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神武紀の事代主神

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(1)神武紀の事代主神. 藤. 刺. 始めに、幸代主神の性格から見ていきたい。神の性格を考える際. 伊. 初代天皇神武の皇后となる女性は'﹃古事記﹄と ﹃日本書紀﹄ で. には、1般にその神の名義と活躍する場面の分析という二方向から. 事代主神の性格. その出自が異なっている。即ち、この女性が神武記では大物主神の. 進められる。先ずは名義の面からこの神について考えてい‑ことに. はじめに. 子とされているのに対し、神武紀では事代主神の子となっているの. に分解すること. する。「コトシロヌシ」. る。本居宣長は「コト」‑「国譲り」、「シロ」=「しるし」とし'. 「コト」「シロ」「ヌシ」. である。こうした相違は、次に引用する神代紀第八段一書第六にも. ができ、特に 「コト」「シロ」 の解釈が名義を決定づける中心とな. 此大三輪之神也。此神之子、即甘茂君等・大三輪君等、又姫騎. 国譲り神話を反映した名とするが、この説は国譲り神話のみに目を. は. 見られる。. 鞘五十鈴姫命。又日、事代主神、化二鳥八尋熊鰐l、通二三嶋. 奪われたものであり、他にも様々な場面に登場する事代主神の説明. CT. 溝織姫、或云、玉櫛姫10 而生二見姫蹄鞘五十鈴姫命1。是. として適当なものではない。現在では、コトシロヌシの. 「コト」が. 薦二神日本磐余彦火火出見天皇之后1也。. 「事」「言」と表記されること、「言」がそのまま「事」 につながる. 言霊信仰に根ざすという考えから、「コト」は「事」「言」 に通じる. 神武記紀の違いは'﹃古事記﹄﹃日本書紀﹄それぞれの構想の違い に根ざしたものであろう。本稿では、神武の皇后の父をめぐり二種. 1 ‑ t f. えられているのだが、「シロ」 の意味をめぐって解釈に揺れがある。. とする見解に落ち着いている。そこでこの神は託宣に関わる神と考 ∵\. 頬の伝承が存在していた中、神武紀が何故事代主神を選択したのか について考察する。. 神武紀の事代主神.

(2) モノ (精霊) の支配者」と説明される大物主神などの例から見ても、. 二〇. 注釈書の中で多数を占めるのが 「シロ」を 「知る」「領る」とする. 「主」という語を独立させ、これに 「支配者」としての意味を強‑. (7). ものである。この見解によれば「コトシロ」は「言葉を支配する」. 「シル」という. 打ち出すべきであろう。加えて岡も批判するように. 「シロ」を「本物に代って、. ということになる。一方で、西宮一民は. 語と 「シロ」という語との間には断絶がある。「シロ」 の解釈は西. :<a刑. 本物と同じはたらさをすること」と解釈しており、岡久生はこれを. 宮説や岡説を支持したい。つまり「コトシロヌシ」とは「コト. (言‑. 受けて 「コトシロ」を 「託宣の言葉そのものを意味する語」と述べ. そのものを掌る神」ということになる。. 事). 叫e>:. ている。岡も指摘していることだが、「シロ」を考える上では崇神. が、既に指摘されている事代主神の天皇の守護神としての性格であ. このような「コト」を掌るこの神の威信が開いた道の上にあるの. 山の土を取り、それを「倭国之物賓」だとする武埴安彦の妻吾田媛. ろう。次にこの視点から﹃日本書紀﹄ で事代主神が活躍する場面に. 紀一〇年の武埴安彦の叛乱をめぐる話が参考になる。この話には香. の発言が出てくる。「倭国之物葦」 には「物賓、此云二望能志呂こ. 目を向けてみたい。. m. と訓注が付されている。「御子代」「御名代」などの例により、「〜. ら、「物賓」 の 「宴」 は直前の名詞「物」 そのものということにな. あらわす名詞と複合して用いられる」と帰納される「代」 の用法か. 代主神1、且問二婿報之僻l。時事代主神、謂二使者1日、. 名天領船。︼載二使者宿昔腔1遣之。而致二高皇産室勅於事. 魚1薦レ巣。或日、遊鳥馬レ楽。故以二熊野諸手船l、︻亦. ①是時、其子事代主神、遊行在二於出雲図三穂之碕一。以二釣. る。「物」 には「物。物体。実体をもつ物体すべてをさす」との意. 今天神有二此借問之勅t.我父宜嘗レ奉レ遅.吾亦不レ可レ. になるもの・〜としてのもの・〜に相当するものの意で、「〜」を. 味があるが、ここでの 「物」が指している物体は「倭国」 に他なら. 違。因於海中、造二八重蒼柴離1'贋工船稚l而避之。使者. ︼・〜E. ない。語構成上、香山の土が「倭国之物宴」 であるというのは、香. 既還報命。故大己貴神、則以二其子之鮮1㌧ 白二於二神l日、. シロ. 山が大和国そのものだという意味になる。吾田媛の発言はこのよう. 我値之子、既避去夫。故吾亦嘗レ遅。如吾防禦者、園内諸神、. WSf. な香山の土を手にすることが大和国の支配につながるという認識に. 必富同禦。今我奉レ避、誰復敢有二不レ服者一。(神代紀第 「シロ」=「知る」「領. 神、隆二到出雲一、便問二大己貴神一日、汝清二此図二. ②故天照大神、復遣二武嚢槌神及経津主神一、先行駈除。時二. 九段本文). よるものであり、これは神武即位前紀戊午年九月条の香山の土をも とにした祭把記事とも関連している。先の. る」説では 「代」 の中に 「主」 の意味を含めてしまい、厳密には 「主」の部分の解釈が保留されてしまってきた感が残る。「偉大な、.

(3) 之碕一。今昔問以報之。乃遣二便人一訪票。封日'天神所レ. 奉二天神一耶以不。封日、吾見事代主、射鳥逝遊、在二三津. 二社神所教之離適是也。(天武紀元年七月). 二社之神一。然後、童伎史韓国、白二大坂一乗。故時人日、. 陵1'因以奉二馬及兵器1。又捧レ幣而薩二条高市・身狭、. ①②のように、大己貴神の国譲りも「コト」を掌る神の言葉故に. 求'何不レ奉欺。散大己貴神、以二其子之離l、報11乎二 神1。二神乃昇レ天、復命而告之日、葦原中国、皆己平責。. 禰1令レ撫レ琴。喚二中臣烏賊津使主1'薦l一審神者1。因. ③皇后選二吉日一、人二欝宮二親馬二神王1。別命二武内宿. 神功摂政元年条は車坂王・忍熊王の叛乱に際して神功や応神への加. 紀はもともと仲哀天皇に新羅を与えるという神助を示すもの。④の. にあってむしろ皇祖神のために働‑神なのである。③の神功摂政前. 重んじられ、それだからこそ実行される。事代主神は大己貴神の側. 以二千縛高給一、置二琴頭尾一、而請日、先日教11天皇l者. 護を語るもの。⑤の壬中絶は天武天皇の守護や'大和での天武の別. (同1書第l). 誰神也。願欲レ知二其名一。 ‑(略)‑ 答日、於天事代. 働隊の危機を教えたものである。天武を不破まで送ったこと、神武. 11・l. 代主神の皇室守護神としての性格を決定付けたと言われている。. の名が出て‑ることの二点で注目されるものであり、この事件が事. 於虚事代玉葱入彦厳之事代神有之也。(神功摂政前紀三月) ④千時、皇后之船、廻l一於海中二以不レ能レ進。更還二務古 水門一而卜之。 ‑(略)‑ 事代主尊海之日、岡二吾干御. ており、事代主神の皇室守護神的な性格と「コト」そのものを掌る. これらの例は何れも事代主神の発する「言」が「事」に結び付い. 於是、随二神教一以鎮坐蔦。則平得レ度レ海。(神功摂政紀. 神としての性格の問にも飛躍や破綻といったものはない。逆に両者. 心長田図一。則以二葉山媛之弟長媛一令レ祭。 ‑(略)‑. 元年二月). 日、於二神日本磐余彦天皇之陵二奉11馬及種々兵器l。便. 社所居、名事代主神。又身狭社所居、名生壷神者也。乃額之. 口閉、而不レ能レ言也。三日之後、方着レ神以言、吾者高市. て天皇系譜と幸代主神とが結び付いていることを見合わせた時、. る。このように神武天皇から敢徳天皇にかけての四代の天皇にわたっ. 名底仲媛命、訟徳の皇后天豊津媛命も共に事代主神の血を引いてい. 緩靖の皇后五十鈴依媛命は共に事代主神の娘であり、安寧の皇后浮. は密接に結び付いたものなのである。神武の皇后媛置鞘五十鈴媛命'. 亦言、吾者立二皇御孫命之前後1'以送二奉干不破1而還蔦O. ﹃日本書紀﹄が強調しようとしている事代主神の性格は、「コト」を. ⑤先レ是、軍二金網井一之時、高市郡大領高市願主許梅、憶忽. 今且立二官軍中一而守護之。且言、自二西道一軍衆婿レ至之。. 掌るという本来的な性格から派生した皇室の守護神としての性格の. II I. 宜レ慎也。言託則醍夫。故是以、便遣二許梅一、而祭二拝御 神武紀の事代主神.

(4) 方だと言えよう。. 神武紀の事代主神. 皇后につながっていく存在である。. これを裏付けるのが神武の即位記事である。. 二二. 辛酉年春正月庚辰朔、天皇即二帝位於橿原宮一。是歳薦二天皇. 元年1。尊二正妃一馬二皇后一。生二皇子神八井命・神淳名川. 磐之根1㌧峻三時樽二風於高天之原1'而始駁天下之天皇、壊. 耳尊l。故古語栴之日'於二畝傍之橿原1也'太二立宮柱於底. の東征から即位に至る大きな流れの中で、大和入り後に記載される. 日二神日本磐余彦火々出見天皇一蔦。. さて、ここで神武紀の事代主神について考えていきたい。神武紀. 内容を大まかに確認してお‑と、①大和での戦闘、②都の造営、③. 記﹄は東征から即位にかけての流れの中で、葦原中国(天下) の平. 立后記事がある例は神武の他にも崇神・履中・反正・顕宗・仁賢・. 媛厨鞘五十鈴媛命の立后を記している.もっとも、即位をした年に. 引用文のように、神武紀は神武の即位を記した後、直ちに「正妃」. 定を語った後に神武が即位し、それに伊碩気余理比責との結婚譜が. 継体・孝徳・天智・天武の各天皇紀がある。しかし、このうち顕宗. 「正妃」 の決定、④即位となる。注目したいのが③④である。﹃古辛. 続いている。神武の即位前の 「正妃」決定は、﹃日本書紀﹄が独自. 紀・天武紀を除いた例は即位と立后の月が異なっており、多少なり. は次の通りである。. とも即位から立后までに時間がかかっている。残る顕宗紀・天武紀. ( 3 ). に抱えている問題として扱うべきものである。 神武紀冒頭には 聖二日向囲吾田邑吾平津媛l、薦レ妃.生二手研耳命1。. が分かる。それにも関わらず神武は東征後に別の女性を求めるのだ. 小郊一、二宮於二池野一。又戎本云、宮二於葉栗一。︼是月、. 折々蔦。︻戎本云、弘計天皇之宮、有二二所一蔦。一宮於二. ○召二公卿百寮於近飛鳥八鈎宮一、即天皇位。百官陪位者、皆. が、その際に求められる女性が 「正妃」と記されていることに注意. 立二皇后難波小野王一。赦二天下一。(顕宗紀元年正月). と記されており、神武には東征前に既に妃と子が存在していたこと. しなければならない。単に 「妃」と記される吾平津嬢との比較から、. ○天皇命二有司一設二壇場二 即二帝位於飛鳥浄御原宮一。. 立二正妃1番二皇后T.々生二草壁皇子等1.(天武紀二年. あくまで「正妃」 であることが重要なのである。「正妃」 の問題を 神武紀の流れの中において考えれば、東征の総仕上げ、即位に向け. 二月). 「是月」という表現からも、顕宗紀の即位と立后の問の一体感は. た準備として存在している問題なのであり、「正妃」 の決定により 神武が即位する条件が整ったと理解するべきである。「正妃」とは.

(5) 紀にいう「正妃」とは言うまでもなく鶴野皇女であり、後に持統天. 似しているということからも、ここでは天武紀に注目したい。天武. の形と比べた時の立后記事の形式も異例である。神武紀と形式が類. 神武紀や天武紀ほどではない。顕宗紀は、後で説明する天皇紀l般. 果たしている。このように見て‑ると、媛拒鞘五十鈴媛命が﹃日本. 美命の叛意を自らの子たちに歌をもって伝えており、一定の役割を. 層際立つ。﹃古事記﹄ での伊損気余理比薫は、神武没後の富垂志美. それは﹃古事記﹄ で神武の后となる伊損気余理比責と比較すると1. 点に求められるわけではな‑なってこよう。前節で見てきた幸代主. 書紀﹄ で破格の待遇を受けているのもこの女性自身の個性といった. 皇后従レ始迄レ今、佐二天皇t定二天下1。毎於侍執之際、轍. 神の性格を思い合わせてみると、媛置編五十鈴媛命が「正妃」とさ. 皇となる人物である。戯野皇女は. 言及二政事一、多レ所見補。(持続栴制前紀). 媛甫鞘五十鈴媛命は鷹野皇女と同じ形でその立后が記されるのだが、. 語っていると説かれるように、婚姻は天皇の許へ女性を送り出す側. ﹃古事記﹄ の欠史八代が天皇の婚姻を通して王権の勢力の拡大を. れて重んじられている理由も、この女性が事代主神の娘という一点. 神武紀については更に立后記事の表現方法も問題とするべきである。. の服属の意味を強‑持つ。事代主神は神武に対立するものとして描. とあるように、天武存命中から政治の中枢を担っていた。その点で、. 通常、立后記事は「立二〇〇一為二皇后こと表現されるが、媛蹄. かれているわけではないが、即位にあたってこの神の服属を語って. のみに集約されるものになる。. 鞘五十鈴媛命の場合は 「尊11正妃一為二皇后l Jと表現され、﹃日. おかねばならなかったという神武紀の構図を読み取ることが出来る。. 即位記事と立后記事とが同時に記されていることの意味は大きい。. 本書紀﹄中の孤例である。戯野皇女の立后を記す天武紀でも「立二. では、事代主神の服属は何故神武が即位する前でなければならな. C 3 >. かったのか。神武紀とは別に、事代主神の服属を語る話が神代紀第. 正妃l篤二皇后l」という表現であり、媛階鞘五十鈴媛命は戯野皇 女以上の扱いを受けている。. れ以外に記事はない。垂仁に召された丹波の五婦人の内、「形姿醜」. として描かれているかと言えば、「園色秀者」とされるものの、そ. 岐神於二神一日、是富二代レ我而奉一レ従也。吾滞日レ此避去。. 平。吾所治額露事者、皇孫富レ治.吾婿退治二幽事l。乃薦二. 於是、大己貴神報日'天神勅教、愚二勲如此1.敢不レ従レ命. 九段一書第二にある。. とされる竹野媛が退けられていることからも、容姿の美しさは皇后. 即窮被二瑞之八坂壇一、而島陰老兵。故経津主神'以二岐神一. その媛贋鞘五十鈴媛命が戯野皇女のように優れた資質を持つ女性. として大事なことである。しかし媛摺鞘五十鈴媛命の行動は具体的. 馬二郷導1'周流削平.有二逆命者t、即加新教。蹄順者、仇. 二三. な記事をもって語られることがな‑、極めて没個性的な女性である。 神武紀の事代主神.

(6) 加褒美。是時、蹄順之首渠者、大物主神及幸代主神。乃合二八 十寓神於天高市1、帥以昇レ天、陳二其誠款之至t。時高皇産 蛋尊、勅二大物主神1、汝若以二固神一馬レ妻、吾猶謂三汝 有二疏心t。故今以二吾女三穂津姫l'配レ汝岳レ妻.宜領二. 崇神紀の大物主神. 次に大物主神について考えたい。神代紀第九段一書第二に、事代. 叙述の中心は大物主神に置かれているものの、国譲りは大物主・. 神関係の記事を見ていきたい。その概略は'大流行した疫病を、大. ているのだろうか。本節では崇神紀五年から七年にかけての大物主. 主神と並んで見えていた大物主神を、﹃日本書紀﹄はどのように扱っ. 事代主両神の服属をもって完成するという考えがあったことが分か. 物主神を始めとする諸神を配ることによって鎮めていく、というも. 八十寓神l'永馬二皇孫1奉レ護、乃便二還降1之。. る。この二神は神々の 「首渠」とされているが、それ故に服属を語. のである。五年に始まる疫病の大流行は、. 端なものになったということを、本文として改めて確認したという. 万神の 「首渠」 でもある事代主神が服属したために即位の準備が万. この一書を参考にしつつ話を神武紀に戻すと、神武紀では、八十. 吉蔦。便別祭二八十寓群神一。析定二天社・園社'及神地・神. 市1'馬下祭二倭大国魂神1之主上。然後、トレ祭二他神l、. 以二大田々板子l'馬下祭二大物主大神1之主上。又以二長尾. 命二伊香色雄一、而以二物部八十平蓋二 作二祭神之物一。即. ( 2 ). る必要があったということになる。. ことになる。「正妃」 の決定に先立つ都造営の詔の中には、「蓮土. とあるように、七年十一月に収束する。次いで天下太平となった後. 戸二於是、疫病始息、園内漸詮。五穀既成、百姓鏡之。(七. ﹃日本書紀﹄としては 「正妃」 の決定を神武天皇の即位前に明確に. の八年四月に高橋邑の人活日を大神の掌酒としたこと、さらに十二. 未レ清、飴妖尚梗」という表現が見られる。しかし事代主神の服属. 示しておくことに重大な意味があったのである。また、皇室の守護. 月の三輪神宴歌の件へと話は展開してい‑。崇神紀はこの間天照大. 年十一月). 神である幸代主神が初代天皇の条に置かれるのは、﹃日本書紀﹄全. 神や倭大国魂神の祭把にも触れている。ただし天照大神の祭把は垂. 後、神武紀では戦闘記事や不安定な世情を示す記事が全くな‑なる。. 体を見合わせた上でもふさわしい。. 仁天皇の代になって完成するもので、天照大神の祭把が疫病の蔓延. とその鎮静化に直接関わってはいないと判断される。倭大国魂神に. ついても、三谷栄一が指摘するようにあ‑まで大物主神に附随して.

(7) を把る前に他の神々を肥ることは許されず、七年十一月条では大物. (3) 語られていると理解するのが適切である。七年八月条では大物主神. 彦でさえ叛乱が失敗に終わるのであり'もはや揺ぎ無いものとなっ. 側から語ったことになる。その結果、「倭国之物責」を得た武埴安. 大物主神を神祇体制内に取り込むことは、この神の服属を祭把者の. ( S >. 主神を肥った後に始めて諸々の神の祭把が許されたと記されてい. た天皇の支配権が確認されるのである。. 事代主神と大物主神. (。 3八 )年の神宴の場が三輪であることもあり、疫病の大流行は大物 る 主神の崇りによるものだとおさえるべきである。何より七年二月条 に 是夜夢、有二一貴人一。封二立殿戸一、日栴二大物主神一日、. 田々根子一㌧令二祭吾一者、則立平夫。. は王権の歴史書としてはずせないものだったのだろう。一方大物主. 事記﹄﹃日本書紀﹄ で共通することからも、崇神治世時の大物主神. 前節で見た通り、大物主神の服属は崇神紀で語られている。﹃古. とあるのがその証拠である。. 神と併称される幸代主神の場合はどうか。神代紀で事代主神は葦原. 天皇、勿二復馬1レ愁。園之不レ治、是吾意也.若以二吾鬼大. それでは大物主神の崇りをめぐる一連の話の意味は何なのだろう. 中国を実効支配する大己貴神をも動かす程の絶大な力を持っていた。. したい。天照大神の祭把や石上神宮の整備など一部は垂仁紀に持ち. 打ち立てた神祇体制下に組み込まれることになっていることに注意. CS) じられているが、今は大物主神といえども、結果として崇神天皇の. 神記紀での大物主神の崇りの背後にあるものをめぐっては様々に論. する側の主体ではない。大己貴神に付随するものではな‑、事代主. ‑まで大己貴神の服属として措かれるものであり、事代主神は服従. おける皇后決定の意味なのではないか。また、神代紀の国譲りはあ. 題に置き換えて、天皇との婚姻関係という形で語ったのが神武紀に. ような事代主神の服属を、初代天皇による統治の大前提としての問. 大己貴神の国譲りほ事代主神の言葉を前提としたものである。その. か。神が出売る話には類型がある。神が自らの祭把を求めるために巣 5). 越されるものの、神々を肥る大凡の体制は崇神天皇の代で確立され. 神自身の服属を天皇統治の幕開け時に改めて明示することは重要な. (1 りを起こし、その要求が叶えられれば鎮まるというものである。崇. ていると見て良い。とりわけ神祇体制については八年十二月の三輪. ことでもあった。. 二五. 詔日、自二磐余彦之帝・水間城之王1、皆頼二博物之臣'明哲. 継体紀二四年二月条には、. 神宴歌をもって一つの画期を成していると判断される。つまり、崇 神紀では大物主神の崇りを契機に神祇体制が整えられてい‑のであ る。祭把とは把る側の立場に立てば神を支配することに他ならない。. 神武紀の事代主神.

(8) と称される。二つの称号は一般に同じ訓が付されるものの、矢嶋泉. 二六. 之佐一。故遺臣陳レ讃、而神日本以盛。大彦申レ略'而脆壇殖. が説いたように、両者の内容は異なるものである。しかし、天下経. 世の在り方として回顧されている。神武・崇神両代は継体が目指す. という継体天皇の勅がある。ここでは神武朝・崇神朝が理想的な治. られていることは無視できない。﹃古事記﹄ では神武に 「始駁天下. を語っている神武・崇神両天皇に国の統治に関わる形の称号が与え. 営の上で欠かすことのできない幸代主神・大物主神それぞれの服属. ( 2 ). 用隆。. べき規範として象徴化され、一括りのものにされているのである。. 之天皇」 にあたる称号がないことから、ここにも﹃日本書紀﹄ の意. 征の最後に置かれている。そして崇神紀で大物主神の祭紀を通して. を伴う場面である。この神の服属がそれまで多‑の戦闘を伴った東. る。事代主神が活躍を見せるのは神功紀や天武紀のように多‑軍事. 書紀﹄ では事代主神、大物主神がこれと密接に関わっているのであ. 皇による全円的な支配が語られることになるのである。更に﹃日本. 読み取ることは大凡の方向性として可能だと考える。これにより天. 図だが、こうした神武紀・崇神紀を合わせた﹃日本書紀﹄ の構想を. し﹃日本書紀﹄にとって、易姓革命にも繋がりかねない天皇以外の. に、﹃日本書紀﹄ には天皇以外に 「天」を負う者が存在する。しか. 目命は「天神之子」とされている。他にも神代紀の鹿葦津姫のよう. 服属として事代主神の他に注目されるものに鏡遠目命がいる。鏡遠. 紀﹄ にはより慎重な態度が求められたのだと考えられる。神武への. 初めて天下の統治者として語られる神武の即位について、﹃日本書. する形で即位を語れば良かったのに対し、天孫降臨を経て実質的に. 読‑ことにある。二代目以降の天皇が先代天皇の没後に皇位を継承. ﹃日本書紀﹄ の主題は天皇が世界を統治する由来とその正当性を. おわりに. 図を読み取ることが出来よう。. また、﹃日本書紀﹄ は内容的にも神武紀と崇神紀の二つで一つの ものを作り上げていこうとしているような節が見受けられる。神武 紀は祭把により神助を得るという前提が付‑ものの、武力による征 討記事が多い。崇神紀では四道将軍の派遣に見られるような武力平 定が語られるものの、祭把記事に筆の多‑が割かれている。軍事・ 宗教両面にわたるヤマトの平定とは遠山美都男の論にも見られる構. 神祇体制は整えられていく。﹃日本書紀﹄は軍事・祭把双方の掌握. 「天」 の存在は許されないはずだ。そこで ﹃日本書紀﹄ の採った解. ( S ). を神武紀の事代主神、崇神紀の大物主神という八十万神を率いる二. 決方法が鏡遠目命の帰順なのである。﹃日本書紀﹄は他ならぬ 「天. 神之子」 である鏡遠目命自身に 「本知二天神愚勧'唯天孫是輿l J. 柱の首渠の服属に象徴させることで語ろうとしたのである。 神武は「始駁天下之天皇」と称えられ'崇神天皇は「御肇国天皇」.

(9) と 「天」と天皇の特別な関係を認めさせることで天皇による「天」 の独占化を図ったのである。鏡遠目命の帰順や国神の 「首渠」 であ る事代主神の服属は、神武の即位をより万端なものとして語るため に施された﹃日本書紀﹄ の工夫の一環として処理するべきである。 更に神代紀第九段一書第二を掲載する﹃日本書紀﹄ にとって、事 代主神の服属は大物主神の服属と共に国土経営に向けて触れなけれ ばならない必須事項なのであった。その命題に対し、﹃日本書紀﹄ は神武紀で事代主神の服属を'崇神紀で大物主神の服属をそれぞれ C H ). 語るのである。. 神武天皇の皇后の出自をめぐる ﹃古事記﹄﹃日本書紀﹄間の相違 は、ただ単に事代主・大物主二神が並び称される故に置換可能であっ. た上での ﹃日本書紀﹄ の明確な構想の結果採られたものなのである。. 注. (‑) ﹃古事記﹄﹃日本書紀﹄ の相違をめぐる研究史は、神武の皇后の出自に. 焦点を絞るのではな‑、両書における緩靖・安寧・乾徳の皇后の違いをも. 絡めた欠史八代の成立時期の問題として扱われ、背後にいる氏族について. 論じられてきた。例えば、肥後和男「大和闘史時代の一考察」(﹃古代史上. の天皇と氏族﹄)は葛城鴨を通して事代主神に蘇我氏の姿を、﹃新撰姓氏録﹄. に師木県主が鏡遠目命の後商とあることから師木県主に物部氏の姿をそれ. ぞれ想定し、両氏の対立の歴史がそのまま﹃古事記﹄と﹃日本書紀﹄の違. いに現れたとする。前川明久「記紀八代系譜の成立と光明立后」(﹃日本古. 代政治史の展開﹄) は聖武天皇を産んだ文武の妃宮子が藤原不比等と賀茂. 朝臣比売との問に産まれた子であること、聖武が賀茂朝臣家で養育された. と推定されることから、﹃日本書紀﹄には賀茂朝臣・藤原両氏の働きかけ. があったとする。また、皇后の出自が県主家であっては身分上問題がある. から事代主神が選ばれたとする直木孝次郎「県主と古代の天皇1靖綬以下. たという表面的な理由に根ざすものではない。大国主神の神婚記事 は﹃古事記﹄ のみに見られるものだが、八千矛神の名の下に行われ. 八代の系譜の成立をめぐって‑」(﹃日本古代の氏族と天皇﹄) の説もある。. (‑) 西宮一民﹃古事記﹄(新潮日本古典集成) 三八〇頁〜三八一頁。. (‑) 本居宣長﹃古事記伝﹄一一(大野晋編﹃本居宣長全集﹄九)0. 院文学研究科紀要﹄二一、平成二年三月) の見解がある。. 事記における大物主神1その位置付けを中心として‑」 (﹃国学院大学大学. 婚姻を意識した上で、その反復・強調」(二九四頁)とする谷口雅博「古. 主神に水神としての性格を見出しつつ 「神代紀末における天孫と海神との. 宗教的意図」 (一一七貢) を見る説、八尋熊鰐に化することをもって事代. 二九、昭和五七年二月) による「事代主神の神託という秘儀信仰に基づ‑. の神話‑コトシロヌシの神の神避り‑」(﹃武庫川女子大学紀要 文学部編﹄. ﹃日本書紀﹄ の構想という観点からの言及としては、井上実「出雲服属. るこの神の婚姻講は、高志国を舞台にするものの、渡勢理毘喜命の 嫉妬により大和国には及ばない。婚姻のために大和国へ赴‑ことの 出来なかった大国主神は、大和国の国魂を得ることが出来ず、「天 ( s O. 下」 の統治者として認められることはなかった。大和国を重視する のは﹃古事記﹄ばかりでな‑﹃日本書紀﹄ でも同じである。しかし 神代において地上世界の支配と大和国の国魂を得ることとの不可分 の関係を説いている以上、﹃古事記﹄ では初代天皇神武の大后を大 和国の国魂神である大物主神の娘とする以外に選択の余地はなかっ たのだろう。一方の神武紀の事代主神は、崇神紀をもにらみ合わせ 神武紀の事代主神.

(10) (4) 岡久生 「事代主神の諸問題‑託宣と国譲りの物語‑」 (古事記学会編. 二八. が行われ、これにより素糞鳴尊の日神(天照大神) への清さ心が証される。. 虜七段で自らの暴行のために天上界を追放される素糞鳴尊は、第八段では. ている。このような素妻鳴尊像の理解を助ける働きをしているのが第八段. 霊剣草薙剣を「天神」に献上するように「天」に対して従順な姿勢をとっ. ﹃古事記の神々﹄上) 二一六貢。 (‑) ﹃時代別国語大辞典﹄上代編、「しろ [代]」の項①、三七六頁0. 本文中で扱う第九段一書第二にしても同様の指摘が出来る。この一書に. の直前に置かれる第七段一書第三なのである。. (‑) ﹃時代別国語大辞典﹄上代編、「もの [物・者・鬼]」の項①、七四三頁。. 頭注二一。. (7) 山口佳紀・神野志隆光﹃古事記﹄(新編日本古典文学全集一)一五七頁. 天照大神、手持二賓鏡一、授二天忍穂耳尊二而祝之日、吾見視二此. i. 賓鏡1'嘗レ猶レ視レ吾。可三輿同レ床共レ殿、以薦二賓鏡1.. (‑) 井上実前掲(‑)は天武紀等に見られる事代主神と国譲り条の事代主神 は別神とする。しかし出雲の地で事代主神が祭把されていた形跡がないこ. (2) 吉井巌「崇神王朝の始祖とその変遷」(﹃天皇の系譜と神話﹄二)0. り得られるもの‑」(﹃古代中世文学論考﹄一七) を参照していただきたい。. 学研究﹄一四七、平成T七年l〇月)'「神代紀第七段について11書によ. ものだが、拙稿「天孫降臨と随伴神‑「記紀神話」論にむけて‑」 (﹃国文. 題を支えているのかを考えてい‑べきだろう。神代紀の一部を取り上げた. 神代紀の一書については、本文と異なる部分がどのようにして本文の首. 代紀の一書は﹃日本書紀﹄の中で有機的な機能を持っているのである。. 田」の起源を説明している第五段一書第十一のように枚挙に暇がない。神. このような例は、他にも第七段で天照大神が保有している「天狭田・長. へ遷座するが、これはこの一書があるために生きてくるものである。. という天照大神の神勅がある。天照大神は崇神紀六年に宮中から笠縫呂. とは既に指摘されている0吉井巌「帝紀と旧事‑要の用字をめぐって‑」 (﹃天皇の系譜と神話﹄一)などが説いているように、もともと無関係であっ た大己貴神と事代主神が親子として結び付けられたのだろう。従って、壬 中絶のように大和で活躍する事代主神と国譲り神話に登場する事代主神は 同一神と考える。 (‑) 西田長男「記紀神話の成立と壬申の乱」 (﹃古代文学の周辺﹄)0. と記している。. (S) 「皇后」に相当する女性を履中絶は「皇妃」と記し、反正紀は「皇夫人」. 0=1) 神代妃を扱う際には本文と1書の関係に触れておかなければなるまいo 佐佐木本・四天王寺本は一書を中書二行で記しており、これが﹃日本書. (3) 三谷栄一「大物主神の性格」(﹃日本神話の基盤‑風土記の神々と神話文. 紀﹄神代巻本来の形態を保っていると考えられている。このような筆録上 の形式的な点から、本文とT書の関係については本文の優越性を認めねば. 歴史記述方法の違いによるところが大きいが、崇神紀における大物主神の. 把を1括して扱っている。崇神記紀の相違は﹃古事記﹄と﹃日本書紀﹄の. (3) 三谷栄1前掲(22)。なお、﹃古事記﹄は大物主神の集配と諸々の神の祭. 学‑﹄)0. ならない。更に、神野志隆光「﹃日本書紀﹄ の神話的物語‑陰陽のコスモ ロジー」 (﹃古事記と日本書紀 「天皇神話」 の歴史﹄)が指摘することだ. 「次生」と書き出されるように、﹃日本書紀﹄は読者に本文同士を繋ぎ合わ. 重要性を考える上で﹃古事記﹄との比較は参考になる。. が、第五段本文が第四段での伊英語尊・伊英再等の国生みを受ける形で. せて読むことを求めている。﹃日本書紀﹄ の主張はひとまず本文によって. 平成l六年一〇月)0. (3) 松本弘毅「垂仁記の祭把‑出雲大神の「崇」‑」(﹃国文学研究﹄ l四四、. 読み取るべきことになる。 しかし一書を切り捨ててしまっても良いというわけではない。その例と して第七段一書第三を見てみたい。この一書では石窟神話後にウケヒ生み.

(11) 崇りを基にしたものとし、益田勝実「モノ神襲来1たたり神信仰とその変. (S) 松倉文比古「御諸山と三輪山」(﹃日本書紀研究﹄ 1三) は仏教伝来時の. 質‑」(﹃益田勝実の仕事﹄四) は実際にあった疫病蔓延の事実を反映した ものとする.また、青木紀元「鎮花祭と三輪の説話」(﹃国語国文学﹄ 1二、 一九六六年)は鎮花祭の起源記事とする。他に、祭紀権の移動という立場. への推移を想定し、岡田精司「河内大王家の成立」(﹃古代王権の集配と神. から、上田正昭﹃日本の歴史 第二巻 大王の世紀﹄は三輪氏から崇神朝. せて論じている。. 話﹄)、直木孝次郎﹃奈良﹄は三輪王朝から河内王朝への王朝交替と関係さ. (S) 遠山美都男「崇神天皇は実在したか?‑崇神紀の読み方‑」 (遠山美都 男編﹃日本書紀の読み方﹄)0 (2) 遠山美都男前掲(S)‑. :. i. '. !. =. 蝣. /. '. (S) 矢嶋泉「ハックニシラススメラ",コト」(﹃青山語文﹄一九㌧一九八九年. 亦僕子等、百八十神者'即八重事代主神、薦二神之御尾前一而仕奉者、. (S) ﹃古事記﹄における事代主神の服属は神代で語られている。. 違神者非也。 これは国譲りにあたっての大国主神の言葉だが、﹃日本書紀﹄には見ら れない﹃古事記﹄に独自なものである。このうち「神」が指す対象をめぐっ て、多‑の神々とする説(本居首言長﹃古事記伝﹄一四(大野晋編﹃本居宣 長全集﹄一〇))と天神御子とする説(西郷信綱﹃古事記注釈﹄二)とが あり、解釈が定まっていない。しかし事代主神の積極的な奉仕が、後の天. いはない。神武の皇后を大物主神の子とする﹃古事記﹄は、触れておかね. 皇につながる天神御子による葦原中国支配の前提とされていることに間違. ばならない事代主神の服従を国譲り条で語っているのだと考える。 (S3) 松本直樹「トヨタマビメとスセリビメー異界王の女1」(﹃古事記神話 論 ﹄ ) 。. 神武紀の事代主神. の一部は省略し、記す際には︻ ︼内に入れたO また、l部の漢字は常用. ※ ﹃日本書紀﹄﹃古事記﹄の引用はH本古典文学大系に拠った.ただし分注. 漢字体に改めた。. ※ 本稿は、平成一七年度古事記学会大会における口頭発表(六月一二日、於・. 芦屋大学) に基づ‑。御意見を賜わった各位に深謝申し上げる。.

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参照

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