慮して
いた当時の私にとっては︑メーヌ・ド・ビラソとの出会いはまさに天来の福音であった︒
自我に直面する内省的人間の原初的事実としての内感︵ωΦ一Pω ごP甘同5PO︶︑その本性として内的明覚︵善導8営6つ
ぎ8ヨ︒︶を持つ︑能動的︑自発的な内感に真理の根拠を置く﹁内感の形而上学﹂によって︑新しい﹁人間学﹂に
活路を切り開こうとしたビラソの思想は︑暗雲に閉ざされていた私の脳裏に︑鮮烈な導きの閃光を投じてくれたの
である︒ その後︑哲学固有の領野から美学の世界に関心の対象を移すにしたがって︑私のピラソへの傾斜はいよいよ増大
するばかりであった︒というのも︑古代の思想家が﹁神の業﹂と︑デモクリトスが﹁熱狂︵伽もミq§ミ︒り︶﹂と︑
そしてプラトンが﹁神の狂気︵③§染§ミ︶﹂と呼び︑さらにアリストテレスが﹁模倣︵ミミミリ︶﹂の語によって語
った美的価値創造のいとなみの源泉は︑とうてい日常の事実世界の因果律の枠内で解しうる問題ではなく︑そうし
た世界とは全く次元を異にする︑或る種の﹁超現実的な力﹂のなせるわざと考えられてぎたからである︒
美についての見解の歴史をふりかえってみるとぎわれわれは︑美を︑現実的快楽や有用性︑あるいは︑何らかの
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メーヌ・ド・ビランの美学(一)
外的規範に結びつけようとする見解よりも︑単なる技術︑あるいは︑日常世界の合理的判断をこえたところに形成
される価値としてとらえようとする見解の方が︑正当な立場としてより多くの支持を得てきたことに気づくのであ
る︒芸術作品として創造される美的価値は︑日常世界を支配する因果法則の法外にあるというこうした見解は︑ギ
リシア以来今日まで︑芸術の世界においては不変の鉄則となっている︒そして︑宗教的信仰の世界も含めた︑最も
深い意味での哲学的真理の世界においてもまた︑事情は同じである︒﹁主の御前にては︑千年も一日のごとし﹂︵﹃ペ
テロ後書﹄三一八︶とする信仰の真理や︑一瞬の美的感動に全生涯を賭ける心境にわれわれを導く︑最も密度の高
い美的感動は︑このような場において形成されるのである︒
このように考えてくるとわれわれは︑﹁意識の︑そして存在の原初的事実﹂︵一げ平げ● づ.卜︒刈O︶としての自我から出発
し・たとえばエミール・ブレイエも指摘しているように︑ ﹁原初的事実とは︑いわぽ肉体の努力であり︑その努力
において自我は︑肉体の動きを生ぜしめる一つの超有機体的力︵巷Φho容①身bo8茜9︒巳ρロ︒︶として︑みずから
を直接的に認識するのであり︑さらに︑あらゆる自我の意識の中には︑非物質的な力と物質的な抵抗という︑異質 ゆ的な二つの要素﹂︵国ヨまゆ冨三Φい月一ω↓9HΦα①冨b三δω8三①・閏−ω●PO卜︒O︶が︑分析的には判別でぎるが︑事
実的には不可分であるという形で︑内的に結合していると説ぎ︑さらに︑ ﹁考える主体としての人間は︑みずから
の中に︑自分自身を行動に移す一つの力の存在を確実に知っている︒いや︑むしろその力こそ︑その人そのもので
あるとも言えるであろう︒⁝⁝人間は︑直接的感情︵一① ωΦ昌一一5P①昌一 一唇PbP①仙圃帥け︶︑すなわち︑自分自身の︑固有で
現実的な個別性の内的明覚を持っている︒⁝⁝そして︑この内的感情によって人間は︑動因としての名において
の︑自分自身の存在の真実性の︑完全に正しい観念を持つ﹂︵H4.﹀. b.N刈O︶と語り︑﹁自己とは︑このような発動
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的力︵冨ho容Φ簿αq一ω鐙馨①︶の感情にほかならないし︵ま岸p卜︸O切︶と結論するメーヌ・ド・ビラソ独自の﹁内感
の形而上学﹂が︑最も高度な美的見解に︑いかに深くかかわり合っているかということを︑いっそう明らかに理解
するのである︒
ところで︑ ﹃メーヌ・ド・ビラソの美学﹄というこの論文の題名に︑いささか奇異の念を持たれる方もあろうか
と思われるが︑確かに︑メーヌ・ド・ビランには︑美学と名のつく著作はないし︑ ﹁内感の形而上学﹂も︑美学や
芸術学の哲学的根拠として説かれているわけではないが︑自我の内奥との対話に発するこの内感の哲学は︑当然︑ ●われわれの美意識を形成するさまざまな感情や情念についての哲学でもあってみれば︑われわれはそこに︑ビラソ
の美的見解を充分に想定しうるに足りる︑豊富な叙述を見出すことがでぎると考えられるのである︒
しかし︑内感の形而上学の上に展開される彼の美学は︑まことに興味ある課題ではあるが︑それはとうてい︑短
論文において充分に追跡しうるものではない︒いずれビラソの美的見解の全容については︑もっと充分な時間をか
けて︑詳細に検討しなけれぽならないと考えているが︑さしあたり順序として︑ビラソ自身が︑ ﹁美﹂について語
っている部分の検討からはじめてみたい︒
﹃心理学基礎論︵野ω巴ω弩δ乙・ho巳︒目①葺︒・◎o冨岩団魯︒ざoqす︶﹄下巻︑第三部︑第四章に︑﹁美について︵∪=
げΦ髭︶﹂︑さらにそれに続いて﹁感情について︵U①ωω魯富旨Φ巨ω︶﹂と題された区処があるが︑まずその中の重要と
思われる部分を訳出しておこう︒
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メーヌ・ド・ビラン﹃心理学基礎論﹄より﹁美について﹂
メーヌ ド ビランの美学(一)
ロックが﹁道徳的存在︵δω蝉おω言○鑓︒×︶﹂と呼んだものを︑記号の統一︵﹃§ま身ω一σqロΦ︶のもとに表
現する観念の配合︵一①ω OO自P一∪一﹈P鋤一ωO旨ω α︾一畠ひ①ω︶は︑われわれが美と呼んでいるところの︑詩︑絵画︑彫刻︑音
楽といった領域に帰着する︑実在的︑もしくは虚構的な諸存在︑すなわち︑すぐれて美の名に価する諸芸術に関
連する別の種類の配合と︑きわめて顕著な類比性を持っている︒
これらの二つの種類の配合は︑同じ一つの精神の能動的機能から発しており︑またこれらは︑それらが規定し
たり︑喚起することを目的として常に持つところの︑精神の或る感情に︑ともにひとしく関係しているのであ
る︒︵国.℃ づ●駐U︶
それは︑道徳的存在という側面においては︑いかなる明確な類型や規定された法則にも服従することなく︑こ
の能力が形成する︑すべての配合の中での一つの独立の性格である︒そしてまた他方︑美的存在という側面にお
いては︑それは︑かっては﹁感覚的精神︵一順ゆBΦ ω①昌ω一一幽く①︶﹂と呼ばれたもの︑それの擬人化としての何がしか
の呼び名のもとに︑われわれの感動性︵㊤鵠①〇曲げ臣けひ︶︑性格︑気質︑諸情念を真に形成するところの︑われわれ
自身のこの部分︑すなわち︑芸術の天才の自発的創造に最もしぼしば貢献する︑われわれ自身のこの部分であ
る︒︵国U●勺︒ 弓・心蔭q︶
アダム・スミスは次のように言っている︒ ﹁われわれが美に関して抱いている感情が依拠しているところρ想
像力についての諸見解は︑きわめて繊細で微妙である︒尊敬とか非難とかいった道徳的感情が︑人間本性の最も
強固な情念の上に基礎づけられており︑もしそれらの感情が曲げられうるとしても︑少なくとも︑それらが完
全に改変されることは不可能であるのに反して︑これらの諸見解は︑習慣や教育によって客易に変更される︒﹂
%
︵>9巨ω∋詳げ・↓げ①o昌ΦΩoωω窪ニヨΦ葺ωヨ︒雷¢図b錠ρ<・oプ岩●嗣︶たとえば︑ネロ皇帝の性格の特徴や行
為を︑思考の中で配合しながら︑嫌悪や恐怖の感情にかられないでいることは︑人聞であることをやめないかぎ
り不可能である︒これに反して芸術においては︑詣るところにおける或る人たちには︑気にいったり好ましいと
思われる同じ配合も︑まったくちがった環境の別の人たちには︑多分︑きわめて不快な印象をあたえるであろ
う︒しかし︑この全く対照的な二つの場合においても︑善とか︑行為や性格の道徳的美しさが問題となろうと︑
あるいは︑事物に帰着する感覚的な美とか︑われわれの理念の生み出すものへの冥想に結びつく知的な美しさが
問題となろうと︑そこにはひとしく︑ ﹁絶対的な﹂何ものかが存在するのである︒この絶対的な何ものかとは︑
習慣とか︑様相の気まぐれ︑言いかえれば︑感受性の可変的な様相として︑感覚の習慣︑あるいは想像力の移り
気などによって変化する相対的な何ものかからは独立して︑ ﹁同一のもの﹂として残るものである︒そしてこの
際︑さらに困難なことは︑この絶対的で︑唯一で︑恒常的なものと︑相対的で︑多様で︑可変的なものとの限界
を設定することと︑この両者が何に依存しているかを決定することである︒すでにこころみたわれわれの考察の
結果が︑ここにも適用されるであろう︒
﹁美﹂という課題は︑疑る一つの秩序の中で相互に配合し︑もしくは連続し合っているところの︑知覚︑心象︑
あるいは知的諸観念の全体に適用される︒したがってこの課題は︑ぎわめて高度に無制限に拡大される種類の課
題である︒︵周.即 b.瞳①一Aミ︶
美を形成するのは何であるかということについての意見が分かれること︑さらにまた馬美に関しての哲学者た
ちの原則や学説の間に対立が見られること︑あるいは︑われわれが美という性質をあたえる対象にかかわらない
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メーヌ●ド・ビランの美学(一)
かぎり︑感情の中には対立が見られないということの︑最大の理由はこの点にある︒
匂いとか︑味とか︑あるいはわれわれの感官︵ωΦ口ω︶を最もここちよく刺戟する形で︑それらの感覚の中で配
合された触覚のように︑われわれの感受性を直接にはたらかせるさまざまな印象は︑美の観念や︑美の感情との
間に︑いささかの共通点も持ってはいない︒それらの印象が︑ ﹁良い﹂とか﹁ここちよい﹂とかいった言い方を
することによってわれわれは︑それらと身体の感受性との関係を説明する︒われわれは︑それらを﹁美しい﹂と
言うことは決してない︒このような言い方が適用されうるためには︑これらの印象が︑知覚するとか︑判断する
とか︑比較するとかいった︑われわれの能動的機能︵幽餌Oβ一けひ 9動け一く①︶とかかわり合っていることが必要である︒
第二部のはじめで︑その法則について研究した単純感情︵一①ω 帥hh①Oけ一〇旨ω ω一bPO一Φω︶は︑常に知覚︑あるいは判
断力以前にあり︑それらは︑ともすればしばしば︑知覚や判断力を変質させたり︑混乱させたりする︒
美とそれに伴う諸感情は︑それらの感情を誕生させ︑それらを支え︑活気づけることに奉仕するところの︑判
断もしくは精神のはたらぎ以外からは︑絶対に生まれてくることはない︒柔かい緑とか︑鮮かな赤とか︑グラス
ハーモニカの引延ぽされたハの音とかいった単純な知覚は︑器官︵o細きΦ︶の傾向︵巳ωOoω三〇昌︶によって変化
しがちであるところの︑快の感情に伴われることが可能であろう︒しかし︑いかなる場合でもこの快の感情は︑
美の感唐ではない︒美の感情は︑単純感情︵ω①霧帥二言巴ヨ9Φ︶の上に基礎づけられることはなく︑それはただ
知覚と観念との︑多少とも拡大された配合の上にのみ基礎づけられることができるのである︒
美しくあるためには︑配合は︑ただ単にそれのおのおのが︑特別にここちよい知覚的諸要素から形成されてい
るだけではなく︑さらに︑これらの諸要素が︑それらを引寄せ︑まったく複合した一つのものに結び合わせると
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ころの︑言いかえれば︑統一という形で︑精神に対して実る一つの多様性︵︿9ユ卑ひ︶︑もしくは多重性︵日三三ー
宜三幕︶を示すところの︑一種の適合性︵OO昌くO昌帥50Φ︶︑調和︑そして共感を持っていなければならないのであ
る︒ ﹁何となれば︑あらゆる美は統一のもとに形成されるから︵Oヨ艮ωΦ回錐b巳6ぽ犀&一巳ω︷o﹃ヨρ二日βω
oωけ︶﹂︒では︑それによって挙る知覚的要素︑すなわち︑色︑音︑形などが統一の形を持ち︑そのこと自身によっ
て美しくなるところの︑同じ一つの配合の中に入っていくのに適しているこの相互的適合性︵8無くΦ口き8誌︒肥
胃oρ信Φ︶の原理とは︑いったい何であろうか? われわれにはそれは分からない︒共鳴体の実験は︑完全和音を
形成する音の配合が︑自然の中でどのようにみずからの原理を持っているかを︑或る点までうまく説明してくれ
る︒一.つの音としての基本のハ音は︑それの倍音部︵b碧二①ω巴δ⊆08ω︶と︑自然的階伴音︵9・ooo目Bσq口①旨︒馨
旨碧霞︒同︶である他の三つの同時音︵ωO口ω ω一旨P二一一㊤一口ひ切︶に︑自然に分解される︒しかし︑この実験から出発して
もわれわれは︑快と美の理念とが︑このような決定的な数的関係に︑正確に結びついている理由を語ることはで
ぎないであろう︒ たとえぽ︑短三度の和音がそれであるような六分の五の関係が︑なぜきわめてここちよいの
か︑あるいは︑七分の六の関係が︑なぜわれわれの耳にはなはだしい不協和音をもたらすのかという理由が分か
らないのと同様である︒
そればかりか︑たといわれわれが︑共鳴体の実験から︑ここちよい音の配合と︑美しい音の配合をつくり出す
根拠を説明することができたとしても︑われわれは︑これらの協和音の原則を︑色とか︑形とか︑視覚的形式や
触覚的形式といった︑他の知覚の体系にまでおしひろげることはできないであろう︒諸性質の詰る総体︵ΦづωΦヨー
σδ︶︑あるいは組合わせ︵霧ωoH声言Φ葺ω︶が︑われわれを喜ぽぜたり︑不快がらせたり︑またわれわに醜く思わ
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メーヌ・ド・ビランの美学(一)
れたりする︒それは︑われわれの身体構造︵OO昌ω一一け二一一〇コ︶の諸原理そのもの︑われわれの知覚能力と対象との
自然的関係によるものであって︑われわれとしては︑経験と反省とによってそれを確かめることがでぎるだけ
で︑先験的に説明することはできないものである︒︵悶■勺︒ b■仁心刈−心膳O︶
諸芸術を形成している理念の配合は︑かくしてまず類推の法則︵OΦω一〇一ω9§一〇σqo①ω︶の上に立てられるよう
に思われる︒われわれはすでに︑分類︵一Φの O一9ωω一h一〇螢叶︸〇一Pω︶を規定する類推の法則について︑前章で語っておい
た︒実のところ︑分類的統一と美的統一の二つの場合には︑比較と抽象と配合の諸能力の撮る一つの共通のいと
なみが見られる︒しかし類推︵き巴︒σqδ︶︑あるいは類似︵おωωΦ§三9昌︒o︶は︑悟性が同一の観点から結びつけ︑
同一の記号のもとに表現するところの︑対象もしくは理念の分類の形成を規定するもので︑想像力が結びつい
て︑感受性の要求を満足させるところの別種の類推とは︑本質的に異なるものである︒精神の中に同じ一つの感
情をひきおこさせるのに適切な性質のすべては︑それらが別の場合にそうありえたのとはいささかちがって︑相
互の間にこの種の感情的類推︵き巴︒ぴqδω窪二女Φ口塞一Φ︶を持っているが︑これが︑これらの諸性質を︑同じ一
つの類別に属させるよう規定するもので︑その場合感情が︑同一の配合のすべての要素に︑いわぽ集合点︵づ︒ぢけ
島①轟田︒ヨΦ巨︶として役立つ﹁唯一にして共通のもの︵一Φ 9昌9ヨ O叶 OO五目儀昌O︶﹂となるであろう︒︵男・即 ℃.
島O一参H︶
あらゆる芸術は︑それぞれ自分にとって固有で︑自己の領分を限定し︑みずからの特別の類推を規定する自己
自身の記号︵ω一αq昌逸を持っている︒絵画と彫刻は︑ただ色︑形︑状況などによってしか精神に語りかけること
ができない︒それらは︑搾る種の感情を目覚めさせるために心象︵一算⇔σqΦω︶を用いる︒そしてそれらは︑ただ一
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っの状況︑一つの行為のただ一つの時間をしか把握しえないので︑その効果は唐突であり︑また瞬間的である︒
しかし音楽は︑感受性の上でいっそう直接的にはたらくものであるから︑心象の助けを借りなくとも︑精神に語
りかけそれを動かす︒想像力をはたらかせ︑また︑その想像力が︑機能中の根源的な感受性によって︑所与の法
則に従いながら︑いとなみの主人公となるような場において︑その想像力に無限の活動の場を開くのは︑前者と
は反対に︑或る種のかぎ立てられた感情である︒最も甘美な︑最も生気にあふれたわれわれの感情は︑経過によ
ってしか︑そして尽る時間の中でしか展開しないのであるから︑音楽は︑記号が視覚に向かっている絵画やその
他の芸術よりも︑常にいっそう心情の近くにあるのである︒聴覚の媒介によって︑同時に精神と心情とに向かっ
ている詩もまた︑しばしば比較されるように︑絵画よりも音楽とよりいっそう自然的な関係を持っている︒画家
は︑配合のすべてを空間の中に実現させるのに対して︑音楽家と詩人は︑それらを時間の中で実行するのであ
る︒ あらゆる芸術を︑同じ一つの原理︑すなわち自然の模倣という原理に帰せしめることによって︑ひとびとは︑
模倣という言葉の意味を変質させるほどゆがめてしまった︒すべての芸術が︑常にそれぞれ固有の方法︑もしく
は記号を介して︑精神の中に目覚めさせようとしている感情は︑人間の本性の中にある︒しかし諸芸術間のさま
ざまな方法の関係は︑事物の中にも存在しており︑それを変える能力は人間にはない︒芸術家の天賦の才がこれ
らの関係を把握して︑みずから選択した諸要素によって形成する配合に適応させるとき︑そしてこの芸術家が︑
自分の想像力のほかに何の規範をも持たないときに︑彼は模倣をしているとか︑彼は自然を模写していると言え
るであろうか? もちろん︑音楽は風のそよぎ︑波の音︑雷鳴などを模倣することもある︒しかし︑その場合の
30
メーヌ・ド・ビランの美学(一)
効果は最小である︒むしろ︑音楽の偉大な力は記号の中にあり︑それは直接的な形で感受性を動かし︑精神の中
にいかなる観念︑もしくは規定された心象をも目覚めさせることなく︑種々の情念をかき立て︑交互に活発に活
動したり鎮静したりするのである︒偉大な芸術家が︑われわれの精神に対してかくも大ぎな支配権を行使するの
は︑模倣による美によってではなく︑表現による美によってである︒
いっさいの自然の模倣には︑限界の観念が伴っているが︑芸術の最も偉大な効果とは︑造形芸術においてす
ら︑われわれの視野を無限の中に導ぎ入れることであり︑あるいは︑無限の感情をわれわれの視野に賦与するこ
とである︒あなたはこの寺院を測ろうというのですか︒一人の雄弁な哲学者が︑サソ・ピエト戸寺院について語
りながらこう言った︒あなたはこの寺院の長さと大ぎさを知りたいとでも思っているのですか︒私はそこにいた
間ずっと︑神のことと永遠のことしか考えませんでした︒そこにこの寺院の偉大さがある︒そしてそこには︑芸
術の持つ力のすべてが存在する︒それは︑感覚にはあらわれえないもの︑想像力には現前しないもの︑模倣され
たり︑言いあらわされたりしえないものをわれわれに感得させてくれる︒模倣は抱束である︒芸術の天才はそれ
を欲しはしない︒あらゆる模倣は熱狂︵①口けゴO=ω居酒ωヨ①︶を排除してしまうが︑熱狂のないところに天才は存在
しない︒ さていまわれわれにとって︑すでに提起しておいた問いに答えることは︑さして困難ではないであろう︒美の
諸配合の中で︑同一のものとして残り︑変化することなく︑時間や習俗から独立している部分とは何か? そし
て︑習俗︑慣例︑しきたりのように︑変化する部分とは何か? 言いかえれば︑絶対美︵一Φ げΦ90偉 曽げωO一二︶を形
成するものは何か? それを相対美から分けるものは何かということである︒そしてこの問いは︑われわれが︑
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抽象的観念と一般的観念の課題としてすでに検討した問いに帰着するのである︒実のところ相対美は︑変化の本
性に固有の︑変容につられて変わりがちな類似の上に基礎を置く分類に対応しているのに対して︑絶対美は︑芸
術のそれぞれの領野において真の統一を形成し︑その感覚上の外観は不断に変化しているときでも︑同一のもの
として残っているところの︑これらの同一的形態︵ho﹃ヨ①ω筍窪二ρ⊆oω︶に密着しているのである︒
諸芸術における美は︑道徳美と同じく︑常に多様の統一︵一︾口昌一けひ くpユ円一①Φ︶の中に成立する︒徳が美しいのは︑
唯一の目的である善︑すなわち︑各個人がそれぞれ不可分の一部分としてそれを形成しているところの︑種族の
完全性と幸福を目指している︑行為と感情の秩序と調和の中に︑それが成立しているからである︒悪徳が醜悪で
あるのは︑そこには秩序がなく︑調和がないからである︒
芸術においてよき趣味︵一〇 び◎昌 σqOOけ︶ と呼ばれるのは︑変化の多様の中に常に統↓を求め︑ただそれによっ
てしか満足できない秩序と調和についての︑このような感情にほかならない︒われわれが︑ただもっぱら事物の
細部についての感覚の多様さや︑感覚に映ずる外観に結びついた楽しみのとりこになって︑この統一を見失うと
きは︑常に︑そこには趣味の欠如と堕落が生ずるのである︒たとえば︑ゴシック建築がそれで︑そこでは︑美︑
すなわち全体の偉大さが︑外面的な装飾の多様さの犠牲に供せられている︒また︑正確さと素描の真実さが︑彩
色の豊かさと華麗さの犠牲となっているような絵画もそれに該当する︒あるいは︑精神に向かうのではなく︑た
だ聴覚を驚かせたり満足させることを求めるだけの音楽作品もそれである︒︵即即 b●麟Hーホ蔭︶
或る事物が感覚に気にいったからといって︑その事物が真実に美しいということにはならない︒感覚に気にい
るものとは︑ほとんどたいていの場合︑感覚の受動的習慣か︑もしくは偶発的で︑環境︑時間︑場所︑あるいは
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メPヌ ド・ビランの美学(一)
その人の生きている社会とかに左右されるもろもろの観念の︑塗る種の連合︵9ωωOO一曽け一〇昌ω︶に合致するもので
ある︒美に関してなされる変わりやすい判断が問題となる場合には︑これらの連合や習慣が考慮されねばなら
ない︒中国人は︑身体の他の部分と均衡を失したことさらに小さな足に満足するという習慣を持っているが︑そ
れは︑彼らが︑美の観念や感情をそのことに結びつけているからではなく︑こうした均衡を失した足に煽情的な
心象を結びつけるという︑ほとんど習慣にまで変化した︑もっと初歩的な何らかの連合のゆえである︒このよう
に︑何らかの個人的情念を満足させる対象は︑いかなる手段を介しても︑美の感覚には触れることなく︑いくつ
かの観念の連合によって満足をあたえることができるのである︒
これとは反対に︑真に美しい対象は︑決してこのようにはあらわれない︒なぜならそれは︑想像力の中で︑何
らかの苦痛をはらんだ︵幕訴訟︒︶観念︑もしくは感情に結びついているからである︒われわれの知性と感覚の
本性にしたがうならば︑たとい様相の気まぐれや︑習慣の変化があったにしても︑常にそれがあるところのもの
としてとどまっている美の諸法則が実在するという見解とは相いれない︑このような想像力と感受性の異常さか
らは︑いかなる結論も導き出すことはできないであろう︒
外的な感覚や想像力は︑ともに︑本質的で真実の美を裁く判事では決してない︒それらはただ︑それ自身でこ
こちよい印象の多様性にしか結びついておらず︑そこに形成される配合も︑或る程度現実の対象の模倣からは離
れるにしても︑結局は︑法則を持たない恣意的配合を形成することになるのである︒︵団.勺・ O心α頓一幽窃①︶
反省と深い考察とが︑偉大な芸術家を︑本質的で真実の美の源泉に導くのであって︑ただそのような美だけが
賞讃を受ける権利を持ち︑あらゆる知性人の普遍的な尊敬に価するものである︒芸術家は︑それらを感覚の領域
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の外側︑すなわち︑それぞれの部分の間の固定した不変の関係︑もしくは比率の中に︑一つの恒常的な統一とと
もに見出す︒彼の思考は︑或る数的関係に︑その思考がしたがう輪郭の多様の中では︑或る唯Fの線に︑そして
同じ美の類型に属するすべての対象の中では︑繰る唯一の形に結びつくのである︒芸術家が︑色︑形︑あるいは
感覚に訴える記号のすべての配合によって︑現実の中で自分の思考を個性化するのは︑抽象の中にこの形を把握
し︑よく規定してから後である︒しかしこの配合︑この個性的心象こそが︑感覚的で限りのある美の彼方に︑感
覚だけではとうてい把握することのできない︑いっそう真実で︑いっそう恒常的な美をみずからのものとするの
である︒ 幾何学者の悟性が︑空間から完全な円と︑すべての規則的曲線の概念を引出すごとく︑観念的美︵σ$葺ひ
二ひ巴①︶のこの典型によって︑たとえぽベルヴェデーレのアポロンのような傑作を創造する天才芸術家は︑一塊
の大理石の中に︑あらゆる変曲点︵bO一昌けω O︾一口h一〇図一〇口︶の中から一定不変で完全に唯一のこの線を実現するの
であるが︑この線はそれ自身の中に︑自然の描く曲線が幾何学的円に等しくならないように︑最も美しい人間の
形姿もとうてい達しえないような︑神的像のあらゆる完全性を実現し︑取り込むのである︒︵周●℃︒ 弓・心㎝①一蔭α刈︶
精神が美の観念をつくりあげるのは︑このように︑自然的に離れ離れになっている諸部分の配合︑あるいはそ
の集大成によってでは絶対にない︒天才はその力の中に︑反省によってかちえられた所与を持ち︑感情の熱気に
よってみずからに霊感をあたえ︑この美の観念を一気に感得する︒すべてはそこでは結び合い︑相互的につくら
れ︑同一の基本的統一にかかわり合う︒あたかも︑各部分のおのおのが他のすべてを予想している大宇宙の組織
の中にあるように︑そこでは︑より先に︑あるいはより後で形成されたということは考えられず︑思考と創造的
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メーヌ ド●ビランの美学(一)
意志の中から︑いっさいの継起の観念が排除されるのである︒
宇宙の組織はわれわれに︑美と完全性の範型をよく示してくれる︒しかし︑その組織がすぐれて美しいのは︑
極度に錯綜した諸部分の中から素描の統一を︑そして︑運動の無限の多様の中から力の統一を見出すことのでき
る︑知性ある存在にとってのみである︒︵扇.勺・ O.蔭帆﹃一画㎝QQ︶
一つの配合︑すなわち︑時聞や場所や受動的慣習にしたがって︑それが形成される要因としての諸要素のよう
にたえず変化するところの︑︸種の集合的︑人為的統一の上に基礎づけられる感覚美に対して︑あらゆる感覚の
印象や︑個別化に役立っているあらゆる感覚的記号から抽象された︑一つの真実の統一の上に基礎づけられる絶
対的知性美︵び①O信 一昌一〇一一ΦO蒔二①一 麟σωO一口︶が存在する︒
この真実の統一とは観念による統一で︑芸術における天才のあらゆる概念の支点︑もしくは集合点としてはた
らくものである︒感動︵ひbPOけ一〇昌ω︶とか情念︵O霧訟8ω︶とかは︑感覚と同じく変化し︑しばしば感覚によって
規制される感覚的配合に結びついている︒これに対して︑最も純粋で最も高められた精神の感情は︑真実で︑恒
常な05ω6旨︒①︶と固定︵h冒詳ひ︶という性質に密着する美の観念に結びついているのである︒︵国・即 づ﹄紹︶
﹃心理学基礎論﹄より﹁感情について﹂
新しく独自のものは﹁驚異︵偉8器ヨ①ロ一︶﹂を生ぜしめ︑予期せぬものは﹁驚愕︵ω震冒一ω①︶﹂を︑そして偉
大なもの︑美しいものは﹁賞讃︵①αヨ一旨9Ω一一〇口︶﹂を生ぜしめると︑スミスは天文学の歴史に関する断片の中で語
っている︒︵︾.qD巳夢.︑国ω聾ω喜ぎω8三ρ器ω︑.四二●pお鼻︶この類義語反覆︵醸昌︒二日冨︶は︑多分︑きわ
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めて正確であるとは言えないにせよ︑少なくとも︑ひとがしばしば︑感覚から生じる印象の直接の効果と混同し
てしまったところの︑これらの感情の微妙な調子を明示するには適わしいものである︒︵男型 P&N︶
思うに︑驚愕は﹁感動︵Φヨ︒二︒昌︶﹂であって﹁情緒︵ωΦ昌ニヨΦ馨︶﹂ではない︒というのは︑驚愕は比較以前
のものであり︑比較とは別のものであるからである︒私を驚かせ︑夢から引戻す突然の物音とか︑私の目に突然
きらめく流星とか︑生まれてはじめて目にするまったく新しく異常な対象は︑私がその現象の原因を自分で検討
する以前に︑私に驚愕の感動をあたえる︒もしこの最初の感動が︑配る点までその新鮮さを保っているならば︑
それは心配や恐怖を生まれさせ︑想像をひきおこし︑幻のような確信を予示させ︑最後には︑われわれの注意や
比較の能動的作用とは異質の︑感覚的秩序の現象のすべてを現出せしめるであろう︒︵男・℃・や&卜︒1まω︶
自然を包みこもうとする傾向を持つ観念の連合の領野に︑予知不能の現象を持ちこまなくなったとき︑はじめ
て知性的存在のみが驚異することがでぎるのである︒そして︑精神の能動性と︑はたらぎはじめた認識から生じ
たこの情緒が︑今度は︑とりわけ物理学の世界で︑認識の胚子を豊富にし発展させるのである︒無知な人間は︑
彼の感覚を生まれてはじめて打つものすべてに驚愕する︒彼はそこに︑奇蹟をしか見ない︒驚異することができ
るためには︑そこにあらかじめ多くの観念が獲得されていなければならない︒自然の歩みの中における明らかな
変異は︑ときとして驚異を生ぜしめるが︑それは︑人間の精神を動かし︑隠されているみずからの力の秘密を目
覚めさせ︑完成に向かって開かれている無限の生涯に彼を押し進め︑最後に︑宇宙を支配する諸法則を彼の知性
に服従させるのである︒
デカルトは︑驚異を賞讃の過度の状態の一つと考えた︒︵∪Φω8二①ω..いΦω冨ω巴8ω9篤8Φ︑−b︒Φ冨三︒.認︶
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メーヌ・ド・ビランの美学(一)
しかし私は︑これら二つの感情は同じ種類のものではないと信じる︒賞讃の感情は︑自然︑もしくは芸術におけ
る偉大と崇高︵ω二σ属ヨ①︶の感情にほかならず︑それはまた︑驚愕をこえるものであるが︑驚異の感情が︑われ
われの日常の習慣的認識から外れた︑そしてわれわれがどうしてもそれに結びつくことのでぎない新しい対象か
らのみ生じる点では︑賞讃の感情は驚異のそれとも異るのである︒反対にわれわれは︑探究をより深めればそれ
だけ︑それ自身において偉大で美しいものをよりょく認識し︑いっそう賞讃の念にかられるのである︒ ︵岡.
P臨ω−ら①軽︶
賞讃は知的本性にしか属しえない︒偉大なもの︑すなわちわれわれが認識しうるこの美しい自然や︑さらに︑
われわれが常に︑いかにしても理解しえないこの観念的無限を賞讃しうるためには︑それについての多くの思惟
が不可欠である︒︵国・℃・ ℃●蔭①ら︶
このように︑最も抽象的な観念と︑知性がそれら諸観念の間に認める新しい関係についての考察が︑精神の中
に︑美と賞讃の感情を誕生させることができるのである︒︵閏・即 ︐ら①α︶
感受性は︑本質的には制限されたものである︒これに対して︑意志あるいは道徳的自由は無限の力であって︑
こうむる障害に比例して増大しうる︒よく言われてきたように︑意志が欲望の中には存在しないように︑能動性
︵8ニユ芯︶は絶対に選択︵蜜雄蕊︒昌︒Φ︶の中には存在しない︒われわれは︑比較をしたのちにしか選ばないので
ある︒かくして︑能動性の存在するのは比較の中においてであり︑選り好みはそれの結果にほかならない︒感覚
的人間は︑必然的に最も良いもの︵一Φヨ①崔Φ霞︶を選ぶ︒しかし最も良いものは︑それを探し求める努力をし︑
進んでそこにみずからの思考をとめる活動的人間によるほどには︑認知も判断もされえない︒不注意︵ぎ9︒昏Φ甲
訂
9昌︶と精神の軽率さ︵示σq曾︒芯O①一.oω嘆δとが︑多分不道徳の第一の原因であろう︒重大な罪を形成する社
会的感情の欠如は︑ひとびとが考えているよりはずっと稀なのである︒
道徳的自由は︑身体の感受性によって高められる情念と︑情緒9Φ二尊ヨ①三︶との間に位置づけられるが︑そ
の情緒は︑それを生み出しうる観念の上に定着した意志の力によって活気づけられるのである︒この対立する二
つの力の一方を無くしてみたまえ︒そうすると︑もはやそこには自由は存在しない︒なぜなら︑そうなれば︑も
はやそこにはただ一つの部分︑ただ一つの衝動︑ただ一つの決定しか存在しないからである︒選択の感情によっ
て義務の法則に従う人は幸福である︒この法則に背く者は︑これを選ぶこともでぎたであろうにと感じる︒彼は
不幸である︒それは道徳的法則の制裁である︒︵団.℃・ ︐心O刈一幽①O︶
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いささか長い引用になってしまったが︑以上によって︑メーヌ・ド・ビランの美についての見解のあらましは把
握できるであろう︒許された紙数も尽きたので︑これらの論述に見られるビラソの美的見解の詳細な検討は次回に
譲るとして︑ここではその論旨の要点をいくつか列挙しておこう︒
H﹁ロックが道徳的存在と呼んだものを︑記号の統一のもとに表現する観念の配合︵一①ω OOdPげ控Pゆ一のO質ω α︾一目ひΦω︶
は︑⁝⁝すぐれて美の名に価する諸芸術に関連する別種の配合と︑きわめて顕著な類比性を持つ﹂︵﹈円・ ℃● 弓・争心U︶
と語っているように︑ビラソは︑道徳と美を形成する二種類の配合は︑ ﹁同じ一つの精神の能動的機能﹂に発する
ものであると考えている︒
口その根底に﹁絶対的な﹂何かが存在する点では共通してはいるが︑道徳的感情と美的感情の間には︑微妙な差
メーヌ・ド・ビランの美学(一)
異がある︒しかし︑いずれにしてもそれらは︑感覚の受動的いとなみからは独立している︒﹁感官をここちよく刺戟
する形で︑⁝⁝われわれの感受性を直接にはたらかせるさまざまな印象は︑美の観念や︑美の感情との間に︑いさ
さかの共通点も持ってはいない︒﹂︵閃勺. b.蔭下刈︶美の感情は︑単純な受動としての感覚だけからは出てこない︒
それには︑知覚・判断・比較といった︑われわれの﹁能動的機能︵︷国〇二一一① ⇔Oけ一く①︶﹂の参加が必要である︒このよ
うに︑快の感情と美の感情とは本質的に異るものである︒
日美的感情には一種の美的適合性︵OOづく①昌潜昌OΦ︶が必要であるが︑このような︑美的統一を形成するさまざま
な知覚的要素による相互的適合性︵OO口くO周忌口OΦ ﹃OO一℃同Oρ⊆①︶の原理は不明である︒快.不快︑美.醜の感情は︑
﹁われわれの身体構造の諸原理や︑知覚能力と対象との自然的関係によるものであって︑われわれはそれを︑経験
と反省によって確かめることがでぎるだけで︑先験的に説明することは不可能である︒﹂︵周・即 や.愈㊤︶
囚偉大な芸術がわれわれを感動させるのは︑模倣による美によってではなく︑表現による美によってである︒模
倣には︑常に限界の観念がつきまとうが︑偉大な芸術は︑われわれを無限の中に導き入れ︑無限の感情をわれわれ
の視野にあたえてくれる︒模倣は抱束であって︑天才はそれを欲しない︒そして︑あらゆる模倣は熱狂︵①昌昏︒信︐
。・yωヨ①︶を排除してしまうが︑熱狂のないところに天才は存在しない︒
国よぎ趣味と呼ばれるものは︑常に変化の中に統一を求める︒感覚のとりこになって統一を見失うとき︑趣味は
欠如し堕落する︒何らかの個人的感情を満足させるだけの対象は︑真に美しいものとは言えない︒真に美しいもの
は︑想像力の中で︑何らかの﹁苦痛をはらんだ︵審尋三〇︶﹂観念もしくは感情に結びついている︒
因芸術家を真実の美の源泉に導くのは︑反省と深い考察である︒芸術家は︑色とか形とか︑感覚に訴えるそれぞ
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れ固有の記号の配合によって︑現実の中で自分の思考を個性化するのであるが︑それは︑抽象によって形象を把握
し︑さらに充分な規定を経た上で実現される︒
固あらゆる感覚的記号から抽象された︑真の統一の上に基礎づけられる︑絶対的知性美︵δびΦ碧ぎ8一一〇〇ε色
餌σω巳信︶.こそ︑芸術における天才のあらゆる概念の支点としてはたらくものである︒
囚賞讃︵曽αヨ蹄9︒鉱︒旨︶の感情は︑自然あるいは芸術における偉大と崇高の感情にほかならず︑それは驚愕︵︒・霞・
冒冴Φ︶とも驚異︵ひけO口昌①言O避け︶とも異るもので︑われわれは︑探究をより深めればそれだけ︑それ自身において
偉大で美しいものをよりょく認識し︑いっそう賞讃の念にかられるのである︒
囲意志︑すなわち道徳的自由は無限の力である︒意志が︑単なる欲望の中には存在しないように︑真の能動性
は︑選択︵實鐙瓦︒口8︶の中には存在しない︒われわれは︑比較をしたのちに選ぶ︒能動性の存在するのは比較の
中であって︑選択はそれの結果にすぎない︒
︵未 完︶
文中引用文の略記号
Z曾﹀・ Zoロ︿①⊆×o器臨︒∩集﹀昌夢δ℃o一〇ぴQ凶ρ一〇お●
明・℃・ 国器巴望目冨ω︷o目畠︒ヨ①馨ωユ︒訂嵩矯︒げ06讐ρ↑08●
40