「ミカ ド」 と 「ゲ イ シ ャ」
‑ シ ュニ ッツ ラ ー の観 た オペ レッ タ ー
小 澤 幸 夫シュニ ッツラーにとって 日本は遠 い国であった。 シュニ ッツラー 自身は一度 も 日本‑来た ことがない。彼の作品で も日本は脇役 を演 じてい るに過 ぎず、せいぜ い当時の ジャポニズムの影響 の一端 と して、 「日本の扇子
」
(「輪舞」1896/97 午) あるいは 「日本の衣装」
(「ギ リシャの踊 り子」1902年)等が見 られ る程度 である。これに対 し彼の 日記では40以上の箇所で 日本に言及 している。最初の うちは ヨー ロッパ人が 日本的 な もの と思 っていた もの、 さらに言 うな ら、勝手 にそ う思い込 んでいた ものが登場 して くる。 シュニ ッツラーの 日記の 日本に関す る最初の記載 は 「日本の皇子 の物語」であるが、 この皇子 は 「中国の皇子」であったか もしれ ない。当時は 日本 と中国を区別で きる人はほ とんどいなかったか らである。 また そ うす る必要 もなか った。重要 なのは極東 のエキ ゾチ ックな雰囲気だったのであ る。 イギ リスのオペ レッタ 「ミカ ド」や 「ゲイシャ」で も事情 は同 じである。だ が このオペ レッタは シュニ ッツラーのお気 に入 りだ ったとみえて、何度 も公演を 訪れてい る。本稿 ではシュニ ッツラーの 日記 の うち1800年代の終 わ りに出て くる この三つ、 「日本の皇子の物語」、 「ミカ ド」、 「ゲイシャ」 について少 し詳 しく 述べたい。
1. 「日本の皇子 の物語」
1879年4月27日付 けの 日記 に次の よ うな箇所 が見 られ る。
"Erinnerung an ein ungefahr72 geschriebnesStuck,dasdie Geschichteeinesjapanesischen Prinzen behandelt."1) (「72年頃に書 い た 日本の皇子 の物語 を扱 った作品の思い出」)
これ が 日本 に関す るシ ュニ ッツ ラーの 日記 の最初 の記述 で あ る。 ここで は
"japanisch"ではな く"japanesisch"とい う語が使 われているのが 目につ くが、
これは当時の綴 り方 に従 った もので あ り、 "Chinesisch"か らの叛椎 と考 え られ
113(1)
る。実際彼の 自伝 「ウィー ソの青春」 の中の1875年 までに書 いた作 品 をあげてい る箇所で、 4景か らな る 「中国の皇子」 とい う作 品が出て くるが、 「日本 の皇子 の物語」 とい うのはない。 2)この 「中国の皇子」 とい う作 品が先 に述 べた 「日本 の皇子 の物語」 を扱 った作品であ る可能性 もあ るわけであ る。
モー ツ7ル トの 「魔笛」 のテキス トを書 いた シカネー ダーは タ ミー ノを きらび やかな 日本の狩衣で登場 させてい るが (Taminokommtineinem prachtigen
javonischenJagdkleide)3)、別 には っ き りと 日本 に対す るイ メー ジを持 って 描いていた とは考 え られない。 シュニ ッツラーの場 合 も同 じよ うな事情 だ った と 思われ る。 いわば極東 のエキ ゾチ ックな雰囲気 が欲 しか っただけなのではないだ ろ うか。 なお参考 までに申 しそ えておけば1863年 か らスイスの シュヴィー ツ州で
"Japanesenspiel" と呼ばれ る謝 肉祭劇 が行 なわれてい るが、その内容 はほ とん ど実際の 日本 とは関係 がない 。 4)
1873年 に ウィー ソで万国博覧会 が催 され ると、 ジャポニズムが上流市民階級 の 流行 にな り、社交界 の人 々が次 か ら次‑ と 日本 をテーマに したパーテ ィーや舞踏 会 を催 した。例 えば1891年 には商業経営者 た ちの団体 が催 した舞踏会 で、記念品 と して 日本庭 園 と鶴 を措 いた小 さな犀 風 が配 られ、1894年 に "Donaustadt"
(ドーナウの街) とい う男性合唱団が、プラー ク‑の第2カフェーで行 なったカー ニバルの舞踏会の案内状 には 「日本の、 またはそ うい った頬 の衣装 を身 につけて 来 るよ うお願 い致 します。 男性 の皆 さんは受 付 で 日本 で使 わ れ て い る被 り物 (Kopftxtdeckung)をお買い下 さい。」 5)と書 いて あ った。 この被 り物 とはおそ ら く 「丁馨」 をかた どった輩 だ った と思われ る。丁馨 は西洋 の人 々に奇妙 な印象 を与 えた よ うで、ペ リーが来航 した時、船上 か ら望遠鏡で初 めて 日本 を見て、 日 本人は皆頭 の上 に鉄砲 をのせてい ると驚いた とい う笑 い話 が残 って い る。
1884年 か ら95年 にかけての 日清戦争 に際 して、 シューベル トブ ソ トは1895年 の カーニバルを 「日中平和祭」 (Japanisch‑chinesischesFriedensfest)と名付 け た。
「日本人 はまことに歌 を愛 してい るか ら、ひ ょっとす ると勇敢 な合唱団が役 に 立て るか もしれない。 この同 じ時 に ミカ ドが電話 で、 ウイ‑ ソの シューベル トブ ソ トが 7‑ ドル フ ・キル ヒルの新作 の合唱 曲 『担 え銃 』 (DieWaffen hoch) を歌 うのを聴 いている。す ると ミカ ドは刀をガチ ャガチ ャさせてお尋ねにな る。
(2)112
『歌 の褒 美 に何 が欲 しいの じゃ。』 (中略) 『シューベル トブ ソ トは平和 を願 っ てお ります。』 ミカ ドは大 きな声 で お答 えにな る。 『 (中略) よろ しい。 だが素 晴 らしい カーニバルの夜 とのみ引換 え じゃぞ。 それがで きるのは シューベル トブ
ソ トだけ じゃ。 カーニバルの王子 を朕 の代理人 と致そ う。
』」 6 )
「ミカ ド」 とい う語 が当時すで にポピュラーで あった ことが ここか らも窺 える。
こ ういった類 の催 し物で最大の ものの一つは1901年5月18日か ら20日までプラ一 メ‑で催 された 「日本 の桜祭 り
」
(J
apanischesKirschbluthenfest)であ った。「ノイエ ・フライエ ・プ レッサ」紙 は これ について次の よ うに報 じてい る。 「色 と りど りの きらめ く生活 が可愛 らしいパ ヴィ リヨソの周 りの どのテ ソ トで も繰 り 広 げ られてい る。 まるで 日本 にあ る魔法 の都市 に行 ったかの よ うだ。協会 の御婦 人方 は愛敬 を振 りまき、せ っせ と働 いてい る。皆 日本の服 を着て魅力的に見 える。
私 たちの国の御婦人方や娘 さんたちは外国の衣装 にあっとい う間 に慣 れ、たい‑
ん自由自在に動いている。 まるで嚢 のある長い着物がず っと前か ら流行 になっていた かの よ うで ある。 日本 の髪形 もほとんどの人の顔 に しっ くりと似合 ってい る
。
」 7)主催者 の メ ッテルニ ッヒ侯爵夫人以外 に もモ ソテ ヌオー ヴォ侯爵、 シュヴァル ツェソベル ク侯爵、 キ ソスキー侯爵、 ア ウア‑スペル ク侯爵 などの名門貴族や高 級士官、数 多 くの上流階級 の市民 が集 った。 この3日間で15万人 の人 々が このお 祭 りを訪 れたそ うだが、何 よ りもこの数字 が盛況 ぶ りを物語 ってい るといえよう。
「ノイエ ・フライエ ・プ レッセ」紙 は次 の よ うな コメソ トを してい る。 「この 祭典 の成功 を過大評価す る気 はないが、 これ は この種 の催 しでは ここ数十年来で 最 も素晴 ら しく、最 も成功 した もの といえ るで あろ う。」 8)
この祭 りの翌年 にシュニ ッツラーが書 いた 「ギ リシャの踊 り子」 の中には次 の よ うな場面 が出て くる。 「お笑 いだが、招待客 たちは皆 日本 か中国の衣装 を身 に ま とって来 なけれ ば な らなか った
」
(alleGeladenen lacherlicherweisein japanischen oderchinesischen Kostumen erscheinen muβten)9)この箇所 では "japanesisch"で はな く "japanisch"とい う語形 が使 われてい る。 日本 の ことが知 られ るよ うにな るにつれ、だんだん と形容詞 の形 も変化 して きてい るの が ここか らも分 か る。さて 日記 の記述 に話 を戻 そ う。 も しもこの作 品が本 当に1872年 に書 かれていた とす るな らばその時 シュニ ッツラーはわず か10歳 だ った ことにな る。 この時すで
111(3)
に 日本‑の関心 、 あ るいは少 な くと も 日本 に対 す る漠 然 と した イ メー ジを もって いた とす るな ら驚 くべ きことで あ る。 それだ けになお、彼 が この作 品 について さ らに詳 しく述 べて お らず 、作 品 も残 ってい ないのが惜 しまれ る。
2.「ミカ ド」
日記 には繰 り返 し 「ミカ ド」 が登 場 す る。最 初 は1887年6月21日、 それ か ら 1888年3月8日、 同年6月19日そ して1895年9月16日で あ る。
「ミカ ドも し くは テ ィテ ィプーの町」 は アー サー ・サ リヴ7ソ (ArthurSul‑ livan)作 曲、W ・S・ジルバー ト(W .S.Gitx!rt)作詞 に よるオペ レッタで1885 年 に ロソ ドソで初演 された。 この作 品 が2年後 ウ イ‑ ソで上演 された時 には、 も
うすでに世界 中で9000回 もの上演 が行 なわれていた。 「ノイエ ・フライエ ・プ レッ セ」紙 の次 の よ うに報 じて い る。
「来週 の火曜 日にカール劇場 で ドイ リー ・カー ト・イギ リス ・オペ ラ ・カ ソバ ニーによって上演 され る 『ミカ ド』 は この茶番 オペ ラの8954回 目の上演 にあた る。
演劇史上 この よ うな成功 はい まだかつて無 か った。 ロソ ドソにあ る ドラマテ ィ ッ ク ・オ‑サーズ ・ユニオ ソの統計係 エ ドワー ズ氏 は、慎重 に情報 を集 めて い るが、
それ に よると、 この20年間 に 『ミカ ド』 が達成 した よ うな上演 回数 は、他 の どん な作品 も成 し遂げえなか った とい うことであ る。 2番 目に多 いのが ジュール ・ヴェ ル ヌの 『80日間世界一周』 の5630回で、バイ ロソの喜劇 『我 々の若者達』 の5344 回、 サ リヴァソの美的 な茶番 オ ペ ラ 『忍耐』 (Patience)の5160回、ヨ‑ソ ・シュ
トラウスの 『こ うも り』 の3844回 、オ ッフェソバ ックの 『地 獄 の オルフェ』 の3194 回が これ に続 いてい る
。
」 10)これ を見 ただけで もこの成功 がいかに大 きか ったかが分 か るで あ ろ う。
この作 品の梗概 は次の よ うな もので あ る。ll)
第1幕。 コ コ (Ko‑Ko)の宮 殿 の豪 華 な 中庭 。 ミカ ドの息 子 ナ ソキ ‑ プー (Nanki‑Poo)が放浪楽士 に変装 して恋人 ヤ ムヤ ム (Yum‑Yum)を捜 しにや っ て くる。宮 中の女官 カテ ィー シ ャ (Katisha)と結婚 す る よ う強制 されたので、
父の宮廷 か ら逃 れて きたので あ る。 ナ ソキ‑ プ‑は、 ヤムヤ ム と婚約 して いたヤ ムヤ ムの後見人 の ココが、死刑判決 を うけた と聞 いて いたのだ が、恩赦 を うけて テ ィテ ィプーの首切 り役人 の長官 にな ってい るの を知 る。 ココは ミカ ドの制定 し
(4)110
た道徳 に関す る新 たな法律 に背 く者 を皆処刑 しなければな らないのだが、今の と ころ未だ一人 も死刑 に していないので、そ ろそ ろ誰 かを処刑 しな くてはな らない。
そ うしない と職 を失 うことにな るか らであ る。 ナ ソキ‑プーが恋 の悩みで 自殺 し よ うと してい るのを聞 いた ココは ナ ソキ‑プ一に一月間彼の金でた らふ く飲み食 い し、その後で処刑 しよ うと持 ちかけ る。 ナ ソキ‑プ‑はその間はヤムヤムと結 婚す るとい う望 み も叶 え られたので、 これを受 け入れ る。
第2幕. ココの家 の庭。 ナソキ‑プ‑ とヤムヤムの結婚式 に思 いがけず ミカ ド がカテ ィー シャを伴 って現 われ る。 ミカ ドが命令 が守 られてい るかを確 かめに来 たのだ と思 い込 んだ ココは、すでに一人処刑 した と嘘 をついて ごまかす。 ところ が ミカ ドはそのために来 たのではな く、 カテ ィー シャか ら息子 が ここにい ると聞 き、居所 を尋ねに来 たので あった. ナ ソキ‑プーが皇子 だ と知 らず に書類上で死 刑 に して しまった ココには返事がで きない。 ナソキ‑プーは ココに、 カテ ィ‑ シャ は結婚相手 が欲 しいのだか ら、 カテ ィー シャと結婚 して命 を助 けて もらうよ う額 め と入れ知恵 し、 ココは この忠告 に従 う。 こ うして ナ ソキ‑ プーは姿 を現す こと がで きるよ うにな り、 ミカ ドにヤムヤムを花嫁 と して紹介す る。
題材 を見れば分 か るとお り、 この作 品はほ とん ど 日本 と関係 がない。 ジルバー トの意 図は、イギ リスの官僚制 を風刺す る劇 を書 くことで あった。検閲を考 える と異国 を、この場合 は 日本 を舞台 にすることはとても上手 いや り方 だったのある。12) タイ トル ・ロールを除 けば他 の登場人物 の名 は 日本風ではな く中国風 あ るいは ロ シア風で あ る。 おそ ら くここで も日本 と中国を取 り違 えたのか、 日本 と中国を区 別で きなか ったのであ ろ う。 ジルバー トは練習の際、 日本 の芸人 たちに正 しい 日 本風の歩 き方、座 り方、扇子の使 い方などを教 えて貰 ってい る くらいであるか ら、
彼 らに 日本人の名前や 日常生活 について尋ね る機会 はい くらで もあったはずであ る。 「こ うしたチ ャソスを ジルバー トをは じめ この ジャソルのオペ レッタの台本 作家 たちが誰 も利用 しなか った とい うことは、 この よ うな ことが彼 らの関心事で はなか った とい うことをそれだけは っき り示 してい る」 とい うパ ブ リチ ェ ックの 指摘 は正 しい もの といえ るであろ う。13)
1887年5月10日の上演 の批評 を読む とMr.Imano(戸oo‑Bah)とい う日本人 と思 われ る名 が出て くる。 この他MissIdaBemister(Yum‑Yum)とい うボヘ ミア・
ドイ ツ風 の名 も見 られ、劇 団が国際的 なメソバーをそろえていたことが窺 える。14)
109(5)
「ミカ ド」 は当時 の ジ ャポニズ ムの流行 に乗 って ウィー ソで も大成功 を収 めた。
公演 の後 す ぐに 「新 テ ィテ ィプーの ミカ ド
」
(DerMikado Yon Neu‑Titipu) とい うパ ロデ ィー が生 まれ 、 さ らに また パ ロデ ィーの パ ロデ ィー 「ミツェカ ドも し くは ピテ ィ トゥ〜の一 日」
(DerMizekado oderein Tag in Pititu)が作 ら れた。15'さ らに宮 内庁御 用達 G.Singerの会社 "Au Mikado"が 出来 た。 これ はオー ス トリア‑‑ ソガ リー帝 国最 大 の輸 入代理 店 で 、 中国 や イ ソ ドな どの品 々 を扱 って お り、 日本 の着物 や装飾 品 な ど も買 うことが 出来 た。 ウ ィ‑ ソに住 んで いない顧客 のためにはイ ラス ト入 りの カ タログもあ り、 「サ ダヤ ッコ」 (16クロー ネ)、「ゲ イ シャ」
(20‑38クロー ネ)、「ナガサキ」
(70クロー ネ)、「ト‑ キ ョー」(70‑90クロー ネ) な どの着物 の名前 が見 られ る。16' (図参照)
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さて作 品の話 に戻 ろ う。 イギ リスの劇 団の成功 に引 き続 き、翌年3月 には ドイ ツ語版 に よる公演 がア ソ ・デア ・ウィーソ劇場で行 なわれた。昨年 の英語版 の上 演 を観 た シュニ ッツラーは また今回 も出かけてい く。彼 は この他1888年6月19日 に ロソ ドソのサ ヴォイ劇場 で、 また1895年9月16日にはア ソ ・デア ・ウィ‑ ソ劇 場で この作品を観 ている。最後の上演 に関 してはその 日の 日記の中で 「ドレーアー (Dreher)の ココが下手 だ」 17)と書 いて い る。 この評価 は正 しい よ うで 「ノイ エ ・フライエ ・プ レッサ」紙や 「ノイエス ・ヴィーナ一 ・ジュルナール」紙 の批 評 で も ドレ‑アーの演 じた ココの評価 は低 い。18)
この作 品は よほ どシュニ ッツラーの気 に入 ったのであろ う。彼は恋人のオルガ・
ヴァイ スニ クス とその妹 と一緒 に (1887年5月12日)、後 にや は り当時恋人 だ っ たマ リー ・ライ ソ‑ソ トと (1895年9月16日)公演 に出かけてい る。
「ミカ ド」 は現在 で も傑作 と評価 されてい るよ うで、 リブ レッ トやCDも出て お り、 日本 の音楽大学 で も授業 の一環 と して上演 されてい る。1993年 の夏 には低 オー ス トリア州 にあ る ラクセ ソベル ク (Laxemberg)の宮殿 の劇場 で も公演 が 行 なわれた。
3.「ゲ イシ ャ」
1897年5月26日と同年10月27日の 日記 に 「ゲイシャ」 とい う文字 が見 られ る。
これは シ ドニー ・ジ ョー ソズの音楽 にオー ウェソ ・ホール と‑ リー ・グ リーソバ ソクが台本を書 いたオペ レッタで1896年 にロソ ドソで初演 された。 シュニ ッツラー も最初 は ロソ ドソで、 2回 目は ウィー ソの カール劇場で観 てい る。 この作品は世 紀末 に大成功 を収 めたオペ レッタの一 つで、 ロソ ドソで760回、ベル リソでは8 年足 らず の間 に1000回 も上演 された。 19)
この作 品は長崎 を舞台 に してお り、次の よ うな内容であ る。20)
第 1幕。茶屋 の前。 中国人 の ウソ‑ ヒー (Wun‑Hi)は茶屋 (Teehaus)を経 営 してい る。彼 は甘 い声 で皆 を魅 了す る美人芸者 のオー‑ ミモザ‑サソ (0 Mi‑ mosaSam)と契約 で きて喜 んで い る。 も し契約解消 とい うことになれば大変 だ
が、警視総督のイマ リは ど うして も彼女 と結婚 したい と望 んでい る。 けれ ども彼 女 はイマ リよ りも気前のいいイギ リスの海軍将校 たちがお気 に入 りの よ うであ る。
107(7)
フェアフ ァクス (Fairfax)少尉 は仲 間 に この茶屋 の ことを夢 中 にな って話 し、
ミモザにまた会 えるのを楽 しみに してい る。彼女 は少尉 に芸者 とい う職業柄要求 され る細 かな気配 りを見せ るが、彼女の心 は実 は 日本の少尉 カタナの もとにあ る。
フェアファクスが ミモザ と楽 しく過 ご してい ると、そ こに突然 レデ ィー ・ウィ ソ (LadyWynne)が現 われ、彼 に婚約者 モ リー ・シーモア (MollySeamore) の ことを思い出 させ る。 フェアファクスに とって さらに腹 が立 つ ことに、イマ リ まで登場 して くる. ミモザがイギ リス将校 と一緒 にい るのを見 たイマ リは、 ウソ
‑ ヒ一に二人 を即刻別れ させない と茶屋 を閉店 させ、芸者 を皆競 りにかけ ると脅 す。 このオー クシ ョソでイマ リは ミモザを身請 け しよ うと 目論 んで いるのであ る。
ところがイマ リの思 い通 りには行 かない。 それ とい うの も茶屋 で通訳 を してい る 魅力的 な フラソス女性 ジュ リエ ッ ト(Juliette)がイマ リの寵愛 を得 よ うと して、
レデ ィー ・ウィソに ミモザを競 り落 とす よ う勧 めたか らであ る。 そ こにモ 1)‑ ・ シーモアが現われ る。彼女 は フェアフ ァクスか らいつ もと変 わ らぬ歓迎 を受 け る が、彼 と小柄 な 日本人女性 との関係 を見て心 を痛 め る。 けれ ども ミモザ と話 をす る うちに茶屋の戯れがいかに罪 の無 い ものであ るか説 明を受 け、 も しよければ芸 者 の格好 を して二三時間茶屋 にいれば、 自分 の 目では っき り確 かめ られ るとさえ 言 われ る。 そ うこ うしてい る うちに競 りが始 まるが、 レデ ィー ・ウィソは ミモザ をイマ リの企みか ら救 うことに成功す る。 ジュ リエ ッ トは ライバルがいな くな り 喜 んでい る。 ところがイマ 7)は事 もあろ うに変装 したモ リーを芸者 と間違 えて身 請 け しよ うと決心す るのである。 ミモザは泣 く泣 くカ タナ と別れ レデ ィー ・ウィ
ソに連れ られて行 くのだ った。
第2幕。 イマ リの御殿。 イマ リは身請 け した 「ゲイ シャ」 と結婚 しよ うと考 え てい る。 モ リーは よ うや く自分 の冒険 が どんな結果 を招 いたかに気付 く。菊祭 り に招待 された フェアファクスと レデ ィー ・ウィソはモ リーが どんな状況 に置 かれ てい るかを聞 く。御殿の中に囚われてい る人 を自由の身にす るのは土地 の事 を知 っ てい る者でない とで きないので、彼 らは ジュ リエ ッ トとウ ソ‑ ヒ一に援助 を要請 す る。 ミモザ も協 力を申 し出 る。益女 の姿 を した ミモザは不吉 な予言 を して イマ リを驚 か し、 まん まと花嫁 の部屋 にはい りこむ。 こ うして ミモザは ウソ‑ ヒI把 用意 させた洋服 をモ リーに着せ、 ジュ リエ ッ トが代 わ りに花嫁衣装 に身 を包む。
イマ リは編 された ことに気付 くが、美 しい フラソス女性 にまん ざらで もない。逃
(8)106
亡は成功 し、 フェアファクスはモ リーを しっか りと抱 き締め る。 ミモザは レディー・
ウィソに 自由の身 に して もらい、 これか らは彼女 を心 か ら愛 して るカ タナだけの ものにな る。
「ミカ ド」 と比 べ ると、 ここでは作者 たちは 日本 について もっとよ く情報 を得 てい るよ うで あ る。 主役 (O MimosaSam)を除 けば登場 人物 の名 は本来人名 ではないにせ よ一応 日本語 にはな ってい るO 「イマ リ」 は九州の伊万里 か らとっ た もので あろ う。 ここか ら有 田で作 られた磁器 が輸 出 され、 ヨー ロ ッパでは 「イ マ リ磁器」 (Imari‑Porzellan)の名で知 られて い る。 「カ タナ」 は刀で あ り、
日本 の軍人 の名 にふ さわ しい もの と言 えよ う。
主人公 の名 は しか し日本人 の耳 には ど うもおか しく響 く。外国人 の使 う日本語 では名詞 の前 な ら何 で も "○"をつけ ることがあるが、 ここも 「お茶
」
「お米」「お金」 などか らの頬推 だ と思 われ る。 あ るいは感嘆詞 の 「おお」 ともとれ るO
「ミモザ」 は ラテ ソ語 の花 の名 (Mimosapudica)か らとったので あろ う。傷 つ きやす い人 とい う意味でつかわれ ることがあ る。 "Sam"は 「〜 さん」 の 「さ ん」 であろ う。
パ プ リチ ェ ックの研究 に よれば、中国人 の名 も綴 り、発音 とも正 しい中国語 と い うことで あ るか ら、 このオペ レッタでは、は っき りと日本 と中国の区別 がな さ れてい ると言 え るで あろ う。 21)
舞台は 「ナガサキ」 とな ってい るが、言 うまで もな く、江戸時代 に開港 された 港町長崎で、 この点 で も、 「ミカ ド」 の 「テ ィテ ィプ‑」 とは大違 いである。 こ れ らの点で、 この作 品はそれ まで に作 られたオペ レッタとは大分違 いがあると言 えるであろ う。
しか し作 品を よ り詳 しく見 ると、内容が 日本 の其 の姿 とかけ離れてい ることが す ぐ分 か る。 まず タイ トルであ るが、芸者 とはそ もそ も芸 をす る者 とい う意味で あ り、子供 の頃 か ら三味線 や踊 りの修業 を して きた人 たちで ある。後 にシュニ ッ ツラーの 日記 に登場す る 「貞奴」 や 「花子」 も、 もとは芸者 だ った。芸 の基礎 が 出来ていたか らこそ、女優 と して も成功 を収 め ることが出来 たので あ る。
江戸時代 には芸者 に も格付 けがあ った。上 か ら太夫、天神、鹿恋 、端 とい う順 にな る。 「太夫」 を揚 げ ることがで きたのは上流階級 の武士 や裕福 な商人たちだ けだ った。太夫 は 自分で客 を選 ぶ ことだ ってで きたのであ る。茶屋女 は これ とは
105(9)
異 な り、 ろ くな教育 を受 けてお らず体 を売 って生計 を立 てて いた。身請 けをす る とい うことは確 かによ くあったが、正式 に結婚す る例 は少 な く、多 くは妾 と して 一生 を終 えるのが普通で あった。
ひ ょっと した ら台本作家たちは この よ うな ことを知 っていなが ら、現実 の姿 を 映 し出すのを控 えたのか も知れない。それはただ検閲 を恐 れたためだけではなかっ たであろ う。 オペ レッタとい うのはつ まるところ大人 の メル ヒェソで あ り、その 中ではすべてが現実 よ りも美 しくなければな らないか らで あ る。 こ う考 え ると、
なぜ主人公 がおか しな名前 を してい るか とい うの も説 明がつ く。作者 たちは主人 公を他の登場人物 と区別 し、架空 だとはっき り分 かる名 をあえて付け ることによっ て、主人公の メル ヒェソ性 を強調 しよ うと したのではないだ ろ うか。
1897年のカール劇場の公演は大成功であ った。 「ノイエ ・フライエ ・プ レッセ」
紙 は 「昨 日の 日曜 日の公演は とっ くに売 り切れ、晩には窓 口が開かなか ったので、
多 くの人 が券 を買えず に、その まま帰 らなければな らなか った。上演 も拍手喝采 を博 した」 22)と報 じてい る。
この年 ウィー ソ第2区 にあ るシフガ ッ七に 「日本 ふ うの カ フェ
」
「Caf6im japanischenStyl) が誕生 し、 「ナイ トクラブ 日本」 (VergnugungsIEtablisse‑ mentJapan)と名乗 って い る。 そ こは一 晩 中 開 いて お り別 室 (Chambres particuliさres)があった とい うことであ る. 23) 「輪 舞」 の第1景で、兵 士 の話 に 出て くるフーバーが訪 れたの もこの よ うなカ フェーか も しれ ない。1902年 ローベル ト・シュ トル ツは 「ゲイ シ ャ、夜 の メル ヒェソよ」 とい う流行 歌 を作 曲 した。歌詞 の一節 は次の よ うにな ってい る。 「誰 が別れ を考 えだ したの だろ う。 日本の花 よ、 さよ うな ら。張 り裂 け る胸 の思 いを 口づけに こめて。 ゲイ シャ、小 さなゲイシャ、桜 が雪 の よ うな 白い花 をつけた ら。 ゲイ シャ、僕 の春、
僕 の幸 せ、そ うした ら、 また戻 って くるか らね。」24)0
ジャポニズムの波 が去 った後 も 「ゲイ シャ」 は 「サ クラ」 や 「フジヤマ」 と並 んで 日本の代名詞 になった。現在 で も 「ゲイ シャ」 印の魚介頬 の缶詰 が ウィ‑ ソ のスーパーマーケ ッ トに並 んでい る くらいであ る。
最後 に ウィ‑ ソで 「ゲイシャ」 にな った 日本人 の話 を して お こ う。 オー ス トリ アの コー ヒー王 と呼ばれ るユ リウス ・マイ ソルは1931年音楽留学生 の 田中路子 と 結婚 した。結婚立会人 は後 に首相 にな った ドル 7‑ スであ った。彼女 は33年 には
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グラー ツ市立劇場 で 「蝶 々夫人」 に主演 し、 「東洋 の情熱 の歌姫」 の異名 を とっ た。続 いて映画 「恋 は終 わ りぬ」 (LetzteLiebe)で主役 を演 じ有名 になったが、
ウィ‑ソで は シ ドニー ・ジ ョー ソズのオペ レッタ 「ゲイ シ ャ」 の ミモザを歌 って 喝采 を博 した。 田中路子 は 日本人 の音楽留学生 に とっては母 の よ うな存在で、小 津征爾 な ど も世話 にな って い る。 25)後 にマ イ ソル と別 れ ることにな るが、その際 お礼 に措 いた クロソボの少年 は現在 もマイ ソルの商標 と して使 われて い る。
付記 本稿 は平成9年6月 8日慶鷹 義塾大学 日吉校舎 で行 なわれた 「オー ス ト リア文学研究会」 で の講演 の草稿 に加 筆訂正 を した もので あ る。
1)ArthurSchnitzler:Tagebuch187911892.Hrsg.vonderKommissionf山・
literarischeGebrauchsformenderOsterreichischenAkademieder Wissenschaften.Wien:Verlagder()sterreichischenAkademieder Wissenschaften,1987,S.9
2)Vgl.AIlhurSchnitzler:JugendinWien.EineAutobiographie.Hrsg.Yon ThereseNicklundHeinrichSchnitzler.FrankfurtamMain:Fischer1981,S.47.
3)W.A.Mozart:DieZaubernote.Stuttgart:Reclam 1991,S.7.
4)Vgl.OskarEt治rle:DieJapanesenspieleinSchwyZ.In:Fastnachtsspiele.
VH,JahrbuchderGesellschaftfurschweizerischeTheaterkultur.Luzern:
Theaterkultur‑Verlag1935,S.5ff.
5)JuliaKrejsaundPeterPanzer:JapanischesWien.WienundMunchen:Herold 1989,S.57.
6)Ebd.,S.58.
7)NeueFreiePresse,Morgenblatt,Nr.13194vom 19.5.1901,S.8.
8)NeueFreiePresse,Moegenblatt,Nr.13196vom21.5.1901,S.6.
9)ArthurSchnitzler:Dieerza'hlendenSchriften,Bd.1,FrankfultamMain:Fischer 1961,S.570.
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10)NeueFreiePresse,Morgenblatt,Nr.8151vom7.5.1887,S.7.
ll)Vgl.WilhelmZentnerundAntonWurz:ReclamsOpern‑undOperettenfuhrer. Stuttgart:Reclam1982,S.96f.
12)Vgl.BernardGrun:KulturgeschichtederOperette.M血chen:Altxd Langen
‑GeorgM山Ier1961,S.280.
13)LeopoldinePavlicek:DasBil°JapansunddesJapanersimeuro由ischen Musiktheaterab1867.°iss.Wien1983,S.73f.
14)Vgl.NeueFreiePresse,Morgenblatt,Nr.8155vomll.5.1887,S.6.
15)Vgl.NeueFreiePresse,Morgenblatt,Nr.8182vom8.6.1887,S.7.
Krejsa/Panzer,a.a.0.,S.78.
16)WerbungYon "AuMikado".In:NeueFreiePresse,Morgenblatt,Nr.15221vom 5.1.1907,S.19.
17)ArthurSchnitzler:Tagebuch1893‑1902.Hrsg.YonderKommissionfur literarischeGebrauchsfomenderOsterreichischenAkademieder wissenschaften.Wien:VerladgderdsterreichischenAkademieder Wissenschaften1989,S.153.
18)Vgl.NeueFreiePresse,Morgenblatt,Nr.11159vom18.9.1895,S.8.
NeuesWienerJoumal,Nr.681vom 17.9.1895,S.5.
1g)Vgl.Grun,a.a.0.,S.291.Zentner/Wurz,a.a.0"S.117.
20)Vgl.Zentner/Wdrz,a.a.0.,S.117ff. 21)Vgl.Pavlicek,a.a.0.,S.106.
22)NeueFreiePresse,Morgenblatt,Nr.11918vom26.10.1897,S.7.
23)Vgl.Kreisa/Panzer,a.a.0,,S.63.
24)Zit.ebd,S.64.
25)Vgl.ebd.『日本女性人名辞典』、日本図書セソタ一、1993年、679貢参照。
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