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年 代 の オ ー ル ド

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(1)

四聖職者の特権と一八世紀前半のイギリス刑事法

1

聖職者の特権の世俗化

2一八世紀前半のイギリス刑事法I

殺人︵以上第十八巻第一号︶

I I

財産犯罪3

流刑の導入︵以上第十八巻第三・四号︶

1公判前手続I逮捕

七 三

0

年 代 の オ ー ル ド

予―—―-―→

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I I 調査と保釈 I I I 治安判事としてのヘンリ・フィールディング

十九巻第二号︶2

大陪審

3

I 審理陪審 罪状認否手続 I I 陪審員資格と審理陪審の社会構成 I I I 陪審審理 I V

陪審の評決︵以上本号︶4

刑の宣告と恩赦 5ニューゲイト監獄

0年代のオールド・ベイリ

ベイリ

︵ 四 ︶

21‑2 ‑185 (香法2001)

(2)

大陪

審員

は︑

少なくとも︱二人で︑二三人を超えない範囲とされた︒

(l ) 

通例とされた︒実際には二三人を超える大陪審員が選任された︒特に︑

の真

実︑

シェリフによって提出された大陪審員候補者名簿にもとづき召喚される︒選任される大陪審員の数は

︱二人以上の奇数の大陪審員が選任されていたが︑二三人が

一八世紀のサリでは︑五

0

人を超える大陪審

一七

0

年代には大陪審員の数は二三人以下にもどっている︒

大陪審員となる資格は良き適法な人達

g o o d a n d   l a w f u l   m

en

とされていた︒コモン・ローは大陪審員となるための

特別な財産資格を定めていないが︑自由土地保有者であることが大陪審員の資格とされた︒召喚された大陪審員は宣

誓を行い︑裁判官による説示を受ける︒宣誓によって︑大陪審員は﹁最もすぐれた理解力と知識に従い︑真実︑全て

そしてただ真実のみを告発する﹂ことを義務づけられる︒その後︑大陪審は別室に移され︑書記によって作

成された正式起訴状案

b i l o f l   i n d i c t m e n t

を審議する︒大陪審には正式起訴状案を提出した訴追者と正式起訴状案に記

載された国側証人だけが召喚される︒大陪審の審議は非公開で︑全ての出席者に守秘義務が課せられる︒大陪審は国

側の証拠だけを聴取し︑相当な証拠

p r o b a b l e e v i d e n c e

がある場合には︑大陪審は正式起訴状案を認定するべきであ

ると考えられた︒正式起訴状案は﹁原案適正

b i l l a v e r a

﹂と裏書きされ︑正式起訴されて審理陪審に送付される︒大陪

審による﹁原案適正﹂の認定には少なくとも︱二人の大陪審員の合意があればよいとされた︒その一方で︑大陪審が

国側証拠に満足せず︑根拠のない訴追であると考えた場合には︑正式起訴状案に﹁不知

i g n o m u r a s ﹂と裏書きされ︑

正式起訴状案は大陪審によって却下され︑容疑者は無罪放免された︒

大陪審は正式起訴状案を認定するときに︑その文言を書き換えてより軽い犯罪で認定することが認められた︒例え 員が選任されることがあったが︑ 2

大 陪 審

(3)

一 七 三0年代のオールド・ベイリ四(栗原)

(1) サ リ ・ ア サ イ ズ に お け る 大 陪 審 の 評 決 1660‑1800

ア サ イ ズ の 評 決

比率<ー不%)

u .

5 1   1

原 案 適 正 不 知 総 数 原 案 適 正

財産犯罪(死刑相当) 2,301  298  2,599  88.5 

財産犯罪(非死刑) 2,147  463  2,610  82.3  17. 7 

文 書 偽 造 33  3  36  91. 7 

詐 欺 64  11  75  85.3 

謀 殺 251  44  295  85.1 

新 生 児 謀 殺 45  17  62  72.6 

暴行(及び傷害) 602  218  820  73.4 

レ イ プ 25  20  45  55.6 

レ イ プ 未 遂 22  8  30  73.3 

サ ン プ ル 調 査

(J.M. Beattie,  Crime and Courts in England 1660~1800. p. 402から,

ズの部分だけを作成した。)

アサイ

によって増減した︒表①は︑ビーティによって作成され

されるとは限らない︒大陪審による起訴率は社会的状況 は︑大陪審に提出された訴追側証拠だけにもとづいてな の決定大陪審による起訴︵原案適正︶︑不起訴︵不知︶ に委ねられた︒謀殺の正式起訴状に対する故殺の有罪評 ことはなくなり︑

むしろこれらの機能は審理陪審の評決

入ると︑大陪審が正式起訴状案を軽い犯罪に書き換える

一八世紀に

に関しては原案適正︑謀殺に関しては不知と認定し︑正

( 1 0 )  

式起訴状案の謀殺を意図する文言を削除した︒さらに財 罪に︑特権適用重罪を軽罪に︑大窃盗を小窃盗に︑正式

起訴状案は大陪審によって書き換えられた︒大陪審は正 式起訴状案に記載された犯罪をより軽い犯罪に書き換え

ることによって裁量権を行使した︒しかし︑

決︑訴因の一部を無視した一部評決

p a

r t

i a

l

v e

r d

i c

t ︑評 価額の引き下げによって︑審理陪審が評決のなかでこれ

( 1 2 )  

らの機能を果たした︒ 産犯罪の場合には︑聖職者の特権の不適用犯罪を適用犯 ば︑謀殺の正式起訴状案に対して︑大陪審はそれを故殺

21‑2‑187 (香法2001)

(4)

的役割が明らかにされる︒ な身分階層が含まれる︒ たサリ・アサイズの大陪審の評決︵一六六

0‑

︱ 八

0 0

)

である︒財産犯罪の起訴率は八五・四%となっている︒財

産犯罪の起訴率は︑表①に示されていない四季裁判所の大陪審のそれを含めてもほぽ同じ比率︵八四・六%︶を示し

( 1 3 )  

ている︒表①から理解することはできないが︑財産犯罪の起訴率は戦時と平和時で︑農業の好況と不況とで変動する︒

平和時の起訴率は戦時のそれよりも高い︒農業不況は特に農村地域で犯罪を増加させるが︑起訴率そのものは好況期

と比べればはるかに低い︒ビーティによれば︑

( 1 4 )  

は七三%にまで低下したという︒平和時の起訴率の増加は軍籍を離れた職のない人達が都市に流入し︑犯罪の増加を

もたらしたことに対処するためであり︑農業不況期の起訴率の低下は生活苦から犯罪を犯した下層の人達を寛大に扱

一七

OI

四一年の不況期にはサリの農村地域での財産犯罪の起訴率

ったからであった︒大陪審は犯罪を生み出す社会的状況を考慮することによって起訴率を増減させた︒

大陪審員の資格は自由土地保有者とされる︒自由土地保有者にはジェントルマンだけでなく︑

eの

よう

に︑

ヨーマンなどの広範

一七・一八世紀のアサイズの大陪審は︑広範な身分階層に及ぶ自由土地保有者のなかのどの

ような人達によって占められていたのだろうか︒大陪審員の身分階層を知ることによって︑この時代の大陪審の歴史

アサイズ大陪審は一六八

0

年代を境にその身分構成が大きく変わることが指摘された︒一六八

0

年以前の時代には︑

地域差があるとはいえ︑大陪審は広範な自由土地保有者層によって構成されていた︒一七世紀前半のチェシャ

Ch

es

hi

r

一六

0

年代に大陪審員となった八五人のうちでエスクワイア アサイズ大陪審が治安判事の収入と身分よりも下のミドルクラスの自由土地保有者の広範な階層によっ

( 1 5 )  

て占められていたところもある︒サリやケントのように︑ジェントルマンを含む広範な自由土地保有者層からアサイ

( 1 6 )  

ズ大陪審が構成されていたところもある︒サリでは︑

もしくはジェントルマンと確認できるのはニ︱人で︑残る六四人はヨーマン︑手工業者︑商人などのミドルクラスの

(5)

一七三0年代のオールド・ベイリ(四)(栗原)

一七

OI

六九年のサリでは︑平均して一五人以上の治

( 2 2 )  

アサイズ大陪審員の六

0

%以上が治安判事であった︒治安判事によるアサ

( 2 3 )  

イズ大陪審の支配はイングランド全体の特徴であった。ブラックストーン~•

B l

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が言うところの︑アサイズ

大陪審を構成するカウンティの最も地位の高いジェントルメン

g e

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  f i g u r e   i n   c

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は治安判事をy

( 2 4 )  

意味

した

安判事がアサイズ大陪審に加わっており︑ 一八世紀中頃までに治安判事がアサイズ大陪審を支配した︒ アサイズ

L e

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で は

ハートフォードシャ

H e

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e で

は ︑

( 1 8 )  

大陪審員はジェントルマン身分の人達によって占められていた︒

ルマンによって支配される︒ジェントルマンによるアサイズ大陪審の支配はイングランド全域でみられる特徴であっ た︒特に︑治安判事職にあるジェントルマンがアサイズ大陪審に多数含まれるようになったことは重視されねばなら

ない︒王政復古以前には治安判事がアサイズ大陪審員にならないのが通常であったが︑

大陪審への進出が始まるのは一六八一年の夏のアサイズからであった︒

にある人達によって︑

ケントで治安判事のアサイズ

一九人の大陪審員のうちで五人が治安判事職

( 1 9 )  

さらに二人が四年以内に治安判事職についた人達によって占められた︒

一八人の大陪審員のうちの一

0

人を治安判事が占めるまでになっており︑一八世紀の二

( 2 0 )  

0

年代までにケント・アサイズの大陪審員の少なくとも三分の一︑時には半分以上が治安判事によって占められた︒

サリでは︑治安判事のアサイズ大陪審への進出は一六七五年に始まる︒夏のアサイズで少なくとも八人の治安判事が

1)アサイズ大陪審員になっている︒以後︑サリでもアサイズ大陪審はジェントルマンと治安判事によって占められた︒

しか

し︑

一六

0

年代に入ると︑

アサイズ大陪審からミドルクラスの人達は排除され︑ 社会構成から三つのタイプが認められた︒

( 1 7 )  

人達であった︒その一方で︑サセックス

S u

s s

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この

よう

に︑

一六八三年のレント・ アサイズ大陪審はジェント

一六

0

年以前のアサイズ大陪審には

一七世紀前半にアサイズ

21‑2‑189 (香法 2001)

(6)

排除

され

た︒

一七

世紀

末以

後︑

サリのアサイズ大陪審は 一八世紀には︑四季裁判所大陪審︑アサイズ審理陪審︑ アサイズ大陪審がジェントルマンによって占められたために︑

s e

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  gr an d  j u r y ・  

アサイズ審理陪審

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z e

t r i a l   j

u r

y ︑

ズ大陪審と異なる階層によって構成された︒

ラスの身分の人達によって構成された︒地域社会の身分秩序が陪審の構成に反映された︒四季裁判所大陪審は治安官

( 2 5 )  

陪審

j u

r y

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t a

b l

e と称され︑主として治安官職の人達が大陪審員になった︒彼らは地域社会の末端の行政を担う

ヨーマン︑手工業者︑商人などミドルクラスの人達であった︒

四季裁判所審理陪審の間でも序列化が進行する︒地方の陪審は︑ジェントルマンによって支配されたアサイズ大陪審

を頂

点に

して

︑ 四季裁判所大陪審︑

アサイズ大陪審以外の四季裁判所大陪審

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a r

t e

r

四季裁判所審理陪審

q u

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t e

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s   t r i a l   j u

r y

はアサイ

アサイズ大陪審以外の三つの陪審はジェントルマンよりも下のミドルク

アサイズ審理陪審︑四季裁判所審理陪審に序列化され︑地域社会の身分と財産の

秩序が陪審の構成に反映されることになった︒もちろん︑地域社会の多数を占める財産のない下層の人達は陪審から

一八世紀のアサイズ大陪審はジェントルマンによって占められ︑特に治安判事職にあるジェントルマンによって支

配された︒多くの治安判事が繰り返してアサイズ大陪審員を経験した︒

三人の大陪審員のうち一四人が経験者によって占められており︑経験者のなかには定期的に大陪審員として出席した

( 2 7 )  

多くの治安判事が含まれた︒大陪審では公判前調査を担当する治安判事を中心にして正式起訴状案は審議された︒公

判前調査を実際に担当した治安判事が大陪審員として正式起訴状案の審議に自ら加わったのかどうかは明らかではな

い︒しかし︑治安判事としての公判前調査の経験が訴追側証拠の評価のみならず︑個々の容疑者の諸事情の理解に寄

( 2 8 )  

与したことは明らかであろう︒

アサイズ大陪審の評決は裁判官の説示に拘束されることなく下された︒裁判官とアサイズ大陪審員の身分の同一性

(7)

一七三0年代のオールド・ベイリ四(栗原)

が大陪審の独立性を可能にしたと思われる︒アサイズ大陪審の独立性は︑

アサイズ大陪審が地域社会で果たす政治的 役割と関連する︒王政復古以後︑名誉革命を経てウィッグ党支配の確立に至るまでのウィッグとトーリの政治的対立 は︑地方ではアサイズ大陪審の支配をめぐって争われた︒大陪審は地方の声を代弁すると考えられており︑特定の政 党を支持するジェントルマンや治安判事によるアサイズ大陪審の支配は地方レベルでのその政党への強い支持を意味

( 2 9 )  

した︒アサイズ大陪審によって発せられた決議

a d

d r

e s

s や請願は地方のジェントルマンの政治的立場の表明であった︒

アサイズ大陪審は地方議会に類似した役割を果たしていたと言える︒政治的対立の渦中で進行する反逆罪裁判の場合 には︑大陪審が起訴︑不起訴のいずれの評決を下すのかは︑地方の大陪審とジェントルマンが政権政党と反対政党の どちらの側を支持するのかに依存した︒反対政党を支持する大陪審は︑反逆罪の訴追で政権政党と裁判官の意向に反

一六

0

年代のトーリ支配下で生じたスティーブン・カレッジ事件とシャフ

( 3 0 )  

ッベリ伯爵事件では︑ウィッグ党を支持するロンドン大陪審とミドルセクス大陪審によって不起訴の評決が下された︒

大陪審の独立性も︑大陪審による個人の自由の擁護も︑反逆罪の訴追のなかで被告人側によって主張され︑大陪審の

認定基準とされる﹁相当な理由﹂や﹁納得した良心﹂も反逆罪の訴追のなかで示された︒

ロンドンでは重罪を扱うオールド・ベイリと軽罪を扱う

( 3 2 )  

治安判事裁判所

s e

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はそれぞれ年八回開かれ︑二つの裁判所は連続して開廷された︒そのために︑ロンe

ドンでは大陪審員は二つの裁判所の大陪審を兼任した︒最初に治安判事裁判所がギルド・ホールで開かれる︒大陪審 が選任され︑治安判事による裁判官説示を受ける︒大陪審は正式起訴状案を審議する︒原案適正とされた正式起訴状

が治安判事裁判所の審理陪審にかけられる︒しかし︑審理陪審の審議はだいたい二日間で中断される︒

イリが開廷されるからである︒

オールド・ベイリの開廷とともに︑治安判事裁判所で選任された大陪審員がそのまま

ロンドン大陪審にはアサイズ大陪審と異なる特徴がある︒ して不起訴の評決を下すことができた︒

オールド・ベ

21~2 ‑‑191 (香法2001)

(8)

オールド・ベイリの大陪審員となった︒裁判官による説示は治安判事裁判所ですでに受けているためにオールド・ベ

( 3 3 )  

イリでは省略された︒大陪審の評決を受けてオールド・ベイリの審理陪審が正式起訴状を審議した︒そして︑オール

ド・ベイリの終了後︑治安判事裁判所の審理陪審は残りの審議を再開した︒

返された︒このプロセスはロンドンとともに重罪裁判権がオールド・ベイリに属するミドルセクスにおいても繰り返

された︒審理陪審はロンドンとミドルセクスの双方において二つの裁判所で別々に選任された︒

ロンドン大陪審は一七人によって構成された︒最初に五

0

人がギ

ルド・ホールに召喚され︑

そのうちの二五人が大陪審員候補者リストに登録された︒この二五人のリストから順番に

( 3 4 )  

一七人が大陪審員に選任された︒残りの八人は治安判事裁判所の︱二人の審理陪審員に含まれるのが慣習であった︒

さらに︑二日後には六

0

人がオールド・ベイリに召喚され︑

ロンドンでは刑事陪審だけで毎年一︑

000

人ほどが召喚され︑

( 3 5 )  

00

人ほどが出廷し︑三二

0

人ほどが三つの陪審で選任されたことになる︒

これほどの人数の陪審員を選出する母体となったのは︑ロンドンの二六の区

w a

r d

であった︒三つの陪審のために召

喚される人数は各開廷期ごとに二六の区に割り当てられた︒区によって陪審員資格のある住民数︑経済力に差がある

ので︑区ごとの陪審員の割り当ては均等ではない︒複数の開廷期に三種類の陪審員を提供する区があれば︑

( 3 6 )  

に︱つの陪審員しか提供しない区もみられる︒

陪審員候補者は︑区選出の市参事会員

a l

d e

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によって主宰される︱二月ニ︱日の区集会

w a

r d

m o

t e

で選ばれ

( 3 7 )  

た︒区集会では陪審員候補者のみならず︑市会議員︑治安官︑教区官吏

b e

a d

l e

さらに様々な区の官吏達が選任された︒

市参事会員は区集会での選任をもとに区が負担する開廷期の陪審員候補者のリストを作成した︒ 召喚と選任の手続が年八回繰り返された︒従って︑ ロンドン大陪審は選任過程に大きな特徴がある︒

シェリフの官吏が作 一開廷期 ︱二人の審理陪審員が選任された︒このような陪審員の ロンドンでは年八回このプロセスが繰り

/¥ 

(9)

一 七 三0年 代 の オ ー ル ド ・ ベ イ リ 四 ( 栗 原 )

判事裁判所審理陪審員の七八•四%を占めており、 の課税報告書から陪審員の財産を分析した︒ 成する陪審員候補者名簿はこれをもとにして作成された︒陪審員の任務は住民が負担するべき区の行政のなかに位置づけられた︒従って︑陪審員は必然的に地方行政の経験者のなかから選任された︒

( 3 8 )  

の多くが市会議員であったことを指摘した︒

めら

れ︑

ロンドンでは︑大陪審が地方のアサイズ大陪審のように治安判事によっ

( 3 9 )  

ロンドンの治安判事は市参事会員から任命されたからである︒て支配されることはなかった︒

表切は一六九二年から一六九九年までの間に三種類の陪審の経験者がどの陪審を経験したのかを示したものであ

る︒複数回の陪審員経験者は六

0

六人︵四四・九%︶を占めるが︑そのなかで大陪審と他の二つの陪審を経験した陪 審員が複数回の陪審員経験者のうちの三九・九%を占めている︒地方のアサイズ大陪審がジェントルマンによって占

アサイズ大陪審員が他の陪審員を経験することがなくなりつつあるなかで︑

陪審員の経験はロンドン大陪審の開放性を示すものとして注目される︒特に︑

判所の審理陪審員の経験は序列化された地方の陪審ではみられない経験であった︒表③は一六九二年から一六九九年 までの三種類の陪審員の経験回数を示したものである︒統計的に言えば︑陪審のなかですでに陪審員経験のある人が

ロンドンの三つの陪審ではほぼ半数が経験者によって占められたことを意味する︒

ドンの陪審はこの経験者達を中心にして運営されたと思われる︒

ロンドンの陪審員は財産のある商人︑手工業者から選ばれた︒

一六九二年の人頭税では︑基本税以外に付加税を支払った人達は全納税

者の三五%を占めるにすぎないが︑彼らが大陪審員の九

0

.六

%︑

評価された人達が︑三つの陪審員のなかで八九%︑ 占める比率は四八%となる︒

七七

%︑

一六九二年の人頭税報告書で ビーティは一六九

0

年代の陪審員 ビーティは一六九二年の人頭税報告書と一六九四年

オールド・ベイリ審理陪審員の七九・一%︑治安

一六九四年の課税報告書では︑財産の年評価額ニ︱ポンド以上と

( 4 0 )  

七七・五%を占めていた︒

ロン

ロンドンの大陪審員による治安判事裁 ロンドンの大陪審員による他の

21‑2 ‑193 (香法2001)

(10)

表(2) ロ ン ド ン の 陪 審 任 務 の 諸 類 型 1692‑1699

陪 審 任 務 陪審員数 比率

一回だけの陪審任務 744  55.1 

複数回の陪審任務

(1)  同じ陪審 340  25.2 

(2)  大陪審と治安判事裁判所の審理陪審 150  11.1 

(3)  オールド・ベイリの審理陪審と治安判事裁判所の審理陪 24  1.8 

(4)  大陪審とオールド・ベイリ審理陪審 67  5.0 

(5)  三つの陪審 25  1.9 

1,350  100.1  J.M. Beattie,  London Juries  in  the  1690s,  in  J. S. Cockburn and T. Green(ed.),  Twelve Good Men and True, p. 235. 

表(3) ロ ン ド ン 陪 審 に お け る 陪 審 員 の 経 験 回 数 1692‑1699

陪審員の経験回数 人 数 出廷回数

1  744  744  2  265  530  3  168  504  4  87  348  5  48  240  6  26  156  7  10  70 

8  2  16 

1,350  2,608  Ibid., p. 236. 

(11)

一七三0年 代 の オ ー ル ド ・ ベ イ リ 四 ( 栗 原 )

る﹂ことが告発された︒ る︒その範囲は︑

ニューゲイト・ソリシタの刑事手続への介在は地域社 一六九四年の課税報告書で財産の年評価額二

0

ポンド以下と査定された人達が陪審員と

なる道が閉ざされているわけではないが︑陪審員の中枢を占めたのは︑

た人達とニハ九四年の課税報告書で財産の年評価額ニ︱ポンド以上と査定された人達であった︒彼らは区の行政の担

い手であり︑財産のある商人や手工業者であった︒行政の担い手としての︑雇用主としての経験が陪審員としての彼

ロンドン大陪審は告発

p r e s e n t m e n

や請願によって犯罪防止のために積極的に行動した︒大陪審の職権による告発t

には特定の人に対してなされるものだけでなく︑地域社会の平和を妨げる様々な問題を解決するために対策を訴える

ものも含まれた︒この種の告発は告発という形式をとるが︑内容的には市長と治安判事への請願と言うべきものであ

制の

強化

ロンドンの若者達の不道徳行為や非行に対する取り締りの強化︑急増する財産犯罪への法の執行体

さらに新しい刑罰の導入の要求にまで及んでいた︒

一七三三年九月一五日のロンドン大陪審の告発では︑﹁治安判事の書記もしくは従者が︑令状︑拘留︑正式誓約書︑

釈放︑治安判事の義務と職務に付随する他の事柄を口実にして︑訴追者と被訴追者から多額の金銭を王国の法律に反

( 4 2 )  

し公的正義を侵害して徴収している﹂ことが告発された︒これは治安判事の書記のみならず︑その背後にいる取引判

( 4 3 )  

t r a d i n g j u s t i c

N

e に対する告発を意図していた︒さらに︑﹁治安判事の書記がニューゲイト・ソリシタ

e w g a t e o l   S

i c i   , 

t o

r と称されるソリシタと結託して︑ らの行動に反映された︒

無知で不用心な人達に訴追を起こすようにかきたて︑彼らから金銭を奪ってい

ニューゲイト・ソリシタと称される一部のソリシタは罪状の決定︑正式起訴状の草案作成︑

訴追側証人の選定と準備︑自白を引き出すための被告人に対する公判前の尋問を含めて公判前手続に深くかかわり︑

( 4 4 )  

不必要な訴追や悪意訴追を促すことによって利益を得ていた︒ 基本税しか支払わない人達︑

一六九二年の人頭税報告書で付加税を支払っ

21‑2 ‑195 (香法2001)

(12)

ぐ阻誌卜品如裳

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(M) J. H. Baker, Criminal Courts and Procedure at Common Law 1500‑1800, in J. S. Cockburn(ed.), Crime in England 1550‑1800, 

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J.S. Cockburn, Calendar of Assize 

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324‑327. 

(M) 1卜'<:‑J. Chitty !J. 吋菜さ'瞑初習垢祁<恕よざ太回<やti~v回田Qffi請位l:ill~~t-Qりぷ咀藝苗届封し垢緊的訳⑱~P{ D女<

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閲双立←くや終;~JA恒藩初~+.:!

J.Chitty, A Practical Treatise on the Criminal Law, 1816 (rep. 1978, Garland), vol. 1, p. 

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("'1') Ibid., p. 308. -l<迦憮疇(Q益辿潔淀~~湮恒や~I',;.:!fJ心旦0.'.:', ゃ竺1J. S. Cockburn, op. cit., pp. 46‑47. 

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(c..o) 柑函樅恕芯吝那心初菜内罵Q[ID忌竺'挙甘区畢S痘岩Q~替以廿C

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照'K心菜女(J.Chitty, op. cit., vol. 1, p. 317.)

(13)

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(尽) M. Hale, Historia Placitorum Coronae, 1736 (rep. 1971, Professional Books)vol.II, p. 157.'I"‑11'¥ 0~t< ..1... —,\ W. Black‑

stone竺,‑K胆憮芯回吾堵槃忘1后怜邑こ臼瞑虹茎翌ヤ心〈初リ..lJ‑K裳抽譴網S埠赳心

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豆<"全S亙翌甘匂涅詔」叫\い~K.L. —, \Q「蛋(R~釜翌」如垢も0芯心J..lJ旦吋ぐや:l+1~壬初~~(B.

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‑130. 

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Ibid., pp. 55‑57. 

]. M. Beattie, op. cit., p. 321. 

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75 アサイズ大陪審は一六世紀後半には経験者を含めて構成されていた︒コウバーンによるロン

ドン近隣諸州の統計(‑五五九ー一六

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三︶では︑二︑五六四人の大陪審員のうちで一回だけの経験者は一︑四七

0

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回以上の経験者もわずかにみられるが︑三回までの経験者が全体の八四%を占めている︒ローソンによるハートフォー

ドシャ・アサイズ(‑五八九ー一六一八︶の研究では︑二四六人の大陪審員のうちで一回だけの経験者は八五人︵三四%︶にすぎな

い︒複数回の経験者のなかには二

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回以上も大陪審員を経験したジェントルマンも含まれた︒

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治安判事による公判前調査については︑

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拙稿﹁一七三

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年代のオールド・ベイリ 一八世紀エセックスについては︑

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ミドルクラスの白I由土地保有者によってアサイズ大陪

審が構成された一七世紀前半のチェシャでは︑陪審員は二つの大陪審︑さらに大陪審と審理陪審を区別することなく経験しており︑

四つの陪審の間の序列化はみられない︒しかし︑アサイズ大陪審がジェントルマンによって占められた一七世紀前半のサセックスで

は陪審の序列化がすでに進行していた︒アサイズ大陪審のなかで四季裁判所大陪審の経験者はわずかにすぎず︑二つの大陪審の身分

の違いは明白となっていた︒二つの審理陪審ではアサイズ審理陪審のなかに四季裁判所審理陪審の経験者が含まれたが︑二つの審理

陪審員の財産による序列化が認められる︒一八世紀には︑アサイズ大陪審を頂点として︑四季裁判所大陪審︑アサイズ審理陪審︑四

季裁判所審理陪審という陪審の序列化が確立された︒

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一 四

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(笞)

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(要)

(お)沼)

啜) J.M. Beattie, London Juries in the 1690s, in J. S. Cockburn and T. A. Green (ed.), op. cit., pp. 222‑229. 

G. Lamoine (ed.), Charges to the Grand Jury 1689‑1803, Royal Historical Society, 1992, pp. 4‑5. 

]. M. Beattie, op. cit., p. 228. 

Ibid., pp. 228‑229. 

Ibid., pp. 229‑231. 

Ibid., pp. 226‑227, pp. 248‑250. 

Ibid., pp. 241‑242. 

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Prosecution and Punishment: Petty Crime and the Law in London and Rural Middlesex c. 1660‑1725, Cambridge, 1991, pp. 

148‑149. 

︵基嵌︶含竺

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ほ)]. M. Beattie, op. cit., pp. 237‑244. 

(~) Do, London Crime and the Making of the'Bloody Code'1689‑1718, in L. Davison, T. Hitchcock, T. Kern, R. B. Shoemaker 

(ed.), Stilling the Grumbling Hive: The Response to Social and Economic Problem in England 1689‑1750, Allan Sutton, 1992, 

pp. 60‑63. 

(~) (苔)

ほ)

ぼ) The 1733 Grand Jury Presentment. ~J翫嗅心'0.B. S. P. (Sept. 1733)旦姿啜初~\s.J.'.:,N)

盗不弄•u0;1s.Jざ].H. Langbein, Shaping the 18th Century Criminal Trial: A View from the Ryder Sources, Univ. of 

Chicago Law Rev., vol. 50, 1983, p. 109. 

Ibid., p.109, pp. 127‑129. 

B. ]. Shapiro, op. cit., pp. 85‑86. 

(IOO8

迅曲︶

661~Z IN

1

(16)

記が正式起訴された犯罪について有罪か否かを被告人に尋ねる︒被告人が﹁無罪﹂と答弁し︑﹁神と地方住民によって by o  G d  a nd   th e   C o u n t r y

﹂宰

I理されることを答弁すれば︑審理陪審に委ねられる︒被告人が有罪の答弁をした場合に

は︑審理陪審に付されることなく︑陪審審理の終了後に裁判官によって刑を宣告される︒陪審審理を省略する有罪の

答弁が定められた期間に大量の事件を処理せねばならないアサイズ裁判で一五九

0

年代から一六一

0

年代にかけて積

極的に採用されたことは︑コウバーンが指摘するところである︒有罪の答弁によって正式起訴状が軽い罪状に書き換

(3 ) 

えられたことも指摘された︒

統計しか示していないので︑有罪の答弁がその後どうなったのか明らかではない︒しかし︑

書いた一六七

0

年代には︑裁判所は正式起訴状が聖職者の特権の範囲外であれば︑当事者に

(4 ) 

判に身を委ねることを勧めるのが通常となっている︒死刑が科せられる事件では被告人に自白があったとしても︑被

告人に無罪の答弁をさせ︑陪審審理に委ねることになり︑一八世紀には有罪の答弁はほとんどなくなった︒従って︑

( 5 a )  

有罪の答弁によって正式起訴状が書き換えられることもなくなった︒

死刑が科せられない事件の場合には︑すなわち︑重窃盗や軽窃盗の場合には︑被告人が有罪の答弁をしたとしても︑

烙印刑や鞭打ち刑だけで釈放されるために︑死刑事件と異なり一八世紀に入っても︑これらの犯罪は有罪の答弁によ しかし︑有罪の答弁は︑ 大陪審で正式起訴状案が 罪状認否手続 3

審 理 陪 審

コウバーン自身が示すように︑一六一八年以後減少する︒

︵無罪の︶答弁をして公 ヘイルが刑事訴訟法史を

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﹁原案適正﹂と裏書きされた被告人は︑罪状認否手続に付される︒罪状認否手続では︑書

一 六

(17)

一 七 三0年代のオールド・ベイリ四(栗原)

って処理されることもあった︒

(6 ) 

の有罪の答弁を激減させた︒

しか

し︑

一 七

一七一八年の流刑法による重窃盗や軽窃盗への流刑の導入がこの種の事件で

一八世紀には全ての重罪事件で被告人に無罪の答弁をさせ︑陪審審理に結論を委ねるの

一七

世紀

後半

以後

なぜ重罪事件で無罪の答弁をさせ︑陪審審理に委ねることになったのであろうか︒

0 •

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  に記録されたスティーブン・ライト事件

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  (一七四三年︶からその理由を知ることがで

きる︒この事件は︑ライトが一七四三年一月ニ︱日に強盗で現行犯逮捕され︑オールド・ベイリの第三開廷期︵二月

二三日ーニ五日︶に強盗で正式起訴され︑陪審審理に付された事件である︒ライトは公判の冒頭に︑﹁閣下︑私の犯罪

の場合には裁判所に面倒をかける必要はないと思います︒従って︑私は有罪の答弁をします︒私は裁判所と陪審によ って陛下の慈悲が勧告されることを希望します﹂と発言し︑罪状認否手続での無罪の答弁を撤回し︑裁判所と陪審に

対して有罪の答弁と引き換えに恩赦の申請を求めた︒ライトのこの申し立てに対して裁判所は次のように答えた︒

﹁彼はすでに無罪の答弁をしていたが︑その答弁を取り消し︑有罪の答弁をすることができる︒しかし︑彼の申し立

な状況を認定することはできない︒ てに有利な状況があるならば︑彼が有罪の答弁をする場合には裁判所はその状況を知ることができない︒陪審も有利

というのはその状況が陪審にも明らかでないからである︒﹂

ライトが有罪の答弁に変更すれば︑陪審審理は開かれず︑裁判官による死刑の宣告を待つ以外にない︒ライトは公 判を受けることに同意した︒ここでは

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からライトの公判記録をこれ以上追う必要はない︒里要なことは︑

上記の裁判所の発言に重罪事件で無罪の答弁をさせ︑陪審審理に委ねる目的が示されていることである︒すなわち︑

死刑を回避し刑を軽減するに値いする被告人の諸状況は︑公判でのみ陪審と裁判官の面前で示される︒陪審と裁判官 がそれらの諸状況を認定すれば︑陪審は一部評決によって︑時には無罪評決によってそれらの諸状況を考慮した評決

それ

では

が通常となった︒

21‑2 ‑201 (香法2001)

(18)

( 1

)  

代の公判の在り方とかかわるのであとでふれることにする︒ を下すことができるし︑

陪審の無罪評決によって︑

この時 裁判官による流刑以外の刑の 裁判官は死刑宣告後の恩赦の申請のときにそれらの諸状況を考慮することができた︒

科せられない重罪事件の場合にも︑被告人の有利な状況は︑

宣告によって考慮された︒審理陪審が評決を決する要因として機能した被告人の諸状況が何であったのかは︑

被告人が答弁しなかったり︑﹁神と地方住民によって﹂と答えない場合には︑不答弁

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とされた︒大逆罪と軽罪では

不答弁は有罪の承認とみなされた︒充分な警告後に有罪の答弁として扱われ︑刑を宣告された︒重罪と小反逆罪の場合には︑故意の

不答弁であれば︑﹁神と地方住民によって﹂と答えるまで苛酷な苦痛

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と称される拷問が科せられた︒一八世紀前

半にも苛酷な苦痛が科せられた事例はわずかながら認められるが︑プラックストーンの時代には科せられなくなり︑一七七二年の制

定法

(1

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20 )によって廃止された︒その後︑不答弁は有罪の自白として扱われた︒不答弁を無罪の答弁として扱うように 変わるのは︑一八二七年の制定法

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( 2 )  

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65‑7 0.小山貞夫﹁絶対王政期イングランド法制史抄説﹂︵創文社一九九二年︶二六九ー三三一頁︒

( 3 )

コウバーンは正式起訴状の書き換えを裁判官と被告人の間の答弁取引

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として位置づける︒正式起訴状から明白な

事実は︑有罪の自白と量刑の部分が書き加えられ︑死刑犯罪に相当する部分が抹消されたり︑窃盗の場合に評価額が書き換えられた

ことである︒しかし︑個々の部分がいつどのようにして書き加えられたり︑書き換えられたのか明白ではない︒確かに︑正式起訴状

に書き加えられた有罪の自白と量刑の部分は裁判官の指示によって書き加えられたのであろう︒有罪の自白は罪状認否手続でなさ

れるが︑刑の宣告は通常は有罪の被告人をまとめて公判の最後に下される︒従って︑この二つの書き換えは手続の別々の局面でなさ

れたと考えることもできる︒さらに︑正式起訴状で抹消された死刑犯罪に相当する部分や書き換えられた評価額の部分も裁判官の指

示でなされたとは限らないのである︒コウバーンも認めるように︑大陪審が書記に指示して正式起訴状を書き換えることができるか

らである︒従って︑有罪の自白と正式起訴状の一部分の抹消や書き換えをどのように関連づけるのかは︑基本的には手続の流れのな

かで推測する以外にない︒

一 八

死刑が

参照

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