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マルグリット
⑧ ド ⑧
ナヴァールの世界(二)ー宮廷風恋愛批判についてー
名取誠一
ここで宮廷風恋愛と云うのは︑百年戦争以降十六世紀前半にかけて︑すでに死滅した騎士道の用語や形式のみが宮
廷の男女︑多くは既婚の貴族と貴婦人の問に受継がれた当時の恋愛慣習のことである︒申世のキリスト教社会では一
夫}婦制は不可侵の原則であり︑姦通や離婚は罪として禁止されて来た︒だから人々は本来これらの現象にはきわめ
ヘヘヘヘへて神経質で︑かりにそういう事実があれば原則としてそれは罰せられる筈であった︒もっとも離婚は事実上ほとんど
不可能に近かった︒一方姦通はそれが公けになれば問題であるが︑そうでなければ︑表向きはなかったことになってい
る︒しかし一方では結婚は神の意志によるとは云うものの︑その実貴族階級の結婚はすべて政略結婚だったから︑結
婚は愛とは無関係で︑夫婦とは名ばかりの夫婦も少なくない︒そうだとすれば姦通が生じない方が不思議である︒宮
ヘヘヘヘヘヘヘヘヘへ廷風恋愛はいわばこの姦通の目常化であり︑しかもそれがないことになっている状態をさすのである︒この道徳的弛
緩の直接の原因はおそらくカトリック教会に対する尊敬の念が失われたためと思われるが︑十六世紀前半には︑この
なこも状態はしばしば颯刺や戯画化の対象となり︑殊に一五三〇年代から四〇年代にかけて︑いわゆる﹁宮廷の女友論争﹂
マルグリット・ド・ナヴァールの世界(二)三
、齪
マ ル グ リ ッ ト ・ ド ・ ナ ヴ ァ ー ル の 世 界 ( 二 ) 四
(匿ーぽ翻︾題腕を惹起すのである・昌玉些年にラ・ボルドリふ発表した冒廷の萎﹂(ピ・ぎ昆・
9亀は・作者の﹁萎﹂を弁護しようという意図にもかかわらず︑﹁薄しに対すゑ種の誠刺詩と見がまうばか
りである︒この作品はフランソア一世の要請に基き︑フランス貴族階級のために書かれたカスティリョーネの﹁廷臣
ヨ 論﹂(ロOO誉のσq鑓8)に対する反動から生れたと云われるが︑それはカスティリョーネが掲げた﹁完全な廷臣﹂およ
び貴婦人の理想像が︑フランス宮廷の現実とあまりにもかけ離れていたためであった︒それかあらぬか︑ラ・ボルド
とも(4)りーに反論したフォンテーヌの﹁反・宮廷の女友﹂(ピ鋤Oo郎霞.︾導饗伽ΦOO霞け)も︑アントワヌ.エロエの﹁完
とも ら 全な女友﹂(ピ簿評紘蝕9Φ︾語巻)も︑貴婦人ならぬブルジョワーズを理想的女性に仕立てている︒エミ⁝ル.テル
へ などは︑そのことによってすでに︑これらの作品は反宮廷的だと云っているくらいである︒
マルグリット・ド・ナヴァールの﹁物語集﹂にこの論争の反映があることは︑あらためて云うまでもないであろ
う︒ただ彼女は︑この作品の中でつねにそうであるように︑宮廷風恋愛に対しても誠刺や戯画化という手法は用いて
(7)いない︒例によって彼女は︑彼女のいわゆる﹁本当にあった話﹂(<驚一鍵げ一Φぼ︒︒8躍①)を書き︑それについて語り手
たちに感想を述べさせているだけである︒それらの感想の中には︑当時の社会通念をそのまま反映している部分と︑
必ずしもそうでない部分とがある︒このそうでない部分が特に重要な検討の対象であるが︑これらの感想と物語とは
一体不可分の関係にあるから︑われわれはその両方に等分の注意を払わなければならないのである︒
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二台
まず語り手たちの言葉のいくつかを検討することから始めよう︒あらかじめ断っておくが︑私は語り手の一人パル
ラマンテが作者の最大の分身であるという定説を・疑う必要はないと思って凌・他方それ以外の語り手たちも同じ
仲間であり︑意見の食違いはあっても論敵とは云えない︒従って︑作者は自分の意見を述べるために彼らの口を借り
ることもある︒しかし何と云っても︑パルラマンテこそ作者の第一の代弁者であるという地位は変らないであろう︒
ヘヘへそこでまずパルラマンテの言葉︑物語と物語のつなぎの部分における彼女の発言の申から︑彼女の男性観を示す部分
を取上げて見よう︒
第三目第四話︑エリゾールを試した女王を評して︑﹁でもこの方が︑相手が言葉通り自分を愛しているかどうかを
確めるために︑七年間試そうとなさったことは︑別に悪いことだとは思いません︒だって男の方は︑こんな時には大
抵嘘をつくものですから︑信用するにしても︑その前にどんなに長い間試しても差支えないはずで薦ゴ
第四臼第五話の後でオアジーユに向い︑﹁立派な人と云われている男性は沢山いますけれど︑婦人(U鋤BΦ︒・)に対
して立派な人︑その名誉や良心を守れる人となると・念勧霞天もおるまいと思い襲・﹂
第五日第三話の後でイルカンの言葉に答えて︑﹁でも︑快楽に抵抗できないような女は︑もう女ではなく男だと云
へ11)うべきです︒男ならば狂暴さと肉欲のために︑かえって名誉も上るというものです︒﹂
第五日第十話の後で︑この話の語り手でかつ彼女の恋の騎土(Q喚Φ触くμ紳Φ麟同)を自任するシモントーに︑﹁ところが私
の考えでは︑あなたは恋の神様のためにそれほど盲目になれる方ではありませんから︑あなただったら腕の繍帯を巻
ヘヘヘヘへ直しておしまいになったことでしょう︒だって男の人が︑恋する婦人のために命を忘れるなどというのは昔のことで
︑︑︑(12)すもの︒﹂
以上の引用で充分であろう︒パルラマンテは男性を︑美しい言葉で女性を隔すもの︑もはや真に偉大な情熱を持た
ず︑ありとあらゆる手段を使って女性征服の満足を追求する存在だと見ている︒又彼女は宮廷における恋愛を︑女性
マルグリット・ド・ナヴァールの世界(二)玉
マルグリット・ド・ナヴァールの世界(二)六
の不名誉が男性の名誉になる関係として捉えている︒だから男性の陥穽に落ちないようにせよ︑と云うわけであろ
轡つ︒
念のために︑もう一人の女の語り手ロンガリーヌの言葉を引いておこう︒年取って分別臭くなったジェビュロン
が︑﹁御婦人方を追回す男たちが︑相手を愛するあまりそんな苦労をするなんてお考えになってはいけません︒なぜ
なら男が苦労するのは︑ただわが身のためわが身の快楽のためなのですから﹂と忠告すると︑彼女は次のように答え
る︒﹁仰せの通りですわ︒あPていに申し上げますと︑今まで私に云・寄った殿方たち(しaの吋く岡僧①麟同oe)は︑皆はじめは
かならず私の生命と名誉と幸福を願うようなことを云いました︒でも最後は自分たちの快楽と手柄を願うだけで︑自
ヘハ 分のことしか考えていないのです︒﹂
パルラマンテばかりでなく︑男性のジェビ・一ロンを含めた語り手たちが︑恋の騎土たちを信じていないことが分る
へ りであろう︒エミール・テルはマルグリットの男性不信を指摘しているが︑たしかにその通りかと思われる︒もっとも
女性側の男性不信のみを指摘するのは片手落ちで︑男性側にも同じような女性不信がないわけではない︒たとえばパ
ルラマンテの夫イルカンは︑﹁(男と女は)顔や衣裳が異っていても︑気持は全く同じだと思いますね︒ただ女の腹黒
ハあ さは隠されているだけ始末が悪い﹂と云い︑さらに﹁女の心に情熱的な愛を見出すことは極めて困難﹂であると主張へあ する︒サフルダンもまた女が隠しごとを好むことを轡め︑女の名誉心は一般に偽善の代名詞であると云い︑理想主義
者のダ.謙ンサンに向って︑﹁何ですって︑ダゴンサンさん︒あなたはまだ︑女には愛もなければ後悔もない︑という
ことが分らないのです蓑と忠告している・もっとも﹁物語墓全体を通してみれば︑やはり男性の女性不信より
も︑女性の男性不信の方が重要だと考えるべきであろう︒なぜなら男性側の不信感の表明は︑主としてイルカンとサ
フルダンが男性の手練手管を弁護するために持出しているのに対し︑女性側は︑特に作者の分身であるパルラマンテ
が繰返しこの不信感を強調しているからである︒
さてこのような男性と女性の相互不信があるにもかかわらず︑この不信感の表明を︑そのまま語り手同士の不信の
表明と考えるのは当らない︒と云うのはこのような一般的な不信感の表明とは裏腹に︑一方では語り手同士の信頼を
示す叙述があまりにも多すぎるからである︒それならばこの不信は誰に向けられたものかと云えば︑それは当時の宮
(18)廷人たちに向けられたものと考えるほかはない︒たとえばサフルダンが﹁上手に攻めて落ちなかった城はない﹂と云
ヘへえば︑パルラマンテはこの思想に不信の念を抱くであろう︒しかしそれは︑サフルダン自身が信用されないと云うこ
(19)ととは別である︒第一自分が攻めようとする城を面前に︑本心を披露する騎土があるものではない︒だからこれは︑
作者が彼の口を借りて宮廷風恋愛の精神︑いわば男性側の通念を指摘していると考える方がよいであろう︒そして真
に批判されるべき人々︑不信を向けられている人々は物語そのものの中に出て来るのである︒
も ノ ニ
(さてこの問題の揚合に隈らず︑﹁物語集﹂では︑語り手たちの意見は彼ら自身が語る﹁本当にあった話﹂によって
例証される形式がとられている︒宮廷に舞台をとり︑かつ男女が隔したり裏切ったりする話が多いことは︑右の語り
手たちの発言からみても当然であろう︒勿論清純な愛の物語︑結婚を誓い合った男女の物語もいくつかあるが︑それ
らはここでいう宮廷風恋愛の中には含まれない︒又それらとは別に︑既婚の貴婦人と恋の騎士とのロマンスの中に︑
純粋に精神的な愛の存在を示すものとして語られる話(これらの話については後で触れる)もないわけではない︒し
かしでのような愛は︑ほとんどつねに語り手たちによって例外としての扱いを受ける︒それらは例外として軒われる
マルグリット・ド・ナヴァ⁝ルの世界(二)七