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(1)

旨>関学発、 神戸の詩人さん :竹中郁の戦前・

戦後

著者 大橋 毅彦

雑誌名 時計台

号 89

ページ 2‑11

発行年 2020‑04‑01

URL http://hdl.handle.net/10236/00028631

(2)

 20 歳代前半の半年間を東京で、また 2 年余りをパリ遊 学に費やした以外、その生涯の大半を神戸で過ごした詩 人竹中郁のイメージを問われれば、たいていの場合引き合 いに出されるのが、〈シネ・ポエム〉と銘打った詩「ラグビイ」

に象徴される、いわゆるモダニズムの詩人としてのそれで ある。パリから戻ってまもなく刊行された詩集『象牙海岸』

(1932・12 第一書房)に収められたその詩は、「1 寄せて くる波と泡とその美しい反射と。/ 2 帽子の海。 / 3 Kキ ッ クick oオフ

f f! 開始だ。靴の裏には鋲がある。」と始められていて、

各行の冒頭にアラビア数字の番号が冠され、さながらスク リーン上の映像が次々と鮮やかに切り替えられていくさまを 彷彿させるような出来栄えを呈している。

 次いで指摘されるこの詩人の働きと言えば、戦後から現 代にかけての児童詩の普及において大なる功を挙げたこと であろう。寝床のなかで子供の一人と背中合わせで寝た 状態を「この動悸うつ木の柱にくくられて / 手足もしびれ る たのしい たのしい磔はりつけ刑」とうたう(詩「たのしい磔刑」

〔詩集『動物磁気』〈1948・7 尾崎書房〉所収〕)ように、

〈こども〉が発する生命のきらめきに胸を打たれること多 かった竹中郁は、児童詩の発表舞台となった雑誌「きりん」

(1948・2 創刊)の編集の中心人物として 23 年間という長 きにわたって活動を続けたし、そうした彼の一面を顕彰す る企図もあって、彼の没後には『竹中郁少年詩集 子ども 闘牛士』(1984・3 理論社)が僚友らによって編まれている。

 今回の講演では、大学図書館、博物館、学院史編纂室、

個人所蔵の学術情報資料を用いて、詩史的にはそのよう に位置づけられている竹中郁の存在を、彼と〈神戸〉との 繋がりにも言及しながら、より身近に感じてもらうことを目

標の一つにした。とともに、今回紹介する資料の中には、

竹中郁が狭義の詩人の範疇を越えて、より多面的な芸術 文化活動を行っていたことを示すものも多数含まれている。

そういった “詩人にプラスα” し得るものの魅力といったも のにも目を向けて、それらを伝えていきたい。

 先に「たのしい磔刑」という詩を紹介した。〈磔刑〉を 形容するにあたって〈たのしい〉という語を持ち出してくる ところ、本文を読めば「なるほど、たしかに」と腑に落ち るとともに、それがいかにも詩人としての脂の乗っているこ との証明になっているとも言えるのだが、その一方、こうし た機知に富んだ表現は、すでに竹中郁の詩の初発期から 萌しているものでもあった。

 たとえば、1926 年 6 月 15 日発行の「関西学院新聞」

第 21 号に載った「関西学院風物詩」という作品。「▲中 学部校舎」以下 8 つの短章のオムニバス形式から成ってい て、関西学院学院史編纂室池田裕子執筆・編集の『Voices from the Past to the Future - Recollecting the History of Kwansei Gakuin,1889-1940』(2013・12 関 西学 院 大 学博物館開設準備室)に収録されている “1925 Hara- da-no-mori campus map”(原資料は『高商卒業アルバム』

1925 年)や往時の写真と突き合わせて見たならば面白い、

関西学院のキャンパスが神戸市東郊の通称原田の森と呼 ばれる場所にあった時に書かれたものだが、その中の一章

「▲弓術道場」はわずか 2 行ながら「張り切らない弓は的 をはづれる / 張り切らない恋は女をはづれる」といった、

気の利いた言葉を連ねている【図版 1・2】。

文学部教授 

大橋 毅彦 第26回(2019年度) 大学図書館学術資料講演会要旨

関学発、“神戸の詩人さん”

竹中郁の戦前・戦後

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 1926 年は郁が関西学院文学部英文科を卒業した(卒業 論文は「近代詩に於けるウオルタア・ド・ラ・メーアの位置」

と題して、イングランド出身の 20 世紀前半に活躍した、幻 想小説や妖精詩集の担い手であるウォルター・デ・ラ・メー アを論じたもの)年であるが、それまでの学生生活の間に あって、すでに彼は同世代の仲間たちと相呼応して、いく つかの同人雑誌に積極的に参加していた。関西学院文学

会が編んだ『文学部回顧』(1931・1)は、1920 年代の関 西学院における学生たちの文芸文化運動の推移を活写す る好個の資料だが、それにもとづいて郁の活動の一端を 拾えば、英文科入学してまもなく同学科の機関誌「関西文 学」に詩を載せ始め、やがて学院内で割拠する諸団体中

“横顔派”という異名をとる同人誌「横顔」の主要同人となっ ていることが確認される【図版 3】。

図版 1 郁の詩「関西学院風物詩」の一節(「関西学院新聞」第 21 号 1926・6・15)。

図版 2 “1925 Harada-no-mori campus map”(関西学院史編纂室池田裕子執筆・編集『Voices from the Past to the Future-Recollecting the History of Kwansei Gakuin,1889-1940』〔2013・12 関西学院大学博物館開設準備室〕 : 原資料は『高商卒業アルバム』1925 年)。

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 そればかりではない。「横顔」は関西学院の学生たちを 中心としつつも、この時期の神戸で活動を開始していた前 衛美術家の浅野孟府、岡本唐貴とも繋がりを持っていたが、

竹中郁も自分の在籍する学校の看板を頼りにするのとは異 なって、自分自身がその主宰者となることを目指してのアク ションも起こしていたのである。アポリネール六年忌詩展 を三宮の「カフェ・ガス」で開催した折(1924 年 11 月)に 郁と行動をともにしていた、兵庫県立第二神戸中学校の先 輩である福原清と語らって始めた同人詩誌「羅針」の創刊

(1924 年 12 月)がそれである。

 「羅針」の発行所には須磨にある郁の自宅があてられた が、同発售処は「海港詩人倶楽部」と銘打たれ、そこか ら同人たちの詩集も矢継ぎ早に刊行されていくことになる。

その先陣を切ったのが 1926 年 2 月に刊行された郁の第一 詩集『黄蜂と花粉』だった。そこに収録された、「横顔」、

「羅針」を中心に、「関西文学」、「射手」、「豹」などに発 表してきた計 52 篇の作品群には、軽快にしてフレッシュな 感性や、すでに指摘してきた詩的ウィットが存分に発現さ れている。例を 3 篇ほど挙げてみよう。それぞれの引用の 冒頭に掲げた語が作品タイトルである。

 「《撒水電車》  この移動噴水は / 懶い午ナ ッ プ睡をさまして ゆく // 見よ!/ 颯爽と / 街ま ち路の篠プ ラ タ ン懸樹は整列した」

 「《雪》  だまつて この羽毛に埋れてゐやう きれい な白鳥の羽交締だ!」

 「《氷アイスクリーム菓》  こんな冷たい接ベ ゼ吻があるものか / それに うつかりしてゐると / 対あ ひ て手は夢のやうにとけてしまふ / は かない恋の一ひととき時だ!」

 いかがであろうか。「撒水電車」は「移動噴水」に、「雪」

は「白鳥」の「羽毛」に、「 氷アイスクリーム菓 」は「冷たい接ベ ゼ吻」に、

それぞれ清新な感覚の下で譬えられている。雪に包まれた 快さを示す「きれいな白鳥の羽交締」という言葉が持つ表 現上の効果は、例の「たのしい磔刑」のそれを先取りして いる。

 また、互いの作品を相互参照すれば、郁の詩と「羅針」

に集った仲間たちのそれとが同じ空気を吸い、同じ息遣い を共有していることも興味深く思えてくる。すなわち、郁は

「氷菓」を「冷たい接ベ ゼ吻」に譬えたが、福原清は「曹ソ ー ダ達水」

を「すずしい接吻」だとする。『黄蜂と花粉』に遅れるこ と半年、海港詩人倶楽部から刊行された福原の詩集『ボへ ミヤ歌』(1926・8)に収録された詩「曹達水」の本文は「私 の想像は / はれやかにしぶく曹ソ ー ダ達水のなかに / あの女の 微笑をうかべる…… / そして更に私の情感が欲するとき / すずしい接吻が咽の ど喉をとほる……」というものだ。

 もう一人の同人で関西学院を中退、その第一詩集『樹木』

が 1926 年 4 月にやはり海港詩人倶楽部から竹中郁の跋文 を添えて出された時、彼自身はパリ音楽学院で学んでいた、

後にセロ奏者となった一柳信二の場合は、〈お嬢さん〉とい う西洋くさいハイカラな響きを持つ言葉を作品に取り込ん

図版 3 竹中郁「大正末期のこと」(『文学部回顧』所収「回顧録」〔1931・1 関西学院文学会〕)。

この中で郁は「関西文学」の合評会のことなどを振り返り、「かうした 会合は記憶にはつきり残つてゐて、今でも私は楽しくなる」と述べている。

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でいる点で郁と繋がる。つまり『樹木』の方には、「お起き なさい お嬢さん / もう陽が上りました / はやく朝のお化 粧をすまして / 今日はどなたを御訪問」と軽快なタッチで 始まる「五月のお嬢さん」、そして『黄蜂と花粉』の方にも「と んと 気まぐれなお嬢さん! / じつさいわたしは途方にく れてゐるのです / 季節の移りかはりよりはやく / 猫の目の やうにくるりくるりと / かはつてゆくあなたのこころ / お嬢 さん!」といった呼びかけ口調で始まる「とんと気まぐれな お嬢さん」が載っている。

 とはいえ、この〈お嬢さん〉という詩語は、すでに彼ら より前に同じ語を用いた「緑色の笛」(詩集『青猫』〈1923・

1 新潮社〉所収)や、これもまたハイカラで西洋風な響き の「五月の貴公子」といった作品も書いている、大正期の 口語自由詩開拓者の萩原朔太郎によってしかるべき役割を 与えられていたことを付言しておかなければならない。そ うした観点に立てば、郁の「雪」に見られる抒情と機知 の入り混じった表現も、 堀口大学の訳詩集 『月下の一群』

(1925・9 第一書房)に収められているアポリネールの「雪」

が歌う、料コ ッ ク理人になった天使が毟る鵞鳥の毛に倣って発想 されたものであるとも言えよう。そして、「撒水電車」や「氷 菓」(ついでに言えば福原の「曹達水」)における詩の題材 の選定や本文の表現を再度見てみるならば、それがはたし て郁(や福原)の独創によってのみ成り立っていたのだろう かと思われる節がやはりあるのだ。ただし、この場合、そ の導き手となるのは彼らに先行する詩人ではない。それら の作品を下支えするものは、それが書かれた 1920 年代半 ばの神戸という都市の文化空間と、その内実を伝える活字 メディアの中に求められるように思う。

 たとえば、1924 年 7 月から 8 月にかけての「大阪朝日新 聞」の「神戸附録」の欄外には、三星堂の新装を告げる広 告が頻繁に登場する。神戸元町 6 丁目に店舗を構える三 星堂は、元は薬舗として出立した店だが、この時期の神戸 の中心地におけるカフェ文化の浸透にあやかって、新たに

「ソーダファウンテン(ソーダの噴泉)」という一角を同店舗 内に設ける。そして、夏向けの趣向を感じさせるこの喫茶 部が用意した宣伝文句の一例を拾えば、「白銀のファウンテ ンより迸り出る清冽なるソーダ水の泉」(1924・7・5)といっ た具合。文字の横には、泉水の中に立ってソーダ水を噴き 上げる魚を抱きかかえた〈小便小僧〉ならぬ〈ソーダ小僧〉の

カットが添えられている。むろん、ソーダファウンテンのモー タールームに設置された電動器械が提供するのはそれだけ ではない。「清冽なソーダ水」とともに「涼しいアイスクリー ム」も供される。8 月 22 日付の新聞には、お下げ髪の少女 の顔と、その口から伸びているストローと、グラスに入った 何やら泡立った飲料の絵とがイラスト風に組み合わされて、

「暑い暑い時に 三星堂の 冷たい 冷たい アイスクリーム ソーダ」というように、「ソーダ水」と「アイスクリーム」の合 体メニューの広告が載っている。元町に頻繁に出かけてい る「氷菓」の作者竹中郁と「曹達水」の作者福原清にとっ て、これらの嗜好品は身近なものに感じられていたと想像 してよかろう【図版 4・5】。

図版 4 三星堂ソーダファウンテンの広告(「大阪朝日新聞」1924・7・5)。

図版 5 三星堂ソーダファウンテンの広告(「大阪朝日新聞」1924・8・22)。

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 一方、「撒水電車」の場合の肝は、〈街ま ち路の篠プ ラ タ ン懸樹が颯 爽と整列する〉ところである。関西学院中学部出身の稲垣 足穂の短編小説「星を売る店」(「中央公論」1923・7)の 冒頭でも、「山本通り」に並んでいると描出されているよう に、「篠懸樹」=プラタナスは、いかにも西洋からの風をふ んだんに浴びたエキゾティックな港都神戸に相応しい街路 樹に用いられた落葉樹なのだが、この樹木を当時神戸市 内を走っていた路面電車の沿線に植え込む計画があること を報じる記事が、これもまた 1924 年 3 月 27 日付の「神戸 附録」に掲載されている。そして、その見出しが「街路樹 に飾られる神戸 プラターヌや銀杏の緑葉に包まれる電車 沿線 優しい都会の番兵よ」という表現をとっているのだ

【図版 6】。この最後に出てくる「優しい都会の番兵」に見 立てられるプラターヌは、ほぼそのまま「見よ!/ 颯爽と / 街ま ち路の篠プ ラ タ ン懸樹は整列した」と歌われる篠プ ラ タ ン懸樹のイメージと 重なるだろう。

 むろん、それは、郁がこの記事を読んで記憶にとどめて おき、それを自らの詩作に際して利用したということを直 接意味するものではない。そうであったかもしれないし、

そうでなかったかもしれない。同じことは詩「氷菓」と三 星堂の広告との関わりについても言えよう。だが、次のよう なことだけは想像しても過たないであろう。つまり、もし竹 中郁がもう一人いたとして、そちらの郁が同じ時代に神戸と は違う場所、たとえば電動器械でたちどころに氷菓を作る 店などは見つけようがなく、その代わりに越前出身の詩人

中野重治の詩に出てくるような、長くて寒い冬の夜に囲炉 裏端で暖をとる人々のところへ酒の糟売りが訪うような村 で生活していたなら、おそらくこうした詩はなかなか発想 し難かっただろうと。『黄蜂と花粉』には「晩夏」と題す る詩もある。「果く だ も の や物舗の娘が / 桃色の息をはきかけては / せつせと鏡をみがいてゐる / 澄んだ鏡の中からは / 秋が しづかに生れてくる」が本文だが、これとても、探せばそ れに近いイメージを提供する記事や広告が見つかるかもし れない。

 「羅針」を繰っていて興味深く思われるもう一点は、他 の詩雑誌とこの雑誌との間に存在しているネットワークの 広がりである。大正末から昭和初期にかけての文学界は いわゆる同人雑誌繚乱の様相を呈していたが、そうした時 代の中にあって幾多の詩雑誌が「羅針」同人に向けて寄 贈された。その中でとりわけ注目したいのは、同誌第 3 号

(1925・2)の「編輯後記」の「一月受贈雑誌」から、安 西冬衛、北川冬彦が中心となって、中国の遼東半島先端に 位置する海港都市大連で刊行されていた「亞」の名が載り 始めたことである。ちなみに「亞」第 18 号(1926・4)で、

安西は『黄蜂と花粉』の読後感を記している(「安西覚書」

の「四 詩集「黄蜂と花粉」ノ記」)。また、「蛙」の詩人こ と草野心平が留学先の中華民国広州嶺南大学で同人詩誌

「銅鑼」を創刊したのは 1925 年 4 月だが、このガリ版刷 り雑誌の巻末にある「寄贈雑誌」中に「羅針」の名を見出 すことができる。このように、海を越えた同世代の詩的交 流の一端も郁の活動は担っていた【図版 7・8】。

図版 6 「プラターヌ」を「優しい都会の番兵」に見立てた新聞記事

(「大阪朝日新聞」1924・3・27)。

図版 7 「羅針」第 3 号(1925・2)〔関西学院史編纂室所蔵〕の「編輯 後記」中に掲載された「一月受贈雑誌」。「亞」が確認される。

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 ところで竹中郁は美術の分野にあってもさまざまな足跡 を残している。兵庫県立第二神戸中学校時代に同級の小 磯良平と大原コレクションの絵画を見に行ったエピソードが あるように、すでに少年時代から美術への関心を抱いて いた彼が結果的に関西学院に入学したのは、東京美術学 校を志望したが養父母の反対にあったがためであり、後 年(1969 年)大阪の梅田画廊が美術雑誌「木」を創刊し た際には編集責任者ともなっている。そんな彼なので画才 の片鱗を示すことしばしばであり、たとえば今回展示した 資料中には、関西学院英文科機関誌 「関西文学」第 1 輯

(1924・6)に寄せた牧歌的なタッチの表紙絵があり、戦 後に転じれば、中突堤近くの神戸栄町 3 丁目にある西村 屋旅館主西村貫一の始めた文化人のサロン的な集まりが出 発点となり、やがてそこには名うての文化人が全国から稿 を寄せてくる「へちま倶楽部」の機関誌「KINYO」(1949・

1 創刊)の表紙が、一定期間郁の意匠になるデッサンで飾 られたこともある【図版 9・10】。

 このように〈余技〉の域を越えた才を実践において示し ている竹中郁は、それと同時に先に名を挙げた小磯良平 にとどまらず、数多くの美術家たちと交流していく。その 様相を具体的に拾って行かれる格好の資料として「ユーモ ラス・コーベ」を紹介しておこう。

図版 8 「銅鑼」創刊号(1925・4)に掲載された「寄贈雑誌」。「羅針」

が確認される。

図版 9 「関西文学」第 1 輯(1924・6)〔関西学院史編纂室所蔵〕に 郁が寄せた表紙画。

図版 10 へちま倶楽部の機関誌「KINYO」(1950・10)に郁が寄せ た表紙画。

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 「ユーモラス・コーベ」(「ユーモラス・ガロー」と改題さ れた時期もあり)は、元大阪毎日新聞社神戸支局員の大 塚銀次郎が神戸元町の鯉川筋にオープンした通称「神戸 画廊」から出ていた、画廊の PR も兼ねた機関誌・情報誌 であって、兵庫県立美術館には 1932 年 1 月発行の第 1 号 から 1939 年 1 月発行の通算 32 号に該当するものまでが 所蔵されている。竹中郁はそこに、他の新聞メディアに発 表した展覧会評の再録も含めて、積極的に寄稿している。

 そして、その内実が面白い。「ユーモラス・コーベ」全般 の傾向は、その誌名からもうかがわれるように、美術の専 門家のみを対象とするお堅い鯱だったものとは対照的に、

軽妙洒脱な色合いを前面に押し出しながら、神戸美術界 の動向、絵画・工芸の魅力を伝えていくものであったが、

そうした雰囲気をたちまちのうちに察知し、それを後押し するかのように、郁は「白髪野若造」というペンネーム(た しかに後年の郁はふさふさした銀髪の老人になっている。

おそらく若白髪も目立っていたのであろう)を用いて、兵 庫県美術家聯盟第 5 回展の開催を祝う「レンメイ元気ソン グ」(第 12 号、1933・1・15)なるものを寄せている。そ の歌詞はと言えば「チャカホイ チャカホイで / ブラシを振 れば / チャカホイ元気で / 絵がかけた / チャカホイ チャ カホイ」といった、郁が進学を果たせず、小磯がそこの西 洋画科を卒業した東京美術学校で当時流行っていた学生 歌「チャカホイ節」をもじった茶目っ気たっぷりなものであ る【図版 11】。

 その一方、神戸のローカリティを前景化していくことを持 ち味とする美術家の発掘、紹介に努めることも郁の仕事で あった。その多くは「大阪朝日新聞」や「又新日報」といっ た日刊新聞を初出とするが、ここではこの時期「神戸百景」

や「曲馬帖」などの色摺木版画集を世に問い、神戸画廊 でも個展を開いていた川西英のことを彼がどのように評し ているかを見てみる。「ユーモラス・コーベ」第 13 号所収

「川西英の版画展」の一節にこうある。「ピカソがいつた『阿 片の匂ひはよいものだ。曲馬か海港かゞこれに匹敵するの みだ』と。(中略)ピカソのこの言葉はまるで川西氏の芸 術をながめて発せられたかのやうだ。/ この古い港で生れ 育つてきた人間のみが感じる異国風なノスタルヂイと、あ の少し寂しくうら悲しい曲馬と、いつも疲れた心を愛撫して くれる海港の景色にことよせて、純情な川西氏は人しれず 自分の芸術をもりたてゝ来られた。それが開花して罌粟を さかせ、私はそれを嗅ぐだけで阿片に酔ふたやうになるの である」。海港都市神戸の持つ異国情緒を芸術の世界に昇 華した版画家として郁が川西を高く買っていることはすぐ にわかるが、ここでのエキゾティシズムが、たとえばダンス ホールといった華やいだ西洋イメージのみに回収されるも のではないことに注意を払う必要がある。

 なぜならば、竹中は、川西の創作版画の魅力を、「明 治・大正・昭和の新感覚」とともに、「古来」から「日本 人の芸術の一面」を支えてきた「洒脱」という「なつか しい精神の故郷」を感じさせるところにも求めているから だ。そして、この特性を育んだ一因として川西が「兵庫の 古い商家の出」であることを挙げつつ、そういう郷土の 恩沢は自分の芸術にも及んでいると郁は言う【図版 12】。

図版 11 竹中郁・作「レンメイ元気ソング」(「ユーモラス・コーベ」

第 12 号 1933・1・15)〔兵庫県立美術館所蔵〕。

図版 12 郁が「絵草紙趣味をねらった」(「ユーモラス・コーベ」第 28 号 1935・3・20)作品だと評した、川西英の木版画「カルメン」第二幕

(「ユーモラス・ガロー」第 23 号 1933・12・15)〔兵庫県立美術館所蔵〕。

(9)

厳密に言えば、「兵庫」と「神戸」の文化史的位相には歴 然とした差異があるだろう。が、それとは別に、前者のそ れも包摂して後者が国際貿易港都市としての膨張を遂げて いるという立場から竹中の評言の意義を押さえるなら、そ れはこの時期の神戸の文化的風潮の代名詞としてしばしば 引き合いに出される「神戸モダニズム」なるものが、近代 以前の伝統文化とも接続し、いわば〈古風なモダン〉を醸 成する奥行きと広がりを持っていることを示唆している点 に求められるだろう。

 そういった神戸の街がアジア太平洋戦争による激甚な 被害を受けた後、翼賛体制に加担してしまったがゆえに公 職追放となり、神戸文化界の表舞台から姿を消した者もい た中で、それからの復興を図る上での一定程度以上の役 割を果たした者の中にも竹中郁の存在を見出すことができ る。

 たとえば、「神戸市文化連盟」の機関誌「神戸文化」へ の参加がそれである。戦時中に文化翼賛運動の一翼とし て設立された〈神戸文化連盟〉と呼称的には紛らわしいが、

こちらの方は、後者がいわば神がかり的な日本主義の下に 文化運動を一元的に組み込んでしまった反省を踏まえて、

そこに加盟する神戸市の諸団体がそれぞれ独自の立場を もち、それぞれ独自の主張をとることを第一義としながら、

現在を生きる人々の現実の社会生活の上に創造力が発現さ れていく文化様態を生じさせていくことを目指すものであっ た。竹中郁は同連盟の中核をなす 10 名の常任委員の一人 として、「神戸文化」創刊号(1947・8)掲載の「時評集」

の一つ「風俗時評」を担当しているが、その筆の運びは大 言壮語の風もなければ、鹿つめらしい調子のものでもない。

民主主義の実現を図ろうとするなら、排他精神の顕著な 現れであるような背中を向け合って坐るボックス式の喫茶 店の代わりに、誰とでも向き合って話し合えるベンチ式の

「キャフェ」の新設が待望されるというように、身近で生活 に密着した観点からの提言を試みている。

 同様の傾向は、続く第 2 集(1947・11)に載った、題名 標記が一文字違うが「風物時評」でも確かめられる。すな わち、連盟設立一周年記念の第 4 集(1948・7)に掲載さ れた、文化人と技術事業者が集って行われる「都市美と文 化を語る」座談会に先駆けて寄せたこの短文においても、

復興途上の神戸の街の現況を「元町二丁目」を受け持つ かたちで報告する任を負った竹中は、そこに建つ各店舗の 外観が自分に与える印象を具体的に述べながら、それらが

「建築」でなく単なる「箱」であるうちは町全体の美しさが 見出せぬではないかと、なかなか辛辣な歯に衣着せぬ言 葉を放っている。若い頃、同じ町筋を遊歩しながら、果物 舗の娘が桃色の息をはきかけてガラス窓を拭くと、そこか らは澄んだ秋が生れてくるといった詩想を練った詩人らし い直言であろう。

 戦後間もない竹中郁の芸術文化活動においてさらに注 目すべきものとして、大阪朝日会館を拠点として繰り広げら れたイベントに、彼自身ユニークな一役を買ったことが挙げ られるだろう。1926 年 10 月、大阪のシビック・センター中 之島、渡辺橋々畔、朝日新聞大阪本社北側に開設された 大阪朝日会館は、戦前はヨーロッパから多くの著名な音楽 家や舞踏家を招いての演奏会や公演、各種の美術展や映 画アーベントといった催し、こどもたちのための音楽教室 や絵画教室といったさまざまなイベントを通して、関西モダ ニズムの拠点となっていった【図版 13】。そして、戦時下 の空白を埋めるべく、戦後もまた、直ちに大阪朝日会館の 舞台は眩しさと華やかさを取り戻していく。

 中学校を出たての頃は懐具合が許さなかったものの、

追々とこのホールに出入りする機会も増え、そのたびに心 弾む思いをした竹中郁は、そんな会館の開館以来 25 年の 歴史を称えて 1951 年 12 月号(11 月合併)の「でもす」(会 館機関誌、「でもす」は DEMOS、ギリシャ語で 「民衆」「市

図版 13 完成当時の大阪朝日会館(『朝日会館史(大阪朝日編年史別 巻)』〔1976・10 朝日新聞社史編修室〕)。

(10)

民」の意)に、「そこへは太陽がふりそそいだ / 名誉のよ うに 刺戟のように / ふりそそいだ / ふりそそいで二十五年 / ときに煤もまじえ / 川明りもまじえ / 風のうなりもまじえ てふりそそいだ」と、いかにも「東洋のマンチェスター」こ と大阪の郷土性を彷彿させる詩句も交えた「朝日会館を讃 う」という詩を寄せた(引用は十そ ご う が ん河厳執筆『朝日会館史(大 阪朝日編年史別巻)』〈1976・10 朝日新聞社史編修室〉

に拠った)が、それより1 年半ほど遡る 1950 年 3 月には、

同会館で開催された小牧バレエ団公演 「グランド・バレ エ “アメリカ”」の制作にも携わっていたのである(ちなみ にこの時期の郁と朝日新聞社との繋がりは、たとえば彼が

「ACC」(朝日批評家集団)に加わっているという一事をもっ ても示されている)【図版 14】。

 この「グランド・バレエ “アメリカ”」は、同バレエのパン フレット中にある「解説」によれば、同月に西宮球場及び 外園で開催された朝日新聞社主催の「アメリカ博覧会」に 協賛して、朝日新聞文化事業団主催の下に関西在住の各 自の活躍ジャンルを異にした芸術家たちが協働して制作し たもので、第一部「バレエ「新世界交響曲」(ドボルザーク 曲)」、第二部「シンフォニック・ジャズ「アメリカ人の日本 見物」(服部良一新作曲)」、第三部「バレエ「ラプソディー・

イン・ブルー」(ガーシュイン曲)」より構成されている。こ の中で竹中郁がその制作に直接関わったのは「バレエ「新

世界交響曲」」で、具体的に彼が担ったのは「詩的構想」

であり、それ以外の役割とその担当とは、「装置衣裳」が 小磯良平、「演出振付」が小牧正英、「指揮」が朝比奈隆 である【図版 15】。

 詩人として本格的に出立して以降も、山本通 1 丁目にあ る彼のアトリエを頻繁に訪ねるなどして交友を重ねてきた 小磯とともに仕事をしていることにも興味をそそられるし、

小牧や朝比奈とともに名を連ねていることも注目されてよ い。なぜなら、小牧正英率いる東京バレエ団ならびに小 牧バレエ団は、それまでに「白鳥の湖」「シェヘラザード」

「コッペリア」「受難」「牧神の午後」の公演により、戦後 の大阪朝日会館の舞台に華やぎをもたらしてきたし、その 際の音楽指揮をとる朝比奈隆が牽引する関西交響楽団の 定期演奏会も 30 回近く開催されてきていたのだから。つ いでに言うと、小牧・朝比奈の交友は 1943 年の冬、上海 交響楽団演奏会の指揮をとるために上海に赴いた朝比奈 が、この国際都市でロシア・バレエの伝統を受け継ぐ活動 を続けていた「上海バレエ・リュス」の一員としてライシャム・

シアター(蘭心大戯院)で活躍する小牧と出会い、芸術家 として意気投合した時点から始まっていた。こうした大阪 朝日会館の舞台で活躍する両花形と相まみえて、バレエ台 本を書くことが、郁にどんな刺戟をもたらしていったか ?  「グランド・バレエ “アメリカ”」のパンフレットに掲載さ れている「新世界交響曲」のストーリーは以下のようなもの だ――「アメリカ大陸へ上陸した一青年が村におそいかゝ る怪鳥 “野蛮” を退治しようとして弓で怪鳥を射つが矢は

図版 14 「グランド・バレエ・“アメリカ”」プログラム表紙

(大阪朝日会館 1950・3・17 〜 19)。

図版 15 バレエ「アメリカ」をつくるひとたち(「グランド・バレエ・“アメ リカ”」プログラム口絵写真)。左から小牧正英・竹中郁・小磯良平・

吉原治良(吉原は第 3 部「ラプソディー・イン・ブルー」の舞台装置担当)。

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鳥にあたらず友人にあたる。そこへ別の白い怪物(以下二 回出てくる「怪物」も含めて「怪鳥」の誤りと思われる)が あらわれたと村の少年たちは告げてくる。最初青年はこの 白い怪物を悪魔の同族だと思つていたが、文明であること を知り、素直にこの白いものの精神をとりいれて腕力でな く愛と智によって “野蛮” の怪物を退治する。」

 「アメリカ博覧会」を記念する要素もストーリー中に織り 込まれていることがわかるが、同パンフレットに寄せた「は じめてバレエに―」と題した文章の中で、20 年近く前のパ リ遊学の折にいろいろ沢山のバレエを観た経験を頼りに、

バレエの台本作りという初めての仕事に臨んだ郁は、その 点にも触れつつ、台本より先に曲があって、しかもそれが 今回のドボルザーク「新世界」のように「ドラマチックなと ころの少ない」ものの場合、そこからどのようにして創作 バレエに見合ったドラマチックでファンタジーに満ちた筋を 立案していくかに苦労したと述べている。そして、それに 対して小牧が寄こしたアドバイスを振り返って、見せるもの としての急所をよく心得ている踊り手ならではの慧眼に感じ 入ったとも述べている。

 この発言は、芸術という言葉では一括りにできても、そ の諸分野にあってはそれぞれ違った才覚が必要とされ、か つまた厳然と存在していることの発見を指していると言えよ う。そして、それらの違いを持つジャンルの相互の交渉、

交流といったものは、一つの領域の中に立てこもっている 芸術家をより広い世界に連れ出し、彼(彼女)の創造意欲

を賦活していく契機ともなるものだ。おそらくそのありよう は、海港詩人倶楽部に集った仲間たちとの「詩」的交流と はかなり次元の異なるものではないか。

 むろん、同じ文章のなかで、次の機会には曲にとらわれ ず、最初から自由に台本を書いてみたいという抱負も郁は 口にしている。自らを中心として、芸術活動の拡充を願う、

ごく自然な願望である。しかし、それと同時に郁はこうも 言っている。「(バレエの)成功不成功の鍵は、作者、画家、

作曲家、按舞家のこの四つの横の連りにあるようだ。それ がうまく行きさえすれば、台本の出来不出来はそんなに成 果を左右するものではない。そんな考えがする。」と。こう した考えを宿すことによって竹中郁は詩人としても豊熟の時 を迎えていくのではないか。この時点で郁は 46 歳。彼の 芸術創造はまだまだこの先へと続けられていく。

大橋 毅彦(おおはし たけひこ)

1955 年東京都生まれ。関西学院大学文学部教授(文学言語学 科日本文学・日本語学専修)。博士(文学)。専門は日本近代文 学。早稲田大学大学院文学研究科博士課程後期課程満期退学。

甲南女子大学教授を経て 2004 年より現職。室生犀星から研究 をスタートさせたが、上海と神戸を窓にして、無名の存在も含む その地での文学者・美術家・文化人の活動の掘り起こしを行うこ とが目下の課題。主な著書、共著として『室生犀星への/からの 地平』(2000 年、若草書房)、『新聞で見る戦時上海の文化総覧

―『大陸新報』文芸文化記事細目』(2012 年、ゆまに書房)、『昭 和文学の上海体験』(2017 年、勉誠出版)などがある。

学術資料講演会チラシ 特別展示

学術資料講演会

2019年

11

29

﹇主    催﹈

関西学院大学図書館

﹇お問い合わせ﹈

関西学院大学図書館・運営課

☎0798546121

  間/

11月1日

(金)

12月6日

(金)※左記は休館日です 

11月3日()・4日()・

23日()・

24日(

  所/関西学院大学西宮上ケ原キャンパス

大学図書館特別閲覧室展示ケース ▼申込不要

  ▼定員100名

  演

関西学院大学

文学部 教授

大橋

毅彦

西西※駐車場がございませんので、会場へは電車バス等の公共交通機関をご利用ください。

13時 30分 15時

阪急神戸線「西宮北口駅」で阪急今津線宝塚行きに乗り換え、「甲東園駅」

より徒歩15分、または阪急バス5分。あるいは「仁川駅」より徒歩15分。

● キャンパスまでのご案内 仁川

阪急

美術館

甲陵中学校

西 甲東園教会

松ケ本公園 関西 学院前

県立西宮高等学校

仁 川 歯科医院 歯科医院

阪急電鉄今津線阪急電鉄今津線

原派出所原派出所

関学発、〝神戸の詩人さん〞

26回(2019)関西

右 : 「関西文学」表紙  左 : 「羅針」表紙

(学院史編纂室所蔵)

上:卒業アルバムより

(学院史編纂室所蔵)

下:『現代日本詩人全集 : 全詩集大成 ; 第13巻』より

(東京創元社, 1955 年)

竹中郁

(1904-1982)

参照