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ヘルバルトのペスタロッチ批判

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ヘルバルトのペスタロッチ批判

一ヘルバルト教育学の成立過程研究(皿)一

鞘学研究室 高 久  清 吉

1.序一ペスタロッチ研究とヘルバルト教育学の成立

  ■ ●

Q. Uber Pestalozzis neueste Schrift:Wie Gertrud ihre Kinder lehrし における ペスタロッチ批判

3.,,廿ber den Standpunkt der Beurteilung der Pestalozzischen Unterrichtsmethode.

におけるペスタロッチ批判 4. あとがき

       1

wルバルトの初期の著作, 『ペスタロッチの直観のイロハのイデー』(Pestalozzis Idee

eines ABC der Anschaung, untersucht und wissenschaftll ch ausge飾hrt.1802) は,

       、

yスタロッチによる「直観のイロハ」の吟味を手がかりに,ヘルバルト自身の直観論をか なり詳細に展開したものである。この著作は,ヘルバルトの本格的な教育学研究の出発点 となつたペスタロッチ研究の一里塚として十分注目すべものであるが,ここで特に重視し たいのは,この著作第二版(1804)に「付録」として『教育の中心任務としての世界の美         ■●

I表現について』(Uber die asthetische Darstellung der Welt als das Hauptgeschaft der

Erziehung)という論文が載せられたことである。この論文はヘルバルト教育見解の輪廓 の素描に過ぎない小論ではあるが,しかしはじめてペスタロッチから離れ,また先行およ び同時代の人人の所説とも無関係に自分自身の道を拓いたものであり,彼の教育学体系の 全萌芽を宿すものとして特に注目されている論説である。その所説内容に関する論究は本 稿の直接の意図外にあるが,ここで注意したいのは,前掲のペスタロッチ直観論研究の著 作に,何故この論文が付録として載せられたのであろうかという点である。この点の吟味 は,大きくはヘルバルトの教育学的思惟の特色を,直接的には彼のペスタロッチ研究およ び批判の態度を理解する上の重要なポイントになるものと考えるので,以下前掲書第二版 の「あとがき」にのべられているヘルバルト自身の所説に拠りながら,この間の事情を明

らかにしていきたい。

「もし,個々の題材がその一部門として所属するところの全体,この全体の理念(Idee des Ganzen)が批評家および吟味者の双方に同様の仕方でみられ考えられないのなら,ζ

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60      茨城大学教育学部紀要 第十一号

れら個々の題材についての教育学的吟味は正しく行なわれず,また後に正当に評価される こともない。」(Bd.3S.416) (注) 「個々の思想それぞれの特質を明らかにしよう とする努力がどれほど重ねられるにしても,今日のような体系に富んだ時代においては・

あらゆる側から誤解が生じてくる。そして各人はくらんだ眼でみることになる。それ故一 般的原則から(von allgemeinen Grundsatzen her)問題を解決する以外どのような途も 残されていない。」(Bd.3S.416)「ひとたび教育学そのものの理念(die Idee des Padagogik selbst)が明白になるなら,この理念はどのようなものも拒否せず,むしろ各

々の作用を必要とすること,つまり各々が全体のためにどの位置でどのような貢献をする のか,どのようにして一方は他方の前提となり準備とならねばならないか,……を示すこ とによつて,対立する諸部門の間の和合をひきおこすであろう。」 (S.417)一上に引 用した所説は,実はヘルバルトにおける教育学的思惟の根本的な特色を示している。つま り,いつでも各部分を全体的連関の中に位置づけ,個々の思想を一般的原則,全体的理念に 基づいて系統立て,個々の方法を教育の全体的課題からとらえようとする努力は・特にへ ルバルトに顕著な学的思惟の特色であつた。したがつて彼は直観を論ずるにしても・単に この問題領域にのみ狭くとどまろうとはしなかつた。「直観のイロハの奥に教育一般の理 念を樹』立すること」(Hinter einem ABC der Anschaung……die Idee der Erziehung aufzustellen) を意図すると同時に,逆に教育そのものの純粋な理念と関連づけ,教育学 の全体領域のうちの一つの問題領域として直観を位置づけ,解明しようとしたのである。

すなわち,「直観のイロハから教育そのものへという眼は,今やその逆の方向をとるがよ い。直観のイロハは遠く広い領域へと入つていくがよい。もしこのイロハがなお近く狭い 領域でのみみられるのなら,それは正しくは理解されない。われわれは教育学の極致を探 求するのである。」(Bd.3S.423)かくてヘルバルトは,「直観のイロハの奥に教育…

般の理念を樹立」しようとするにはあまりの小論であるにしても,「直観のイロハを実際 には教育領域の広いひろがりの中の小さな一点として位置づけるのに十分役立つ」ものと して,前述の『世界の美的表現』の論文を直観に関する著作の付録として載せたのであ

る。(S421)

ここから,われわれはヘルバルトのペスタロッチ研究と,ヘルバルト教育学成立との問 の密接な連関を容易に想像することができる。特にすぐれた学的体系的思惟を身につけた ヘルパルトにおいて,その青年時代におけるペスタロッチとの親密な個人的関係,ブルグ ドルフにおける実際教授の参観更にペスタロッチ著作の研究は,その家庭教師としての 教育体験と共に,ヘルバルト教育学成立の基盤を用意したものとみなされる。しかし,彼 の教育学は単に「ペスタロッチ教育学の理論化」にとどまるのではなく・むしろその本質

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的な体系の構成はペスタロッチから離れるところに始まると称することができる。事実彼 のペスタロッチ批判は,同時に,その成立当初におけるヘルバルト教育学の基本的性格の 素描とみることができる。したがつて,この批判の前提となり,拠り所となつているヘル バルト自身の教育見解の基本的性格を彼のペスタロッチ論から探つてみようとするのが本 稿の中心のねらいである。

      2

P801年,ペスタロッチの主著の一つである『ゲルトルートはいかにしてその子を教える か』(Wie Gertrud ihre Kinder lehrt.)が公けにされると,ヘルバルトはすぐに『ペスタ

      ●o 鴻bチの最近の著書,ゲルトルートはいかにしてその子を教えるかについて』(Uber

Pestalozzis neueste Schrift:Wie Gertrud ihre Kinder lehrt.) と題する論文を書いて

いる。この論文は雑誌『イレー一ネ』(Die Irene)への投稿のため,その発行者であり・ま た彼の友人でもあるハーレム(GH. von Halem)の許に送られたのであるが(この論 文は『イレーネ』,1802年1月号に掲載された。)同封の1801年12.月24日付の手紙の中でへ ルバルトは次のように述ぺている。

「尊敬する私の愛顧者であり友人でもあるあなたに取り急ぎこの論文をお送りします・

……рフこの試みを快く御受納下さるならそれはうれしいことです。

ところで,ペスタロッチの見解はドイツ人にとつて本当にドイツらしい明晰な叙述を必 要とするように私には思われます。おそらくこの見解は,その根拠が正確に叙述され・ま

たその完全な組織化によつて不可欠かつ実現可能のものとなり・その結果今日のドイツの 教師たちの注意をひくものとなるためには,その前になお多様な訂正を受けねばならない でしよう。もとより私のこの小論はこのような訂正をその課題としているものではありま せん。一ただここで問題にしたのは,世の母親に対しやや軽卒に捧げられたこのペスタ

ロッチの著書を読む人々のために,この本の見解の正しい理解を容易にしてやるというこ

とであります。

このような私の意図を実現するためには,本来は更に第二の論文が必要となるはずなの です。この第二の論文によつて,ペスタロッチへの展望は彼の見解の必然的限界をこえて ひろげられることにまるでしよう。そしてこの小論とは対照的に第二の論文では,教育の 中枢神経としての美的知覚(die asthetische Wahrnehmung als den Hauptnerven der Erziehung)が叙述されることになりましよう。この点に関しては同封の論文でわずかに

ふれています。」 (Bd.3 S.255−256)

以[なは,ペスタロッチ教育学に対するヘルバルトの着眼の焦点がどこにあるかを明白に

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62      茨城大学教育学部紀要第十一号

示している。したがつて,この所見は単に上のハーレム宛の論文に限らず,その他一連の ペスタロッチ論述に関するヘルバルトの序論に該当するものとみなすことができる。この ような着眼の下,特にペスタロッチ教育学(正しくは教授論)の本質と限界をきわめて端 的に論じたのが,『ペスタロッチの最近の著書,ゲルトルートはいかにしてその子を教え

るかについて』の論文である。以下,この論文にあらわれたヘルバルトのペスタロッチ解 釈および批判の要点を整理してみよう。ここで論究されている内容,問題点は要約すれば 次のようになる。一ペスタロッチは線や形についての直観言語および数の使用に関す

る訓練・つまり「観ること,話すこと,数えることの訓練」を教授における最も緊要なる もの,最も一般的,基礎的なるものとした。それはなぜか,それはどのような限界をもつ のかo

さて,ヘルバルトはブルグドルフにおけるペスタロッチの実際教授を参観し, 自分が

「かんたんに参観者,傍観者から学習している生徒の一人にひき入れられてしまう」ほど

「生き生きとした子供の自然な生動性」にあふれた学習の進行に驚嘆している。ところが 教授するペスタロッチ自身はきわめて無愛想である。「その他のところでは一見して友情 にあふれ・親切柔和であり……その最初の言葉が,それまで無縁であつた者のすべてに心 の溶け合うような真情を感じさせる彼が,その全心を占めている子供たちの間でなんの喜 びの表情も見せず」・「子供と快い話し合いもせず,雑談,冗談そしてなんの物語りもせ ず常にただ学ばせる」,しかも「多くを暗記的に学ばせるのである。」(Bd 3 S.270)

しかし,ヘルバルトはこのような外見の奥に,次のようなペスタロッチの教授原理を見通 している。第一に教授および学習進行の「系列順序の合則性」 (Regelmassigkeit der Reihenfolge)(Bd・3 S.271)であり,第二に「教授の内的平明性」 (die innere Ver.

standlichkeit des Unterrichts) (S.272), すなわち,教授時間には,日常直観の諸対 象となるような理解し易い平明なものが与えられるべきだということである。かくてヘル バルトは,彼自身かねてから「教授の唯一の正しい基礎」とみなしてきた生徒の「明瞭な 理解の感i青」 (das GefOhl des klaren Auffassens)が,ペスタロッチにおいてもまたそ の努力の中心になつているとみたのである。 (Bd.3 S.271)

ところが,ヘルバルトによれば問題の核心は更にその奥にある。すなわち,以上のよう な教授の原理または努力の由つて生ずる源,ペスタロッチ教授論,教育論の基本的性格を 規定するもの,したがつて,彼の教育見解をその根底から理解する核心となるものは次の 一点にあるとみる。「この核心は一この点を特に注意するよう私はあなた方にお願いし なければならないのだが一上層階級に属するあなた方の母としての仕事,またあなた方 に最も切実な願望の中心となるものではないQ民衆の救済がペスタロッチの目的である。

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ありふれた粗野な庶民の救済である。(Das Heil des Volks ist Pestalozzis Zie1;das Heil

des gemeinen, rohen Volks.)……彼はあなた方の家ではなく,庶民のあばら屋の中に彼 の功績の栄冠を求めたのである。」(Bd.3 S.273)このように教育の中心目的を貧困な 粗野な民衆の救済という点におくペスタロッチは,当然に伝統的教授の内容や方法に関す

る根本的変革を要求する。「上の目的を達するための方法手段は,子供たちが受けている 通例のつまらない学校教授にかわつて,何よりも先ず貧困な子供たちに役立つものでなけ

ればならない。」 (S.273)

それでは一般民衆のための教授にとつて「最も緊要なるもの」(das Dringendste)とは 何か。「疑いもなく,最も必要な教授は,人間にとつて何が最も必要であるのか,それを 人間が知るように教える教授でなければならない。しかしながら人間に最も必要であると いうのは,その身体的物的本性にとつて必要であるか,またはその道徳的本性にとつて必 要であるかのいずれかであるQいい換えれば,人間が感覚的存在として生きていくことが できるためにそれを必要と丁るのか,あるいは市民として父として夫としてさまざまの社 会関係の中でその義務を認識し,遂行するために必要とするのである。農耕,工場での仕 事,商業その他すぺての生計のための技術,学問は第一の分類に属する。宗教,道徳,市 民としての権利や義務についての理解は第二の分類に属する。怠惰な徒食者,義務や権利 に無関係な存在であろうとしない人間はすべて上の二つの分類についての教授を必要とす る・」(B¢3S・275)しかし現実の生活において,生業のための技術およびわれわれに多く を義務づける人間の諸関係は緊密に結びついており,教育の領域も上の分類に対応するよ うな二領域にはつきり区分することはできないQしかも学校は,そこで人間の生計のため の技術,学問,および道徳的諸点についてその全部あるいは主要部分のすぺてが陶冶され 得る場所ではない。とすると,学校はただ「多くの個々のもの」,つまり「個々の知識,

個々の技能,個々の道徳的慣習」ではなく,上の二領域に共通する 「最も一般的なるも の」(das allgemeinste),つまり「その影響が最も広くひろがり,将来の全陶治に対し 広くその道を拓き,また生活のほとんどあらゆる瞬間に適用され,しかもその新たな適用 毎に新たな実を結んでいくような知識と技能」を教授しなければならないことになる。い い換えれば・「後になつて最も多くのことを可能にするもの」 (Dasjenige, was in der        

eolge das Meiste m6glich mach⇔の教授である。(Bd 3 S.375)

ここでわれわれは更に改めて・この「最も一般的なるもの,最も有用なるもの」 (das AIIerallgemeinste・Allerhilfreichste),それ故学校教授の「最も基礎となる最初のもの」

(das Allererste) は何か,と問わなければならない。これは,ペスタロッチによれば,

「人間と彼のかかわる世界との間の交渉を促すこと」(den Verkehr des Menschen rnit

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64      茨城大学教育学部紀要 第十一号   し

seiner Welt zu f6rdern),つまり子供をとり巻く世界の確実な把捉の基礎としての「直 観」「言語」「計算」の訓練である,とヘルバルトは答える。彼はこの点を次のように説 明する。一子供をとり巻く「自然」(Natur)と「人間」(Menschen)は子供の精神的 成長の真の栄養源である。したがつて,子供は何よりも先ず,この身近な自然および人間 の世界を正しく把捉しなければならない。ところで,子供の日常の経験,すなわち身近な 外的世界との接触は直接には「眼」と「耳」を媒介として行なわれる。しかし,この外的       r一

「界,日常の環境は多数,多彩,多様である。例えば多くの人々の話すのは速く,少いぎ 葉に多くの思想をつめこみ,自然は一平地上で非常に多くの形を,一種の花でも多くの色

を示している。かくして子供時代における「眼」や「耳」の訓練が必須となるのである。

「子供がまだ言葉を身につけ,形の印象を受け入れつつある時,欲求と努力がなお持続し ている時,また名称について尋ね,対象を十分にみつめ,これをあらゆる側面から熟視吟 味するよう刺戟する対象が日に新たに彼等の周囲に見出される時,しかもこのような自然 の進行がまだ静止せず,動きのとまつた怠慢へと傾くことのない今,今こそ子供を導き助 ける時期である。すなわち,今こそ自然が観察され,人問の思想が理解され得るよう,形 と話に対して子供の感受性が完全に開かれねばならない。」(B¢3S278)かくてペス タ。。チにおいては,「直観のイ…」(ABC d・・An・chaung)が「最も一般的基礎的 なもの」とされ,更にこの直翻【1練とならんで階言酬側(Sp・achむbung・n)・「数の 使用に関する訓練一算術」(Rechenkunst)があらゆる教授の基礎とみなされたのであ

る。

以上はペスタロッチの基礎教授に関するヘルバルトの簡潔な,しかし体系的な解釈の要 約である。この場合注口したいのは,ペスタロッチが下層の民衆に視点をおいてその教授 論を展開しているという点に,ペスタロッチ理解の核心があるとしたヘルバルトの着眼で ある。すなわち,日常身近な人間界,rl然界の確実な把捉のための基礎能力を 「形」

(Form),「言葉」(Wort),「数」(Zahl)において訓練するという点に教授の基礎 を求めたのがペスタロッチ教授論の特質である,とするヘルバルトの見解は,「民衆の救済 がペスタロッチの目的である」,したがつて何よりも先ず,「人間と彼のかかわる世界との 間の交渉を促すことがペスタロッチの第一の目的である」という彼の基本的なペスタロッ チ観に基づいている。しかし他方でヘルバルトは次のように述べている。「このような民 衆のためのペスタロッチの方法は,実は上層の階層に属するあなた方のためにも考案され たものであることに気づかないだろうか。」(Bd.3S273)つまり・ペスタロッチの教授 は単に下層の民衆に限らず,どのような階層にも妥当する普遍性をもつているというので ある。「観ること,話すこと,数えることに関する練習(Obung im Anschauen・Sprechen・

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zahlen)はどのような階層やどのような境遇にあろうとも,誰もが所有し,誰もに迫つて

くる陶治手段,つまり,日常経験の把握と活用への最も一・般的な準備である。」(Bd.3 S.282)

つぎにヘルバルトは,ペスタロッチにおける以上のような訓練で教授は十分であるの か,「ペスタロッチの教示する全体が,あなた方の教育に対する配慮の全体とどのように関 係するのか」(S.282)を問題にする。いい換えれば, 「ペスタロッチの見解の必然的限

界」(die notwendige Grenzen der Pestalozzischen Ansicht)(Bd.3S.255)を指摘しよう

とする。この場合,ヘルバルトは何よりも先ず,彼が教育の中心目的とみなす道徳性の陶 治とペスタロッチの基礎教授との関係に注目する。日常的世界の把捉とそのための基礎能 力の訓練によつて,「道徳的なるものに対しても何かがなされるのかどうか」を問題にす る。これに対するヘルバルトの答は次のようなものである。道徳的教訓,道徳的に深い感 動を与えるような物語,また道徳的感情のさまざまな覚醒が生きたものとなり,子供の内 に滲透する教育的作用を発揮するものとなるための前提,つまり道徳的陶治の基盤(Bod一 en)が,上の訓練によつて用意される。何故なら,「成人またはその眼と耳が自然と人問 社会に専心している子供は,その度合に応じ,自分自身の感庸,すなわち自分の快,不快 にとらわれない。利己主義は自分自身ではなく,事実の諸関係,他の人物の諸関係に注意 するような人間においては消滅する。このような人間は容易に自分自身をこれら人間の中 の一人として,多の中の一としてみなすような予備訓練がなされている。そこで彼は自身 に相応した位置をすぐに見出す。多くのものの関係についての洞察は,もしこの洞察が精 神の中心方向となるなら,自然にこの関係に関する秩序および法と道義により,この秩序 を保持することへの愛庸を間違いなくもつことになるQ」(Bd.3S.280)かくて,世界 把捉の基礎的訓練は「ひそかに」,つまり間接的に「道徳的情操の根源」 (die Wurzeln der rnoralischen Gesinnung)を培うことになる。

しかしヘルバルトはここですぐに,道徳的陶治に対するこの訓練の価値を過大視するこ とをいましめる。「あなた方はここでいわれたことを,あたかも上述の学校の訓練のうち に,個々すべての子供の道徳的性格を確実に正していくような奇蹟的力がひそんでいるか のように考えるほどひろげることはないだろう。」(S.280−281)なるほど,身近な世界 における事物および人間の多くの諸関係に関する一般的洞察は常に道徳性の基礎であり,

したがつてそのための訓練,練習は道徳的陶治の前提とみなされる。しかし本来の道徳的 陶治のための真の出発点は他に求められるぺきである,というのがヘルバルトの真意なの である。つまり,かの基礎的訓練は不可欠のものではあるが,教育の全体的配慮からすれ ばそれは「一つの予備的配慮」(eine Praliminarsorge)である。 というのは窮状にある 民衆のための必要というよりも,「教育のより大きな,より重要な課題」は「もつと高度

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66       茨城大学教育学部紀要 第十一号

な教養」にあるとみるのがヘルバルトの基本的立場である。(Bd.3S.282)したがつて,

「今まで一般の民衆に対し,その業務の必要のために提供されればよかつたものとは全く違 つた他の繊細な感情(Feinheit des GefUhls)が,もつと広い視野,より豊かな想像,あ わせてより深い探究者の洞察をひきおこすために教育を通して身につけられねばならな い。」(S.282)しかもヘルバルトによれば,この繊細な感情のための教育作用は,もは やペスタロッチ教育論を成り立たせる観点から発するものではない。これとは全く違つた

「他の中心観点から」(von einem andern Hauptgesichtspunkt)発する。それではこの 中心観点とは何か。ヘルバルトはこれを次の一語で表現する。一「教師は美的感覚を可 能にするよう常に配慮せよ。」(er sorge allenthalben f肚die M6glichkeit asthetischer Wahrnehmung.)(Bd.3S.283)

かくして,ヘルバルトはこの論文において,ペスタロッチにおける直観言語,計算の 基礎的訓練の根拠およびその教育的価値を明瞭にすると同時に,この訓練の教育全体にお いて占める位置,いい換えれば,その限界を明らかにしている。そしてこの領域の外に美 的感覚を鋭くするという教育作用の新たな,しかし中核的な領域を設定している。この美 的感覚が「教育の中枢神経」とみなされていることはすでに指摘した通りである。したが つて,ヘルバルトの青年時代におけるペスタロッチ教育論の祖述,理論化の努力は,実は ペスタロッチとの対照によつて,彼自身の独自な教育学体系の基礎構成の過程とみなすご とができる。この独自の見解をはじめて体系的に叙述したのが,『教育の中心任務として の世界の美的表現』の論文なのである。

      3

yスタロッチの著作『ゲルトルートはいかにしてその子を教えるか』に関するヘルバル トの論評が,「美的感覚」の概念を彼独自の教育学体系の中心支柱として打出した点は上 に述べた通りである。これに対し,1804年,ブレーメンにおいてなされた『ペスタロッチ

       ● ●

フ教育方法の評価の立場について』(Uber den Standpunkt der Beurteilung der Pesta一 lozzischen Unterrichtsmethode.)と題する講演は,同じくペスタロッチとの対照によつて 彼独自の見解を鮮明にしたものであるが,ただここでは前者とは全く違つた側面における ヘルバルト教育学の根本的立場が明らかにされているQ

この論説中,ヘルバルトが直接ペスタロッチの方法に言及している点を要約すれば次の ようになる。第一に,ペスタロッチの基礎教授の方法は,身近な狭い領域における単なる 機械的形式的な技能訓練と同一視されてはならない。「人間の身体のわかり易い描写,器 用に正確な線を描くこと,九九の表をいろいろ書き変えること一これらがペスタロッチ

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の方法の中心点であるかのように思いこむ誤謬にとらわれないでほしい。」(B¢3S.291)

また教授内容に関しても,ペスタロッチの方法は鎖事にこだわり,狭い領域に限定されて いると考えてはならない。彼の方法は,直接的問接的な感覚的知覚の全領域におけるます ます広い自由な精神活動を重視しているQ第二に,しかしペスタロッチの方法の本質は,

「これまでのどの方法よりもはるかに大胆に,熱心に,直観された明確な経験を構成する ことによつて子供の精神を形成する義務をはつきり認識した」点にある。(S.292)ただ

しこの場合注意すべきことは,子供がすでに所有している経験内容を吟味し消化すると いうよりも,子供が先ず経験を得ること,したがつて何よりも先ず子供に経験を与えるこ とをペスタロッチが重視したことである。第三に,それ故ペスタロッチの方法の基本的性 格は基礎的教授という点にある。すなわち,「他のすべての方法の予備的工作をするにふ さわしいものであつて,なんらかの他の方法を押しのけてそれに代わるという性質のも のではない。それ故,彼の方法は教授を受容するに適する年少の子供に配慮する。まだ第 一の基本的な素材,最も素朴な材料が用意されねばならない時期にある年少の子供を真剣 に簡潔に取扱う。」(S.292)第四に,ペスタロッチの方法はそれ自体では十分でなく,

他の方法によつて補われねばならない。「その上に書きつけられたままに文字が並んでい る死んだ表のように人間の精神をみなすべきでないかぎり,われわれはペスタロッチの方 法に満足することはできない。」 (S.292) これに反し,例えばバセドウ (Basedow,

Johann Beruhard.1724−1790)の「楽しい談話的方法」(unterhaltende Methode)は,

子供の精神の自然な動きに従おうとするすぐれた性質をもつている。それ故,「ペスタロ ッチの方法が完了したところで,バセドウの方法が直接この後に続かねばならない。」つ まり,ペスタロッチの方法はバセドウの方法によつて補われねばならない。

さて,ペスタロッチの方法に関する以上のようなヘルバルトの見解に対し,ブリッチュ

(Th. Fritzsch)は次のようにのぺている。 「この論説をみてすぐ気づくことは,これが それほど長い準備なしになされているということである。」例えば,バセドウの方法がぺ スタロッチの方法に対する適切な補充であるというのは,「ヘルバルトの本気の意見では ない。」もしこれが本意だとすれば,『ゲルトルート教育法』に関する論説の中で,言葉,

形,数における訓練を補い完成するものとして,世界の美的表現による「美的感覚」の陶 治を説いた主張と矛盾する。また,現に所有している経験を吟味,消化する(verarbeiten)

というよりも,先ず子供に経験を与える(geben)ことこそ肝要だという主張も, 「綜合 的教授」(der synthetisehe Unterricht)と「分析的教授」(der analytische Unterricht)

の二つの教授進行を考えるヘルバルトの見解と矛盾する,とブリッチュはいうのである。

(S,257)

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68       茨城大学教育学部紀要第十一号

この点の論議はともかく,ここで注意したいのは,上に要約したヘルバルトの見解から,

彼が,ペスタロッチの方法では受容された経験内容の吟味,消化による精神形成のメカニ ズムを説明することができないとみている点である。このような見方が果してペスタロッ チに対する正当な評価であるかどうかはさておき,この講演における以上のようなペスタ ロッチの方法の評価の前には,表象構成を教育の中心とみなすヘルバルト独自の心理学 的,教育学的見解が述べられている。いい換えれば,以上のペスタロッチ方法に対する考 え方は,実は教育,教授の心理学的基礎に関する彼独自の見解から導き出されたものであ る。このヘルバルトの心理学の最も基本的な前提がはじめて叙述されたという点で,この 講演内容は特に注目に値する。 またここではこの心理学的見解に関連して,教育の必要 性,更に当時好んで行なわれた教育と園芸術との比較に関する見解の訂正がのぺられてい る。先にふれたように,この論説中のペスタロッチ批判に連関した所説に関し,ヘルバル トの軽卒さを指摘したブリッチュも,ヘルバルト心理学の最も重要な骨子が彼の初期の著 作中はじめてはつきり現われたという点で,「この小さな講演内容は重要な興味あるもの である,」とのぺている。(Bd.3S.257)つぎに,この心理学的見解の重点と・これに 基づく教育見解を要約しよう。

ヘルバルトによれば,人間の心は知識(Kenntnissen) や想像(Einbildungen)決意

(Entschliessungen)や懐疑(Zweifeln),よい,わるい,強い・弱い・意識的・無意識 な志操(Gesinnungen)や傾向(Neigungen)等の多様な心的作用の複合から構成されて いる。この構成がどのように行なわれるかを決定するのは人間の個性(Individualitat)で ある。「教育はこの個性を形成し,改善しようとするのであるが,ただ,これをどう取扱 うぺきか,またどの程度教育の力を信じてよいのか,これは正しくは全然知られていな い。」(Bd.3S.286)したがって,教育をより根本的な角度から問題にしようとするへ ルバルトは,何よりも先ず教育の必要性,教育の可能性にかかわる次のような基本的問題

を提示する。一「その繭芽の内に植物の全形態が予め準備されているように,人間はその 陶治の原理を自分自身の内にもっているのか,それとも人間の個性の形成は生活の過程の

中ではじめて行なわれるのかどうか。」(S.286)いい換えれば, 「人間はその将来の形 態(Gestalt)を具えてこの世に生まれ出たのか,そうではないのか」(S・287)というこ

とである。勿論ここで問題にされるのは身体に関してではなく(身体については人はその 将来の形態を具えて生まれてきた),人間の精神についてである。しかしこの点に関する

見解はさまざまである。ある者は「自然が気質をつくる」といい,ある者は「人間は生来 的に善である」という。これに反し,「原罪によつて人は悪しき者として生まれている」

と主張する者もあり,また「人間は教育によってどうにもなる」と考える者もある。先験

(11)

的自由論者に至っては「人間は自分自身を生産し,定立し,規定する」という。(S・287)

ここでヘルバルトは,動物および植物との比較から人間の精神活動を次のように特色づ ける。本能により,常に同じ衝動にしたがって活動する動物は,目的的(zweckmassig)・

恒常的(konsequent)に行動する。植物の活動はもっと恒常的である。これに反し人間の 行動は甚だ非恒常的である。それは何故か。人間は本能よりも理性によって行動するから である。「すなわち,人間を動かすものは,彼が受けいれ知覚した表象から創造されるメ

カニズム以外のいかなるメカニズムでもない。」(Das heisst, ihn(den Mensch)treibt

kein anderer Mechanismus, al s der, welcher sich aus den Vorstellungen erzeugt, die

er empfing, die er vernahm.)(S.288) この表象自体が力である。それは相互に妨げ 合い,更には助け合う。それは高まり,突進し,ひしめき,そして脱出する力である。こ のような争いを通して表象はあらゆる多様な精神作用,精神状態となる。知識とは完結し た表象であり,意志は妨げられた,しかし更に上昇に努力する表象に他ならない。要する に,いろいろの名で呼ばれるさまざまな精神の作用,諸状態は,すぺて「一つの機関」

(eine Maschine)のさまざまに変化する諸状況に対する名称であるに過ぎない。この場 合,「絶対に忘れられてならないのは,この機関は徹頭徹尾表象から構成されるというこ

と」(Vergesse man nur nie, dass diese Maschine ganz und gar aus Vorstellungen

erbaut isの,したがってまた,「時の経過によってこの構成は違ってくる」という点で

ある。(S,289)

以上のようにヘルバルトは,人間の精神活動はすぺて表象から規定されるという彼の心 理学説の基本的前提を打出すと共に,教育の可能性,必要性を説明する根拠をここに求め たのである。すなわち,上の心理学的見解から導き出される教育的結論は,「教育は表象 をもって人間を育成しようとする」(Erziehung wird den Menschen mit Vorstellungen zu ernahren suchen)の一語に要約できる。(S.290)「表象から人間を構i成する」のが 教育であるとすれば,どのような表象が子供に与えられるかが問題になる。子供を取り巻

く自然界,人間界の与える印象は極めて多様である。これらの影響が偶然のままに放置さ れるなら,それは同一の子供においても時には建設的,時には破壊的に作用し,個人を自 分自身との争いへ更に人間相互の争いへと導くことになろう。植物,あるいは動物の身体

においてのように,人間の精神においても将来の発展を決定する固定した素質がその本性 に内在しているとすれば,以上のような偶然作用の影響を蒙ることはない。しかし,生活 の過程の中ではじめて表象から構成される人間の精神には,このような固定した素質の存 在を考えることはできない。とすれば最も肝要なのは,子供に対して与えられる不都合な 印象を阻止し(abhalten),望ましい印象を提示する(anbringen)ことであるQこの故

(12)

70      茨城大学教育学部紀要 第十一号

に・「与えることと取除くこと」 (ein Geben und Entziehen)こそ「教育の本務とみな されねばならない。」 (S.290)そこでヘルバルトは次のような園芸と教育との比較論を のぺている。「教育は,園丁のするような単なる保護や世話ではない。植物にとっては,

好適な諸状況がひきおこされて不適当な状況は遠ざけられること,つまり雨量や気温土 壌や空気がそれぞれの種類の植物にとっゼ十分適しているということだけが肝要なのであ る・これに対し・一定の気候を要求することなく,それぞれの気候において生活していく 人間・人が望むなら野獣にも,人格化された理性にもなることのできる人間,外的諸状況 によって常に形成され続ける人間,一このような人間には,正しい形式を身につけるよ う・彼を教化し・構成する技術が必要である。」(S.290−291)この技術,すなわち教育 は,一定の表象を意図的に与えることにより,一定の興味を植えこむことのできる子供時 代に特に必要である。逆に子供時代における表象構成は絶対に偶然に委ねられるべきでは ない。「子供はいわれたことを信じ,聞いたことを考え,みたものを為す。したがって子 供に対しては・いろいろの描写(Bilder)や物語(Erzahlungen) によって一つの世界を 作り上げる」ぺきである。(S.291)つまり,現実の世界から偶然的に受けいれる表象で はなく・詩や物語の世界からの,いわば精選された表象によって,精神の正しい基本形式 を身につけさせるべきである。ここに,「世界の美的表現」を「教育の中心任務」とみな すヘルバルトの主張の心理学的根拠が示されている。

       4

モ年の著作・『教育学講義綱要』(Umriss padagogischer Vorlesungen.)(1835,1841)に おいて,「科学としての教育学は実践哲学と心理学とに依存する。前者は陶治の目的を示 し・後者は道と手段と障碍を示す」(Bd.2S.10)と述べているように,ヘルバルト教育 学の体系は倫理学と心理学を二大支柱として構成されている。彼の倫理学の中心概念は

「美的判断」であり,心理学のそれは「表象」である。しかるに,「美的判断」が教育の 中枢神経とみなされ,この陶治が教育の中心領域としてはじめて叙述されたのは,ペスタ ロッチの著作『ゲルトを一トはいかにしてその子を教えるか』に関するヘルバルトの論説 においてであった。 (ここでは「美的感覚」の語が使われていた。)また,「表象から創 造されるメカニズム」を人間の精神作用の根本とみなす見解は,同じくペスタロッチの教 育法に関する論説の中ではじめて現われている。ヘルバルト倫理学および心理学のそれぞ れの中心概念である「美的判断」と「表象の構成」は,またヘルバルト教育学の中心概念 でもある。これらが共にペスタロッチ解釈および批判の前提とし,根拠としてはじめて提 示されたことは興味があるQペスタロッチから入り,これを離れたところにヘルバルト独

(13)

自の教育学の成立をみる所以である。

(注)本稿におけるヘルバルトの所説引用の巻数および頁数はすべて,

J.F. Herbarts Padagogische Schriften. von O. Willman und Th. Fritzsch.1913〜1919

によった。

参  考  文  献

〔1)」.F. Herbart:Ausz五ge aus Wie Gertrud ihre Kinder lehrt. 1801

(2)J.F. Herbart:むber Pestalozzis neueste Schrift Wie Gertrud ihre Klnder lehrt. 1802

(3) 〃  〃   :Uber den Standpunkt der Beurtei互ung der Pestalozzischen Unterrichtsme.

thode. 1804

〔4) 〃  〃   :Pestalozzis Id㏄eines ABC der Anschaung. 1802,1804

(5)〃 〃  :廿ber die asthetische Darstellu㎎der Welt als das Hauptg(紬aft der Erzie・

hu㎎.1804

(6)〃 〃  :Allgemeine Padagogik aus dem Zw㏄k der Erziehu㎎abgeleitet.1806

(7) 〃  〃   :Umriss Padagogischer Vorlesugen.1835,1841

⑧ 篠原助市:独逸教育思想史,上・下 昭22

⑨ 岩崎喜一:ペスタロッチの方法をめぐる問題(石山脩平他編,教育方法学 昭32)

⑳是常正美:ヘルバルト 昭32

ω 拙  稿:ヘルバルトの教育目的論(「教育学研究」第27巻第4号)

⑫ 〃  〃:家庭教師時代におけるヘルバルトの道徳的陶冶論とその展開(茨城大学教育学部紀要

第10号)

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参照

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