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大化前代の紀年(四)

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Academic year: 2021

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(1)Title. 大化前代の紀年(四). Author(s). 栗原, 薫. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. B, 社会科学編, 33(2): 1-15. Issue Date. 1983-03. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/4453. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . V 大化前代の紀年I. 栗. 一. 記紀の信悪性. 原. 薫. 井上光貞氏説について. 『古事記大成』 4所収) で, 「帝紀は応神以後はほぼ信用 井上光貞 氏は, 「帝紀よりみた葛城氏」 ( 氏はみている様であるが 出来ると, 津田左右吉 , 氏はこの問題を正面切って論じようと して居られ ないので, 帝紀の記載の信 悪性の度合いをはっきりとつかみ得ない. そこで帝紀の信悪性を改めて 考察したい.」 と問題をおこし, 武田格吉氏の 『古事記研究-帝紀 孜』 に, 帝紀の共通項目として, H御続柄, 口御名, 同皇居と治天下, 側皇妃と皇子皇女, 陶皇妃と皇子皇女の御事蹟, 的御事蹟に )宝算, 崩御の年月日, 山陵の七項目があ げられているが, 或はなかったかもしれな 関する記事, 叱 い◎・附を除いて, 一々検討された. そして 「 )の中, 宝算, 崩御年月日は, 記紀を比較対照してみると, 相互間にあまりに 一致を欠 いているが, かかる事は帝紀を構成すると推定される他の項目には全然みられないので, この部分 )の山陵についての倭 五王時代の ) は原帝紀に なかったと思われるが, それ以外のH, 0, 同, 鯉 ,牝 ‐ .という意味 うと 推定して差支えない 実にもとづくものである 帝紀の記載は史 .(その蓋然性がある , においてである,)」 と説かれた, 7年3月 )の中の崩御の年月日(月日を除く)及び宝算は, 私が昭和5 しかし井上氏が排除された化 1」で発表した修正紀年を中心に考える に『北海道教育大学紀要』32巻2号の, 「大化前代の紀 年 1 と, 倭五王時代については, 相互に一致点を持って居り原帝紀又はその素材に記紀に至る変化のい ずれかの段階のものがあっ たのであり, 修正崩年干支のすべて (古事記崩年干支と同じ) 及び修正 宝算の一部は事実である. 6年3月に, 『北海道教育大学紀要』31巻2号の, 「大化前代の紀年」及び前掲論文で上 私は昭和5 代の紀年について論じた. 私はそこで書紀紀年は古事記崩年干支又はそれと同 じ紀年より出ている事を論じた, それはす で に多くの先学によっ て着目されてき た事である. 唯私は, 古事記崩年干支の一部は, 辛西起点半年 一年の干支つまり通常の干支の辛西の年の前半年を辛酉とし, 床後半年を一年として, 通常の干支 の順におく って行き, 通常の干支の 三十年で一巡し, その次は辛酉にかえる干支であるとしたの で ある. (更に允恭天皇の古事記崩年干支甲午は, 辛酉起点半年一年の紀年丁丑を通常干支と間違え, 丁丑を通常紀年として, その辛酉起点半年一年の干支として出されたものである.)その辛酉起点半 年一年の紀年を通常紀 年に直した修正紀年は次の如く である..

(3) . 栗. 原. 蕪. 修正紀年 西暦. 天皇. 通常紀年 壬掌起 ぁ常霊. 記. 事. 辛酉 仲哀. 辛卯. 394. 応神. 国墓日. 4 27. 仁徳. 匡卿. 3 31. 432. 履中. 国コ回. 437. 反正. 冨コ図. 459. 允恭. 己亥. 区藷園. 丁丑. 崩御 崩御 崩御 崩御 崩御 崩御. 丁丑を通常紀年とする辛酉起点半年一年の干支は. 奏巳回護日, 己亥は書紀允恭崩年葵巳の六年後 戊寅. 485. 雄略. 乙丑. 534. 継体. 甲寅. 5 35. 安閑. 匡瓢. [ニコは古事記崩年干支. 匡望勘 庚午. 匡羽. 崩御. 乙丑は書紀雄略崩年己未の六年後 、. 崩御, 甲寅は書紀注或本云, 書紀本文 では辛亥. 戊申. 崩御, 記紀一致. 参正崩年乙丑( - 私の出した雄田剤 485 ) と允恭修正崩年己亥 ( ) との間の二六年は, 書紀雄略崩年 459 己末 ( 479 ) と書紀允恭崩年発巳 ( 453 ) との間の二六年と同 じ長さ である. 乙丑の辛酉起点半年- 年の紀年は己巳, 庚午であって, 古事記雄略崩年干支己巳と合う 己亥 の辛酉起点半年一年の紀年 , は丁丑, 戊寅 で, その丁丑を通常紀年と間違えて, 丁丑を通常紀年とする辛酉起点半年一年の紀年 として出した奨巳, 甲午の甲午は, 古事記崩年干支 である . 書紀允恭治世の最後の年の奏巳は通常紀年 で, それを除いた四一年の治世に即位前の空年を足し た四二年は半年一年の年数である. 通常年数とすると 『宋書』の讃 珍 渚の三王が皆允恭治世に , , , は入ってしまう, 四二年が半年一年だとす れば通常の年数で二一年となる 允恭修正崩年己亥( 459 ) . の前年より二一年とると437年となる. これは反正修正崩年丁丑( 437 ) である. それより修正紀年 の反正治世五年をとると, 履中修正崩年壬申( )となる. それより修正履中治世五年をと ると仁 432 徳修正紀年丁卯 ( 42 )となる. それぞれの修正紀年は古事記崩 年干支 である 反正修正治世 は書紀 7 , と同年数で, 履中修正治世は書紀の方が一年長くて六年 である . 仁徳修正崩年丁卵 ( 427 ) と, 応神修正崩年甲午 ( 3 9 4 ) との間の三三年は通常の数え方での三三 年 であるから, 半年一年とすると六六年になる, 書紀紀年は允恭崩年 発巳以後は通常紀年より 六年 くり上っている. 葵巳よ り前は半年一年の紀年で, 辛西起 点半年一年の紀年より二二年くり下って いる. 相殺して書紀紀年と辛酉起点半年一年の紀年との間は十六年の差がある それに反正紀年が . 書紀紀年 では例外的に通常紀年 と同 じく五年となっているが 半年 一年 では十年だから五年短く , なっている, この十六年と五年と, 修正紀年によ る仁徳治政六十六年を足した 8 7年が書紀の仁徳治 政である. この応神修正崩年も古事記崩年干支 である , かくて応神--雄略問, 仁徳崩年に-年のず れがある以外は, 書紀崩年と古事記崩年とは 私の , 修正崩年を通じてよく一致している, 仁徳崩年の一年のずれは, 書紀の方が 暦の切かえによって , 生じた半端な月を一年とみている為 ではないかと思う (8月正月を1月正月にしたな ど) . 宝算に ついても, 先にあげた私の修正紀年を間に置いて考えると 記紀は一致するの である , . 仁徳天皇の宝算については, 古事記にのみあり8 3才 である. これは書紀の仁徳治政8 7年に, 書.

(4) . 大化前代の紀年川. 紀の履中治政6年を足して93年とし, さらに私の修正紀年 (古事記崩年干支)によって出した履中 治政5年は過常紀年 であるから, その半年一年の年数10年を, その93年より引いたものである, 3歳は, 書紀紀年が成立するま での治政年数の 一つ(真のは先述した如く通 つまり古事 記仁徳宝算8 一年 常で33年, 半年 で6 6年 である) を間違えて宝算としたもの である, したがって真の仁徳宝算 は知り様がない, しかし古事記にのみ伝 った宝算は, 書紀紀年と関りがあるのである, 応神天皇の宝算は, 書紀で110才, 古事記で1 30才 である, この書紀のは, 書紀の紀年より出し た治政年数 である. 応神元年つまり神功摂政元年は応神誕生の翌年になっ ているから, 応神宝算と 応神治政年数とは一年違いである. 書紀の紀年では, 応神宝算は1 11年, 治政年数は11 0年となる, 書紀応神宝算はこの治政年数を間違えたのである. 古事記の1 30才も治政年数である, 私の修正紀 年 では応神治政は332年の前半より39 4年ま でであるから63年 で, それを半年一年に直せ ば1 2 6 年, それに修正紀年の履中治政は通常で5年, 半年一年に直すと10年なのに, 書紀紀年 では6年に なっているの で, その4年の差が仁徳元年に出ていて, 書紀の仁徳元年は通常より4年くり 下 って いる. その4年を足して1 3 0年となる. 書紀 では応神崩年と仁徳元年との間に二年の空年があるが, そこに至るま でに, 仁徳元年の前年が応神崩年だった紀年の時代があったに違いない. 書紀の応神 宝算との差20年は,前の頁で允恭崩年発巳より前は書紀紀年はそれ以前は辛西起点半年一年紀年よ り1 6年くり下った干支となっ ている旨述べたが, その1 6年に, 仁徳元年が4年くり下っ ているそ の4年を足したものである. この13 0年の治政年数が間違えられて応神宝算の一つに なっ たのであ る. これらも私の修正紀年より, 紀の紀年になるまでの, 紀年変化の過程の一つを示しているので ある, 履中天皇の宝算は, 書紀で7 0才, 古事記で6 4才 である. 書紀の70才は, 履中紀即位前紀に, 仁 徳31年, 立太子, 時に年15とあるのと関連している. 私の修正紀年 で, 仁徳治政は半年一年 で66 年, そこで書紀の仁徳治政をその6 6年ま でとし, その3 1年に, 普通年で15才, 半年一年 で30才 又は2 9才だっ たとすると, 履中天皇は仁徳天皇崩御の年 (仁徳6 6年) には6 4才か65才 である. その6 4に書紀履中治政6年,65才に私の修正紀年の履中治世5年をたすと, 書紀履中宝算の70才 になる, 古事記の履中宝算64才は, 書紀の宝算70才の践簾の御年が6 4才 であるから, それが紛れ こ ん だも の で あ る.. 反正天皇は古事記に60才とあるのみである.書紀の紀年では母后莞年以後の誕生という事になる が, 仁徳治政を6 6年, 母后莞年を紀のままに仁徳35年とするも, 母后莞年に反正天皇は 23 才 だ っ た事になり矛盾しない. 允恭天皇も古事記に7 8才, 書紀には若干とあるのみである. 書紀の紀年では母后莞年以後の御誕 生になるが, 私の修正紀年の仁徳崩年より允恭崩年にいたる32年 (通常年数) を引いた46才が, 仁徳崩年の允恭天皇の御年とみ, 仁徳治政を66年とすると, 仁徳35年母后莞去の年には1 5才 で あって矛盾しないという事になる, 安康天皇は古事記に56才とあるのみである.書紀紀年のままにとると,履中2年の御誕生となる, 先の宝算でその時允恭天皇は4 8 , 9才, 通常の数え方で24才, 5才 で不自然さはない. 雄略天皇の宝算については, 『文化史学』3 5号拙稿「上古天皇の長寿について」で論じた。 雄略天 皇は書紀によると允恭7年の御誕生 である. 書紀の紀年 で, 允恭崩御の時36才, それに安康治政3 年, 雄略治世23年を加えると,62才となる, この中允恭治世の年数は半年一年 であり, 安康, 雄略 治世のは通常年のであるから, 62才は元来の宝算ではない, 元来の宝算が生々 しさを失ってから, 半分が半年一年の年数, 他の半分が通常の年数だと言う事が分らなくなって, 当時の紀年より計算 して出されたものである. 古事紀の宝算は, かくして計算して出された宝算を通常年数と考えて,.

(5) . 栗. 原. 薫. 4才 である.この古事紀の 宝算は, その辛酉起点半年 一年の宝算として,62才を二倍して出された12 書紀の紀年より計算して出された事が明瞭な例 である. 宝算の場合は, 仁徳, 反正, 允恭, 安康, 雄略の各天皇は古事記にのみあり, 応神, 履中二天皇 のにのみ記紀共に記載がある. しかも応神, 仁徳二天皇のは 宝算ではなくて治政年数である. その 中反正, 允恭, 安康天皇のは比較材料 がない. その他の天皇のは, 古事記の宝算は, 書紀の宝算又 は修正紀年より書紀の紀年に至るいづれかの段階の紀年と結 びついて居る. つまり後述する様に応神期に記録が行われていた事, 又当然に帝紀にあるべき内容だと言う事を 考えると, 原帝紀或はその素材に宝算があったと考えるべきであろう. 唯誤った合理化によって紀 年が修正され, 又半年一年の紀年が通常紀年にま ぎれるにつれて, 宝算が紀年と合わなくなり, 紀 年に合せて修正されたり, そのまま残されたり, 又半ばは削りとられて しまい, 又不自然なので若 干という字に置かえられたりして現在の宝算になっ たのである. その様な宝算であるから, そのま ま比較すると著しく不一致なのである. 崩年についても, 後述する様応神期より記録が行われた事, 帝紀に当然あるべき内容だという事, 記紀の崩年は著しく 相違しているが, 修正紀年ま でさかのぼれば一致する事から, 原帝紀又はその 素材にあり, 誤った合理化により, 又半年一年の紀年が通常紀年と間違われて, 次第に記紀が一致 しなくなり, 又それぞれ原形から遠ざかっていったのである, 宝算は結局崩年に帰するのであるから, 記紀の宝算及び崩年の信 悪性は, 崩年の信悪性について 論ずればよいの である. 1年の清,462年 修正紀年は宋書の遣使記事と矛盾しない. 宋書の421年,425年の讃,443年,45 の世子興,478年の武は, さきの修正紀年の表の仁徳, 允恭, 安康, 雄略治世期間 内には入っていて 矛盾しない. 特に私の修正紀年 では世子興の世子が不自然でなくなる. 書紀紀年では462年は, 安 康天皇元年より九年目, 古事記允恭崩年甲午を通常干支とすると,462年は安康8年となっ て不自然 0年の倭国遣使 (宋書) が私の修正紀年 では安康元年に なって居りぅ である. 王名が出ていないが46 ら, 世子でよいのである.438年の珍のみは, 私の修正反 するものであるか 462年の受爵はそれに対 正崩年437年の翌年に なっ ている. 崩御前に出た使が, 崩御後に宋についたのだと解すると不自然 でなくなり, 反正天皇=珍でよいのである. 更に積極的な史料として, 書紀の呉との通交記事5例のことごとくが, 宋書と紀年の点で一致す るという事をあげたい. 書紀の呉との通交記事5例については, 前掲 『北海道教育大学紀要』32巻2号拙稿 「大化前代の 紀年. 1 1」 での べ て お い た の でそ れ を み て い た だき た い.. それは応神紀37年より41年に至る 阿知使主の遣使, 仁徳紀58年の呉, 高麗使の来貢, 雄略紀6 0年にいたる,又14年より16年に 至る二度の呉への遣使である. 年の呉国使来献,雄略紀8年より1 そ れ ぞれ 425 , 477 , 478 年 の 出 来 事 であ る. , 425 , 462. この5例は 完全に一致するが, 書紀の記事が漢史を腐したのであれば, その信悪性はその記事の その部分に限られる事になる. しかしそれらの記事は, 使節の名 が日本風で, 日本の地名 (身狭, 要求, 槍隈) , 日本風の称号(使主, 村主)が, 日本風の表記で記されている. 又宋書の記載は爵号の 授輿が中心で, 朝鮮半島での軍事上の権益をめぐっ ての外交がえがかれているだけであるが,.書紀に はその様な姿は片鱗も見えず, 経済的な利益の追求で終始している. 又通交開始の時期が, 漢史は 違いないが, 425年より 413 , 421で, 漢史を寓したのであれば, それらの遣使を大きく取上げるに 遣使が始っ た様に記している(高麗を案内役にしたのは最 初だったからである) . これらを綜合して よ ているという事になる 漢史とは別の国内史料に みると, 書紀の呉への遣使記事は, っ ..

(6) . 大化前代の紀年川. 無論この通交記事は, 宋書と紀年が完全に合うのであるから, 津田左右吉 氏が『日本古典の研究』 で言って居られる様 なでっ ちあげではないのである, 又隅田八幡鏡銘紀年発末が実は辛酉起 点半年一年の干支で, 通常干支に改めると壬申432年履中 崩年になる事を, 私は前掲 「大化前代の紀年」 でのべ, それが五世紀前半仁徳, 履中頃に記録が行 われていた証拠であり, 上述した修正紀年が紀年 で漢史と矛盾せず, 更に積極的に一致している事 を裏付け, 相まって修正紀年の信悪性を高めていると論 じた, 応神以後は記紀紀年は, 修正紀年に直せば史実として利用出来るのであるが, あきらかに説話よ り出ていると思われる記事や, 辛酉 起点半年一年の紀年か通常紀年か見分けが付かぬものは除かな ければならない. 後者の場合は紀年がいくつかの中の 一つで, どれだか確定出来ぬと言うだけ で, 記事は一応信 じてよいと思う. その上は, 各天皇の崩年を事実と考 えてよいであろう.(無論修正紀年に直 した上での事である) 又宝算以外の帝紀の紀事も事実と考えてよいであろう. 井上氏が蓋然性があるという 意味だとさ れたただし書きは外すべきであろう. それらは説話的記事では なく, 又紀年とは必ずしも関りがな い記事だからである. 宝算は紀年の誤っ た合理化の過程ででてきたと思われる数字が多いが, 書紀履中宝算七十 (半年 一年) は事実であり, たまたま生誕年が分る応神天皇と雄略天皇とはその修正崩年との差 プラス一 年の六四才, 四五才 (通常の数え方) が事実である. 井上氏は崩 年干支, 宝算以外について, ー々検討された. まず, 清, 興, 武の三人の中, 書紀在位年代と宋書の遺使時代が矛盾しているのは, 皇位の動揺 していたと考えられている安康のみ である事, 続柄は宋書と書紀とが一致している事, 糖と興とは 音で, 武は意味が一致している事から, その三人の王と書紀の允恭, 安康, 雄略とが同一人 である ことはほとん ど決定的とみなしてよい事とされた. 上述した如く私の修正紀年では, 興の遣使は安康元年となっ て, 決して宋書と矛盾せず, 皇位の 動揺との関係を考える 必要はないのである. 氏は更に珍, 讃について, 年代が合わないのは, 書紀が神功皇后を卑弥呼に当て, 故意に干支 二 運切上げ, その調整の為に応神より允恭に至る年代を故意に造作し, 延長してあるので, 宋書と年 代が一致しなくても見掛だけである事, 名 が珍は意味, 讃は音で反正, 仁徳又は履中と一致する事, 続柄だけは宋書には讃の弟が珍とあり, 書紀 では父子なので 讃を仁徳とすると致命的な欠陥である が, 讃を履中とするとその難が除かれるとさ れた. 神功皇后を卑弥呼に あて, 醜志の卑弥呼の年代を利用したと言う事は困難である. 私の修正紀年 2 )より允 00 28年である. 書紀の仲哀崩年庚辰( で仲哀崩年は331年, 允恭崩年は459年, その間1 一年 2 である であるから通常のに直すと1 7年 )ま 5 3年 これは半年 4 で2 恭崩年発巳(53 . 修正紀年 , と一年違っているが, これは書紀の誤っ た紀年修正の為である. 331年辛卯は「好太王碑」以辛卯年 来倭渡海破百残 □□□ 羅以為臣民の辛卯に当っ ていると考えられるので (後述) , 仲哀崩年つまり 三韓征伐の年は, 元来卑弥呼より百年後だっ たのであり, 半年一年の紀年でそれを正しく伝えてい たのだが, 後世半年 一年と通常の一年との区別 がつかなくなり, 半年一年の紀年を通常の紀年とみ た為に, 仲哀崩年が百年程さかのぼる事と なり, たまたま卑弥呼の年代と一致したに過 ぎない. 書 紀の編輯者が卑弥呼を神功皇后と同一人物と考えて, 干支二運くり上げたのではなくて, 魂志より の注記は, たまたま 一致しているから注記して置いたに過ぎないのだと思う. そう考えなくても, 私の修正紀年 で讃, 珍と仁徳, 反正との年代は合うのである. 又続柄については, 菅政友が 『漢籍 倭人考』下 で, 「弟珍立トアル珍ハ, 履中ノ御弟ニテ, 讃御子ナレ ド, 古クョリ履中ノ擬名 ヲ脱シタ.

(7) . 栗. 原. 薫. レ バ’ 史氏ハサカシラニ珍ヲ讃弟トハシタルナラン 」と説いた如く 元来史料に讃死子 匝匪日 立 , , , 区顛回 死弟珍立と でもあっ たのが, 宋書編輯者が, 子履中立 履中死をはぶいたのだと考えれば解 , 決がつく. 結論として氏 が仁徳又は履中以後の天皇は明らかに実在と認められるから 帝紀のそれ以後の部 , 分は架空の造作 ではなくて, より所があっ たとみ ざるを得ないとされたのは正しい のである 唯仁 . 徳又は履中以後ではなくて仁徳以後としなけ ればならない . ついで氏は帝紀 の内容を構成する各要素について考察された. 第一に口天皇の御名 について, 宋書倭王の名と帝紀の御名との間に意味又は音の上 で関係がある 事, 応神以前の荘重 で後世 風な帝紀の御名と, 実名的な以後の御名とが違い それが旧記の変化に , 相応 じていて, 応神以後が史実だろうと推定出来る事 又江田船山古墳 出土太刀銘の反正 天皇御名 , をあげて, 帝紀の御名を信じうるとされた 今稲荷山古墳鉄剣出土によ って 同鉄剣銘のワカタケ . , ル (雄略) から, 船山古墳のもワカタケルだという事になり, 天皇御名は反正については失われた が, 雄略について は 二資料 で確められることとなっ た . 第二にH続柄,(回皇妃, 皇子, 皇女について, 子を中心とすればH となり 親を中必とすれば回 , となり, 元来内容が同じであり, その一部は宋書によっ て確められる つまり宋書によると 済の . , 子に興と武とがあっ た事が分るが, それは帝紀にもある系譜であるという 事 又 隅 田 八 幡 鏡 の 意 , 柴沙加宮は, 鏡の作られた443年は允恭の御世 で, 允恭后にオシサカノオオナカツ嬢があった時な ので, 間接的ではあるが同妃の実在を示している事, 又正倉院文書の下総大嶋郷の戸籍に 61 , 8人の 中, 姻族に2 0の刑部があり, それがオシサカノオオナカツ媛の名代の実在をひいてはオシサカノオ オナカツ媛の実在を示しているとされた. 隅田八幡鏡の紀年は前述の如く4 32年で44 3年ではない が, この様に解釈しても即位前の允恭天皇が後の后のオシサカノオオナカ ツ媛とオシサカノ宮で暮 して居られた事を示していると思われるの で, 結局間接的に允恭皇后 オシサカノオオナカツ嬢の実 在を示しているの である. 第三に日の皇居と治天下について, 江田船山古墳太刀銘の榎宮 (反正多治比之柴垣宮) がそれを 実証していると説かれたが, 今や榎宮と考えられていた部分はワカタケル (雄略) という御名の- 部のワカに 当る と考え られる様 に なり, 代りの史料もみつからないので 日を実証する史料はな , いという 事になる. 又井上氏は, & )の中の陵墓について, 応神, 仁徳, 履中三陵の実在などで実証出来るとされたが , 今はそれら古墳の被葬者について疑問が出ていて, 一概にそうも言えなくなっ てきた , 大体先に述べた如く, 応神天皇以後, 厳密に言えば仁徳天皇以後は説話より出ている記事すべて と, 通常紀年か半年一年が判別出来ない記事の紀年を除くとおおむね信用出来るのである 帝紀的 . 部分には説話的要素 はないし,宝算と崩年とを除くと紀年的要素もないから,日や化 )の陵墓の如く裏 付けの史料がなくても, 他と同じく信悪性 があると言いうると思う . ここまで応神以後厳密には仁徳以後の帝紀の信悪性について論じてきたが, 井上光貞氏は更に帝 紀以外の部分の信悪性にふれられたので, それについても論じたい . 井上氏は帝紀の皇妃皇子皇女記事を利用して, 葛城 氏に つい て考 察さ れた 後 帝紀以外にも葛 , 城氏に ついて若干考察の手がかりがあるとして, 書紀の葛城ソツヒコ伝説が なにがしかの史実を , 反映しているらしいとされた. 書紀にはソツヒコ記事が四つあるが, その中神功紀六二年(壬午38 )分注の百済記に 「壬午年新 2 羅が反したの で日本は沙至比腕をして討たしめた しかるに沙至比脆は美女にまどい 新羅のため . , をはか って加羅を討った. そこで加羅国王の一族は人民をひきいて百溶に逃げこんだが 国王の- , 6.

(8) . 大化前代の紀年川. 族がこれを日本に訴えたの で,日本は木羅斤資を遣してその社機を復した.」とある. そして書紀は本 4 6年条に, 秦氏蹄化関連の記事があ 文でその沙至比脆を葛城ソツヒコに当てている, 又応神紀1 ,1 蹄化したこと ひきつれられてきた百廿県の人夫たちが 4年まず弓月君が単独 る. 1 , , 新羅人に拒ま れて加羅国にとどまっていると奏上したこと, 朝廷がこれにこたえて葛城ソツヒコを加羅にやりそ の人夫を召そうとしたこと, しかるにソツヒコは三年も帰って来なか ったので, 翌々年, 平群木菟 宿祢らを加羅にや ったこと,スクネ等によって目的は達せられ,ソツヒコも人夫らと共に日本へ帰っ て来たことなどが記されている. この応神14 ,16年のソツヒ コの動きが, 前記百磨記の沙至比脆のと 4 似ている, そこで井上氏は百潜記記事と応神1 ,16年記事とは, なんらかの意味で一つの源から出 た話であろうとし, 三つの仮説をたてられた. 井上氏は更に 『日本国家の起源』 で, この仮説の 三をとって, 応神紀のは日本に, 百渚記のは百 糖に伝っ た一つの 史実の異伝 であろうとされた, 6年は 井上氏はこれを推測されたのであるが, その二つの史料は紀 年が合うのである, 応神14 ,1 2年壬午の辛酉起点半年一年の干支である, つまり内容が 奨卯, 乙巳であっ て, その葵卯は, 神功6 一致しているのみならず紀年も一致しているのである. そして一方では沙至比脆等と百湾風人名表 記であり, 一方では葛城襲津彦などと日本風であり, 一方は百済中心の内容でこれだけでは秦氏腸 化に伴う事件だっ たという事が全く分らないのに対し, 一方 では日本中心の内容 である. ここに一 方は百湾側 で記録され, 一方は日本側 で記録された同一事件で, 事実であるという事になる, つま 6年記事は国内史料より出て史実を示しているという事になる. り応神紀14 ,1 さきに応神, 厳密に言えば仁徳以後の書紀記事は説話的なものを除き信用出来るとしたのは, 漢 史とそれに応ずる記紀記事のすべて (皆宋との通交記事) の紀年が一致している事などより出てい るのであるから, 書紀の帝紀以外の部分も, 説話を除いて原則的に事実とみてよい, 百済記壬午382 4年1 6年記事との紀年の一致は, それを更に裏付けると共に, その上限を382年 年記事と, 応神紀1 まで持って行ってよい事を示しているのである. 25年遣使に対応) 対応する海外史料 が違っ てはいるが, 応神紀, 仁徳紀の呉との通交記事(宋書4 二と応神紀の秦氏帰化に伴っておきた事件の記事一は,一連の国内史料だと思う.それは三例とも辛 酉起点半年一年の紀年を持ち, 干支はそのままで修正される事なく, そのまま或は一運六十年ずら して応神紀, 仁徳紀に入れられている, そして周辺に土木工事と外交に関する記事がかなりある. その三例もそうした記事である. 仁徳紀4年丙子, 課役を三年免ぜられたとあるのも, その様な記事の一つである. 丙子を辛酉起 点半年一年の干支とすると, 通常紀年は戊辰又は戊戎 である, 修正紀年 では応神崩年は 394 年 で, 仁徳4年丙子は戊戎398年となる. これは好太王碑によると, 倭 が 新 羅に 侵 入 した399年 己亥 の 前年 であっ て, 大規模の動員 の為に, 労働力 が足り なく な っ て課役 が免ぜ られた の であろう. 4 00年, 高句 麗 と 倭 が 戦 っ た が, 同時に燕が遼東に侵入し(晋書載記) , 高句麗は両面作戦が出来 なくなり, 倭に和を求めたのが仁徳十二年甲申の高麗貢献である, 甲申の通常紀年は壬寅, 壬申で, 02年, 新羅人を役しての土木工事は戦時伴 0 2年である. 仁徳11年発未, 通常紀年壬寅4 その壬寅4 02年, 新羅が倭に人 虜をつれて来たのであろう。 三国史記の401年, 高句麗が新羅に人質を返し,4 質未斯欣を出した. これらは皆関連した記事で, 書紀が好太王碑とよく一致している事を示してい 04 る, 好太王碑を更に見て行くと, (帯方郡の帰属に問題があって)4 ,407年と更に二回倭と高句麗 07年, 後燕が亡んで北燕に代った. それを潮時に朝鮮半島に が戦っ た. 晋書載記によると, その4 平和がおとづれた, 応神紀7年丙申, 諸韓人を役して韓人池を作らせたというのは, 辛酉起点半年 一年の紀年で六十年くり下げ, 仁徳2 0年丙申, 通常紀年に直して408年戊申にすべきなのである..

(9) . 栗. 原. 薫. 結局応神仁徳紀の辛酉起点半年一年の紀年の国内史料は好太王碑によっ ても, その信悪性が高めら れ て い る.. これらの国内史料を作っ た者として, 王仁や阿知使主の帰化がある. 王仁の帰化について井上光 貞氏は, 「例の百清記から出た神功紀には, H3 66年, 斯麻宿祢が従者を百済につかわすと, 肖古王 がこれを喜んで, 種々の珍宝をみせ, 近いうちに日本にこれを献上するといったと述べてある. ま た, 口369年には, 日本が新羅の不信をとがめて荒田別, 鹿我別らの遠征軍を新羅に送っ たと記し てある. また … 書記の応神15年の条には, 日阿直岐の良馬の貴上とならん で, 荒田別, 班別ら を百潜にや って王仁を召した, と記してあるのである, このゴ つの中で, 百済記を材料としたらし いのは◎と□とであって, 同は旧辞によったものらしい. したがってH, 口と日とは同列には扱い かねるのである, しかし, 0の荒田別, 鹿我別と◎の荒田別, 胆別 は同一人物らしいから,36 9年に 『日 つかわされた将軍たちが,王仁を百糖から召 したと -みてさしつかえなさそう である.」とされた.(. 本国家の起源』 ) 井上氏の推測は口の材料に百済記のみならず国内史料が含まれているとしなければ成立しな い. 神功46( ) 年より神功52( 36 6 37 2 )年にいたる書紀記事には, 百溝記のみならず国内史料も史料に使 われているに違いないと思う. 池内宏氏が『日本上代史の-研究』で, 47年の条の分註に, 「百清記 云-職麻那那加比脆 者,蓋是歎也」と千態長彦について言っ て居るのは, 百渚記によ って千態長彦と いう人名を創り出しておいて逆にその様な注を付したの であろうとされたのはうがち過 ぎと思う. 382年の国内史料(前述秦氏帰化に関するもの)があっ たの であるから, 更にそれより十何年古い国 内史料もあり得るのである. 殊に366年よりの 日清関係成立の由来は, 諸帰化系氏族帰化の由来で もあるのだから, その国内史料が作られ残っていた可能性は大きいと思う. 応神紀15 6の王仁帰 ,1 化の年は甲辰, 乙巳で, これを辛酉起点半年一年干支とすると, 通常干支は壬午, 奨未となり,382 , 3年がそれに当る. しかしそれが実は辛酉起点半年一年の紀年なのに. 通常紀年だと間違えられた ) ) となる. 阿直岐の良馬献上が3 のだとすると, その通常紀年は辛未 ( 371 3 72 71年, 王仁 , 壬申 ( 来朝が37 2年となる. この様に解すると369年荒田別, 新羅征伐, 37 0年, 荒田別帰国,371年, 王 仁を徴する為に荒田別百済に赴くという事になり, 接続がよくなる. 古事記では, まず照古王 (肖 古王) が, 阿知吉師に つけて良馬二匹を貢上し, つ づいて横刀, 大鏡, 更に王仁, 次に手人韓鍛二 人を貢上したとあるが, これは燕が亡んで北方より高句麗を抑えるものがなくなっ た370年の事態 に応じて百清が打った手の一つで, 別々に貢上されたの であろうが, そう時期は離れていなかっ た のではないかと思う. 王仁が372年に帰化したとすると, 彼又はその周辺の手で, 百薄の帰属, 王 仁の帰化, 文首の始祖の記録が作られ, そのもの又はそ れを素材とする国内史料が後に残 って書紀 に取り入れられた可能性は十分あると 思う. 無論366年より372年に至る書紀の記事は七支刀 が実 在する事によ って裏付けられているのであるが, それは百湾記を寓したので史実が述べられている というだけでなく, 国内史料も取り入れられていてそうなのだと思う. 書紀には秦氏の帰化を応神14年, 西文氏の帰化を応神. 16年, 東文氏の帰化を応神20年とほぼ同 時期の出来事としている. しかし東文氏祖阿知使主は42 5年の宋への使者になっているのであるか ら, 応神2 0年己酉, これを辛酉起点半年一年の紀年とした通常紀年の3 85年をそれに当てると,425 年 では使にたつにはあまりに年を取りすぎているという事になる. これは辛酉 起点半年一年の紀年 で60年, 通常紀年で30年くり下げた415年 だったに違いない. これは束文氏の手でその始祖帰化 の時期が秦氏の近くまでおし上げられたのである. 西文氏の祖王仁の方は3 72年壬申のが, 辛西起 点半年一年の紀年の葵未とされ, それが通常紀年と間違われて, 更に辛酉起点半年一年の紀年が求 められ, 応神16年乙巳となっ たについて自然に間違えたのかもしれぬが, 東文氏の始祖帰化の時期 8.

(10) . 大化前代の紀年川. をほぼ同時期にしたいという」ふ情が働いていたかもしれない . 阿知使主は先述宋への遣使記事に名 が出ているの であるから実在性がある , 彼等によって書かれた国内史料が36 6年より43 0年頃ま で5 0年間程の書紀記事の素材の一つに な っ て いる の であ る.. さきに帝紀以外より出た書紀紀事も説話的なものを除き一応信用 出来る (辛西起点半年一年の紀 年か通常紀年かを判別出来ないものは紀年を除く) としたのは, そのより所となっ た漢史と紀年が 一致する記事の一番古いものが4 25年 であるから, それ以後の書紀記事について言ったのである , ここにそれを3 66年ま でさかのぼらせてもよいと言う事になる. 井上氏は応神以後の記紀の信悪性については, むしろ肯定の方向で努力された . しかし神功以前については全く否定的である. 『日本国家の起源』 で, 津田左右吉氏の意見を受けて, 神功皇后以前の旧辞部分は 「それ以後の , . 旧辞部分に, 一貫した物語がなく, 雑多な短篇の集成をな し内容も遊楽的なものが多いのに対し , 以前のはそれぞれの巻が, おのおの単一の主題をテー マとしているばかりでなく 大和の平定 国 , , 土の統一, 地方官の任命, 外征と全体が一つのまとまりをなしている また応神以後が宮廷内部の . 生活をえがいているとすれば, ここでは国土統一を中心とした政治的な性質が濃厚である 」 とし , . 又帝紀部分についても 「神功はオキナガタラシヒメ, 仲哀 ( 1 4 ) はタラシナカ ツでヨ, 成務 ( ) 1 3 はワカタラシヒコ, 景行 ( タラワモヨ オシロワケであるが, 神功 仲哀 成務 または ) はオオタ 1 2 , , , これに景行を加えた四つは一つのグループをなしていて, タラシヒコ, タラシヒメを共通にしてい るのである. ところで, 階書には, 天皇をタラシヒコといい, 号をオオギミ (大王) といっ たと記 してある. 階書は七世紀初頭のことを伝えた本であるから, そのころ, 天皇のことを タラシヒコ , とよぶならわしがあったらしい. また付表で見ると, ちょう ど七世紀初頭にあたる好明 ( ) はオ 34 キナガタラシヒヒロヌカ, 皇極 ( )=膏明 ( 35 ) はアメトヨタカライカシヒタラシヒメ であること 37 がわかる. 景行から神功にいたる一群の名 が, 七世紀初 頭のころの天皇の名とタラシヒコ, タラシ ヒメを共通にしていること, とくに成務と仲哀からタラシヒコをのぞくと, ワカとかナカツとか普 通名詞だけが残って固有名詞を含んでいないこと, 神功のオキナガタラシヒメが好明のオキナガタ ラシヒヒロヌカとオキナガを共有していること, これは何を物語っている であろうか 帝紀が, 六世 , 紀のなかばに作られたころには, これらのグループの名はきまっていなかった またはまったくな , かった. そして七世紀もしばらくたって, これらの名 が作られたの ではないかという推測がおこ っ てくるの である,」 とされ, それを確める材料として, 津田左右吉氏が, 『日本古典の研究』 であげ られた応神以後継体ま では, ホム ダなど天皇の実名 が記され, 神功以前は美称が使われて全く別世 界であるという事をあげられた. 更に津田左右吉氏が単に大和の勇者だというだけの意味で大和 の物語作者によって案出されたと されたヤマトタケルと成務, 仲哀, 神功を皇室系譜より除いて, 代りに景行太子のイホキイリヒコ , その子のホムダマワカを入れるべきだとされた.「イオキはイワレヒコ, ミマキイリヒコ イ クメイ , リヒコと同じ性質の名 で, タラシヒコ系の名の中でひとつだけ特殊なの で, この名だけがもとの帝 紀にあっ たとみてひとつもおかしくない.」 という理由である. 結局原帝紀, 1 日辞にないものが, 景キ テー仲哀について, 七世紀頃作られたとさ れた. 津田左右吉氏が指摘され, 井上氏が継承された, 神功以前と応神以後 では, 旧辞に質的違いがあ り, 神功以前のは全体としてまとまりがあり, 又政治的意義のある内容だという事は いつかその , 様なものとして編輯された部分なのだと思う. そしてそれに応ずる帝紀に七世紀鰯明 瞥明とオキ , ナガ, タラシ, タラシヒメを共有している景行以下の天皇名 がつづいているが, それは井上氏のい.

(11) . 栗. 原. 薫. テー神功が七世紀頃の 好明, 蓉明のから借りて造作さ れたとする事も出来るが, 針 われる様に, 景ネ 明, 轡明が, 景行-神功の偉功にあやかろうとして, 同 じ称号を使われたとも解しうる, そして成務のワカタラシ, 仲哀のタラシナカツヒコの如き普通名詞のみ伝っているという事は, かえってその時代からそれ程離れていない頃であれば, オオタラシ (タラシは,.鎌足の足=タリを 荘重にした称号 だから, 大王位の意か) , 若王, 叔父王(ナカは兄弟の中, 長男でも末弟でもないと などといっ た表現で分るのであるから, それ位 いう意味で, ナカツギではあるまい) , オキナガ女王・ の頃作 られた物語と考える材料に なる, 隅田八幡鏡銘は上述した如く 履中崩御の年の辛酉 起点半年 一年の紀年がついているが, 大王年とも記している. 年は御代の意味があるから, 大王の御代であ る. 今よむと年代 を示すという点では全く無意味であるが, 当時はそれで分ったのである. つまり 三韓経営の由来をなす父母や祖父母, その先代の物語を, タラシナカツヒコ, ワカタラシ ヒコ, オオタラシヒコなどと親しげに, 日常的によびつつ構成したの であろう. イオキイリヒコは応神天皇の祖父の兄弟であるが, 皇位につかれず, 他の皇族と同格で, めだっ た事蹟もなかっ たので, 普通の呼び方になっ たと解し得る. ヤマトタケルも有名 な英雄として当時その呼称でよく分 ったからそのまま使われたのであろう, もし七世紀に作られたとすれば,も っと地名を適当に入れも っともらしくされなかったであろうか. この物語は三韓征伐をあまり遠 ざからざる頃作 られ, 口承され, いつか文献化され, 遂には旧辞 になって記紀にとりいれられたものである. 帝紀的部分の史料は, 文字が確実に 吏われは じめた応神期には作 られたの であろう, さきにのべ た如く大王, 若王, 叔父王といっ た書方がされているのは, それら諸天皇と身近かの 天皇治世下に 作られた為に違いない. この方は秦氏渡来の記録などと共に, 応神期に文書化されていたであろう. それに伴い三韓征伐 の事蹟も簡単に書残されていたであろう. その記録が正しかっ たと言う事は,古事記仲哀崩年 干支壬戎を辛酉起点半年一年の干支とみると, 通常紀年 では辛卯と なるが, その辛卯が例の 好太王碑に以辛卯年来倭 渡海破百残□□□羅云々の辛 卯に当ると見うる ので, 仲哀及びそれをややさかのぼっ た所ま では裏付けられる.(好太王碑を辛卵 よりこのかた云々とよむと, 辛卯年に発端があって, 長い経過の間, 百済を破り云々と なって, こ の辛卯を391年 でなく331年として 意味が通る様になる, 池内宏氏は 『日本上代史の 一研究』 で, 応神紀三年 (壬辰) の条に 「是歳, 百済辰斯王立之, 失-礼於貴国- 故遣-紀角宿祢・羽田矢代宿祢, 石川宿祢, 木菟宿祢 , 噴-譲其充 礼状 , 由 是百清国殺-辰斯 以謝之, 紀角宿祢等, 便立-阿花-為 王而蹄」 とあるのを 「干支が三国史記の阿華王即位の年の干支と全く 一致し ~ 且つ例の 「貴国」 と いう文宇があるか ら, 書紀のこの記事は百清記に本づいたものにちがいない. 辰斯王の無礼という のは, それが何事を意味するのであるか, 明らかに知る由もない. しかし我国 が兵を半島に出して 百満を威圧し, 其の国の王位の廃 立にさへ干渉したことがあっ たとすれば, それは碑文に「倭以-辛 卯年 来渡 海」 云々 と記されている事実に相当するものであるらしく, 恐らく碑文の辛卯の役は其 の年から翌年壬辰に 跨っ た事件 であっ たのであろう.」とされた. しかし拙稿『北海道教育大学紀要』 1 1 」で述べた如く百清記, 三国史記の百済王暦は十年くり上っている. 33巻1号「大化前代の紀年 1 又三国史記の百済本紀 及び百済記の好太王碑関係記事も十年くり上っている. 三国史記百溝本紀, 6年であるが, これを十年くり下げると396年となる. 百清 辰斯王二年は, 三国史記の紀年 では38 本紀に, この年 八月, 高句麗来侵とあるが, もしこの年が396年なら好太王碑文と合うのである. 碑文ではこの年高句麗ははじめて南下し百糖を破り服属させている.辰斯王5年秋9月ゞ王遣 兵侵- 掠高句麗南部 .(三国史記)は, 紀年を十年くり下げると399年となる. 好太王碑文では, 倭が新羅 10.

(12) . 大化前代の紀年川. を攻略し, 百清が我国にねがえっ た年 であるから, 百漬が高句麗の南部を侵す事はあり得る事 であ る. 辰斯王6年9月, 王命 達率員嘉 伐 高句麗 , 抜 都坤城 , 虜 得二百人 (三国史記)とある - - - . - のは, 十年くり下げると,400年 で, 高句麗が新羅救援に南下し倭と戦っ たが 腹背に敵を受ける様 , になった年 である. 燕に背後を突かれた後の出来事として理解出来る 辰斯王8年 高句麗談徳(好 , . 太王)帥一兵四万 , 来攻 北部 . 陥 石 覗等十余城 王聞 談徳能用 兵 不 得 出拒 一 . ;. 一 - - 漢水北諸部 ニ 落多没蔦. 冬1 0月. 高句麗攻抜-関弥城 . 王 田 於狗原 経 旬不 返.十一月藁 於狗原行宮 (三国 - - - - 史記) 辰斯王8年は, 十年くり下げると, 402年となる, この年高句麗と倭との間に一応平和が成 立した様 であるが, 高句麗は漢江の北全部と, 南の関弥城を攻略した その年我国と高句麗との間 . 一応平和が 成立したについて 改めて今までの百清王辰斯の態度がせめられて 殺されるはめにな , っ , たのであろう. 前述した如く新羅は人質を出したのである この年殺された辰斯王の代りに阿花王 . が立った. その二年春正月, 拝 虞武 , 為 左将 委以 兵馬事 秋八月 王謂 武日 関弥城者 我 . J - . , 一 二 一 二 北郡之襟要也. 今為-高句麗所;有, 此寡人之所 痛惜 , 而卿之所 宜 用 心而雪 恥 遂謀 将兵 - ; , - 二 二 万 , 伐-高句麗南都 , 武目先 土卒 以冒 矢石 意 復 石覗等五城 , 先園 関弥城 . 麗人嬰城固 . 一 二 一 二 一 二 二 守. 武以-糧道不と継, 引而蹄,(三国史記) 阿花王が関弥城にそれだけ執着するのは 漢水が4 02年 , にきめられた国境線で, 高句麗はそれを一寸侵したのだっ たかもしれない この年は十年くりさげ . て4 0 3年である. 阿華 (花) 王三年, 秋七月, 奥 高句麗 , 戦 於水谷城下 敗績 (三国史記) この - - 一 . 年は十年くりさげて 404年, 倭が帯方に侵入した年である 百清も倭と共に戦っ たのであろう 水 . . 谷城は黄海道にあっ て, 漢水の大分北である, 阿華(花)王四年秋八月 王命 左将員武等 , , 伐一高 一 句麗 . 麗王談徳親帥 兵七千 , 陣 於損水之上 拒戦 我軍大敗 死者八千人 冬十一月 王欲 報 - . - . , , 二 煩水之役 , 親帥-七千人 過-漢水 . 次 於青木嶺下 . 会 大雪 , 土卒多凍死 廻 軍至 漢山城 - . - 一 , - 一 労-軍士 .(三国史記) この年は十年くり下げて405年となる 好太王碑文には何も無いが40 4年の . 一 戦がつづいていたのであろう, ここで百漬本紀の高句麗との戦闘記事はとだえ 阿華 (花) 六年 , , 十年くり下げて40 7年, 王, 倭国と好を結ぶとあり, 以後六十年たって, 蓋函王十五年 , ( 469 ) ,将 を遺して高句麗南部を侵すとあるま で, その平和がつ づく のである その4 07年は, 好太王碑によ , ると, 倭と高句麗との最後の戦が行われた年 であるが, 又応神紀八年(丁酉 干支二運くり下げ39 ) 7 , の注の百済記云, 阿花王立禿 礼 於貴国 . 故奪 我枕弥多礼, 及覗南 支侵 谷那 東韓之地 是 , , , , 二 二 以, 遣-王子直支千天朝 , 以鰭 先王之好 也. は十年くりさげると407年となり 先述した如く そ - , 0 の 年4 7年 後 燕 が亡 び北燕に 代 っ たの を潮 時に, 倭 と 高 句 麗 が和 を 結 び, 長 い平 和 がお と ず れる事になっ たので, 又々百糖のそれ迄の 必ずしも忠実でない行動を責めて領土の一部を奪い 直 , 支を人質にとっ たのである. もし百清記の紀年通りに3 97年とすると, それは396年高句麗が百清 を征服し,399年我国が半島に出兵する間の年で, 領土をとっ たり 人質をとっ たりすることは到底 , 不可能 であっ た, やはりこれは十年くり 下げた407年の出来事なのである 百済本紀及び百溝記の . 好太王碑関係の紀年は, そのままだと3 86年より395年ま で高句麗と戦い, 以後は 7 0年もつづいた 平和になっている. しかるに好太王碑 では396年より407年まで高句麗と倭及び百済との戦がつづ き,以後60年に及んだ平和の時代にはいるのである.好太王碑の方が正しいのは明らかであるから , 百清本紀及び百済記の好太王碑関連記事の紀年は十年くり下げねばならない するとさきに池内宏 . 氏が好太王碑の辛卯倭遠征の辛卯を391年とし,応神紀三年の百済記より出たと思われる壬辰( ) 9 2 3 , 倭が辰斯王の無礼をせめたので, 百済は辰斯王を殺し, 倭は阿花を王と したという記事と 辛卯の , 遠征とを結びつけて考えられた 考え方は, なりたたなくなる したがってこの辛卯は331年 でもよ . いと言う事になる. 猶高句麗本紀の好太王碑関連記事の前半は百清本紀を本に書いてあって 紀年 , は十年くり上っている. 後半は晋書をうつしたものでこちらはそのままの紀年 でよい つまり独自 , 11.

(13) . 栗. 原. 薫. の価値がない.(新羅本紀の方は概 して信用出来ない.) それは又先の 旧辞的部分が, 物語と しての制約 はあ るに して も, 事実とみてよいという事にな る.. 結局井上氏が積極的に否定された神功, 仲哀の頃の記紀は, 帝紀的部分と, 旧辞から物語的制約 を除いたものは信用出 来るの ではないかと 思う. 日辞が欽明朝の中頃作られたのであろうとされたが, それは一つの推測に 津田氏は最初の帝 紀, 1 す ぎない, 史料による裏付けはないのである. 1 日辞帝紀そのものにつ いては, 古事記の構成をもとに, 津田氏の推測に従うのがよいと思うが, その史料と なっ た文献, 口承については, 津田氏の推測に反し, 応神, 仁徳期には, それより以前 の時代を対象と したものを含め, 又帝紀的 なもののみならず, 帝紀的なもの以外の記録,口承が種々 作られ, 後に残されて記紀の材料となった事は間違いない, 井上氏の 「帝紀からみた葛城氏」 のむすびで, 氏は 「六世紀の なかば, 口伝にもとづいて帝紀が 作 られた時, 当時の宮廷人の記憶には限界があっ たと思っている. その限界は, 皇室でいえば応神 であり, 氏族 でいえば, これと同 時代の葛城ソツヒコであり, この 二人はたれこめた霧の中から忽 然とあらわれてくるのである.」とされた. 私はその六世紀の中頃が, 実は四世紀の後半であるとい う事を述べ たのである,. 紀年論上よりみた邪馬台国 邪馬台国を九州とみると, 邪馬台国と記紀との関りはそれ程考慮しなくてもよくなる, 近畿説を とる時は, 記紀に邪馬台国が如何 なる形で出ているかという事を問題にしない訳にはいかない. 内 藤湖南氏は 「卑弥呼考」 で, 女王国が狗奴国と相攻撃したのを, 景行天皇の初年, 態襲征伐の事に 該当すると断ぜられた. 以下諸説が出たが, 魂志の地名, 人名 が何に該当するかという観点で論ぜ ら れ た。. 私は記紀の信愚性を高めるのに, 醜志の倭人伝が役立たないだろうかという観点で問題を取上げ た い.. ,仲哀以前の古事記崩年干支は成務の乙卵と, 崇神の戊寅の二つがあるが, それを裏付ける材料が, 8 8年 である. 16 8才 であるが, 書紀の崇神治政は6 記紀の宝算にある. 古事記の崇神天皇宝算は16 00才引いて53年を垂仁 才を治政年数に100才足したものと考え,垂仁天皇古事記宝算153才から1 己卯より5 3年とると辛未となる そして古事記崇神崩年干支戊寅の翌年 天皇治政年数とする. , これ 00才 37才 である. これより1 は住吉大社神代記の垂仁崩年干支である. ・景行 天皇の古事記宝算は1 07才より10 0才引いた7年を成務天 引いた3 7年を景行天皇治政年数とし,更に書紀成務天皇宝算1 皇治政年数とし, 合せて44年を辛未の翌年壬申よりととる と古事記成務崩年干支乙卯となる. つま り古事記崩年干支の成務, 崇神天皇の分は, 記紀宝算の 一 つと一致している. 又住吉大社神代記垂 仁崩年干支と合うのである. そこでこれら干支を辛酉起点半年 一年の干支とみると, 崇神崩年戊寅は 通常紀年に直すと 己亥 279年となる.これよりさきの崇神治世年数68年を通常の数え方に直した34年をさかのぼると,崇 46年となる. 45年となる. 崇神元年は2 神天皇の前の開化天皇の崩年は2 47年に死ん でいる. この頃の書紀の紀年は半年一年の数え方である 所で魂志倭人伝の卑弥呼は2 から, 2 47年は, 書紀の垂神3, 4年となる. 12.

(14) . 大化前代の紀年川 えのやまひ. 卑弥呼死亡の翌年の2 48年は, 書紀の5, 6年となるが, その5年には, 国内に疫 病 多く して, なかばにす さすら そむ 民死亡れる者有りて, 且 大 半ぎなむとすとあり, 翌6年には, 「百姓流離へぬ, 或は背くもの有り. おそ のみまつ 其の勢, 徳を以て治むること難し, 是を以て, 農に興き夕までに傷りて, 神誠に請罪る. 是より先 いはひまつ. しかう. に, 天照大神, 倭大国魂, この神を, 天皇の大殿の内に 並 察る、 然して其の神の勢を畏りて, 共に も 住みたまふに安からず, 故, 天照大神を以ちては, 豊鍬入姫命に託けまつりて, 倭の笠縫邑に祭る, ひもろさ. 偽りて磯堅城に神簸を立つ. 亦, 日本大国魂神を以ては, 淳名 城入姫命に託けて祭らしむ.」とある. 翌々7年には, 大田田根子命をさがしてきて大物主神を祭らしめ, 又長尾市に倭大国魂を祭らしめ, 又別に八十万の群神を祭っ た所, 疫病が始めて息んで, 国内が漸く しづまっ たとある. これは古事記には, 紀年はなく, この天皇の御代に疫病多に起ったが, 意富多々 泥古をさがし出 かみのけ. してきて, 大物主神を祭らしめた所, 役気悉に息みて, 国家たひらぎきとのみある. 古語拾遺には, 「磯城瑞垣朝にいたりて, 漸に神威を畏りて, 同殿, 安からず. 故に更に, 鳶部氏 いた をして, 石凝姥神喬, 天目一箇神喬二氏を率ゐて, 更に鏡を鋳 … ・偽倭笠縫邑に就りて, 磯城 ま た ひもろぎ 神簸を立てて, 天照大神及草薙 細を遷し奉りて, 皇女豊鍬入姫命をして驚き奉らしめたまひき.・・ 又六年, 八十万群神を祭りたまひき. 偽れ天社, 国社, 及神地, 神戸を定めたまひき.」 とある. 八十万群神を祭っ た紀年が書紀と古語拾遺と では-年違い, 古話拾遺では6年である. 古語拾遺 のが正 しいとすると, 天照大神を皇居より 外に移されたのは5年の事という事になる. ) … 卑弥呼以って死す. 大いに 家を作る. 径百余歩, 葬 24 7 ここに醜志をみると, 「正始八年 ( に拘ずる者奴蝉百余人, 更めて男王を立つるに, 国中服さず, 更めて相訣殺す, 当時千余人を殺す. 復, 卑弥呼の宗女台奥を立つ. 年十三, 王と為りて, 国中遂に定る,」 とある. 2 45年開化天皇崩御後, 皇子の崇神天皇があとをつがれたが, 卑弥呼が実権を持っていた. 卑弥呼 が2 4 7年死ん だ後, 崇神天皇が実権を握られたが, 国民は不満で, たまたま疫病がはや っ たという 事も加って, 百姓流離し, 反乱をおこす者もあった. そこで皇女の豊鍬,入姫命に卑弥呼の様に天照 大神を祭らせ, 一方 では今まで皇居で, 天皇と同じ建物の中で, 天照大神を祭って居られたのを, 皇居外に移し, いわゆる祭政分離を行われ, 又八十万群神を祭られたら, 国内が治るに至・っ たと解 すれば, 国内三書と醜志とがうまく合うの である. 今少し説明すると開化天皇の皇后は伊賀迦色許費命 (古事記, 書紀では伊香色謎命) で, 穂積臣 等の祖内色許男命の娘で, まず孝元天皇の妃となり, ついで孝元天皇と叔母内色許費命との間に 生 れられた崇神天皇の皇后となられたのである, 崇神紀には崇神天皇の母后を物部遠祖大綜麻杵の娘 とある. 又穂積氏は新撰姓氏録によると, 石上同祖, 神鏡速日命の六世の孫, 伊香色雄命の男, 大 水口宿祢の後である, つまり石上神 社を祭っ た物部氏である, その伊香色雄命は,伊香色謎命と,雄と謎が違うだけ で同名 である.そして書紀の,崇神7年に,物 部連の祖伊香色雄をして,神班物者とせんとし, トってみるとよかったので, 物部八十手を指揮して, 大物主神を祭る物を作らせしめられたともある, 古事記にも伊迦賀色許男命に仰せて, 天之八十昆 羅珂を作り, 天神, 地紙 の社を定め奉りたまひきとある. 上代, 兄弟姉妹, 夫婦の男女一対が, 同名を名乗り(彦, 姫などがついて性別が分る) , 女は祭記, 男は政治を行っ ていたと思われる例が間々あるので, この場合も似た関係を持つ兄弟姉妹だったの で1まある ま い か.. 伊香色雄は崇神7年神班物者となっ たが, 皇后伊香色謎命在世中にも, そんな仕事, 或はそれ以 上の仕事をしていたのであろう. それはつまり魂志の 「男弟ありて, 国を佐け治む」 に該当するの ではあるまいか. 天孫本紀には伊香色雄は, 伊香色謎の弟で, 開化の御代に大臣だっ たとある. 又醜志には, 夫層なしとあるが, これはすでに醜使が来た頃には, 開化天皇は別の宮でめだたぬ 13.

(15) . 栗. 原. 薫. 様に暮して居られたので, 夫塔なしという事になってしまっ たのではあるま いか は じめ伊香色謎 , は天照大神の託官を天皇へお伝へする役であっ たが, あまりに託宣が多いの で段々うまく行かなく なっ たのであろう. 国民は卑弥呼の方についたのであろう. 卑弥呼死後, 崇神天皇は卑弥呼時代のやり方を中止しようとされたが国民は不満を持っ た 六年 , . 豊鍬入姫に皇居の外 で天照大神を祭らせられた時,又前通りになると思って国内は平いだのである. しかし豊鍬入姫には, その様な人柄であってほとんど託宣がなか ったので, かえってうまく祭政が 分離してしまっ たのである. 豊鍬入姫は, 伊香色謎命 (卑弥呼) の娘ではなかったが, 彼女と開化天皇との間に生れた男子で 皇統を 継いだ崇神天皇と皇后御間城姫との間に生れた人であるから, 宗女といってよいであろう . 又台典は豊鍬入姫命の豊であるとみる事が出来る. 又開化天皇の御名は, 古事記で, 若倭根子日子昆昆命, 書紀 で稚日本根子彦大日々 天皇であるが , 修飾的部分を 除くと, 昆々又は日々 である. 昆々の最初の昆は連濁 でにごっ たので 単独ではひび , であろう, 卑弥呼の弥はびと音が通じている, さびしいはさみしいとなるが如く である 或はこれ . はこれで対になっ ているのかもしれない. 崇神天皇は御間城入彦, 皇后は御間城姫である 開化天 . 皇の父帝, 孝元天皇の皇后の内色許費命は, 同名の内色許男命の妹 である . さて開化天皇皇后伊香色謎命が卑弥呼だとすると, 第一に, 邪馬台国は九州 でなく, 近畿という事に なる. 第二に, 卑弥呼は 男王と全く別に共立されたのではなく, 男王の王権は何らかの形 でのこってい て, 卑弥呼の前後に男系 でつづいていた事になる. 第三に, したがって邪馬台国を部族連合とみるのは, やや低くみすぎているという事になる . ひるがえって, 魂志の邪馬台国に ついてみると, その領域は既に水田耕作が行わ れていた 水田 . 耕作の上に成立す るという点では奈良時代と同じなのである. そして租賦があるのであるから, 戸口に ついての数字を国家は知っていたに違いない . 又国内の距離や方角 についても知 っていたであろう. 又国々に市があり, 大倭が監していたので , 商人がいたのであるが, 商人も又自分の商圏についての大体の人口, 通商路の距離, 方角を知って いたであろう, 国家や商人から聞いた知識はほぼ確かなもの であっ たろう そこで醜志の戸口十五 , 万戸余はほぼ正確だったと言えよう. 奈良時代正倉院文書によると一戸二十人程である 醜志にも . 其俗国大人皆四五婦, 下戸或二三婦とあるのは, 一戸に四, 五世帯, 下戸には二 三世帯含まれて , いるという事 で, 奈良時代の一戸二十人が, 醜志の頃もそうだっ たろうという事を示している . すると醜志の頃, 邪馬台国及び周辺諸国は三百万の人口があった事になる (魂志の邪馬台国につぎ . 国名 のみ記された二十程の国々は, 戸口, 方角, 距離が記されていないが それは邪馬台国までと , は別の史料を併記してあるので, 魂志の頃は対馬よりはじまり邪馬台で終る八 ヶ国が倭国にある国 のすべてだったのではないかと思う. 奴がもう一度出てくるのもその為であろう ) . 又租賦があり, 軍事上の大倉庫 である邸閣があ・ り, 裁判と刑罰があり, 宗族組織もあった. 男系 の世襲王国が成立していたとみてよ いのではないかと思う. さてそれならばなぜ方角 が南になっ ているのかという問題が残る これはかつて私が昭和41年 . , 『北海道教育大学紀要』1 7巻1号 「邪馬台国の方位」 で発表した事 であるが, 我国では, にしとい うのは西であるが, 又西風の事でもある. しかしにしは瀬戸内 では西から吹く が, 沖縄 では北から 吹く, そこ で現在も琉球ではにしというと北の方位の事である 瀬戸内風ににし (西風) の方角と . いう意味で, ニシヘニシヘと言ったのを, 今では沖縄にのみ残っているが, 昔は九州にもあっ たと 思われる, 同じ様に大陸からの季節風 ではあるが, 北から吹くにしに応 じて北を意味するにしに聞 14.

(16) . 大化前代の紀年川. ヒヘと聞いて帰っ た, 或は通訳の聞違えを, 本当と思って帰り, 邪馬台国は奴国あ きちがえ, 北ヘコ たりより南下した所にあると言う風の記事を作ってしまっ たのであろう, かく考えると, 開化天皇頃の大和朝廷を邪馬台国に当ててよいのである. すると記紀の紀年が醜志とほぼ合うので, 崇神, 垂仁頃の帝紀, 旧事も, もう少し信用してよい のではないかと思う. 応神・仁徳期よりは弱い意味においてではあるが, この時期にも, 国内で文献が作られ, 若干は 後に残って, 記紀, 古語拾遺の記事になっているのではないかと思う。 (本 学 教 授. 旭 川 分 校). 15.

(17)

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継続企業の前提に関する注記に記載されているとおり、会社は、×年4月1日から×年3月 31

②藤橋 40 は中位段丘面(約 12~13 万年前) の下に堆積していることから約 13 万年前 の火山灰. ③したがって、藤橋

2016 年度から 2020 年度までの5年間とする。また、2050 年を見据えた 2030 年の ビジョンを示すものである。... 第1章

王宮にはおよそ 16 もの建物があり、その建設年代も 13 世紀から 20 世紀までとさまざまであるが、その設計 者にはオーストリアのバロック建築を代表するヒンデブ