大化前代の紀年
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(2) . 大化前代の紀年. 栗. 原. 薫. 『継体紀』 より 『欽明紀』 に至る紀年に問題とすべき点があるのは, 『書紀』 の編纂者がつとに気. 付いていた事である. そこ では三 ヶ所にわたって別の紀年のある事を注記している . 江戸時代に入ると, この事が注目されはじめた. 明治時代になると, 吉田東伍氏, 平子鐸嶺氏が 取り上げ, 昭和の前半には喜田貞吉氏等が, 戦後には林屋辰三郎氏等がそれぞれ学説を発表された . 最近も川口勝康氏等がそれぞれの研究を発表された. そして最も新しく角林文雄氏が『武烈 -- 欽 明期の再検討』 ( 『史学雑誌』88編11号) を書かれた. それらの研究はおしなべて, 角林氏がその研究ノートの末尾に記されている様に, 推論にわたる 点が多い仮説に過ぎない.. 角 林氏の研究ノートでは, 『書紀』編者は手元に二つの文献を持って居り, 両者では継体の治世 で は約1 3年の差があったとされるが, その史料は, 玉穂に都をうつしたという 『継体紀』記事に関す. るものと, 『継体紀』7年 --1 0年と23年とに同じ記事がダブって出ている所があり, 約1 0年差 があるという事のみ である. これだけ では史料が不足といわざるを得ない. 一方 が約1 3年, 一方 が 約10年では漠然としすぎている.二つの文献に紀年に差があるならどこでも同じ差があるはず であ. る, 二つの史料の差は一致していなければならない. 角 林氏のも推論にわたる点の多い仮説 である . 角林氏のを含め今までしばしば取り上げられた此の時期の紀年についての問題 は, 以下私の述べ. る方法で確実に解決出来る. 記紀等の継体 -- 敏達期の同一記事についての二つの紀年(9例)の, 一方は通常の紀年, 一方 は通常の紀年の辛酉の年の前半を辛西とし, 半年を一年として次々 に計算した紀年であると仮定す. る. 双方の関係は明瞭で, 一方から一方を計算して出す事が出来る. そこ でまず同一記 事である事 を確認し, 第二に二つの紀年が先の計算で同一の年をさしている事を確認する . かかる確認の出来る記事 が多数あれば, その様な事は偶然とは考えられない 殊に半年一年の方 . のみがあって, それに対応する紀年が消えている場合は, 或はその逆の場合は通常検出出来ぬとい. う事を考えるとなお更である. また川口勝康氏が 隣己年論と 「辛亥の変」 について』 ( 『日本古代の社会と経済上巻』 所収) で, 友田吉之助説を批判して, 「『帝説』 や 『縁起』の他の干支がすべて現存干支法と一致しているのに, 戊 午の みを何 故に異種 の干支紀年法による所伝とみなしうるのか. 御都合主義という他はないで あろう.」とされたが, 私は著者が気付かずに異種の干支紀年法による紀年を入れる事はあり得ると 思う. 断片的な不完全な史料しかなかっ た 『日本書紀』 等においては, その様な事があっても不自然で.
(3) . 栗. 原. 薫. は な い・. 『継体紀』『欽明紀』 に細註により異種の紀年 を記した所が三 ヶ所もあるのは, 『書紀』 の編纂者 が矛盾する紀年の取捨選択に迷っ た証拠である. その様な状況では異種の紀年がまぎれこんでも仕. 方がない. そこ で先にのべた手続きをへて, 五六例も集める事が出来れば, 辛西起 点半年一年の紀年が実在 した事を言いうると思う. 『国史と国語』 2 1巻2号) で, 継体 -- 私はかつて昭和54年3月 『半年 一年辛酋起 点の紀年』 ( 敏達期の確実な実例6, 不確実な要素のある実例2によ って, 半年一年辛酉起点の紀年法が存在す る事を説いた. 今新たにそれに准ずるかつ不確実な要素のある史料を得て追加 し稿を改めて発表す る.. ついで仲哀 -- 雄略間に, 辛酉起点半年一年の紀年の実例3, 又辛西起点半年一年の紀年を通常 の紀年と誤解して, その 一年を二年とした紀年の実例2をあげて, その時期にも辛酉起点半年一年 の干支が存在する事を説き たい.. ついでそれらの論証から引き出せるものについて述べた い (抄) . 『史学雑誌』 第16篇第6号, 第7号) で, 平子鐸嶺氏が 『継体以下 三皇紀の錯簡を糟ず』 ( .継体天 皇丁未崩御を基礎にくみたてられた所説が, その丁未が半年一年の紀年 である事が明瞭になって成. 立しなくなるなどの事 である.. 実例は (一) , (二) ……と分ち, 更にそれぞれの①で通常の紀年の史料, ②で辛酉起点半年一年 の紀年の 史料を記し, 史料が多い時はa・ b・c……と分っ た. ③は①②の説明 である.. 継体 -- 敏達期の辛酉起点半年一年の紀年について論ずる. 上述の9例は次の通り である.. (一) ① 『継体紀』廿三年春三月. 百湾王謂 下形劇国守穂積押山臣 日. ……請, 以 加羅多沙 津 , 為 臣朝貢津路 , 是以, 押山臣為請聞奏. ◎是月, 遺 物部伊勢連父根. 吉士老等 . 以 津賜 百糖王 . 於 是. 加羅王謂 勅使 云. 此津, 従 置 官家 以来. 為 臣朝貴津渉 . 安得 轍改賜 隣国 . 違 元所 封限地 . 勅使父根等, 因 斯, 難 以面賜 . 却 還大嶋 . 別遣 録史 , 果賜 扶余 . 由 是,. 加羅結 像新羅 . 生 怨日本 . ……◎是月. 遺 近江毛野臣 , 使 子安羅 . 勅勧 新羅 , 更建…… 百済遣 将軍君ヂ貴. 麻那甲背. 麻歯等 , 往 赴安羅 . 式聴 詔勅 . …… く将軍 . 副 穂積臣押山 . 貢 五 ② a 『継体紀』七年夏六月, 百溝遣 姐弥文貴将軍. 洲利即方. 経博士段楊水 . 別奏云. 伴阪国略 奪臣国己汝之地 . 伏請. 天恩判還 本罵 . ……○冬十一月辛亥 朔乙卯.於 朝庭 引 列百渚姐ホ文貴将軍.斯羅枚得至.安羅己笑貰巴委佐.伴波靴殿 築及竹枚至等 .. 奉 宣恩勅 . 以 己波帯沙 賜 百溝国 . b 『継体紀』 九年春二月甲戎朔丁丑. 百溝使者文貴将軍等請 罷. 偽勅副 物部連 遣 罷婦 之. ◎是月. 到 千沙都嶋- 伝聞. 伴肢人懐 恨街 毒. 特 強縦 虐. 故物部連率 舟師五百 . 直詣 帯沙. 江 . 文貴将軍目 新羅 去. ○夏四月. 物部連於 帯沙江 停往六日. 伴肢興 師往伐. 逼 脱衣裳 劫 堆幕 . 物部連等怖畏逃遁. 僅存 身命 泊 紋慕羅 . (枚慕羅嶋名也.) 掠所 費. 憲焼 - c 隣懲体紀』 十年夏五月, 百済遣 前部木易不麻甲背 . 迎 労物部連等於 己枚 . 而引導入 国..
(4) . 大化前代の紀年. ③ ①の 二十三年記事は追加分を含めて二十二年及び二十一年の記事をまとめて書いているの であ る, それが②の七年より十年までの記事に対応する. 別表により通常の紀年の二十一年, 二十二年. は半年一 年辛酉起点の紀年の七年になるので合う.. この①②の重出記事について, 吉田東伍氏は 『日韓古史断』 で 「嘗 『継体紀』 を熱看するに其の 二十七年間, 重複あり, 添加あり, 実紀十年に満たす.」 とし, 三段 の表を作って, 『七年紀』 『九 ,. 年紀』 , 『十年紀』 と 『二十三年紀』 とを対照させておられる. ついでこの重出記事を積極的に取り上げたのがさきにあげた平子鐸嶺氏 『継体以下三皇紀の錯簡 を繕ず』 である, 此は仏教公伝の紀年について考え, 継体より欽明に至る 隣己 』 に, 年次の錯簡あ. ら ざるやを考え, ついで 『 糸 眺体紀』 のこの問題について 「その 『十年紀』 より直ちに 『廿一年紀』 に至りて, 中間ただ年次のみにして紀事の開けたるは, 紀年の錯簡より生 じたるもの」 とした . (二) ① 『継体紀』 二十五年冬十二月丙申朔庚子条注 或本云. 天皇廿八年歳次甲寅崩. ② 『古事記』 下巻 (継体) 天皇…… (注) 丁未年四月九日崩.. ③ 事件は継体天皇崩御 で一致す る. 別表により, ①を通常の紀年, ②を辛酉起点半年一年の紀 年とする時一致する. (三) ①. a. 『欽明紀』 廿三年八月条注. 陽香於比津留都 .. 一本云. 十一年大伴狭手彦連共 百渚国 駈 却高麗王 一. b. 『欽明紀』 十二年◎是歳. 百済聖明王親率 衆及二国兵 (二国謂 新羅, 任那 也.) 往伐 高 一 麗 . 獲 漢城之地 . 又進 軍討 平壌 . 凡六郡之地. 遂復 故地 . c 『欽明紀』十三年五月戊辰朔乙亥, 百清. 加羅. 安羅. 遣 中部徳率木劫今敦 河内部阿斯比 . 多等 . 奏日. 高麗典 新羅 . 通 和井 勢. 謀滅 臣国奥 任那 . 故謹求 請救兵 . 先攻 不意 . 軍 之多少随 天皇勅 . 詔日. 今百潜王. 安羅王. 加羅王. 興 日本政臣等 倶遣 使奏状聞詑 亦宜 共 . . 下 二 任那 . 井 心- 力. 猶尚若 葱. 必蒙 上天擁護之福 亦頼 可 畏天皇之霊 也 , . 上 一 d 『欽明紀』 十三年◎是歳. 百清棄 漢城典 平壌 . 新羅因 此入居 漢城 . 今新羅之牛頭方. 一 尼弥方也. ② 『欽明紀』廿三年八月. 天皇遣 大将軍大伴連狭手彦 . 領 兵数万 伐 千高麗 . 狭手彦乃用 百清計 . 打 破高麗. 其王除 塙而逃. 狭手彦遂乗 勝以入 宮. 霊得 珍宝貝 化賂. 七織帳. 鉄屋 還来. 以 七織帳 奉 献於天皇 . 以 甲二領. 金銘刀二ロ. 銅銭鍾三ロ. 五色幡二竿. 美女媛井其従女吾田 子 . 送 於蘇我稲目大臣 . 於 是. 大臣遂納 二女 以為 妻居 軽曲殿 .. ⑧ ①のab c dは一連の記事 である. 唯a=-本, b, d=是歳, cは通常の形式で, それぞ れ史料の出所がちがうので, 記し方や内容がちがう のである. 十一年に大伴狭手彦が高麗王と比津留 津で戦って高麗王を追い, 十二年更に進ん で平壌, 漢城を 取り, 百済の故地を回復したが, 十三年には, 漢城, 平壌を棄てた. その前十三年五月, 百潜等の. 救兵の請願があっ たのである. はじめ我国と百済, 新羅, 任那とは同盟していたが, 新羅は十三年 になって裏切っ たのである. 史料の出所がちがうの で, b, c, d, には大伴の狭手彦の名は出て. いないが, 彼は全期間戦に関係していたと思う. ②は大伴狭手彦が主人公で, 戦う相手が, 高麗王だという事, 戦に勝っ ている事等, ①と同一事 件をさしていると見て差支えない内容であり, 更に欽明天皇廿三年三月, 一本 では 二十一年に任那. は亡んで居り, その後に遠征するというのは不自然であり, 又 『欽明紀』 ②史料の細註に①aの史 料をのせ, ①の重出 ではあるまいかと疑っているのを考え合せると, ①②は同じ事件の重出だと思 う. 普通の紀年,で欽明天皇十二年,半年一年ので二十三年は, ①の3年連続の事件の真中でクライ マックスの年である. その年高麗王宮を占領して財宝を得たのである. その年が②史料にも っとも.
(5) . 栗. 原. 薫. ふさわしい年 なの で, その年にかけているのである. この箇所を 史料重出として取り上げたものは吉田東伍氏の 『日韓古史断』 が最初である. 同書は 注書 (この論文では 前出①a) 韓史によっ て十 一年庚午を正しいとしている. しかし二十三年の方. も辛酉起点半年一年の紀年としてみれば正しいの である. (四) ① 『欽明紀』 十五年春正月戊午朔甲午. 立 皇子淳中倉太珠敷尊 為 皇太子 . ② 『敏達前紀』 (欽明) 廿九年, 立為一皇太子 . ③ 淳中倉太珠敷尊は敏達天皇 であるから, ①②は同一内容 である. ①②は別表により同年の記. 事 である.. 『日本紀年論纂』 所収) は, この箇所を取り 上げ 「同一の出来事が 原勝郎氏 『日本書紀紀年考』 ( 十四年を隔てて 二度起っ たことになっ て居る, 此の如きことのあるべき理由がない. 然らば熟れが. 正しいか. ……書紀は欽明の在位を三十二年として居るから, 立太子を其二十九年と記したのは, (立太子は) 崩御より四年前と (いう事をのみ) 見るがよい. 而して立太子を十五年と して」 , その 4年後の欽明十八年を崩御の年として居られる. これも②を辛酉 起 点半年一年の紀年とみれば解決するのである. (五) ①. a. 『続日本紀』 天平勝宝三年 二自 己卯, 典膳正六位下雀部真人等言, 磐余玉穂宮,. 勾金椅宮御宇天皇御世, 雀部朝臣男人為 大臣 供奉, 而誤記 巨勢男人大臣 , 真人等先祖巨勢男柄 宿祢之男有 三人.. 『宣化紀』元年二月壬申朔. 以 大伴金村大連 . 為 大連 物部麓鹿火大連為 大連. 並如 故. 又以 蘇我稲目宿祢 為 大臣 . 阿倍火麻呂臣為 大夫 . ② 『継体紀』 二十三年秋九月. 巨勢男人大臣薬. b. ①では男人は継体,安閑二朝に大臣として仕え,宣化朝になって蘇我稲目が代っ て大臣となっ た事になる. ②では男人は継体天皇の御代に莞 じているので, ①②は合わ ない. 唯継体天皇二十三 年は通常の干支では己酉 だが, これを辛酉起点半年一年の干支とみなすと, 安閑天皇二年崩御の年 ③. となるので, ①と 矛盾しなくなる (別表参照) . 実例 (五) の史料の①aは 『続日本紀』 よりのだが, 肝心の半年 一年辛酉起点の干支の方は, 『書. 紀』 より出ているの で, (一) より (四) までと同様に見うる. ここは, 前掲平子鐸嶺氏 『継体以下 三皇紀の錯簡を排ず』 が大きく取り上げ 「実に継体以下三皇 隣己』の錯簡を考究するにおいて, 最有力なる徴証を吾人に 与ふるものといふ可らずや,」としてい. る箇所である. 同諭又は継体丁未崩御, 安閑己西崩御, 欽明幼少に付宣化即位, 宣化辛亥即位とす る新しい紀年を考えている. 継体丁未崩御は古事記に出ているが, (二)で論じた如くこれは 辛酉起 点半年一年の紀年だから, 通常の紀年に交えては使えない. 又安閑己酉崩御は (五) の 史料によ っ ている. ①aに男人の 二朝歴事の記事があり, 又廿三年男人莞去, 後宣化即位まで6年間大臣を欠 いているので 「男人の前に崩御あらば, 勝宝中雀部氏は得々として 三朝歴事を述べしなるべく, も し後年ならば, 新に大臣の任命ありたるべきを以てなり」 として男人莞去の己酉に安閑崩御 があっ たのだとした. しかし②の継体 二十三年男人莞去は辛酉起 点半年一年の紀年 で, これを通常の紀年. に直すと, 安閑天皇の 二年, 天皇崩御の年になる. 男人莞去と安閑崩御とが同年だっ たろうという 判断は正しかったが, それは己酉 でなくて乙卵の年の出来事だっ たのである. (別表参照) 1 ) 『欽明紀』 十三年冬十月. (仏教公伝) …… (欽明) 天皇日. 依 奏. 有司乃以算衿像 (六) (. 流 弁難波堀江. 復縦 火於伽藍 . 焼燐更無 像. 於 是天無 風雲 忽爽 大殿 .. b 『敏達紀』十四年三月丁 巳朔……詔日. 灼然. 宜 断 仏法 . ○丙成. 物部弓削守屋大連目詣 ・既而取二所し焼徐仏像 令 棄 難波堀 於寺 . 鵬 坐胡床 . 折 倒其塔 縦 火播之. 井焼 仏像興 仏殿・.
(6) . 大化前代の紀年. 江 . 是日無 雲風雨. 大連被 雨衣 詞 責馬子宿称奥 従行法侶 令 生 段辱之心 乃遺 佐伯造 . 三 . . - 一 二 二 一 二 一 二 御室 . 喚 馬子宿称所 供善信等尼 . 由 是馬子宿称不 敢違 命 側槍噛泣 喚 出尼等 付 於御室 . , 一 二 . 一 シ 二 有司便奪 尼等三衣 . 禁 鋼楚 髭海石溜市亭 . - c 『元興寺伽藍縁起 井流記資財帳』乙巳年二月十五日……他田天皇 欲破仏法 即此二月十五日 , , , 所伐条 り柱, 重責大臣及依仏像法人々家, 仏殿皆破焼減霊 佐ィ 卑岐弥 牟留古造三尼等 泣而出往時 , , ,. 現本臣, 将三尼等, 至都波岐市長屋時, 脱其法衣破滅仏法, 余時桜井道場者 大后大々王命以莫犯 ,. 也, 我後官告而不令焼. ② a 『上宮聖徳法王 帝説』 志葵島皇御世庚寅年 焼 滅仏殿 , ー 」 仏像流一却於難波堀江 . b 『元興寺伽藍縁起井 流記資財帳』然旦己丑年 稲目大臣藁己後 余臣等共計且 庚寅年焼切堂 , , , 舎, 仏像纏教流於難波堀江也.時二柱皇子等言.此殿者不仏神宮 借坐在耳曽 此大々 王之後宮曽止 , , 告, 不令焼切也. 但不得堅惜, 太子像出 且, 濯仏之器者隠蔵不 出 , ③ 共に仏教が迫害されて, 仏像が難波の堀江にすてられた事件である ①cのみ難波堀江が出 . てこないが同一事件と思う. ① a は後の事件を仏教公伝の所に つけたのである , ①②は別表によっ て同年の記事である,. 此所を最初にとりあげ重出記事とみたのは狩谷ネ 夜露の『上宮聖徳法王 帝説証注』 である, 『法王帝 説』 の②a 記事の注に①a『欽明紀』 記事をひき 更に② a『敏達紀』 記事をひいて 「是典 欽明天 , , 皇紀所 言事 甚相似. 蓋以 一 事 , 誤為 二時之事 也 」 としている その 『平子鐸嶺補校』 に②b . . 『元興寺伽藍 縁起』 を補ってある. (七) -参考- ① a 『継体紀』 廿年九月丁西朔己西 遷都磐余玉穂 . . b 『扶桑略記』 (継体天皇) 二十一年丙午九日. 遷 都大和国磐余玉穂 宮 . ② 『継体紀』 廿年 (遷都玉穂) (一本云七年也 ) , ③ ①, ②は 皆 同 じ事 件 を 記 しているのは明白である 継体天皇の廿一年丁末 (通常紀年) は . 別表により, 半年一年辛酉起点の紀年 では奨巳, 甲午となり 発巳は継体天皇の七年だから①bと , ②とは同じ年である. ①a と②とは1年ずれる . 『扶桑略記』 の継体天皇二十一年から二十三 年ま で 記事が 『書紀』 より1年ずつくり下ってい ,. る. そして 『扶桑略記』 二十二年, 兵伐新羅は, 『書紀」 では二十一年六月 近江毛野臣が任那に渡 , ろうとして磐井にさまたげられ, 中途で掩滞したと出ている しかるに 『 糸 隆体紀』 二十四年九月の . 条に, 毛野臣が久斯牟羅に滞留二歳 (一本云三歳者, 連 去来歳数 也) とある 毛野臣は 二十四年 , 一 婦路対馬で病死している. 去来歳という から 隣隆体紀』 二十一年記事は実は二十二年という事にな る. その一本によると 『扶桑略記』 の1年ずれた紀年の方が正しいという事になる 『扶桑略記』 の . その部分は 『書紀』 稿本の様なものから引いたの でもあろうか 『書紀』 は二十三年の所に それまで . の朝鮮関係記事をあっめ, 磐井平定はそれ以前の事として元来 『扶桑略記』 に二十三年の事として あるのと同じであっ たのを1年くり上げ, それにおされて関連記事その他が1年ずつくり上げられ たのであろうか. そうだとすると① aと②のずれの問題が片付く . (八) -参考- ① 『欽明紀』 十三年冬十月, 百済聖明王……献 釈迦仏金鋼像一躯・幡蓋若干 巻. 一. ②. 『元興寺縁起』. 私勘. 元興寺. 大和国添上郡…欽明天皇即位十三年甲申冬十月十三日辛酉 ,. 百済国聖明王始献金銅尺迦仏像-躯井細論幡蓋等 長寛三年夏四月二十一日 大法師慈俊 ③. ①②は同じく仏教公伝を記事としている.. 別表により①②の干支紀年は同じ年をさしている . この箇所は友田吉之助氏が『仏教公伝の年代と異種の干支紀年法』 (『日本歴史』昭和4 7年3月号).
(7) . 栗. 原. 薫. で, 通常の紀年より12年くり上げ, 或はくり下る異種の紀年 法を考え, くり下げられた紀年として の12年に更に氏が別に考 えられた2年差の紀年法による2年を加えて,例の戊午と欽明天皇十三年. 4年の差を説明された。 との1 氏の説明に対しては後日稿を改めて論じたい. 唯多少言いたい. ②の私勘文は平安末に 書かれた もので, 他の史料が記紀又はそれに類する扱いが出来るものであるのと異なっている. その私勘文. 中の干支は, 仏伝以外のは 『縁起』 をそのま ま移したものである. したがっ て甲申公伝も意図的に 2年ずれた紀年法を適用 して書いたものでは ない. 慈俊は通常の紀年と思って書いたのである. 当 1 時上古の紀年としての甲申 公伝の記録が残 っていて, 慈俊 がその方をえらんで書いた可能性はある と思う. 唯それが友田氏の言われる様に 12年ずれたものと考 えるのが正しいか, 私の半年一年辛酋 起点の干支法によ って説明す べきものかと言う事になると, 私の方に分があると思う. 友田氏の集 められた史料には継体÷欽明期の紀年が外に ないし, 又その出典も平安高本とあるのみ でその成立. 期の分らないものを除くと皆平安時代以後のものである. 私のは他の例もすべて欽明期前後のもの で, 出典も奈良時代又はそれに 准ずる扱いの出来るものである. なおこの友田氏に対し第1章での べた川口氏の 批評がある. 川口氏批評の中 『帝説』 や 『縁起』 の他の 干支がすべて現行干支法に一 致している (上述) といわれるのは (六) ②の例があるので間違いである. (九) -参考- ① ない ③で説明 ② 鱗陸体紀』七年十 二月辛巳朔戊子. 詔日. 朕承 天緒. …盛哉, 勾大兄. 光 吾風於万国 . … 塞汝之力. 宜 処 春宮 , 助 朕施 仁. 翼 吾補 闘. ③ 勾大兄は安閑天皇である.. ①は別表により継体天皇廿一年丁未年となる. ②を辛酉起 点半年一年の紀年とする理由は次の如く である.. 安閑天皇の 宝算は 『書紀』 にのみあり70才 である, 安閑天皇の父帝継体天皇の宝算は82才 (紀) と43才 (記) と両方ある. 継体天皇の廿 五年崩御 (紀本文) は元来の或本云天皇 二十八年崩を3年 ひきもどしたもので,鱗己』の紀年はその間空位で記事もないのである.82才は元来85才だっ たので ある.43はその半 分だから,43才が通常の 宝算,85才 が半年一年 での 宝算である. すると安閑天皇 5才と なる. 継体二十八年崩御とすると, 安閑天皇は父 の70才は半年1年ので通常の数え方では3 帝1 0才の時の誕生となり不自然である. そこで継体天皇七年立太子を半年一年の紀年とみ, 通常の 紀年を求めると別表により継体天皇の廿一年となる. これだと不自然でなくなる. 元来廿一年だっ 4年ひきもどした結果が35才だとすると, 安閑天皇の員の 宝 たのを7年を通常の紀年と間 違えて1 『文化史学』 第35号) で論じた如く, 雄略天 算は21才となる. 拙稿 『上代天皇の長寿について』 ( 皇の宝算は『允恭紀』七年雄略天皇誕生の記事があるので計算すると62才となる. これは後述する 様に一部分は半年 一年の1年を1年とし, 一部分は通常の1年を1年としたものを合せた数字で,. 雄略天皇崩御 後かなり長い時間がたっての計算である. 所が『記』 ではこの62才を単純に2倍して 12 4才としている. これは紀年 法, 年数計算法に 二種あるのを知 っ て, 一方から一方を出した数字で ある. 『記紀』 の宝算にはその様 なものがある. 安閑天皇の 豚己』 の 宝算も, 同じ様に通常の紀年と 4才の時の御誕 して計算したものを 二倍して出したものと考えられる.すると安閑天皇は継体天皇2 生となり不自然でなくなるの である. かつ (四) の例の如く, 敏達天皇の立太子紀年に辛酉 起点半年一年の紀年のがあり, 安閑天皇立 太子の紀年が同種のものであっても不自然ではないという事 がある.. かくて継体天皇七年のが②, 二十一年のが①という事になる. 以上9例によ っ て記紀編纂 当時の資料群の中, 継体--敏達期の事 項を述べたものの一部に, 辛. 6.
(8) . 大化前代の紀年. 酉起点半年一年の紀年によ っ ているものがあっ たと言いうると思う ,. 仲哀--雄略期の辛西起点半年一年の紀年について論ずる . この時期については, 新井白石, 本居宣長, 那珂通世等が, 紀年に関して問題のある事を論じて. き て い る.. その中, 干支二運のずれの指摘をのぞくと, 或は矛盾をあげ, 或は立脚点のはっきりしない推論 を述べるだけの者が多かっ た.. 昨年4月, 山本武夫氏が 『日本書紀』 の新時代解読』 を著し, 私が継体--敏達期に試みた様に 一年二倍暦 (半年一年の紀年法) の為に紀年が混乱しているという観点で雄略以前の紀年を考えら れた.氏が半年一年の紀年法を考える事 でこの時期の研究に新局面が開けた 氏は雄略元年を462年 . とし, 『書紀』の治世年数の半分を通常紀年の治世年数, 前帝崩御の年を新帝元年として紀年を仮定 された. 唯氏の研究は確実な史料を欠くという大弱点がある 私が継体--敏達期についてや っ た . 様にして, 辛酉起点半年一年の紀年を選び出してはじめて確実な史料によって実証さ れるのである がその史料をみると, 山本氏の仮定紀年と必ずしもうまく 合うという訳ではない . その仮定紀年は修正の必要がある.. 継体--敏達期にならって, 通常紀年と辛酉起点半年一年の紀年との一致するものをあげた後 , あらためてその問題にふれた い.. この期間は, ①『書紀』が安康天皇以後は通常紀年, 允恭天皇以前は半年一年の紀年である 事(山 本武夫氏は安康天皇以前を半年一年として居られるが間違いである ) ., ②大陸資料があ る事, ③辛. 酉起点半年一年を通常の紀年と間違 え, 更に半分とした三ヶ月一年の紀年がある事 で 継体--敏 , 達期とは違っ てある.. 此等及び此等に関係した 問題は, 第二章にならい, 二つ或はそれ以上の紀年の合うものを列挙 し た後に詳しく 取り上げたい.. 各実例をあげるにあたり, 第一章に示した要領によるが, 『書紀』 の紀年は 安康--雄略期 で , , 通常紀年より6年, 允恭天皇以前では半年一年辛酉起点の紀年と1 6年ずれているの で, その様にず ′ ″ れた 『書紀』 の紀年を①′ , ②, 三ヶ月一年辛酉起点のを② とし, その下に資料を示した. さてその期の実例は次の通りである. (一) ① 『雄略紀』 廿三年夏四月, 百清文斤王莞. 天皇以 昆支王五子中 第二末多王幼年聡 . 明 . 勅喚 内裏 . 親撫 頭面 識勅愁歎. 使 王 其国 . 価賜 兵器 . 井遣 筑紫国軍士五百人 衛 . 送於国 . 是為 東城王 .. ② 『雄略紀』 廿-年春三月. 天皇聞 百清為 高麗 所 破 以 久麻那利 賜 枚洲王 . 救 興其 下 二 一 上 . 国 . 時人皆云. 百湾国最 先亡, 案 憂倉下 , 実頼 於天皇 , 更造 其国 (……日本旧記云 以 佳 属目 . . 一 久麻那利 , 賜 末多王 . 蓋是誤也. ……) ③ 別表により, ①を通常干支, ②注 (かっこの内) を辛酉起点半年一年の干支とすると一致す る. 『書紀』は②注の干支を通常のと間違えたの である. 元来①の記事の内にあるべき記事だっ たの である. ②の本文は時期的に末多王即位前なの で末多王 では具合が悪いので, 枚洲とし参考に元の. 文を注記したのである. 仲哀--雄略期の実例の中, この (-) のみが, 継体--敏達期の9つの実例と同種のものであ.
(9) . 栗. る.. 原. 蕪. ① 『高句麗好太王碑』 倭以辛卯年来渡 海破百残□口□羅以為臣民. 『仲哀記』 凡帯中津日子天皇之御年, 伍拾試歳. (壬戎年六月十一日崩也.) 仲哀天皇の崩年は三韓征伐の年で, 倭渡海云々と一致する. 辛卯の年は別表により辛酉起 点. (二). ② ③. 半年一年の紀年の壬戎に該 当する. 辛卯を391年に解する人が多いが, 私は331年と思う. 顕著な 出来事 であっ たので60年以上たっ たあとでも以辛卯年 来渡海で一般に理解出来たの でそう記した のだと思う. (三) ① a b. 『宋書』 文帝紀. 使献方物.. 讃死弟珍立. 遣使貢献……表求除正. 詔除安東将軍倭国王. 元嘉十五年夏四自 己巳. 以倭国王珍, 為安東将軍. 是歳……倭国……並遣. 『宋書』 倭国伝. c 『宋書』 文帝紀 ②″ 『仁徳記』. 元嘉七年春正月, 倭国王, 遣使献方物.. 此天皇御年, 捌拾参歳. (丁卯年八月十五日崩也) ③ a ,b は同一記事 であり, この時はじめて安東将軍倭国王になるの であるから最初の遺使であ 0年, 元嘉十五年は438年であるか ら, 讃の崩御は る. そこでcは讃の遣使 である. 元嘉七年は43. 7年の可能性が 430-4 37年である. 特に讃崩御直後道使された可能性が大きいから438年の前年43 大 き い.. ②の記事は仁徳天皇の崩御 であり, ①もそこから仁徳天皇=讃崩御の年を出したのである. ②″の丁卯の年を辛酉起点半年 一年の紀年を通常紀年と誤り更に辛西 起点半年一年の紀年に計算. 37年となり, ①の紀年と 一致する. し直した場合の紀年とすると, 別表により4 (四) ① a 『宋書』 倭国伝 済死, 世子興遺使貢献.. b 『宋書』 倭国伝 世祖大明六年, 詔日, 倭王世子興, 突世載忠, 作藩外海, 票化寧境, 恭修 貴職, 新嗣辺業, 宜授爵号, 可安東将軍倭国王. c 『宋書』 孝武帝紀 大明四年十二月丁末, 倭国遣使献方物. d 『宋書』 孝武帝紀 大明六年三月壬寅, 以倭国王世子興為安東将軍. ②″ 『允恭記』 天皇御年漆拾捌歳 (甲午年正月十五日崩) ③. 大明四年は460年, 大明六年は462年である.. bの詔書は世子興とあり, 新嗣辺業とあるの で最初の興の道使に対するものである. aはbの関 連記事である. そして b には道使と記されていないから,bdに対する倭からの道便は大明四年に行. われたの であるうとcにより考えられる.a の済死世子興遣使はcと同じ記事である.世子と書いて 460 ) かその前年であろう. あるから遣使は崩御直後である. つまり (允恭) 崩御は大明四年 ( 別表により460年の前年は己亥で, その同年の三ケ月一年辛酉起点は葵巳, 甲午, 乙未, 丙申と なり, ②″の甲午と合うのである. 允恭天皇崩御の紀年といふ点で①, ②″ は一致している. ㈲. ①. a~ d. ①′ 『安康紀』 b. 『雄略紀』. c. 『雄略紀』. ②. 『雄略記』. 鯉)と 同 じ.. 元年◎是歳. 大歳甲午. 元年◎此歳也. 大歳丁西.. 二十三年八月庚午朔丙子. …崩 干大殿 . , 天皇御年, 登伯試拾騨歳(己巳年八月 九日崩也.). 6年になる. ①により安康 元年は460年(庚子)となる. ①に より安康元年より雄略崩御 まで2 庚子より26年目は乙丑 である. 乙丑を通常干支として, 辛西起点半年 一年の紀年を求めると, 己巳, ③.
(10) . 大化前代の紀年. 庚午となり, ②と一致する. (別表参照) 事件はどちらも雄略天皇崩御 で同 じである.. 爾-参考- ① a 『宋書』 文帝紀 元嘉十五年夏四自 己巳, 以倭国王珍為安東将軍. 是歳, 武都王, 河南国, 高麗国, 倭国, 扶南国, 林邑国, 並遣使献方物.. b. 『宋書』 倭国伝 (元嘉)二十年倭国王済遣使奉献, 復以為安東将軍倭国王.. ②″ a. 『仁徳記』 此天皇御年, 捌拾参歳, (丁卯年八月十五日崩也.) b 『反正記』 天皇之御年, 陸拾歳(丁丑年七月崩.) ③ ②″により仁徳崩より反正崩ま で1 0年である. これを半年一年の紀年によるものとみると通 常では5年となる.. 又①ではaは日により仁徳崩御の翌年である. ①のbは允恭天皇初の道使と思われる.(その時の 遣使では じめて安東将軍に任ぜられている.)その前年が恐らく反正天皇崩御の年と思われる. ab 0年(普通に直すと5年)と一致する. の間が5年 であって, ②″史料ab間の1 園の仁徳丁卯崩御は三カ月一年の紀年であるが, その紀年を作っ た者は, 半年一年の紀年と思っ 0年あるとい て計算したの である.その折反正天皇崩御と仁徳天皇崩御との間が半年一年の紀年で1. う伝承か記録があり, 仁徳丁卯を起点として反正丁丑崩としたのであろう. 以上の実例によって, 辛酉起点半年一年の紀年は, 継体--敏達期を記した記紀等のだけではな. く, それ以前の仲哀--雄略期を記 した記紀の史料群の一部に使われていたと言いうると思う. 第二, 第三章の結論を合わせて, 仲哀--敏達期の記紀等の史料群の一部に辛西起 点半年一年の 紀年によるものがあったと言いうると思う. 猶若干の問題を付け加えて述べたい. 三ケ月一年辛酉起点の紀年の裏付け. 允恭天皇の七年に雄略天皇が誕生(紀) ,四十二年允恭天皇崩御の時はしたがって雄略天皇36才,安. 康天皇の治世3年, 雄略天皇の治世 23 年を合わせると, 雄略天皇は62才 で崩御という計算にな る.. しかるに 『古事記』 では, 雄略天皇の宝算は124才とあるので,一見 『書紀』 の記事より計算され た62才が, 一年 を一年とする通常の紀年による宝算,『記』 の方は辛酉起点半年一年の紀年によっ て 計算したものの様 である. しかし『紀』の計算の中, 允恭天皇御代の分は, これを通常の紀年とみる時は, 『宋書』の讃, 珍, 清三王の記事が全部は入ってしまうので, その分は半年一年の1年である, すると12 4才という計算の一部には, 半年一年の一年を更に二年とした部分が含まれている 事と. なる.. 二 景行天皇及び成務天皇の崩年. 』 の成務天皇崩年干支庚午の翌年辛未に該 別表一によると, 『記』 成務天皇崩年干支乙卯は, 隣己 当する. 辛未年は空位で, 翌壬申が仲哀元年 である. 仲哀天皇の宝算は 『記』『紀』 共に52才 であ 1才で皇太子に立ち給うたとある. それより計算する る. しかるに『成務紀』四十八年に仲哀天皇が3 と, 仲哀天皇の 謙己』の崩年庚辰では宝算53才になる. もし辛未の空位を削り, 一年くり下げ, 辛 末を成務天皇の崩年とすると, 庚辰仲哀天皇崩御 で宝算5 2才となり辻つま が合う. しかも記紀の成. 務天皇崩年が別表により一致するのである.. 『紀』 成務天皇崩年を一年くり下げるに付いて, 景行天皇崩年もそれにつづけて 一年くり下げる(. の成務天皇崩年をそのまま生かすとそうなる)と, 景行天皇の『紀』の崩年庚午は, 次の辛末となる. このあたりより 比較材料がなくなる..
(11) . 栗. 三. 原. 薫. 『書紀』 の紀年. この期の『書紀』紀年では, 『書紀』紀年での允恭天皇崩年発巳が重要 である. この年は『古事記』. では辛酉起点三ケ月 一年紀年の甲午 である. それに応ずる辛酉起点半年一年紀年は丁丑で, 通常紀 年は己亥 ( 459 ) である. この年以前は, 『書紀』 紀年は半年一年になっている. この年での 『書紀』 紀年と, 辛酉起点半年. 一年の紀年との間には16年ずれがあるが, この年以前はそのずれがそのまま基本的にはつ づき, 二 つの紀年は原則的には平行している. 又この年以後は, 『書紀』紀年と通常紀年との間には6年の差があり, この 二つの紀年も平行して. い る.. 半年一年の期間を考えぬと, 『書紀』紀年と通常紀年が次第に離れて行ってしまうので, 半年一年 の期間をとらねばならぬのは自明 であるが, 葵巳をその境にする事について少し述べたい.. まず山本武夫氏 『日本書紀の新年代解読』 は, 雄略元年をその境界にしているが, そうだとする 461 )となり,『記』の辛酉起点三ケ月一年紀年の甲午は己亥( 459 ) と,允恭天皇崩年は通常紀年 で辛丑( であるから合わなくなる. 又 『宋書倭国伝』 渚死, 世子興遣使貢献, 世祖大明六年, 詔日…可安東 大将軍倭国王の世子興の遣使は文脈よりみて大明六年以前で, 『宋書』孝武帝紀の大明四年十二月丁 未, 倭国遣使と同じ遣使と思う. 大明四年は460年だから,461允恭崩御 では都合がわるい, そこで それらの矛盾のない45 9年己亥, 『書紀』 紀年の奨巳が境界になる. それを更にさかのぼらせて反正崩年にまでもって行くと, よく知られている様に倭五王中, 讃, 珍, 渚が皆允恭天皇政下に入ってしまうの で具合が悪い. 紀の紀年は後 で述べ る様に別の紀年法による 二つの年代 紀を知らず に く っつけて しまっ たもの. で, その元になる年代紀は天皇の崩年, 即位年の様な所で切 っ てあっ たと思われるから, 雄略元年 と反正崩年, 允恭元年との間の允恭崩年, 安康元年としか考えられない. 允恭以前の年代紀は允恭 四十二年発巳で終わり, 安康以後のは安康元年甲午で始っ ていたの である.. ー で述べた様に 『允恭紀』 と 『安康・雄略紀』 との紀年を無造作にむすびつけて, 雄略天皇の宝 4才と出したの 算を計算し, 更にそれを通常の年数と判断, 半年一年の年数に直す為に倍にして12 が 『古事記』 の雄略天皇 宝算である.. 『紀』 の編纂時には半年一年の暦があっ た事も忘れられていたのだと思われるが, この計算の行 4の数字が出たのである. 唯 『紀』 の允恭期と われた頃には半年一年の計算が行われていたから12 安康, 雄略期分が, 当時むす びつけられていたかどうかは分らぬが, むすびつけられていたにせよ,. 別々の年代紀だっ たにせよ, 別々の紀年法による紀年が使われている事は分らなかっ たの である. 雄略天皇崩御間もなくだとその様に事はおこり得ないから, その当時よりかなり降っ た時期の計算. である事も明らかである. つまりこの計算は雄略時代からも, 『紀』 編纂時代からも離れた中間の時期に行われたの である.. その当時分らなかっ たのだから 謙己』 編纂時に 『雄略紀』『安康紀』 と 『允恭紀』 の紀年のちがい が分る筈はなく, 両部分の結合を 『書紀』 編纂者がはじめてやっ たとすれば, それは紀年延長の謀 略という様な事とは無関係に 無造作に何も知らずに結びつけたの である. 『書紀』編纂以前に結びつ. けられていたに しても意図的ではなかっ たのだろうと思う. 四. 山本武夫氏 『日本書紀の新年代解読』 について. 三で氏の説の誤を一つ 指摘したが, 氏の神功撮政元年, 仲哀崩年346年は, 私と1 5年違い, 雄略 崩年484年は私のと1年違う. 仁徳崩年も435年で私のと2年ずれている. 私のは 二種の紀年が合 致 して い る の だ か ら 私 の に よ る べ き であ る. 10.
(12) . 大化前代の紀年. 四 辛西起点半年一年の紀年を考えての,上代紀年の整理は多く のものを産み出すに違いない.平子鐸 嶺氏 『継体以下三皇紀の錯簡を繕ず』 は第二章であげた所によってその結論の多くを否定された,. 記紀の成立過程等論ずべき事があるが稿を改めて発表したい.. (本学教授・旭川 分校). 別表一 仲哀--雄略期の紀年 第一欄, 天皇名, 第二欄, 書紀数字紀年, 第三欄, 書紀干支, 第四欄記事, 第五欄, 通常紀年, 第六欄, 記事, 第七欄, 半年一年辛酉起点の紀年, 第八欄, 記事, 第九欄, 三ヶ月一年辛酉起点の. 紀年, 第十欄, 記事. 半年一 年辛西起点の干支とは, 通常紀年の辛酉の年の前半年を辛酉として, 半年を一年として通 常干支の順に干支を付けて行っ たものである. 三ヶ月 一年辛西起点の紀年とは, 半年一年辛西起点の干支を通常の干支と間違え, 通常の干支と. して扱い, その辛酉の年の前半部を辛酉とし, 半年の半分つまり三ヶ月を一年として, 通常干支の 順に干支をつけて行っ たものである. 書紀紀年は安康天皇以後は通常の一年を一年とす る干支だが, 安康--雄略期のは6年ずれてい る. それ以前のは半年一年の干支で, 1 6年ずれている. 番号である 記事の内のかっ こ内の数字は実例の .. この表で左右にならんでいるのは同じ年をさしている.. 字 書紀干支 天皇御名 書紀数 紀年. 記. 事. 神. 武 元. 年 辛 酉 年 即位(紀). 景. 行 元. 年 辛. 未. 十 庚. 午 崩御(紀). 成. 務. 六. [ 辛 7. 二壬 ; ; 四. 八 戊. ;. l n l. 哀. 通常紀年 葵. 未. ) (-9 8. 記. 事. 半年一年 辛酉起点. 紀年 乙. 記. 事. 三月一年 辛酉起点 記. 紀年. 事. 巳. 未 景行崩御(本文参照) 申 成務元年. (本文参照). 中哀立太子, 三一 午 1. 才(紀). 五. 九 己. 巳. 六. 十 庚. 午 崩御(紀). 辛. 未 成務崩御(本文参. 壬. 申. 奨. 酉. 照). 圃. 丙. 辰. 丁. 巳. 成務崩御(記). 11.
(13) . 栗 原. 天皇御名. 書紀 紀数字 年 書紀干支 三 甲. 戎. 四 乙. 亥. 五 丙. 子. 六 丁. 丑. 七 戊. 寅. 八 己. 卵. 元 辛. 剛の 辰 旗 伍繍 ¥ 三 巳. 二 壬. 午. 三 奏. 未. 四 甲. 申. 五 乙. 酉. 元 英. 酉. 六. 一 姿 二 甲. 酉 ・ 戎. 六. 三 乙. 亥. 六. 四 丙. 子. 九 庚 応. 仁. 神. 徳 六. 六. 五 丁. 丑. 六. 六 戊. 寅. 六. 七 乙. 卵. 六. 八 庚. 辰. 六. 九 辛. 巳. 七. 十 壬. 午. 七. 未. 七. 甲 一 葵 二. 七. 三 乙. 酉. 七. 四 丙. 戎. 七. 五 丁. 亥. 七. 六 戊. 子. 七. 七. 七. 八. 七 八 八. 九. 八. 一 二. 八. 三. 八. 四. 八. 五 六. 八 八. 反. 12. 中. 正. 七 元 庚. 通常紀年. 事. 鱗伐賜. に鼠). 子. 二 辛. 丑. 三 壬. 寅. 四 葵. 卯. 五 甲. 辰. 六 乙. 巳. 元 丙. 午. 記. 事. 辛□ 来渡海破 以残以 卵□ 倭百 □民 . 霧 為大 臣王 にコ (好 碑). 壬. 辰. 葵. 巳. 庚. 申. 辛. キ 酉 讃遺使 宋書. 壬. 戎. 甲葵. 亥 子. 申. 十. 履. 記. 薫. , .. 乙. 丑 讃造使 宋書. 丙. 寅. 丁. 卵. 戊. 辰. 己. 巳. 庚. 午 委王造. 辛. 未. 壬. 申. 葵. 酉. 甲. 戎. 乙. 亥. キ 宋書. 半辛紀 年酉 年 一年 起 点. 議鴎 記. 恩 賜 輔. 事. 山哀T 崩 記 三哀 韓征伐 )、 仲 5 2才( 二). 三月辛紀 一年 起 酉年点. 記. 事.
(14) . 大化前代の紀年. 天皇御名. 允. 書紀 紀数字 年 書紀干支. 恭. 二 丁戊 三. 未 申. 四 己. 酉. 五 庚. 戎. 辛. 亥. 元 壬. 子. 二 葵. 丑. 三 甲. 寅. 四 乙. 卵. 五 丙. 辰. 記. 六 丁. 巳. 七 戊. 午 雄谷 融. 八 己. 未. 九 庚. 申. 十 辛. 酉 皮. 十. 一 壬 二 葵. 亥. 十. 三 甲. 子. 十. 四 乙. 丑. 十. 五 丙. 寅. 十. 六 丁. 卯. 十. 七 戊. 辰. 十. 八 己. 巳. 十. 九 庚. 午. ニ. 十 辛. 未. ニ. 申. ニ. 一 壬 二 葵. 酉. ニ. 三 甲. 皮. ニ. 四 乙. 亥. ニ. 五 丙. 子. ニ. 六 丁. 丑. ニ. 七 戊. 寅. ニ. 八 己. 卵. ニ. 九 庚. 辰. 十. 事. 三. 十 辛. 巳. 三. 午. 三. 一 壬 二 葵. 三 三. 三 甲. 申. 四 五 乙. 酉. 丙. 戎. 三. 六 丁. 亥. 三. 七 戊. 子. 三. 八 乙. 丑. 三. 九 庚. 寅. 四. 十 辛. 卵. 四. 一 壬. 辰. 二 葵. (紀四 巳 允櫛 (. 三. 四. 通常紀年 丙. 子. 丁. 丑. 記. 事. 中書木 臥 嘘怖 ( 戊 寅 珍阻 ′三、 \′ 4 3 8 己. 卵. 庚. 辰. 辛. 巳. 壬. 午. 半年 辛紀 酉 年年 一 紀点. 記. 事. 葵甲 巳. 三月 辛紀 一年点 起 酉年. 多 詞 1 醜 … ′稲、f 川) \′ …. 記. 冨. 事. 仁徳崩 犠の に. 、. 殿 崩 ≦ハ- {リ 、 ”髪 六. 壬. … ” ………. 慨. 臓崩. h】六 記X. 未 諮害休胆 眠 中書 小 葵 4 4 3 甲. 申. 乙. 酉. 丙. 皮. 丁. 亥. 戊. 子. 己. 丑. 庚. 寅. 辛 辰卯 壬 甲葵. 未. 巳 午. 乙. 未. 丙. 申. 丁 戊. 酉 戎. 亥 己 4 5 9. 乙. 丑. 丙. 寅. 丁. 卵. 戊. 辰. 己. 巳. 庚. 午. 辛. 未. 壬. 申 西. 奨 甲 成 乙. 亥. 丙. 子. 丁. 丑. 戊. 寅. 岡 榊. 允恭崩 信め 鰹. 13.
(15) . 栗. 書紀数字 天皇御名 紀 書紀干支 年 安. 雄. 康. 甲. 略. 午. 乙. 未. 丙. 申 安康崩。雄略即位. 丁. (紀) 酉. 戊. 戎. 通常紀年. 薫. 記. 事. 半年一年 辛酉起点. 紀年. 己 庚 子 倭王道使(宋書) 庚 4 6 0 4 6 2 奏 “ =. 甲. 己. 亥. 乙. 巳. 子. 丙. 午. 五 辛. 丑. 丁. 末. 六 壬. 寅. 戊. 申 酉. 七 発. 卯. 己. 八 甲. 辰. 庚. 戎. 九 乙. 巳. 辛. 亥. 十 丙. 午. 壬. 子. 未. 葵. 丑. 十. ニ 戊. 申. 甲. 寅. 十. 三 己. 酉. 乙. 卯. 十. 四 庚. 戎. 丙. 辰. 壬. 子. 奨. 丑. 亥. 丁. 巳 倭国造便(宋書) 甲 乙. 寅. 十. 六 壬. 子. 戊. 午 武遺使(宋書). 辰. 十. 七 葵. 丑. 圃. ニ. + 丙 丁 戊 己. 卯 辰 巳 午. 事. (宋書). 五 辛. 九 乙. 三月一年 辛酉起点 記. 紀年. 憲 章. 卯 辰. 十. 寅. 事. 辰. 四 庚. 八 甲. 記. 手 芸 興死弟武立. 一 丁. 十. 略. 事. 十. 十. 雄. 記. 原. 庚 辛 壬 葵 甲. 未 崩御(紀) (五) 乙. 申. 丙. 卯. 国. 末多王使王其国 (紀、数字紀年で 戊 は雄略2 3年). 午. 己. 未. (-). 酉 戎 亥 子 6年(五) 丑 庚子より2. 庚. 申. 辛. 酉. 壬. 戎. 葵. 亥. 甲. 子. 乙. 丑. 日本旧記云以久麻. 那利賜末多王(紀) (-). 丙. 寅. 丁. 卯. 戊. 辰. 己. 巳 雄略崩(記) (五) 午. 庚. 別表二 継体--敏達期の紀年 第一欄, 天皇名, 第二欄, 数字紀年, 第三欄, 通常の干支紀年, 第四欄, 記事, 第五欄 半年一 , 年辛酉起点の干支を通常の干支と間違 えた場合の数字紀年,第六欄,半年一年辛酉起 点の干支 第七 , 欄, 記事 である, 其他は別表一と同じ.. 14.
(16) . 通. 天 皇 名 数字紀年 継. 体. 年. 元 丁. 亥. 二 戊. 子. 三 己. 丑. 四 庚. 寅. 五 辛. 卯. 六 壬. 辰. 七 葵. 巳. 八 甲. 午. 九 乙. 未. 十 丙. 申 酉. 十. 一 丁 二 戊. 十. 三 己. 亥. 十. 四 庚. 子. 十. 五 辛. 丑. 十. 六 壬. 寅. 十. 七 葵. 卵. 八 甲. 辰. 十. 十 十. 九 乙. 安 省 一. 開 化. 明. 柵. 大化前代の紀年. 記. 事. 半年起年 一年辛支 常 酉紀点干通 年辛 干 を支た字 一 点の 場 の千 遠 と間 合 え の数 紀年. 龍 支. 記. 事. 戎. 羅体. 巳. 二. 十 丙. t \ 午 遷酬 都玉穂 (紀)/七). 廿. 未. 廿. 一 丁 二 戊. 廿. 三 己. 酉. 廿. 四 庚. 戎. 廿. 五 辛. 亥. 壬. 子. 奨. 丑. 申. 元 甲. 寅. 二 乙. 卵. 元 丙. 辰. 二 丁. 巳. 三 戊. 午. 四 己. 未. 元 庚. 申. 二 辛. 酉. 三 壬. 戊. 四 五 六 七 丙. 寅. 八 丁. 卯. 九 戊. 辰. 十 己. 巳. 卯 五 辛 辰 優 纏穂総 六 壬 般 朝 巳 七 葵 鮮 ( *附戎亥 午 未申酉 八九 甲十 数根 『 乙 稲( 丙 十十 一 丁 戊 - - 己 十三四五 子 丑寅 卯 庚 々 辛 十二廿 十 十十十 壬 六 七八 奨甲 辰 巳 九 乙 午 未申西 戎 十 丙丁 ) 獅縛耐記 - : - 廿廿 戊 一 熱莞 H迅 三四己五 庚 廿 亥 辛 廿. 鰯玉÷穂 (扶桑目編の 代 ‘ 耐 世年以前 己事←まを と帆. ㈲↑. 緋崩 (紀或本、 /ゴ 織稲目為大臣 ′五ー t. 元 二 三 四. \. 網. 切安 漕鰍 断 欄. ◎. 末 己 申酉 元 庚 辛 二 皮 三 壬 四 五七八 九. . ÷ 十 十: 十十十 十十 一 三四 五 六七八 十十 十 九. 15.
(17) . 栗. 原. 蕪. 半年一年辛 天皇名. 数字紀年. 通常干支紀. 年. 記. 事. 酉起点干支 紀年を通常 半年一年辛 酉起点の千 の干支と間 違えた場合 支. 記. 事. の数字紀年. 敏. 十. 一 庚. 午 高麗王躯却(紀一本)(三). 十. ニ 辛. 未 得漢城平壌(紀)(三). 十. 三 壬. 十. 四 奏. 酉. 十. 五 甲. 戎 敵遅立太子 (四). 十. 六 乙. 亥. 十. 七 丙. 子. 十. 八 丁. 丑. 十. 九 戊. 寅. ニ. 十 己. 卯. 一 庚. 辰. 廿. 二 辛. 巳. 廿. 三 壬. 午. 廿. 四 葵. 未. 廿. 五 甲. 申. 廿. 六 乙. 酉. 廿. 七 丙. 戎. 廿. 八 丁. 亥. 廿. 九 戊. 子. 三. 十 己. 丑. 二. 一 庚. 寅. ニ. ー 辛 ー G 壬 7. 卵. 葵 E P. 未. 五 丙. 申. 六 丁. 酉. 七 戊. 戎. 八 己. 亥. 九 庚. 子. 十 辛. 丑. 十. 一 壬. 寅. 十. ニ 葵. 卵. 十. ・三 甲. 辰. 十. 四 乙. 巳 難波堀江(紀、元興寺縁起)(六) 午. C 丙 7. 崇. 目 安. 7 C 戊. 申. 己. 酉. 16. ÷ 子 敏遅立太子{四). 巳. 明. 古. 廿ノ 八 丁 廿九 戎. 午. 用. 推. 善望. 漢城放棄(紀){三). 辰. 四 乙. 丁. 農. 義 呈 狭手彦伐高麗(紀)(三) 仏教公伝(元興寺縁起慈俊私勘) 廿六 麦 嚢 (io 廿七. 申 仏教公伝(紀)(八). 廿. 達. 屋. 末. 庚. 戎. 四 辛. 亥. 五. 壬. 子. 葵. 丑. 欽明. 尊皇 葦 客室 旨. ‐ t f ヘ ノ 廿九 義 三十 長 庚. 詣 蔑 孝 丑. 難波堀江(法王帝説、 元興寺縁起) (六).
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