メーヌ ・ド・ビランの美学︵二︶
掛下榮一郎
﹁メーヌ・ド・ビラソの美学﹂というテーマに興味を持ち︑何がしかの見解としてまとめてみたいと考えてか
ら︑もう数年の年月が経過してしまった︒
数年前︑与えられた譲る機会に私は︑このようなテーマに興味を持った理由と︑それに先立って当然なされねば
ならない︑メーヌ・ド・ビラソ思想の意義について︑若干の概説をこころみたことがあるが︵﹃早稲田人文自然科学
研究﹄第二〇号︑一九八一年︶︑その際参考に︑﹃心理学基礎論﹄第二部第三章において語られている︑ビラソの美
や芸術についての見解の要旨を抄訳して︑それに附加しておいた︒
そのとぎは︑そこまでのお膳立だけで終ってしまい︑肝心の﹁ビラソの美学﹂の本題の検討は︑次回に譲らざる
をえなくなってしまった︒以来今日まで︑この問題は︑常に私の脳裡を去来し︑折にふれての断続的な考察のくり
かえしのまま︑今日まで遷延のやむなきに至っている次第である︒
幸い今回︑この問題に一応のけりをつける機会が与えられたので︑順序として︑前回の論文の回想とその確認か
らはじめ︑更に︑新しく附加すべき問題があれぽ︑必要に応じそれに移行してゆくのが適切であろう︒
早稲田人文自然科学研究 第28号(S60.10)
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具体的にいえば︑ビラソ思想の核心であり︑その真理の基礎ともなっている︑﹁内感の原初的事実︵δ貯謬冒一日三h
畠二ωΦ昌ωぎ鉱ヨΦ︶﹂についての若干の再考察をこころみたのち︑前回その要旨を抄訳しておいた︑彼の美的見解が︑
最も端的に語られていると思われる︑前記﹃心理学基礎論﹄の中の︑﹃美について﹄と﹃感情について﹄の二節の論
述の検討に移るのが適切であろう︒
もちろん︑メーヌ・ド・ビラソには︑明確な美学形成の意図は存在しなかったが︑彼の独自の﹁内省の哲学﹂︑
﹁内感の形而上学﹂は︑私の念頭を常に去来する本来的な美の哲学に︑最も深くかかわっているはずであるという
強い確信のもとに︑私は︑ビラソ自身の論述を材料にして︑あるべき﹁メーヌ・ド・ビラソの美学﹂をまとめあげ
ようと考えていたのである︒
﹃心理学基礎工︵肉的ミ軌ミ︑霧奇ミ馬ミ鳴ミ︒︒§ミ㌧遷忘︒ご鷺翌晩肋ミ︑馬偽ミ憩ミ冴§§隠ミ§§封ミミミ§.︶﹄
は美学を意図したものではない︒︵なお︑この題名の日本語訳は︑現在の心理学という言葉の一般的意味から考える
と︑﹃精神学基礎論﹄とした方がよいかも知れない︶フランス学士院︵一七九九年︑一八〇四年︶︑ベルリン︵一八
〇六年︶とコペンハーゲン︵一八一〇年︶のアカデミーの懸賞論文に意欲的に応募し︑いずれからも最高の評価を
受け︑当時デカルト︑ロック︑ライプニッツ︑コソディアック︑カントなど︑みずからの思想形成に大きな影響を
受けながらも︑なおそれぞれの見解に︑充たされない不満を感じていた彼は︑すでに︑加筆修正のうえ出版され
ていた﹃習慣論﹄を除いた︑他の三論文を一つにまとめることによって︑独自の﹁内感の形而上学体系﹂の樹立
を︑強く意図していたことは周知の通りである︒︵竃巴旨①自Φご貯効口.肉︒・的ミ簑︑︑窃誉ミ恥ミ§勘§言誉聴討︒&鷺偽・
メーヌ ド・ビランの美学(二)
02謹︒ω●国Φ霞①日凶ωωΦ目帥巳国F↓oヨΦ畳く目H・以下即℃︒と示すP嵩︶
複雑な政治情勢の変化と︑その中での︑彼自身の微妙な政治的立場との相関関係の中で︑彼は︑この仕事を着々
と押し進めたのであるが︑この業績をはじめ︑それ以後に書かれた論文は︑ついに彼の在世中は公けにされること
がなかった︒
いずれにせよ︑この﹃心理学基礎論﹄においては︑ビラソ自身も自負しているように︑彼の思想の全貌が︑少な
くとも︑彼自身それに最も適わしい表現方法と考えていた︑﹁心理学﹂という形で語られているのである︒
もっともビランは︑その後の︑内感の事実のいっそう深い探究の結果︑いわゆる︑内感の心理学的研究にあき足
りず︑内的自我としての人間の探究に︑最も適わしい学的方法として︑﹁人間学︵半睡鐸obgoαq一Φ︶﹂を提起するに至
っており︑さらに︑そうした人間学の扱わねばならない究極の課題として︑絶対者や宗教の問題にまで︑その探究
の領域を広めるに至るのであるが︑﹃心理学基礎論﹄の段階では︑まだこの問題はとりあげられてはいない︒
ティスラソ版﹃メーヌ・ド・ビラソ著作集﹄では︑﹃心理学基礎論﹄は二巻に分冊されており︵第八巻︑第九巻︶︑
第八巻は︑主として﹁内感の原初的事実﹂の研究に当てられている︒このことは︑その問題が︑それまでに彼が最
も力を入れて取り組んだ︑四つの論文の共通の基調をなす課題であると同時に︑最晩年の﹃人間学新論︵≧リミ爲§
肉︒・恥ミ吻織.冨ミミ︒㌧ミ︒豊恥︶﹄に至るまで︑終生変ることのなかった︑彼の思想の核となる課題でもあってみれば︑当
然のことであろう︒
なおここで︑ビラソの著作集について一言ふれて置きたいが︑周知のように︑ビラソの著作は︑﹃習慣論︵Nミミ・
§9§﹄.ぎミミ魯防ミぎ誉らミ慰§︑§紹じ﹄を含む三つの論文が︑彼の在世中に出版されただけで︑爾余の主要
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論文は︑いずれも二大な草稿のままで残された︒判読きわめて困難なこのおびただしい草稿の中から︑ヴィクトル
・クザソ288同Oo∬ωぎ嵩りb︒山◎︒0刈︶︑フランソワ・ナヴィル︵国轟鍔9ω1竃母︒ーピ︒巳ωZ曽託コ︒嵩︒︒ら∴Q︒&︶︑ エ
ルネスト・ナヴィルQ巳Φω国旨Φω一三9<崔ΦHQ︒HO山8㊤︶などの︑ビラソ研究の先駆者たちの努力によって︑彼の
主要著作が︑次々と﹁形成﹂されてきたのである︒こうしたひとびとの意向を受継いで︑ピエール・ティスラソ
︵℃一〇﹃同① ﹈U一ωω①﹃9口α︶が︑フランス学士院の協力によって︑全十四巻から成る﹃メーヌ・ド・ビラソ著作集﹄の編
集に着手し︑一九二〇年にその第一巻を世に送り出し︑一九三五年のティスラソ自身の死にもかかわらず︑一九四
九年の﹃人間学新論﹄の刊行によって︑この著作集を完成させたのである︒
今日までこの著作集が︑最終的定本として︑全世界のビラソ研究家の高い評価を得てきたことは周知の通りであ
る︒しかし︑未校訂のビラソの草稿は︑まだまだ数多く残されており︑その整理が忍耐強く着々と進められている
ことも︑私たちは耳にしていた︒そして︑この長年の努力の成果が︑このたびの新しい﹃メーヌ・ド・ビラソ著作
集﹄の刊行として結実したのである︒
﹁フランス国立科学研究センターO⑦簿お乞9江8巴αo上図ooげΦ岩げ①ω9①口蓬5仁Φ﹂の理事︑フランソワ・ア
ズヴィ︵閃﹁9昌OO一ω >NOq︿一 し︶氏の監修のもとに刊行されるこの新著群集が︑おそらく決定的なものとなることであ
ろう︒今日まで未校訂であった︑コペンハーゲンのアカデミーへの応募論文﹃人間における身体的なものと精神的
なものの関係£§㌧ミ冴§㌧電愚§ミ亀ミミミミ§N︑ぎミミ恥︶﹄の刊行を皮切りに︑現在ではまだ二巻しか出版
されていないが︑新しい著作集は︑全十三巻︑十七冊となる予定であり︑綿密な校訂の結果では︑内容的にティス
ラソ版とは︑かなりの変更もありうると聞いている︒その内容についての照会に応えてくれたアズヴィ氏の意見で
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は︑﹃人間学新論﹄は︑ティスラソの﹁創作︵賢く①曇δロ︶﹂ともいえる部分が多く︑新しい著作集では︑これは二冊
に分けられ︑﹃最後の哲学︑道徳と宗教﹄︑﹃最後の哲学︑実在と人間学﹄との標題で︑内容的にも一新されるとのこ
とである︒ティスラソ版でビラソに取組んできた私たちにとっては︑由々しいことではあるが︑内容的に決定的な
ちがいがあるとまでは考えられないので︑新しい著作集の一日も早い完成を願うばかりである︒
メーヌ・ド・ビランの美学(二)
ビラソもまた︑意識としての自我の存在の自己確認を︑その哲学の原点として立てた︑近代哲学の祖としてのデ
カルトの系譜に堪る思想家であるが︑彼が︑原初的事実として確認した自我は︑デカルトが︑最終的に実体の名の
もとに抽象化してしまったような自我ではなく︑もっと具体的な︑事実としての自我︑コソディアックの主張した
ような︑すべての瞬間に私を構成している︑感覚や現象の総体としての自我であり︑われわれは︑有機体としての
運動を通してのみ︑この自我を知るのである︒
﹁意識の事実においては︑あらゆるものに結びついているが︑あらゆるものから区別されており︑みずからが
経験する︑継起的ないかなる諸様相や︑みずからが規定する︑いかなる行為とも︑交り合うことのない自我・:⁝﹂
︵司・蛸.づ.OQo︶とビラソも語りているように︑行為的自我の力の感覚︑﹁目覚めた状態にある自制する︵8ヨ宮ωω巳︶
個々の人格﹂︵閃・勺・℃・①Qo︶こそが︑彼のいう内感の原初的事実であり︑こうした内感の検討に最も適わしい学的方
法としての﹁心理学﹂こそ︑真の哲学的原理の学ということになるのである︒
自我の確認を哲学的真理の根底に置いたことで︑デカルトに写り︑あらゆる瞬間を通じ︑こうした︑自我を形成
する感覚や︑現象としての我の存在の事実に立脚して︑決してそれの実体化や抽象に走らないという点で︑戸ック
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やコソディアックに連るビラソが︑彼らの思想と︑決定的に一線を画した独自の見解は︑この﹁内からはたらく力﹂
の感覚︑﹁努力の感覚萄窪ω鳥¢一︑o跨Q拝︶﹂︵喝.勺・P一お︶の重視である︒
﹁内感の原初的事実とは︑自我がその原因である身体器官の抵抗や︑筋肉の感覚から切離すことのできない︑意
志的努力の感覚にほかならないのである︒したがってこの事実は︑それの二つの項が︑分離されることなく区別さ
れるような一つの関係なのである﹂︵国●勺.O●HQo①︶と︑ビランの語るように︑これは超有機体的力であり︑こうし
た内的な力の能動性︑自発性に自我の根源を見ようとしたところに︑ビラソのユニークな思想の特質がある︒
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以上の如く︑﹃心理学基礎論﹄第一部は︑内感の原初的事実の詳細な分析に当てられているが︑この独自の形而上
学的観点に立ってビラソは︑改めて人間精神の諸機能を︑新しい角度から分析し直すことによって︑みずからの思
想形成に大きな影響を受けた︑ロックやコソディアック説に抱いていた不満を克服し︑真の原理の学としての︑内
感の心理学を樹立しているのである︒
﹃心理学基礎論﹄第二部における︑人間精神の諸機能の新しい分析は︑次の四つの領野に関しておこなわれる︒
すなわち︑9﹁感情の体系︵琢ω3ヨΦ緯hΦ95﹂︑昌﹁感覚の体系︵ω誘導亘Φω曾ω三h︶﹂︑日﹁知覚の体系︵ω膚寒
脇ヨob費︒Φ営5﹂および︑四﹁反省の体系︵ω団ω脇目①冨︷δ邑h︶﹂である︒
ビラソは人聞精神の機能を︑蝉臨Φo江︒ローωΦ昌江目Φ葺1℃①﹃oΦO江8馬ひ津Φ臨○旨の四つの領野において検討するが︑
㌶hΦ︒江8は︑その最も始源的︑発生的なものと考えられる︒これは︑主体の存在意識とは全く別個の︑いわぽ無
意識的︑純生理的なもので︑﹁われわれが︑人格的個性︑すなわち︑自我を切離してしまったあとに残る︑完全感覚
メーヌ ド●ビランの美学(二)
︵ω窪銘江︒口oo日亘象Φ︶であるL︵男勺.︐b︒︒︒切︶と︑ビラソ自身も述べているものである︒ロックのいう﹁単純感
覚︵ωぎ祉Φωgω巴oe﹂︑コソディアックのいう︑﹁精神の機能︵8騨p︒鉱︒昌ユΦ一︑五日①︶とは全く別の︑感覚その
もの﹂がこれに当ろう︒
これは︑次に語られる﹁感覚﹂とちがって︑﹁自我性﹂の全く介入しない︑反省以前の純生理的︑動物的なもので︑
感覚からはっきり区分されて︑鋤臨①9凶︒口と呼ばれるもので︑知的反省はもちろん︑自我の努力感や抵抗感も全く
存在しない︑純粋に動物的な機能である︒したがって︑この領域は︑本来﹁心理学﹂の対象ではなく︑ビラソ自身
も︑後年の﹃人間学新論﹄の序文で︑﹁人間学﹂を﹁心理学﹂として扱っても︑﹁生理学﹂以上の成果は得られない
と語っている︵竃巴昌ΦユΦbdマき・冬ミミ§a怨詠.︾ミミ息︒ご讐鳴・02謹︒の.℃.目δωΦ轟巳・国F↓oヨρ×冥●以
下Z・︾亀と示すづ一〇呂ように︑﹁動物の生﹂ ︵﹃人間学新論﹄の第一部︶として︑ただし︑無機的ではなく︑有機
的なものとして︑﹁生理学﹂の対象とされるべぎものである︒
そして︑後述のようにビラソでは︑﹁美﹂の問題は︑自我の努力感としてあらわれる内感の自発性と︑﹁比較
︵O◎旨Pb曽頃9 ωO︼P︶﹂や﹁配合︵8ヨげぎ巴ωop︶﹂のいとなみとしてあらわれる知的発動性とのかかわりで語られてい
るので︑個別的︑発動的な自我の全く介在しないこの世界は︑美以前の世界なのである︒
﹁感覚の体系﹂において︑はじめて自我が登場する︒﹁その起源においては︑まだ動的な力の感情に伴われていな
いけれども︑超有機体的な力が︑動きの中心に発生するやいなや︑そうした力の感情が︑直接的な形でそれに結び
ついてくるところの︑特別な︑独自の︵ω9σqΦ口臼一ω︶感覚が︑自発的な運動の実行と結合するのである︒努力や自
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我というものが生まれるのは︑ただこのときにおいてのみである﹂︵男・唱. づ.ωO◎o︶と︑ビラソも述べているよう
に︑自我︑すなわち努力感︑抵抗感が︑前記の︑生理的で無意識的な感情と結合して︑感覚の体系が成立する︒た
だこの際︑身体としての自我の抵抗感や︑努力感︑力の感覚は明白であるが︑第三の領野である﹁知覚の体系﹂を
特徴づけている﹁注意︵餌けけΦ惹け一〇5︶﹂︑すなわち︑比較や配合のいとなみを惹起させる注意は︑まだ生じていない︒
有機的生命としての︑生理的な力の感覚︑抵抗感は明白であるが︑知的︑反省的要素はまだきわめて乏しく︑受
動的な感受性の要素が︑能動的︑知的なものにまさっており︑自我は︑﹁感動︵①琶︒慧︒旨︶﹂と﹁情念e粒ω⑭一︒e﹂に
大きく左右される︒
ここで感動と情念について触れておかねばならないが︑ビラソはこの二つの語を︑例えば︑デカルトなどとはい
ささか違った意味で用いている︒﹁⁝⁝私は︑この混合した諸現象を感動と呼ぶが︑信念︵o﹃o冨口︒o︶︵自我以外の
何ものかを原因とする︶と結びついた感情が︑そこでは︑さまざまな心象や︑あらゆる表象に︑特別な影響力を持
つのである﹂︵鴨︒ ℃・b.ωqゆ刈︶と述べているように︑もっぱら有機的身体としての感受性︑受動性の上に立つ感覚の
体系では︑自我の努力感のおこってくる原因は︑自我以外の何ものか︑すなわち﹁非自我的原因の信念︵一p︒﹁︒楓⇔昌Φ︒
α.信昌ΦO讐ωΦロOローヨ9︶﹂Q.勺.︐ωωO︶と考えられている︒
したがってビラソでは︑身体を通しての︑受動的持続の中に展開される感動は︑自我の介在する知的能動性とは
切離されて︑むしろ︑非原理的︑夢幻的な幻影の類と解されることになる︒
そして︑こうした感動が︑持続的︑反覆的な形をとるとき︑﹁情念﹂の語が与えられることになるが︑﹁内的感受
性が・その主要な中枢において習慣的にかき立てられ︑単独の支配権と︑抗しがたい影響力を︑あらゆる機能の上
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メーヌ・ド・ビラソの美学(二)
に保持し︑想像力をとらえ︑信念を強制し︑最後には︑意志そのものをもみずからの法則に従わせてしまうのは︑
とりわけこの情念においてであるL︵国︒ ℃. づ.ω心卜◎︶とビラソは指摘する︒
いずれにせよ︑彼の場合この二つの機能は︑知的機能と切離して考えられており︑そのかぎりでは︑美の考察と
は直接にかかわるところがないものとして扱われている︒
ところでビラソは︑自我の努力感にかかわる能動面のいとなみを﹁意志︵<oδロ菰︶﹂と呼び︑受動面のいとなみ
を﹁欲望aひω5﹂と名づけているが︑ただ︑必ずしも欲望を︑能動性の全く欠如した受動と解していたのではな
いことは︑例えば﹃人間学新論﹄で︑﹁⁝⁝欲望は︑混合し復合した一つの様相で︑そこでは︑能動と受動とが相互
に結び合い︑追随し合っている﹂︵ツ制.︾・b・ωω①︶と述べられていることでも明らかである︒
欲望は︑まさに能動と受動の相関電車合であり︑この場合は︑﹁信念﹂への要望として︑感覚の体系において︑き
わめて重要な役割をになう﹁愛︵帥日︒霞︶﹂と﹁憎しみ︵冨ぎΦ︶﹂に︑深くかかわるのである︒
欲望には︑或る面では︑知的意志に通ずる要素も見られるが︑その本性は︑身体的︑受動的である︒しかし︑そ
れは決して消極的受動性ではなく︑むしろ︑ときに力強く発動的であって︑美的なものの考察とは︑決して無縁で
はないはずである︒
かくしてわれわれは︑美の考察と最も深いかかわりを持つ︑﹁知覚の体系﹂に移ることになる︒知覚の体系は︑
﹁注意﹂の発現により到来する︒﹁注意は︑われわれが分析しようとしている︑心理学的諸事実の新しい体系の基礎
であって︑この毅階の諸現象が︑先立つ諸現象から︑はっきりと区別されるのは︑この点だけである﹂角・勺・︾
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。。リO︶と︑ビラソもいうように︑自我の知的発動性は︑注意により確立される︒ここでは︑欲望の次元を大きく司っ
ていた快苦は後退し︑自我の知的直覚が主役を演じることになる︒
感覚の体系における自我が︑まだ能動的︑意図的要素をほとんど持たず︑盲目的とも思える感動や情念に︑大き
く支配されていたのに対して︑ここでの自我は︑はじめて知的発動性を保有し︑意志的となる︒
﹁意志は︑能力の限界内に集中され︑それをこえて広がることはない︒反対に︑欲望は︑能力の終るところがら
はじまり︑われわれの受動性の領野のすべてを包んでしまう︒﹂︵局・﹈勺︒℃・b3㎝①︶﹁意志とは︑精神の単純で︑純粋で︑
同時的な行為であり︑その中で︑あるいはそれによって︑この知的で︑能動的な力が︑外部に対して︑そして自己
自身に対して︑内的にみずからをあらわすところのもの﹂︵ツ剣●︾.や.QQらQ①︶で︑ビラソも語るように︑私たちは︑意
志と欲望をはつぎりと区別しなけれぽならない︒
注意の発現の見られなかった感覚の体系以前では︑自我の意志的︑能動的関与はなく︑有機体としての本源的欲
望が支配的であり︑美や道徳の根拠を︑有機体的生理としての快︑不快の感情にではなく︑自我の知的︑能動的意
志の側面にとらえようとする態度は︑ようやく知覚の体系において明らかとなるのである︒
注意によって︑自我はようやく意志的となり︑先立つ体系と明確に区別されるに至るが︑この能力はまた︑われ
われの個的自我の宿る土台であり︑われわれの発動的能力のすべてを形成するものであると︑ビラソ自身も強調し
ている︒翁9℃.︐ωN㊤︶
﹁自我が︑受入れられた遣る印象の中に︑みずから置いたものは︑想起︵み巨巳ω8昌8︶︑あるいは思い出︵ωo午
く①艮同︶の形で︑ただ自分自身の中でのみよみがえることができる﹂︵岡・℃づ・蔭Obo︶とビラソの語るように︑自我の
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メーヌ・ド・ビランの美学(二)
知的発動性のいとなみは︑想起︑あるいは思い出の形で現象化される︒想起は︑決して単純に生理的な感情ではな
い︒ ところでこの想起の形成は︑直観によってなされるが︑ビラソは︑それに次の三つの型をあげている︒すなわち
第一は︑﹁自我のまったく介在しない心象︵巨拶αqΦω︶︑あるいは幻影︵貯ロ8旨︒ω︶の再生としての︑直接的な直観
︵ぎε三§ω一塁9ひ象鉾Φω︶﹂︵司・勺・b●幽ON︶の形で︑第二は︑﹁そこに︑いかなる能動性をも持つことのない︑受動
的な傍観者として︑自我が︑感覚によって直接的に与えられたこれらの直観に︑みずから結合する﹂︵男用・ も心ON︶
という形で︑そして第三の場合は︑﹁自我は︑みずからを現象に現前させるところの︑そして︑われわれが﹁注意﹂
と名づけているところの︑特別な意志︵くO一〇︼P一ひ Φ×b﹃Φωω①︶によって︑直観にかかわることがでぎる﹂︵戸即P
膳Ob︒︶という形であるが︑いうまでもなく︑知覚の体系において最も重要な役割を演じるのは︑この最後の場合であ
り︑この意志的︑能動的︑知的自我の直覚によって︑想起は能動的となるのである︒
さらにこのはたらきは︑﹁比較﹂を介していっそう強化される︒﹁或る程度の注意がなければ︑知覚︑あるいは
観念なるものは︑決して存在しないし︑何らかの比較のいとなみがなけれぽ︑注意の行使はありえないであろう﹂
︵聞●団● b・蒔一N︶と︑ビラソも指摘している︒そして︑﹁⁝⁝諸心象のこの比較の結果︑類似︵おωωΦヨ三き8︶︑も
しくは非似︵ユ凶ωω①ヨげ一跡口OΦ︶の︑何らかの類推の知覚が生ずるが︑これが︑諸心象を同じ段階に配列したり︑同じ
符号︵ω oqロΦ︶のもとに理解するよう規定するのである﹂︵国・即ウ障刈︶と︑いうことになる︒
さらにビラソは︑﹁類似の諸関係を比較し︑知覚するところの注意を︑同一性の諸関係を抽象化し︑把握するとこ
ろの反省に対立させることによって︑私は︑物理学や自然諸科学と︑形而上学や数学のような諸科学とを区分する
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主要な境界線を示しておいた﹂︵団● 勺・ づ.心Nbo︶と論じ︑比較が︑類似か反省の道をたどることによって︑それぞれ
異なった学が成立する事情を明らかにしている︒
さて最後に︑知覚の体系の中で最も重要な機能と考えられ︑われわれの中心課題である﹁美﹂や﹁芸術﹂に︑最
も深いかかわりを持つものとして︑﹁配合﹂のいとなみがある︒この配合のいとなみこそ︑人間の精神に︑美や道徳
の観念を生ぜしめるものであり︑ここにわれわれは︑ビラソの独自の美的見解を見ることができるのである︒
ところで︑ビラソの美的見解理解のためには︑この配合のいとなみの検討だけで充分であるとする意見もあるか
も知れない︒そうした見解からすれば︑いままで述べてきたことは︑あまりにも冗長な︑不要の道草であるという
ことになってしまう︒しかし︑私はそうは思わない︒ビラソ思想の核となる見解の指摘からはじめ︑その思想体系
形成の荒筋を︑﹃心理学基礎論﹄に即して概観してきたことは︑決して無益で冗長なこころみではない︒われわれは
これによって︑配合のいとなみが︑ビラン思想の展開の中の︑いかなる場に︑いかなる意味をもって登場している
のかを︑きわめて明確に理解しえたのであり︑それによって︑その機能に深くかかわる美や道徳の問題が︑ビラソ
思想全体の中で︑いかなる意味と重みを持つのかを︑より根本的に理解することが可能となったからである︒
なお︑この配合についての叙述に引続いて︑あるいはむしろ︑その叙述の一環として︑ビラソは︑㈹道徳観念に
ついて︵Uoωロ︒二〇諺Bo目巴︒ω︶︑⑧美について︵︼︶信げ①き︶︑◎情緒︵感情︶について︵UΦωωΦ口自旨①曇ω︶の三節
を書き加えている︒
これまでに書いてきたことを背景として︑最後に︑ビラソの美的見解の詳細を検討するわけであるが︑その前
に︑配合についての彼の見解を紹介しておこう︒
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メーヌ・ド・ビラソの美学(二)
﹁私が配合と呼ぶもの︑すなわち︑さまざまな観念を配合する︵OO目Pげ一昌Φ﹃︶機能︑これは︑形而上学者たちが︑
より一般的に想像力︵ぎ曽oq貯p︒菖︒ロ︶と呼んできたものであるが︑それが︑直観や心象の身体器官に結びついた︑単
純な受動的機能と同じものを表現する︑きわめてあいまいなものであるがため︑私はこの表現︵想像力︶を避けた
のである︒⁝⁝私が配合と呼ぶ機能は︑さまざまな種類の観念︑多様な本性の諸要素の上でいとなまれるが︑それ
は決して︑特別で独自の︵ω巳σqo昌Φユω︶機能ではなく︑われわれがすでに語った︑注意とか︑比較とか︑抽象とか
の諸機能の行使の︑特殊な一様相なのである﹂︵男・即b眞ωら.8旨3窪富マΦ︵H︶︶とされる︒そして︑﹁人間の精神
は︑その様相の多様のすべて︑その表象の対象の復合性のすべてを︑不断に観念の統一に導こうとしているのであ
るが︑それらを思考し︑それらを理解するのも︑ただそれがためである﹂︵国︒勺・o﹂︒︒癖︶と結論される︒
ビラソの美的見解の核心は︑まずここに見られるであろう︒﹁ロックが道徳的存在と呼んだものを︑記号の統一の
もとに表現する観念の配合は︑われわれが美と呼んでいる諸存在︑諸芸術にかかわる別の種類の配合と︑きわめて
顕著な類比性を持っている︒しかもこれら二種類の配合は︑同じ一つの精神の能動的機能に発している﹂︵司.㌧・博
瞳α︶とビラソは︑配合の機能の本性について語っている︒
ついで彼は︑この機能の本性としての能動性を強調する︒﹁美しいといういい方が適用されるためには︑これらの
印象が︑知覚するとか︑判断するとか︑比較するとかいった︑能動的機能との関係にある﹂︵愛翫・︐禽刈︶のでな
ければならないとされ︑﹁美やそれに伴う諸感情は︑それらを誕生させ︑支え︑かつ活気づけることに奉仕する何ら
かの判断︑もしくは精神のはたらぎ以外からは︑絶対に生まれてくることはない﹂︵閃.即O.瞳Q︒︶ことが強調され
ている︒
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ついで彼は︑美と快の関係の考察に移る︒﹁快の感情︵ωΦ韓一日Φ韓曽σqみ9三〇︶はそのまま美の感情︵ω隠江ヨ︒旨ユβ
げ①磐︶ではない︒美の感情は︑単純感覚︵器匿9江§吻旨旨Φ︶の上に基礎づけられることはなく︑知覚と観念と
の︑多少とも拡大された一つの配合の上にのみ︑基礎づけられうるのである︒﹂︵閃︒ 勺● O.蔭海Qo︶いいかえれば︑﹁統
一という形で︑精神に対して︑或る一つの多様性︵く9ユ碑Φ︶︑もしくは多重性︵日三山覧§3︶を示すところの︑
︸種の適合性︵OO旨くO旨薗昌O①︶︑調和︵ゴ霞80巳Φ︶︑そして共感︵ω図日b9三Φ︶を持っていなければならない﹂︵即
℃.b・瞳Q︒︶のである︒すなわち︑﹁あらゆる美は︑統一のもとに形成される︵Oヨ巳ω①巳日℃巳︒年詳&一三ωh自ヨ曽
信艮鼠ωΦωけ︶﹂というのが︑美についての彼の基本的見解である︒
このかぎりでは︑ビラソの美的見解は︑生理的な快︑不快に立脚する︑感覚的美論ではなく︑あくまでも︑知的
統一観の中に形成される﹁配合の美﹂を説く︑主知的美学の範疇に入るであろう︒
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美を︑快とのかかわりにおいて探究しようとした思想家としては︑われわれはすぐ︑デカルトを想いおこす︒周
知のようにデカルトは︑美の根拠を快に置く見解を立てている︒美の理由について質問を受けた彼は︑﹁⁝⁝それ
は︑或る音が︑何ゆえに別の他の音よりもここちよいのかという問いと同じである︒しかし一般的には︑美もまた
快も︑対象に対するわれわれの判断の関係を意味するにほかならないのである︒しかもひとびとの判断は︑あまり
にも異っているので︑美もまた快も︑いかなる決定的な尺度も持ってはいない﹂︵∪①ω09︒答Φ9ピ9葺①帥竃Φ話窪口ρ
H◎︒竃舞ω・属ω90①偉く同Φω・︾・6曹国払・H緊μω︒︒︶と︑答えているが︑この見解は︑ビラソとはいささかちがってい
るようでもある︒
メーヌ・ド・ビランの美学(二)
この見解は︑一見︑美の根拠を快に置くもののように思われるが︑デカルトの場合は︑反理性的︑知性以前的快
楽説というよりは︑むしろ︑﹁対象に対するわれわれの判断﹂に重きが置かれている︑いわゆる主体性の美学であ
り︑美醜の判断は︑対象の問題ではなく︑主体の判定の問題であるとする︑近代美学の先駆となった見解であると
いう点が重視されるべぎであろう︒
﹁感覚の対象のうちで︑精神に最もここちよいものは︑最も容易に知覚されるものでもなければ︑知覚の最も困
難なものでもない︒感覚を対象に向わぜる自然的欲求を︑完全に満足させるほどは容易に知覚されず︑また感覚が
疲れるほど︑その知覚が困難でもないものがそうした対象である﹂︵∪Φωo騨︒昏ΦωOoヨ娼Φ巳ごヨ竃ロ蝕︒器・︾・日
国ロ・×・戸りb︒︶と︑十九歳の時に書いた処女作﹃音楽提要﹄において︑すでに主張しているように︑デカルトのい
う快は︑純生理的な完全受動としての快ではなく︑主体の自主的︑能動的な判定を経たものであることは明らかで
あり︑そのかぎりでは︑むしろビラソの見解に近い立場とも考えられるのである︒
私たちは︑デカルト思想を一貫している︑能動的︑主意的傾向を見落してはならない︒比較や配合のいとなみを
通して説かれる︑ビラソの知的︑能動的︑主意的な美の見解は︑むしろ︑デカルト美学の基本的立場を︑最も忠実
に継承するものであるとも考えられるのである︒
一方︑ビラソの知的︑能動的美学も︑その主知的な面だけを見てはならない︒美は︑知覚︑判断︑比較︑配合と
いった︑能動的機能を必要とはするが︑例えば︑﹁名画がかき立てる感動の中に︑知的にそれを判定するよりはむし
ろ︑それを感じとるといった形で︑われわれは︑その名画が流出してきた根源と︑それに霊感を与えた主導的能力
を認めるのである﹂︵蜀■ 勺・ b蒔蔭⑦︶と︑ビラソ自身もいうように︑ただ知的統一のみが美の原理ではない︒
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アダム・ス︑ミスも︑﹁われわれが︑美に関して抱いている感情が依拠している想像力に関する見解は︑きわめて繊
細で微妙である﹂︵司●即P瞳O.6h.﹀亀9ヨω§託けげ.目げΦ目げΦo蔓oh竃霞巴ω①ロ菖ヨ⑦導ω︶と︑語っているように︑
美の根拠には︑判断︑比較︑配合といった知的要素以外に︑いわば︑超知性的な発動性︵ビラソでは︑これは︑努
力感としてあらわれる能動的︑主意的な自我の︑内感の原初的事実ということになろう︶の存在が必要であろう︒
すでにふれたように︑一見︑知性以前のものと考えられていた欲望や感動や情念は︑美の領域では︑もっともっ
と深い︑重要な意義を持っているのである︒
﹃メーヌ・ド・ビラソにおける美術の哲学︵卜職︑ミ︑o偽魯ミ馬§防窃ミミ訣−缶ミ侮ミ禽・ミミミ§切︑蓉ミ・HΦbo鼻︶bd巳・
一〇含昌畠︒一9ω09蝉ひh轟昌0嚢︒一ωo島︒℃三δωoや三〇・おb︒倉所載﹄という︑興味深い論文を書いたレイモン・ルノワー
ル︵閃ρ嘱ヨoPらピ︒頃︒げ︶も︑ビラソの美についての見解を︑次のように語っている︒
﹁ビラソは︑われわれの感動と︑想像的躍動︵2雪ω一日9︒σqぎ9二hω︶の基盤を構成する動ぎの把握につとめてお
り﹂︵着り一畠・づ.㊤Qo︶︑﹁情念を深めることで︑印象はいっそう増強され︑いっそう熱を帯びて︑明確に︑かつ永遠的に
表わされると考えていた︒﹂︵岩り一山︒b●㊤Qo︶
また︑﹁創造は自発性を予想し︑情念の協力を期待し︑そこでは欲望が主役であり︑﹂︵一げ山住・O・目OO︶﹁人は︑情念
なしには︑何ごとにも大をなしえない﹂︵§αも﹂OO︶し︑また︑﹁芸術家は︑意志から独立した動きに従うが︑こ
れは一種の本能︵ぎωけ貯9︶によって︑対象を︑幻影︵崖自ωご昌︶の領域の中で︑知覚の領域から脱出させ︑驚くべ
きもの︵旨PO﹃くΦ一一一①=×︶に向わせる﹂︵葦αも昌Oじと語って︑ビラン美学の根底にひそむ︑超理知的な情念の奔騰
の重視を指摘してはいるが︑それでもやはり︑彼の美学が︑感受性と情念のみでは︑芸術の本質の理解には不充分
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メーヌ・ド・ビラソの美学(二)
であると︑主張している点に留意して︑次のように指摘しているのである︒
彼は︑情念や︑霊感や︑本能の偉大さを強調したビラソの立場を礼讃しながらも︑﹁人は︑情念なしには︑大をな
しえないが︑この情念は︑感覚によって受入れられた印象の中での︑精神の反作用の力に均衡しており︑この反作
用そのものは︑反省が前もって形成していた︑観念の連合に依存しており﹂︵一σ一α︒℃・HOO︶︑﹁能動性は好み︵嘆⑨
h騨①口oo︶の中にはなく︑意志は欲望の中にはない︒それらは配合の中にある︒﹂︵凶び凶α︒℃のμOO︶また︑﹁ひとは︑比
較したあとではじめて好む︵胃ひh爾9︶﹂︵ま準︐日OO︶のであり︑﹁美の成立のためには︑知覚︑心象︑知的観念
(一?ひOω ビP紳Φ一一〇〇けd﹁①一一Φω︶の総体が︑或る一つの秩序の中で︑相互に配合され︑継起することが必要である﹂︵一群9
PHOH︶とする見解にふれ︑ビラソ美学の本性の深部に迫っているのである︒
さて︑これまで見てぎたように︑ビラソの美的見解は︑その理論的根拠からすれば︑﹁知覚の体系﹂の叙述に見ら
れるように︑注意︑比較︑配合︑抽象などの︑主意的︑能動的︑知的判断に最後を託する︑﹁主知的合理主義美学﹂
の範疇に属するものであることは明らかである︒
例えば︑﹁相互に関係し合っているこの均衡と秩序の統一は︑われわれの知覚と比較能力の︑自然的法則である︒
⁝⁝本質的で原初的な︑これらの法則の観察されるもろもろの配合が︑われわれの中に︑美の理念︑あるいは美の
感情を目覚めさせる︒﹂︵男.℃・O・心切O︶
また︑﹁反省と深い研鎭とが︑偉大な芸術家を︑本質的で真実の美の源泉に導く﹂︵喝●℃●b●らq①︶のであり︑﹁す
ぐれて美しいということは︑極度に錯綜した諸部分の中から︑素描の統一を︑そして︑運動の無限の多様の中から︑
力の統一を見出すことのできる︑知性ある存在にとってのみである﹂︵男●℃●弓.蒔αQo︶などのビラソ自身の表現は︑
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彼の知的美学の立場を︑きわめて明確に示している︒
しかしわれわれは︑その反面︑そうした主張の背後に︑常に欝勃として燃えたぎるように︑超知性的︑霊的︑本
能的情念の熱気が︑その思想に大ぎな活力を与えている事実をも︑否定することができないのである︒
例えば︑﹁模倣は抱束である︒芸術の天才はそれを欲しはしない︒あらゆる模倣は︑熱狂︵Φ曇げ︒器冨ωヨΦ︶を排
除してしまう︒熱狂のないところに天才は存在しない︒﹂︵聞︒℃・ ℃心蜘ω︶﹁精神が美の観念をつくりあげるのは︑自
然に離ればなれになっている諸部分の配合︑あるいはその集大成によってでは絶対にない︒天才は︑その力の中
に︑反省によってかちえられた所与を持ち︑感情の熱気によってみずからに霊感を与え︑この美の観念を一気に感
得するのである﹂︵岡. ℃● ℃蔭α刈lQ◎︶などというビラソ自身の表現を︑われわれは︑よく噛みしめて味わうべきでは
なかろうか︒
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以上︑ビラソ自身の表現を︑あれこれ践養した結果︑彼の美的見解の本性が︑ようやく明確に浮び上ってきたよ
うである︒すなわち︑いましがた述べたように︑美学理論の立場からすれば︑彼の見解は︑知的︑能動的︑理性主
義の美学に属することは明らかである︒にもかかわらず︑同時に彼は︑この立場とは全く相容れないような︑すべ
て偉大なものは︑神の狂気の産物であると説いた︑デモクリトスやプラトンの非合理的な熱狂の美学を︑熱っぽく
強調している事実も︑今しがた瞥見した通りである︒
彼自身は︑この矛盾した二つの見解をどのように融合させているのか︒ビラソ美学の︑最も重要な最後の課題
は︑多分ここに存在するであろう︒
メーヌ・ド・ビラソの美学(二)
さきに私は︑美と快との関係において︑ビラソの美学は︑形の上では︑デカルトの美学と対照的ではあるが︑実
は︑内的にはきわめて深い親近性を持っていることを指摘しておいたが︑デカルトの美的見解においても︑ビラソ
に見られるような︑矛盾する二要素の対立が見られることは周知の通りである︒
このことに関しては︑すでに私は詳細に論じたことがあるので︵﹃デカルトと美学﹄早稲田人文自然科学研究第十
五号︑一九七七年︶︑そちらを参照して戴ぎたいが︑彼の美的見解の中には︑e美の認識は︑主体の快の認識にほ
かならないとされ︑その快の要因は︑﹁対象と感覚との間の均衡︵凛8︒ao︶にあり﹂︵U①ω§属Φω旧Oo目O①ロ島ロヨ
9器8器・︾.日・×●や申︶とする︑美︵快︶の合理論的解明の立場や︑身体器官のメカニズムの研究から︑感情や
情念や快の原理を︑これによって究明しようとする︑科学的合理主義の立場と︑口例えぽ︑いかに綿密な計算を重
ねても︑逼る音が︑何ゆえにここちよいのかを示してはくれないと説き︵UΦω︒舞89ピ︒詳等位冨①屋窪昌ρ品評£霞・
H①ωO・﹀.目●H.℃・HO︒︒︶︑昔の人は︑楽理の研究において今日の人には劣っているが︑音楽の偉大な本性を︑より多
く持っていたために︑もっぱら﹁想像力という唯一の力︵一9ωΦ巳ho8Φ自①一︑一8曽oq一二萬8︶﹂によって︑楽理の勉
強に追われてこの力を喪った今日の人以上の︑偉大な仕事をおこなったとして︑内的︑発動的情念を高く評価する
立場が︑互に矛盾をはらみつつ混在しているのである︒
また︑美学を離れても︑デカルトの思想は︑初期の主知主義的な合理論が︑さまざまな矛盾と発展的展開をはら
みつつ︑晩年の主意主義的な能動の哲学に移行してゆくことも周知の通りである︒
こうした︑矛盾をはらんだデカルト思想の展開の契機となったのが︑意志と想像力である︒﹁想像力という唯一の
力﹂の表現で︑至高の活力の源泉とされるこの﹁想像力﹂は︑初期のデカルトにあっては︑感覚器官の︑単なる受
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動的能力︑物体的なものの形︑あるいは像を眺める能力にすぎなかった︒︵Uoω8昌①ω・竃①巳富二8ω・︾・↓・H×山・
︐b︒b︒︶ところが︑やがてこの想像力は︑意志のはたらきに合体し︑内的︑能動的活力と︑深い冥想性を伴う豊かな
創造性を含意する概念に移行してゆくのである︒
知性の美学から熱狂の美学への︑主知主義の哲学から主意主義の哲学への︑円滑な移行の重要な契機の役を果し
たのが︑ほかならぬこの﹁想像力﹂という概念である︒この間の事情についても︑前述の論文で詳しく検討してお
いた︒意志との関係を通しての︑想像力の意味の変遷を介して︑デカルトの形而上学と美学に介在する矛盾は︑或
る程度解消されるように思われる︒
きわめて類似した矛盾をはらんだ︑デカルトとビラソの美学の親近性を考え︑この両者が︑ともに﹁想像力﹂の
語に︑特別の意味を見ようとしていることから︑ビラソにおいても︑デカルトに見られたような事情が存在し︑デ
カルトにおいて可能であったような解釈が︑成り立ちうるものかどうか︑検討の価値は充分にあるだろう︒
デカルトからベルグソソに至る近代フランス思想の流れの中での︑メーヌ・ド・ビラソやモーリス・プロソデル
の思想についての︑きわめてユニークな論文を︑﹃フランス・スピリチュアリズムの哲学︵δ︒︒ら︶﹄の題名のもとに
まとめられた増永洋三氏も︑ビランの﹁想像力﹂に関して︑興味深い指摘をおこなっておられる︒
内感と外感︑意志の能動と感覚の受動︑情念と理知といった︑相反する二項の対立のもとにその思索を展開する
のが︑ピラソ独自の思想の方法であることは︑すでに多くのビラソ研究家の指摘するところであるが︑﹁区別はされ
るが断絶はしていない﹂︑さりとて︑﹁合成ではあっても融合ではない﹂︵増永氏前掲書O・ω1心︶︑ビラソ思想を特徴
づけるこのユニークな矛盾対立を解消する︑独自の︵ωロ一隔四ΦづΦ同 ω︶概念として︑増永氏も﹁想像作用﹂をあげてお
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メーヌ・ド・ビランの美学(二)
られることは︑デカルトにおいて同じような見解を抱いたことのある私にとって︑まことに示唆に豊んだ指摘であ
った︒
氏の見解の骨子は︑純粋な身体機能としてのかぎりでは︑完全に受動的ではあるが︑心象の自由なる構成においては︑明らかに能動的であるこの想像作用こそ︑矛盾対立する二項の中間に位置し︑これの解消のかけ橋の役割を
果すべぎものと解される︵陣び一ユ・b・①︶︒さらにデカルトの場合とも通じ合うこととして︑ビラソの思想展開の過程
における︑この概念の意味内容の変遷をあげておられる︒すなわち︑初期においては︑純粋な身体機能と解されて
いたこの作用は︑中期に至って︑次第に二元的傾向を強め︑晩年に至っては︑むしろ二元的対立をこえ︑人間の具
体的︑全体的把握を目指す人間学︵きけ冨80ざαqδ︶の観点に結びつくものと指摘されている︵子一α・勺刈︶︒
これはまことに説得力のある重要な指摘であり︑いずれ私もこの示唆にもとづいて︑ビラソの各時期の著作に見
られる︑この概念の意味内容について︑さらに詳しく検討したいと考えているが︑とりあえず︑﹃美について﹄の中
に見られる︑想像力についての︑ビラソ自身の見解をとりあげておくことにしよう︒
ビラソはここでは︑想像力を︑﹁理念的な美の原型﹂を生み出すもの︑と考えており︑そうした美は︑﹁想像力が︑
不断に心に描き続けている︑いっさいの完全性によって飾られる﹂︵悶・勺・℃ら蒔αO︶ものと説かれている︒
また︑﹁悟性が︑同一記号のもとにおこなう類推に対して︑想像力が結びついて︑感受性の要求を満足させる別種
の類推は︑本質的には異るものである﹂︵腎.℃︒ 弓の心UH︶と語っているが︑この後者の類推が︑美や芸術に深くかか
わるものであることが主張されている︒
さらに︑﹁想像力をはたらかせ︑能動的な第一感受性︵ごωo旨ωま葭菰宮︒旨δHo①×興9ω①︶によって与えられた
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法則に従って︑想像力に無限の活動の舞台を与えるのは︑彫る種の︑かき立てられた感情︵ωΦ昌一一bPΦ昌け ①×O一一①︶で
ある﹂萄・即b.窃H︶と語り︑﹁天才は︑事物の本性の中に存在する諸関係を把握し︑さまざまな配合に適応させる
とき︑彼は︑みずからの想像力のほかには︑何の規範をも持たないのである﹂︵聞・頃● 娼・心αbo︶とも語っているが︑
ここに述べられている想像力は︑身体的受動に深くかかわるそれではなく︑明らかに︑受動と能動を︑主体の意志
的自発性のもとに融合しようとする︑内的︑積極的契機としての想像力である︒
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メーヌ・ド・ビランの著作については︑文中に記した通り﹃心理学基礎論﹄は男・即と︑
し︑ともに良︒︒ω︒冨巳版を用いた︒
デカルトの著作については︑いずれも︾α曽ヨ.目雪器蔓版︵﹀・目.と略記︶を用いた︒ ﹃人間学新論﹄は裟.﹀.と略記