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} 岡山大学構内遺跡発掘調査報告 第11冊
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(アイソトープ総合センター新営予定地)
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1 岡山大学埋蔵文化財調査研究センター
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第6次調査
(アイソトープ総合センター新営予定地)
1997年
岡山大学埋蔵文化財調査研究センター
本報告書は、アイソトープ総合センター建設にともない、1990年度と1991年度に実 施した鹿田遺跡第6次発掘調査の成果をまとめたものである。今回の調査地は、おお むね方形をなす鹿田キャンパスの中ではほぼ西端に位置する。これまでに発掘を実 施した外来診療棟・管理棟の調査地は中央部北寄り、医療技術短期大学部校舎調査 地は南東隅であったから、キャンパス西部の遺跡の状況を明らかにする本格的な調 査は今回の発掘がはじめてのこととなった。
調査の結果、当地には弥生時代後期から古墳時代初頭の時期と平安時代末から鎌 倉時代にかけての二つの時期の遺構・遺物が集中することが判明した。とりわけ後 者の時期では発掘区西端において南北方向に流れる大溝の重複が注目され、井戸な どとともに、土器・陶磁器などの豊富な遺物を含んでいた。これらの大溝はほぼ同じ 位置にやや時間を前後させながら繰り返し穿たれたもので、この南北線へのこだわ りには相応の歴史的な理由があったと考えるべきであろう。岡山平野をつらぬく旭 川の東西両岸には真北を基準線とした条里制の痕跡がひろくのこるが、鹿田周辺は 真北に対して東へ約15度傾く特異な地割りをみせる。今回検出した大溝は、正確に言 えば後者の鹿田地域の現地表にのこる地割りの傾きとよく一致するのであって、あ るいは現地表の土地区画の起源が少なくとも大溝の穿たれた鎌倉時代前半期までさ かのぼる可能性を示唆しているのかもしれない。今後の調査に興味深い課題を提起
したといえよう。
本報告はまた、鹿田遺跡出土遺物の分析を基礎にした土師質鍋と輸入陶磁器に関 する考察を含んでいる。古代後半期から中世にかけての考古学研究が盛んである昨 今、報告および論考について適切な批判をお願いするとともに、今次発掘の調査成果 が関係分野の研究に少しでも役立つことを期待したい。
発掘調査の実施と報告書作成にあたっては、研究者各位からご教示をたまわるこ とがあり、また本学事務局および鹿田地区関係部局の方がたのご協力もいただいた。
末尾ながら記して深甚の謝意を表す次第である。
1997年3月4日
岡山大学埋蔵文化財調査研究センター長
稲 田 孝 司
1
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本書は、岡山大学埋蔵文化財調査研究センターが、1990年11月20日から1991年6月30日までの 期間で行ったアイソトープ総合センター新営工事に伴う発掘調査(鹿田遺跡第6次調査)の報 告書である。調査地は、岡山大学鹿田地区構内のBV〜CC・67〜71区に位置する。
発掘調査ならびに報告書作成までの諸作業は、岡山大学埋蔵文化財調査研究センター管理委員 会・同運営委員会の指導のもとに行われた。委員・幹事の諸氏に感謝申し上げる。
本地点の調査の概要は、r岡山大学構内遺跡調査研究年報』8・9に一部を報告しているが、細 部にわたる事実関係は本書をもって正式のものとする。
本書の執筆分担は目次に示したが、第3章は、原則として遺構に関する記述を松木武彦が、遺物 の説明を山本悦世が分担した。また、第1〜3章の松木の執筆内容は、土井基司との協議に基づ
くものである。編集は、稲田孝司(センター長)・新納泉(調査研究室長)の指導と助言のも と、松木が担当し、転出後は山本が引き継いだ。
本書掲載の図面・写真のうち、調査現場における実測図・写真は、松木武彦・山本悦世・土井 基司・富樫孝志による。遺物については実測を光石鳴巳・松本哲郎・岩暗志保・山本が、写真 i撮影を岩暗・光石が行い、山本が全体を監修した。遺構の図面編集は土井・松木が行い、浄写を
吉田桜子が担当した。
出土した輸入陶磁器については山本信夫氏(太宰府市教育委員会)の教示を受けた。
自然科学的分析では、種子類を沖陽子氏(岡山大学環境理工学部助教授)に、石製品の石材同定 は鈴木茂之氏(岡山大学理学部講師)にお願いし、有益な教示と指導を得た。
その他の整理作業においては、恩藤富子・萩野早苗・片山純子・黒藪美代子・絹川恵・大橋か おりの協力を受け、本書作成の過程で、阿部芳郎の助力を得た。さらに、次の方々にも、さまざ まな形での指導・助言・協力等をいただいた。記して感謝する。
伊藤 晃 扇崎 由 神谷正義 亀田修一 絹川一徳 小森義尚 近藤義郎 土橋理子 平井泰男 藤澤良祐 福田正継 根木 修 山本信夫
本書に掲載した調査の記録類・出土遺物等は、すべて当センターで保管している。
本書における表記および記述に関する凡例は以下の通りである。
(1)図・図版の縮尺は、原則として次の通りとする。
〈図〉 遺構…溝:1/150 掘立柱建物:1/60 井戸・土墳:1/30 各断面:1/30 遺物…1/4・1/3
〈図版〉遺物…約1/2・1/3
(2)本調査区内での層序番号は、各遺構の説明および図中において、遺構内の土層番号と区 別するために〈〉入りで示す。
(3)遺構名は、本文および図・図版中で、次のような略号を用いて称する場合がある。
掘立柱建物lSB 柵列lSF 井戸:SW 土墳lSK 溝lSD
(4)遺物番号は、原則として遺構別に付す。土器以外の遺物については、次のような略号をつ けて付番する。
土製品:T 木製品:W 石製品:S 金属製品:M
(5)遺物観察表は、本文中に実測図とセットで掲載する。
(6)遺物観察表中での表記方法は次の通りである。
①土器の法量は、
・残存部分が全周の1/2以上:実計測値を示す。
・1/2未満の破片からの復元値:「*」を付けて示し、別に残存率を記す。
・数値に3㎜以上の差がある場合:平均値をあげ、別に実数値の幅を提示する。
・残存値は()を付して示す。
②土器胎土の粒度表記の基準
微砂:径0.5mm以下細砂:径0.5〜hm粗砂:径1〜2mm細礫i:径2mm以上 ③色調:欄中に並記している場合は「内面、外面」の順番で表記する。
陶磁器では、「胎の色、紬の色」とする。
(7)本書で用いる高度値は海抜であり、方位は真北を示す。
(8)本書で使用した地形図は、建設省国土地i理院発行の1/25,000地形図「岡山北部」および
「岡山南部」である。
(9)第1章〜第3章の註は各章末にまとめて記載したが、第4章のみは各節末とする。
第1章遺跡の位置と環境………・・……・…………・………・・………・一…・…・…(松木武彦)1
1.近隣の遺跡・…・………・…・…・…………・・…・………・………・…・・………1
2.鹿田遺跡のこれまでの調査状況と第6次調査地点の環境…・…・…………・……・…・………・4
第2章調査の経i過と概要……・……・……・・………・………・…・…………・…・…………(松木武彦)9 1.調査に至る経過・………・・…・・………・………・・………・…………9
2.調査の体制……・……・……・…………・・……・……・・…………・・………・・………9
3.調査の経過と概要 …………・・……・………・……・…・…・………・……・………11
(1)座標の設定と区割り …………・・…・…………・……・・…………・……・・………11
(2)調査の経過 ・・………・・…………・……・…・………・……・………・…・……・……12
(3)調査の概要 ………・………・………・………・…・……・…・…・…………・……13
第3章調査の記録・………・…………・・……・……・………(松木武彦・山本悦世)14
1◆層序と地形 …・…・………・…………・…・…・………・…・……・………14
(1)鹿田遺跡の基本層序と本地点の層位 ………・…・・…・…………・…・………14
(2)層位と堆積状況 …・…………・…・・……・…………・………・………・・…・……・………・14
(3)地形の復元 ………・…・……・…………・…・…・…・………・……・…・・………・……18
2.弥生時代後期〜古墳時代前期の遺構と遺物 …………・…・…・…・………・・………19
(1)概要 ………・・………・…・………・……・………・・…・……・…………・・………19
(2)遺構と出土遺物 ………・…・・………・・………・…・………・……・19
(3)遺構の展開と性格 ……・…………・・………・………・・…………・…・…・………29
3.鎌倉時代の遺構と遺物 ………・…………・………・・………・・…………・・……・30
(1)概要 ………・…・……・…………・・……・…………・……・・…・………・……・………30
(2)遺構と出土遺物 ………・・…・…・………・……・…・………・・…………・・……・32
4.その他の遺物 ・……・…………・………・・……・…………・…・…・…………92
(1)ピット出土遺物 ………・………・…………・…・………・…………・92
(2)包含層出土遺物 …………・……・・……・………・………・・………・・93
第4章考察……・・…………・………・・………・………・・………・…・・………・…・………・・…g7
1.岡山県南部における土師質鍋の変遷 ………・・…・…・…………・・……(山本悦世) 97
2 輸入陶磁器から見た鹿田遺跡 …・………・…………・………(岩崎志保)115第5章結語・………・………・………・………・…・…・………・・……(松木武彦)125
第1章
図1 周辺遺跡分布図…
図2 鹿田地区全体図および調査地点・・
第2章
図3 調査区区割りと土層断面位置図 第3章
図4 図5
図6 図7 図8 図9
図10 図11 図12 図13 図14
図15図16 図17 図18 図19 図20 図21 図22 図23 図24 図25
2
5−6
11
調査区土層断面図… 15−16 弥生〜古墳時代の遺構全体図および 溝断面位置図・… 20
SK 1… 21
SK 1出土遺物… 22
SD 1断面図…・… 22
SD 2断面図……・… 23
SD 1・2出土遺物・……・ 23
SD 3断面図・・ 24
SD 3遺物出土状況・… 25
SD 3出土遺物…・ 25
SD 4断面図……・ 26
SD 5断面図…・・… 26
SD 7断面図・・…… 27
SD 8断面図… 27
SD 9断面図…… 28
SP 1遺物出土状況・・ 28
SP 1出土遺物……・・ 29
鎌倉時代の遺構全体図・ 31
SB 1…・ 32
SB 2…・・ …… 33
SB 3……・・ 34
SB 4・…・…・ 35
図26 図27 図28 図29 図30 図31 図32 図33 図34 図35 図36 図37 図38 図39 図40 図41 図42 図43 図44 図45 図46 図47 図48 図49 図50 図51 図52 図53 図54
SB 5・・
SB 6………・
SF 1・…………・
SWl
SW 1出土遺物(1)
SW 1出土遺物(2)
SW 1出土遺物(3)
SW 1出土遺物(4)
SW 1出土遺物(5)
SK 2……・…・…
SK 2出土遺物…◆◆…
SK 3遺構・遺物……
SK 4…
SK 4出土遺物(1)・
SK 4出土遺物(2)・
SD10出土遺物…
SD 10……◆
SD11・12・13………
SD11出土遺物(1)・
SD11出土遺物(2)・
SD11出土遺物(3)・
SD12遺物出土状況・…
SD12出土遺物……
SD13遺物出土状況…
SD13出土遺物(1)・
SD13出土遺物(2)・
SD13出土遺物(3)・
SD13出土遺物(4)・
SD13出土遺物(5)・
35
36
37
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40
41
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57
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59
60
61
62
63
64
図56 図57 図58 図59 図60 図61 図62 図63 図64 図65 図66 図67 図68 図69 図70 図71 図72 図73 図74 図75 図76 図77 図78 図79
SD14・15平面図……・
SD14断面図…・−
SD14出土遺物(1)・
SD14出土遺物(2)・
SD14出土遺物(3)・
SD14出土遺物(4)・
SD14出土遺物(5)・
SD14出土遺物(6)・
SD14出土遺物(7)・
SD15断面図……・・
SD15出土遺物(1)・
SD15出土遺物(2)・
SD15出土遺物(3)・
SD15出土遺物(4)・
SD15出土遺物(5)・
SD15出土遺物(6)・
SD15出土遺物(7)・
SD15出土遺物(8)・
SD15出土遺物(9)・
SD15出土遺物(10)・
SD15出土遺物(11)・
SD16・17・18平面図・
SD16断面図・・
SD16出土遺物……
66 67 68 69 70 71 72 73 74 75 76 77 78 79 80 81 82 83 83 84 85 86 86 87
図81SD17出土遺物…・…・
図82 SD18断面図………◆…
図83 SD19断面図…・………
図84 SD20・・
図85 ピット出土遺物・・…・
図86 包含層出土遺物(1)
図87 包含層出土遺物(2)
図88 包含層出土遺物(3)
第4章 考察
図89 タイプ別形態比較図…・一 図90 法量分布図…
図91時期別口径分布図・………・
図92 土師質鍋形態分類図…・
図93 時期別のタイプ間占有率…・・…
図94 古墳〜平安時代の甕と
Aタイプの鍋との比較図
図95 土師質鍋と小形食器の
占有率変遷図
図96 土師質鍋と椀の形態変遷図・……
図97 鹿田遺跡出土白磁……・・…
図98 6次調査地点出土青磁・・………
図99 出土陶磁器分類・編年概略図・…・
図100 時期別出土傾向………・…
図101遺跡別出土傾向………
89 90 91 91 92 93 94 95
98 100 100 102 103
104
106
109
116
117
119
120
122
表1 表2 表3
法量分類表…………・・……
タイプ別属性表………・・…
土師質土器の属性消長表・・
第2章
写真1 第1・5次調査地点遠景 写真2 調査の開始状況…………
写真3 遺構の検出作業風景……
写真4 排水作業風景………
第3章 写真5 SK 1…
写真6 SD 3遺物出土状況………
写真7 SP 1遺物出土状況………
写真8 柱穴検出状況(柱穴b)
写真9 SB 2完掘状況………
写真10 柱穴検出状況(柱穴b)
写真11SB 4完掘状況…・…………
写真12 SB 6完掘状況・………
写真13 SF 1完掘状況…・…………
写真14SW 1完掘状況
101 102 110
表4 表5 表6
陶磁器出土遺構一覧・・
山本編年の時期区分・・
時期別出土点数・……
挿入写真目次
12 12 12 12
21 25 29 32 33 33 34 36 37 37
写真15 写真16 写真17 写真18 写真19 写真20 写真21 写真22 写真23 写真24 写真25 写真26 写真27 写真28 写真29
SW 1遺物出土状況 SK 2遺物出土状況・……
SD10完掘状況……・……
SD11・12・13…
SD12遺物出土状況・……
SD13遺物出土状況……・
SD14・15…・・………・・…
SD14底の木材出土状況・
SD16完掘状況…………・
SD17完掘状況……・……
SD17遺物出土状況……・
SD18完掘状況…・………
SD19断面………
SD20完掘状況・…………
ピヅト内遺物出土状況・
115 118 120
39
45
51
52
57
59
66
66
86
89
89
90
91
91
92
図版一 図版二 図版三 図版四 図版五 図版六
弥生〜古墳時代の遺物(溝1〜3)
鎌倉時代の遺物(土墳2・4)
鎌i倉時代の遺物(溝10・11・17)
鎌倉時代の遺物(溝12)
鎌i倉時代の遺物(溝13・15)
鎌倉時代の遺物(井戸1)
図版七 鎌倉時代の遺物(井戸1)
図版八 鎌倉時代の遺物(井戸1木製品)
図版九 鎌倉時代の遺物(溝14)
図版十 鎌倉時代の遺物(溝14)
図版十一 出土石器・土製品
第1章遺跡の位置と環境
1.近隣iの遺跡(図1)
鹿田遺跡は、岡山市街地の南部、岡山大学鹿田地区(岡山市鹿田町2丁目5番1号)のほぼ 全域にわたって広がる縄文時代〜江戸時代の複合遺跡である。県下3大河川の1つに数えられ る旭川が形成した岡山平野のほぼ南端部に当たる沖積地上に位置しており、現在の標高は2〜
2.5m前後である。
旭川の現河道は遺跡の東方1㎞弱を南流しているが、かつては岡山市街地の北東から南西に 向けて幾筋もの河道となって網流していたらしい。その北半部は自然堤防による微高地と後背 湿地から成る自然堤防帯が形成され、南半部は堆積作用の盛んな三角州帯が展開していたと考
くユ
えられている。鹿田遺跡の主要部分は、その南半部に当たる三角州上に立地しているとみら れ、現在は海岸線から遠く隔たっているが、中世以前には遺跡のすぐ南まで瀬戸内海(児島 湾)が迫っていた。
遺跡周辺での人間の生活の跡は旧石器時代にまで遡り、東方約2㎞の操山山塊ではナイフ形 く
石器や細石器が採集されているという。縄文時代には、後〜晩期を中心とする生活吐が、津 くヨ 島・百間川など近隣の各遺跡で確認されている。鹿田遺跡でも、わずかではあるが中期および 晩期の土器が発見されており、この付近にも、希薄ながら、当時の生活域の一部が及んでいた
可能性が高い。
弥生時代に入ると、津島・百間川など各遺跡で、前期に遡る水田や集落跡が検出されてお り、水稲農耕を軸とする新しい生活がいち早く根付いたことが見て取れる。農耕社会の発展に 基づく生産の拡大や人口の増加は、中期に至ると新しい村々の分岐を促し、津島・南方などを 核とする旭川西岸、百間川・雄町などを中心とする旭川東岸などを領域とする地域集団の成熟 をもたらした。鹿田遺跡の位置する当時の旭川河口付近でも、三角州の拡大に乗じて、中期前 半には北東1㎞の天瀬遺跡に生活拠点が形成され、中期後半〜後期にかけては鹿田・二日市な どに生活域を分岐させて、1つの地域集団が形成されたとみられる。鹿田遺跡では、これまで の調査で、竪穴式住居や井戸・土墳・土器溜まりなどの遺構が濃密に検出され、土器を中心に 多量の遺物が出土している状況から、かなり安定した生活の拠点を形成していたことが窺われ る。その生産基盤となる水田についてはいまだに明らかでないが、土錘・石錘・製塩土器など の存在から、海岸に近い立地を活かした生産活動が一定の比重を占めていたと考えられる。
農耕社会の発展に基づく弥生時代の地域集団の成熟は、その内部に階層関係の進展をはらむ
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0 50km
1.片山古墳(古墳前期)
2.宿古墳群(古墳)
3.妙見山城跡(戦国)
4.一本松古墳群(古墳前期)
5.タイミ山古墳(古墳前期)
6.佐見池谷尻古墳群(古墳後期)
7.佐良池古墳群(古墳後期)
8.半田山城(戦国)
9.都月坂古墳群(弥生後〜古墳前期)
10.烏山城(笹ケ迫城)(戦国)
11.七ソ」丸古墳群(古墳前期)
12.お塚様古墳(古墳前期)
13.津島岡大遺跡(縄文〜古代)
14.津島江道遺跡(弥生)
15.国史跡神宮寺山古墳(古墳前期)
16.津島:遺跡(弥生・古墳他)
17.津倉古墳(古墳前期)
18.上伊福西遺跡(弥生後期他)
19.上伊福遺跡(弥生・古墳他)
20.絵図町遺跡(弥生他)
21.広瀬遺跡(弥生)
22.南方遺跡(弥生・古墳)
23.岡山城(戦国〜江戸)
24.天瀬遺跡(弥生中・後期)
25.二日市遺跡(弥生〜江戸)
26。網浜廃寺(白鳳〜平安)
27.網浜茶臼山古墳(古墳前期前半)
28.操山109号墳(古墳前期)
29.操山103号墳(古墳前期)
30.操山106号墳(古墳前期)
31.湊茶臼山古墳(古墳前期)
32.竜ノロ山項古墳群(古墳後期)
33.車塚古墳(古墳前期前半)
34.湯迫古墳群(古墳後期)
35.国史跡賞田廃寺(飛鳥〜中世)
36.唐人塚(古墳後期)
37.備前国庁跡(古代)
38.備前国府推定地(古墳前期〜中世)
39.古都(井寺)廃寺(白鳳〜平安)
40.往来神社古墳群(古墳前期)
図1 周辺遺跡分布図(縮尺1/70,000)
41.山王山古墳群(古墳前期)
42.東岡山遺跡(弥生他)
43、雄町遺跡(縄文晩期〜平安)
44.乙多見遺跡(弥生他)
45.幡多廃寺(奈良〜中世)
46.赤田西遺跡(弥生〜古墳)
47.赤田東遺跡(弥生)
48.百間川原尾島遺跡(弥生他)
49.百間川沢田遺跡(弥生他)
50.百間川兼基遺跡(弥生他)
51.百間川長谷遺跡(中世他)
52.百間川当麻遺跡・百間川岩 間遺跡(弥生前期〜江戸)
53.正木城跡(戦国)
54.金蔵山古墳(古墳前期)
55.明禅寺城跡(戦国)
56.操山古墳群(古墳)
57.旗振台古墳(古墳前期後半)
ものであったに違いない。この地域でも、弥生時代末から古墳時代前期にかけて、平野を囲む 山塊の各所に、有力集団墓や首長墓が盛んに築かれるようになる。半田山山塊の尾根上にある 都月坂2号墓・都月坂1号墳・七つ坑1号墳や、京山山塊の津倉古墳は、北方の津島遺跡を中 心とする旭川西岸の集団に対応する首長墓系譜であろう。また、旭川東岸の百間川遺跡や雄町 遺跡を望む山塊上には、三角縁神獣鏡の多量副葬で著名な車塚古墳や宍甘山王山古墳などの前 方後円墳が築かれる。鹿田遺跡のある旭川河口付近の集団が築いた首長墓系譜には、遺跡を見 下ろす尾根上にある操山109号墳・網浜茶臼山古墳という前方後円墳の系列が当てられよう。
これらの首長墓系譜は、前期後葉〜中期初頭にそれぞれ神宮寺山・金蔵山・湊茶臼山という 150m級の大型前方後円墳を生んで最盛期を迎えるが、それを最後に急速に衰退し、後期にも 中小の円・方墳をみるのみとなる。
古墳時代の集落は、百間川・雄町など旭川東岸の遺跡で一定の広がりをもって確認されてお くのり、西岸では津島遺跡北隣の津島岡大遺跡でその一部が検出された。旭川河口付近の様相はい
まひとつ明らかでないが、鹿田遺跡では、これまでの調査で、弥生時代から古墳時代に入る頃 に井戸の管理形態や遺物などの諸様相に変化が生じ、古墳時代後半期には集落規模が著しく縮
くら
小することなどが判明しており、首長墓の変動から読み取れるこの時期の社会的・政治的変化 に対して、一般集落もまた無関係ではありえなかった状況を垣間見ることができる。
古代国家完成期の政治状況を反映する寺院や国府については、跡地の推定などが中心で、本 格的な調査研究の進展は今後に委ねられるところが多いが、百間川遺跡群の東端に近い米田 くの(当麻)遺跡では、官の存在を窺わせる墨書土器・帯金具や建物群が発見された。条里地割は 旭川東岸を中心に比較的よく遺存しており、西岸においても、条里に関連すると考えられる水 路や整地層などの遺構が、津島・津島岡大などの各遺跡で検出されている。
また、岡山平野は、古代から中世にかけての荘園が濃密に分布することが、文献資料などか ら知られる。とくに、藤原氏の殿下渡領とされる鹿田庄は、鹿田遺跡周辺に存在したと考えら れ、これまでの調査で検出された平安時代や鎌倉時代の集落‡止が、それと関連する可能性をも つ。さらに、鹿田遺跡以外にも、掘立柱建物や井戸などを伴うこの時期の集落‡止が、百間川遺 跡群等で調査されている。
おおよそ室町時代頃を境にして、この地域でも集落の分布や立地状況に大きな変動が生じた らしく、以後江戸時代に至るまで、集落その他の具体的な様相ははっきりしない。江戸時代以 降、岡山平野南部は大規模な干拓が進められ、海岸線は一気に南へ後退する。また、岡山城や 城下町の建設などによる開発も急激に進められた。こうした中で、鹿田遺跡の南東約1㎞の二 日市遺跡において、銭座跡に比定される寛永通寳鋳造関係の遺構が検出されたことは、技術史 くア
や近世経済史の研究の上で貴重な発見である。鹿田遺跡周辺は岡山城下町の南辺に当たり、江
戸時代以後は耕地が広がる農村地帯となっていたらしく、畦畔や野壼などの遺構がしばしぼ検
出される。
その後、1921(大正10)年に、岡山大学医学部および同附属病院の前身である岡山医学専門 学校・岡山県立病院が建設され、これに伴って遺跡地は厚さ0.6〜1m内外の造成土に覆われ ている。近隣もしだいに都市的開発が進み、現在、遺跡周辺は全面的に市街地が形成されてい
る。
2、鹿田遺跡のこれまでの調査状況と第6次調査地点の環境(図2)
鹿田遺跡は、自然地理学的には、旭川によって形成された沖積平野の最下流部、河口近くの 三角州帯上に立地する。その基盤をなす上部洪積砂礫層上面の深さは、この付近では9〜10m 前後を測り、それより上は海性・河性堆積物から成る粘土層・砂層が厚く溜まった軟弱な地盤
く
を形成している。また、これまでの調査の結果によると、遺跡の中心域とみられる附属病院外 来診療棟・管理棟付近において、弥生時代〜古墳時代の遺構面の海抜が1m前後、古代〜中世 く の面が1.2〜3mと、土圧による沈下や海水準の変動を考慮してもかなり低い。さらに南方に ある医療技術短期大学部付近では、検出された古代の河道底が、現海面よりも低いレベルにあ
くエの
る。当時の汀線が遺跡のすぐ南に迫っていたとみられる点なども考え合わせると、遺跡は、海 岸に形成された砂州状の微高地に拠った立地で、前述の河道や周囲の低湿地には海水や汽水の 侵入がみられた可能性を考えなけれぼならない。このことは、弥生時代以来の生産基盤である 水田のあり方との関連において鹿田遺跡の特性を理解するうえで重要であろう。鹿田遺跡は、
津島・百間川といったやや内陸寄りの、いわゆる自然堤防帯に立地する諸遺跡とは、自然地理 学的な景観や環境の面で、多少異なった特質を備えていたとみることができる。
遺跡の主要部に当たるとみられる微高地は、岡山大学鹿田地区の中央やや北寄りの、附属病 院外来診療棟付近を中心とする。ここでは、第1次発掘調査の結果、弥生時代中期末・後期前 半〜古墳時代初頭、平安時代前半、平安時代末〜鎌倉時代の各時期を主とする遺構・遺物が濃 密に検出され、長期にわたって、しばしぼ居住域の中核になっていたことが判明した。さら に、この南西に隣i接する附属病院管理棟地点では、第5次発掘調査において、外来診療棟地点 ほどではないが、ほぼ同じ期間のかなり濃密な遺構・遺物が発見された。時期を細かくみれ ぼ、弥生時代では遺構密度が北に片寄りを見せ、遺物量も少なく集落の中心からはずれていく 様子を示すが、平安時代あるいは鎌倉・室町時代には遺構・遺物とも豊富であり、居住区の拡
大を示す。
この微高地の範囲について検討してみると、まず外来診療棟・管理棟地点の北側に当たる駐 車場付近、および南側に当たる東西病棟付近は低湿で、現有のデータによる限りでは、安定し
鵬
50 40 30 20
1000
皿皿本調査(6次)
図2 鹿田地区全体図および調査地点(縮尺1/2・500)
AA
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⑯o〈n
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た遺構が全面に広がる可能性はさほど高いとはいえない。東側も、歯学部棟の東半付近から東 は低湿らしく、また中央診療棟北側の第2次調査地点では、遺構・遺物の様相から、微高地に 載る生活域の縁辺に近い状況が判明している。これらの知見から判断して、この微高地は、外 来診療棟地点を中心とする比較的狭小な範囲に限られるものであった公算が強い。西側につい ては、これまでデータが乏しかったが、外来診療棟地点から南西へ約200m離れた今回の地点 の調査結果は、この微高地の範囲や周囲の状況をより正確に把握する手がかりとなりうる。
弥生時代末〜古墳時代初頭にかけて、やはりこの微高地が集落の中心となるが、約250m南 方の医療技術短期大学部付近でも、第3次発掘調査の際にこの時期の土器片が発見されてい る。東西病棟付近に想定される低湿な一帯を隔てて海岸寄りのこの場所に、いまひとつの砂州 状の微高地が形成されており、新たな生活域として活用されるようになったことを示すもので あろうか。その後、古墳時代後半の衰退期を挟んで集落の復興がみられる平安時代前半にも、
ほぼ同じ状況が続く。
続く平安時代末〜鎌倉時代には、外来診療棟・管理棟付近、医療技術短期大学部付近の2つ の微高地に、それぞれ建物や井戸・区画溝等をもつ集落が形成される。この時期の遺物は、鹿 田地区内の各所において立会調査などの際に確認されていることから、従来の微高地を中核と しながらも、広い範囲にわたって生活域が拡大した状況が推測されよう。西端部に近い今回の 第6次調査地点でも、南に隣接する附属動物実験施設棟の新営工事の際に鎌倉時代の遺構・遺 く の物が発見され、また試掘調査結果でも同様の状況が確認されたことから、この付近にも生活域
が及んだ状況が見て取れる。
室町時代以降の状況については不分明な点が多い。ただ、遅くとも江戸時代から大正年間に かけては、鹿田地区のほとんどの範囲が耕地化されており、畦や段による区画や野壷などが普 遍的に認められる。この付近が安定した耕地になった時期を考古学的に知ることは難しいが、
現在の岡山市街地南方の干拓と新田開発が本格化し、海岸線が大きく南へ遠ざかる17世紀前半
く
頃(寛永年間)に、画期の1つがあった可能性を想定しておきたい。
以上のように、今回の第6次調査地点は、鹿田地区内の西端近くに位置し、弥生時代以来の 古い微高地とそれに載る集落の中核からはやや外れた立地ではあるが、鎌倉時代頃には生活域 の拡大・増加により集落の主要な一部をなすに至った場所と予測できる。したがって、調査の 最大の主眼は、この集落の存続時期・消長および構造を明らかにすることであり、その他の目 的として、それより古い時代の遺構・遺物の検出と把握、江戸時代〜大正年間にかけての耕地 の状況の確認などの諸作業が考えられよう。 (松木)
註
(1)高橋達郎 1983 「地形環境」(r岡山県史』第1巻・自然風土)
(2)鎌木義昌 1962 「第一編 原始時代」(r岡山市史(古代編)』)
(3)津島遺跡調査団 1969 『昭和44年岡山県津島遺跡調査概報』
岡山県教育委員会 1980〜1985 r旭川放水路(百間川)改修工事に伴う発掘調査』1〜6、岡山県埋蔵文 化財発掘調査報告39・46・51・52・56・59
(4)松木武彦 1994 「津島岡大遺跡第10次調査」(阿部芳郎編r岡山大学構内遺跡調査研究年報』11岡山大 学埋蔵文化財調査研究センター)
(5)山本悦世 1988 「鹿田遺跡における集落構造とその変遷」(吉留秀敏・山本悦世編r鹿田遺跡』1 岡山 大学構内遺跡発掘調査報告第3冊 岡山大学埋蔵文化財調査研究センター)
(6)岡山県教育委員会 1981 r百間川当麻遺跡』1 岡山県埋蔵文化財発掘調査報告46
(7)出宮徳尚 1985 「岡山県二日市遺跡」(日本考古学協会編r日本考古学年報』35)
(8)斎藤伸英 1978 「地形」(石田寛監修・竹久順一他編r岡山県の地理』福武書店)
高橋達郎 1983 「地形環境」(註1)
(9)吉留秀敏・山本悦世編 1988 r鹿田遺跡』1岡山大学構…内遺跡発掘調査報告第3冊 岡山大学埋蔵文化財 調査研究センター 以下、第1・2次発掘調査(附属病院外来診療棟およびNMR−CT室建設地)について の記述は、この文献に拠る。
松木武彦編 1993 r鹿田遺跡』3 岡山大学構i内遺跡発掘調査報告第6冊 以下、第5次発掘調査(附属 病院管理棟建設地)についての記述は、この文献による。
(10)山本悦世編 1ggo r鹿田遺跡』H 岡山大学構内遺跡発掘調査報告第4冊 以下、第3・4次発掘調査 (医療技術短期大学部校舎建設地)についての記述は、この文献による。
(11)山本悦世 1991 「アイソトープ総合センタ・一予定地」(土井基司編r岡山大学構内遺跡調査研究年報』
8 岡山大学埋蔵文化財調査研究セソター)
(12)岡山河川工事事務所 1977 r地域社会と河川の歴史皿一旭川一』
第2章 調査の経過と概要
1.調査に至る経過
本発掘調査は、岡山大学鹿田地区にアイソトープ総合センターを新営する計画に伴って、実 施が決定された。
予定地は、鹿田地区敷地の西辺、医学部基礎医学棟の南側に位置する(図2)。1983〜84年お よび1987〜88年にそれぞれ調査が行われ、弥生時代および平安〜鎌倉時代を中心に多量の遺構 と遺物が発見された附属病院外来棟・同管理棟地点から、南西に約200mを隔てた場所である。
また、すぐ南側に隣接する医学部附属動物実験施設の建設時には、鎌倉時代の遺構・遺物が発 見され、岡山市教育委員会によって緊急に断面の記録等が行われたという経緯がある。した がって、この場所にも一定の密度で当時の遺構・遺物が埋蔵されていることが、十分に予測で
きた。
こうした状況をより正確につかむために、周知の遺跡内ではあるが、アイソトープ総合セン ター建設の計画が具体化した1990年10月15〜18日にかけて試掘調査を実施した。その結果、鎌 倉時代を中心とする時期の遺物や柱穴が検出されて、この時代の集落が存在することが確実と
ロ
なり、1990年11月20日から1991年4月末日までの予定で発掘調査に入った。ただし、後述のよ うな事情から、実際の調査期間は1991年6月30日までの約7.3ヶ月間となった。調査面積は約 690㎡で、常時2名の調査員が担当した。2。調査の体制
本発掘調査は、岡山大学埋蔵文化財調査研究センターが担当した。調査組織および審議機関 等は以下の通りである。
〈調査組織〉
調査主体 高橋 克明(岡山大学学長)
調査総括 高重 進(埋蔵文化財調査研究センター長(教育学部教授)、1990年度)
稲田 孝司(埋蔵文化財調査研究センター長(文学部教i授)、1991年度)
調査員松木武彦(埋蔵文化財調査研究センター調査研究員(文学部助手))
〃 山本 悦世(埋蔵文化財調査研究センター調査研究員(文学部助手))
〃 土井 基司(埋蔵文化財調査研究センター調査研究員(文学部助手))
〃 富樫 孝志(埋蔵文化財調査研究センター調査研究員(文学部助手)、1991年4月〜)
〈管理委員会〉
(1990年度)高橋 克明(学長)
好並 隆司(文学部長)
松浦 政義(教育学部長)
藤井 俊雄(法学部長)
橋本 博之(経済学部長)
萬成 勲(理学部長)
小坂二度見(医学部長)
足立 明(歯学部長)
田坂 賢二(薬学部長)
河野伊一郎(工学部長)
中村怜之輔(農学部長)
〈幹事〉
石川 秀夫(庶務部長)
渋谷 政利(施設部長)
(1991年度)高橋 克明(学長)
好並 隆司(文学部長)
松浦 政義(教育学部長)
藤井 俊雄(法学部長)
橋本 博之(経済学部長)
山口 恒夫(理学部長)
木村 郁郎(医学部長)
足立 明(歯学部長)
田坂 賢二(薬学部長)
河野伊一郎(工学部長)
中村怜之輔(農学部長)
〈幹事〉
石川 秀夫(庶務部長)
渋谷 政利(施設部長)
〈運営委員会〉
(1990年度)高重
定兼 範明(教養部教授)
脇本 和昌(教養部長)
本田 和男(自然科学研究科長)
河崎 利夫(資源生物研究所長)
定兼 範明(附属図書館長)
大月 三郎(医学部附属病院長)
山下 敦(歯学部附属病院長)
秋本 俊一(地球内部研究センター長)
坂田 注(学生部長)
喜多嶋康一(医療技術短期大学部長)
馬場 眞平(事務局長)
高重 進(埋蔵文化財調査研究センター長)
大久保輝男(経理部長)
脇本 和昌(教養部長)
富永 久雄(自然科学研究科長)
河崎 利夫(資源生物研究所長)
萬成 勲(附属図書館長)
大月 三郎(医学部附属病院長)
山下 敦(歯学部附属病院長)
松井 義人(地球内部研究センター長)
長堀 金造(学生部長)
喜多嶋康一(医療技術短期大学部長)
大谷 利治(事務局長)
稲田 孝司(埋蔵文化財調査研究センター長)
大久保輝男(経理部長)
進(教育学部教授・埋蔵文化財調査研究センター長)
本田 和男(工学部教授)
中山 稲田 渋谷
(1991年度)稲田 高重 本田 狩野 渋谷
沃(医学部教授) 小田嶋梧郎(歯学部教授・調査研究専門委員)
孝司(文学部教授、9月から)新納 泉(文学部助教授・調査研究室長)
政利(施設部長)
孝司(文学部教授・埋蔵文化財調査研究センター長)
進(教育学部教授)
和男(工学部教授)
久(文学部教授)
政利(施設部長)
3.調査の経過と概要
(1)座標の設定と区割り(図3)
定兼 千葉 新納
範明(教養部教授)
喬三(農学部教授調査研究専門委員)
泉(文学部助教授・調査研究室長)
岡山大学鹿田地区構内には、周囲の市街地および構内建物の主軸に合わせた構内座標が設定 されている。この構内座標は、国土地理院第5座標系の南北・東西軸座標値(X=−149,800、
Y=−37,400)を原点とし、それよりも南北軸をN15°Eに振ったものである。構内には、この 座標軸を基準に、1辺5mの正方形の区
割りがあり、これまでの鹿田遺跡の調査 71 70 69 68 67 1 { l l l は、すべてこの区割りに基づいた位置関
一 [ 「−BW
係の上に記録されている。 A 麟 Aノ この区割りの呼称については、原点を
通る東西ラインをAA、それより南へ5 mごとの東西ラインをAB、 AC、…AZ、
BA、 BB…、のごとく付番し、また原点 を通る南北ラインを00、それより西へ5 mごとの南北ラインを01、02、03…、と 付番していく。これらのラインによって 形成される5m四方の区画名は、その東 北コーナーで交わる2方向のライン名を 組み合わせて、AAOO区、 ABOI区、 AC O2区、というように呼称する。
本調査区は、この構内座標上、BV〜
CC・67〜71区に位置する。調査に当 たっては、これらの座標ラインと5m四
1]
二]
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図3 調査区区割りと土層断面位置図(縮尺1/400)
づ ㌶ ながが ビリひ 墾麺獺蹟璽璽彗『噺
轟鑑細藩 羅難警譜毒
難難蓼蠣二饗講趨1鰹藁蕪
議轟鋤雛難鑛鍛 欝羅馨簿鷺蟻灘1
写真1 第1・5次調査地点遠景
(本地点から)
写真3 遺構の検出作業風景(南から)
難菱麟1講顯簸艦轟
写真4 排水作業風景(北西から)
方の区画を、じかに発掘区中に設定した。した がって、調査に際しての区割り名は、構内座標 のそれに直接合致する。
(2)調査の経過
調査は1990年11月20日に開始した。調査地点 は駐車場として使用されており、アスファルト をはがした後、厚さ約60cmに及ぶ大正年間以後 の造成土を機械で除去した(写真2)。広い範 囲にわたる旧建物の強固な基礎を、直下の遺構
縫寒縛難黛面の臓最噸に押さえな瀧麺り
除かなければならなかったために作業は難航 し、12月11日にようやく終了した。
調査対象となる層位は、次章で詳しく述べる ように8枚が設定されたが、結果として実質的 に遺構検出と記録をなし得たのは、大正年間の 写真2 調査の開始状況(南から) 耕土層である〈3>層、鎌倉時代の遺構が検出
て明確な遺構は検出されなかった。〈5>層は 鎌倉時代の遺構の切込面とみられたが、これも グライ化により確認が困難であったため、一部 は下の〈6>層上面で検出を行う結果となっ た。この段階で、鎌倉時代を中心とする溝・
ピヅト・井戸などの遺構が予想以上に密集して 複雑に切り合っていること、および試掘調査で は確認されなかった弥生時代末〜古墳時代初頭 の遺構・遺物の存在が判明したために調査期間 を延長し、一部を翌1991年度の事業として行う
こととした。密に錯綜していた鎌倉時代の遺構群については、切合関係に応じておおむね2段 階に分けて検出・記録を行い、5月末までに作業を完了した。続いて〈7>層の調査に着手 し、降雨と排水不良による水没(写真4)に悩まされながらも、6月中旬に検出・記録を終え た。この段階で成果の大部分は明らかにできたと考え、6月22日には現地説明会を行って約20 名の参加者を得た。その後、〈8>層まで掘り下げて残余の遺構を拾い、一部深掘りを試みて深 部の層位を確認したのち、6月30日に調査を終了した。
(3)調査の概要
本調査では、大正年間を最終とする江戸時代以降の耕土層、鎌倉時代の溝・建物・井戸、弥 生時代後期〜古墳時代初頭の溝・土墳が検出された。遺物は、これらの各時期の遺構や包含層 に伴う土器類のほか、層位としては確認されなかった古墳時代後半あるいは平安時代の土器片 少数が出土した。遺物量はコンテナ約50箱で、ほとんどが土器である。
江戸時代〜大正年間の耕土層 〈3>・〈4>層に相当する。造成直前の大正年間の耕土層 とみられる〈3>層は調査区一面にフラットに広がっている。調査区東辺で性格不明の溝1本 を検出したほかは、畦・畝等も認められず、区画などの状況はつかみがたい。グライ化が進 み、累層状況も明らかでない。土壌中より、一部江戸時代にまで遡ると考えられる陶磁器細片 が比較的多く出土した。〈4>層は近世の耕土層と考えられるが、明確な遺構はない。
鎌倉時代の集落跡 〈5>・〈6>層に当たる。溝10・井戸1・土墳3・掘立柱建物6・柵 列1のほかピット多数を検出した。溝は、古い段階に東西方向のもの1本があるほかは、いず れも南北方向であり、とくに調査区西半部に連続して掘り替えられた状況が確認できる。いっ ぽう、建物や柱穴・井戸は東半部を中心に認められる。溝・井戸・土墳からは土器を主体とす る鎌倉時代の遺物が相当量出土した。
弥生時代後期〜古墳時代初頭の溝 〈7>・〈8>層に相当する。〈7>層では溝7本と土器 の入ったピット2基を検出した。溝は、鎌倉時代の溝群に各所で切られているために断片的に しか確認できないが、数ケ所から完形に近い状態の土器が出土した。ピット出土の土器も完形 に近い状況であり、注意される。〈8>層では土墳1・溝2を検出した。〈7>・〈8>層の遺 構密度は全体に低い。 (松木)
註
(1)山本悦世 1991 「アイソトープ総合センター予定地」(土井基司編r岡山大学構内遺跡調査研究年報』
8 岡山大学埋蔵文化財調査研究センター)
第3章 調査の記録
1.層序と地形
(1)鹿田遺跡の基本層序と本地点の層位
鹿田遺跡の基本層序は、1983〜84年に行われた附属病院外来診療棟予定地の第1次発掘調査 くユ の際に設定され、その後調査地点の増加に伴って、逐次修正・細分を進めている。各調査地点 においては、相互間の土層・地形の関係を把握するために、この基本層序を大枠としながら個 別の層位を設定している。したがって、まず基本層序と本次調査における層位との対応関係を 述べておくと、基本層序の第1層(造成土)が本次調査の〈1>層に当たり、以下、第n層
(近代耕土層)が〈2>・〈3>層、第田a層(近世堆積層)が〈4>層、第田b層(中世堆 積層)が〈5>・〈6>層、第W層(古墳時代初頭〜前期堆積層)が〈7>層、第V層(弥生 時代中期後半〜古墳時代初頭堆積層)が〈8>層、第W層(遺物未検出層)が〈9>〜〈11>
層に、それぞれ対応すると考えられる。
なお、〈4>層については中世堆積層の上部である可能性も否定できない。また、基本層序第 皿c層(古代堆積層)に当たる層は、中世段階の削平により存在しない。さらに〈7>層は、
弥生時代末を上限とする基本層序W層に相当するとみられるが、本地点では弥生時代末から古 墳時代初頭の溝に混じって、弥生時代後期中葉の土器を出す溝が検出された。〈8>層は、遺跡 中心部では弥生時代中期後半に遡る第V層に相当するが、本地点における最古の遺構・遺物は 弥生時代後期中葉に置かれるものである。
(2)層位と堆積状況(図3・4)
次に、本地点の1〜11層の各層位の特徴と堆積状況について詳述したい。
〈]〉層 1921(大正10)年に岡山医学専門学校・岡山県立病院が建設されてから今日に至る までの人為的な造成土である。旧建物の基礎や破片などを多く含む。現地表をなす上面の標高 は2.2〜2.8m、層厚は0.6〜1.2mを測る。
〈2>層 淡緑灰色粘土で粗砂〜細礫を混じえる。部分的にしか認められず、また層厚も5cm 前後と薄いために、機械による〈1>層除去時に削られた箇所も多い。造成直前の耕土表層の 一部をなすということ以上には、詳細を把みがたい。
〈3>層 淡青灰色粘土で粗砂をわずかに含む。〈2>層よりも均質で粘性が強い。鉄分やマン ガン分の沈着はみられない。層厚15〜20cm前後で調査区全面に厚く安定して広がるが、旧建物 の基礎によって上部が損なわれている部分が多い。残存部分から復元される上面の標高は、調
1
舗
層序と地形
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C C/ D Dノ 迦
l I一一一,_ 一一一^_______」
L__一_9._.旦〜一_一」
1.造成土
2.淡緑灰色粘土(粗砂〜細礫)
3.淡青灰色粘土(粗砂僅少)
4.褐灰色砂質土(Fe・Mn少)
5.淡灰褐色砂質土(Fe・Mn)
6.淡灰褐色砂質土(Fe・Mn)
7.灰褐色粘質土(Mn多)
8.暗灰褐色粘質土(Fe・Mn)
9.明黄灰色粘土〜微砂
10.(青)灰色粘土〜微砂 0 2 4m
SD201 麺
垣
図4 調査区土層断面図(縮尺1/60)
査区南東コーナーで1.7m、北西コーナーで1.4mを測り、南東から北西に向かって緩く傾斜す る。造成前の耕土層と考えられ、江戸時代〜明治時代以降にかけての陶磁器類の細片を含む。
〈4>層 やや褐色味を帯びた灰色砂質土であるが、グライ化が著しく、しばしば緑青灰色を 呈する。粘性があり、鉄分およびマンガン分がわずかに沈着する。層厚は平均5〜10cm前後と 薄く、堆積が確認されない箇所もある。他の地点の成果にもとづけぼ近世の耕土層に対応する とみられるが、〈3>層との層界は明瞭で、色調や堆積状況の点ではむしろ下の〈5>層との連 続性が強いように見受けられることなどから、中世層の一部をなす可能性もあろう。包含遺物 は鎌倉時代のものが多いが、江戸時代に下るものも含まれる。ただし、グライ化のために
〈3>層との分離iが不十分な箇所もあって、現時点では時期は確定できない。遺構も確実なも のはみられない。
〈5>層 淡褐灰色砂質土でマンガン分および鉄分の沈着をみるが、グライ化の著しい部分は 粘性を帯び、暗青灰色を呈する。層厚10cm前後で全面に広がる安定した層であるが、とくに調 査区北東部では厚く20cm以上の堆積をみる。上面の標高は、調査区南辺では中央付近が1.5m 前後と高く、南東コーナーで1.4m、南西コーナーで1.3mを測る。北辺では北東コーナーから 中央やや西寄りまでが1.3m前後で、北西コーナーでは1.2mと低い。南辺中央から北辺東半に かけて高まりが延び、北西コーナーに向けて緩く落ち込む堆積状況が復元されよう。鎌倉時代 の遺構の大部分が、互いに重複しつつこの上面から切り込まれており、下の〈6>層とともに この時期の遺物を多く包含する。
〈6>層 淡灰褐色砂質土で、マンガン分・鉄分の沈着が〈5>層より多いため、より褐色味 が強い。ただし、〈5>層との層界はかならずしも明瞭でない。層厚10〜20cmで調査区全面に広 がる安定した層で、上面の標高は1.1〜1.4mを測り、〈5>層とほぼ同様の堆積状況を示す。
〈7>層 灰褐色粘質土で、マンガン分が斑点状に多く沈着する。〈6>層との層界は比較的明 瞭である。層厚10cm内外で調査区全面に広がるが、とくに調査区の南北中軸(69ライン付近)
に沿う部分では厚く、20〜30cm前後の堆積をみる。上面の標高については、調査区南辺では南 東コーナーから中央にかけて1.3rn、南西コーナーで1.1mを測り、北辺では中央やや東寄りが もっとも高く1。1m、北西コーナーは0.8mと低い。調査区南東部から北東部にかけて高まりが 延び北西方向に落ちる堆積状況となろう。弥生時代後期中葉〜古墳時代初頭頃の土器を出す溝 7本およびピット2基がこの上面から切り込まれているが、遺構・遺物の包含密度は高くない。
〈8>層 暗灰褐色粘質土で、マンガン分の沈着が著しく、鉄分も含む。〈7>層よりも均質 で、粘質がやや強い。層厚10cm前後で調査区全面にみられるが、部分的に色調が淡く<7>層 との分離が難しい箇所もある。上面の標高は南東コーナーが1.2m、北西コーナーが0.8mで、
南東から北西に下る堆積状況をみせる。弥生時代後期末の土墳1基と時期不明の溝2本がこの
上面で確認されたが、遺物の包含密度は低い。
〈9>層 明黄灰色粘土〜微砂で、〈8>層以上との層界は明瞭である。遺構・遺物とも含ま ず、鹿田遺跡のベース層に当たる。上面の標高は南東コーナーで1.1m、北西コーナーで0.7m を測り、南東から北西に向けて下る堆積状況である。
〈10>層 粘性の強い灰色粘土の無遺物層である。調査区北半部の深掘りで確認したのみで、
調査区内での堆積状況は押さえていない。上面の標高は約0.7mで層厚30cmを測る。
〈11>層 粘性の強い青灰色粘土〜微砂で、無遺物層である。上面の標高約0.4m、層厚50cmを 測る。これより下位は深くまで軟質の水性堆積層が続くと考えられる。
(3)地形の復元
以上に述べた各層の堆積状況をもとに、各時期の地形を復元してみよう。まず弥生時代末〜古 墳時代初頭にこの地点が生活域の一端に含まれる以前の原地形は、〈9>層上面の傾きに示され
るように、南東から北西に向けてごく緩やかに下っていく状況をみせる。この時点で最高所の南 東コーナーと最低位の北西コーナーとの比高差は約0.4mである。その後〈8>層の堆積後も、
ほぼ同様の状況が続き、低位部に当たる調査区西辺沿いに、南北方向の溝と土墳とが掘られる。
同じく弥生時代〜古墳時代初頭に属する〈7>層は、中央から東にかけて厚く堆積し、調査 区南東から北東にかけてわずかに下りながら延びる高まりを形成する。最高所の南辺東半と最 低位の北西コーナーとの比高差は0.5m前後を測る。上面検出の溝は、すべて北西の低位部に 向けて掘られている状況をみせる。ただし、鎌倉時代の〈5>〜〈6>層が古代相当層を削平 してじかにこの〈7>層に重なっているとみられる点から、この上面の地形は、直接的には鎌 倉時代の削平の状況を示す可能性が高い。
鎌倉時代の遺構・遺物が密集する〈5>・〈6>層は、古代相当層を削平した後、調査区南 辺中央から北辺東半部にかけて厚く盛られ、南から北へ下りながら延びる高まりを形成する。
ただし、北西の低位部にも比較的厚い堆積がみられ、最高所の南辺中央部と最低位の北西コー ナーとの比高差は、約0.3mとわずかに小さくなる。調査区西半の、高位部から低位部へ移る付 近に、南北方向の深い溝群が連続的に掘られる。建物や柱穴は東半の高位部に多いが、溝群を 隔てた西半の低位部にもみられる。大規模な造成の上に集落が広く展開した模様が見て取れる。
〈5>層の上に〈4>層が薄く堆積した後、大正年間を最終段階とする耕土層が盛られてい る。旧建物の基礎による損壊のために完全には把握しがたいが、上面は南東から北西に向かっ て緩く傾斜し、最高点と最低点との比高差は0.3m前後を測る。それまでの高低をおおむね踏 襲した地形である。畝がみられず上面が平坦であることや標高の点などから、水田の可能性が 高いと思われるが、レベリングや耕地区画の痕跡は認められない。
以上のように、この地点は、基本的に南東から北西に緩く傾斜する地形をもち、1921年の造