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ボゴミール派とキリスト教

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ボゴミール派とキリスト教

霜 田 美 樹 雄

ま え が き

 ボゴミール派日げ①じdoαq︒邑一︒ωは一〇世紀の中頃からバルカン半島︑特にブルガリアを中心として小アジア一体に

広まったキリスト教の一派で︑その教義bd︒σqoヨ三ωヨは善悪二元論に立脚し︑また既存の教会が煩雑な儀式と難解

な神学を弄ぶことに反対し︑主として精神的にキリストを信ずる︑一種のキリスト改革運動の先駆でもあった︒これ

は一三︑四世紀イスラムに滅されるまで前記地域に広汎な影響を及ぼしたぽかりか︑この分派は以後西方教会に伝播

し︑北イタリア︑フランスにおけるカタリ派︵O訂富ユ器≧三σq①まφω︶の全盛を招き︑キリスト教の主流たる三位一体

派に脅威を与え︑いわゆるアルビジョア十字軍︵第一次・=八一年︑第二次・=一〇九一一四年︑第三次・一二暮六−二

九年︶でやっと武力鎮圧するを得たほどである︒

 このように中世社会とその精神・思想界に大きな影響を与えたボゴミール派がどんな情況を発生し︑展開したかを

検討して見たい︒

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第一次ブルガリア王朝

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  1 原ブルガリア人

 バルカン半島へのブルガリア人切巳σq舞ωの進出と七世紀末定着までの経過はあいまいさに包まれている︒彼等は

さいしょ黒海の北のステップ地帯で生活した古典的アルメニア起源の部族で︑五世紀から六世紀にかけてフン人と混      ︵1︶交し︑のち既に定着していたスラブ人とアバール人と混血したといわれる︒彼らに先立つフン人やアバール人のよう

に︑またあとにつづくマジャール人やトルコ人のようにブルガリア人はモンゴルとかタタールのように知られた起源

の東アジア諸民族である︒これらの人々の傾向はアジアからヨーロッパへ西漸することであり︑それは四世紀から一

四世紀まで驚くべき大量の民族が不規則な間隔で来冠した︒距離は遠く苦しい旅であったかもしれない︒越︑兄ねばな

らぬロシアのステップ地帯は平坦の草地でやさしかった︒彼等はしぼしば長期に滞留して︑ときにはロシア以上に移

らなかった︒かくて︑ひとときブルガリア人はヴォルガ河畔に大量に定着︑五世紀にぱここで大ブルガリア︑白ブル

ガリアとして知られる重要な社会を樹立した︒だがその地帯の生活はブルガリア人の発展にとってあまりにも限られ

ているの冤多数の人々がそこをはなれ南西霧粗しはじめた︒六世紀彼らは黒海北部地域に定着し︑黒ブルガリア

といわれる植民地を持った︒そしてその後また同じ理由でダニューブ南方へ移動した︒

 これとは別に︑五︑六世紀︑バルカン半島にスラブ人は到来していた︒カルパチヤの北︑ガリシヤやポーランドの

本拠から彼らは南方︑南東方に移動した︒その前世紀︑多分ダニューブの北︑ダキアにいたのがユスティヌス一世

甘ω菖コ島H︵溢侍摯︒︒〜総刈︶帝治世のとき渡河した︒彼らは指導者とか中央権力を持つものでなくルーズな部族の集団

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ボゴミール派とキリスト教

であった︒ただ東スラブ人だけは比較的小さな冒険退く鷲きαq猷コたちによって集団的統一をされ︑のちにキエフ国      ︵3︶家︵・シア︶をつくるのである︒

 ところで︑個々の民族の移動とは別に︑バルカン半島にブルガリアといま︑いわれる地域について︑歴史的に見る

ことによって︑前記叙述をまとめれば︑先史時代︑つまり紀元前七・八世紀にはこの地域は未開のトラキア人によっ      ︵4︶て先住されていたのだがローマ人が帝国初期にバルカン地方を征服した︒四世紀から五世紀にかけて︑西ゴート︵三

七六一四〇二︶︑フン人︵四四一−四四六︶︑東ゴート︵四七六−四八九︶などがしばしばこの地域に侵攻したが︑五世紀

から六世紀にかけて︵南︶スラブ人が侵入し︑この地域に北ブルガリア部族連合︑北ギリシャ部族連合をうちたて

た︒六世紀末から七世紀にかけて︑前記ブルガリア人が侵入したのである︒そのころ彼等は大ブルガリア人部族連合

を形成した︒この連合はクープラット汗囚7静閑︒口耳葺を指導者として急成長し︑その息子アスパラフ汗囚7§       ︵5︶﹀紹胃︒爵︵餅欝①︒︒目〜刈8︶に至ってきわまった︒

 ビザンチン領土の内部にブルガリア治外法権が事実上形成されそれは六八一年アスパラフ汗によりビザンチン側と

締結された平和で既定事実として承認された︒これが第一次王朝の成立事情である︒それ以後約二世紀のあいだブル

ガリア領の実質的拡大の結果は︑そこに多くのスラブ人を含むことになった︒彼等はビザンチン帝国民であったの

だ︒これは文化的に高いスラブ人の原ブルガリア人への吸収︑融合︑逆に文化的にはブルガリア人のスラブ化を加速

   ︵6︶したのだ︒

  2 キリスト教の導入       25︑二王朝政権力はその後ますます強化されたが︑そのなかで注目すべきはポリス一世bdo﹁寒帰︵譜欝︒︒認〜︒︒︒︒o︶の治世 1

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      ︵7︶であり︑それはブルガリアをキリスト教に決定的に改宗したことである︒

 キリスト教の布教自体については既に五世紀バルカン半島の原住民に運動が試みられたし︑前記スラブ人︑原ブル

ガリア人の六︑七世紀の流入に当っても滲透に努力したし︑また第一次王朝成立後の内的発展とビザンチンとの関係      ︵8︶も戦争捕虜の交換︑ギリシャ語の使用など文化的︑宗教的流布については便宜したのだ︒しかし次から次へと流民は

自然にその発展が充分なものとはいかなかった︒そこで八六五年ポリス王の改宗が歴史的意義を持つことになる︒彼

の改宗はその姉の影響も大きかった︒姉は人質としてコンスタンティノープルに多年を過し︑ビザンチンとキリスト       ︵9︶教の影響をうけていたからだ︒

 キリスト教会はこの時点でまだ名目的には一つであったが︑実質的にはローマ教会とコンスタンティノープル教会

が鋭く対立し︑精神的影響面における闘いは布教地域︑地盤の争奪など激烈であった︒

 たとえば︑八六三年モラビア公ラティスラフ蚕簿邑置くは東ローマ皇帝ミカエル三世ζざ﹃p2目H︵甫爵認卜︒〜︒︒爵︶

に対しキリスト教導入につき援助を求め︑これに応えてキリルO鴇陣一とメトディウスζΦチ︒岳口ωを派遣したのであ

る︒彼等はテサロニカのギリシャ人であり︑スラブ語に堪能でもあったので︑福音書をスラブ語に翻訳して伝道に当

った︒これが教会スラブ語といわれるもので︑今目︑ロシア︑ブルガリア︑ユーゴスラビアその他スラブ系国語の母

語となったのである︒二人のその地域の伝道は当時のローマ教会にも好意的に扱われたが︑八六九年キリルが︑八八

五年メトドィウスが没するにおよび︑反転し︑たまたまマジャールの侵入もあり︑八九三年スラブ系教会はセルビア         ︵︶王国とともに破壊され︑以後ローマ教会の聖域となる︒

 ところでブルガリアについていえば︑キリルとメトディウスは八六三年に多分︑同国の北を通ったがそこには滞留

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ボゴミール派とキリスト教

しなかっただろう︒だが彼等の多くの弟子たちがコンスタンティノープルの指示でモラビアから派遣され︑八八六年       ︵/1︶ブルガリアに定着し伝導した︒それはポリス王自身の回心後︑彼が大衆を回心させることの困難を知ったからだ︒回

心に反抗する多くの貴族しdo饗話たちは古い慣習︑信仰を放棄することに不満で︑ビザンチンの影響がキリスト教を       ︵12︶通じてこの国をおおうことを心配した︒そこで反乱の様相を示したが︑大王の手で抑えられ︑残酷に鎮定された︒

 なお当時の行政組織を略示すれぽ︑大王囚訂昌の下に皇太子内§β︒円ユ町コと第二王子じdo一説円母冨コが補佐し︑

これら支配者側近として首相ゆ呂p︒−囚き穿き︑内務大臣H魯興σQop−じd︒詩その他の軍事的行政高官およびこの国の支

配階級を構成する大地主Uご︒ヨと中小地主しd鋤σq画餅から選出された︒統治権行使の諮問機関としての貴族会議O︒9=        ︵13︶o︷切︒饗おからなる︒ポリス大王はこのように当時の支配者側近の反対を押しきってキリスト教を布教せんとした意

図は何か︒一つにはポリス自身精神的渇望に燃えていたことは疑いないが︑他方︑コンスタンティノープルバシリウ      ︵14︶ス一世切餌︒ま湯同︵甫欝G︒①①〜︒︒︒︒刈︶が教会に由来する権威と威信にけっきょく感動させられた︑とする説あり︑それ

によると︑彼は聖職儀典の壮厳さに魅せられ︑彼を王位に叙任するところの彼に奉仕する聖職位階制を持つことを欲

した︒ギリシャ人︵コンスタンティノープル︶がこれに応えなかったので︑彼はローマ教会に目を転じた︒ ローマ法王

ニコラス一世Z凶魯9器目はこれに応えて二司教を派遣し︑聖職による王位叙任を自身で行なえるまで︑同国内の聖

職行事を管掌することになり︑ギリシャ的儀典に変え︑ローマの影響下においた︒だが独立教会保持を望むポリスは      ︵15︶八六七年彼らをローマに追い返した︒そしてふたたびビザンチソと関係を更新し︑この問題につき八六九年一〇月五

日からコンスタンティノープル・フォティウス℃ず︒凶器総主教の司祭のもとに聖職者会議がローマ使節も参加のう

え開かれた︒コンスタンティノープルとローマとの深い疎隔をあらわす長い審議ののち︑同会議は八七〇年三月極

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      ︵16︶日︑分離管区の設置すなわちブルガリア教会が東方教会内の自治的塾主教導転たること承認された︒

 メトディウスの弟子でモラビアのガラズ○鋤和島が府主教に任命された︒︸彼の死後その兄弟々子のクレメント

ΩΦ8Φ導が継いだ︒彼等は多くの修道院︑教会を建て︑ブルガリアに文化の灯をともし︑その精神的香気を普及す

るに貢献した︒スラブ文字は︑正しくは︑前記教会スラブ語をもとにして彼がスラブ語を完成し︑キリルを記念して       ︵71︶キリル文字と命名されたものである︒ポリスがローマにつくか︑コンスタンティノープルにつくかの選択は後者につ      ︵18︶くことによってその文化がバルカン全体をおおうこととなったのは当然なことである︒

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二 東西ブルガリア

  一 シメオン

 ボリスはキリスト教国家の強固な基礎を築いたが︑彼はこれだけで満足したわけでなく注意深く前途をはかった︒

彼は第一王子から皇太子の地位を剥奪することに躊躇しなかった︒彼は第二王子シメオンω団ヨ①8︵堅餅︒︒oω〜ゆト︒刈︶

をこれにあえて代えた︒シメオンは子供時代をコンスタンティノープルで過し︑そこで勉強し︑ギリシャ文化の崇拝

老となった︒そして終生コンスタγティノーブルの栄光を心に留めていたが︑反面ブルガリアをバルカンの強国に

し︑ビザンチンをうち砕く野望の外的発展も着々実行に移した︒もっとも彼の治世の中期︵Oo逡〜りお︶の平和の二〇      ︵19︶年間︑ブルガリアの内的発展は顕著であった︒行政は組織化され︑商業は繁栄し︑農業は振興した︒これはビザンチ

ソに敵対して︑シメオンによって行われた重なる戦争によって︑交易の平更コンスタンティノープルにおけるブルガ      ︵20︶リア商人が確保される市場の大きさに依存したのだ︒彼はプレスロウ℃器︒・一碧を首都にしたが︑その発掘は当時の建

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ボゴミール派とキリスト麟

築家︑芸術家の偉大をも示してくれた︒だがシメオンの時代はけっきょく文学の発展と結びついている︒彼の時代が

ブルガリア文学の黄金時代といわれるのは偶然でない︒そのサークルにプレスロウの主として聖職者階層に形成され

た︒シメオン自身そこのもっとも精力的︑才能あるメンバーの一人であった︒一般に文化に関心の増大を示す多くの

翻訳とならんで︑ブルガリア詩など注目すべきオリジナルな業績であり・彼等の増大する自己評価を示してい翻四

 教会組織についていえぽ︑それは国家の中央政治安定性︑民族的宗教的精神的一体性︑人々と国土の文化的繁栄に

貢献した︒教会の地位はブルガリアの増大する威信と一致せねばならなかった︒王国と総主教制は密接な関係がなけ

れぽならぬ︒この考え方に基づきブルガリア教会は九一九年聖職者会議で独立を宣言しそれを総主教制に格上げし

︵22︶た︒一〇世紀半ぽいくらかの政治的軍事的発展につれて総主教坐は首都のプレスμンからドロストルUo﹁o︒︒け⊆ソフ      ︵23︶イアωoゆ四ヴォーデン<o山①昌ミュグレン﹈≦ロσQδ昌オーリッド○同量に移った︒

  2 ぺーテルとシィシュマン

 非常に変化した道徳的基礎を形成したブルガリアの国民性はかくて九世紀末から一〇世紀初めにかけて明確化し

た︒それは原ブルガリア人とスラブ人の実体的合体・融合が完成したことだ︒この決定的誘因はキリスト教の採用と

スラブ文字の導入であった︒トラキア人︑原ブルガリア人︑スラブ人の残存部分はブルガリア国民性がそれを基礎に

形成された主要な構成部分の各々を占めたし︑ブルガリア人の言語︑文化︑芸術︑政治の発展に寄与し煽鯉かくてポ

リスからシメオンにかけてブルガリアの内外に威信をとどろかし︑発展をとげた国力はだが次第にかげがさしてく

る︒シメオソが九二七年に死すとその息子ぺーテル勺簿興︵甫欝 O邸刈〜O①㊤︶が継ぐが︑彼は平和と安寧を愛する人で

あった︒彼はビザンチンの姫と結婚した︒彼の治世はだからギリシャ的影響を深くうけた︒首都プレスロウは小コン

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       ︵25︶スタンティノーブルといわれた︒だが︑この時期政治的経済的に封建的貴族階層の多くはぺーテルに不満で︑自らの

独立に向って強い傾斜を表明し︑中央権力に敵対する謀議集団を形成し︑国家の内的不安定を指向した︒また新しい

部族集団が東方からきて︑ダニューブを越えて漸次ブルガリアの領土に定着しはじめた︒西ではビザンチンの援助       ︵26︶で︑九三一年カスラーO鐘碧指導のもとセルビア人がブルガリアの従属から解放されんとしていた︒

 九六三年シィシュマンω三ωB白雲指揮の強烈な反乱は全ブルガリアを揺り動かした︒彼はペーテルの支配からソ      ︵27︶フィアとヴィデンを含む西ブルガリアとマケドニアを引き去り︑彼自身ツアー目ω胃を宣した︒しかしこの貸主はま

もなく国民から見離された︒この前後からブルガリアは東西に分裂した︒だが既にその前年東ブルガリアは事実上ビ

ザンチンの一地方になりつつあり︑ペーテル以下イワン・ウラジスラフH︿き≦p︒島巴p︿︵酎欝HO嵩〜H霞︒︒︶まで第一

次王朝のこり五代の支配者たちはこの西ブルガリアによって︑支配をつづけ︑それは民族生活の中心︑民族的願望の

     ︵28︶焦点となった︒

 この分離動揺の虚をつき︑自己の宣教地盤の拡大を狙ったのはローマ教会で︑少し以前になるがぺーテル即位のと

き︑ブルガリア国と総主教制を認め︑ローマ使節により戴冠式をした︒これはビザンチンに好意的に見られなかっ

た︒後者は外人支配者に許される最高称号としての公費筈︒Pざ冨Nに代えて皇帝び⇔巴①ロω称号をぺーテルに認め

たのは前者との駈けひきで九四五年になってからであった︒かくてぺーテルの治世は国の内外にわたって不運であっ

︵29︶た︒

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(9)

一ニ

{ゴミール

ボゴミール派とキリスト教

  1 反体制派

 このように多年にわたる内外の政治的危機に大衆の不満の吐け口はボゴミールじdoαq︒旨崇︒︒日の流布となった︒キ

リスト教がポリスによって導入されてから約半世紀︑未だそれほど根づいているともいえないし︑なによりもそれが       ︵30︶支配者側近の支配イデオロギーとしてのものであり︑ましてや支配者集団を形成するはずの貴族bd毛母︒︒の多くの反

対を押し切って採用されたことにも問題がある︒だからこれらを含めた広汎な大衆が上からのキリスト教︵三位一体

派︶の影響をうけながらも彼等自身の社会的宗教的道徳的体系を形成しようとすることは自然であろう︒ボゴミール       ︵31︶派が支配階級とその教会に敵対して指向された宗教的形態としての社会運動の一種であった︒

 ボゴミール派はそもそもこれもキリスト教︵三位一体派︶から見れば異端のパウリキウス派の影響をうけたもので

ある︒それは開祖者サモサタのパウロス勺p巳︒・︒に由来する二元論雨止マニ教ともいうべきもので︑九世紀初期から

中期にかけてビザンチン帝国内で猛威をふるい︑弾圧にてこずつたものである︒

 順序が逆になるが新マニ教とはマニ教に理論実践面で関連するものであ.る︒これは古代ペルシヤのゾロアスタi教

を母体として発生し︑発展するにつれてキリスト教と仏教の諸要素がつけ加えられたもので︑開祖者マニ9き♂

ζ§βζ二三筈器湯︵8・鱒一軌〜b︒♂yはバビロニアの生れ︒光を善とし暗黒を悪とする自然的二元論をとり︑当時の人

々に大いに迎えられた︒これが四世紀初めローマ帝国に入り︑多数の支持を得たためキリスト教カトリック︵三位一

体派︶は同世紀末禁教令を出したほどであ・つた︒初代キリスト教会の教父でローマ・カトリック︵三位一体派︶最大の

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神学者聖アウグスティヌスω弩︒εω﹀舞Φぎω﹀ロσQ話け一場ω︵ω課〜隠ωO︶も若いとき︵ω謹〜ω︒︒ω︶はマニ教の熱心な信者       瀧であったことは有名である︒

 なおゾロアスタ主教から派生しローマおよびヨーロッパに影響を与えた宗教としてはミトラ教があるが︑これは二

世紀初めから四世紀にかけてローマ帝国全域をおおい︑その発生︑発展時期は初代キリスト教とオーバーラップし︑

かつ非常に強力なライバルであった︒コンスタンティヌス帝Oo口ω5暮冒器H︵今戸ω巨〜ωω刈︶をはじめ多くのローマ

皇帝はこの不敗の太陽神の敬度な信者であったため︑原始キリスト教弾圧を招いたことは人も知る︒こうして中近

東︑オリエントの諸宗教がしぼしばローマ︑ヨーロッパに影響を与えることになるが︑いまマニ教ブルガリア︑ボゴ

ミール派についてだけ考えれば︑この注目すべき教義はジュレミア・ボゴミール一臼①ヨ一髪切○伽qo単一により一〇世

紀はじめバルカン半島に布教された︒彼についてははっきりしていないがマケドニア9ルガリア︶の古都フィリッ

ポポリス℃冥①署80一︷ω︵いまの℃8﹃岳く︶を活動の中心としていたという︒その主要な形相は消極的無抵抗的性格で︑       ︵32︶その結果彼等に対してむやみに暴力を行使することが困難であったという︒

  2︑善悪二元論

 いま︑ボゴミール派が信じた善悪二元論の教義とは大要次のとおり︒まず神ΩoαはサタナエルQっ簿三二2とイエ

ス寄ω岳またはロゴスピ︒σqoωという二人の息子をもっていた︒

 さいしょの子サタナエルは霊的存在において至高かつ神たる父の普遍的代理者だった︒だがその品位にまどわされ

て︑彼のあとに多数の天使を従えて彼自身の帝国をうち立てようとしたので︑天国から追い払われた︒だが神は創造

的力能を剥奪しなかったので︑彼は新しい天国と地上世界を作った︒サタニエルはまた人間を作ったが肉体だけしか

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ボゴミール派とキリスト教

できないので︑父なる神はそれに魂名剛葺を与えた︒神は人間のなかに息づいている︒見守っている︒だがサタニ      ︵33︶エルは人間のかぐわしい運命をねたみ︑くやしんだ︒彼はイブを誘惑した︒そして人間に罪をつくり堕落させた︒こ

のような悪業をしてサタニエルが父なる神に反逆したとき︑善なる神︑第二の息子イエスが次のように登場する︒神

の子と呼ばれる聖ロゴス︑大天使ミカエルとして来たり︑サタニエルによる罪の帝国をひつくり返す︒彼はサタニエ

ルを投げとばすが︑後者は前者に肉体的苦痛の死をもたらす︒そこで前者が天上にのぼり復活再臨したとき︑サタニ      ︵鈎︶エルは敗退を知り︑悪魔︵サタン︶となって地獄におちた︑と信じている︒

 この善玉︑悪玉の二元対立と勧善懲悪キリスト論自体主流たる三位一体論との対比で特異なる存在であるが︑何と

いったもきわだっているのは神の位格である︒

 ボゴミール派は父︑子︑聖霊の三つは前述の如く父より出ずるとする︒子と聖霊がその働きをなすとき父に帰一す      ︵訪︶るのである︒神は人格をもって現われるが肉体的有体ではない︒神は具なる父と︑聖霊により生れた神の子は同質に

して三つの位格︵ペルソナ︶を持つ︑とする主流派理論と大いにことなるところである︒ついでながら︑ボゴミール      ︵36︶派は神を具象的に画くとき父を古老︑子を青年︑聖霊を若者としている︒前述の教えから︑当然のことながらボゴ.ミ

ール派は詩篇と予定書を除いた旧約聖書を拒否し︑新約聖書はうけ入れる︒ただし︑既成教会の教会法や儀典を拒否      ︵37︶し︑聖母ケリア︑諸聖人︑十字架像その他あらゆる偶像礼拝を拒否する︒

  3 大衆の抵抗運動

 したがって︑既成教会の権威もそれを保護する国家のそれも認めず︑人は聖職者の媒介なくして神に近づくことが

できると信じた︒そして彼等は支配階層の腐敗と暴力沙汰にきびしい批難を提起した︒だからカトリックを信ずる主

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ボゴミール派とキリスト教

11〜12世紀ボゴミール派分布図

・・

D麹饗拶響饗

ビザンチン領北限

黒 海

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コンスタンチノープル

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※斜線内ポリス2世Borls H(在位969〜971)治世時のブルガリア・・ボゴミール地区        およびその他のビザンチン.領にも多し。

  出所・Bol schaya Sovetskaya Entsiklopediya,

      Tre. izd. Tom.3. Moskva,1970. str.448.

      但し他書の記述を参考にし,.若干補正す。

人の命にも従わず︑彼らのためにも働かずと

その支持者に教えることで社会的抑圧に敵対      ︵詔︶する消極的反抗を説いた︒このような宗教運

動は権力者側のあらゆる迫害にも拘らず急速

に広布して︑ブルガリア人の多くの人々︑い

や半島のほとんどすべてのスラブ人のなかに

ゆきわたったことについて︑疑いもなく一部

は政治的理由によって説明できる︒正教会の

階序制は国の支配者層を支持し︑同時にそれ

自身増加していた権威をかれらに与えていた

が︑スラブに対しては性が合わなかった︒ボ

ゴミール派はこのようなバルカン・スラブ層

に魅力を与え︑その民族的色彩に大きな力を

引き出した︒彼等はつねに支配者の統治と直

結した教会に宗教上耐えられなかった︒しか

し世俗的支配権力も聖職者権威もこの問題を      ︵39︶処理することは出来なかった︒ところで一〇

134

(13)

ボゴミール派と音リスト教

世紀ボゴミール派発生時点のブルガリアの内外の政情に少しふれれば︑

 まずビザンチソ帝国はホーカズZゆ鉱毒︒8ω℃ゴ︒犀p︒N皇帝のもとコンスタンティノープル権力の再興があった︒彼

はササーン朝ペルシヤからサイプラスとクレタを取り︑ビザンチン繁栄時に戴冠し︑戦争にあけくれる生活を送っ

た︒バルカン半島にも優越を主張して︑九六六年ブルガリアに対し貢租をすることを拒否し︑ついで戦いを挑んだ︒

この企てを成功させるため彼はキエフ公スエトスラフω<岩8ωド︿のもとロシア人との協同を確保した︒その母オリ

ガは九五七年コンスタンティノープルを訪れ︑洗礼をうけたし︑またドニエプルと黒海によるロシアとコンスタンテ

ィノープルの商業交通は好ましい状態だった︒九六七年スエトスラフは船で一万人の軍隊を送り数日で北ブルガリア

      ︵40︶をふみつぶした︒

 九七二年βシアに敵対のキャンペーンを行ったとの口実のもとにビザンチン・ツミスセス日︒ぎ↓臨邑ω︒臼皇帝は

首都プレスロウを占拠しボリス猛獣じ﹂︒﹃凶の目は捕えられた︒東ブルガリアの占領地域はビザンチン領と宣せられた

が︑独立闘争は西半分でつづけられた︒指導者サミュエルω鋤ヨ︒ロ出︵餅欝8H〜一〇εは行政の中心と総主教坐をオー

リッドOゲ靴直に移転しバシリウスニ蓋しU鋤ω旨器具との戦いのたて直しをはかったが︑ 一〇一四年はブルガリアに      ︵41︶とって三〇年におよぶ戦いの悲劇的終焉であった︒ベラツシツアじdΦ蕾降ω⇔山の峠でビザンチンに徹底的に潰滅させ

られたブルガリアは︑一〇一六年首都オーリッドを占拠された︒一〇一八年戦いは完全にコンスタンティノープルの      ︵42︶勝利に帰し︑王家の残党は優雅な捕囚の待遇で皇帝に従属した︒ブルガリア全土はビザンチン支配下に入り︑多数の

駐屯兵が駐留し︑ビザンチン行政の抑圧が重くのしかかった︒宗教面でブルガリア総主教坐は格下げされてコンスタ

ンティノープル総主教坐の管轄下の陰圧リッドの大主教制となった︒政治的経済抑圧とならんで追求された抑圧政策

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       ︵娼︶はビザンチン同化政策であった︒      36      1 前述の如く︑ブルガリア支配層はビザンチソの巧言令色に臣従したか︑ブルガリアの国民性︑独立性を比較的保持

したのは非支配玉に多かった︒この階級はブルガリア支配層に対しても抵抗したことは宗教的にはボゴミール派の広

布で知られる︒ビザンチン支配の同化政策でもボゴミール派はその焦点となった︒

  4 抵抗運動のエートス

 この派の反ビザソチン的性格のゆえに当時の指導者であるヴァシリウスしd餌ω窪葛という医者はさいしょの殉教者

となった︒ビザンチンアッキシス≧︒×貯ωOo8ヨ⑦昌器皇帝はニコラスZ8げ︒貯ω総主教と協議のうえ︑ ︼︸﹂ 年

彼をコンスタンティノープルの宮廷に招き回心することを求めた︒それまで四〇年間ボゴミール派の指導をしてきた

彼は自己の信仰告白を取消さなかったので︑前者はそれを異端と断罪し︑=一九年後者を火刑に処したほか︑他の

多くの信者をさがし出して糾問した︒ある者は処罰の脅しで︑ある者は報奨の約束で信仰をひるがえしたが︑またあ       ︵44︶る者は思想堅固にして永く獄に苦しんだ︒

 このようにビザンチン支配下においてもボゴミール派は消えることはなかった︒また︑一〇九六年十字軍がバルカ

ン通過をしたとき彼らローマ教会派はコンスタンティノープル教会派を徹底的に破壊したが︑このときの混乱とコン

スタンティノープルの重圧の両方の結果として︑ボゴミール派の活動がブルガリア愛国心の表現︑人々の避難所とし

    ︵45︶て復活したことも注目さるべきだろう︒

 なお︑ボゴミール派はビザンチン支配の二世紀のあいだばかりか︑一一八五年秋ブルガリア貴族しdo饗冨アーセン

一世﹀のω窪一︵高月欝 一HQQ①〜目零㊤①︶とべーテル勺簿臼︵甫欝一H8〜H一鶏︶がタルノーポ目舞昌︒︿o市でブルガリアの自由の

(15)

ため︑熱狂的群集にかこまれて蜂起の宣言をし︑一一八六年かつての権力を再興していらい︑このブルガリア第二次

王朝が=二七一年オスマン・トルコの侵略をうけ︑一三七三年タルノボの決定的敗戦で同第二次王朝が壊滅するまで

存続したのである︒もっとも残存地域で余喘をたもっていたので第二次王朝の歴史的終末はイワンスラジ︑︑︑ル一くき

ω冨鼓ヨニ︵甫蒔H︒︒8〜お8︶である︒

 このように数世紀生きのびたこの派は実際にはどこでも同じく社会の変化に対応してこまかい教義︑儀典などに変

化は生ずるのである︒その中でもこの派に強い影響を与えた人はクリソメラスOo器3ロユロ①07曙ωoヨ︒ξ︒・で︑その

著作は一一四〇年コンスタンティノープル宗務院ω旨︒αで異端とされた︒また一一四三年令宗務院は二人のカッパ

ドキアの主教を小アジアにこの教えを広めた︑として免職した︒ 一二三〇年ごろでさえビザンチン・ゲルマヌス

O①§きロ︒・総主教は信者が私宅にあがって説得し︑多数の人をボゴミール派に回心させることに成功し︑コンスタン       ︵46︶ティノーブルで広汎な活動が展開されていると不平をこぼしたほどであるから︑旧ブルガリア地区ではほとんどすべ

てその地盤をもち︑自然的に組織的な信者の教会Ooヨヨ§凶蔓を形成していたことはおそらく疑いない︒

ボゴミール派とキリスト教

 ボゴミール派は中世初期の中近東・バルカンに大きな歴史的足跡を残した社会運動︑宗教活動であるにも拘らず︑

資料の洒滅が多く︑その実体は依然としてなぞに包まれている︒

 今後︑これに関する碑文︑遺跡その他資料のさらなる出土があればもっと精しい実像が照明されるであろうし︑そ       僻のときまで断定は控えたいが︑いままで知られた初歩的資料により︑世界史のうごきのなかで︑ボゴ︑・・ール派が果し

(16)

た位置づけを推定してみたい︒

 まず第一に発生年代は一〇世紀はじめであり︑いうまでもなく︑八五六年ポリス大王によってキリスト教が国教化

された以後のことである︒ポリス王は支配者貴族層の反対を押切って国教化を強制したが︑結果からいえば大地主貴

族しd︒鴇屋を頂点とする初期封建体制のイデオロギー的基盤を強化するに役立った︒ところがボゴミール派運動はそ

れによる大衆教化の洗礼をうけた被支配層の反封建運動として展開されるところに特色がある︒そしてその発生は第

一次ブルガリア王朝の衰退期に見合っているが︑その後二世紀のビザンツ支配および第二次ブルガリア王朝終焉まで

存続したことは︑その運動の中核をなす活動者層は少くとも大土地所有の支配玉に対立する直接農業生産者層rボ

ゴミール運動の信仰者はこの階層にも多かったとしても一ではなかったのではないか︒何となれば前記各世代の支

配層が迫害を重ねても根強く生残ったことは︑社会的経済的利益志向の巨視的同︷性の見地からも農業生産協同体の

メンバーが積極的に参加したとは考えにくい︒

 ではこの宗教社会運動の中核者は誰であろうか︒考えられるのは初期封建支配層が弾圧迫害を加えても効果の薄

い︑あるいはその支配圏の事実上の圏外に生活し︑支配層にとっても社会的経済的に有形無形に寄与できるような生

活面層︑したがって農業生活協同体とちがった価値体系を求めんとするものではなかったか︒つまり︑初期商業︑交

易︑運輸︑金融業およびそれに関連する生読者層がイニシアティブをとったのではないかと考えられるのである︒ボ

ゴミール派の流布過程が中近東︑小アジア︑バルカンおよびその後編イタリア︑南フランス︑スペインと焦ったこと

を思うとき︑それは奇妙にも古代・中世初期諸都市間の海路および陸路交通交易路に当っているし︑また当時文化的

経済的に高度な地域から未発達地域への産業西漸に符合する︒ボゴミール派運動は当時の文化的経済的・発展の事実

138

(17)

ボゴミール派とキリスト教

的担い手たちのイニシアティブによる社会︑宗教運動ではなかったか︑との推測が成立する︑もし︑そうであったと

しても︑オスマン・トルコの進撃が世界史の発展を一時ストップさせ︑ないし方向転換せしめたことになるが︑いず

れにしてもこれらの研究はさらに後日を期したい︒

   注

  ︵−︶﹈Zφ︿一一一国O同びΦo◎﹀﹃づ9山 目O矯昌びOP U.﹈≦圃窪P昌ざ U.○.口OσQ⇔詳貫 臼瀞馬 bJ畠寒亀謡物一自 霞凡動ミ登 ミし層袋N吋R蔦鼻 硫偽︑辱軌3

  0ミミ食沁ミミ§賞↓ミ隷遷−一〇一樹O義︒昼7℃◆G︒卜︒.︵2︶一景α.即卜︒幽.なお︑ヴォルガ河沿岸に定着していたからブルガリ

  ア人だとの説がある一方では︑ブルガリア人が定着している河だからヴォルガ河だとの両説あり︑はっきりしない︒︵3︶塗匹

  ℃﹂︒︒■︵4︶Zぎ巨↓巳︒周︒︿冒︾象ミ藁§ミ︒︑b︒ミ讐試勘b︒貯コ︒周写︒︒●︵5とげ旦℃二P︵6と甕こ℃.一心.

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  bロミ鷺§b︒貯Lミ9娼.︒︒︵9︶閃︒筈︒︒︒▼︒℃.︒団e℃.卜︒︒︒■︵10と臣こ7卜︒り︵11︶給鼻︒℃︒ぞやト︒o.︵12︶↓︒匹︒Hメ

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 卜︒卜σ︒ ︵33︶ホゴミールとはブルガリア語で︑神の愛ぴ①ざく①自ohOo㊦とも神の友h甑①巳︒︒ohOo島とも

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      けOコP 卜︒噂℃嚢︒ユoou困り①O・ 唱●目O①曜  ︵83︶日O島O﹁Oメ O℃・O謬こ 唱.b⊃P  ︵39︶

ω軌. ︵40︶一げ凱;℃.心O. ︵41︶↓O匙O同︒〜o唱.o一件こやト◎卜⊇. ︵42︶岡︒﹃げΦロDoで.o凶併こ℃¶ωP  ︵43︶↓o匹︒属︒<

44︶℃o≦一︒パρoワ︒一け.︾戸刈︒︒軌.なおニキチンはボゴミールが一〇世紀にブルガリアに発し︑一一1↓二年

置  三世紀セルビア・ボスニアに伝った︑と西漸傾向を指摘している︒ω冒﹀●Z曲一三Pbご︒σq︒ヨ一一一︒・8くP

139

(18)

B・z 5・ん昭α5・u6護∫肋ツαEπ 5 ψθ4加,

Powicke, op, cit., p.785.

Tre. lzd. Tom.3. Moskva,1970, Str.448、 (ゆ寸)Forbes, op. cit, p.40, (等)

O=

参照

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