茨城大学教育学部紀要(教育科学)41号(1992)1−15 1
学習者,教育者・研究者としての40年(3)
一私の社会科体験史一
中川浩一*
(1991年9月13日受理)
My 40 year History as a Student, Teacher and Researcher of Social Studies
(Part 3)
Koichi NAKAGAwA
(Received September l3,1991)
4週間にわたる教育実習を除けば,4年次学生としての私は,前期終了の時点までは,卒業論文 作成に資する文献講読と資料収集,そうして現地調査に力を入れていたといえるだろう。アルバイ
トは,ほとんど行わなかった様に記憶する。
卒業論文は,1年次の夏休みに,登山をかねてでむいた八ケ岳東山麓高原での景観から受けた強 い印象が土台になった。高冷地に属するこの地域には,小海線開業に伴う交通条件の整備が要因に なって,白菜・キャベッが主作物となる輸送園芸が成立していた。 「高原野菜」の名称で呼ばれる 白菜・キャベッの市場選択を,輸送事情とのかかわりから考察するのが私の狙いであった1)。
卒業論文の内容は,社会科学習とは直接結びつかないから,その作製過程への詳述は,さけるこ
とにしたい。 ●
1.東京都公立中学校教員採用試験を受ける
4年次秋の就職試験シーズンを迎えたとき,東京教育大学の受験を思いたったおり,卒業しても 教師にしかなれないが,それでよいのかと父親からいわれたのが,事実である事態に愕然とした。
企業からの求人がほとんどないのである。東京教育大学を継承すると,信条的には称されがちな筑 波大学では,卒業生の大半が官公庁・企業に就職するのとは,事情が全く異なっていた2)。
新聞社や出版社からの求人はあったけれど,それに耐えられる様な就職試験の勉強は全くしてい ないから,合格の見込みはたたなかった。とはいえ,地学科地理学教室の4年次生30人の中からは,
毎日新聞社に福地義男君,松屋百貨店に冨田邦郎君がそれぞれ入社する「成果」があった。それに
*茨城大学教育学部社会科教育講座社会科教育研究室(〒310 茨城県水戸市文京2丁目1−1).
しても30人の同期生のうち,還暦までに生じた3人の物故者が,全て企業に就職した人たちである 事実に驚かされる3)。
教師になるしか方法がなく,やむなく受験を志した東京都公立学校教員採用試験が,どの様な方 、 ョで行われたかについても,はっきりした記憶がない。面接が1次試験合格者を対象にして行われ たのか,面接を含む1回だけの試験であったのかも覚えがないのである。それはともかく,面接の 結果は真にショックであった。
クラスメートの問では,東京都で教員になろうとしても,都立高校は見込がないとの評判がたっ ていた。都立高校の教員は,旧制大学卒業生を主体に構成され,学歴が低い新制六学卒業生は対象 外だというのである。当時は,新制度の大学院は,修士課程1年次生が在学しただけである。
東京都が実施する教員採用試験を受けたクラスメートは,みな中学校教員を選択した。私も同様 であった。都立西高等学校在学時以来の同期生で,同じく東京教育大学文学部に入学し,2年次で 理学部地学科地理学に転学という共通する学歴の佐藤仁朗君(現・都立北多摩高校長)も,最初は 中学校教員を受験したのだが,東京文理科大学を卒業して都立町田高校に就職していた先輩が,異 動に伴う欠員補充に応じて都立町田高校で教職につく様に勧誘されたのをうけて,高校教員採用試 験を受験し直し,昭和29年度当初から高校教員になっている。
中学校教員採用試験での面接は,受験者,試験官 1人ずつの形式であった。受験室に入ると,机 を前に,小柄な老人が座っている様に,私はみてとった。しかし,試験官であった大高常彦先生の 教職歴は28年, 『会員名簿 茗渓会』所載の「全卒業生索引」には,大正15(1926)年3.月に東京 高等師範学校第1部丙組(修身,歴史,法制経済)卒業と記されるから,当時は50才前後のお年で あった筈である。大高常彦先生が試験官の氏名と判ったのは,もち論,後日の出会いを介してと,
念のため記しておく4)。
着席を促しての開ロー番,試験官は「試験に合格しても,就職できるとは限らないよ」と話しか けた。確かにその通りで,大学院修士課程修了時に受験して合格通知を受けた東京都立高校教員採 用試験は空手形で,合格者の採用資格有効期間(1年)の問に,都立高校からの赴任要請は,なし のつぶてであった。
採用試験に合格し,名簿に氏名が収録されると,学校長が現職教員の異動に伴う欠員状況を見透 しながら,自校へ赴任させようとする人物を選定する仕組みだったのである。
2.面接担当の試験官が採用時の学校長
試験官は,大学での卒業論文について質問した後,東北地方では,ときおり冷害が発生するけれ ど,それはなぜかと問いただした。地理学での常識と受けとった私は,冷涼な気候と稲作とのかか わり,とりわけ千島海流(親潮)と北東季節風(やませ)の影響をふまえた異常低温の発生が要因 であると,たちどころに応答した。しかし,それから3年後,修士課程2年次に在学中,非常勤講 師として担当した中学校地理的分野での教材研究中に,冷害のおこるメカニズムは,自然現象の側 面から単純に説明しうる存在ではない事実に,始めて気づかされた。同一の気象条件下でも,農家 の階層区分が,収かくの多少に大きくかかわるのを知り,冷害を自然災害と簡単に考え,面接試験
中川:学習者,教育者・研究者としての40年(3) 3
でもそう答えた不勉強に恥入らざるを得なかった。
面接試験の首尾は,上々であったらしい。数日後,東京都渋谷区立代々木中学校から,校長名で 採用前提の面接を行うから出校する様にどの葉書が着信した。アドレスを区分地図帖で調べると,
京王帝都電鉄京王線幡ケ谷駅から徒歩5分ほど,東京教育大学体育学部のキャンパスに隣り合う位 置に,代々木中学校は位置していた。自宅からは,中央線中野駅前から幡ケ谷経由渋谷東横(百貨 店)ゆきの京王帝都バスの便がある。
、 oス停から歩いて2〜3分で代々木中学校に着いたとき,校舎の見すぼらしいのにがっかりせざ るを得なかった。当時は鉄筋コンクリート3階建という今日の標準的な中学校校舎は,数少なかっ たと記憶するが,代々木中学校の校舎は,木造二階建の外板スレート葺きが主体で,建ってからか なりの年月が経つ様にみえたからである。
『学校要覧』昭和二十九年度(東京都渋谷区立代々木中学校)の「沿革」によると,創立は昭和 9(1934)年,代々木高等小学校と記される。校舎はこの時点で建築されたと思われる。国民学校 の発足に伴って,校名は代々木国民学校高等科と改称された筈だけれども, 『学校要覧』にその記 載はない。昭和22(1947)年3月31日付で学制改革により廃校となった後,同年5月2日付で,渋 谷区立代々木中学校が創立された。
この様な校歴ゆえ,多くの新制中学校が発足時には,国民学校初等科を卒業した男女生徒を第1 学年に組み入れて発足した筈なのだが,代々木中学校の場合には国民学校高等科第1学年を修了し た男女生徒を第2学年に編入し,2学年編成であったと思われる5)。
道路から階段を上ってゆくと,校門はなく,生徒用昇降口にたどりつく。右側が土間で用務員の 控室でもあった。刺を通じて校長への面会を申しでると,すぐ校長室に案内された。校長室に入っ たら,全く予想外の事態が展開した。採用試験のおり,面接を担当した「老人」が,椅子に腰かけ て私を待っていたのである。全くのオドロキであった。
『学校要覧』によると,校長の大高常彦先生は,昭和28(1953)年7月24日着任と記されている。
代々木中学校では,半年ほどの勤務にすぎなかったわけである。初代校長が昭和27年10年1日付で 退職し,2代校長は1年にみたない昭和28年7月20日に退職していた。
詳しい事情は先任の教職員が話さないためさだかではないけれど,2代校長の学校経営が不適切 で,内紛がおこり,それにかかわる学年途中での校長交代であった由である。大高常彦先生は,そ の後始末をつけるために,東京都教育庁指導主事から校長となっての赴任だったと聞かされた。
3.新採用教員が過半数を占めた第1学年担任団
先日の試験官が校長であった事実に驚きながらあいさつすると,大高校長は開ロー番,4月から 君にこの学校で勤務してもらうつもりだと告げられた。面接のおり,4月1日付で実施する人事異 動にかかわる教員採用の目星をつけていたのである。
両親,妹弟など家庭事情をひとわたり問いただした後,大高校長は4月から理科の教員もほしい のだが,君の友人で心あたりがあるかとたずねられた。そこで,都立西高等学校で机を並べて地学 を学習し,野外実習であちこち歩きまわった仲間である三芳瑛君をすぐに推せんした。三芳君は東
京都立大学理学部に進学し,矢沢大二教授の指導を受けて,気象学を専攻したのだが,卒業後は教 職志望と聞いていたからである。
ところで今日では,4月1日付で採用される以前,採用予定者に対する講習を,茨城県教育庁は 行っているけれど,当時は事前指導はなにも行われなかった。渋谷区教育委員会による辞令伝達式
もなく,新年度発足に伴う職員会議に出席するのが,教職生活の第一歩となった。
職員会議開会に先だって校長室に集められた新採用の教員は6人,東京教育大学卒業が私を含め て3人,東京都立大学卒業が三芳君を含めて2人,東京学芸大学卒業が1人の構成で,男性4人,
女性2人である。大高先生の眼鏡にかなったこの6人は,結婚で早く家庭人となった鈴木美智子さ ん(東京学芸大学卒業)以外は,各方面で活躍することになり,とくに森田(若林)京子さん(東 京都立大学卒業)は,東京都保谷市教育委員を勤めるほどの俊才ぶりを発揮されている。
昭和29年度発足時点での渋谷区立代々木中学校では,校長,教頭と教諭44名,事務主事,事務助 手が各1名,用務員2名が常勤教職員であった。養護教諭は在籍せず,講師の扱いで日本赤十字社 看護婦養成所出身の小島ツルさんが,保健室に日勤されていた。
新採用の6人は,全て第1学年の学級担任を校長から命じられた。10学級構成のうち6学級が新 採用教員で発足したのである。残る4人の学級担任も,教職経験年数7〜4年と『学校要覧』に記
されるから,10人の学級担任は全て20代だった筈である。
学級担任をしない学年主任の佐々四紀雄先生は,青山師範学校卒業で教職経験年数23年であった のだから,40代半ばの中堅教員であったと思われるが,丸刈頭で頭髪に白髪がゴマ塩状に混じって いたこともあって,当時の私には,かなりの年輩の様に感じられた。
教頭の安村四郎先生は,立正大学卒業で教職経験年数は25年だったのだから,50才近い年令とみ るべきだったろうが,校長より年長の60才近い方の様に思いこんだのである。『学校要覧』収載の 教職員名簿(次ページ参照)によると,教諭のほとんどは,教職経験年数10年未満という若い世代 で占められていた。加えて,出身学校が驚くほど多岐にわたっている事実に気付かされる。昭和20 年代後半のこの時点では,日本経済の復興はいまだしの状況で,企業への就職はなかなかむずかし かった。それに引き換え,新教育制度の発足に伴う義務教育9年間への条件整備とのかかわりで,
教員需給は,売り手市場の観があった。そのことが原因となって,先生にでもなろう,先生にしか
● ● ● ●
なれない,でもしか教師の陰口も横行した時期である。種々雑多の出身校にもとつく教職員の構成
● ● ● ●
も,でもしか時代の反映かと思われる。
第2学年と第3学年は,ともに9学級編成であった。計28学級で教諭44人ゆえ,担任外が16人と いうのは,かなりゆとりのある構成かと思われる。現在なら,新採用は全て担任外として研修に,
努めさせるのだろうが,大高先生は眼鏡にかなった新採用教員を第1学年に集めて,清新の気を吹 きこもうと策された様に思われる。
4.男女あわせて60人の学級を担任する
私が学級担任を命じられたのは,1年1組であった。学級編成は前年度中に済んでおり,最初の 職員会議のとき,学級生徒名簿を渡された様に記憶する。別表にみる様に男子33人,女子27人の計
中川:学習者,教育者・研究者としての40年(3) 5
闘 同 間 同 同 伺 伺 固 嗣 面 同 同 同 同 嗣 両 固 同 伺 固 同 教論 襖喪 取名
石 川 礼 逼 糞 守
三田雨 大野畜 駒野修三 宇佐美榛 森幅一 ⊥谷嵐 幅野規 南保 菊地智 松野 田申蟄 辻照 畏谷川 坂太茂 芦上春 篠窪 佐々囚紀
寡 篠田麿 安尉田 大藤常
氏名
子 鮭 雄 治 即 一 聞 二 子 瑛 重 慕 男 弘 晋 子 江 廃 雄 晃 七 郎 彦
国堂音集 卑大文学部 中央大蟻彰部 集京美衡 早大女響葡 国学鵬大 東景商大毒 二掻学含車 津田塾 第伽師範 臼太女専 集京吻理 中央大彰
萸大工彰部 青年筋範 実践女専 真践女輿 康東葵衡 脅山師範 日大高緬 日大嵩飾 立正大学 稟高飾
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昭和二十九年度 渋谷区立代々木中学校教員(常勤)名簿 .
60人で1学級が構成されている。今日,40人学級が通常化している状況からみると,真に異常に思 われる。こんなに多くの生徒を1学級に収容して,よく教育しえたと不思議に思えてくる。1学年 の生徒総数は588人だから,1年1組だけがとりわけ多数の生徒によって成りたっていたわけでは
ない。
最大61人(2年1組)で全校28学級という構成は,校舎の収容力ともかかわったと思われる。普 通教室は25で3教室不足であった。そのため特別教室を普通教室(ホームルーム)に転用せざるを 得ず,僅かに理科室,工作室が本来の用途を持つにすぎなかった。この様に,音楽室も普通教室に
してしまったしわよせが,音楽の授業があるときには,図書室を普通教室に転用移転するジプシー 学級を生みだした。1学年の数クラスが,一定期間ごとにジプシー学級化するのだが,1年1組は その影響を受けなかった。そのかわり,他の普通学級よりも5割ほど床面積が広い教室であったた め,教室の片隅には,畳が積んであり,授業終了後,掃除実施時に,机と椅子を一個処に集めてし まって,教室を柔道場に転用する様になっていた。ここで,柔道部が練習を行ったのである。
この様な教室不足を解消しようとしても,教室増築の余地は存在しなかった。1,646人にもなる 生徒に対して,校庭が狭すぎた。校舎建坪(592.7坪)に対し,運動場はプールを含めても,1倍 半程度(942,5坪)だったのである。先述した学級担任外の教諭16人という状況は,学級のホーム ルームにあてうる教室が,28しかとれなかった事態によって生じたのかもしれない。・
学年別,学級別生徒在籍数一覧表から気付く異常事態のひとつに,第1学年と第3学年での男女 生徒数の著しいアンバランスが存在する。原因がどこにあるのかは不明確だが,東京の山手地区で は,小学校卒業女子児童で私立の女子中学校への進学者が,かなりの数に達していた事態とのかか わりかもしれない。女子の大学進学者がまだ少ない状態ゆえ,中学校と高等学校が一体化して運営 され,無試験で高校に進学できる私立校の人気が高かった様に記憶する。
男子の場合は,私立校には大学入試対応の有名校が少なく,都立高校の評判は高く,都立高校へ の進学は公立中学校からが前提であったゆえの男女比アンバランスとみたてられる。
日課は,第1学年から第3学年まで週33単位時間,1日6時間が原則で,水曜が職員会議とのか かわりで5時間,土曜が4時間であった。社会科への配当は,昭和22年発表の学習指導要領が,一 般社会科を週当たり第1学年週5単位時間,第2学年・第3学年で各4単位時間とした体制がその まま維持されていた。別に第2学年と第3学年に週1単位時間,週2単位時間の日本史が『学校要 覧』では,教科の扱いで一覧表に座を占めている。当時は昭和26年改訂の学習指導要領が試案とし て示され,社会科は日本史を含めてどの学年にも上限,下限が設定されていたけれど,代々木中学 校の場合には,週当たり時間配当への影響はなかった様にみたてられる。
5.教材研究に四苦八苦した単元「学校と家庭」
第1学年1組の学級担任となった私は,1年G・H・1・Jの4学級の社会科をそれぞれ受けも つほか,担任学級の長時間ホームルーム(木曜4時限に実施)の担当を命じられた。第1学年の社 会科は学級当たり週5単位時間だから,社会科が週20単位時間,これに長時間ホームルームが週1 単位時間で,計21単位時間の拘束である。週当たりの課業は前述の様に週33単位時間だったから,
中川:学習者,教育者・研究者としての40年(3) 7
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昭和29年度1年1組入学記念写真
教員は左から佐々四紀雄学年主任,大高常彦校長そして筆者
1 缶 2 年 3 廷 Eヨ 課 時 限 宏 男 女 計 男 女 計 男 女 計
註
£ 1 予 鈴 8.05 A 34 2559 31 28 59 31 26 57
、 馬
払翼餌丸 9,0S (ノ 8、磨0 B
木戸 ホームルーム 8、10 へ! 8、20 31 27 58 3031 60 32 26 58
瑠 ・
日木. 第一臆限 8.2S ヘノ 9、IS C 35 24 59 30 29 59 32 26 58 第曜
ヘ日 算二時眼 9.2S 〜 10、lS D 33 27 60 50 30 60 32 26 58 時軟 劣三膚限 lO、2S 〜 U、1; E 31 27 58 30 30 60 32 26 58
腹の・六
第四時限 目.2s 〜 12。ls F 33 25 58 29 31 60 30 26 56
桟 1 豊 食 α
図 25 5θ 30 30 60 32 26 58 屠ム固ル 学枝放送 1三L、2S r/ 12, S 5
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磯六時阪 団、15 〜 15、o⊆ 計 332 勘 71540 脳518
ム 現
夙 奮 穏計 男 885 女 761 計 1646
昭和二十九年渋谷区立代々木中学校 昭和二十九年度渋谷区立代々木中学校日課時限表 学年別・学級別生徒数一覧
12単位時間が自由に使いうる時間となる。この自由時間は,教材研究に充当する様に努力した。放 課後には,野球部の練習を監督したからである。 「昭和29年度校務分掌」によると,私は視聴覚部 の一員で,レコード,フイルム,スライドの維持管理を割りふられている。この仕事に熱意を入れ て従事する様になったのは,第3学期になってからで,当初にはこれといった仕事をした記憶がな い。野球部員と下校時刻までグランドに出向くのを,他の先生たちが許容したからだろう。
最初の職員会議終了後,学年主任の佐々先生から渡された教科書のページを開いて,事の意外に とまどった。第1学年は,教育出版の『人間と環境』 (日本) (世界)と古今書院の『社会科地図 帳』を使う事になっていた。
教育実習で担当した中学校第1学年の内容は,日本地誌であった。それゆえ,第1学年の1学期 は,日本地誌を教えれば良いと思いこんでいたところ,教科書は「学校と家庭」というどう扱った らよいのか,見当もつかない内容で最初の部分は構成されていたのである。
教科書が,第1学年の当初に「学校と家庭」と題する単元を設けたのは,昭和26年改訂の学習指 導要領に準拠する以上,当然であった。単元学習方式を継承した昭和26年度学習指導要領は,第1 学年の主題を,われわれの生活圏と定めたうえで,4つの単元を設定する。その第1単元が,「学 校や家庭の生活を明るくするには,どうすればよいか」となっていたのである。
学習指導要領に多少なりとも関心を持っていれば,当然覚悟し,方策を考えていた筈の内容なの だけれど,佐藤保太郎先生担当の「社会科教育法概論」を無関心裡に受講したむくいにほかならな い。どの様に授業を進めれば良いのか,全く困惑させられた。教科書を読んで,その解説を加えて いった様に記憶する。教材研究に当たって,どの様な書物を読めば良いか,全く見当がつかなかっ たから,非常に困惑し,少しでも早くこの単元を終らせる様に苦心惨憺であった。教師用指導書の 存在も知らなかった。
私が,どの様な内容の授業をしたのかについては,1年H組の都河彰彦君が板書を克明に写しと り,整った字体で正確に筆記してくれたノートが手元に残っている。時おり,生徒にノートを提出 させて点検したとき,都河君のノートつくりに感心させられていたので,第1学年の授業終了時に,
頼みこんで,彼のノート2冊をもらい受け,いまも大切に保管する中から,最初の2ページ分を,
抽出(次ページ参照)しておこう。今日では,歴史的分野の最初に扱う内容を授業し,板書した様 に,都河君のノートからはみてとれる。それゆえ,この単元をなんとか切りぬけて第2単元の「わ が国土はわれわれに,どんな生活の舞台を与えているか」に入れたときには,生き返った様な気持 になった。日本地誌を扱えば,良かったからである。
学習指導要領に無関心だったために,この年の4月に文部省が発表した社会科改訂第四次中間報 告を受ける形で,丸山弘平先生(東京教育大学第1回卒業,昭和28年 西洋史専攻)が,昭和30年 改訂の分野別学習を導くA案が良いか,総合社会科にのっとるB案が良いかと問題提起されたおり,
なんの事やら全く判らずにとまどうだけであった7)。
6.校外授業(遠足)の実施計画を作る
4月半ば頃,学年主任の佐々先生が,5月に実施する予定の校外授業(遠足)について,原案を
中川:学習者,教育者・研究者としての40年(3) 9
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昭和29年春季校外授業(遠足) 『見学の栞』
上 車窓案内 下 ルートマップ
作る様に命じられた。地理学専攻だった事実を知ってのうえでの指示とみるべきだろう。第1学年 の社会科は,私のほかは佐々先生と教頭の安村先生で受け持っていたので,私にお鉢がまわってき
たとみることもできる。 、
名目は校外授業であるし,遠足をレクリエーションに終らせない様に工夫をこらし,社会科や理 科の実地見学として機能させる必要は,大学2年次・3年次にアルバイトをかねて従事した遠足の 実地指導体験から充分に感じとっていた。それゆえ,高校在学当時,地学野外実習に力を尽くして
きた三芳瑛君に協力を依頼した。三芳君は1年C組の担任で,受持教科は理科である。
校外授業の目的地は,関東平野中央部の低湿地域が妥当と判断した。山手の住宅地に居住する生 徒に,台地の土地利用とは全く異なる状況を,江戸川中流域で観察させうると考えたからである。
また,伝統産業の系譜を持つ野田(千葉県)のしょう油醸造業を工場見学によって,具体的に理解 させ様との計画もたててみた。教科書で関東地方を扱うとき,この校外教授が生徒の具体的な理解 をはぐくむ筈との思惑もあったからである。
観光バス利用を前提に,地図を開いてコースを設定する。事前の実地調査を行わず,ぶっつけ本 番の実施は全く乱暴だったが,予定のコースを巡回できたのは,好運というべきだろう。
三芳君は,ガリ版切りの技術にたくみであったので,私が見学の見どころとルートマップの原稿 を書き,彼が筆稿と印刷を引き受けて, 『見学の栞』と題するB6判8ページ建てのパンフレット を作り,生徒全員に配布している。
表紙に,昭和29年5月26日 集合 7時,乗車出発7時20分,解散 6時と示されている。今の 時点で考えてみると,ずい分ハードスケジュールだが,1学年構成の教師団からは,だれも苦情を 申しでなかった。
秋の校外授業では目的地をどこにするかについて,学年主任・学級担任でいくつかの案を建てた うえ,毎日の生活に用いる水道の源は,多摩川という観点から,レクリエーション的な要素も加味 して御岳渓谷と決定した。今日なら,奥多摩湖を対象にする筈だが,当時はまだ小河内ダムの工事 中で,道路の整備は不十分,見学地には不向きであった。今度は実地調査に出向き,御岳渓谷で引
き返すのが妥当とみたてている。
秋の校外授業でも,春に作成して好評であった『見学の栞』を,三芳君と協力してまた作ること にし,内容をふやしてB5判8ページ建にした。
校外授業それ自体は事故なく済んだのだが,秋の実施では事後に大事故がおきている。この当時 遠足,運動会など,行事終了後,反省会と称して関係の教職員が校内で飲酒するのが通例であった といえるだろう。それが終了後,一部の教員は二次会を校外で行い,飲酒を続けるのである。この 日は二次会からの帰途,担任外で引率教員団に加わった男性教諭が,ホームから転落し,電車には ねられて事故死する珍事が発生した。
私は翌朝,事故を知るのだが,かなり多くの生徒は原因を知っていた。教員の死去を朝礼に集っ た生徒に告げる大高校長の訓話は,苦渋に満ちたもので,管理者の心境を感じとらされた。
7. 『日本地理新大系』と『世界地理大系』を底本にして教材研究を行う
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中川:学習者,教育者・研究者としての40年(3) 11
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「学校と家庭」学習時のノート(都河彰彦君作成)
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「世界の気候」学習時のノート(都河彰彦君作成)
社会科の授業が日本地誌に入ってからも,大学で教えられた内容が,日々の授業と結びつく場面 はあまりない。それゆえ,毎日毎日が教材研究のノートつくりで過ぎた感がある。始業から放課後
内野・外野にノックを打ち,ときにはバッティング投手も勤めたから,教材研究の不足分は,帰宅 後に夜業ですませる羽目となる。若くて元気だったからこそ出来たのである。自宅からの通勤で,
食事は母親が作ってくれたから,夜の教材研究が可能だったとみるべきだろう。
日本地誌を教えるには,系統的な知識が全く不足した。大学で受講した日本地誌は,浅香幸雄先 生担当であったが,歴史地理学が専門の浅香先生は,地誌研究に対する歴史的背景を,フィールド
とされた静岡・清水地区に例をとって講述されたのだから,日本全域を学習対象にする中学校での 授業にはほとんど役立たぬ内容であった。
こうした状況ゆえ,教材研究は河出書房刊行で発売直後の『日本地理新大系』第5巻(地誌)と
『世界地理大系』第2巻「日本」を克明に読み,内容を理解のうえ,ノートつくりを慎重に行った8)。
教室では教卓上にこのノートを開いておき,教科書の文章に解説を加える一方的な講義であった。
東京教育大学附属中学校に赴任してから実施した問答法主体の授業など,考えもつかない一方通行 である。板書原稿を作るという発想も持ち合わせず,短文形式で行った板書も,でたとこ勝負の思 いつき板書に終始している。いや,板書原稿を作るだけの時間のゆとりを持たなかったのが,当時 の状況なのである。
『世界地理大系』の講読では,忘れられない思い出がある。第2学期の半ばで日本地誌はすませ,
世界地誌に入ったおり,まず気候環境を詳細に授業した。大学3年次,福井英一郎先生が担当され た「気候学」でケッペンの気候区分理論を教えられたのに,充分理解できなかったのを,今度は独 学してなんとかマスターしえたのが,嬉しかったのも原因であったろう。教科書の主題が『人間と 環境』だったのも,気候環境の授業に異常な熱意を注いだ原因に入っていよう。
都河彰彦君作成のノートを開いてみると,9ページにわたって,大気の大循環から説明を始め,
年降水量と月別平均気温の組み合せにもとつく算式をベースにする気候区の限界策定に到るまで,
大学の一般教育レベルでも,ここまではやらないのではないかと思われる詳しさで,中学生に授業 した状況が記されている。今にして思えば,中学生の理解力を越えた無謀な試みであったのに,生 徒は不平もいわず,熱心に学習してくれたのである。
ところで, 『世界地理大系』で,ケッペンの気候区分理論を解説したのは,矢沢大二教授であっ た。気候環境にかかわる著作もある矢沢大二教授は,私にとっては気候学の権威そのものにみえた。
ところが驚くことに, 『世界地理大系』に収められた湿潤気候の限界策定にかかわる算式,砂漠の 限界策定にかかわる算式の数値が誤っていたのである。今日では誤植,そうして執筆者,編集者の ケアレスミスと判るけれど,当時の私には印刷物に誤りがあるなどとは思ってもみなかった。まし て権威ある著者の書くものにもポカがありうるなど,考慮の外であった。
いく度も読み返し,さらに福井英一郎先生講述のノートと対照しても,算式の印刷あやまりは歴 然であった。書物の内容をうのみにしてはいけないと悟る,それは最初の機会であった。
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中川:学習者,教育者・研究者としての40年(3) 13
8.等質地域設定にもとつく教科書の採択を決める
愛育社の営業部員が学校を訪問したのか,小包によって送られてきたのか忘れてしまったが昭 和30年度用の教科書見本本『土地と人間』が,私の手に入ったのは,6月半ばの頃であった様に記 億する。編者代表は,卒業論文の指導教官であった尾留川正平先生である。前年秋に実施された大 学院の第2回入試を前に,尾留川正平先生は卒業論文の中間報告で研究室を訪ねた私に対して,修 士課程への進学を奨められた。それに対して,研究者になるつもりはないとお断りした経過があっ た。受験準備を全くしていなかったのも,原因に入っている。
ところで,先生からの書信には,見本本を検討のうえ,できれば来年度用に採用してほしいと書 かれていた。早速,ページをめくってみると,眼からうろこが落ちる思いであった。地域区分の方 式が,等質地域の観点からなされていたからである。冬季温暖,施設園芸の方式をとる促成栽培卓 越を指標に,南九州・南四国・紀伊半島南部が, 「南海」と名付ける等質地域になっていたのには,
強い共感を覚えるものがあった。
日本の位置,地形,気候の学習を終えて,地域誌に入っていた授業は,関東地方についで中部地 方に及んでいた。教科書は,九州地方から北上する形式の記述であったが,生徒の居住地域をまず 学習してから遠隔地に及ぶのが,生徒の興味を喚起する筈と佐々四紀雄先生が問題提起された結果 であった様に記憶する。
中部地方学習に備えて教材研究を始めてみると,中部地方と名付けるべき実体が存在しない事実 に気付かされた。土井喜久一先生執筆による『日本地理新大系』の中部地方では,東海,山間地区,
北陸の三地域にわけて記述が行われ,なぜ中部地方を設定しなければならないかを明白に述べては いなかった。中部地方の名称が,明治37(1904)年度に始まる国定教科書で形式地域として創始さ れて以来,慣習的に用いられたにすぎないという歴史的要因を,当時の私は知らなかったのである。
実体のない空虚な存在を,知識として生徒に与える矛盾に気づいた私にとって,実質的にとらえ られる地域を設定のうえ,日本地誌を組みたてる尾留川先生の方針は,新鮮な感動をよびおこして くれたのである。
来年度の1年生用教科書選定は,君にまかせると大高校長から申し渡されていた。当時は,学校 別に教科書が採択されていたのである。それにしても,今日なら初任者研修の対象でしかない新卒 の教員に,教科書選定をまかせたのだから,大高校長は太っ腹だったといえるだろうし,好意的に 考えれば,絶大な信頼を,私に寄せられていたとも解せられる。
早速に愛育社に電話して,来年度での使用を通知すると,採用決定第1号ですと喜ばれ,後日,
尾留川先生からも礼状を頂いた。1校で600冊も使うのだから,幸先良しとみたてたのだろう。
だが,革新的な内容構成をとる『土地と人間』は,採択部数を大きくのばしえなかった。七地方 区分の方式になれていた学校現場が,等質地域の観点にたって,地域区分を大幅に改める教科書に なじもうとしなかったのが,主要な原因であったろう。
翌年度, 『土地と人間』を使って授業を始めると,使いづらくて困るとの苦情を私はしばしば聞 かされた。苦情の一因は,従来の教材研究ノートが役立たず,新規に教材研究を行う必要があった ことに由来しよう。私自身も,従来使用した掛地図が七地方区分であるため,教具使用でゆきづま る事実に困惑させられた。「南海」の学習には,九州地方,中国・四国地方,近畿地方の掛地図を
合せて3本も教室に持ちこまざるを得ず,地図帳も七地方区分で,教科書の記述と不二致である点 も困惑の種となっていた。
注
1)卒業論文作成の一環として実施した小海線信濃川上から大阪青果市場への高原野菜輸送試験の結果をとりま とめた論文は,鉄道貨物協会機関誌「貨物」に掲載され,私の処女論文となった。中川浩二「使用車種別に見 た野菜の鮮度と販売価格」『貨物』 1957年2月号.
高原野菜輸送を題材にした論文には,下記のものもある。
中川浩一「輸送機関の整備と輸送園芸」 『教育地理』第6号,昭和33年.
2)『茗渓』986号(199(ト夏)に掲載の「筑波大・短大卒業生就職先」によると,大学卒業生1,772人の内,教 職についたのは151(内女子69)人で,卒業生の1割にも満たない。企業への就職者は795(内女子244)人に達
している。大学院への進学者447(内女子83)人の中からもやがて教職につく者があらわれるだろうが,教職指 向の低さに驚かされる。
3)いまひとりの物故者は,氷見順一君で,在日米軍気象隊から民間企業に転職した。
4)大高常彦先生は,東京高等師範学校を卒業後,奈良県師範学校に赴任され,ついで東京府青山師範学校に転 じられている。青山師範学校在職中は,同校の教員が編集同人となって刊行された会員制教育誌の『地理と歴 史』に健筆を振われた。その後,秋田県下の中等学校長に転出されたが,戦後は東京都に戻って,教育庁指導 主事を勤めた後の現場復帰であった。代々木中学校長から都立荻窪高等学校長に転じられた。
子息の大高常昭さんは,東京教育大学第2回生(昭和29年・英文科),ユニークな生徒構成とカリキュラム で知られる東京都立国際高等学校で校長を勤められている。
5)昭和22年度は,旧制度の中等学校も存続し,5年制の中学校には,第2学年以上の4筒学年の生徒が在籍し た。昭和23年度に新制高等学校が発足すると,第1学年から第3学年の生徒に加えて併設中学校第3学年の生 徒が同一キャンパスで勉学する仕組となった。
6)野球部監督は,自ら買ってでた結果であり,これも若気の至りである。前任者の三田納雄先生(中央大学法 学部卒業,教職歴4年)からは,全くもの好きという扱いを受けた。生徒の素質が良かったためか,渋谷区卒 中学校野球大会に優勝し,上井草球場(杉並区)で行われた東京都中学校野球大会に渋谷区代表で出場したが,
今度は1回戦で敗北した。
志願して参加した校務に,夏休みを利用した高原学園での引率教員がある。生徒から志望者を募集して行う この課外行事への参加は,生徒と寝食をともにする過重勤務ゆえ,校長から指名されてやむなくという事例が 普通であったらしい。計画発表と同時に参加を申し出た私に,大高校長は,君は全くの坊ちゃんかたぎだよ,
物好きにも程があるという意味の応対であった。
山梨県の精進湖畔に建ち,未完成部分のある旅館を利用しての3泊4日の合宿は,しかし楽しい思い出を残 している。自由時間には,生徒とボートで湖心にのりだしたりもした。現在では,危険予防で許されない行動 だろう。
7)丸山弘平先生は,その後,世田谷区教育委員会指導主事,東京都教育研究所指導主事を勤められ,東京都教 育史編纂室長を最後に定年退職された。温厚で研究に熱心な方で,著名と聞いている。
中川:学習者,教育者・研究者としての40年(3) 15
8) 『世界地理大系』第2巻(日本)は,昭和26(1951)年刊, 『日本地理新大系』第5巻は,昭和29(1954)
年刊をそれぞれ使用した。 『世界地理大系』では申部地方は設定されず,甲信越,北陸,東海の区分である。
北陸は,富山,石川,福井の三県から成る狭義の区分となっている。