裁判批判の論理と思想(五)
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(2) 裁判批判の論理と思想(五). チエ-ホフにひたりきりになり'そしてチエ-ホフに物足りなさを 感ずるまうになった広津oプロレタリア文学への期待と失望oその作. こ、明治期(仮名時代、十代)の作品から. 哀悼の言葉を記した広津。戦争の足音が聞えほじめてから「姿勢がシ ャンとした」のを自覚する広浄。その端的な表現としての広津流「散. 森とよ子,永田霊水、霊水、白金竹子'赤崎あい子などの仮名で小品. は十六才である.この頃から広津は『女子文壇』'『万朝報』などに、. かにも何作かあることが指摘されているが未見)のテ-マは一貫して. を投書し、たびたび(『万朝報』には十回ぐらい)入選し賞金を得たり している.この時期の作品として全集におさめられている十数作(臆. いう広津のゆったりした構え.「自己のニヒル」と闘いとおした広捧. 暗いものである。病気、不和、離別、死、災害、失敗など人生のもろ. いoただ人をひきつけずにおかぬ『なにか』が広津にはあった.この. がかなえられなかったこと、父の不遇、家計の不如意'幼なくして実. 津自身が中学生時代病身であったこ∼.自分の志望美術学校遅葦. な広津の体質といったものが、ほや-も十代における作品の中に早見. l、「雪の夜」(明治四十一年四月). つかとりあげてみることにしょう。. そこで,ちょうど明治末年までをカバ-するこの時期の作品をいく. ている、と言った方がよいのでほないだろうか。 のもっと. い所以である。)そして最後にこう記した.(松川運動と広津和郎と、 で」が続きそうである。)'と。 つまりこの『なにか』. ヽ. も中心的な要素なのであり、それをつきとめる試みこそが、この論文. 叔父が危篤と聞いて見舞にかけつける「お時さん」が、その途中で. 叔父の1人息子の「峰さん」と偶然出会うが'その降さんほ女遊びに. ヽ. こそが、「裁判批判の論理と思想」. そして私達の『なにか』をつきとめるためにも'これからも「松川詣. われるが,そればかりではないだろう.むしろ、こういう不幸に敏感 致する、というのが私の仮説であるo広津和郎にこだわらぎる学兄な. 母を喪くしたこと、兄の放縦への反凝などなどが投影されていると思 実は松川運動を板木において性格づけていた『なにか』と基本的竺. 広津の人生をつらぬいて、魅力となって現れ出ていた『なにか』が、. もろの不幸を措いている。しかもかなりつきはなして。そこには、広 女性関係。これらの広津のありようを妄口で表現することほむずかし. のねばり.志賀直哉との親交、宇野浩二との友情。そして少なからぬ. 的に反抗してしまう」広津の体質。「なまけ着で'遊んでばかり」と. その対象は小動物にも及ぶ.「弱い老いじめをしたり威張る老に本能. 文精神」。「ひとの苦しみや悲しみを全身で感じてしまう」広津の感性。. 明治四十「年四月というから'明治二十四年十二月生れの広韓和郎. 品を厳しく批評しながらも'特高に虐殺された小林多軍1への胸うつ. J. でも行くところだったらしく、父危篤と聞いても心が動くようには見. ヽ. の目的なのであるが、前途はまさに遼遠、日暮れて遥遠し'である。 だが'一歩一歩進んでいくしかない。. ヽ. えない.小さな雨傘に1緒に入るとひたと身体を寄せてくる。(飽か ら見ると楽しくも見えよう此のもやい傘の中には、父の危篤を悲しま. ヽ.
(3) ずに女に寄り沿うとする男と、その男の心を慣れんで不快を感ずる女 とが、思い思いな想像を走らせながら這入って行-。雪の夜の寂実は 只訳もなく妾の心を襲うて来た.)(全集第1巻十二ペ-ジ、以下I12のように記す). )の最後の数行に、十六才の広津の、人生や男女間の機微を巧みに. とらえて表現する早熟な才能と、なんともいえない「寂実」を感ずる. ことに注目しておこう。. c.)、「不安」(明治四十一年十月). 女学生の千代子は原田不明の頭痛(医者は少し神経襲弱気味という). に死の不安をおぼえる。秋の夕暮の衝を歩きながら(足ほフラフラす る'眼はポ-ッとする'頚は圧しっけられるよう。不安が又浮んで来. を意識しっづける。祖母の死んだ時の光景を思いうかべる。さち堅1・. あ嫌だ、嫌だ-無意味だ-・愚図々々死の近づくのを知らぬ人間は. い出す.(千代子の心にほ死の悲惨な暗い影が浮んで来たo死-・)(あ. 三年前大森で見た水死、隣りの婆さんが綻首した時の浅猿七い姿を思. ま. のは私だけではないであろう。 2、「かへり路」(明治四十一年十月) 女学校に通う私が電車の中で、孫らしい五、六才の男の子をつれた. あることを思い出す。. 千代子は縁日帰りの同級生綾子に出会う.綾子ほ男の学生に碇きま. 死-・悲惨だ-)((-2)). 見軍えのある人だと思っていたら、小学校の受持の先生のお兄さんで 馬鹿だ-. 爺さんに出会う〇五十四、五だが年の割りに弱り方が激しいoどこか. る。-若し手後れにな. まるで. そんな. 私などは昔の未だ少しほお若かった時代を知って居るから其様事はな ヽ. いが、全然知らない人の限からほ、これでも昔ほ若い時分があったの ヽ. かと思うような、しなび爺さん.に見えるに相違ない。私は人の老い行 く様を考えて寂しい気がした。)(後すがたなど見すばらしい程膚せて. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. れた。)T-)9). た。そして再び人の老行-有様を考えて淋しい悲しい思いに心は満さ. 居る.私はその後に贋を下しながら'「随分お変りになった」と咳い. ヽ. 今度は「老い」の問題である。しかも、またも「淋しい」「悲しい」 ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. 思いを、人の老いゆ-有様に寄せている.そしてただのセンチメソタ ヽ. いう描写にみるように'「老い」をしっかりと-アルに見つめている. ルではなく'「しなび爺さん」'「見すぼらしい」程やせた後姿などと. ヽ. 裁判批判の論理と思想(五). ずる。『女子文壇』の選評ほ次のようだったという。(何故然う「死」. に就いて深-心をなやますか、それが少し分りかねるので、唐突のよ ぅ凪思われるが、縁日に歩いて蓮実の友人と話す勉などは手に入っ七. のストレ-ト. もので、其人が限に畢える'描写は全体に垢扱がして'清新の嫌いに. 充ちている.)T-514「あとがき」). 私はここでほ、「唐突」と評されている「死の不安」. な表現に、十六才の広韓達者はもちろん赤崎あい子の作品として読. んでいる)が死の観念にとりつかれていた時期があったことを確認し ておきたい.この死への嫌悪感は、のちに明確に浮き出て-る生」人. 生の肯定へと広津のニヒルが転換(といっ.てもニ,ヒルがなくなってし. まうわけではないが)していく一つのバネになるのではないかと思う からである。. 三. 分の先生の兄凄んと、今の此の爺さんとほ別の人のような気がする。. (併し悠んなに老ぽれなさったかと思うと、撃え同じ人でもあの時 とわれたことを得意気に話す。千代子は軽蔑しっつ、また淋しみを感. こ. あさ. A..
(4) 裁判批判の論理と思想(五) (明治四十こ年一月). 四. れる華かなうれしみ、暗き悲、悲しのうれしみとでも云ったようなも のが、潮と胸を浸して了って'輪廓のポ-ッとした'印象の弱い、皮. な馬や友の身の上などと、余り古くも無い記憶を辿って行く中堅Jも. という1節が目につ-.さらに(あの激した'昨夕の事や先刻の哀れ. 負-これ等の感念を順々に心に繰り返しながら、. 冷い手のように思われた。)了-29). 選評には次のようにある。(不具の娘と其の母と、陰気な親子の家. 庭が能く出ている。シソポリカルの筆も能く其材料に適している。) この不具の娘と病気で寝ている母の運命を晴. た描写のなかで'若い娘の複雑な心の動きをたどりながら、やほり闇. に心を印象づけている.また、(自然の懐に抱かれ乍ら、彩管を採っ て純なる実の神髄をとらえて、之を発揮させなければならぬ使命を帯. びているのであるo)などという力みかえった叙述も二、三みられ、. 広津の道を断たれた無念さがうかがわれる寛がする。. 6、「限の印象」(明治E[十〓年七月). も十代でほなさそうである。後段で訪問する夫婦は二年前に結嬉した. この作品はこれまでとちがって男性を主人公にしており、その年食. いているような尭もした。)両前). るような寛がして歩いたo鈍い神経の中にも或る格段の1つが鋭く輝. メナキr1ラー. が浮んだ。)T-37)彦三ほ赤くなる。(侮辱-. (女の限には見る-∼妾ほ強者よ∼. られて,負けずに見つめかえすが、ついに敵わず限を伏せてしまう0 と言わぬばかりに'冷かな笑い. である・この作品の主人公鈴木垂こほ電車の中で十八九の女に見つめ. 節は、他の作品にも見られ、当時の広津自身の状態を書いているよう. 神経とが,身体中に充満しているようだ.)というこの作品冒頭の一. 景色ほ霧でもかかったように'明然とほ見えない。鈍い感覚と疲れた. (何故か頭がぼうっとする、近眼にでもなったのだろうか、遠くの. ヽ. (--5(5「あとがき」). 示する「暗い壁」は'広津自身にとっての「暗い壁」の予示であった. 彩を感じさせる風景描写が鮮かである。しかしここでもまた'(ツト. 紘,画家志望の若い娘藤子の心象を措いた一篇で、珍らしく豊かな色. が,父が許可せず、四月、早稲田大学文科予科に入学した.この作品. この年、麻布中学を卒業した広辞は'はじめ美術学校進学を志した. LE)、「其のEZZの印象」(明治四十二年五月). を取巻いているような気がした。)T-209). 来ないような暗い圧迫を胸に受けた。何処を向いても'酷い壁が自分. かで,広辞はつぎのように書いている。(夜、人々が寝しずまってか ら'私は机に向う事にしていたが、いろいろな事を考えると、息も出. のかもしれない.実際、二十代の半ばから後半にかけての、広浄にと っての「不幸な結嬉生活」を措いた名作「やもり」(大正八年). のな. 後を見返ると、夜の休息に入ろうとして居る道路に'惨酷な轍の跡が. ヽ. って見つめていると'妾はそれがお美代さんと小母さんの運命を操る. の厚い額を、冷い、涙がツル-と、uり落ちた' て這入った.(妾は火の気の無い穴の中t!1.1通入ったような繋がして' といっ と思って、華かに唱歌や軍歌を唱ったりして・・・・・・・)T135) 経と反対の向の光線の当らぬ壁を見つめた.壁-灰色の暗い雫黙. まれているような家を訪れた妾(定子)は'母親の寝ている室に誘われ. 経質で病気の母親の住む'(秋の暮のような柁しい不透明な色)紅包. 幼ない時乳母車から落ちて「不具」になった十八才の娘お美代と神. 4、「暗い壁」. 深々とー.妾は其跡を踏み乍ら妾の行くべき路を考えた.
(5) 学校時代の友人という設定になっているからである。〔自分と同年代 の女性を主人公にして、自分の感情をストレ-トに表現してきたこれ. 義へ」と題し、チェ-ホフからアルツィパ-シェフ紅至るニヒリズム の推移を扱ったという.(Ⅶ-50)「年譜」) 広津十七才のこの.「平凡. な死」という小品は、すでにニヒルの色がただよっており'あるいは. 広津が思春期の憂欝との格闘から1歩すすんで、自己の内にニヒルの. までの作品とすこし違って、男性を主人公両年代ではない) にした' すこLつきはなしたり、横から見たりした作品も善かれるようになっ. 存在を認め、ニヒリズムとの闘いを意識しはじてきた中で書かれたも. (明治四十二年八月). ながら必死になって拾っている。前の道具屋の老夫療はいち早く手を ぅち何1つ揺されずにすんだが、八首尾に「大変だね」などと声ほか. 八百屋の女房お花が大水で流される商売物の大根を亭主狂恋鳴られ. 8、「町の出水」. この孝二の恋が侮辱感から始まったという のと言えるかもしれない。. てくるo次旺みる「平凡な死」はこの時期紅おいて、最も特徴ある作 品であるように思える.〕. ことは、大正元年に善かれた「少年の夢」の中で花岡満次が年上のし な子紅誘惑されて童貞を失なうあたりの描写と関連して'のちの広津 7、「平凡な死」(明治四十こ年八月). けるが、二人揃って八百屋の狼狽ぶりを眺めているoちょうどその頃、. 自身の人生の展開に微妙な影をなげかけた1事件ともいえそうであるo. これほ考えようによっては恐ろしい作品であるo定公という遊び人. ところが、. 上げているのである。広津はこのような題材をどこから手に入れたの. がある)と述べ'その一つとして'このただの好奇心からの死をとり. がある、後になって他人が幾ら考えて見ても、どうしても解らぬ死方. 広津は「平凡な死」と表現している。しかも(世の中には平凡な自殺. てくる.. マものちに広津が自己のエゴイズムとの格闘を措くなかで浮びあがっ. な死を悼むお花、無関心な亭主.これらの対席のなかに、商売人のエ ゴイズムがちらちら顔をのぞかせている。このエゴイズムというテ-. 必死になって拾われる大根と'あっけなく命を落す老発と孫o無残. (明治四十三年〓月). わびしさがよ-出ている作品である.結婚後わずか二年経つか経た. 9、「汽車の曹」. 年すでにチェ-ホフ、モ-バッサンの翻訳、翻案を発表しているo大. ぬ中に離縁となった姉をむかえに、十二月末の海岸の停車場へ、母と 裁判批判の論理と思想(五). 五. 学の卒業(大正二年四月)論文は「消極的虚無主義から積極的虚無主. 事をしており'四十三年に予科を修了して英文科に入学するが、この. だろうか。広津は早稲田の予科入学後'学費をかせぐための翻訳の仕. てから又浮き上った。)T-41)唯好奇心からの死'そしてその死を 後の赤痢の流行の心配を話合っている.. 亭主ほ道具屋の主人と共に、それにほまったく無関心のように、出水. た.そして限無い淋しみをひしひしと感じたo)(--45). ってお花は、ヨポヨポした老爺さんと愛らしい孫との面影を胸に商い. に堪って死んだ.(「あん中に人が死んでるんですってねえ」と危う言. 近-の崖が崩れ'その下の家に住んでいた老爺と孫が家もろとも土砂. 彼は何の気なしに黒々とした流. こ. が古川端で飛び込み自殺をした。ところがその理由は女でもなければ 金でもない.(何の恐怖もなかったo. ヽ. れを見ると、「飛び込んだら死ぬか知ら」と思った。ほんの一瞬間唯. ヽ. そう思った 身を躍らすとパチャソという音がした。水面には急激 な波動が生り、印半纏の姿は水の中に一度深く沈んで、十秒ばかりし. -.
(6) 裁判批判の論理と思想(重 あたり. 六. う?」と考える事もあった。)T-55). るのではないかと思われたo〓体私は何を為に生れて来たんだろ. の年になってしまった.(1章二歳-些一十三. 時々非常に悲しくなった.そういう時浴衣の袖に顔を当てゝ、母に知 られないように密っと限を拭うた.自分の体躯が日1日と次第に枯れ. 失望に追われてしまう0自分の体躯には生来暗い運命の手が付纏って. うまれつき. ならないのかと思うと涙が止度なく頼をつとうた.)(Ⅰ-54)(若しか. そ. 生理のない娘'暗い不具者お仙の心の動きを措いている。(お仙の頭は. この作品ほ上、下に分かれている。上では、二十1にもなってまだ. 抱月の虚無的な態度や風貌に惹かれるものがあったという0(Ⅸ-8990『年月のあしおと』). この年,早稲大学の予科を修了'大学英文科に進む。主任教授島村. 10、「梅雨晴」(明治四十三年八月). ったのだろう。非常に自然な感じである。. くつもものしているが、十代の広津にもっともぴったりしたテ-マだ. 5))このような、さびしさ'わびしさをテ-マにした作品を広津はい. て'未だ黙って考えている.お京ほ情ない感じにシミ打れた。)T-. お京は身をふるわした。「あゝ-」と母は消えて行くような声を出し. 響いて、何んとも知れぬ物凄い反響を起す。「怖い音だわねえ-」と. り坂なので、車体ほ尚の事揺れる.轍の石に打突かる音が両側の崖に. なった.)T-49-50)(馬車は切通しに這入って行ったo少しく下. かな友禅の帯を締めて外出した時の小景が措かれている。六本木の縁. 日を歩きながら、(若い夫婦の手を引合わんばかりに歩いているのを ヅテよ。」「いゝよi、お前もさぞ寒いだろうから」二人は暗い心に. している肩掛けの半分を、娘の背中の所にかけた.「阿母さん、好く. 方へお寄せよ--」と母は空点の扇に手を掛けながら咳いて、自分の 下では,そのお仙が湯上りに薄化粧をし'水色の派手な浴衣に鮮や. し-ん. 一緒忙行くお京.(海を除いた外、四囲の景色はまるで死んだようで. あった・風もな したら1と自ら慰めようとする事が無いでもないが、直 て廃れて行く1而も、その廃れて行くのを黙って待っ. キリスト教というものに対する疑問、失望が明らかにされていること. この作品で注目すべき点は、教会、犠牲、献身'そして、おそらく. いる。. 界の人のように早見る老いた父の後姿を見送る情景を印象的に措い. 朝日に薫る桜の若葉の下を、若い人々の間にまじってただ一人別の世. ほ重苦しい地味な色を刻みつけたo)T-58)下では、そのお京が'. が次第紅落ちて行くように思われる.娘々した眉の間にも、生活の印. お京の胸に安からぬ寂しさを生じさせたo鏡を見る度に豊かだった癖. 母親に死なれてから弟の世話を引受けて家事におわれているうも賢. おそわれて苦しむお京のプロフィルが措かれている。. これも上、下に分かれているo上では毎年春から夏紅かけて脚気に. 11、「若葉の香」萌治四十四年六月). 身をも冷笑するというニヒルな優きをみることができよう。. ところに,ただの淋しさやわびしさではない、斜めにか亨見て自分自. この最後の一行、「誰を冷笑するとも知れない笑を浮べた」という. そして誰を冷笑するとも知れない笑を浮べた。)T-56). 様して歩けたものだ、まるで犬みたい腎・」という心が起っ. しいものか⊥と心の中で弁解したがその後から直ぐ、「よくまア. 見ると通がに気が苛々したo自分でもそれに繋がついて'「何が羨ま. さす.
(7) であるoお京は弟の世話を引受ける当時'教会に熱心に通っており' 犠牲、献身という言葉に酔っていたところがあった.(併し美しい幻 犠牲や献身の世界には実は見出. 年後、松川裁判批判を開始した広津和郎は'十代の最後の年に'この. ような作品を措いていたということを思い出していたであろうか。. 三、大正期の作品から. おもいもう. この作品にはそのような広. はそこで人生はじめての自己嫌悪を体験する事件に出会い'非常な孤 独を感じたという.(『年月のあしおと』). 津の体験も投影されているのであろうが、ここではむしろ'生活上の リアリズムと観念上のニヒリズムがキリスト教的理想を拒けたと考え ておきたい。. 水以後』に連載した文芸時評で'文芸評論家としての地歩を築き、翌. 年、「神経病時代」によって世の注目をうけ'これが文壇への出世作と. なる。経済的な事情もあり'和訳に評論に創作にと、きわめて精力的. 養、大正二年に関係がほじまり二児をもうけた神山ふくとの生活'M. (明治四十四年七月). 二年前に父が「依託金費消」の疑いで突然とらわれ、明日出獄して くるという娘お味と母の一日を措いている。お味はその朝から歯が痛. 持しなければならなかったこと'出版事業の失敗で窮乏のどん底にお. に仕事をした時期であった。経済的な事情というのほ、病身の父の療. み出して苦しんでいる。母ほ父に着せるためにセルの男物の単衣を縫 っている。(うす暗い家の中に光線ほ忍ぶように流れ込み'茶の間の. ちいったりしたことなどが主なことである.精神的には、神山ふくと. になる。広津の「性格破産」者的状況も.大正末期紅なってどうやら. 大正末年に松沢はまと馬込に1家をか亨見てようやく落ち着いたも. 子や松沢はまとの生活'自身の放浪的生活など'幾世帯もの生計を維. 隅に置いてあるお檀の鋼の鐙に明るく映えた.「お医者に行ってお出. それを思うと、お蝶はもう歯の痛みなど訴えて. くるしみ. の「結婿生活」の失敗が非常に大きな苦痛としてその影響をうけ続け、. の種を宿している. いるのをお味はよ-知っていた。母の心の中には未だ種々の事が苦痛. でな」暫-してそう云った母の声の中に、云い知れぬ悲しみの傑えて. l'「出准の前夜」. は、広酵にとって生獲できわめて重要な時期となったo新聞社に勤め るが半年で退社、出版社の翻訳部や編集部の任事をしながら'トルス トイやドストエフスキ-の細訳をおこなっていたが、大正五年に『洪. せなかった.詩も見出せなかった.そして其処には予期けなかった寂. -. この大正期(広辞二十1才-1ニ十五才、1九〓亭-1九二五年). -. 実と孤独の根が、深く強く根ざして居た.)(II58) 広津は少年のこ ろ父にすすめられて教会へ兄と1緒に行っていたことがあった.広津. 影はやがて消えた.1年. 二年. とにしようO. いくつかとり上げて'広辞の自己認識と'その変化をさゃってみるこ. この作では、女に胸を刺された患者の言葉として(--此の世の楽. l、「朝の影」(大正〓年三月). 疾けてうす暗くなった壁や天井、それ等のものから吐き出される1種. 裁判批判の論理と思想(五). 七. 楽しく'明るさがあるべき出獄前夜の暗い、重苦しい雰囲気。四十. 重苦しい気分が、お味の胸を強く圧した。それに不愉快な歯痛が加わ って、座にいるに堪えなかった。)(--62). いる場合でほないように思ったo)T-60)(母の思いに沈んだ様子、明るい方向へ転換する兆を見せてくる.ここではこの大正期の創作を. -.
(8) のために、何のために?」時々ペソを投げ出して'溜息しながら腹の. 裁判批判の論理と思想(五). しみよりは悲しみの方へ向って'余計乾感覚を開放させている僕のよ. 中でこう瞳いたが'その筈えは問うまで・9なく彼の心に明瞭であった。. その酔漢をも'二人の巡査をも、笑いながら立って見物し. この作品では父柳浪の性格・心的状況と息子和郎のそれとの密接な. さ、本村町の喪(大正六年十]月). の作品でもくりかえしあらわれている。. このような心の状況は広浄自身の心の状況の1端であった.その後. が、それは勿論成功しなかった.そこで彼は時間によっての麻痔を待 った.が'麻痔はいつまで経っても来なかった.-・・・)(∼-125). 分の口実乾する事を自分の心匠説き聞かせるより外仕方がなかった.. うな人間匠は--)と語り、さらに(僕は僕の心の中に欝積している. い有様. 関係がよく出ている。(父が世の中を厭い始めた頃から、私の父に対. を演ずると云う事に対する差恥を感じたり. するような'そうした明確な意義から来る感情でほ決してない事が明. する愛は益々深くなって行った.父の神経ほ父に取って不快なものに 向って益々鋭くなって行った。父はそれをどうする事も出来なかった。. た・その感覚が父をして益々憂欝に陥らしめた.)T-)56)(けれど. 父は人生の凡庸と醜悪とに対して、驚-ばかりの鋭い感覚を持ってい. が、それほ統1された1つの人格から来る「愛」で 名しているか? もなければ「同情」でもない.寧ろ人格の破綻から来る一つの神経の. 心に宿る瞭い影.憂欝'悲しみなどは、直や私の心に響き始めるので. 俺たちの家庭生活に. 苦しくなって行った。)(--)6)) そうではあったが、しかし同時に父の存在が広津和郎の大きな支え. であった。「やもり」のなかでも(何かにぶつかると、よ-「父だけ. だ」と子供の時から思った事があった。父の側へ行けば、此苦しみを そして子供だー」足音ほそういう間に. 父が分担して呉れるだ枠でも'此現在の焦操は癒されるに違いない). (Ⅰ-225)と述べているが、「静かなる春」芸正七年二盈でほ'次. は何の理想があるのだろう?. 解らない空洞を限の前に見たような繋がした.・・・-)(∼-)20)(「何. うつろ. 子供が成長して行-という事実が恐ろしくなって釆た。彼は何か訳の. うか.(「俺には1体何の目的があるのだろう?. ものである。このような性格の定吉の心はどのような状況であったろ. って最も重要な問題」であり'自分自身の問題でもあるとされた当の. の序両年十月'新潮社)で「性格の破産」として「現代の日本にと あったo)(私達の神経は互に他の気特に伝染し合っては'益々憂欝紀. も、父と私との心には青から1種の不思議な神経が働いていた。父の. 蔀動であった.)(Il)32) この性格は、大正七年に『読売新聞』に連載した「二人の不幸者」. 撃であった。--何といったらいいか、今の医学上では何とこれを命. 瞭であった.それはlつの発作-・・・そうだ、1種の反射的な神経の痩. ている群衆をも含めて. -. -. (それは酔漢を気の毒と思ったり、或は人間と云うものがこうした醜. 見としたりするにほ全く力が欠けている。)(-----)あるいはまた'. 主人公の若い新聞記者鈴本定書の性格について次のように述べてい るo(彼はただ個々の物事を雑然とその弱いハアトに感じはする.併 し彼はそれを統1したり綜合したり、それを1個の纏った彼自身の意. が、彼はそれを直視する事を避けて、この現代の世の中に生かねばな らない弱い人間の口実として叫ばれるあの「生活のため」を、鍍も自. 八. 此何ものかに対する呪いの気持-・・・)と潜っている。(∼-91) cq、神経病時代(大正未年十月). e3.
(9) に投げ込んで'此世に生れ出た事の目的を'全然失ってしまいそうに. のように記している。(私はややもすると、自分を絶望と懐疑との割. ほ勿論、外を歩いている時も'家に帰っている時も'又、寝床に入っ. まう事が出来ないで'不思議な責任感を感じ始めた。私は故にいる時. 和からそれを説明している。このような「構造的」把握の試みの中にI. 自己の憂欝をとらえ、ここでは自分の仕事の反価値と責任感との不調. 不自然が、私を憂欝にした。)(∼-174) さきにとりあげた「本村町の家」では父の憂欝との相互作用として. の苦しい責任感と自分の仕事の価値を是認出来ない心との間の不調和、. ている時でさえも、絶えずその事を頭から離す事が出来なかった。こ. 私はこの人生. させるいろいろな毒素を心に持っているoそうだ、ほんとうにあの頃 は、私の心に、私の生活紅'何の目標があったろう? 何によって存在の意義を見出してい. 何もなかった.全く何もなかったのだ.今から思うと、. に何を目的に生きていたろう? たろう?・・・-. 何によってその日その日の苦しい心を胡魔. それは寒心に堪えざる事である。私は自分自身の憂欝を持ち扱って' 如何なる事をなしたか?. 広津の心的状況の変化を認めたいと思う。. ヽ. 判批判の論理と思想」目)'ここでは自己の「癖」、「性質」としてこ. る癖が子供の時からあったが'それと同時に、或はその余りに,)だぁ り過ぎる性質に対する1種の反擬作用として生じてきたものであるか. (大正七年一月). 「静かなる春」ほ五年暮から六年にかけての小康の時期を書いた作.. の底にかなり根強-ひそんでいた.私は物事に首を突っ込んでこだわ. に失政して、それから後に始めて苦しみ出すという欠陥は、私の性格. れをとりあげている。(総ての事を前以て深く考えずに、無反省の間. ヽ. ややもすると7途に此存在を拒否してしまいたい気. ヽ. を批評の重要なポイントにおいていたことを指摘しておいたが. ヽ. 化していたか?. あの頃というのは、大正三年から五年にかけて'新聞社の仕事や神. らば∼)(--)87-)88). 拒否の気持の爆発をふせぎ止めて呉れなかったならば'一体私はどう なっているだろう? 自分自身に対する責任感は、実際私の頭から失 -なったことがあった。苦しその上、父に対する責任感がなかったな. この作品でもう1つ注目しておきたいのは「たかくくり」について. ヽ. 持が、私を襲ってきた.私ほそれをどうすることも出来なかった。). ヽ. の言及である.すでに広津の評論の分析において'この「たかくくり」. ヽ. (若し私に父がなかったならば'父に対する責任の念が私のその生存. ヽ. も知れないが、物事をたかをくくろうとする癖があった。その実、結. 山ふくとの関係をめぐって悩み苦しんでいた時のことである。この. ヽ. (「裁. ヽ. 広津にとって父の存在がいかに決定的であったかが分かる. 4、「師時行」. ヽ. ヽ. 聞のやり方の絶ては'決して是認し得るものではなかった.私はそれ. 目しよう。(実際私の現在の良心からも、又知識からも'私のいた新. に対しても'自分に対してもたかをくくり始めた.私ほ自分がかなり. のである。) (∼I173-174) (みつ子に対してもやはりそれと同じよ ぅであった。私のたかをくくろうとする性質は'此処でも亦、みつ子. 裁判批判の論理と思想(五). 低級ないやしい好奇心にみずからを委せようとするのを反省するため. 局はたかを--り切れずに'却って苦しみを増す種を生むようになる. ヽ. を莫迦にすべきか'軽蔑すべきかが当然であると思っていた.けれど も、1度それに携わったとなると、私はそれを好い加減に片付けてし. この作品ではまず自己の憂欝の「構造」を自己分析している点に注. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. 九. に'心の中に1種の不調和が生じていたのを知っていながら、而もそ. ヽ.
(10) ヽ. ヽ. 裁判批判の論理と思想(五). れを、たかをくくろうとしたのであった。みつ子と関係すると同時に、. ヽ. たかをくくられた私の心ほ、私に向って復讐して来たo--が、その 時ほもう遅かったo彼女は懐妊していた。)(--174) に自己嫌悪を感じていた広津は、他人の 不徹底な「たかくくり」. 「たかくくり」にも敏感であった。「針」(大正九年一月)という作品で 次のように書いている.(そう思って見るとモデル乾された五六人の. 友人仲間が、みんな実ほ大下の都合の好いようにたかをくくられて' 翻弄されているのだとも見られる。誰に対しても作の興味のために面 白くする以外にほ、彼ほほんとうの人間を見てはいない.そして主人 公たる大下ほ、ひJ)り何事も見透したようないやに悟りすました人 ヽ. 間であるように書かれている。)(「こんな嘘っぱちな人間の見方をし ヽ. ・L5'「〓人の不幸者」. えて来る 「神経性心臓病」と仮に命名された患者の1人であった彼 紘--)(Ⅳ-8)(-・・・彼は自分が創作が出来ないのは自分の罪ではな く、自分に負担を与えないようにした何者かの罪であると云ったよう な気持になり始めるのであった.そしてその何者かに向って当り散ら してやりたいような焦燥をおぼえた。)(ところがその気持がひと度ひ っくり返右と'今度は自分の無力をまともから見つめなければならな い苦しさから、妙に投げやりな'噸笑的な気持が襲って釆た.)(Ⅳ-))) この作品でおもしろいのは「澄み切った限」についての一節である0. 10. つの意味を持つのでほないだろうかoたんに限が澄んでいるからとい うだけで、そそっかしく動-誓がない そういうリアリズムと同時. いわれたが、「澄んだ睦」云々という1件を考える時'この作品は】. 広津が「松川裁判批判」にとり組むきっかけについて色々なことが. あった。)(Ⅳ-29). 嘱崎ほこう云う事実を東認する事を心の底から嫌悪する種類の人間で. が、今の時代には四方八方から我々を取囲み始めたo・・・-だが'我が. 処女の証拠にしたものであったが、我々の時代ヤは、もうそれが通用 出来ない事になってしまった。処女のような限をした鬼女ならぎる女. 尤も、昔は限の美しさ清浄さを. た限を見ると、購時にはそれが飽くまでも清浄なものに見えるのであ った.「何よりもあのきれいな限が証拠だ-」 こんな風に彼は押川の. 言葉に対して心. 明らか堅1人とも広津の分身である.(・・・・・・あの近頃になって益々増. 二人の人物について'序文ではかなりつき離した言い方をしているが、. 「神経病時代」 に対する不満から生れたというこの作品に登場する. (大正七年四月七月). て-」私はむしずが走るような嫌悪を感じてきた。)(--385). ヽ. (殊に'皮膚の色ほたとい押川の云う通りにしても'彼女の澄み切っ. いる点を指摘しておきたい。(私がある牢款の監房のような自分の部. けながら、ちょっとした救い、柔かさのようなものがほの見えてきて. みたい.ここでは、ぎりぎりと自分を責めつづけ'ニヒル乾悩みつづ. 茶立虫などが登場する.このことの意味については別の墳金紅論じて. のやもりの托か、げじげじ'犬、河豚、縞蛇'晴輪'猫'鳥、金魚、. いる。しかもその筆致は鮮かである。この大正期の創作の中でも'こ. 『動物小品』という単行本があるほど'動物をよくとりあげて措いて. いるのは、あきらかに'二匹のやもりの精敵な描写による。広浄にほ. も少くない。しかしこの作品が広津の作品の中でも高い評価をうけて. これは広津の苦悩の時期をふりかえって書かれたもので類似の作品. tc..「やもり」(大正<年l月). アリズムとがここに見られるからである.. に、やはり眠が澄んでいるということに賭けていきたいというアイデ. -. 脚 ヽ.
(11) 畳で、憂欝と良心の珂責と此人生の味気なさとに悩みながら'人々の. のが何点かある。「やもり」の中では. ができるのであるが'この時期の作品には自己の二面性を指摘するも. という表現. 寝しずまった夜をひとりぽつねんと起きている時、あの二匹のやもり. の晴い方面ばかりに気がついて'いらいらしているところがあるかと. 「浮気者の人情家」. は、相変らず私の部屋の梯子の下の白壁に'やがて近づいて来る冬眠 嵐の翌日、やも. をしていたし、「お光」(大正八年七月) では「相反する二面」がある として次のように書いている。(或点でほ私は非常紅神経質で、人生. の準備にと、′小虫の餌食を探していた.) (--22)) だが、いずれにしても、かなりそ. 思うと、或点では'又'自分ながら吃驚する樫陽気で、ずばらで、出. りが1匹しか見えなかったo. れが完にかかった。私は自分の生活を、長い間じっと見守って、何も 人の安否を気遣うような、そう云った懸念を感じながら、東京駅の前 で電車を降りた.)(--226) もちろん、淋しさやわびしさが主たる調子である。しかし'父のほ に託した広津の心情に、いくらかほっとする. か誰一人自分を理解してくれる者がいないということを強調してきた なかで、この「やもり」. (大正八年四月). ような安らぎと柔かさが見られないだろうか. 7、「波の上」. ヽ. ヽ. この作品で広浄は次のように自己の性格を表現している.(-・・・僕 ヽ. (--242-243). (人間は随分始末の悪い意地を持っているもの. 姻届を出し、八年の暮には籍はそのままにして別居している。「ある. 馬の話」 (大正八年1月)では(--馬に不熟練な自分でも、あ・・Q「軟 田」を馴づかせる事が出来ないとは限らないと云うような気がして来. た。それは一種の好奇心ではあるが'併し私には、何かにつけてそん. これも自分の中にあった積極的な要素をはっ. な風に、他の人のしない事をやって見たいような心理の働くことがよ くあった。)(Ⅰ-235). (大正十三年五月). きり前へ押し出してきた1例である. 8、「生き残れる者」. を見せている.前年九月1日の関東大震災の二週間ほど後、大雨の横. この作品で広津は今まで.にまった-見られなかったといってよい而. だとほんとうに思う。若し心がイゴイスティックならば、寧ろその心 の通りを行に表すのが却って自然で、そしてほんとうなのかも知れな. 浜駅のガ-ド下で一夜を過す。その晩、震災後の東京で見た復興のた. いと思う.. ああ、こう. 心の弱いイゴイストと云うものが'此人生で最もなっていない'つま らない、苦しい役割を演ずるのかも知れないと思う.. 書いている中に'僕は堪らない自己嫌悪に襲われてくるo (--256)) という矛盾した自己規定をここに見ること 「心の弱いイゴイスト」. な事にもめげない「生きる力」に、ほんとに涙を覚えずにいられなか. った。自分は人間というものが、いとおしくて可愛くて堪らなくなっ. こんな気持ちにならされた事は、自分は生れて始めてだった). ∵1. -. めのノ,,、や槌の音を聞いた時に(人間と云うものの持っている、どん. 心の弱いイゴイスト'それが僕の欠点なのだoそして. いo). 実際不思議だと思う。自分ながら、自分の気持が少しも支配できな. は実際「いつまで経っても、なかなかおさまりのつかない人間」だ。. ヽ. このような二面性の指摘は、広津の心情がようやくゆとりをもちは じめたことを意味するのかもしれない。大正七年一月に、ふくとの婿. 彼も承知していながら、何も云わずに黙っていて呉れた親しい友の一. -. 題日なところがある.道徳的にもそんな風に相反する二面があるので' 自分で自分の心の始末に困る事が往々にしてあるo)(--342). (. 裁判批判の論理と思想(五). たo. -.
(12) (I1474). 裁判批判の論理と思想(五). という気持を想い出す.そして翌朝である.(その時、自. 分はそこに展開された或光景に全心の感動を受けずにはいなかった。 見よ。その焦土の何処に隠れ、何処に住んでいるものか'夜が明ける と共に、むくむくと何処からともなく人間の群が'その茶褐色の景色 の中旺動き始めるのだo) (--480) これは広津にとって決定的な体験だったのではないだろうか.彼が 自己のニヒルと闘いつづけていく上での重要な原体験として位置づけ られるのではないか.このあたりから広津の作品にはっきりと明るさ. (大正十三年七月). と積極きと余裕が見られるようになっていく.. 9、「小さい自転車」. これほまたむごい作品である。子供を二人までもうけた相手の女性I. 悩んだ挙句婿姻届を出した女性に対してここまで書けるのだろうか. bedroomでのこと、bedpaperのことまで書いているのである.も っともこの作品を書いた時'広津は経済的窮地のどん底にいた.その. 苦境の中での必死の作である.広津自身次のように述べている.(自. 分はそれを突きつめて考える時には'そうした自分の創作生活を'こ. んな風に考える。1人の腐の空った人間が'その飢餓の苦しみに堪え. 兼ねて、腕や誹の肉を切り取り、それによって胃貯の]時の要求を充 しかし広浄はこのことによって自分を逃げ させる、と。)(i-493). 場のない所へ追い込むことは、もほやしない。(だが'ありがたい事. には、我々人間の心には'どんな事でも客観できる不思議な心的作用. が与えられている。渦巻の中にのたうち廻っている次の瞬間には、自. 分のその姿をじっと見つめられる余裕が心に生じて来るo)(同前)さ らに次のようにも言っているo(だが、療悶の絶頂の次には忘却が来、 「忘却」と「眠り」が人生の1時. f二. たのだろうか。. 川、「青桐」(大正十四年-五年. 分は大体虚無的な気持に、ややもすると陥る性向. 或は考え方を青. この作品でも広浄は自己の変化を明示する】節を書いている。(自. 尭尭). なんとしぶとい広津が登場してきたこ 的の救いなのだ.)(Ⅰ-5)2) とだろう。本領発揮というところなのだろうか。それとも「変身」し. 何かじっと考え込んでいるの. 境地にない悲惨事は'要するに他人事として素焼を感じ.. だが聞けば義憤も感じ、同情も湧-が、だからと云って'自分がその '同僚を感ず. 生を考える上で示唆的な部分聖1つとりあげておこ. 評価され、沖縄で発行された雑誌にも掲載された。このいきさつをめ ぐっての問題点については別にふれる.ここでは、その後の広津の人. けにしたという経緯のあるものである。後紅、沖縄の人々によって再. 11、「さまよへる琉球人」(大正十五年三月) これは沖縄青年同盟からの抗議を受け、広津自身が作品の抹消を公. 的状況の変化を総括したような部分ともいえよう。. がした事もあったo). にさえなって'自分が彼女に勧めている事が、自分の信念のような寛 (Ⅳ-26)) 本稿でこれまで述べてきた広津の心. 自然に晴くなる.自分は毎日毎日彼女に説きすすめた。そしてそう云 っている中に、自分が桔んとうに光明を感じている人間のような心持. い考ほ'傭向いていて出て来るものではない。僻向いていると、心は. 「頭をお上げなさい.頭をお上げなさい」と始終云った.絶ての明る. た。ところが'自分はこ・の婦人が、最初会った時から'陰気で憂欝で、 自分は彼女監向って、. になる傾向さえも持っていた.自分は決して内心快活な方ではなかっ. から持っていた.人生というものに対して、時によると絶望的な気特. -. 以. 心の疲労の次には眠りが来る。-.
(13) るだけで、本心から直ぐ立つというわけには行かない。今までだって 黙っていたんだから'今少し位は黙っていたって同じだという気もし て来る.つまり義慎も同情もぐうたらになってしまう。)(ⅡI80)松 川裁判では本心から立った広津'義憤も同情もぐうたらではなかった。 大正末年から四半世紀後.その間に広津に、さらにどんな変化があっ というよりも、広津の中にあったどんな要素がせり. たのかo変化. 裁判批判の論理と思想(五). (以下続稿). こう怒鳴ってやらずにいられないような寛がした.)(ⅡI95-96). れないような、ルウズな'投げやりな自分の生活法に'「気をつけー」. たがる自分の病的気質が、むしずが走る気がした。人が乗じたがるよ うなスキを見せて、人を悪い方に誘惑していると云ってもいいかも知. (「さまよへる琉球人」などと考えて、裏切られる事に興味など持ち. じよあノO. な部分として'その後の広津を暗示する次の一節を引いてこの稿を閉. 出してきたのかoさらに検討を続けなくてはいけない.第二の示唆的. -.
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