九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
韓国無文土器研究の現状と課題
李, 白圭
慶北大学考古人類学科
https://doi.org/10.15017/2198493
出版情報:韓国研究センター年報. 2, pp.35-40, 2002-03-15. 九州大学韓国研究センター バージョン:
権利関係:
韓 国無文土器研究の現状 と課題
I は じめに
1 9 6 0 年 代 まで の韓 国 にお け る無 文 土 器研 究 は、北 朝 鮮 西 北 地 域 で は 、 金 灘 里 、 智 塔 里 遺 跡 な どの 調 査 を と お して 、 櫛 目文 土 器 と無 文 上 器 の先 後 関係 が 確 実 に究 明 され 、先 史 住 居 跡 調 査 の技 術 の 進 展 を な し遂 げ た 。 東北地域 で は威鏡 北道 会寧五 洞遺跡 、茂 山虎 谷遺跡 な ど、
大 規 模 な無 文 土 器 集 落 跡 の調 査 を 1 9 5 0 〜 6 0 年 代 に実 施 して 、 無 文 土 器 の相 互 編 年 の 大 綱 を設 け、 無 文 上 器 と青 銅 器 との 関 係 を定 立 す る よ う に な つた 。 これ に比 べ て 、 韓 国で は 日本 植 民 地 時 代 の無 文 土 器 観 を踏 襲 し つ つ 、別 段 の 進 捗 を なす こ とが で きな か つた 。 そ う し た 中で も、 国 立 博 物 館 が 韓 国 各 地 の 支 石 墓 と無 文 上 器 住 居 跡 を調 査 し、 そ れ に よ る研 究 書 が 発 刊 され た こ と は成 果 と して 記 録 で き る。 一 方 、 直 接 的 な資 料 と情 報 の 入 手 は不 可 能 で あ つた が 、 日本 を とお して 間 接 的 に 北 朝 鮮 の学 問 的 成 果 を使 用 し、 韓 国 の無 文 土 器 と 日本 の 弥 生 土 器 との 関 係 を検 討 す る段 階 に至 っ た 。 しか し、
6 0 年 代 まで は遺 跡 の調 査 と学 問 的研 究 成 果 が 不 十 分 な 段 階で あ った。
1970〜 80年 代 にな って、北朝鮮 で は独裁体制 の強 化 に よ り、すべ ての分野 にお いて の学 問 ・研究 が政 治、
社 会 と理 念 に従属 す る よ うにな つた。 それ に よつて、
考古学分野 に対す る成果 も戦前 の ようにお こな えず 、 調査研究成果 も次第 に発刊 され な くな り、足踏 み状態 にな る。反面 、韓 国で は70年 代前半 にな つて、韓 国無 文土 器編年 の大綱 が な され 、農耕 問題 の検討 が な され て い った。 そ して 、京畿道騒 州欣 岩里遺跡 において現 物 として確認 され る成 果 を集 めた。つづ いて、思清 南 道扶余松 菊里 遺跡 の調査 を とお して 、松菊 里 式住居跡 、 松菊里 式上 器 、石棺 墓 と速寧 式銅剣 の問題 、及び 甕棺 墓 をは じめ として 、運寧 式銅矛 の鋳型 、及び 実物 とし て発見 され た米 を とお して稲作 の起 源 問題 な どが活発 に論議 された。
李 白 圭 (慶北大学校考古人類学科)
1990年 代 にな つて 、北 朝 鮮 の考 古 学 的 成 果 が 、社 会体 制 に よつて 多 くの制 約 を受 け、 み るに足 る成果 を 集 め られ ない情 勢 に比べ て 、韓 国 は各地 の 開発 に よる 大規 模 な調 査 を とお して 、大規 模 な集 落跡 が全 面 的 に 調査 され、 これ に対す る成果が発表 されて無文土器研 究が活発 になった。蔚 山検丹里遺跡 は韓 国最初の本格 的な環濠集落跡 の調査で あるが、 これ を とお して 日本 地域 の環濠集落跡 との比較研究が可能 になつて以後、
環濠遺跡 の調査が活発 にな され る契機 にな つた とい う 点で意味が大 きい。以後 、各地で大規模 な集落跡の調 査が活発 にな されてい く一方、 これ によって慶 尚南道 晋州大坪里 をは じめ とす る地域 において、 この時期の 大規模 な畑遺跡 と、蔚 山無去洞で は最初 に水 田遺跡が 発見 され、今後の この方面の研究成果が期待 され る。
I調 査研究の現状 1)住 居跡 ・集落跡
住居跡 と集落跡 の調査 は、 1 9 6 0 年 代 まで は北朝鮮 が中心 になってお こなわれていつた。 と くに、智塔里 、 金灘里 、会寧五洞 、茂 山虎谷遺跡 をは じめ とす る各地 の調査 は櫛 目文土器 と無文上器 との相互 関係お よび支 石墓 な どとの関連 を明確 にす る成果 を収 めた。 しか し、
韓 国は北朝鮮 に比べ て、 1 9 5 0 〜 6 0 年 代 には遺跡調査 は もちろん、 これ に対す る研究 も注 目す るだ けの成果 を得 るこ とがで きなか つた。 しか し、 1 9 7 0 年 代 にな ってか らは、忠清南道扶余松菊里遺跡 の調査 と、京畿 道騒州欣岩里遺跡 の調査 な どを とお して、無文土器時 代 の大規模集落跡 を調査、確認す る成果 を収 め、 これ によつて韓半 島中部お よび西南部地方 の本格的な無文 土器研究 を可能 にす る契機 となった。 と くに、騒州欣 岩里 で 1 6 基 の住居跡 が調査 され 、孔列 文土器 、二重 口縁土器、短斜線文土器、 日唇刻 目土器、丹塗磨研土
播な どが 同 じ住 居 跡 か ら出上 し、欣 岩 里 遺 跡 に代 表 さ れ る中部 地 域 の無 文 上 器 遺 跡 と、北 朝 鮮地 域 の無 文 土 器遺跡 との関係 に対す る研究 の進捗 がな されてい く契 機 となった。それ ばか りで な く、 この遺跡で は韓半 島 最初 に無文土器時代 の炭化米が発見 され、韓半 島の稲 作の起源 とその水準 に対す る検討が な され るようにな った。
その後 、 1 9 8 0 、 9 0 年 代 にな って、北朝鮮で は硬 直 した社会体制 に よって大規模 な無文上器遺跡 に対す る 調査 も十分 にお こな ってい くことがで きず、調査 をお こなつてい つた として も、その成果の公表が十分 にな されず、研究 も活発 にで きない状態が継続 した。 しか し、
韓国で は韓半 島最初 に本格 的な環濠 を もつ、蔚 山検丹 里の全面調査 がな されてか ら、無文土器時代 の集落跡 調査 と研究が可能 にな り、 これ に よつて 日本弥生時代 の環濠集落 との関係 に も関心 を もつ ようになつた。つ づ いて、全羅南道昇州住岩ダム水没地 区内大規模集落 跡 の調査 を とお して、西南部地域 の無文土器時代研究 が活発 にな されてい く契機 とな つた。以後 、 1990年 代 になって、忠清南道天安 白石洞、京畿道河南漢沙里 遺跡、慶 尚南道晋州南江ダム関係遺跡 と、大邸束川洞、
西辺洞、蔚 山川上里 、済州三 陽洞各地で無文土器集落 跡 の全面 的な調査 がな され、無文土器集落の構造 と同 時 に総合的な研究 が次第 に可能 になったのは望 ましい 成果 とい える。
2 ) 墓 制
1 9 6 0 年 代 にすで に北朝鮮 で は コマ形土器 と支石墓、
石棺墓の関係 の究 明 と青銅器 との関係 を明確 に規定で きるようにな った。韓 国で は国立 中央博物館 を中心 と して、韓 国各地 の支石墓 を絡含 的 に調査 し、不明瞭だ った各種型式の支石墓が明 らか にな った。 これ と同時 に無文土器住居跡 の調査 も附随的 にな され、支石墓 と 無文上器、磨製石器 との関係 も明 らか になった ことは 大 きな成果で あつた。以後 、西南部地域の支石墓 を中 心 に全 国各地 の多 くの遺跡 の大規模 な調査 がな され、
支石墓、石棺墓 、甕棺墓 、土援墓 な どの墓制 と型式お よび編年 がお こなわれ るようにな つた。 と くに、扶余
松 菊 里 の石 棺 墓 か ら遼 寧 式 銅 剣 が磨 製 石 剣 、磨 製 石 鏃 な ど と伴 出 し、道 寧 式 銅 剣 と磨 製 石 器 さ らに無 文 土 器 との関係 を把握す る ことがで きる重要 な発見 が な され てい つた。 この後 、各地で支石墓 が活発 に調査 され 、 支石墓の多様な型式 と全国的な分布が次第 に明確 にな り、
支石墓 、石棺墓 な どと遷寧 式銅剣 の ような青銅器 との 関係 が一層 明確 にな った。 また、慶 尚南道 昌原徳川里 支石墓 は一辺が5 0 m を 越 える墓域 を もつてい るばか り で はな く、築造方法 と規模 がおお よそ歴 史時代 の大規 模古墳 と同 じ規模で築造 され 、 この時代 の社会 の階層 分化 を推測 させ て くれた。 この ような大規模 な支石墓 は最近 全羅南道宝城束村里支石墓で も類似 した規模 の ものが発見 され、今後支石墓社会 の階層 と構造 を再検 討で きる契機 を設 けて くれた。
3)農 耕
韓 国で の農耕 の主 た る関心 は稲作 と、 これ に よる現 物 としての穀物 の出土 と水 日の発見で あつた。 1950〜
60年 代 にな るまで は、 これ に対す る調査が な されてお らず 、隣の 中国 と日本 の調査 お よび 研究成果 に よって、
これ に追従す るか再 検討す る水準で あ った。 しか し、
1977年 になつて欣岩里での現物 としての炭化米の発見は、
欣岩里 式上器 との関係 と同時 に韓半 島の稲作 の起源 を 数世紀 さかのぼ らせ て調整 す る必要性 と、稲作農耕 の 北方起源説 に重 きをお くことにな つた。つづ いて、松 菊里集 落跡で の炭化 米 の発見 は さ らに この ような所見 を裏付 ける結果 を もた らして くれた。 さらに、 1979年 平壌市南京36号 住居跡 にお ける米 の発見 は、 中国遷寧 省 あ るい は山東半 島 を とお して、平安南道地方へ稲作 が伝来 した とい う従来 の見解 を再確認 させ て くれた。
これ と同時 に北朝鮮 の会寧五洞遺跡 の大豆 、小豆、キ ビと、茂 山虎谷 の キ ビ、モ ロ コシキ ビの ような穀物 の 発見 と、高 さ80セ ンチ を越 える大形 甕の出現 、韓国各 地で発見 され るア ワ、キ ビ、モ ロ コシキ ビをは じめ と す る各種穀物 の発見 は、無文土器社会 が完全 な農耕社 会で あ った ことを実証 的 に示す もので あ った。 しか し、
60〜 70年 代 の この ような現物 の発見 に もかかわ らず、
これ を栽培 した畑 と水 日の発見 は90年 代 にな ってな さ
韓 国研究セ ンター年報
れてい つた。蔚 山無去洞遺跡で は、韓半 島最初 に小規 模 に区画 された水 田7 0 面 前後が発見 された。そ して、
思清南道論 山市麻 田里で もこの ような水 田 と畑 の発見 が な されてい った。畑 の場含 、慶 尚南道晋州大坪里で の4 0 0 0 坪 規模 の大規模 な畑遺跡 をは じめ と して 、大 郵束川洞 な ど各地で畑 の発見 が な されていて、無文上 器社会が完全な農耕社会であつた ことを実証的に示 し ている。 これ と同時に、農耕による儀礼行為に対す る 研究 も次第になされていっている。
4 ) 青 銅器
無 文 土 器 の遺 跡 か ら青銅 器 が 出上 した例 は きわ め て 少 ない。北朝鮮 において は金灘里住居跡 か らの青銅製撃 、 平 安 北 道 義 州 美 松 里 洞 穴 で の扇 形 銅 斧 、威 鏡 南 道 永 興 の速 寧 式銅 矛 、 金 野 遺 跡 か らの 青銅 器 、子 細 な こ とは わ か らない が 、平 安 南 道 徳 川 市 南 陽 里 集 落遺 跡 か ら還 寧 式 銅 矛 と同 じ くコマ 形 土 器 、美 松 里 形 土 器 な どが発 見 された。 この うち、徳川市南陽里 1 6 号住居跡 と平壌 市祥原郡龍 谷里 5 号 支石墓 か ら遼寧 式銅剣 が 出上 した とい う。 これ と別 に、平安南道成川郡百源労働者 区 9 号支石墓か らは細形銅剣が発見 された とい う。
韓 国で は扶余松菊里石棺墓 か ら磨製石剣 、磨製石鏃 な どとともに還寧 式銅剣が発見 され、松菊里住居跡 か ら扇形銅斧 の溶拍、全羅南道麗川市支石墓 な どか ら遼 寧式銅剣 が発見 され、京畿道上紫浦里 、全羅南道長川 里支石墓な どか ら細形銅剣が発見 された。
この ように、韓 国、北朝鮮各地で還寧式銅剣 、銅矛 をは じめ とす る遇寧 式銅剣文化期 に該 当す る青銅 関係 遺物 が、 コマ形土器、美松里型土器、孔列上器 、松菊 里型土器 、丹塗磨研土器 な どの ような無文土器 と、磨 製石剣 をは じめ とす る石器群 と共伴 して、支石墓 、石 棺墓 な どか ら出上 していて、韓半 島が た とえ無文上器 の開始 とともに青銅器 を使用 しなか った として も、そ の まま遷寧式銅剣文化 に編入 され た とい える。以後、
細形銅剣が使用 され、青銅器 の製作使用が さ らに活発 化 してい き、紀 元前3 世 紀 にな って、鉄器 の導入 とと
もに交代 しは じめ るとい う事情が確実 になつた。
回 今後の無文土器研究の課題 1)無文土器の起源と地域性
韓国無文上器の起源 は一元的だ とは考 えられていない。
まず、北朝鮮 の場含、平安南道 、黄海道地方 に主 に分 布 してい るコマ形土器 の主 な分布地域 と、清川江以北 の美松里型土器 、公貴里 、深貴里類型 の文化 が あ る。
一方では、 これ らと異なる文化内容を もつている威鏡 北道会寧五洞 、西浦項 、茂 山虎谷遺跡 な どが存在す る。
これ ら3地 域の無文上器文化が韓半島で は じめ られたか、
異 な る地域 か ら流入 したか は ともか くとして、 その起 源 と源流 が異 な る点 は明 白で あ る。 これ ら3 地 域 の共 通点 と異質性 を どの ように解釈 し、評価す るのかが今 後の課題 とい えるだ ろう。
韓 国の場合、従来 、 中部地方 の無文土 器が北朝鮮 か らの伝播 、その 中で も茂 山虎谷遺跡 に代表 され る東北 地方 の無文土器文化 と、 コマ形土器の主分布地域で あ る平安南道 、黄海道地域 の上器 の融含 か らな されてい くものだ とい う従来 の見解 に対 して、 これ を再検討 し よう とい う動 きも活発で ある。そればか りで な く、西 南部地方 に主 として分布 してい るいわ ゆ る松菊里形上 器文化 の分布 と地域性 お よび編年 に対す る各種 の意見 が あ る。 この ような北朝鮮地方 の無文土 器の起源 と、
韓 国中部地方 の無文上器 と松菊里型上器 の生産過程 に 対す る研究が、無文土器 自体 の もつ とも関心 あ る今後 の研究課題 と考 え られ る。一方で は、韓半 島の無文土 器文化 と日本お よび 中国、沿海州 の ような隣接地域 と の比較研究が活発 にな されてい くことが切実 に必要で ある。 この ような研究が 円満 にお こなわれてい けば、
韓半 島無文土器文化 の地域性 とともに、無文土器 の時 期 区分 をは じめ とす る総含的 な編年 がお こなわれ、そ の起源 と拡散 の ような根元的 な問題 の解決が可能 にな るだ ろう。
2)無 文 土 器 時代 の集 落 研 究
資料の限界からおこなうのがむずかしかった集落の 絡含的研究が、資料の増加からその姿が少 しずつ現れ つつある。これをとおして、集落跡内の中央の共同広場
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と考 え られ る空 間地 が発見 され る遺跡 もあ り、集 落跡 内の環壕 の調査 も活 発 にお こなわれ てい って い る。 と くに、扶余松菊里の場合 は環壕 のみな らず、大規模 な 本柵施設 も発見 された。 また、全貌 は確認で きず物足 りないが、慶 尚南道晋州大坪里 の一部 の集落遺跡 は、
以前考 えた規模以上 の大規模集落 を形成 していた可能 性が大 きい。そ して、大邸東川洞遺跡 と同様 な遺物 と、
それ に隣接 した小 さな川辺 か ら共通の儀礼 をお こなつ た可能性が大 きい遺構 も発見 された。 また、慶 尚南道 測川梨琴洞遺跡の場含、他の遺跡 にほ とん ど類例がな い大規模 な建物跡が調査 され、 これ らの遺跡の性格が 関心の対象 となつてい る。今後、 この ような全面的な 集落跡の調査 を とお して、無文土器社会の階層構造、
集落構造、儀礼 な どが次第 に明 らかになる可能性が大 きい。
3 ) 無 文 土 器 と青 銅 器
い まだ に、無文土器 と青銅器の開始 と終木が どうな のか確実で はない。無文土器 の開始期 においては、は じめか ら青銅器 を使用す ることはで きなか つた と考 え られる。美松里型土器、コマ形土器、韓国の孔列文土器、
日唇刻 目土器段階 になる と、部分的 または全面的 に青 銅器 を使用 した と理解す る もの と考 え られ る。 しか し、
無文土器時代の青銅器 は、 まだ道具 として石器 をその まま駆逐で きなか つたばか りで はな く、む しろ磨製石 器製作が過去 よ り精練 され、同時 に種類が多様 になつ てい くの もこの時期であ る。黒色磨研土器 と粘土帯土 器が 出土す る本格的な細形銅剣期 になって、石器の出 上が急激 に減少す る。そ うす る と、 この時代 に発見 さ れる青銅器の用途 は何で、 この ような青銅器所有者が もつ この時代の社会的な威信 な どの諸 問題が検討 され なければな らないので ある。
4 ) 無 文 土 器 と石 器
無文土器の ように使用 された道具 として もつ とも多 くの種類が磨製石器で ある。磨製石器各種 に対す るい くつかの諭証があ り、比較 的活発 にな されてい る点が 多いが、 これ らにあって、石器 自体の研究 に限 られ る
点が多い。専 門的 な研究 か ら期待 され る点 も多 いが、無 文土器 と他 の石器 を出土す る遺跡 の総含 的な研究 を とお して、石器の用途と分布、共伴関係を総含して検討する ことが必要である。
5 ) 無 文 土 器 の年 代
北朝鮮で は無文上器 の他 に もすべ ての時代 の年代 を 古 くさかのぼ らせ る傾 向が あ つて、最近 にな つてか ら は さ らに この ような傾 向が強 くなつてい る。韓 国で は 近 頃、無文土器遺跡 の放射性炭素年代測定値 が、従来 考 えられた ものよ り古 くなるように出て くることが多 く、
無文土 器 時代 の上 限 を紀元前 13世 紀 あ るい は 15世 紀 頃 に さかのぼ らせ てみ ようとす る見解 も出て きてい る。
韓 国 の 無 文 土 器 遺 ■ltの放 射 性 炭 素 年 代 が 、 紀 元 前 1000年 前後 に測定 され る こ とが多 く、 これ を受 け入 れ な けれ ばな らない とい う意見 が次第 に優勢 になつて い る。 しか し、放射性年代測定 に対す る測定値 の信頼 度 とは別 に、無文土器 の地域性 とそれ に よる文化 内容 に もとづ く段 階設定 と、 これ に よる相互比較研究が さ らに促進す るのが望 ま しい。下 限 につ いて は、北朝鮮 地域 と韓 国の中部地域 は紀元前300年 前後 、南部地域 は紀元前 100〜 200年 とみ る意見が多い。
6 ) 無 文 土 器 社 会 の 性 格
無文土器社会が どの ような性 格 を もつ社会で あ るの か を把握す ることは、現在 多 くの資料 を もつて して も お こな えず、 これ に対す る本格 的な研究 も活発 にで き ない次第 で あ る。 しか し、無文土器前期 の代表 的 な墳 墓 は支石墓 と石棺墓で、 これ らの中 には、慶 尚南道 昌 原徳川里 、全羅南道宝城東村里支石墓 の ような、いず れ も三 国時代 の墳墓 に匹敵す る構造 を もつてい る支石 墓が発見 されてい る。 また、扶余松菊里石棺墓 、大 田 比宋洞石棺墓 と、平壌徳 川里 の ような還寧式鋼剣 、通 寧 式銅矛 な ど、青銅器 を副葬 してい る墳墓 の ように、
一部の墓の主人公 はこの社会の有力者であつて、族長 に近 い勢力 を もつ人で あった と考 え られ る。 これ は、
晋州大坪里 の大規模 な集 落遺跡 と、 と くに洒川郡梨琴 洞 の ような集落遺跡 で は、正面 1 3 間 、側面2 間 と推定
韓国研究センター年報
生 E E E T I I I I I
され る長 さ2 9 m 、 幅7 m の 大形高床 式建物跡 が調査 さ れた。 この建物跡 に使用 され る柱穴群 の直径 は中央 の 中心 柱 穴群 が8 0 〜 1 0 0 c m 、 その外 の柱 穴群 は3 0 〜 5 0 c m 程 度で あ つて、 その性格 に対す る研究 が注 目さ れ る。一方 、大郎辰泉洞遺跡 の場合 の ように、立石 を 正 に 中 央 に お い て 、 長 さ 2 5 m 、 幅 1 0 m 、 高 さ 7 0 c m 前 後 の割石で積 んで 区画 とした察祀遺跡 が発見 された。 この ような社会が まだ宗教 的な祭儀権 と世俗 的な権力 の分化 がお こなわれてい る社会で あ るのか ど うかの可否 も今後 の研究課題 と考 えられ る。
7 ) 無 文 土 器 と農 耕
黄海道鳳 山智塔里遺跡で ヒエで ない とす る と、ア ワ と考 え られ る穀物が櫛 目文土器遺跡で発見 されて以来、
無文土器時代 は当然農耕 を主 とす る社会 と考 え られて きたが、 これ に よる考古学 的資料 は貧弱で あ つた。 し か し、茂 山虎谷2期 層 の住居跡 か らキ ビ、モ ロ コシキ ビの ような穀物が大形 の甕か ら発見 され、無文上器時 代 の農耕 を疑 えない よ うにな つた。以後 、 1 9 7 7 年 度 に履州欣岩里 か ら米 な どをは じめ とす る穀物 と、扶余 松菊里 、平壌南京、晋州大坪里遺跡 な どか ら、現物 と して米が発見 され るので、雑穀農耕 は もちろん、水稲 農耕 もこの時期 にな されていた と信 じられ るようにな った。 それ ばか りで な く、 この ような水稲農耕 の起源 も遷束半 島ない し山東半 島か ら伝来 し、 これ を受容 し た平壊南京36号 遺跡 の ような性格の コマ形土器文化 の 韓 国へ の伝来 によって、韓 国 中部地方 に水稲農耕が定 着 していて、韓 国各地 か ら伝播 した と考 え られ るよう にな つた。 1990年 代 にな って、 中部地 方 の無文土器 の影響 を受 けた と考 え られ る松菊里型土器文化地域 の 論 山麻 田里遺跡 と蔚 山無去洞遺跡 か ら水 田が確実 に発 見 されたので、次第 に雑穀農耕 は もちろん本 田農耕 も 本格 的 にな されてい った と信 じられ る ようにな つた。
しか し、 この ような農耕が無文土器社会 に及 ぽす影響 と比重 が どの ようで あって、 この ような農業生産が ど の程度 の規模で な されていて、 どの ような環境 と技術 的水準でお こなわれていたのか究明す ることが今後 の 課題 とい えよう。
8 ) 無 文土 器研究 の方 向 と科学化
昔、人文科学的な研究 に満足 した ときと違 つて、今後、
無文土器時代 の研究 ない しはすべ ての時代 ・分野 の考 古学 において、 自然科学 的な研究方法 とその成果 を受 け入れて運用 しなけれ ばな らない ことは、皆 の切実 な 課題で あ る。古環境復元 と年代推定 、古代 の生活 の復 元 な ど各種考 古学 が追究す る学 問的 な 目標 に到達 す る ため には、 自然科学技術 の活用が重要で あ る。 しか し、
韓 国 において は この ような 自然科学技術 の活用 の必要 性 を感 じつつ も、実際 これ に対す る活用 と運用 は十分 にな されていない。外 国で は、 これ を積極 的 に活用 し ていて、 これ に対す る成果 が大 きい と思 う。韓 国 もこ の ような 自然科学技術 の活用 が どの時代 よ りも切実 に 必要 で あ る。一方で は、考古学 的な 目的 を達成す るた めの考古学 的研究 の理論 と方法論 の不在 が、今後 の韓 国考古学研 究 の全般 的問題点 として浮上す る もの と考 え られ る。現在 の韓 国考古学 はい まだ に幅広 い外 国考 古学 の研究成果 と、 それ に よる最新 の理論 と方法諭 に 晴い。 これ に よって、考古学 的 な調査 は過 去 の先祖 の 文化財調査 に止 まつてい るのが実情 で あ る。 これ は、
みんなが反省 し、克服 しな けれ ばな らない重要課題 と 考 え られ る。
韓
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韓国研究セ ンター年報 vo 2 40