書紀(倭五王時代)の史実性 井上光貞氏説批判(大化前代の紀年 VI)
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(2) . 書紀 (倭五王時代) の史実性 井上光貞氏説批判 ) (大化前代の紀年 VI. 栗. 原. 薫. 序 『古事記大成』 4 歴史考古篇所収) で, 「六世紀以前 井上光貞氏は, 「帝紀からみた葛城 氏」 ( についての記紀の記載のなかから, 史実を探り出すということは,(史実である事を証明 する手がか りがほとんどないので)原則として絶望的である. ごく恵まれた場合でも著しく困難である。」とし, まず『帝紀』について, 「津田左右吉氏は, 応神以後の帝紀はほぼ信頼出来ると見ているよう である が, この問題を正面切 って論 じようとして居られないので, 帝紀の記載の信 悪性の度合いをはっき .こで私は, ここに問題を一歩すすめて, 帝紀の信悪性を改めて考察 りとつかみ得ないのである. そ してみようと思う. (抄)」 と問題を起された。 まず倭五王時代の 『帝紀』 各天皇の実在性を検べ, 『宋書』 と比較し, 「『神功皇后紀』 の故意による干支二運のくり上げの為に, 倭五王時代各天皇在 位年数の延長が行われたので, 紀年のくい違いは問題に しなくてよい。 名称, 続柄の一致から, 武 -- 雄略, 興 -- 安康, 済 -- 允恭, 珍 -- 反正, 讃 -- 履中又は仁徳とみてよい。 したがっ て『帝紀』のそれ以後の部分は架空の造作では なくて, よりどころがあったとみざるを得ない。(抄)」 とされた。 更に 『帝紀』 の各部門について検討し, 『宋書』 や金石文と 比較して 「倭五王時代の 『帝 紀』 は蓋然性があるという意味で, 皇子, 皇女の御事蹟, 天皇の御事蹟, 宝算, 崩御の年月日など を除いて, 史実にもとづくと推定して差支えないと思う。 (抄)」とし, 『帝紀』によって知り 得る葛 城氏について述べられた. 更に『帝紀』以外の部分に及び「葛城氏のことは, 『帝紀』以外にもまた, 若干考察の 手がかりが典えられている。」 とし, 「葛城氏のうちで記紀に最初にあらわれる葛城ソツ ヒコ伝承が, なにがしか史実を反映しているらしい。」とされたが, これはただ一例が, 史料として 必ずしも信頼出来ない 『百清記』 と合っているという事だけがより所なのである。 つまり不確実な 推測の域を出ない。 ここに記紀紀年の一部を辛酉起点半年一年紀年 (第一章で説明) とみて修正すると, 倭五王時代 の 『書紀』 の政府の公の記録より出た記事は, 十二例も 『宋書』 や 『好太王碑』 と一致するので史 実とみてよく なる。 政府の公の記録より出た記事 が史実である以上, 『帝紀』より出た記事も, それ に準じて考 えてよくなる。 つまりそれらの記事の史実性を, 井上光貞氏がされたより遥にはっきりとかつ強く 主張出来る様 になっ たの である. もはや蓋然性などと言う 必要はなくなった. そ の 事 に つ い て 論 じた い.. 第一章で辛酉起 点半年一年紀年とは何かについて 述べ, 実例三十一を七つに分類して掲げたい..
(3) . 栗. 原. 薫. 第二章で辛酉起点半年一年紀年が使われる様になっ た由来について論じたい. 第三章で政府の公の記録より出た記事が史実だと言う事を論じたい. 第四章で 『帝記』 より出た記事がそれに準ずる事について論じたい.. 辛酉起点半年一年紀年について. -- その実例三十一. -- --. 通常の干支の辛酉年の前半年を辛酉とし, 通常の半年を一年とし, 通常干支の順におく って行く 干支を辛酉起 点半年一年干支とし, 辛酉起点半年一年干支による紀年を辛酉起点半年一年紀年とす る. その様な辛酉起点半年一年干支と通常干支とを対照表示すると, 下の第一表の如く である. 第一表 (辛酉起点半年一年干支と 通常干支との対照表. 左は通常干支 右はそ れに応ずる辛酉起 点半年一年干支 である. 通常干支の肩に は漢字の数字 辛酉起点半年一年干支の肩にはアラビヤ数 , 字でおく っ て行くJ順序を示してある. 以下必要に応じ干支の肩 に相当する数字を付してある 一つ . の辛酉起点半年一年干支に 対応する通常干支は二つある. 辛酉1に対する辛酉- 辛り醇の如く に であ , る. 一 つの通常干支に対応す る辛酉起点半年一年干支も二つある 辛酉ー 2 る こ対する辛酉1 . , 壬戎 の如 くに である. 従って対応しない場合はもう一つの方を見ると対応している事がある 通常干支の又 , はそれより 30引いた数字を二倍したもの或はそれより-引いた のが辛酉起点半年一年干支の番号 となる. 又辛酉起点半年一年干支は通常干支の三十年 で六十年を-運する ) , 辛酉 I 2 壬戎- 壬戎. 奨亥. 1 辛未1. 1 発酉 3. ± 辛未. 1 辛巳2. 22 壬申- 壬午. 2 3 奏未 2 4 奏酉ニ 甲申. 2 6 甲戎 丙戎. 夫 丙子. 1 辛卯3. 3 葵巳3. 35 乙未. 辛酉- 丙寅六. 二 辛巳 丙戎天 二. 辛卯. エ. 、 丙申ノ. 七 1 2 丁卯 壬申. 32 壬辰. 士. 主 丁丑. 1 辛丑4. 甲子. 3 4. 奏亥三 岳瀞. 八 14 戊辰 甲戎 十. 十 八 34 戊寅 甲午. 甲子四. 5 乙亥1. 九 1 6 己巳 丙子 25 乙酉. 南. 究. 6 己卯 丙申3. 42 壬午一 壬寅. 3 - 葵卯4 4 4 葵未ニ 甲辰. 函 6 甲申 丙午4. 1 幸亥5. 3 奏丑5. 55 乙卯. ;. モ. 52 丁亥 壬子. I : 辛酉 2 壬辰- 壬戎 11. 辛未 宅 2 丁酉 壬申1. 45 乙巳. 8 乙丑五 長屋,. 7 丁丑1. 十 18 庚午 戊寅. 7 丁亥2 28 戊子. 主 乙亥. 9 己卯1 20 庚辰. 9 己丑2 30 庚寅. 7 丁酉3. 38 庚辰 戊戎. 千. 4 0 庚子. 7 丁未4. 玉. 9 己酉4. 9 己亥3. 48 乙酉 戊申. 50 庚戎. 7 丁巳5. 9 己末5. 3 三 発亥 4 奏巳ニ 甲子. 乙丑 国 6 甲午 丙寅. 丁卯 玉 8 乙未 戊辰. 己巳. 1 3 葵酉. 5 乙亥1. 元. 7 丁丑1. 1 己卯 9. 園. 7 丁亥2. 四 乙 巳五. 2 9 己玉: 30 庚寅. 兇. 3 丁酉 7. 幸 庚戎. 9 己亥3. 八 1 4 戊戎 甲戎. 5. 1 6 己亥 丙子. 22 壬寅- 壬午. 3 四 文未2 葵 2 4 奏卯ニ 甲申. 2 6 甲辰 丙戎. 奥 丙午. 1 辛卵3. 3 発巳3. 5 乙未3. 早 丁未. 8. 元 6 己丑 丙辰5. 1 辛巳2. 3 2 壬辰. 戊辰. 7. 一 八 4 戊子 5 甲寅. 国 辛丑. 図. 丁卯. 34 甲午. 奥 戊申. 25 乙酉. 3 6 己酉 丙申. 干. 5 8 庚寅 戊午 7. 四 十 1 8 庚子 戊寅. 2 8 戊子. 38 戊戎. 60 庚申 9. 1 0 庚午. 20 庚辰. 4 0 庚子.
(4) . 書紀の史実 き性. ! 寅蕎 麦諺 胡語 尾詳 辛亥 草葺茎壬子蓋 響 論丑豊 島量墾甲 1丁巳室 竃養蚕 戊午奏 暑震龍 己未弄 g 丙辰奏 董牽. 5 9 未 騨』許 己 60 庚申. かかる辛酉起点半年一年干支が, 『記』 『紀』 『法王帝説』 , , 『元興寺古縁起』 , 『住吉大社神代記』 2(例六 236 ) 『三国遺事』に, 合せて三十-ある。 その最も古いものは, 垂仁天皇誕生の壬午5 , , 最 3 0 ) である。 85 も新しいものは, 仏像が難波堀江に棄て られた庚寅 (例二六, 5 その三十一の実例を悉く分類した上で挙げたい. 1 )『帝紀』 2 ) 坂本太郎氏は, 『国史大系書目解題』 日本書紀, 『六国史』 で, 『書紀』 の資料を,( ,( ( ) ( 5 ) 政府の公の記録 6 個人の手 録 ( 4 ) 地方に伝えた物語の記録 『旧辞』 ( 3 ) , , , 諸氏に伝えた物語の記 , 『国史大系書目解題』 による。 『六国史』 のも実質的に同 )百済の記録 ( 8 記や覚書,( 7 )寺院の縁起,( 8 ){ ( 3 1 3 5 ) 7 ) )は諸氏に伝えた記録に直す} ) ) じ) に分けられた。 三十一の実例中に, その( ,( ,( ,( ,( )を取り去り, 金石文と, その他の成書の項目とを補えば, 実例 4 ) 6 2 ) に該当するものがある.( ,( ,( 三十一の総べてが一応収る。 そこでその七項目に分けて 三十一の実例を挙げてみたい。 内例二六の みオリジナルな例 で, 他は今まで分散発表して 来たのを綜合したのである。 ) 4 匝 回 立太子 例- 敏達天皇立太子。 『欽明紀』十五年(甲成吉 , 55 。 『敏達即位前紀』 ニ十 8 九年 (戊子2 ) 4 7 ) 34 継体天皇崩. 『継体紀』 注或本二十八年 (甲寅音 ,5 。 『古事記』 丁未 9 ) 4 85 例三 雄略天皇崩。 『雄略紀』二十三年崩より6年繰り下げた 乙丑五( 。 『古事記』 己巳。 允恭 天皇崩年より雄略天皇崩年ま で, 『書紀』 紀年は6年繰り上げられている。 (例四参照) ) 45 9 例四 允恭天皇崩。 『允恭紀』 四十二年崩より6年繰り下 げた己亥完 ( 。 己亥の辛酉起点半年 4(辛 一年干支丁丑学を通常干支と間違えて出した辛酉起点半年一年干支の 『古事記』 允恭崩年甲午3 崩御. 例二. 酉起点半年一年干支を通常干支と間違えた例は, 外に例十五がある. 己亥より『允恭紀』治世42年 と即位前の空年1年合せて43年を, 半年一年の年数と見て半減した22年を湖ると, 『古事記』反正 崩年丁丑1となる。) 。 コノ力タ ヨリ ) 来 渡 海破二百残云々。 『古事記』 仲哀天皇崩 331 例五 仲哀天皇崩. 『好太王碑』 以二辛卯三年-( 年壬戎 拙稿 「田中卓氏の紀年論を評し, 神功皇后の三韓征伐に及ぶ」 (『神道史研究』 三十一巻二 『神道史研究』 三十二巻二号掲載) を参照されたい。} 号掲載) . 「田中卓氏の紀年論を評す」 ( 5 5 ) 328 例六 成務天皇崩。 『古事記』 乙卯 ( 。 例八を参照されたい。 1( ) 例七 乗仁天皇崩。 「住吉大社神代記」 辛未1 306 . 例八を参照されたい。 1 8 37 戊寅 『 成務紀 0 7 ) 』 宝算1 古事記 ( 2 9 』 7。 例八 崇神天皇崩。 『 , 『垂仁記』 , 『景行記』 宝算1 宝算153 よ り そ れ ぞ れ100 引 い た 7, 37 , 53 を, それぞれの治世年数と見(皆半年一年の年数とみ をとると例八になる。 る) , 例六より7年に37年を合せた44年をとると例 七となり, 例七より53年 oが出る( 『崇 例八より『崇神紀』治世68(半年一年の年数となる)を取ると, 前帝開化天皇崩年庚午l l o 一年干支 を辛酉起点半年 00足したものである)この庚午 6 8は, 『崇神紀』治世68に1 神記』宝算1 ) 2 45 とすると, その通常干支は乙丑五 ( , 『魂志』 倭人伝の正始六年となる. その翌々年が卑弥呼死 の正始八年である。 その年が崇神三、 四年となる (半年一年) 。 『崇神紀』 五年には, 疫病流行し, 六年には百姓流離, 背叛する者も出たので, 皇女豊鍬入姫命に託けて天照大神を祭るなどした所, 翌七年にはおさまっ たとある.『魂志』倭人伝の更立二男王- , 国中不 服,更相謀殺,当時殺二千余人「 王 年十三為 国中遂定に相当する 卑弥呼宗女台典 後立 , 。 卑弥呼は開化皇后, 崇神母后伊香色謎 → 命であり, 台輿は豊鍬入姫である. 開化天皇の御名日々 又は卑々は, ひびがひみに通じる (さびし.
(5) . 栗. 原. 薫. い==さみしい) から卑弥とも記し得た であろう。 夫婦同名 (彦, 姫 で性別を示す) の例は多いか ら, 開化皇后が卑弥呼と書残されるのはあり得る事である. 外国人が我国の実権者を王と見間違え, 時には実権者が自ら王と名 乗っ た事は, 室町時代や江戸時代にもあった. 卑弥呼死後, 実権が崇神 天皇に移っ たので立二男王-という事になっ たのである. 豊鍬入姫が天照大神を祭り始めてより, 恐 らく 外交上の名儀人にもなっ たので更に為 王となり, 又 『神功紀』 六十二年注 『晋起居注』 の倭女 王の遣使記事となったのであろう. 大きさからいって箸墓は卑弥呼の墓にふさわしいが, 『崇神紀』 によると, 箸墓は倭逃々 百襲姫命の墓である. これは卑弥呼の墓に, 後から倭逃々 百襲姫命が追加 して葬られたのではあるまいか. 同じ墓に複数以上の人が葬られている例 が多い. 天武, 持続陵な どもそう である. 後になっ て先に葬られた開化皇后卑弥呼の方が忘れられたのである. 夫がなかっ たと言うのは, 245年開化天皇崩御以後の事実をさしているの であろう. {拙稿 「大化前代の紀年 I V」( 『北海道教育大学紀要』 三十三巻二号掲載) 参照} 結局 『魂志』 と合うので, 例六, 七, 八及 びこの後の例九は辛酉起点半年一年干支と言う事になる. 2(地の文の干支 生年 例九 垂仁天皇生. 『垂仁即位前紀』 御間城 (崇神) 天皇廿九年歳次壬子5 は数が少い, 壬子の紀年を持っ た史料があっ たと思われる) 垂仁天皇生. 『垂仁紀』 宝算140(例七 1より1 2となる) 『崇神紀』 では即位前生となっ て居り 『垂 の垂仁天皇崩年辛未1 40年翻ると壬子5 , . 仁即位前紀』の崇神二十九年(壬子)と喰い違っているが, 『崇神紀』の方が元来の伝えである. 『垂 仁紀』 の方は, 壬子生誕はそのままなのだが, 崇神, 垂仁天皇即位紀年の修正, 治世年数延長の為 にそうなっ たのである. 例七, 例八の紀年, 治世年数だと, 壬子は崇神天皇即位前となる. その壬 2は 226 年 で あ る 子5 .. 望 冥 遷二都磐余玉穂- . 『扶桑略記』 継体二十-年 {丁未 , 隣陸体紀』 では 二十年丙午 で ある. 『扶桑略記』 は 『書紀』 より引いた記事が多い. 拙稿 「大化前代の紀年」 (『北海道教育大学紀 3 3 要』 三十一巻二号掲載) を参照されたい} 7年. . 『継体紀』 二十年注一本云, 七年 (奏巳 ) 也. 52 ± 『 例十一 伐 高麗 獲 漢城之地 欽明紀 十二年 『 諸氏に伝へた記録 』 ( 辛未 ) 欽明紀 』二 ー 1 . - - . . 2 2 十三年 (壬午 ) 『日本古代史の基礎的研究』 上所収) で, 『欽明 . 坂本太郎氏は 「纂記と日本書紀」 ( 遷都. 例十. 紀』 二十三年のこの記事は大伴の家記あたりに基いているかもしれないとされた. 551年. 例十二 巨勢男人大臣莞. 『績日本紀』 安閑二年 (乙り底, 52 5 , 『績紀』 天平勝宝三年二自 己卯雀 部朝臣真人の奏状によると, 男人は継体, 安閑二朝歴事. 安閑治世は二年で終りである. 男人は大 臣として莞し, 後を受けた蘇我稲目が大臣となっ たのが宣化元年なので, 安閑二年とみてよい) .『継 9 体紀』 二十三年 (己酉4 ) . 雀部氏又は巨勢氏の家記より何々 天皇御宇を無視し, 干支のみとっ たの が『継体紀』 (その干支は辛酉起点半年一年, 通常年と間違えて『継体紀』に入れたのである) , 何々 天皇御宇の方だけとっ たのが 『績紀』 の真人奏上である. ) 1政府の公の記録1 宋との通交 例十三 『宋書』 元嘉二年 (乙丑五 , 425 . 讃又遣.司馬曹達 “, 奉 表献二方物 『応神紀』冊七年春二月戊午朔. 遣二阿知使主. 都加使主於呉- . 令 求二縫工女- . 髪 阿知使主等. 渡二高麗国‐欲 達二千呉‐ . 則至二高麗- . 更不 知二道路- . 乞=知 道者於高麗- . 高麗王乃 副二久礼波. 久礼志二人-為二導者- . 由 是得 通 呉. 呉王於 是典ニエ女兄媛. 弟媛. 呉織. 穴織四婦 i o 女- ) 庚午 春二月甲午朔戊申 鼎 一年 ( . . 天皇崩二千明宮- . 時年一百一十歳. ◎是月. 阿知使主等 目 呉至二筑紫- . 時宵形大神有 乞二工女等- 。 是則今在二筑紫国‐御使君 . 故以二兄媛-奉二於胸形大神- 之祖也。 既而率二其三婦女-以至二津国- . 及二千武庫「 而天皇崩之不 及. 即献二千大 鵬競尊「. 是女. 人等之後. 今呉衣縫. 蚊屋衣縫是也. 津田左右吉氏は 『日本古典の研究』 で, わざわざ高麗まで行っ て道路を聞くのは不自然で造作さ れた話 である証拠とされたが, これは地理的な道という意味ではなく, 仲介の 労を採る等の意味 で.
(6) . 書紀の史実性. ある. 津田氏が同じ例と してあげられた 『神功紀』 の, 百済が内陸の卓 淳に 来て日本への道路を聞 いたという話も, 仲介の労を頼ん だのである。 それに適当な国であれば遠路になっても仕方がない のである。 津田氏がもう 一つの例としてあげられた 『雄略紀』 の, 弟君が国神の化して老女となっ た者に, 国の遠近を聞いたというのも, 空間的な遠近では なくて, 謀反を計りつつある父田狭への ) ま で倭王叙爵の記 43 8 工作がうまく出来るかどうかを聞いたのである。 『宋書』 に, 元嘉十五年 ( 8年ま で, 我国は縫工女を得るなど経済 事がないのは, 我国の方で叙爵を避けていた為であろう.43 的利益はほしかっ たが, 政治的な従属は 好まなかったのであろう. その方針で421年の遣使は失敗 に終り, 我国には記録が残らず, 『宋書』の方も詔書だけの中途半端 な記事になってしまっ たのであ る。 暗との国交も, 最初のが 『階書』 にのみ記録 があり, 我国にはないのは同 じ事情であろう。 遣 使はあっ たが目的を達する事が出来なかったので, 我国には記録が残らなかったのである。 宋の方 は授爵しようと したが我国で受け入れなかったので詔書のみ残っ たのであろう。 第一回目が失敗し ) になっ て授爵があっ たのは国際 4 38 たので, 二回目は頗る大事をとったのである。 {元嘉十五年 ( 07年 後燕が亡び, 潟氏がその後を承けて北燕を興してより, 高句麗と百済 情勢が変った為である。4 6年北燕が亡ぶと又情勢が緊迫して来て高句麗,百済の との戦が途絶え朝 鮮半島は平和であっ た。43 『鏡書』 百済伝徐慶上表文) 倭王珍が, 自ら都督倭百清新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事 戦が始った. ( 8年で 安東大将軍と称し, 宋に使を遣しその追認を求めた. その使が宋に達したのは元嘉十五年43 7年に 出たのである。 )であったから, 使は43 7年(丁丑モ 反正天皇崩御はその前年43 あっ た. 珍 自称は4 36年か437年よりの事である。 高句麗と戦い朝 鮮半島での工作を容易にする為にはその称 号が有利だっ たのである。 そこでそれま でのやり方を変えたので, 授爵記事が 『宋書』 に残る様に なっ たのである} さて高麗が導者と して付けた久礼波は, く れはとりで, 呉の織物関係者である。 くすし. 久礼志の志は薬師の しで人の意である。 久礼は呉であるから, 久礼志は呉人である. 『宋書』による 句麗に来ている。 謁者は宮 ) と, 景平二年 ( 424 , 宋の謁 者朱部伯, 副謁者玉部子等 が使者として高 一役買 好都合な導者として っ たのであろう。 阿知使主は 中で賓客の告請の事を掌る役であるから, その話を聞いて高麗にまで行っ たのかもしれぬ。 又 『宋書』 の遣三司馬曹達奉 表献二方物-は, 司馬 曹達をして表 を奉り, 方物を献ぜしむで (湯浅幸孫氏 「倭国王武の上表文について」『史林』 六四巻 使者の名 ではない。司馬は大司 馬, 一号) , 司馬曹達は司 馬の職にある曹達である。 曹達は我国よりの 大尉とも言い軍事を司る大臣か, 又は地方に派遣される或は在京の将軍の下に長史, 司馬が居るそ の司馬である. 長史は事務 で, 司馬は軍事を司 った。 この場合前者であろう。 その様な官職にある 曹達に倭王は 上表文を提出させたのである。 かなり手のこん だ遣使 である. その結果望む所の経 済 的利益を手に できたのである. 『書紀』 の記事だと, 阿知使主帰国の年に天皇が崩御された事になる。 所が 『古事記』 崩年干支 ) の二年後となり, 合わなく なる. これは如何に解す 25 4 ) で乙丑五 ( 42 7 では, 仁徳崩年は丁卯七 ( 1 0 6 べき であろうか。 『応神紀』 の記事をみると, 紀年は37年 (丙辰) と, 41年 (庚午 ) の二つしか ない。 しかしその下の 記事はもっ と多くの年にわたっている。 その中の重要と思われる紀年が二つ だけ取上げられているのに過 ぎない。 阿知使 主が出発したのは 応神三七年だが, 高麗をへ宋に達し 6 四工女を得る に至るまで同 じ年だっ たのでは ない。 応神三七年は丙寅 だが, 宋に達し使 命を果した 1 0 9 五 しかし四工女を得たと 425 のは 『宋書』によると元嘉二年 ( , 乙丑 , 己巳, 庚午 ) だからである。 いう所ま で丙寅6の下に係けられている。 同じ事は 応神四一年の記事についても言えよう。 四一年庚 oの紀年がかかるのは 阿知使 主が呉より筑紫に帰り着いたという 記事にだけである。以後通常紀 午l , ) 二月になって武庫ま で帰っ た時, 天皇崩ぜら れ間に 427 年で二年間九州に滞留し, 二年後丁卯七 ( 合わなかったのである. 二年間の滞留の理由は, 宗像大神が通行をとめた為ではないかと思う。 神.
(7) . 栗. 原. 薫. が交通の邪魔をする 事は, 『播磨国風土記』賀古郡鴨汲里舟引原の荒神などの例 がある 宗像大神が . 宋の授爵を好まれなかっ たという様な事情があったの ではあるまいか 次の例十四は例十三 の関連 . oで 実年代が60年ずれている これは同じ年の関連 記事 で, 『書紀』の紀年では干支が同じく庚午l , . した事件 で, 史料も一つ づきだっ たのが, 分けられて別々 の所に出ているの である 阿知使主が帰 . 国すると、 やがて宋と高麗との使節が来たの である 通常は授爵しっ ぱなしにはしない 本人に使 . . を出しいく ばくかの行事がある. 近世琉球国王の代替り毎に 清の使節団が琉球を訪れ 琉球国王 , , の任命式をして いた. その様な使節が来たの である 高麗は仲介の労を取った経緯から使をよ こし . たの である. それ等の使節も九州 で滞留させられていたの である その中待ち切れず 帰国した後 . , 阿知使主は工女一人を宗像大神に献じて怒をなだめ近畿へ帰ったの である かく解すれば 阿知使 . , 主帰国の年と, 仁徳天皇崩御の年との間に2年のず れがある事が説明出来る 又元来 『仁徳紀』 に . あるべき記事が, 『応神紀』に移されているのは 使節の阿知使主が当時の状況 で使節として役立つ , 年齢を考えてみると, 阿知使主帰化の年代を, 『応神紀』の記事通りその二十年に持って行く事が出 来ないという事 で説明出来る様に 思う. 『応神紀』二十年 阿知使主は子の都加使主と己之黛類十七 , 県 (支那 での十七県の出身者の意 である. 前燕に出身地別 の僑郡 僑県があって それぞれ-行政 , , 単位となり, 燕の役人が置か れていた. その様なものの十七県) を引連れて帰化したとある それ . 9で 通常紀年に が出来る年齢を考えると20才を上廻っていたに違いない 『応神紀』二十年は 己酉4 . , 直すと385年(乙酉云 )である. 2 0才以上とすると, 宋に達して使命 を果した時は60才以上となり , 当時の交通事情を考えると年を取り過 ぎている これは通常 で30年 半年一年 で干支-運 6 0年後 . , と考えるべき である. その415年だと, 宋への遣使はその10年後となり ごく自然となる 阿知使 , . 主の子孫は王仁の子孫と並ん で朝廷に仕え 文筆を業とした が 後王仁より阿知 使主の帰化が遅れ , , て居る事を不利とし, 好機を得て, 阿知使主の帰化を 干支は同じ60年前の『応神紀』二十年に入 , れ, 『応神紀』十六年の王仁帰化と並ぶ様にしたの であろう 6 。 0年溺らせると, 阿知使主の遣使 を元 の所において置いては不自然となる 元の所 では77年後の遣使になる そこ で辻棲を合せる為に . . , 遣使記事を60年溺らせたの である. 『書紀』の紀年では17年後となり不自然さはない ( . 『書紀』の 百清諸王莞年にひかれたのかもしれない) 1 0 例十四 例 十三に応ずる授爵の遣使 『宋書』元嘉二年(乙丑五 ) , 425 . . 『仁徳紀』五十八年(庚午 ) . 冬十月. 呉国・高麗国, 並朝貢. 例十五 『宋書』 昇明二年 (戊午巽 ) , 478 . 『雄略紀』 八年より十年 (例三, 例四と同じく6年繰 0より壬子5 2 この紀年が実は辛酉起点 半年一年紀年なのに通常紀年に間違 り下げると, 庚戎5 えられ . た乙卯蓄丙辰雲の辛酉紀点半年一年紀年なのだとすると, 真の通常紀年は戊午麦 友 )『 佳略紀』 八年 (甲 4 4 6 辰4 ) 春二月. 遣二身狭村主青. 槍隈民使博徳-使二於呉国- . 十年 (丙午 ) 秋九月乙酉朔戊午. 身狭. 村主青等将二呉所 献二鶴-到二於筑紫「 是3 鞄 烏為二水間君大‐所』蟹死. 由 是. 水間君恐怖憂愁.不 能二. 自然「 献三鴻十隻典二養鳥人 「 請二以蹟。罪. 天皇許烏. 水間君は宗像大神を祭っていた氏である. 例十六 『宋書』 昇明元年, 二年 (丁 巳老 ) 8 , 戊午奏 , 477 , 47 . 『雄略紀』 十二年より十四年 侮り 5 4 5 6 十五と同様, 6年繰り下げると甲寅 より丙辰 ) 『雄略紀』十二年(戊 . 通常に直すと丁 巳老 , 戊午麦 8 0 申4 ) 夏四月丙午朔己卯. 身狭村主青輿二槍隈民使博徳-出;使千呉- 十四年 (庚戎5 ) 春正月丙寅朔 . 戊寅. 身狭村主青 等共二呉国使- 将二呉所 献手末才伎漢織 呉織及衣縫兄媛 弟媛等 . - . . . 泊二於住吉 津- .. 好太王碑 例十七 四世紀より五世紀 はじめにかけてて満州を中心とした強国 であった燕は 396 , 年英主慕容垂が死んだ. 跡を継いだ宝は凡庸で北醜に対抗出来ず それまで仲の悪かった高麗に宥 , 和政策を取ら ざるを得なく なっ た そこ で高麗好太王を帯方 遼東二国王に封じた ( )その . , . 『梁書』.
(8) . 書紀の史実性. 6 戊戎受 398 ) 春二自 己未朔甲 形勢にのって好太王は同年百清を征服した. 『仁徳紀』 四年 (丙子1 , , 子.詔二群臣-日。朕登二高台-以遠望之。 畑気不 起二於城中- 。 朕聞. 古 . 以為百姓既貧. 而家無二炊者- 聖之世. 人々詞二詠徳之音- 。 炊煙韓疎. 。 於 弦三年. 煩音不』今 。 今朕臨 意兆- . 家々有二康哉之歌- 己丑朔己酉 ○三自 給者 況乎畿外諸国耶 尚有 不 封畿之内 百姓窮乏也 即知。 五穀不 登. . 三 1 . . . 三 時 五穀豊穣 是後風雨順 … 以息 百姓之苦 悉除 課役 詔日. 目 今以後. 至二千三載- - 二 - 。 二 . . 。 , 云 己亥 ) 新 ( 9 9 永楽九年 3 『 好太王碑 』 この課役免除は 稔之間。 百姓富寛。 煩徳既満。 炊姻亦繁. , , ) の出来事で, 本当は出兵準備に伴っ て行われたの である。 好太王の起した 39 8 羅出兵前年戊戎衰 ( 戦争との関りを示す部分が後世削られ, その戦争との関りが全く忘れられて, 聖徳物語になって し ま っ た の であ る。. ) 我国は新羅に出兵, それに対 9 高麗, 新羅との講和. 『好太王碑』 永楽九年 (己亥麦 , 39 『資治通鑑』 隆 ) 高麗は歩騎五万を南下させ我国と戦った。 しかるに同年 ( 0 し永楽十年 (庚子早 , 40 例十八. 安四年)、 後燕はその背後を突いて遼東に侵入した. 腹背に敵と受ける 形になった高麗は, 402年に )典二倭国-通 好, 以二奈勿王(我 なって我国と講和した. 『三国史記』新羅本紀実聖元年(壬寅1 , 402 国と戦っ た王)子未斯欣-為 質. 又同書堤上伝には, 典二倭国‐講和とはっ きり書いてある。『仁徳紀』 4 ) 秋七月辛未朔 奏酉. 高麗貢二鉄盾. 鉄的- には, 十二年 (甲申2 . ○八月庚子朔 己酉. 饗二高麗客於 朝. 是日集二群臣及百寮- 。 唯的臣祖盾人宿祢. 。 諸人不 得三射;通的- . 令 射二高麗所 献之鉄盾的- 美 盾人宿称 明日 共立以拝朝 畏 其射之勝巧 時高麗客等見之 射二鉄的-而通馬. - . 而賜 名日二 1 。 二 。 。 二 2 4 1 ) であるから, 40 2 的戸田宿称「 同日小迫 瀬造祖宿称臣賜 名日二賢遺臣-也とある, 甲申 は壬寅 ( 8 6 百済高句麗戦は3 『 三国史記 』百清本紀の ある この年高麗も又我国と講和したので , , 389 , 390 。 一方 好太王 『 づく 好 以後七十年も平和がつ 百済が倭と結 3 9 7年 4 3 9 5と続く 3 3 9 3 9 392 。 , , , . , , 0 04 9 碑』の方は, 396年開戦. 百済が我国と共に高句 麗と戦っ たとすると, 396 ,4 , 407と , 40 , 39 95年には, 『好大王碑』 では, ま 続き, 以後平和となっ ている. 『三国史記』 の最後の戦のあった3 『 戦が起 だ戦が始って居らず, その翌年396年に最初の っ ている. 三国史記』をもし十年くり下げる と, 396 , , 400 , 404 は『好 太 王 碑』と 合う。 402 , 399 , 404 , 405 と な る。 396 , 403 , 402 , 399 , 400. 403 05は小規模の戦だったので, 『好太王碑』に出ていないのである. 407年のは百清が離脱して ,4 いたので,40 7年 結好の必要が生じ, 結好に際し王子直支を人質に出すはめになったのである. つま り 『三国史記』 の好太王関係の紀年は十年繰り下げるべきである. すると 『百済記』『三国史記』 の 壬辰 ( 392 , 辰斯王が天皇に無礼だったので死に 至ったという記事も, , 『応神紀』 三年, 辰斯 八年) 十年繰り下げると402年となる。 すると講和の後, 高句麗に服属 していた時の無礼が責め られたと いう事になり, 392年では説明しようもない 無礼もよく分る様になる。 3 壬寅1 402 ) ◎是歳, 新羅人朝貢、 則労二於是役「 是役は難 例十九 『仁徳紀』 十一年 (葵末2 , , 連記事 波堀江, 茨田堤築造の役である. 例十八の関 . 捕虜がつれてこられたのである。 2 4 ) ○冬十月。 掘二大溝於山背栗隈県-以潤し田。 是 例二十 『仁徳紀』 十二年 (甲申 , 壬寅1 , 402 以百姓毎年豊之。 例十八の関連記事。 5 葵卵璽 403 ) 十月。 造二和田池- 例二一 『仁徳紀』 十三年 (乙酉2 . 例十 . ◎是月。 築二横野堤- , , 八の関連記事. 6 葵〃際 403 ) 冬十一月. 為二橋於猪甘津- 例二二 『仁徳紀』 十四年 (丙戎2 。 即続二其魔‐日二小 , , 大溝於感玖 橋-也。 ◎是歳. 作二大道-置二於京中- - 。 乃引二石河 . 又掘ニ . 目二南門-直指之至二丹比邑- 以墾之得二四万頃之田1 故其庭百姓寛鏡之無二 水-潤二上鈴鹿. 下鈴鹿. 上豊浦。 下豊浦四薦郊原 ) の戦はその翌年. 仁徳十五, 十六年 ( 4 凶年之患- . 例十八の関連記事. 『好太王碑』 永楽十四年 40 (半年一年) に当る。 以後八年 (半年一年) 土木記事は途絶える。 戦の為土木工事所ではなかっ た.
(9) . 栗. 原. 薫. の であ る.. 9 乙巳豆 405 『仁徳紀』 十七年 (己丑2 ) 新羅不二朝貢- , , . ○秋九月. 遣二的臣祖砥田宿称. 小迫瀬造祖賢遺 臣. 而問二闘貢之事- 於 是新羅人催 -献調絹一千四百五十疋及種々雑物 乃貢 井八 二 . . 十機- ) の戦の余波 である. . 『好太王碑』 永楽十四年 (甲辰404 例二四 例十八で述べた所により, 『応神紀』 八年注 『百清記』 云の修二先王之好- , 『三国史記』 例二三. 阿宰六年の王典二倭国-結 好も, 『百漬記』 『三国史記』 では丁酉毛 ( ) であるが, 実は10年繰り 397 下げた丁未堅( 好太王碑 407 ) 『 の永楽十七年 ( ) 』 4 我国と高麗との最後の戦のあ 0 7 っ た年である. , , その年後燕に 革命が起き, 高雲と傷版とが権力を握った. ついで徳政が興した北燕が亡ぶ436年ま で我国, 百清と高句麗との間に平和が続く. ( 『魂書』 百済伝, 百清王余慶上表文) その4 07年に, 4 05年の戦の後高麗に属していた百清が無礼を謝 し, 王子直支を人質とし領土の一部を割取されて, 6 我国と講和 し, 又我国に属する事となっ たのである. 『応神紀』 七年 (丙申3 ) 秋九月. 高麗人. 百 清人. 任那人. 新羅人. 並来朝. 時命二武内宿称「 領二諸韓人等-作 池 因以名 池鏡二韓人池- そ . . 6(戊寅大 37 6 戊申買 408 の丙申3 ) は, 実は干支-運下げた 408(丙申3 ) である. 407年又平和に , 8 , , なっ たので捕虜を使役しての土木工事が再開されたのである . 秦氏帰化 例二五 葛城襲津彦新羅征伐 『神功紀』 六二年注 『百清記』 壬午1( ) 3 82 . 『応神紀』 3 4 5 十四年 (奏卯4 ) 十六年 ( 乙巳 ) 或は平群氏の家記より出 ているのかもしれない 井上光貞氏は , . . 「帝紀からみた葛城氏」 でこの二史料を一方は百済に一方は国内に別々に伝えられた同一事件だと さ れた.. 例二六 『雄略紀』 二十年 (丙辰奏 ) 冬, 高麗王大発;軍兵→ 伐露;百清- , 476 , 『雄略紀』 二十年注 『百渚記』 蓋函王乙卯年 ( ) 冬. 狛大軍来. 攻二大城-七日七夜. 王城降陥. 475 4 5 遂失二尉礼- . 『三国史記』 にも同一紀年で同一記事がある. 『雄略紀』 九年{乙巳 , 『安康紀』 『雄略 1 これを辛 紀』 の紀年は原則的には6年繰上っ ている (例三, 例四) ので, 6年繰り下げると辛亥5 , 酉起点半年一年紀年とみると, 通常紀年は丙辰奏 ( ) となる} 三月, 天皇欲三親伐二新羅- 476 . 神戒二 天皇-日, 無 往也. 天皇由 是, 不二果行- 天皇が親征せんとされるのは余程の 事である. 百渚が殆 . んど亡んだ47 6年丙辰にして始めてあり得る事 である. 『書紀』 が 『百漬記』 『 , 三国史記』 より一年 百済王城降陥. 後なのは, 正月の違う暦を両国で使っ ていた為 である 百湾が 『周書』 や 『階書』 にある様に元嘉 . 暦を使っていたとすると寅が正月 である(今の陰暦と同じ) 従っ て正月は春となる しかし当時我 . . 国では子を正月とする暦が使わ れていた. 少し後になるが, 『元興寺縁起』の欽明崩御は辛卯年の卯 であるが, 『書紀』では四月になっている. 卯が四月なら, 正月は子である. 又我国の月の和名の卯 月が四月, 水無月 (巳な月= 巳の月) が六月なのは, かつて子が正月 だった証拠である 子が正月 . だっ たとすると, 正月, 二月は冬となる. つまり『百済記』乙卯年冬と, 『書紀』雄略二十年冬とは , 『書紀』 の方が新年になっているだけで同じ冬をさしているの である .. 1寺院の縁起1 例二七 焼 一 樹ム殿仏像-流一一却於難波堀江- ) 85 .『敏達紀』十四年 (乙 班, 5 ,. 3 0 3 0 『元興寺伽藍縁起』 乙巳望 . 『法王帝説』 庚寅 , 『元興寺伽藍縁起』 庚寅 . ー百済の記録1 例二八 蓋函王立. 『三国史記』 乙未ヱ (455). 『雄略紀』 注 『百済新撰』 己巳9 . 3 3 例二九 聖明王立. 『三国遺事』 治世年数より出した丁未望 ( ) 527 同書干支即位年奨巳 . ,. 隠匿窒亘 例三十 『隅田八幡鏡銘』奨未 ギ 八月日十, 大王年, 男弟王, 在-意柴沙加 喜 時云々.. 允恭皇后忍坂大中姫 命の忍坂は皇后がかつて住まれた宮の名の様なので, 允恭天皇が男弟王だった 時代だと, うまく 合うが, 葵未を通常紀年とす ると44 3年, どうみても允恭治世中となる. そこで 色々の解釈が行 われているが, 葵未を辛酉起点半年一年紀年と みると, 通常紀年は壬申±( ) 432 , 履 中天皇の 『古事記』 崩年干支となる. 432年だと允恭天皇は男弟王となってうまく納る {拙稿 「隅 . 8.
(10) . 書紀の史実性. 田八幡鏡銘と元興寺縁起 の紀年について」 ( 『史迩と美術』5 22号掲載). 1その他の成書1 例三一 以 久麻那利-賜 末多王 - ) 79 。『雄略紀』 二三年 (己未妻 ,4 。 『雄略紀』. 7 二一年 (丁 巳5 ) 注 『日本旧記』 。 久麻那利を賜うとは, 百済王とするの意 であろう。. 辛酉起点半年一年干支の出来 第一章にあげた 多数の辛酉起点半年一年干支がどの様にして使用される様になったかを説明した し\. それは漢風暦法渡来以前に, 半年一年の暦法が行われて居り, その基礎の上に出来したため であ る。. 干支による紀年法は, 推古十年に伝っ た暦法についての知識な どは全く無くても 利用出来る , 。 つまり六十の干支名の読み書きが出来, その順序を知り, かつ或る特定の一年の干支 が分ればそれ だけで十分 である。 従って干支による紀年は, 我国で文字が使われる様になった当初より行わ れた であろう。 唯通常の一年を一年としたのでは, 我国で広く一般に使われていた在来の暦法 と合わな い。 半年一年の在来の暦法を急に変える事も出来ず 返っ て半年一年を干支で表現する様になった , のが, 辛酉起点半年一年干支 である. その後漢風に, 通常の一年を一年とする紀年 が広く行われる 様になって辛酉起点半年一年干支は忘れられ, 辛酉起点半年一年干支として書いた紀年ま で通常干 支と解される様になって, 上代 の紀年が混乱したの である (本居宜長 『具暦考』 ) 。 そ れに つ い て 説明 す る.. まず漢文化伝来以前すでに半年一年の暦法が行われていた事を言いたい . 『嬢志』 倭人伝に, 其人寿考 (長寿の意) , 或百年, 或八九十年とある。 我国では半年を一年とす る年齢が普通であっ た。 それを通常の年齢と間違えた醜人或は晋人が長寿と判断したの である 半 . 減すると四十乃至五十才となって自然な年数となる 又同じく 『魂志』 倭人伝注に 『魂略』 日 其 。 , , 俗不 知二正歳四節→ 但記二春耕秋収-為二年紀-とある。 正歳は夏の歳首(正月, 夏, 段, 周, 秦 で夫々 正月が違う。 夏の正月は, 段暦の二月, 周暦の三月, 秦暦の四月 である)を歳首とす る暦を魂が使っ ていたのでその正しい歳首という意味 である。 正歳を知らぬとは, 正月 が違う別の暦を使 っている と言う事で, 暦が全くないと言う事ではない 春耕秋収を覚えていて年数をよ んだと言うのは 春 。 , 耕で一年, 秋収で一年, つまり半年一年の暦があったと言う事である 『晋書』 の倭人伝には 不 。 , 知二正歳四節- , 但計二秋収之時→ 以為二年紀-とある。 ここには春耕が落ちているが, 唐代成立の『晋 書』は, 時間的にも遥か後世のものなので, 倭の実状が良く分らぬままに 『魂略』の記春耕秋収を , 農作業の経過を覚えていての意に取り, 計秋収之時という明快な表現に したのである 『晋書』倭人 。 伝には似た例が別にある。 それは国多二婦女‐である。 これは 『魂志』 倭人伝の 其俗国大人皆四五 , 婦, 下戸或二三婦を誤解に基いてより簡潔な表現にしたものである その実は 『正倉院文書』 の- 。 戸に, 若干戸の房戸があり, 別々の夫を持った何人かの妻がいるのと同じだったのである 。 『鏡志』 倭人伝や, 『鏡略』 は, 倭人との接触に基く同時代史料なの で 三世紀の我国に半年一年 , の暦が行われていたと見てよい。 それ以前海外の暦法が伝っ たとは思われぬから 我国で半年一年 , の暦が自然に発生し使われていたのである。 弱い史料によっ てではあるが, 三世紀は, H1 32年にま で湖らせる事が出来る。 『史記』列伝第五 十八に, 元朔五年(H1 ) 准南王が伍被 32 に諮問したのに被が答えて , , 秦の失敗の一つに徐福の事 をあげている。 徐福は始皇帝に命ぜられて海に入り神異の物を求め, 還っ て来てうそを言い 始皇 ,.
(11) . 栗. 原. 薫. 帝を偽いて童男女 三千人等を得, 連れて行ったまま帰って来なかっ たとある. その時徐福は海中の 神に 延年長寿の薬を願い請うている. 延年長寿の薬が, 山東あたりよ り海に入っ て求められたとい うのは, 東海に長寿の人が多いという噂が広まり, それについては 延年長寿の薬があるに違いない と考えられていたの で, それを利用 しての犯罪がおこり, 又は不老長寿の薬が原因だという伝説が 生れたのである. つまり少くともH132年頃には, 我国では半年一年の暦が行われて居り, それが 原因で漢土では長寿の様に 思われていたのである. 又紀元前二世紀とか, 三世紀とか言った古い時代に 年代を限る力はないが, 我国にかつて半年- 年の暦があっ た証拠は記紀に 豊富にある. 那珂通世氏は, 『上世年紀考』 で, 『書紀』の長寿を, 紀年延長のせいとされたが, 三品彰英氏は, 『増補上世年紀考』 で, 『古事記』にも長寿のある事を言い, それ等の長寿は, 老齢に神聖的異常的 な敬意を感ずる古代社会の特 性より出ているとされた. 実はそれらの長寿は半年一年の年齢であって, その為自然に通常の 二倍になっているのに過 ぎな い. その様な紀年を知らない人には長寿に見えるだけだっ たのである. 3年, 1 7世代(兄弟相続は総べて-世代と見 治世年数についても同じである. 神武 -- 允恭111 る. 履中, 反正, 允恭は三代合せて-世代 である. -世代には生理的な制約があって何世代かを平 一世 均するとほぼ同数30年 前後となる) , 一世代平均65.5年, 神武 -- 仲哀は860年, 14世代, 0年なので, 六十何年は異常であるが,65年,61年を半年- 代平均61.4年 である. 通常一世代は3 年の年数とみれば, 33年, 31年となって通常の年数となる. 又開化, 景行, 成務の三代は, 紀の治 世年数が60年 である. これも半年一年と 見れば30年と なり通常の年数である. 上代人は明治時代 0年 (通常 で30年)を通常の平 の学者が-世代30年と見て, 神武即位の年代を出そうとした如く6 均的-世代とみて, よく分らないこの三代の治世を 60 年 と し た の で あ る. 『雄略記』 に, 「雄略天皇が, 童女赤猪子に 『汝とつかずてあれ. 今めしてむ.」 と言ったまま忘 れて居られた. 赤猪子の方は80年 を過 ぎるま でお待ちしていた, 姿体がやせ萎んでもうお仕え出来 ないが, せめてお待ちしていた情を類したいと考えて, 天皇の朝倉宮にまかり出た. 天皇は驚いて 御歌を賜 った. それに続く天皇と赤猪子との応答の四 歌が志都歌である.」 とある. その80年は, 0年 とみないと, この話は不自 然となる. かかる歌謡を伴う物語は 元来 半年一年 で通常に 直すと4 人々の前で演ぜられた歌舞が元なので, この80年は, それで一般の人々によく分った, つまり半年 一年の暦が一般に行われていたという証拠の一つ である. 記紀は八世紀の成立 であるから 『魂志』 の様に必ず三世紀以前漢暦渡来以前と限る力はない. た だそれを補いかつ三世紀以後も長く半年一年の暦法が行われていた事を示している. 半年一年の紀年の為に, 辛酉起点半年一年干支が最初よりあっ たのでないのは勿論の事である. どの様にして辛酉起点半年一年干支が出来したのであろうか. 0の干 支の名と順序, 或る特定の年の干支さえ分って居 先にも述べた如く, 干支による紀年は, 6 れば, 誰れでも自由に間違いなく使いこなせる. 我国に記録の術が伝った時, しばらくは通常の} 年を一年とする紀年が行われたであろうが, それでは半年一年の暦が行われている実情に添わない の で, 実情に合せ半年一年の年々を記す為に辛酉 起点半年一年干支が考え出さ れたのである. その 為には第一章の第一表の如きものを作る だけで十分であり, 天体観測に 基く計算法の如きは何一つ 知る必要がなかった. 『欽明紀』 十四年, 十五年, 『推古紀』 十年に見られる様な暦法の渡来を待つ 必要は何一つなかっ た.従って辛酉起点半年一年干支の使用は,記録術渡来後の 比較的早い時期だっ ) B 鴇田八幡鏡銘』 (第一章例三十, 432 たのである. 遅くも五世紀前半である. 当時の金石文として『 干支の けての辛酉起点半年一年 が残っているからである. 又記紀に四世紀後半より五世紀前半にか 10.
(12) . 書紀の史実性. 実例が多数あるから である。 例十三, 例十四, 例十七, 例十八, 例十九 例二十 例二- 例二二 , , , , 例二三, 例二四, 例二五の十一例 である。 当時東文氏, 西文氏の祖 である阿知使主や王仁が渡来し て来ていたので, 彼等の手 で文書, 記録が作られ, その紀年法に辛酉起点半年一年干支が使われて いた の であ る.. 更にそれは開化, 崇神, 垂仁の頃ま で測らせる事が出来るかもしれない 実例の中 例七 例八 , . , , 例九がその時代のものだからである。 『魂志』 と紀年が合うし 飾り八 で説明) 卑弥呼 (開化皇后) , 以後漢人書記がいて記録を残した事も十分考えられるからである (近世琉球王朝には漢人書記がい . て久米村に住み記録を残した) ついで通常紀年の間に異種の紀年たる辛酉起点半年-年干支が混在する事について説明したい 。 我国に干支が使われる様になると, それは主に辛酉起点半年一年干支として使われたが 通常紀 , 年も並行して行われていた。したがって辛酉起点半年一年の知識のあ る時代でもどれが通常干支か , どれが辛酉起 点半年一年干支か必ずしも見分けが付かなくなってしまっ た . 第一章の例四, 例十五は, 辛酉起点半年一年干支を通常干支と 間違えて それに対する辛酉起点 , 半年一年干支を出す為の計算が行われた実例 である 見分けがつかなくなっていた証拠である 。 . 又私が 『文化史学』 第三五号掲載 「上代天皇の長寿について」 で論じた如く, 『雄略記』 宝算124 は, 『允恭紀』 七年雄略天皇誕生, 四二年允恭天皇崩御, 『安康紀』 三年安康天皇崩御 『雄略紀』 二 , 三年雄略天皇崩御より計算して出した62才を通常の年数とみて 二倍して出 した半年一年の年数で , ある。 例四により允恭治世は半年一年, 他は例三により通常年数なので 雄略天皇の半年一年の宝 , 算を出す為には, 允恭治世には入る部分だけは二倍する必要がなかったのだが間違えてしまっ たの である。 つまり通常干支と辛酉起点半年一年干支との見分けがつかなくなっての失敗である 。 辛酉起点半年一年干支が使 われなくなり, 辛酉起点半年一年干支があっ たと言う事すら忘れら れ る様になっては猶更の事である. 『書紀』編纂は最終的にはその様な状態 で, 辛酉起点半年一年干支 を間違えてそのまま多数入れてしまっ たのである. 『古事記』崩年干支に辛酉起点半年一年干支が混 在しているのもその為 である. 『書 紀』 (倭 五 王 時 代) の 史 実 性 - - 政府の公の記録について 噛- -. 記紀 (倭五王時代) の史実性も, もとより確実な史料, つまり 『宋書』 等漢史 『好太王碑』 等金 , 石文によって始めて確められる。 井上光貞氏は 『帝紀』 以外ではそれが全く不可能な状態で, 『神功紀』 注 『百済記』 と合う国内資 料による記事があるのを発見, 若干の手がかりがあるとされた. しかし 『百済記』 は 『書紀』 に引用されている若干の例があるだけ である 『書紀』 『三国史記』 . とは合っているが, 漢史の 『晋書』 や 『宋書』 とは必ずしも合っ ていない 又 『好太王 碑』 とも紀 . 年に1 0年のずれがある。 その利用に厳密な史料批判を必要とする点 では『書紀』と同じである 三 . 品彰英氏が 「日本書紀所載の百済王 暦」 ( 『日本書紀研究』 第一冊所収) で 『書紀』 『百清三書』 『三 国史記』 の 「一致の部分は文献の系統が同系 であることを意味するもの であって 必ずしも史実の , 正誤を判ずる規準とはなし得ないのである。」 とされたのが正しい のである . しかし今や, 第一章 で 辛酉起点半年一年紀年の実例 として挙げた, 政府の公の記録の項目の中の , 例十三より例二四ま で十二の例が, 『宋書』 侮り十三, 十四, 十五, 十六) 好太王碑 『 り 十七 十 』 侮 , , 11.
(13) . 栗. 原. 薫. 八, 十九, 二十, 二一, 一一, 一三, 二四) と紀年が一致している. 『宋書』 は授けられる官爵に百済を 入れるか どうかといっ た問題に終始し, 『好太王碑』 は戦闘記 事中心である. それらと紀年が一致している 『書紀』 の記事は経済記事である. 工女を得たとか, 課役を除いたとか, 韓人池を作ったとか言っ た内容である. つまり記事の 内容が違うのである.『宋 書』 や 『好太王碑』 を嘉して 『書紀』 の記事が作られたとは思えない. 人名, 地名 が表記を含め日 本的だと言う事もある. 『書紀』 の政府の公の記録の中四は宋との通交に関っ ている. 『書紀』 の公の記録より出ていると ) 夏四月, 呉国遣使貢 2 思われるもので宋との通交に関るものは, その外には雄略六年 (壬寅璽 , 46 『書紀』の宋との通交記事はこれを合せ た五例 ですべて である)この年は『宋 献があるだけである. ( 書』 大明六年, 世子興授爵の年に当り, 授爵の為の使が来たと解 すれば合うの である. これは通常 紀年 で例の六年のずれもなく別 種類の史料より出ているが, 紀年は一致している. 残り八は 『好太王碑』 関係 である. 政府の公の記録で 『好太王碑』 関係と思われるものは外には ない. {政府の公の記録以外の史料より出ていると 思われる『好太王碑』関係記事は外に三ある. 二 つは 『百済記』 関係 である. 他の一つは 『神功紀』 の未斯欣逃亡事件 である. 『百湾記』 のは例十八 6年にくり下げる で述べ た理由で紀年を十年くり下 げ, 未斯欣逃亡事件は, 好太王戦争の始った39 『神道史研究』 三十二巻二号) を参照された と真の紀年と なる. 拙稿 「田中卓氏の紀年論を評す」 ( い} 『書紀』 の公の記録より出た記事は, 確実な史料と対応しているものは, 一例を除き皆辛酉起点 半年一年紀年 である. それらはすべて確実な史料と紀年が合うのである.{又それらの確実な史料と 対応する『書紀』の, 政府の公の記録以外の史料より出た記事 も, それら確実な史料と矛盾しない.} ここに政府の公の記録より出たと思われるが, 純粋に国内の事件だっ た為に, 対応史料のない記 事も, 倭五王時代については, 一応信用 してよいのではないかと 思う. 例三十の 『隅田八幡鏡銘』 の干支紀年 で当時辛酉起点半年一年干支の文書記録が作られて居た事 が実証される し, 又阿知使主, 王仁等が渡来して記録に当っ たという事も史実としてよい. したが っ てそれ以後, 記録が行われたとしてよい事を考慮した上での事である. {政府の公の記録 (第一章の実例) の残る 二つは 『百清記』 と紀年が合っている}. 四. 『書紀』 の史実性 『帝紀』 その他. --. 井上光貞氏は, 記紀の 『帝紀』 より出た記事について, 上述した様に, 各部門別に, 漢史や金石 文など確実な史料と一致すると論ぜられたが, 皇子, 皇女及び天皇の御事蹟については, 範園がはっ きりせず, 原帝紀になかっ たかもしれないとして論証より除かれた. 宝算, 崩御の年月日も, 原帝 紀になかっ たろうとして除かれたが, これは間違っている. 井上氏は宝算と崩御の年月日について は記紀の記載がほとんど全く 一致していないが, この様な事は 『帝紀』 を構成する他の項目には全 然みられないとされる. しかし記紀の崩年は, 一部を辛酉起点半年一年紀年とすると, 倭五王時代 では一致しているので あ る.. まず 『古事記』 崩年干支の一部を辛酉起点半年一年干支とみて修正紀年を出したい.. 12.
(14) . 書紀の史実性. 第二裏 修正紀年 394. 甲 午画. 42 7. 丁卯七. 43 2. 壬 甲ニ. 43 7. 丁丑七. 45 9. 己亥充. 46 2 壬寅三 4 85. 乙丑五. 『古 事 記』. 囲 匡可 圃 回. 崩 年 干 支. 記. 事. 応神崩 仁徳崩 履中崩 反正崩. 4‐丁丑 ← 己亥元 例四 匡 ヨ3. 允 恭崩. な し. 安康崩. E回 9-乙 『. 例三. 雄 略崩. [ コ の内のが『古事記』崩年干支。 アラビヤ数字の付くのが辛酉起点半年一年干支。 例三, 例四 は第一章 の実例の三, 四である。 4は 修正紀年巳亥究の辛酉起点半年一年干 修正紀年は皆通常紀年である。『古事記』允恭崩年甲午3 , 7を通常紀年と間違え その辛酉起点半年一年干支として出したものである 支丁丑1 。 , ついで 『書紀』 紀年を修正紀年と比較してみたい。. 第三表. 3 94. 甲午画. 『書 紀』 紀 年 十 本文説明 310庚午. 42 7. 丁卯七. 3 99己亥元. 本文説明. 仁徳崩. 43 2. 壬申主. 405乙巳望. 本文説明. 履中崩. 43 7. 丁丑主. 4) 41o庚戎幸 (丁丑モニ甲午3. 本文説明. 反正崩. 45 9. 己亥天. 7) 4 53発巳三 (己亥充=丁亥1. 六年差 例四. 允 恭崩. 4 62. 壬寅璽. 4 56丙申天. 六年差. 4 85. 乙丑五. 4 79己未尭. 六年差. 修正紀年. 記 事 応神崩. 安康崩 例三. 雄 略崩. 例三, 例四は第一章実例の番号である。 允恭, 安康, 雄略三天皇の 『書紀』 崩年は, 修正紀年より皆六年繰り上っている。 従っ て修正紀 年, 『書紀』 紀年の安康, 雄略二天皇治世年数はどちらも三年, 二三年 で一致している。 『書紀』 の 允恭治世は42年であるが, 即位前の空年が1年あるので合せて4 3年になる. これを通常の年数と みると, 漢史倭五王中讃, 珍, 清三王が実は一人の允恭天皇だっ た事になり具合が悪い。 もしこの 年数が辛酉起点半年一年紀年による半年一年の年数だとすると,空年を含んで通常年数で22年とな る。 修正紀年の允恭崩年459(己亥云 )よりこの22年をとると修正反正崩年437年(丁丑i , 『古事記』 反正崩年)となる。 反正天皇治世は修正紀年, 『書紀』紀年共に通常の年数で5年 であるから一致す る。 履中天皇治世は, 修正紀年は5年, 『書紀』紀年では6年であるから1年の差があるが, 1年の 差は使用する暦が違うと自然に生れるので, 許容出来る範囲内にある. 修正允恭崩年の辛酉起点半 13.
(15) . 栗. 原. 薫. 7と 『書紀』 允恭崩年発巳1との間に16年差があり丁丑の方が古い 『書紀』 の紀年 年一年干支丁丑1 . 3 3 は允恭崩年発巳 よりす ぐ続けて湖っているので16年差が反正崩年に出ている.『書紀』反正崩年庚 0 『古事記』 及修正紀年の反正崩年丁丑モの辛酉起 点半年一年干支甲午3 4との間に16年の差があ 戎5 , る. 履中崩年では, 反正治世が修正紀年, 『書紀』紀年共に通常紀年の年数の5年なので, 修正履中 4と『書紀』履中崩年乙巳望との差は反正崩年のより更に5年 崩年壬申±の辛酉起点半年一年干支甲申2 ふえて21年となる. 第二表の修正紀年による時, 仁徳治世は33年, これを半年一年に直すと6 6年, この66年に先の21年を足したのが『書紀』の仁徳治世87年 である. つまり修正紀年, 治世年数を 間に置いてみると, 記紀の紀年は一致しているのである. 従って記紀で互に相違しているという理 由で, 信悪性を確める術もないとするのは不当 である. かかる修正崩年の信悪性を確めるのに, 政府の公の記録の様に, ぴっ たり当てはまる積極的な材 料はない. しかし漢史の遣使, 授爵記事には, 紀年と倭王名との両方が出ているものがかなりあり, それと修正紀年とを対比し矛盾の有無を確める消極的な方法がある. 今までは記紀紀年の信悪性を 確めるほとんど唯一の方法として利用されて来た. 今修正紀年を漢史と比較してみたい.. 第四表 年. 紀 421 425 427 437 438 443 451 459 460 462 462 477 478 485. 記. 事. 『宋 書』 詔日倭讃可賜除授 『宋 書』 讃遣使 『修正紀年』 仁徳崩 『修正紀年』 反正崩 『宋 書』 珍受爵 倭国遣使 。 『宋 書』 済遣使 授爵 。 『宋 書』 済加爵 『修正紀年』 允恭崩 『宋 書』 倭国遣使 『宋 書』 世子興授爵 『修正紀年』 安康崩 『宋 書』 倭国遣使 『宋 書』 倭壬武遣使 授爵 。 『修正紀年』 雄略崩. 晋義鴎九年 ( 『晋書』) しかし 『義鷹起居注』 に, 倭国, 犯皮, ) にも倭国遣使の記事がある. ( 413 人参等を献ずとあり, それら方物は我国の産物 でなく, 高句麗の産物なので, これは我国の遣使で はなく, 『晋書』には, 是歳, 高句麗, 倭国及東南夷銅頭大師並 びに方物を献ずと高句麗に並べてい るのをみると, 高句麗の謀略と 思われる。 (坂元義種氏 『倭の五王』 ) 又 『南善書』 南費の建元元年 ( 479 ) ) にも倭王武の進号記事がある 5 02 , 『梁書』 梁の天監元年 ( が, どちらも遣使の記事を伴わず, かつ建国の年の出来事なので, 我国と無関係に, その建国の景 気付けに行われたに過 ぎず, 考慮外にすべきである. 珍の授爵は43 8年 で, 修正紀年の反正崩年の1年後になるが,43 7年反正在位中に使が出され, 反 14.
(16) . 書紀の史実性. 正崩御を知らないままに翌4 98年使命を果したとすれば, 反正を珍として矛盾しなくなる。 ( 「漢籍. 倭人考」 下菅政友 『菅政友全集』 ) 『書紀』 の紀年の場合, ①讃, 珍, 清三代が允恭一代に収っ てしまう。 ② 『書紀』 の允恭崩年は 葵巳45 3年であり, 世子興の授爵の462年は, 興を安康とすると, 世子とよ ぶにはあまりに遅いと いう問題がある. 『古事記』 の紀年では, 応神 -- 反正ま での崩年は修正紀年 (第二表) と同じなので①の問題は 解ける。 ②の問題は, 『古事記』 の允恭崩年甲午を通常紀年と解した ( 454年となる) 今ま でのやり 方では, 世子興授爵ま で8年もあってやはり問題が残る. 又③珍が讃の弟になっているので, 讃を 仁徳, 珍を反正とすると, 『書紀』 と 『宋書』 とでは続柄が合わなくなる。 讃を履中とすると, 『古 事記』 の崩年干支と合わなくなるという問題が, ①の問題がとげる代りに出てくる。 ②の問題は, 修正紀年によると允恭崩は4 59年, 46 0年 (世子興) 遣使, 4 62年世子興授爵 (遣使 なし, 4 60年の遣使に対する授爵である) なので不自然さがなくなる. ③の 問題 は 修 正 紀 年 に よ る 時 讃 は ごく 自 然 に 仁 徳 に な る が, 『宋 書』 の 史料 に は, 讃 死, 1子履中立, 履中死 」 弟珍立とあったのを, 履中にはそれ以上の史料がなかったので, 漢史一流の 合理化を行い, [ ] の部分を取去ったと解するのが良いと思う。 ( 『漢籍倭人考」 前出) 即ち修正紀年による時, 記紀は一致し, 漢史との矛盾は全く解消するのである. ついで宝算について考えてみたい. 『応神紀』 宝算110才は宝算でなく紀の治世年数だと思う. するとぴったり合う. (宝算だと111 才となる) 修正応神崩年 (第二表) と第一章例五の仲哀崩年辛卯 ( ) より出した応神治世 (神功 3 31 摂政時代を含む)63年を半年一年の数とした126年より, 『允恭紀』 崩年で生じた 『書紀』 紀年と辛 酉起点半年一年紀年との差16年を引いたものである。 『古事記』 応神宝算13 0は 『仲哀記』 崩年壬 2に至る年数つまり記紀紀年が修正さ 戎2の翌年つまり応神元年より,『仁徳紀』元年薬酉の前年壬申1 れて行く或段階での応神治世年数である。 別の観点より見ると修正応神治世6 3年より出した上述 126年に, 先述した修正履中治世5年を半年一年にした10年より 『履中紀』 治世6年を引いた差4 年を加えたものである。 『仁徳紀』 宝算83才は, 『仁徳紀』 の治世年数8 7年 (先述, 元来66年) は 『履中紀』治世6年より測るもの であるが, 修正履中治世5年を半年一年とした1 0年をとると仁徳 治世は87年より4年へっ て83年となるその83年だと思う. 『履中紀』宝算70は, 『履中即位前紀』 に仁徳三一年年十五 で立太子とあるのに合う。仁徳治世を修正紀年により半年一年で66年とすると 三一年より仁徳崩年ま で36年である。 それに 『履中紀』 治世6年を足すと42年となる。 立太子の 御年を通常のとし半年一年のに直すと29か30である. 2 9をとり加えると丁度履中宝算は7 0とな る, 『履中記』 宝算64は, 履中天皇践簾の時の御年を間違えたのではあるまいか。 『継体紀』には践 簾の時の御年が出ている. 反正, 允恭, 安康, 雄略四代は 『古事記』 にのみ宝算がある. 『反正記』 宝算六十才。 『紀』 の紀年に当てはめると, 仁徳39年の誕生となる。 その時は母后磐之媛莞の4年 後で矛盾する. 『記』により履中治世を5年にしても3年後となる。 仁徳崩年を修正紀年 (その辛酉 起 点半年一年紀年)により66年とすると, 仁徳18年誕生となり矛盾はなくなる。 『允恭記』宝算78 才は色々の組合せが可能であるが,例えば仁徳崩年より允恭崩年ま でを通常の修正紀年 で3 2年とす ると,『仁徳紀』六六年 で46才となる。 すると磐之姫藁の仁徳三五年に15才となり矛盾がなくなる。 『安康記』宝算56才は, 半年-年の御年とみると, 反正崩年で7才, 半年-年だと反正治世は9年 又は10年であるから, 反正治世下の誕生となる. 第一章例三十により 履中崩年には允恭天皇は安康 母后を妃にして居られた事が分るが, それと矛盾しない。 『雄略記』宝算1 24は『允恭紀』七年誕生, 『雄略紀』二三年崩より単純に計算した62才を通常年数とみ, 二倍して半年一年の御年にしたもの 15.
(17) . 栗. 原. 薫. であ る.. かく記紀の宝算は 元来からそうだったのではなく, 記紀紀年の変化に従い何度か計算し直され, 複雑な経過をへて 形成されたものである. それは『記』 『紀』紀年に 関っている事 上述の如く で, そ れらと無関係 なもの ではない. 『記』 『紀』 の紀年が一致している以上, 宝算も同一の紀年に返 しう る紀年に繋 っているという意味で一致しているのである. これは宝算が紀年と関っている為に, 紀年の修正と無関係に, 元来のまま置いておく事が出 来ず, 修正して行っ た為にそうなっ たのである. 宝算を若干としているのも, 同じ状況の下 で取られた選 択の一つであった.. 結局崩年も宝算も記紀間に関連があり, 井上氏の言われる様に 検討に価しないものでは ない. 崩 年の方は『宋書』との間に矛盾はなく, 宝算は紀年と共に改め られていて元来の姿を残 していない. 井上光貞氏は天皇の御名について, 『宋書』 倭王の名と 『帝紀』 の御名との間に 意味又は音の上で 関係がある事, 応神以前の荘重で後世風な 『帝紀』 の御名と, 実名 的な以後の御名とが違い, それ が旧辞の変化に相応じていて, 応神以後が史実だろうと推定出来る事, 又 『江田船山古墳出土太刀 銘』 の反正天皇の御名 をあげて, 『帝紀』 の御名 を信じうるとされた. 今 『稲荷山占墳 鉄剣』 出土に よって, 同鉄剣銘のワカタケル (雄略) から, 船山古墳のもワカタケルだと言う 事になり, 反正御 名については資料が失われたが, 雄略御名については 二資料で確められる事となっ た. ついで井上氏は続柄と皇位, 皇子, 皇女について, 子を中心とすれば続柄となり, 親を中心とす れば皇妃, 皇子, 皇女となり, 元来内容が同じであり, その一部は 『宋書』 や 『隅田八幡鏡銘』 等 によ って確められるとさ れた. まず 『宋書』 によると, 清の子に興と武とがあった事が分るが, そ B 墨田八幡鏡』 は442年允 れは 『帝紀』 にもある系譜であるとされたのは もっともの事である. 又 『 恭治世下の製作で, その意柴沙加宮は, 皇后オオナカツ姫の 実在を示しているとされた.『隅田八幡 鏡銘』 の紀年は第一章例三十で示した如く432年允恭即位前であるが, 後の允恭天皇が, 後の皇后 オシサカのオオナカツ媛とオシサカ宮で暮 して居られた事を示している と思われるので, 結局間接 的に允恭皇后オシサカノオナカツ嬢の実在を示して いる. 又井上氏は 『正倉院文書』 の下総国大嶋 4名は姻族であるが, これはオシサカ 0人居り,1 郷の戸籍に, 618人の中, 刑部の姓を有する 者が2 ノオオナカツ媛の名代の実在, ひいてはオシサカノオオナカツ嬢の実在 を示しているとされた. 又皇居と治天下について, 『江田船山古墳 太刀銘』 の狼宮 (反正天皇の多治比之柴桓宮) でそれが 実証されているとされたが, 今や狼宮と考えられていた部分はワカタケル (雄略) という御名のワ カに当ると考えられる様になっ た. 代りに稲荷山鉄剣銘の斯鬼宮が出て来たが, それに当る宮名を 記紀に求める事は出来ない. 又井上氏は陵墓について, 応神, 仁徳, 履中三陵の実在 などは実証出来るとされたが, 今はその 被葬者について疑問が出ている. 『帝紀』 はかく井上氏が指摘されたもの (若干修正) のみならず, 崩年についても, 先述した如 く一応事実とみてよいのである. しかし井上氏が蓋然性があるという意味でと但し書きを付けられ たのは, 対比される確実な 史料があまりに少いからである. 崩年も確実な史料と矛盾しないという だけである. 今や第三章の結論によ ってそれは補強され蓋然性という但し書を取去ってもよくなっ たのである, 第三章で政府の公の記録より出た 『書紀』 の記事は信用してよいと論じた. 記録の 必 要, 記録の強い要求は帝紀的内容についてもあったに違いないので, 政府の公の記録に 当時のもの があっ たとすれば, 帝紀的内容の記録もあっ たに違い ない. それが記紀の帝紀的部分に出ているの だとすると, それらは信用してよいのである. それ以外の部分には, 対比すべき確実な史料が全くないの でなんとも言えない. 16.
(18) . 書紀の史実性. 五. 結. 論. 井上光貞氏は倭五王時代の 『帝紀』 に 蓋然性があるという 意味で信悪性があると論 ぜられたが, 私は倭五王時代の 『帝紀』 と 『書紀』 の政府の公の記録より出た記事について, 史実とみてよいと いう事を明らかに した。 l l iam Bramsen )が, 我 国 上 代 紀 年 に 6 ケ 月 1 年 の が あ っ 又明 治初 年 ウイ リ ア ム, ブ ラ ム セ ン(Wi. たと説いてより, 安本美典氏, 古田武彦氏, 山本武夫氏等が, 半年一年の紀年を説いてこられた。 ただその確実な実例 を一つもあげられなかっ たので学界で無視されていた。 私ははじめてその実例 31を挙げる事が出 来た。 それを第一章にあげた。 (本 学 教授. 旭川 分 校). 17.
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