学習者,教育者・研究者としての40年(2)
一私の社会科体験史一
中 川 浩 一*
(1989年9月9日受理)
My 40−year History as a Student, Teacher,
and Researcher of Social Studies
(Part 2)
Koichi NAKAGAwA
(Received September 9,1989)
教えを受けた先生がたには真に申し訳ない事ながら,私が社会科教育をライフウワークにしよう と意識したのは,東京教育大学大学院理学研究科修士課程に在学中,非常勤講師として週3日・10 時間の授業を受けもった際の教材研究を通じてであった。それゆえ,東京教育大学に学部学生とし て在学した4年間の体験学生としての意識は,社会科教育とは疎遠であったと書かなければなら ない。とはいえ全く無縁であったとはいいがたく,地学科地理学教室の学生として度々参加した地 理学野外実習(巡検)の体験は,社会科教育に不可欠の野外観察・野外調査の方法を無意識のうち に身につけさせていたとみるべきだろう。また,数多い受講授業を通じて,教師としての身の処し 方について考える機会を持った事実も,忘れるべきではないと考えている。
1.恩師の示唆が進路選択に寄与した
いわゆる情報公開の施策として,茨城大学が昭和63(1988)年に刊行した『教官要覧』に眼を通 した学生から,社会科教育担当なのに,なぜ大学院理学研究科修了なのかとの質問を,私は受けた 事がある。理由は,社会科の中学校・高等学校教員免許状取得の必修単位としての「地理学」を理 学部地学科地理学専攻,大学院理学研究科地理学専攻の学生ゆえに,卒業・修了に必要な単位のか たちで,数多くえたのにもとついているD。中学校1級の免許状(教科・社会)を得るためには,
(現在では,中学校社会の1種免許状を取得)「日本史及び外国史」6単位, 「地理学(地誌学を 含む)」6単位, 「法律学,政治学」2単位, 「社会学,経済学」2単位, 「哲学,倫理学,宗教 学」4単位を必ず取得しなければならないが,私が東京教育大学を卒業した時点では,法律学,政 治学の単位取得は不要であった2)。なお私は,理科の免許状は取得していない。
*茨城大学教育学部社会科教育研究室.
ところで,昭和25(1950)年4月,私は東京教育大学文学部に入学した。理学部地学科地理学専 攻への転学部は,2年次学生の時である。同じ学歴をたどった1人に,都立西高等学校在学以来の クラスメートとしての佐藤仁朗君(現・都立永山高等学校長)がいるのだが,文学部から理学部地 学科地理学への転学部は,制度として当時は認められていた。
東京教育大学への入学は,自分の将来を教職と想定したからではない。出願を決意したのは,中 等教育の段階で教えを受けた2人の恩師の影響であったと言えるだろう。教師の言動が児童・生徒 の進路選定に強くかかわる事例がままあるという事実の例証と思われるので,その間の事情を,具 体的に書いてみようと思う。
東京都立第十中学校在学当時,第2学年生徒としての私に,学級担任として接して下さったのは,
漢文担当の荒木雄二先生(東京文理科大学漢文学専攻・昭和16年卒業)であった。第1学年から漢 文を教わった荒木先生の学習指導はきびしかった。当時,必修教科であった剣道で使う竹刀(しな い)が教室に備えられていたのだが,荒木先生の漢文授業は右手に教科書,左手に竹刀で,指名を
うけた生徒が朗読をしくじり,或いは文章解釈を誤まると,「勉強が足らない」の叱責と一緒に,
頭を一撃された。ポカリと一発喰うのを喜ぶ生徒はいる筈がなく,ちえを絞って竹刀をかくすけれ ど,いつも先生に探しだされるのが,オチであった。
一発喰うのがいやさに,私は漢文だけは一生懸命に予習した。漢和事典を克明にひき,指名に備 えたのを覚えている。それが幸いしてか,ある時,荒木先生の訳読指導中に誤りと思われる個処が あるのに気付き,挙手して指摘したところ,先生は直ちに自分の非を認められ,辞書を充分に使わ なかったので,一本とられたなあと笑われた3}。
この「事件」が機会になって,荒木先生と私の間にコミニケーションが生まれ,長く師弟の交流 が続くのである。私が昭和33(1958)年に東京教育大学附属中学校に赴任したおり,非常に喜んで 下さったのが,荒木雄二先生であった事も,なつかしい想い出である。
荒木先生は,授業中にいく度も東京文理科大学在学中に薫陶を受けた諸橋轍次先生の学究として の偉大さを語られた。とくに忘れられないのは,諸橋先生畢生の著作である『大漢和事典』の原稿 が,東京大空襲で失われた話をされたときの声涙ともにくだる荒木先生の姿であった。東京文理科 大学,諸橋轍次先生の存在は,中学生としての私に強く印象づけられたわけである。
東京文理科大学の存在を再び強く意識したのは,高等学校で「地学」の指導を受けた壽圓晋吾先 生が,地学科地理学に在籍されていたのに由来する。
高等学校3年生となり,大学進学を意識した際,東京教育大学を目標に選んだのは,新発足の大 学が,東京文理科大学,東京高等師範学校,東京農業教育専門学校,東京体育専門学校を母体にし て発足した事実を知ったかちである。加えて大学に進んだら,日本史か地理を専攻したいと考えて いたところ,どちらの専攻も東京教育大学に存在するのが判り,志願の希望が一層強まった。
とはいえ,日本史は文学部,地理は理学部に属する専攻である。当時,東京教育大学は学部で一 括して学生を募集し,専攻の区分は2年次当初に行っていた。どちらの学部を志願しようか迷って いる段階で,耳よりな情報を伝えて下さったのが壽圓先生であった。地理学専攻学生については,
理学部所属だけでなく,文学部所属学生についても受けつけるしくみと教えて下さった。これに力 を得たのに加え,高等学校3年生当時の学級担任であった杉村保先生が,君の学力なら合格できる 筈と励して下さったのも心の支えになった。家庭の資力,さらに年子の妹も大学進学志望と重なっ
て,私立受験は不可能だったから,背水の陣だったわけである。
願書提出に際し父親から,東京教育大学,それも日本史か地理志望では,将来は教職しかない筈 だが,それでも良いのかと言われたが,そのときは大学卒業後の進路について,深く考えようとす る気持はなかったと書いておかねばならない。
2.男女共学の初体験で驚く
東京教育大学に入学して,驚いた出来事が二つある。第1は,碩学と称せられる大学者も,教育 者としての適性を備えるとは限らない事実を体験したこと,第2は,今回が始めての共学となった 異性一女子学生も,男子学生同様にカンニングをする事実の「発見」である。
ところで入学と同時に始った一般教養科目で受講した下村寅太郎先生の「哲学」は,理解に苦し む内容で,前期,後期を通じて悪戦苦闘した。東京教育大学への入学が決ったとき,母方の叔父か ら,下村寅太郎先生の授業は必ず受講する様にとのアドバイスを受けている。叔父(早稲田大学政 治経済学部卒業)の言によると,下村寅太郎先生は西田幾多郎門下の俊秀,数理哲学の大家,当代 屈指の大学者であるという。碩学の馨咳にはぜひ接すべきだとの指示であった。
ところが下村寅太郎先生の授業は,教卓に広げられたノートを小さな声でボソボソと読まれるの に終始した。100人以上の学生を収容する階段教室の後半に席を占めたが最後,講話を聞きとって ノートするのに困難の状態となる。学友とノートを交換して穴を埋めえても,授業中は書きとるの が精一杯で,内容を理解することなど,到底できなかった。いや,穴を埋めてからノートを読んで みても,理解に苦しむのが常態と書かねばならない4)。
こうした状況下の授業なら,教室内は学生のおしゃべりで充満し,講義はますます聞きとれず…
という具合になるのが,半ばレジャーランドと化した最近の大学であろう。学生のおしゃべり防止 に四苦八苦が珍しくない状況の中で,なぜ授業に専念できないかを学生に質問紙法で問いかけてみ たところ,教師の声量が小さく,話が聞きとりにくく,内容にも興味を持てないのでついと答える 事例をけっこう眼にするのが,私の実体験である。教室の後部に位置しても充分に聞きとれるだけ の教師の声量,語尾まで明瞭に聞きとれる話法が,必須条件かと思われる。下村寅太郎先生の場合 には,どちらもが欠けていた。
下村寅太郎先生の授業が理解できなかった原因には,人文科学学習への素養が私には欠けていた 事実もかかわっている。新制高等学校には,哲学,倫理学にかかわる科目が存在していなかった。
高等学校杜会科の内容に「倫理」が加わるのは,昭和35年版学習指導要領の施行以後である。加え て高校生当時の私は, 「地学」学習に専念したこともあって,読書は「岩波新書」赤版の自然科学 関係書にかたよっていた。それとは別に,発足当初の新制大学での一般教養科目がになうべき役割 を,大学教員が把握しかねていたという事情もあったろう。
これほど苦しんだ「哲学」であったにもかかわらず, 「学修簿」に記録された成績は,前期,後 期とも「A」である。とはいえ実相は,試験に際しての共同謀議一カンニングの成果と白状しなけ ればならない。受講ノートを教室に持ちこみ,設問の該当個処を手わけして探しだし,書き写した 結果であった。このおり全く同じ作業を,女子学生たちも実行しているのを「発見」して本当に驚
嘆した。カンニングは男子学生の悪癖で,女子学生は天使の様に純真と信じていたからである5}。
一般教養科目の「西洋史」担当である杉勇先生が受講学生に対してとられた態度には,強い疑問 というよりは,率直に書けば反感を覚えた。この授業は,昭和26(1951)年度に受講したが,杉先 生は教室に来場されると,それ以後は学生の入室を厳禁された。禁を犯して入室すれば,荒々しい 見幕で非をなじり,力ずくで退場させるのを目撃した。だが,始業時刻に先生が教室におられたの を,私はみたことがない。毎回必ず遅刻で,その長さも一定しなかった。前回は10分おくれで始っ たと思えば次時には5分おくれで始まるといった具合なのだから,学生は全くたまらない。
杉勇先生は,オリエント学の草分けで秀れた学者と評すべきなのだが,私には自分勝手にすぎる 授業態度とみる反感が先にたってしまい,受講はお座なりと化し,一体なにを教わったのか,全く 覚えていないのである。だが,杉勇先生との対面が反面教師となって,私は東京教育大学,茨城大 学を通じて,始業時刻に遅れて授業を始めた事は,合せて28年間で一度もないと断言しよう6)。
仏文学者,評論家として著名な河盛好蔵先生担当の「佛語講読」の授業も,教育者としては落第 とみるべきだろう。アー,ベー,セーから教えるのは,馬鹿馬鹿しく,気乗りされなかったからだ ろうが,授業に際しての教育的配慮が感じられなかった。講読らしくなったのは後期になってから だけれど,最初に指名されるのは,いつもきまって教室最前列に陣どる学生で,それも中央部に座 る者に限られたように覚えている。ここは2年次に仏語仏文学専攻に進みたいといういわば親衛隊 の定席で,河盛先生はこの人たちとのやりとりに気をとられておいでの様であった。
以後,指名は同じ列の座席に位置する学生を機械的に順々という具合だから,その時間中に講読 の指名をうける筈の学生は,おおよそ判ってしまう。今日も自分たちは,先生の眼中に入っていな いと感づくと,教室内ではやる気をなくす学生が輩出した。指名するならば,次に誰れが指名され るか判らぬようにし,教室内に緊張状態をつくりだしておくべきだと私が附属学校勤務について以 来,教育実習生を指導してきたのは,このおりの体験にもとついている。
3.教育的配慮の範を示された藤本治義先生
第1年次の終りに,専攻志望の調査があったとき,私は理学部地学科地理学を希望したが,選考 試験は行われず,転学部は実現した。1年次で受講した地理学の講義に感銘したからではなく,日 本史学に進んでも,古文書講読の授業についていく自信がなかったからというのが,地理学志望に
した主な理由であった様に覚えている。
文学部から地理学専攻に移った学生がどれくらいいたのかは覚えていないし,理学部に入学して いたクラスメートとも,すぐに融和した。地理学教室所属の2年次生は29名で,うち1名が女子学 生(百瀬泰江嬢)であった7)。この面々は,結果的には大半が教職につき,実業界で活躍するのは,
物故者(富田邦郎君と福地義男君)を含めて4名にすぎず,しかも中学校・高等学校で教鞭をとる 者が過半数を占めている。けれども,地理学教室の先生がたは,学生に学問を授けるという態度で,
学生の大半が将来,中学校あるいは高等学校で教職につくだろうと考えての配慮は全くなされなかっ た様に,私は感じとっていた8}。
2年次の時点で受けた地理学の講義で,感銘を受けた授業は残念ながらひとつもない。印象に強
く残り,いまに到るまで模範と敬慕するのは,藤本治義先生担当の「地史学」受講から感じとった 教育的配慮である。
「地史学」は,社会科の教員免許に必要な単位ではない。だが,理学部学生としての卒業条件は,
かなりの理学部開設講義受講を要求していたし.この時点では「理科」の免許状も取ってみようか との希望を,私は持っていた。だがそれにもまして,藤本先生の授業にでてみる気持になった原因 は,都立西高等学校に在学して「地学」を学んだおり,壽圓晋吾先生の推奨で購入して,いく度も 読み返した『地質学汎論』 (地人書館)の著者から,直接に教えを受けられるという喜びに胸をふ
くらませたからである。
藤本先生の講義は,期待どおりの充実した内容であった。講義されながら刻明に板書され,加え て毎時間1枚ずつ,授業内容に見合うガリ版刷りの資料を配布されていた。いまにして思えば,こ のガリ版刷り資料は,藤本先生の原稿を助手の教官が印刷物にされたのではないかと思うのだが,
当時は立派な学者が手づくりされた教材と思いこみ,毎時間感謝しながら受けとっている。こうし た状況の中で,私は藤本先生の授業だけは欠席しないと心に誓い,授業は皆勤受講した9)。
「地史学」を受講した地理学教室所属の学生はかなりいたし,またアルバイトが原因となる欠席 もけっこう多く,私の受講ノートも,そうした折の救済に使われた様に覚えている。私自身もアル バイトでときおり「自主休講」したのだが,そのことへの具体的言及は別項に譲りたい。
私にとって,藤本先生出題の試験は,真剣な受講も幸いして容易に解答できたし,評価も「A」
の判定であった。しかし,多くのクラスメートにとっては,難解だった由である。そのうえ,5〜
60名の学生に対する試験の監督に,先生は助手を伴はれ,教室の前と後にたっての張り番をされた のには驚いた。これでは,カンニングは不可能だろうと思ったし,私自身はカンニングの必要を感
じなかった。
そうした状況の中でも,せっばつまってカンニングを試みた学生がいたのである。しかし,不正 行為は藤本先生に発見され,答案提出に際して学生の眼の前で,先生は答案の上に大きくバッ印を 無言でつけられたと,私はカンニングした当人から直接に聞いている。
不正行為が発覚すれば,当然処罰となる筈なのだが,第3年次に進む当初に,学部事務室に提出 した『学修簿』での「地史学」評定欄には,なんと「C」がついていた由である。藤本先生は,自 分の眼前でバツ印をつけられる行為によって,カンニングをしてはいけないと無言の教訓を学生に 示されたのだとの述懐を,私は耳にしている。もうカンニングは決してしないと,彼が告白したの
を,私はいまでも鮮明に記憶する。
講義内容から非常に新鮮な印象を受けたのは,東京水産大学から出講の新野弘先生による「海洋 学」,東京大学地震研究所から出講の森本良平先生による「火山論」であった。新野先生は,第二 次世界大戦中,アメリカ合衆国海軍によって太平洋の深海部であいついで発見された「海山」ギュ ヨーについて詳しく言及された。高等学校の「地学」では,海底は起伏の少ない緩傾斜の大陸棚,
平坦な大洋底の間に急な傾きを持つ大陸傾斜を配して成り立つと習ったのに対し,大洋底には比高 が数千メートルにも達する火山性の「海山」が点在するとの指摘は,真に驚きであった。
森本良平先生からは,火山を外観の相違から分類するシュナイダーの方式は時代おくれで,地層 の構造を究明しながら火山はとらえるのが,火山学の常識と教えられ,これも全くの新知識で,大 学に入れた喜びを味わった。
森本先生は,火山を研究対象にした英文論文の抜刷を学生に貸与され,和文の要約をつくる作業 を「評価」の手段として課されたので,私は「海山」をとりあげた論文を借用のうえ,レポートを 提出した。これが,英文論文との最初の出合いであった。
4.実地検証の有効性を「地理学野外実習」で学ぶ
地理学専攻の学生になると必ず履修しなければならない授業に, 「人文地理学野外実習」と「自 然地理学野外実習」があった。地理学専攻の学生は卒業に際しての必修単位として, 「卒業論文」
の作成を課されたが,そのことに関連して地理学教室の先生がたからくり返して聞かされたのは,
体を張り,足で稼いで独自性のある材料を集めるのが,地理学専攻生のあり方とする説諭であった と記憶する。またそれにかかわる方法論の体得に資するのが,前記の野外実習であった。
当時,地理学教室には教授,助教授あわせて5人の先生がたが在籍され,人文地理学関係では,
青野壽郎,浅香幸雄,尾留川正平の先生がたが,それぞれ号単位の野外実習を担当され,自然地理 学では三野(石川)与吉,福井英一郎の両先生が,それぞれ1単位の野外実習を担当されて,学生
には,人文地理学,自然地理学の双方の野外実習に参加するよう義務づけられていた。
野外実習は,第2年次で4単位,第3年次で4単位がそれぞれ修得できるようにスケジュールが 組まれていたが,その全てに参加する必要はなく,私が取得したのは, 「人文地理学野外実習」4 単位, 「自然地理学野外実習」3単位であった。
第2年次生を対象にして最初に実施された野外実習は,浅香幸雄先生が指導され,昭和26(1951)
年6月に対象地域を静岡,清水,興津に選んで行われた「人文地理学野外実習」であった。実習参 加者を対象にしてなされたオリエンテーションで浅香先生は,5万分の1地形図は必ず携行するこ
と,またその際には,地類の相違に応じて地形図を着色し,土地利用図を作成しておく様に指示さ れた。着色作業をしない地形図を持って野外実習に参加するのは,古新聞を持って歩くほどの意味 もないとの言及であった。
この時に携行した5万分の1地形図は, 「静岡」図輻, 「清水」図輻, 「吉原」図輻が手元に残っ ている。アメリカ合衆国空軍撮影による空中写真の利用にもとつく応急修正版も未発行で, 「静岡」
図輻は昭和5年部分修正, 「清水」図輻は昭和15年第2回修正測図, 「吉原」図輻は昭和19年部分 修正測図で,地類にかかわる記号がどれだけ実情に対応しうるのか,今となってはかなり疑問に感
じられるのだが,当時は, 「参謀本部」の地図は世界一正確と信じこまされた戦時中の神話が頭に 深くこびりついていたから,地形図の記載が実情とあわないかもしれないと考える余地はなく,浅 香先生の指示に従って,一生懸命に5万分の1地形図を塗りわけた。
そうはいうものの,「果園」と「茶畑」を塗りわけるのが精一杯で,水田,畑などに手を加える 余地ない状態で,実習に参加しなければならなかった。それでも,「茶畑」の分布が日本平北麓か ら北西麓に集中する現象,みかん畑の分布が山地に偏在し,低地に広がる農地はおおむね水田であ るとの事実を事前に知り,現地で照合すると,予測がおおむね正しいことを確かめられたわけであ る。宿舎が興津にあった缶詰製造会社の工員寮であったのも,強く印象づけられた。工場が原材料 供給の季節的かたよりによって遊休化しているのを利用したのだが,食料品加工業が,製造業の中
でも特異な存在である事実を,実地に確かめえたのも良い体験であった。
それにもまして効果的であったのは,専攻を同じくする学生が寝食をともにして2泊3日の共同 生活を体験し,語りあう機会を持ったという事実である。この野外実習を機会にして,クラスメー
トという意識が急速に強まり,良いにつけ悪いにつけ,団結力を多方面に発揮する様になった。
今日,ほとんどの中学校,高等学校が実施している「修学旅行」が,教科学習の実地検証を実施 の主目的におかず,師弟友人間の共同生活に伴う心のかよいあいを重視する傾向を是認したくなる 体験を,私は最初の「人文地理学野外実習」で持ったわけである。
野外実習への参加は,書物で読んだことがらを実地に確かめる機会になったばかりでなく,書物 が書き落す事実も少なくないこと,また書物に書かれて以後に変化する事象が存在することを,数 々の実例を介して体得させてくれた。さらに加えて,文章化されていないなまの資料を集める技術 や聞きとり調査の方法も身につけさせた。自分の眼でみ,それなりに納得する事の大切さを自覚さ せたのも,野外実習の効用といえるだろう。
大学教官となって「社会教材研究」の指導を行うおりに,教科書に収められている教材に安易に よりかからず,教師,児童がともに確かめられ,集められる地域素材の開発,発掘が大切と強調し,
その実践事例を紹介したり,学生自身に探索させたりする原点は,明らかに「地理学野外実習」へ の参加によって培われたと考えられる。それが社会科教育に不可欠の方法論であるとは,地理学教 室の先生がたは,どなたも指摘されなかったが,今にして思えばすばらしい体験を,度重ねて持て
る様に,しむけて頂いたことになろう。
だが当時の私は,現在時点での事物調査ならそれが当然でも,歴史事象に現地検証は必要なく,
文献の精緻な検索でことたりると考えていた。文献の信頼度は実に検証しがたく,事象の生起した 現場に立つ必要性が判るまでには,悲しい事に大学卒業から20年ほどの年月が必要であった。
5.校外学習指導の手引書編集を手伝う
父君の城戸幡太郎教授(国立教育研究所長,ついで北海道大学教育学部長)が関係を持たれてい る財団法人文民教育協会の仕事を手伝ってほしいと,城戸昌男君から頼まれたのは,昭和25年秋で あった。城戸君は,東京教育大学体育学部体育学科に所属する学生で,私とは都立西高等学校が同 期生という関係から,学部はちがっても,顔を合わせる機会が多かった。
彼の話によると,文民教育協会は課外活動の研究と指導を行う目的のもとに,実地見学のテキス ト作成に当たってきたが,その発展として教師用の手引書出版を計画しているのだが,それに要す る取材要員が必要なので,地理や歴史に関心を持っている君に声をかけたとの由である。修学旅行 や遠足を,教科学習と関連づけて構成するのに加えて,社会科学習を実地に即して展開するために 必要な手がかりを提供する活動を,文民教育協会はなしつつあった。
課外活動の有効性は,十中,西高で板澤,壽圓両先生の指導を受けて充分に判っていた。その実 務にかかわる事は,大学での専攻にも役立ちそうに思われたし,仕事に対しては日当を払うとの説 明だったから「アルバイト」にもなり,一石二鳥とうけとったわけである。
文民教育協会の実務にその前身となった教育文化振興会当時から関係してきた入江孝一郎(現・
社団法人日本移動教室協会理事長)の著書『移動教室四十年一野外教育への道』 (1989年)による と,文民教育協会はまず課外活動(実地見学)テキスト「地質教室ながとろ」を編集し,製作を小 山書店にゆだねて刊行した。そうした準備に対応して,昭和25年9月16日に,野外活動研究会を,
社会科担当の教師を集め,参議院議員会館で開いている。一方,11月15日には,社会科見学受入側 研究会が,見学対象となるNHK,新聞社,国会,気象台などの担当者を招いて行われた1°)。
こうした準備をふまえて,児童生徒の指導に直接かかわる手引書が, 『校外学習一その在り方と 参考資料』と題して,昭和26年7月に刊行されるのだが,私が加ったのは,後編を構成する参考資 料づくりの実務であった。
『校外学習』の前編は5章編成で, 「校外学習としての見学」 「校外学習活動の諸形態」 「わが 国における校外学習活動」 「校外学習指導の諸問題」 「見学目的地の選定基準」とそれぞれ題され る。対する後編は, 「東京都の校外学習資源」 「東京都地域社会見学プログラム」 「社会科単元と 校外学習」 「東京の地域社会見学の解説」の4章で成り立っている。個々の章をだれが執筆したか
を明記しないが,前編の3章までは校外学習指導の必要性を早くからとなえ,文民教育協会の設立 に強くかかわった城戸幡太郎かもしれない。
「はしがき」末尾で,資料作成に当たって協会の外部から協力を得た人として,国学院大学樋口
清之教授,歴史教育者協議会高橋石眞一氏の名が記される。後編第4章としての「東京の地域社会見 一
学の解説」を一部分担当したのだろう。
『校外学習』のページをくってみると,私が担当したのは,後編第4章の第4節「工業生産はど のやうにして行われているか」であった事実が思いだされる。この節でとりあげられている見学受 入工場は13社16工場であるが,対象の選定を私が行ったわけではない。私の仕事は,これらの工場 を実際に訪ね,見学受入担当者に面接し,製造現場をみせてもらったり,工場案内の印刷物を入手 のうえ,『校外学習』に掲載する原稿を執筆する実務であったID。
対象となる工場は,行政区画にとらわれず,京浜工業地帯からの選定であったため,仕事を進め る中で私自身にも勉強に役立つ部分が多いわけである。対象工場のひとつである「いすず自動車株 式会社」について,私はミ有名な自動車工場の一つであるが,ボディの取りつけはやっていない。
したがって大部分は部品の製造なので,機械工場とあまり異ならず,車らしい形が見られるのは,
二三の箇所でしかない。自動車やバスの姿を予想してまんぜんと行ったのでは失望する。自動車の 構造についてある程度の予備知識を必要とする.と,見学実施に際しての留意点を指摘したのだが,
大学1年次生としては,要点をつかんだ記述と評してよいだろう。
私が執筆した解説は,いま改めて読み返してみると,その全てが当を得たとはいえないけれど,
自分の書いた文章が公刊の印刷物に収められる最初の機会であった。
『校外学習』の編集作業と平行して,文民教育協会は,課外教育活動の実践に直接かかわる様に なる。学校をはなれて見学の対象を求めるとなれば,具体的な交通手段が必要となるわけだが,そ の斡旋を手がけるに至って,業務は急速に拡大した。
『移動教室四十年』によると,きっかけは貸切自動車運行業務を手がける帝産オートから, G HQバス,アメリカンスクールバスで進駐軍専用に使っていたバスを日本のスクールバスに使えな いかとの提案があり,継続的に運行できるなら,使用料金は観光バス料金の半額近い費用で差し支 えないとの申し出があった事実にもとずく由である。その申し出に,『校外学習』編集に参画して
いた渋谷区,練馬区,江戸川区の社会科担当教員が具体的な反応を示し,文民教育協会が仲介役を 引きうけたのが,契機になったと解される12)。
6. 「学校バス」運行で指導員を勤める
車体前面に「学校バス移動教室」のプレートをかかげる5台のバスが,学校行事等に位置づけら れる遠足を,教科学習の手段としても活用しようとの計画のもとに,計画的な運行を始めた時点は,
昭和26(1951)年5月16日と記される。対象となった学校は,渋谷区立笹塚小学校で,同校に勤務 13)
キる川合八郎,石谷潔の両教諭が,社会科,理科の実地指導を意図しての企画であったと思われる。
見学対象は三浦半島で,油棟に設置されている東京大学附属臨海実験所(水族館),遠洋漁業の基 地となる三崎港の見学が主体であった。
試行の成果をふまえて,5月22日に「学校バス発足記念会」が行われた。 「学校バス」の企画に 熱心だった渋谷区,練馬区,江戸川区の関係者を始め,多くの区から教育委員会関係の参加者があっ た由である。東京陸運局事務所長の祝辞もあったとされるから,運輸省も事業推進に理解を示した とみてよいだろう。席上,「学校バス使用によるカリキュラムの構成について」と題する研究発表 が行われている14)。
「学校バス」の運行にあたって,実施上の問題点が2つあった。第1は,参加校の利害が一致し にくく,使用希望日が重複して調整がむずかしい事である。第2は,見学に当たって児童生徒の学 習指導を効果的に行える人材をえがたいという問題であった。バスから下車しての見学ならば,社 会科あるいは理科担当の教師が児童生徒を一括して行うことも可能だが,全ての見学対象に下車で きるとは限らない。車窓からの見学となる場合も多いのだが,そのおりに的確な説明を行える人材 が,引率にあたる学級担任の教師から得られるとの保障がないのである。
こうした状況と対応するために,文民教育協会は,参加学校の要請に応じて,学校バスへの指導 員同乗を実施した。学校バスが5台であるから,5人の指導員を確保する必要がときにはあったよ
うである。協会職員の入江孝一郎が,この業務にあたったほか,専任職員として高橋克彦が加って いる15)。しかしそれ以上の専任職員配置は,経費の関係で実施できなかった様に思われる。
『校外学習』の編集で面識を得た入江孝一郎から, 「学校バス」運行の実務を手伝ってほしいと の依頼を受けたのが,いつのことであったかは記憶がない。10月19日に,御岳山(東京都)へいっ た際に写した写真が手元にあるから,昭和26年秋に添乗業務とかかわっていたのは確かであるけれ
ど,夏休み前に「学校バス」に乗る機会があった様な気持がする15)。
「学校バス」の仕事を手伝うとはいっても,学生のことゆえ,いつでも協会の要求に応じられる わけではない。講義,演習,実習をたびたび休むわけにはゆかないから,「地理学野外実習」で寝 食をともにして以来,急速に親しさを増した地理学教室所属の友人たちに,「アルバイト」の一環
としての助力を頼み,指導員の人数確保にあたることになる。
地理学教室所属の学生にとっては, 「学校バス」添乗の指導員は,各人の専攻とかかわる場面も 多く,自分自身の勉強にもなり,加えて経済上の実益も得られるので,かなりの学友が参加してく れたのを覚えている。「学校バス」運行に伴ってでむいた行先は,前記の御岳山に加えて,三浦半
島,江ノ島・鎌倉,箱根などであった様に覚えている。都心見学の一環として,国会,新聞社に出 むいた記憶もある。
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児童生徒の校外学習,とり 墲ッ「遠足」をレクリエーショ 唐フ機会としてではなく,教 ネ学習の得がたい場としてと 轤ヲるとき,具体的にどの様 ネ指導を行えばよいかを,実 nに体験する場を持った事は,
ьゥ身にとって,非常に良い ラ強になった。
@その事力㍉後に東京教育大 w附属中学校に赴任したおり,
謾Cの山本幸雄先生力㍉長い ヤにわたって培ってこられた 修学旅行・遠足の学習指導を 受け継がされても,とまどい 感じなくてすむ下地を培っ トくれたわけである。
@ところで当時,地理学専攻 フ学生は,さまざまな「アル oイト」で授業を欠席する事
例がめだっていた。その事に 麟一風ノノ1卜〜一L
関連して,三野与吉先生は, 「朝日」に掲載された「アルバイト」反省の告白16)
苦言を呈されたのだが,その
当時,先生の忠告を真剣に受けとめた学生は少なかったように覚えている17)。
私自身は,指導員実務で得た報酬の大半は,「地理学野外実習」やその前後に行った地域自主見 学の旅費に使った様に詑憶する。読書を介して得た知識を実際に確かめる,それは良い機会になっ たといえるだろう。
7.自覚の欠如で無為に終った「教育法」の履修
噛 教育職員免許状の取得に必要な単位の確保が,東京教育大学では,学生に要求されていたわけで はない。けれども,ほとんどの学生が,教職課程の履修を自らに課していた。教職につくという自 覚もないままに,私も1年次学生の時点から, 「教育原理」 「青年心理」などの講義をうけ,単位 取得を行っていた。
東京教育大学では,各科教育法の講義は3年次生対象の授業である。私は,佐藤保太郎先生がそ
れそれ担当された「社会科教育概論」を前期, 「地理教育」を後期に各2単位修得している董8}。
けれども,全く申し訳ない事に,佐藤保太郎先生の講義内容をなにひとつとして覚えていない。
教師になるのだという自覚がなく,漫然と聞き流したからだろう。評価もそれぞれ「B」であった。
この当時,地理学教室のクラスメートの間では,取れる資格はなんでも取っておこうという傾向が あり,卒業に必要な修得単位の中に自然地理学関係の授業が数多くあって,しかもそれらが理科の 教員免許状取得に使えるため,社会科,理科の2教科の免許状を取っておこうとする風潮が認めら れた。私もそうした状況の中で,金子孫市先生担当の「理科教育概論」を前期に,山口俊策先生担 当の「生物地学教育」を3年次学生として,それぞれ単位取得している。
こうした傾向に対して,三野(石川)与吉先生は,多免許取得の弊害を諄々と説かれ,自らの専 門に直接かかわる学習に専念するように諭された。自然地理学専攻の学生は,教職についた場合,
大学での専攻内容が,中学校の社会と理科,高等学校では理科の地学にもかかわるから,2免許取 得も場合によってはやむを得ないが,人文地理専攻の学生は中学校に勤めれば社会,高等学校に勤 めたなら社会の人文地理を担当するのが,教師,生徒の双方にとって妥当なのだから,理科の免許 取得はやめる様にと,度々話されている。だが,多くの学生は三野先生の忠告を受けとめず,3年 次学生当時の私もその1人であった。
けれども私は,結局,理科の免許状は取得しなかった。理科免許状取得に備えて,3年次学生当 時, 「地球化学」の単位は取得したが,4年次学生としての履修申告に際して,物理学,生物学関 連の単位取得に自信が持てなかったのに加えて,卒業論文作成に専念する様にと,三野先生から説 諭されたのに従おうとの気持になったからである19)。
教職課目履修のしめくくりは,4年次学生の段階で実施する「教育実習」で,対象となるのは,
附属の中学校,高等学校のほかに,協力学校として私立の桐朋中・高等学校,桐朋女子中・高等学 校が指定されていた。軍部とのかかわりを持ち,生徒の中に軍人の子弟が多かった山水学園を戦後 に改組するに当たって,東京教育大学関係者の指導助言を受ける様になったのが,教育実習協力校
となる契機であった由である。
教育実習校の選択に当たって,私は桐朋中・高等学校を希望した。附属中・高等学校の中で,と りわけ大塚に位置する東京教育大学附属中学校,東京教育大学附属高等学校は,東京高等師範学校 附属中学校の後身で「秀才学校」視され,また生徒は秀才を鼻にかけ,教育実習生(教生)をいじ めるとの風評もあったから,敬遠したかった2°)。
私が桐朋中学校を希望したのは,当時,東京都立西高等学校に在学していた弟が桐朋中学校から の進学で親近感を持ったのに加えて,自宅のある中野から国鉄中央線の電車で乗り換えなしに通え るという交通の便も考えたからである。
教育実習終了後,返却されて手元に保管中の『教育実習手帳』によると,教育実習期間は,昭和 28(1953)年6月5日(金)から7月2日(木)までの4週間となっている。配当は,中学校第1 学年で,1年A組,1年B組を担当し,社会科の学習指導をする様に命じられた。学級担任業務の 実習はなかった様に記憶するが,授業担当の学級で,生徒と一緒に掃除をし,花壇で雑草を抜いた 記憶がある。
「教育実習手帳」末尾に収めた出勤簿に,火曜が研究日と記入され,指導教員である大沼一雄先 生の捺印もなされていないから,火曜日は出校せず,自宅で教材研究を行う様にと指示されていた
のだろう。参観記録の欄でも火曜日にみた授業は,みあたらない。
教育実習の指導にあたられた大沼一雄先生は,東京高等師範学校文科第4部の卒業で,地理学を 専攻されている。旧制中学校在学当時,地理教育の権威として知られ,いわゆる「文検」受験指導
に関連して多くの著作をもつ香川幹一から地理を習い,地理学専攻に進まれた由である。
卒業と同時に桐朋中・高等学校に赴任され,定年まで引続いて桐朋中・高等学校に勤務されてい る。大塚(東京文理科大学・東京高等師範学校)系の伝統ともいうべき「地理学野外実習」にはと
りわけ熱心で,昭和30年代には,スクーターを活用して,日本各地を旅行され,その実体験を授業 に取りこまれ,著作にも活用されていた。地域見学の対象は外国にも及び,韓国一人旅も体験され るという,バイタリティに富む地理教師である21)。
大沼一雄先生の本領は,地図学習指導でも発揮され,地域見学の体験をかかわらせながら,地形 図学習の成果を, 『日本列島地図の旅』 (1980年 東洋書店), 『続日本列島地図の旅』 (1986年 東洋書店)として公刊されている。
8.具体的で適確な指示をうけた教育実習
教育実習第1日はオリエンテーションで,「教育実習にかかわる一般的注意」 「実習担当教科に ついての内容打合せ」であった。第2日から1週間は,専任の,いわば本職の先生がたの授業を参 観するかたわら,実習担当授業の教材研究をする様に命じられた。
授業実習の時間割は,月曜5時限(1A),水曜2時限(1B),木曜2時限(1A)・木曜5 時限(1B),金曜1時限(1B),土曜3時限(1A)で,週6時間の受持となっていたけれど,
これは建前で,「教育実習手帳」を調べてみると,6月20日(土)には,1年C組・1年D組の授 業も行い,4時限には高校2年の「人文地理」も受け持っている。結局,実習期間に23時間分の授 業をしたことになる。
この時点では,昭和26(1951)年版の学習指導要領が試案の形で文部省から示され,中学校第1 学年の社会科では,年間140単位時間を下限,年間210単位時間を上限とする時間配当であった。大 沼一雄先生が受けもたられた中学第1学年の社会科は,実習の時点でみる限り,第2単元に位置づ く「わが国土はわれわれに,どんな生活の舞台を与えているか」であり,これを日本地誌の学習と みなされていた様に思われる。そうして私が実習したのは,「中央高地と東海・北陸」と「関東地 方」の学習指導であった。
参観記録を調べてみると,中学1年の社会科は大沼先生だけが受けもっておられた様に思われる のだが,大沼先生の担当は1クラスについて週3時間にしかならず,学習指導要領の下限をさらに 下まわる点が不思議である。しかし当時の私は,学習指導要領に全く無関心であった。
実習第1時間目は,6月11日(木)第2時限,1年A組で行った「中部地方の地理的特色と東海 地方の自然」の授業であった。温暖な気候が地域の特性である事実を,南伊豆の促成栽培,静岡の 茶栽培を具体例にして扱ったが,どちらの事象についても,「地理学野外実習」での見聞があった から,教材研究には困らなかった。
大沼一雄先生からは,板書事項は上の方から消すこと,一般的事項を確実に認識させるよう留意
する様にと,授業後に注意を受けたと,「指導教官の批評」らんには書かれている。
授業者の反省事項の中に, 生徒は黒板に書かないとノートしないから,つとめて黒板に記載す る様にしなくてはならない との記述がある。ではどの程度書くのが適正かという判断は,当時の 私にはなかった様に思われる。
実習授業の記録を読んでゆくと,自分が附属学校の教官として教育実習生に注意し,また教員養 成学部で学生に対するとき,しばしば口にしてきた事項が,教育実習生としての私に対して,大沼 一雄先生からなされていた事実を確認させられて,苦笑せざるを得ない。6月12日の中学1年B組
(実習3時限目)の授業の中で,私が地図の上,地図の下と言及したことについて,大沼先生が地 図では北,南といわなければならないと注意されたとの記録が収められている。地図学習の基本が,
いつになっても達成されていない見本というべきかもしれない。
6月18日(木)の反省事項に,生徒を指名する時には,必ず名前をよび,手でささぬことという 注意をうけたとの記述がある。真に当然で,この程度の教育的配慮も当時の私にはなかったのかと 思う反面,教育実習生への指導は,綿密細心でなければならないとの思いに,改めてたち到る事例 である。氏名を呼んで回答を指示するのは,児童生徒の人格尊重に対する第一歩だろう。恐らくこ のとき,私は挙手した生徒に対し, はい,君 と発言して,指で答えてもらう生徒を指示したの だと思われる。正しく氏名あるいは姓を呼ぶことが教師と生徒を結びつける信頼関係の第一歩とい
う認識を,当時の私は持てなかったとみなければならない。
参観の記録を読んでいくと,6月13日(土)の午後,大沼一雄先生が高等学校2年生を対象にし て,課外の校外見学実習を実施され,私も同行した事実が明らかになる。東京西郊の都市化現象を,
近郊農村の変容に焦点を合せて見学したと判るのだが, 書物で見たことも,実地に来てみれば,
真によく判る。地理をやる人間にとっては,歩くという事は極めて大切な事だと痛感した との感 想が記されていた。野外実習を重視された大沼一雄先生の面目を,垣間みる思いである。
授業実習の最終日に,関東地方の学習への導入を,学校周辺の地形図読図で行うよう指示され,
研究授業の主題にされたのも,読図学習の指導に情熱を注がれた大沼一雄先生にふさわしい方針で
あった。
注
1)昭和29(1954)年3月31日付で取得した「教育職員免許状」中学校1級・教科社会の裏書(授与条件)
欄には,地理学(地誌学 含む)32単位の記載がある。この科目は,法令上では6単位以上必要とされて いるから,26単位も超過して取得したことになる。大学院では,さらに26単位を取得した。
2)私の単位取得状況は,日本史及び外国史20単位,地理学(地誌学を含む)32単位,経済学10単位,倫理 学4単位であった。当時は,法律学,政治学の単位取得は不必要とされていたが,これは全ての免許状取 得者に対して, 「日本国憲法」の単位取得が義務づけられていたからだろう。私は,一般教育科目の単位
として,「日本国憲法」を取得している。
3)以後,ほとんど毎時間,荒木先生は私を指名して訳読を命じられるので,漢文だけは必ず充分に予習し て授業に対応したから,この科目についての学力向上はめざましかった。茨城大学に赴任後,卒業論文指 導が契機になって手がけた共同研究「霧社事件史」の取りまとめに際して,このときに培われた漢文素読
の学力が非常に役立った事実を特記しよう。故人になられた荒木雄二先生の学恩に感謝する。
4)痩身で小柄にみえた下村寅太郎先生は,当時の私には定年に近い,多分60歳前後と思われる老教授と写っ たけれど,後年に先生の略歴を拝見して,明治35(1902)年生まれと知って驚嘆した。私が聴講した当時 の下村先生は,まだ40代の気鋭な学究であられたわけである。
5) この当時,定員200人の文学部の中で,女子学生は1割にみたなかった。試みに『茗渓会会員名簿』昭和 63−64年次で調べてみたら,彼女たちの大半は公立・私立の高等学校で教鞭をとって,社会に役立つ存在で あった。女子学生の大学進学増加に伴って一頃,大いに論議された女子学生亡国論は,迷論であったとみ
るべきだろう。
6)反対に非常に厳格だったのは,英文学担当の巖本マーグリート先生だった由である。バイオリンの名手 として知られた巖本真理女史の母堂でイギリス婦人のこの先生は,始業時刻前に来場され,廊下で待たれ ていたという。巌本先生は学習指導もとりわけきびしく,予習復習不足の学生は,次々に出席停止処分に されていた。私と友人たちは,英文志望の学生は気の毒と同情したが,これは今にして思えば,非常な心 得ちがいである。
7) 3年次の時点で,地質学鉱物学専攻からの編入が1名あり,百瀬泰江嬢が病気で退学した。百瀬嬢の退 学願をみられて,三野(石川)与吉先生は,休学して治療に専念のうえ,学問を続ける様にと助言し,説 得をくり返されたと,後に知り得たのだが,当時はそうした師恩を私は気付かずにいた。
8)大学院博士課程修了で大学教員に進んだ者は3名にすぎない。中学校あるいは高等学校などの教員を経 て大学教員になったのが,私を含めて3名である。こうした状況から考えると,多少は中学校・高等学校 での実務に対する配慮があってもよかった様に思うのだが,高等師範学校色の払拭が,強く意図されてい
たのだろう。
9)私が昭和38年度後期に,併任講師として教職専門科目の「地理教育法」を担当して以来,講義に際して 必ず印刷あるいは複写した資料を配布し続けるのは,藤本先生から受けた感銘が重大な動機になっている。
東京教育大学に在学中,講義資料を毎時間配布されたのは,藤本先生だけであった。そのほかの講義で,
資料の配布を受けた記憶をほとんど持ち合せない。
10)入江孝一郎『移動教室四十年一野外教育への道』 (1989年 日本移動教室協会)p.37.
11)文民教育協会編『校外学習一その在り方と参考資料』 (1951年 日本出版協同)pp.122−6.
12)入江孝一郎『移動教室四十年一野外教育への道』pp,38−9.
13)同上PP.39−40.
14) 同上p.40。この方針に沿って,江戸川区小学校社会科研究部は,社会科副読本『開けゆく江戸川区』を 作成し,区内実地見学と取りくんだ由である。
15)文民教育協会は,校外学習活動の一環として,東海汽船の旅客船を夏休み期間に使用する「海洋教室」
を昭和24年から実施していた。当時は,燃料の石油が極度の使用制限をうけていたので,生活航路として の伊豆諸島への運行で手一杯,学習活動への寄与はできなかったのだが,文民教育協会の活動に理解を示 した大屋晋三運輸大臣によるツルの一声で,東海汽船への燃料特配が実現した。こうして,昭和30年代に かけて東海汽船のドル箱航路になる夏の保田・館山航路が再開の運びになる。またこの様な就航事情から,
東海汽船は文民教育協会主催の「海洋教室」参加の学校団体には,運賃特別割引を行っていた。目的地の 館山では,海水浴を行ったが,往復の船上では,同行の東京商船大学海事普及会所属の学生による海洋知 識啓蒙講座も開かれた。
好評のうちに「海洋教室」は,昭和25,26年にも開かれている。昭和26年には.対象地が三浦半島の油 壷になった。館山航路が軌道に乗り,一般客が増加したので,新規航路への集客を「海洋教室」に期待し たための変更と思われる。一方,協会側には「学校バス」の有効活用をはかるため,夏休み利用の海水浴 を,バス利用でも行ったため,職員の手不足をきたした様である。「海洋教室」への添乗を依頼されて,
私はこの年の夏休みは,大半を油壷航路で過している。学習指導は東京商船大学の学生が引き受けたから,
私の仕事は参加学校別の児童生徒数確認と乗船券発行についての東海汽船との交渉,東京大学附属臨海実・
験所見学手続(水族館見学料払込),食堂・土産物店との貸席交渉くらいであった。
この際の交渉実務も,東京教育大学附属中学校での修学旅行業務にかかわったおり,その実務執行に役 立つよい体験になった。旅行代理店を介入させず,学校が直接に交通機関や旅館と接渉したからである。
16)教育欄の一部を構成する投書らん「アーケード」に,「アルバイトの悔い」を寄せた田崎常之君は,地 理学教室の同期生であった。彼も卒業と同時に教職につき, 『茗渓会会員名簿』(昭和63−64年次)による と,福島県立白河実業高校勤務である。
17) 田崎常之君の「アルバイトの悔い」をコピーして茨城大学教育学部の学生に配布のうえ,感想を求めて みたら,積極的に賛成する者は少なかった。アルバイトは,経済上の実益を得るだけのものではなく,実 際社会の勉強にもなる有用な行為とする意見が数多く眼についた。
18)東京教育大学では閉学に到るまでこのシステムで,前期は「社会科教育概論」,後期は「地理教育(法)」
「歴史教育(法)」「公民教育(法)」であった。後期は3つのうちどれかを履修すればよい仕組みであっ た。 「地理教育法」は,昭和38年度から私が受け持ち,昭和50年度まで継続している。
19)三野先生の説諭に従わず,2教科の免許状を取得した友人たちの中で,高等学校に就職したところ,免 許状があるために,地学以外の科目を教えなければならない破目になり,教材研究に苦労したばかりでな く,生徒にも気の毒なことをしたとの反省を語る者がある。多免許取得の弊害は茨城大学教育学部でもみ られるが,就職に有利という希望的観測が,いくつもの免許状をとらせる傾向を助長している。
20)教生いじめどころか,新任の教官をいじめる傾向さえあったのを,私は昭和33(1958)年に,茨城県立 水戸第一高等学校から着任して実体験している。詳細は後日にゆだねたい。
なお私が東京教育大学附属中学校へ赴任と決ったとき, あなたが小学校(正しくは国民学校初等科)
の6年生当時,担任の先生は,高等師範の附属を受けてみたらと,言ってはくださらなかった。その学校 に先生として赴任するなんて…… と,母は述懐している。受験成績優秀といわれた東京都中野区桃園第 三国民学校でも,男子生徒にとっての最難関は,東京高等師範学校附属中学校,東京高等学校尋常科で,
数年に1人の合格者がでる程度であったと記憶する。
21)大沼一雄『カッパ先生陸地を行く』 (1961年 二見書房),大沼一雄『韓国・その人と生活』 (1969年 古今書院).
〔付 記〕
本稿の第1回分を読まれた方々の中から,事実関係の誤,あるいは不備についての指摘を受けたので,以下 に列記する。記憶はどこまで信頼に値するかの実例でもあるし,校正ミスは印刷物につきもので,時には驚く べき錯誤を生じかねないという事実の見本になるのかもしれない。
1.尋常小学校,国民学校初等科を通じての同期生である廻谷正英君から,第1学年から第4学年までは男女 各2学級であり,第5学年発足に当たり,男女各2学級,男女共学1学級に再編成したとの指摘をうけた。
この際,既設の学級を基本的には解体せず?各学級から過剰人員をそれぞれ十数名抽出のうえ,男女共学の 新学級を編成して,3組と名付けたとの事実を思いだした。今にして思えば,随分乱暴な学級編成方式であ
る。抽出され,いわば余りもの扱いをうけた児童のうけたであろうショックがしのばれる。思えば,無惨な
措置であった。
2. 「国史」の授業が, 「天壌無窮」の神勅暗諦強制で始まったと書くべきところを, 「天壊無窮」と誤植し ているとの指摘を,三芳瑛君から頂いた。全くのケアレスミスであり,「壌」と「壊」では全くの意味ちが いになる。校正ミスした私の責任は当然だが,これが戦時中だったなら,処罰は筆者の範囲ではとどまらな
かったろう。
3.国民学校初等科第4学年で履修した『郷土の観察』では,その後,東京大空襲で焼失した宝仙寺の三重塔 も見学したと,廻谷正英君から教えられた。彼は4年2組で私は4年1組の所属だったが,私も見学したの を思いだした。4学級同時に行動しての見学であったかと思われる。