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初代利家の城下町・金沢

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(1)

著者 庄田 知充

雑誌名 金大考古

巻 59

ページ 3‑14

発行年 2007‑12‑25

URL http://hdl.handle.net/2297/9790

(2)

1. 金沢城下町の概要

 天文 15 年 (1546 年 )、 のち金沢城となる地に、 浄土真 宗本願寺金沢支坊として金沢御堂がつくられた。 御堂は 小立野台地突端の要害にあり、 周囲には寺内町として南 町 ・ 西町 ・ 堤町 ・ 後町 ・ 近江町 ・ 金屋集住地 ・ 紺屋集 住地がつくられた。

 天正 8 年 (1580 年 )、 織田信長の命を受けた佐久間盛 政が、 金沢御堂を攻略し、 この地に尾山城を構えた。 盛 政執政期には、 旧寺内町に松原町 ・ 安江町が加わり、

織豊政権による近世城下町の形成が始まった。

 天正 11 年 (1583 年 ) には、 前田利家が盛政に替わっ て金沢城に入り、 城下町の本格的整備が始まった。 「慶 長金沢城図」 (金沢市立玉川図書館蔵) によると、 初期 の城下町は、 上級武士が城内に屋敷を拝領し、 他の家 臣は城下に居住する内山下の形態をとっていた。 また、

各地から商人や職人を招き、 城の北側に米町 ・ 塩屋町 ・ 竪町 ・ 十間町 ・ 今町 ・ 尾張町 ・ 博労町 ・ 伝馬町などを おいた。 人口増大に対応し、元和元年 (1615 年 ) からは、

浅野川および犀川河原を整備し、 城下を拡大した。 江戸 の徳川家と対立していたこともあり、 慶長 4 年 (1599 年 ) には内惣構、 慶長 16 年 (1611 年 ) には外惣構を築き、

城の守りとしている。 そして元和年間 (1615 ~ 1624 年 ) を中心に、 浄土真宗以外の寺院を北国街道犀川口の寺 町と浅野川口の卯辰山山麓へと集め、 藩主一族の菩提 寺などを城の後背にあたる小立野台に移して三大寺院群 を形成せしめた。 寺院をして外部からの攻撃に対する防 衛線とし、 また、 一向宗を統制監視する役割をもたせたと 考えられている。

  寛 永 8 年 (1631 年 ) と 寛 永 12 年 (1635 年 ) の 2 度 の 大火により、 金沢は城と城下の大半を焼失し、 更地になっ た街区が大幅に改正された。 城内に屋敷地を構えていた 上級武士は、 城の近辺と城下町の要所に配置された。 ま た、 北国街道沿いの現在の位置に尾張町 ・ 十間町 ・ 近 江町 ・ 西町 ・ 堤町 ・ 南町などを移し、 御用商人たちに 店を構えさせた。 これにより、 金沢城下町の近世都市とし ての基本的な枠組みが完成した。

 城下町縁辺部にあたる元菊町遺跡、 木ノ新保遺跡、 三 社町遺跡の発掘調査では、 墓地や農地が城下に取り込 まれた過程が判明した。 こうした城下の膨張は寛文元年

初代利家の城下町 ・ 金沢

庄田知充 (金沢市埋蔵文化財センター)

(1661 年 ) の相対請地勝手令の前後に急激に加速した。

高沢忠順による改作所旧記には万治 2 年 (1659 年 ) から 寛文 5 年 (1665 年 ) の 6 年間に 30 万歩の武家地・寺社地・

地子町が増加したとされる。

 Figure.1 は、 現在の地形図 (1:25,000 地形図金沢 国 土地理院発行) 上に、 延宝期金沢城下図 (1673 ~ 80 年 : 石川県立図書館蔵 ) の武家地と町人地、 寺社地の 範囲を示したものである。 寛永大火後 40 年経過しており、

再建された城下町の様相を示している。 宝暦 9 年 (1759 年) に再び城下は大火に見舞われるものの、 道筋や町 割など城下町内の基本的な枠組みは、 藩政末まで大きく 変更されることはない。 武家地は街区部分の大部分を占 めて、 広大な屋敷地を拝領し、 商人や職人は、 北国街 道をはじめ宮腰往還、 二俣越など主要道沿いと本願寺金 沢東西別院や安江八幡宮などの寺社周辺に集住させら れていた。

 城下町の発掘調査は、 城郭外では武家地 23 地点、 町 人地 9 地点、 寺社地 5 地点、 惣構 2 地点の計 38 地点 で実施されている (延宝期の区分による)。

 近年では、 史跡指定のため調査が城下町内外で行わ れており、 惣構や野田山墓地などの社会基盤や用水や 塩硝蔵などの産業基盤に関わる調査がとくに進められて いる。

Figure  金沢城下町と調査とされた遺跡

武家地町人地 寺社地

(3)

2. 初期の城下町の姿

 城下町全体の様子を知ることができる測量に基づく絵図 で現存しているのは、 寛文6年 (1666 年) のもので、 大 枠は延宝期金沢城下図と類似している。

 Figure.2 のような慶長期の金沢城図は複数存在して、 少 しずつ内容が異なるが、 主だった家臣を城内に居住させる 内山下の形態をとり、 現在よりも城に近い位置に南町や堤 町などの町があったことを読み取ることができる。

 東京大学総合図書館が所蔵する慶長期と推定される 「加 賀国絵図」 (Figure.3) が参考になる。 これによると、 犀 川の流れが市街地で二手に分かれ、 北国街道の橋が両 方に架けられている。 田中喜男 (田中 1976) によると、

犀川の支流は現在の香林坊橋の位置にあり、 元和期に河 原を埋め立てて一部を鞍月用水として残し、 西外惣構の 堀に連ね、 河原には河原町 ・ 川南町 ・ 竪河原町 (竪町)

を町立てし、 大手付近にあった片町を移転させたとされる。

 このように、 17 世紀初めの城下町の姿は、 寛文以降の 絵図に見られる完成した城下町の姿とはだいぶ異なってい たようである。

3. 金沢城惣構跡

 惣構は城を中心とする城下町を囲い込んだ、 堀や土居 などの遮断施設のことを指す。 金沢城下では、 「慶長の危 機」 とよばれる徳川政権との緊張の高まりに応じ、 慶長 4 年 (1599 年 ) に内惣構、 慶長 16 年 (1611 年 ) に外惣構 が築かれた。 惣構の多くの部分は、 河岸段丘崖や小河川 など自然地形を利用して堀とその城側の土居を築いてい る。 構築当初の堀は、 幅 14 ~ 16m、 土居は幅、 高さとも に 6 ~ 9m の規模を持っていたとされる。

 広坂遺跡では西外惣構土居盛土基部と堀、 内道を検出 し、 武蔵町では西外惣構土居肩部と堀の埋土を確認、 尾 山神社前では西内惣構堀内を試掘した。 尾張町2丁目の 橋場交差点の枯木橋付近では東内惣構両岸において江 戸時代の石垣を確認した。

Figure  慶長金沢城図 (金沢市立玉川図書館蔵)

Figure  加賀図絵図 (部分 ・ 東京大学総合図書館蔵)

Figure  惣構の構造模式図

Figure 5 市役所南側の西外惣構跡の堀と土居

Figure 6 尾山神社南辺に残る惣構土居

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 金沢市では、 平成 18 年度に惣構跡の発掘成果と見学 ポイントを紹介したパンフレットを制作し、 配布している。

(2) 東内惣構跡 (枯木橋北地点) の発掘調査

 平成 18 年度に発掘調査を実施した。 調査地は尾張町 2 丁目の国道 157 号線橋場交差点北西角地で、 調査前は 大正期に建てられた木造住宅が建っていた。

 本調査では、 江戸時代後期の惣構の石垣を、 はじめて 発掘で確認した。 古文書により、惣構の大部分は土手だっ たと考えられているため、 堀の両岸に石垣が築かれていた ことはこの地点の特徴といえる。

Figure 7 金沢城惣構跡パンフレットの惣構マップ

(1) 広坂遺跡の惣構土居と、 武家屋敷の景観

 金沢 21 世紀美術館の南側には、 西外惣構の堀が流れ ている。 美術館を建築する際に発掘調査をした広坂遺跡 では、 堀に面して土居盛土とその土どめ石、 幅約 5.5m の石組側溝をともなう砂利道、 武家屋敷の土塀石垣が約 160m にわたって検出された。 惣構土居に面したかつての 武家屋敷街の景観を想い起こさせる遺構といえる。

Figure 8 金沢 世紀美術館南側の西外惣構跡

Figure 9 広坂遺跡の西外惣構土居と内道

Figure 0 東内惣構跡 (枯木橋地点) 位置図 調査地 枯木橋

Figure  土居側石垣と新橋 延宝期

橋場

浅野川大橋

内惣 東外

西内惣構

(5)

 構築当初と推定される岸は、 自然の崖を利用した斜面と して検出された。 18 世紀からは堀の外側、 19 世紀初めか らは土居側に石垣を築いている。 堀の外側では石垣①→

石垣②→石垣③の順に、 古い石垣を埋めて前面に新しい 石垣を築き、 堀幅を狭めている。

 調査地のすぐ南側には、 堀に架かる 「枯木橋」 がある。

江戸時代には、 北国街道が城下町に入る東口にあたり、

門 (木戸) を設けて橋番人が人の出入りを管理していた。

調査地はその枯木橋をわたるすぐ手前にあたる。

 東内惣構の枯木橋から下流、 主計町で浅野川に注ぐま では、 調査前まで建っていた木造住宅を初め、 旧北国街 道と堀の水路との間に地下室構造をもった家屋がたちなら んでいる。 いわば、 堀の旧地形が地下室として取り込まれ て残っているように見受けられ、 惣構の他の地点が、 堀を 埋め狭めて平地とし家屋が建てられている状況とは大きく 様相が異なる。

 平成 19 年度中に、 本調査地点において発掘調査の成 果に基づいて惣構跡を見学できるように復元した緑地を整 備する予定である。

Figure  現在の堀と堀外側石垣の変遷

Figure  堀の岸と石垣の変遷

Figure  調査区全景 (奥が土居)

Figure 5 東内惣構枯木橋見学所 (仮称) 計画図

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4. 江戸時代初めの広坂遺跡

(1) 溝で区切られた武家屋敷街

 広坂遺跡は、 平成 8 ~ 14 年度に金沢 21 世紀美術館 建設のため金沢市が発掘調査した。 調査地は城下町中心 部で金沢城南西に近接し、 慶長 16 年 (1611 年 ) に完成 した西外惣構内側に面している。 慶安年間(1648 ~ 52 年)

以降の複数の時代の城下絵図と侍帳や由緒書を照合する ことにより、 17 世紀後半以降は、 主に 250 ~ 3 千石の禄 高をもつ直臣の平士と人持組の屋敷だったことがわかる。

 のべ 5 万㎡もの広さを面的に発掘調査したことにより、 こ の地域の土地利用の変遷を知ることができる。

ら寛永 8 年 (1631 年) に発生した大火までの屋敷境と考 えられる。 広坂遺跡の第Ⅷ調査区までで全体の規模が判 明する方形の 6 区画を見いだしている。 6 区画の内訳は、

北東隅の区画①が南北 48.6m ・ 東西 46.5m (約 680 坪)、

南東隅の区画②が南北 40m ・ 東西 46m (約 550 坪)、 中 北の区画③が南北 48.6m ・ 東西 37m、 中南の区画④が南 北 40m ・ 東西 39m、 北西隅の区画⑤が南北 48.6m ・ 東 西 30m、 南西隅の区画⑥が南北 40m ・ 東西 30m となる。

慶長 16 年 (1611 年) の 「金澤侍屋敷之定」 と照らし合 わせて、 居住者は 500 ~ 2,000 石前後の武家か、 武家に 準ずる扱いを受けた者と推定される。

Figure 6 広坂遺跡の位置 金沢 世紀美術館

兼六園

金沢市役所

 17 世紀第 1 四半期~第 2 四半期前半にかけての居住 者は文献に残らないが、 布掘状の溝 (幅 1.5 ~ 3m、 深さ 0.5 ~ 1m) による方形の区画が検出されている。 区画の 方位は南辺の惣構にそろえられており、 惣構構築前後か

Figure 7 金沢城跡と広坂遺跡

金沢城跡

Figure 8 江戸時代初期の区画溝 (第Ⅱ調査区)

Figure 9 7 世紀代の主要遺構

 寛永 8 年大火後の整地により、 これら溝による区画はほ とんどが焼土や炭化物が多量に混じった土砂により埋め立 てられ、 屋敷境は、 小規模な溝や掘立柱式の板塀等に変 化する。 宝暦 9 年 (1759 年) 大火頃からは、 石組基礎 をもつ土塀による屋敷境も設けられるようになった。

西外惣構

(7)

Figure 0 延宝期金沢城下図 (7 世紀末) にみる調査区

(2) 江戸時代初めの武士の生活

 広坂遺跡は、 江戸時代初めから幕末にいたる同一階層 の武家における生活変化を追うことができる。

 第Ⅱ調査区 SX2013 土坑からは、「元和九年拾月廿一日」

等の墨書がみられる付札木簡が出土している。 木簡の性 質から廃棄に至る期間は短いと推測されることから、 共伴 遺物の下限はこの頃におくことができる。 碗 ・ 皿には中国 青花のほか、 灰釉や鉄釉の肥前陶器 (胎土目)、 美濃の

 第Ⅰ調査区 SK2392 土坑は、 橙色の焼土が充填された 方形土坑で、 出土遺物は寛永 8 年大火の火災片付けに より廃棄されたものと考えられる。 出土遺物は中国青花と 肥前陶器鉄絵皿、 備前足付盤のみで、 陶磁器は被熱に よるひずみ割れや変色が顕著である。 中国青花は、 古染 付輪高台輪花皿、 輪花三足向付、 蛇目高台皿、 鍔淵皿)、

輪花鉢、赤壁賦文端反碗、花鳥文大皿、陶胎の大碗など、

多彩である。

Figure  第Ⅱ調査区 SX0 土坑出土遺物 長石釉皿、 瀬戸天目碗、 越中瀬戸鉄釉皿や 天目碗などがあるが、肥前磁器はみられない。

向付では肥前陶器の . 鉄絵を施したもの、 織 部、 軟質施釉陶器がある。 ほかに美濃製品 では青織部水注、 青織部蓋、 肥前製品では 鉄釉瓶があり、 擂鉢では越中瀬戸と越前が みられる。 この土坑からは、 鍛冶に関連する と推測される鞴羽口と椀形滓を含む鉄滓が出 土している。 また、 「天下一」 等と刻字された 土師質火入が出土している。

Figure  第Ⅰ調査区 SK9 土坑出土遺物  第Ⅰ調査区 SX3075 土坑は、 覆土に黒色の炭化物を大 量に含んだ不整形な土坑で、 出土陶磁器に顕著な被熱 痕跡がみられるものが少ないものの、 約 40m 以上離れて いるⅡ SD2032 溝 (寛永大火で廃された南北方向の区画 溝) の出土陶磁器片との接合関係があり、 寛永 8 年大火 の被災遺物と考えられる。 肥前磁器の出土は細片1辺の みで、 細片だが中国青花が多い。 陶器碗は灰釉、 藁灰 釉の肥前、織部、皿は灰釉の肥前 (砂目)、美濃 (長石釉)

がみられる。 ほかに総織部鉢、鼠志野向付、黄瀬戸ドラ鉢、

瀬戸美濃鉄釉小杯が出土している。 擂鉢は越中瀬戸、 肥 前でロクロ成形碁笥底のもの、 備前がある。

Figure  第Ⅰ調査区 SX075 土坑出土遺物

(8)

このほか、 廃棄状況から寛永大火で被災して廃棄された と考えられる特記すべき貿易陶磁として、 華南三彩五耳壺

(トラデスカント壺) 2個体、 華南三彩稜花皿3~4個体、

白花文盤 (藍釉 ・ 褐釉 ・ 白磁2個体) の 4 個体、 ベトナ ム青花皿、 景徳鎮窯系青花瓶などが見つかっている。

Figure  華南三彩五耳壺 ・ 右上端の破片は別個体

Figure 5 華南三彩稜花皿

Figure 6 ベトナム青花皿

Figure 7 藍釉白花花文盤

Figure 8 褐釉白花花文盤

Figure 9 景徳鎮窯系青花瓶

(9)

5. 野田山 ・ 加賀藩主前田家墓所

 金沢市では、 野田山 ・ 加賀藩主前田家墓所の国史跡 指定を目ざし、 墓所の測量や文献史料 ・ 民俗 ・ 石造物な どの調査を平成 16 年度より実施している。 平成 18 年度に は初めて前田家墓所内での発掘調査を行い、 築造当初の 堀の規模などを確認することができた。平成 20 年 3 月には、

調査報告書を刊行する予定である。

金沢城跡

Figure 0 野田山 ・ 加賀藩主前田家墓所位置図

(1) 野田山墓地の概要 ・ 歴史

 野田山墓地は、 市街地のほぼ中心に位置する金沢城か ら直線距離にして南に約 3.5km 離れた野田山北東斜面に 広がる約 43ha の市営墓地である。

 その歴史は、 初代加賀藩主前田利家の実兄利久がこの 地の山頂近くに葬られたのが始まりとされている。 次いで

Figure  野田山墓所内地区割図

利家の墓が造られ、 以降、 歴代加賀藩主とその正室、 子 女の墓地が造営された。 藩主墓地の周囲には、 宿老であ る加賀八家をはじめとした家臣の墓が造られるようになり、

のちには町人などの墓も築かれるようになった。

 明治維新以降、 野田山墓地の管理は石川県、 次いで金 沢市に引き継がれるが、 前田家墓所は前田家の子孫が所 有し成巽閣が管理している。 また、 戦没者墓地は陸軍か ら引き継いだ石川県が管理をしている。

() 前田家墓所

 野田山墓地の最も高い一角に、 加賀藩主前田家の歴代 当主およびその正室、 子女などの血縁者たちを祀る前田 家墓所がある。 その敷地面積は、 現在約 7.6ha で、 墓所 内には 76 基の墓が築かれている。

 前田家の墓はいずれも土を高く盛り上げた土饅頭形をし ている。 特に藩主とその正室の墓は四角形の土檀を階段 状に重ねた形状をし、 墓の周囲には方形の空堀を廻らせ て墓域を区画している。

 初代~ 3 代の墓は、 墓所内南西側の最も標高の高い一 角にある。 藩祖利家墓は、 伝利久墓の北側の斜面下にあ り、 そのすぐ西側には正室 ・ 芳春院 (まつ) 墓、 さらにそ の西側には 2 代利長墓が並び、 芳春院墓と利長墓の間の 南斜面上には利長正室の玉泉院 (永) 墓が築かれている。

4 代~ 8 代の墓は、 墓所内北側斜面下、 9 代~ 10 代の 墓は、 墓所内南東側の斜面上に造営されている。

 これらのうち、 4代藩主光高墓と9代藩主重靖墓は、 市 内小立野の天徳院から昭和20年代に野田山へと改葬され たもの、 3 代正室の天徳院墓は、 寛文 11 年 (1671 年 ) に 天徳院から野田山に改葬されたもので、 現在は歴代加賀 藩主の墓が全て野田山 ・ 前田家墓所内に祀られている。

天徳院

寺町

桃雲寺

大乗寺 兼六園

野 田 山 ・ 加 賀 藩 主 前 田 家 墓 所

野田山墓地

前田家墓所

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(3) 前田家墓所の発掘調査

 発掘調査は、 利家墓の南側斜面上に位置する利家の実 兄利久のものと伝えられる墳墓および 11 代藩主治脩 (は るなが) の墳墓のまわりをとりかこむ堀の部分、 利家と正 室まつの墳墓の間において実施した。

 利久墓前の堀は現在、 幅約 6.5m、 深さ約 1.5m だが、

発掘調査により構築当初は深さ約 3m あったものが土砂の 堆積により埋没していることが確認された。 また、 現在は 墳墓前面部は土橋状になっているが、 構築当初は土橋は なく堀が続いていたこともわかった。

 11 代藩主治脩の墓の周囲にある堀も、 現在は幅約 2m、

深さ約 30cm だが、 構築当初は幅約 3m、 深さ約 3m であっ たことが判明した。

 また、 利家とまつの墳墓間の調査区では、 江戸後期の 絵図に描かれている溝が見つかった。 利家 ・ まつ ・ 利長 の 3 つの墓を囲む堀の一部と考えられる。 また、 この堀跡

Figure  野田山 ・ 加賀藩主前田家墓所の測量図

Figure  前田利家墓

の両脇には、 直径約 20cm の穴が 3 つ見つかった。 墓所 を区画する掘立の柵の柱穴の可能性がある。

Figure 5 利家とまつの墳墓間の調査区 Figure  伝利久墓の堀および土橋の断面

6. 辰巳用水の調査

 辰巳用水は現在、 兼六園の霞が池をはじめとする泉水 やまちなかの用水を潤す水源として、 金沢の景観を織りな す重要な歴史的遺産となっている。

 金沢市では、 辰巳用水の国史跡指定めざして辰巳用水 の流路の測量調査や、 絵図や古文書等の調査、 埋没し た遺構の発掘調査などを行っている。

(1) 辰巳用水の概要 ・ 歴史

 辰巳用水は寛永 9 年 (1632 年)、 3 代藩主前田利常の ときにつくられ、 上水として金沢城に引かれていた。 現在 の兼六園から犀川上流の取水口までは約 11km の距離が あり、上流部には約 4km の隧道(トンネル)が掘られている。

当初、 取水口は犀川上流の雉 (現 : 上辰巳町地内) に つくられたが、 その後取水量を増やす目的で約 130 m上 流のめおと滝の対岸に付け替えられ、安政 2 年 (1855 年)

にはさらに約 600 m上流の、 東岩へ移された。 これが現 在の取水口である。

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(2) 謎の水路の発見

 犀川上流の上辰巳町で発掘町を実施し、 辰巳用水の旧 流路と推定される幅約 3m の水路跡を発見した。 水路跡は 隧道に並行して山肌の岩盤を削り取って築かれており、 埋 土を覆う整地層の出土陶磁器から、 18 世紀後半以前に廃 止されたことがわかった。 辰巳用水の景観を知ることが出 来る最も古い文化六年絵図 (1809 年) 以降において、 こ の区間が隧道として描かれていることも、 この水路跡が 19 世紀初めより前に使われていたことを裏付けるものである。

(3) 草に覆われた三段石垣

 犀川上流の上辰巳町と辰巳町の町境付近の山肌には長 さ約 300m の石垣が築かれている。 石垣の多くの部分は 3 段に分けて築かれており、 高さは最上部まで約 7 ~ 8m で ある。 その 3 段目上面に辰巳用水が現在は開渠 (コンク リートで蓋がされている)と岩盤を刳り貫いた隧道(トンネル)

として流れている。 平成 19 年度調査として、 石垣の平面 および断面測量と写真測量を実施するために全体の草刈・

低木の伐採を実施した。 何十年ぶりかで姿を現した石垣の 威容を、 この冬は目にすることができる。

Figure 6 辰巳用水流域と調査地の位置 兼六園

金沢城跡

犀川 浅野川 犀川

Figure 7 東岩取水口

Figure 8 上流部の隧道

Figure 9 中流部の開渠と遊歩道

Figure 0 辰巳用水を水源とする兼六園霞ヶ池

辰巳用水 東岩取水口三段石垣

発掘調査地

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Figure  発掘調査区全景 (破線が発見された水路)

隧道の横穴

Figure  水路の石積 (岩盤を掘り抜いた溝の肩に積む)

Figure  岩盤を掘り抜いた溝 (幅約 .m)

Figure  三段石垣

Figure 5 文化六年辰巳用水絵図(石川県立歴史博物館蔵)

にみる発掘調査区 (隧道の横穴が描かれている)

Figure 6 文化六年辰巳用水絵図にみる三段石垣

(13)

7. 土清水塩硝蔵の調査

 涌波町地内の土清水塩硝蔵推定地で発掘調査を実施し た。 土清水塩硝蔵は、 万治元年 (1658 年) に加賀藩が 設立した黒色火薬の製造、 貯蔵施設で、 辰巳用水の水 流を動力とした水車により塩硝 (硝石) ・ 硫黄 ・ 木炭を調 合し、 黒色火薬を製造していた。 その規模 ・ 製造量ともに 日本最大の規模であったといわれている。

 平成19年度の調査では、 塩硝蔵の中核区域を取り囲む 堀の一部と硝石土蔵の礎石を発見した。 土蔵周辺からは 多数の褐釉瓦 (赤瓦) が出土し、 土蔵が平瓦と丸瓦を組 み合わせた本瓦葺きであったことが判明した。 軒丸瓦は三 つ巴文で、 軒平瓦の忍冬唐草文の花文部分に前田家の 家紋である梅鉢文が配されている。

 塩硝蔵については加賀藩の軍事上機密であったためか、

現存する文献などの関係資料が少ない。 今後の発掘調査 等により塩硝蔵の実態を明らかにしていく予定である。

Figure 7 土清水塩硝蔵位置図

参考文献

田中喜男 1976 「城下町の成立 ・ 変容」 『伝統都市の空間論 ・ 金沢』 弘詢社 塩硝の道研究会編 2002 『塩硝の道 五箇山から土清水へ』 

金沢城研究調査室編 2006 『よみがえる金沢城』 1  石川県教育委員会

Figure 8 土清水製薬所建物配置図 『塩硝の道』 より引用 調査区

Figure 5 辰巳用水長巻図・天保 年 ( 石川県立博物館蔵 ) にみる土清水塩硝蔵

Figure 50 内郭を区画する堀跡 Figure 9 硝石御土蔵の礎石

犀川

辰巳用水

山側環状道路

大桑町

涌波町

参照

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