地 域 研 究 第 1 4 集
一 宮 町 の 歴 史 と現 代
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岡山大学教育学部社会科教室 内地域研究会
三・ 0. 普宅e
山斬 ▲蝶崩せ‑を寸㌔しI.rf・」
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叫T.i‑.1・▼
備前国一宮社吉備 津彦神社 惜 社殿絵図」
昔備津酎 中社社殿
吉備 津彦神社の大燈寵 (東洋一 といわれ る)
吉備津彦神社の門前町
吉備津彦神社 か田楕 祭 の 御榔行事 (8月
5日)
備前 ・備 中EE]境 (一宮 町境 日)
旧 山 似 通 の 面 影
(呼 坂 よ り東 を ?L.lJ )
備前一宮駅 を発車 す る蒸気汽関束
丑 表 の 乾 燥
谷問いの マス カ ,ト温室群 と 丘陵上 の新 しいマス カ ,ト団地
(佐山部落)
大 珪 石 の 採 石
山崎部落 (左 )と緑町団地の北端
一宮町役場
建設中の天神団地
M Dt,伊
は し が き
岡山大学教育学部社会科数室内<地域研究助 士,教官 と学 生 ,それに卒粟生 を加えて .毎 年地域研 究を行をい ,そのつ ど研究成果 を公刊 してきた。昭和44軍産は ,岡山市に隣接 し ,市のベ ッドタウ
ンとして変貌の苦 しV,御津郎一宮町 を鋼査対象地 として適 ひ ,町当局 と数次にわたる打 ち合 わせ .つ V,で予備網萱などを経 て ,本調査 を実 施 したのである。調査は もちろん 年度内に行 なう予定 であ った が ,学齢紛争のあお Dで投薬が延期 された とともあ D .乗除には本 草 (昭和4 5竿 )4月 5日か ら7
日まで ,40数 名の者が町内に宿治 して調査 に当た ったのであるoその調査結果を .こ
こ
に<一 宮町 の歴史 と現代>
(地域研究 yリーズ第 14集 )と屈 して公にする しだvlであるo一宮町は町名の示 しているように ,備前の一宮 として四道将軍 のひとD ,吉備津彦命を柁る書簡浄 香神社の銀座 まします地であb ,備前の圏一円の僧仰 の中心をな してV'たばか
b
で 夜 く ,また音㈲文 化発祥地の一賓 をな してvlるところである。現に町内には教師を職 とする肴が非常に多 く ,また高校 進学率にかvlて岡山市のそれを凌知 してV'る ととな どは ,この文化的伝統の故 とも考える ことができる。
文化の発達は交通の利陵 と深 く関連す るが .現在に洩 る馬屋の地 名は往古の宿駅 を偲ばせ .す ぐ西 に接する備中の園‑ と伸びる山陽道の在社は ,人馬の将領が抱えなか った ところであろ う。現在は国 鉄吉備線ならびに風道 180号奄如町 内を東南か ら西によぎb,vlK Lえにま して文化 ・産業の発達 に役立 っている.
産業の面では ,明治の頃か ら平津 ・馬匿下地区は桃の産地 として ,一宮地区は僧軍の栽培加=の地 として ,その名をな して きたのであるが .今はやや衷えを見せてV,るO これに代 る もの と して酸盛 , 噂にマスカ ,卜の生産がある。 KLl」・芳賀の部落 を訪れる人は ,造成 されつつあるマスカ ットEZl地 を 含めて ,居並ぶ温皇群の景観 に滞垂の 日をみはることであろ う。
一宮 ・馬屋下 .平静の三村 が合併 し ,^ ロ8,8 87人の一宮町が誕 生 したのけ昭和50年であ った。
その合併に前 後 して ,一宮町忙はひとつの異変が徐 々に起
こb
始めてvlた。それは技術革新 と感済の 高度成周に伴 う都市‑の人 口集中 ,そ してその ドーナツ化現象が ,近郊地一宮に形申 し始めたのであ る。 岡山市に近接 し ,種 々の公音に も荒 らされず ,緑の山野 とす ぐれた文化的環境を もっこの地に , 人 々は住居 を求めるようになった。その端的 を現 われが扱町の誕生である。宅地造成が発工 されたの け昭和40年 ,そ して両三年の間に人 口1,200(現在世帯数548.,人ロ 1.2 16)の一部落が田 園のただ中に浮かび出たのである。数 年前 iでは モンペ項 の
農家の主婦が鍬や鎌 を手に してV,た地に ,・/,,ピンクセンターがで き .サ ラリーマンの奥 さんでにぎわ う住宅街が出現 したのであるか ら ,i さに ことば どお b<桑槍の変>なのである。 この録町田地の筏か ,天神田地('2 0 0戸 )緑が丘団地 (12 0戸 )の宅地造成を終わ b ,芳賀佐山地区忙かけての丘酸地にはマンモス団地(1.70 0戸 ) の計画が進め られている。 この ような変塊の姿托 ,とのi 地に古 くか ら生宿する^たちに とってば ,
うたた感慨の禁 じえ72い ものがあるで あろ うO
その一 宮町が ,今 まさに消えてvlこ うとしてvlる。土地が Iな くなるのでは 7EV}。そ こに生活す る^
がい夜 く在るので もをvl。行政単位 と しての <町>が を くなるので ある。広 域都 市と しての腺商 100 万都 市の柵想は三村合併の当時 に も唱 え られてV,た。 岡山市か ら合 併の呼びかけ も何回か あ ったが機 が熟 さなか った.それが今や他の五か町村 とともに ,それぞれの鞍食で合併決蕪がなされ ,新春 (I 宮町は昭和4 6年 1月8日 )を期 して岡山市 に合併 され るのであるO
‑宮町は 古V,歴史を もつとともに .新 しい町づ く如 こ努めて きた。 その一宮町は今や発展的 に消え てvlくのである。古 くか ら土地に住む人 も ,新 しく町に住みついた^ も ,住む土地に愛惜を感 じをvl 者は 覆いであ ろうo
われわれ<地域研究会 >は ,その ように変貌若 しvl一宮町 を訊査苅粂地 と して選び ,歴史 ・地理 . 社会 ・建築 ・経済 ・教育 .文化の諸分野か ら総合調査 を試みたので ある。詞童の過程 で種JT討諺 倉行
ない ,また補足調査 に も出か けて努力 したのであるが ,ここにか見せす る ように不十分 75:もの しかで きなか ったO特 に歴史的分野におV,て ,町 内には多数 の古墳があ b ,宜重 複出土品 も見 られるのであ るが ,この面の研究は短期間の調査では到底不可能であるので割愛せ ざる奇禍 なか った。他 日を期 し たV,と考えてV,る。なかその他 Kかvlて も欠落 した分野 もあるだろ うし ,魯魚の誤 Dをかか してvlる か も しれ をV,O これ らについては ,調査期 間が短期 間で あった こと ,調査 者の主体が萌 査経験 の韓 V, 5年次生であ った こと ,レポー トの提出を急 がせた ことなどに も原因が あるので .‑官町民の方 々 , な らびに一般訳者の Tr海容 をvlただ きたvl. ともあれわれ われ地域 にある大学 として ,地域に奉仕す る ことをひそかを喜 び としてい る。 このささやか を研究労作が ,地域に ,そ して学界に多少で も貢献 す る ところがあるとす るを らば ,望外の しあわせ とvlわをければ を らなvlo
かわ bに ,この調査 をとお して ,陵かvlこ協力 をいただvlた町長 尊ん をは じめ とす る町役場の各位 , 教 育委員会の各位 ,文化財保護委員の各位 ,学校長各位 ,典弘の各位 ,町内中 楽所の各位 ,町民の各 位 ,怒 らぴに宿泊の ど便宜 を提供 して下 盲 った黒住 巷ん小野 田さん ・・・‑ ・すべ ての方に心か ら厚
く御礼 申 しあげ る しだvlで あるo
昭和4 5年 9月
発
刊V C よ せ て
一 宮 町 長 草 野 入 漁 とのたび ,岡山大学教 育学部社会科教皇の地竣研究会e)方々忙 よって ,わが一宮町 の古い時代か ら , 現 代社会への変遷 した過程が調査せ られ ,本心が上梓 せ られることは ,学術 的に有意義である ことは 勿除 なが ら ,当町に とっては ,正に町の沿革の集 大成 として ,きわめ で貴重 な文献 とな 9 ,時 に時恰 か も岡山市 との合 併の敬が黙 し ,明 年 1月を潤 してその爽現を見 よ うとす る直前で あD ,備前国一宮 と して曹僻浄香神社告示
E
b ,広 く世間に知 られてV,る由緒 も探 V,「一宮町」が ,地方 自治体 と しての その歴史を閉 じん とす る とき ,将来‑逮 すべ き金字塔 と して ,本せけ地 峡住民の方 々の絶 賛を博す る ことを確信 する もので あbます。本来 ,地域調査は ,vlずれの 目的のために しろ .文献 ・賛科等 が よ く保有 されていることは稀であ って ,しか もその内容は多岐にわた 9 .その藍 哩には大変を労苦が伴 うもの と東知 して
かb
ます。ま して当町に ふvlては ,賃料 ・文献忙欠 けた もの もあ D ,せた ,在 ると しても散在 して整 理には き わめて歯難 を状況 であ bま した。
また
,
町 の受入体 制 も何か と不行届であb
埠分 と不医 をかけた ことと存 じます。しか しなが ら教 官各位 を始 め ,学 究諸兄姉 には ,4月以来私心に調査 研究に当 られ ,克明 夜実地の 勝査 ,或は更VE補足砺査を行 なわれ .か 上 うに して資料の丑理に引続 き脱帝に至 るtで ,その ど労苦 は並 々な らぬ ものがあ った ことと無 くと推賓 V,た します。
辛V}忙今回めでた く上梓 発刊の選 び とな D ,地域研究 ・/ リーズの一巻 として .脚光を浴 びる ととに なった次第であ b・iして .それぞれの部門を介抱せ られた卒業生 ,在学生の牌係学 究諸 兄姉の欣 ひけ , さぞか し多大を ものがあ ることと心か ら祝福 申 し上げ る次菜 でござvlます。
また ,主宰せ られた社会科教皇の話 先生にxl L ,潔 く感謝 と敬音 を表 し ,同時に この有音鼓 を卒業 を遂行せ られた満濃 など企画 と弟 往な推進力を称える ものであ
b
ます。昭和4 5年 8月
調
官 肌二昭
明村
虫米
橋 本 玲 子
国 分 寛 仁
小 野 利 朗
中 山 博 覧
浅 野 缶 子
沼 本 範 子
川
井 和 子谷 原 博 莫
大 西 一 成
岡 田 束 由 美
栗 原 健 一
岡
本 正 志査 参
加者
背
進作東古
田下
浜山
三 浦 道 三 郎
高 橋 達 郎
在 間 宣 久
森 山 伸 一 三 宅 和 一
柳
本弘
道 小 野 vl く 江相 沢 一 正 渡 辺 康 人
竹 中 徹 成 清 伸 子
藤 井 敏 文 横
川
直 季遠 藤 省 三 菅 田 徹
杉 本 あ け み 井 上 陽 子
庵 谷 多 恵 子 小 林 典 子
安 原 啓 子 山 本 恵 子
曳 野 常 吉 井 木 信 子
中 村 散 開
野
茂 ‑(執輩版 )
は し が き
発 刊に よせ て (一宮町長)
第
1茸
一宮町の沿革 と現況 1 位僅 ・地勢 ・広ほ う Z 一宮町の沿革5 現 況
吹
第 2牽 自 然 環 境
1 花 尉岩の山地 と砂僚屑の丘陵 ̲̲̲̲… ー̲一一 2 対照的
を 砂
川 と中川 ̲
̲‑
̲̲̲" ̲̲̲̲̲I̲5 沖研平 野
4 湛水す る平野 と治山 .冶水間飽 5 岡山地方の気候
第 5 牽 人 口 と集落 1 人 口柄成 とその変動
2 集落の形態 ・立地条件 と発展 5 住宅団地の形成 と発展 ・‑‑ ‑
1 1 2 5 9 9 18 28 5占 51 59 59 78 87 第 4葦 古代 ・中世 の一宮 = 一一一‑‑‑ ‑‑ ‑一一一一1一一一一一‑ I.‑‑‑‑‑ ‑ ‑‑ 一一 105 1 古代 ・中世の国司 ・守鞍支配 と戦国の争乱 ‑‑ ‑‑ 一一一‑‑‑‑‑I‑‑‑ ‑ ‑‑ ‑‑‑105 2 一 宮における条里 一一一‑ ‑一一‑‑‑ I‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑1日 一日 ‑一一一一一‑‑‑‑ ‑‑‑10d S 古代 ・中世の山陽道 ‑ 一一‑ ‑一一一一一一一‑ 一一‑‑ ‑‑‑‑ ‑一一‑ ‑‑ ‑I‑‑‑ 1114 4 古代 ・中世の備前一宮社 ‑‑‑‑‑ ‑‑ ‑ 一一一‑ ‑‑一一一一一一一一日 ‑‑ 一一一一1‑‑117 5 重源 と常行堂 一一一‑ ‑‑ ‑一一‑‑‑‑一一一 ‑ ‑ ‑‑‑‑‑‑ ‑‑‑ ‑一一‑‑ ‑‑‑‑I‑119 第 5章 近世の一宮 一日 一一‑‑‑‑ ‑‑ 一一 ‑ ‑‑ ‑ 一一‑一一‑ ‑ 小 一‑ ‑‑‑‑一一‑‑122 1 村方支配の稀 蓋 ‑ ‑ ‑‑ 一日 ‑‑‑‑‑一一一‑一一一一一 一一‑‑‑‑‑‑ ‑ 一一一‑‑一一一122 2 集村の経済構造 一一一一一一一一‑ 一一一一一‑‑ ‑ ‑ ‑一一一一一一一‑‑一一一一一一‑ 一一一一一124 3 水 論 一一一‑ ‑‑‑‑‑‑ ‑ ‑ 一一‑‑・‑‑一一一‑一一‑I‑‑ll‑‑‑日 ‑‑一一一一一1‑・155 4 備前にかけ る日蓮宗の興亡 一一‑‑‑ ‑‑‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑ 一一‑‑一一‑‑一一一一日 一一‑・142 5 一宮社 と岡山藩 ‑I‑‑‑‑‑一一一一‑一一一‑ 一一一一一一日 1‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑ 1 45 8 山陽道 と‑冒 .一一1‑‑‑‑‑‑ ‑‑‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑1一一一‑一一日 ‑一一‑‑‑‑一一‑ ・146 7 備前 ・備 中国境問題 lH ‑‑ ‑‑‑‑‑一一一一一一一‑‑‑‑‑‑‑ I一l‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑一一・148
第 d 華 近代化への胎動 ・一一‑‑‑一一一一一一日 ‑‑‑‑‑‑I‑ ‑I‑‑ ‑ ‑I‑‑一一一‑‑ 151 1 封建制度の崩壊 ‑̲̲̲一一一一一一一一‑ 一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一‑ 一一一 151 2 新政 に苅す る反発 ̲̲̲‑‑‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑一一一‑ 一一‑ ‑ ‑‑‑ ‑‑ 155 5 地方 自治の新展開 .̲̲‑I‑‑‑‑A‑‑‑‑‑ ‑ ‑‑‑ ‑‑ 一一‑1‑‑‑I‑‑‑‑‑‑ 154 4 教育 制度の近代化 一・‑一日 一一一一‑‑‑‑一一一一一一一‑一一一‑一一一‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑ 158 5 産業 .鍾済 の近代化 ‑‑ ‑‑‑‑‑ ‑‑ ‑ ‑‑‑1一一一一一一1‑‑‑‑‑一一一一‑‑‑ 159 第 7蕃 一宮 の経済的造 = 一一一一‑‑ I‑ 一一一一一一一一‑‑ ‑‑一一一一一1‑‑‑I‑ 1dl l 盛業の発展 11‑‑‑日 ‑‑ ‑‑ ‑ 一一日 ‑一一一‑ ‑‑‑ ‑ ‑‑‑‑ ‑‑ ‑ ‑ 1dl
(1) 地業技術 と生産力の発展 ・‑‑‑一一一‑‑‑‑‑‑‑= 一一‑‑ 一一1‑‑‑‑‑I‑‑‑‑1日 (2)盛業^ ロと労働 力の構造変化 ‑一一一一1‑I‑I‑‑‑‑ ‑ ‑ ‑‑一一‑ 一一日 ‑ 181 (3)如 拙 の変動 と農民層 の分解 ‑ ‑‑I一一‑ I‑‑日 1‑‑‑‑日 ‑‑‑ ‑::‑186 2 虚業柵進 一‑‑ ‑‑ ‑一一日 1‑‑I‑日 ‑1‑‑‑‑I‑‑ ‑‑‑‑‑‑‑‑ 一一一一∴ ‑198 (1) 果 樹 一一一日 ‑‑‑‑一一‑‑一一一一日 1‑‑‑‑ I‑‑‑‑一一‑ ‑ 一一‑‑‑一一日 198 (2)V, 孝 一‑‑I‑‑‑‑‑ ‑ ‑I‑‑ 一一一一‑ ‑ ‑ ‑‑‑ ‑ ‑ ‑‑‑‑‑小 目 1 218 (3)輩 籍 ‑‑ I‑‑I‑‑‑ ‑‑‑I‑‑‑‑‑‑‑ H lH 一一日 ‑ ‑‑ ‑ ‑‑‑ ‑‑22占 (4)煎
出
‑‑ 一一一‑一一‑I‑‑‑‑‑‑ ‑‑‑‑‑ ‑ ‑ ‑‑‑一一一一日 ‑ ‑ 一一日 251 5 入金林野の解体 と林野の所有 ・利用形態 ・一一一‑‑‑‑ ‑‑ ‑ ‑‑‑‑ ‑I‑‑ ‑ 241 (1) 入会林野 一一‑‑‑一一一一一日 ‑‑‑‑‑‑‑一一‑ ‑ = ‑‑‑‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑‑‑241 (2)帝政時代の入会林野 一一一一‑ ‑‑ ‑‑ ‑ ‑ 一一日 一一一一一日 ‑ 一一一一一一一 242 (3)明治以 後にかける入会林野の解体週番 ‑一一一‑‑ ‑一一一‑ ‑‑ ‑‑ ‑ ‑ ‑ ‑245 (4)部落 におけ る入会林野の動向 一一日 一一‑‑‑‑‑‑‑ ‑一一一一一‑ ‑一一一一‑ 一一249 (5)一 宮町 にかける林野所有形 態 と利 用形態 一一‑‑ ‑一一‑ ‑ ‑‑‑ ‑ ‑‑ 一一252 4 鉱 ・工業 一一‑I‑‑ ‑‑‑‑一一‑‑ 一一一‑ ‑‑‑‑‑ ‑‑‑ ‑‑ ‑ ‑ ‑ ‑‑‑ 25占 (1)一宮町にかける工業の特色 と推移 ‑‑‑‑‑‑‑‑一一一一一‑ 一一‑ 一一一一一一一一・25占 (2)大 窪 石 一一‑‑‑‑‑‑‑ ‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑ ‑ 一日 ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ 一一‑ 2占5 5 商 業 一一日 一一日 ‑‑一一‑ 一一‑ 一一‑ 一 一‑‑ 一一一‑ ‑一一‑‑ ‑ ‑‑12日(1)商業の推移 と現況 一一‑‑一一一一一一一‑‑‑‑ ‑‑‑‑一一‑‑ 一一一‑‑ 一一日 ‑‑ ‑2=
(2)一宮町のサ ー ビスエ リヤ ー一一一1‑‑‑‑‑一一一一一一一一‑ ‑‑ ‑ 一一‑ ‑ ‑ ‑27占 (3)商工会の活動 一一一一一一一‑一一一一一一一 一一一‑‑ ‑一一日 一一一‑ ‑ 一日 一一一290 6 交通 .通信 一一一一一一一一一一一一一一日 一一一一一‑‑ I‑‑ ‑‑ 日 ‑I‑ ‑‑一一‑‑294 (1) 吉備線開通 と一 宮 一一‑一一一1‑ ‑I‑‑‑‑‑‑‑日 一一‑一一‑‑ ‑一一‑一一日 一一294 (2)道路交通 と開発 ・・‑‑ ‑‑ H M ‑‑‑‑‑ ‑‑ 一一一1‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑ ‑‑ 一一 298 (3)郵便 ・岨倍 ・'題話 と一宮 ‑ ‑‑ ‑‑ 一一‑‑‑ ‑ ‑ 一一‑ ‑ ‑ ‑‑ ‑ ‑一一500 第 8 車 社 会 構 造 ‑一一一一一‑‑‑ ‑ 一一‑ ‑‑ ‑‑‑ ‑ ‑ ‑‑ ‑‑ ‑ 一一一一‑302
1 調
査 地横尾の概況 一一一‑ ‑‑ ‑ 一一‑‑‑ ‑‑I‑‑‑‑‑ ‑ ‑ ‑‑‑‑‑ ‑ I‑‑3022 家 族 一一‑ ‑‑‑ ‑一一一‑一一一一一‑‑ 一一‑ 一一一一一日 ‑‑‑ ‑‑‑‑‑‑‑‑ ‑‑‑524 (1) 家族構成 ‑1‑‑ ‑‑‑I‑ ‑ ‑ ‑ ‑‑‑ ‑‑‥ 一日 一一日 ‑‑‑ ‑‑小 一‑‑ 一一一‑524 (2)家族の役割分担 ・一一一一一一一‑‑ ‑‑‑‑ ‑‑‑‑一一‑‑ ‑‑‑ ‑ ‑ ‑‑‑ ‑ 一一一一550 (3)家族の権威柵造 一一一一一一一‑小 目 ‑‑ 一一一一‑‑一一一一‑ ‑‑一一‑ = ‑ ‑ ‑‑ ‑540 (4)老^ ・扶蕃問題 ‑‑一一一‑ 一一一日 ‑‑‑一一一一‑‑‑一一‑ 一‑ ‑ ‑‑‑‑ll‑ ‑‑‑‑544 5 同族 と親族 ・‑‑‑ ‑‑I‑ ‑‑ ‑ ‑ ‑‑‑‑ ‑ 一一‑‑‑ ‑ ‑ ‑ ‑‑‑ H H 一一一552 (1) 同 族 ‑ ‑‑ ‑‑‑‑ ‑‑‑‑‑‑一一一‑‑‑= ‑‑‑ 一日 一一一一‑ ‑ ‑ 一一‑‑1 552 (2)親族の範囲 と分布 日 日 一一一‑ 一一一一‑‑‑‑‑‑‑‑ ‑ 一一‑ ‑一一‑ ‑‑ ‑‑ 一一559 4 機能集 団 一一一日 一一一一一一一一一一‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑一一‑‑ ‑ 一一一一一‑‑‑一一一一一一一一 5占2 (1)虚某協同組合 ‑I‑‑‑‑ ‥ ‑‑‑‑‑ 一一‑ 一一‑‑一一一一一一一一一‑‑‑ ‑‑ ‑‑ 一一一‑3占2 (2)生産 者 団体 ・一一‑‑ ‑‑ 一一一‑‑ ‑‑I‑‑‑‑ ‑‑ ‑ ‑‑ ‑‑ ‑‑1‥ ‑ ‑ 一一‑3占9 (3)一宮町 締^脇帝金 目 ‑‑ ‑一一一一一一‑ ‑ 一一‑‑一一‑ ‑‑ ‑ ‥ 一一‑ 一一一一‑ 574 第 9 章 宗 教 と民 俗 ‑‑‑一一一一一一日 ‑‑ 一一‑‑‑‑一一‑ ‑ ‑‑‑ ‑‑‑ ‑ 一一‑ ‑‑ 577 1 社 寺 ‑‑ 一一‑一一一‑‑‑‑ ‑ I‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑ ‑ ‑‑‑一一一‑‑‑一一一‑‑ ‑ ‑577 2 年中行革 一一一‑= ‑ 一一一一1‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑一日 ‑一一一一一‑‑H I一一一一一日 ‑591 5 民 家 ‑ 一一一一一一‑‑一一‑‑ 一一一一1‑‑‑ ‑‑‑ ‑ ‑‑‑ 一一‑一一一‑一日 一一 597 第 10牽 教 育 一日 一一一‑‑ 一一日 ‑‑ ‑〜‑ 一一‑‑ 一一一‑ ‑ 一一一‑ ‑ ‑一一一1‑405 1 学校教 育 一一一一一一‑ 一一一一一一一一‑ ‑ ‑‑‑‑‑‑ ‑ 一一一一1‑‑‑‑‑‑一一一一‑ ‑ 405 2 社会教育 = ‑一一‑ 一一一一1‑‑‑‑‑‑ ‑ ‑‑‑‑‑‑‑ ‑‑‑ ‑‑‑‑‑一一一一‑ 一一‑‑418 第1 1葦 将来‑の展望 一一一日 1‑‑‑‑‑‑ ‑一一一‑ 一一一一一一一一一一一一一一一‑‑I‑‑‑‑‑‑‑‑451 1 一宮町の今 昔 一一‑I‑ ‑‑ ‑ ‑‑‑‑‑‑ ‑ り ーり ー一一一‑1‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑ ‑日 451 2 住宅地域 としての条件 一一‑‑ ‑ 一一一‑‑ ‑I‑‑‑‑‑ ‑‑ I‑‑‑‑‑‑ ‑ ‑‑ ‑日 1452 5 文化的住宅地域 としての柵憩 1‑‑‑‑‑‑‑ ‑‑‑‑ ‑一日 ‑‑‑ 一一一一一一一‑ ‑ ‑ I‑454 4 観光地の一環 と して ・一一一一‑I‑‑‑ ‑‑‑‑‑‑ ‑ ‑ ‑ 一一一‑‑‑‑ ‑ ‑ 45占 5 ま と め ‑ ‑I‑‑‑‑‑I‑‑I‑I‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑ 一一一 一日 ‑ ‑‑‑‑‑ ‑457
あ と が き ‑ 一一一一‑‑ ‑‑‑‑ H H ‑‑‑ ‑‑‑‑ ‑‑ ‑ … ‑‑I‑ ‑ 一日 458
第 一 章 ‑・宮 町 の 沿 革 と 現 況
1 位 置 。地 勢 ・広 ほ う
一宮町は .昭和5 0年(19 5 5 )1月1日に御帝都‑ 宮村 ・馬屋下村お よび平津村 の 5ケ村 が 合併 して現 在の行政単位 と在 ったO この町 は備 前国‑宮吉備津 守神社の門前町か ら発 達した商業的 集落 と .水田耕 作に加 えて近年果 樹 ・園芸 ・野菜栽培が著 しくな った盛業集落 とよ り構成 され る。
岡山市に隣接す る位置 から .近年岡山市の ベ ッ ドタウンとしての性格 が淡 く在 り ,住宅団地の形成 をみ .人 口急増の状勢 を示 し .町勢発展の遠 にあ り .現在近解町村 とともに岡山市 との合併 が推進 されている。
‖) 位 置
一宮町は岡山県 中南部に位置 し .吉備 高原 と岡山平野 の境IKあた り ,東径15 505 0 15 5 a
‑ 15505 4 t2 9■,北棟 5 405 9 ‑5 5 ‑‑ 5 4045 ●50■の間にある。東お よび北 部は 御津郡津高町に .西部は 昔備郡足守町お よび福松町 に .西南部は者薩 郡吉備町 ,東南部は岡山市に 接 していて .市の中心街 か ら約8Kmの距離 にある.
(2)地 勢
一宮町は南北に長 く東西に短い形をしてお り ,筒が狭 く北 にい く忙 したが って広 く在 ってV,ち.
また高度的には北が高 く雨に下 るほ と低 くた って
か
p ,市部 は岡 山平 野に接続 している。北にい く ほ ど吉備 高原 の延長的性格が 明瞭にあ らわれているのであるが .西北部の横尾の あた りはその よい 例である。一宮町は西部の高い山地 と東部の低い丘陵 とが好対照 をた してお り .当町の地形的特 色 の‑ つとvlえ よう。 山岳では北部の葛原 山505・97ZL・高滑水山250m・妙見山2967n・稲荷 山奥 の院 として有名な長野電王 山29 4m,西部の三光 山18 2・5,n・大平 山19 17n.名越 山15 5mなどがあ るが ,東部には高 くて10 0,TL前後の山 しかみ られないOまた南部には老 松の う っそ うとして風致に肯んだ吉備 中山175,0,花があ 9 ,その山旅には吉備津香神社が銃 座してい る。
西部が比軟的急峻 な山地で参るのに対 して‑東一部 が低 くなだ らかで波浪状の山地であるのは .そ の地 質の相違VC起因す るものと 考 え ら れ るo す なわち捜ほ 中川 を境 として中部か ら西部 ・北西部 の 大部分は花 樹岩地域であ り ,東部は砂凍 膚 (いわゆる山砂利 屈 )がかな り広 く分布 しているので あ る。花 尚岩地域では谷が無 く .また山鹿の⊥部が畑 とな って いるにす ぎないが .谷 あいの水田は か な り広い面桁 を呈 してい る.砂川はその源を浄蒜町 白応寺に発し .阿倍倉 を経て樺尾池 で狼谷 から て る渓流 をあわせて長野 .神谷 を経 て商流 してい る。長野 付近までは1m以上の巨溌 (岩 塊 )が至 る所にみ られ る.八大竜王の御滝 付近に遵急点があるが .このあた りは絶景である。長野 より下流 では喋 LjC代わ って砂がみ られ るようにな り ,平野部に至り天井川 の性質 をしだいに帯びて くる○そ して 下流部にお いては洪水時以外は伏流 水とな って河床面には流 水viみ られな くな ってV'る。また 東部の砂疎屈地域 では山の上まで開生 され ,果樹 ・野菜 たどが栽培 されている. この地域 の谷は洩
‑ 1‑
く皿状 であ り .中川が耽れてい るo 刊
I I
Vi滑水 を水源 に した渓流 と津 高町 古書 を水源 にした藻流 が 山田 .古弛 S:経 て落合で東 新粕川 と合流 し .芳賀お よび松尾 の耕地 を潤 しな が ら今 岡へ流 れ ているo 中川 も砂川 と同様に天井 川であ り .しば しば洪 水に悩ま されて いるO砂川 ・中川のほ かVE規模 は小 さいが用水路 的性格の強い西川 が ある。これ らの河川はいず れ も笹 ケ瀬川 に合流 して児島湖 に注 ぎ 込ん でい る.また櫓醇の山地の大部 分 と吉備 中山の大 部分 ・西芋川 の北側の山地の一部は古生層 の 地域 で .中南部の低地 か ら北 方 の山地 を刻み込んでいる谷 VCかけ ては沖 所属が分布 してい る.(3) 広 ほ う
表 1‑ 1‑ 1 ‑宮町 の広ほ う
東西 占.15Km 南北 8.7 5Km 面q( S 29.4.1 一 宮 町 dj 5 5h2
馬屋下村 15.9 5 5KmZ 平 津 村 5.8 15馳3
S50.1.1 28,5 1KE]2
地 目別 面横 (固定喪産税 の対象 とな るもの )
山 林 7 占 7 5 Da 宅 地 9 1 8 1 8 4n' EE1 2 450 d a 畑 2 45 0d a 地 目別面横は .昭和45年刊 岡山県市町村勢要覧 に よる0
2 ‑ 宮 町 の 沿 革
(i) 略 史
この地は見壕 が残存 してい ることか ら知 られ るように ,縄 文時 代には海 が湾入 していた らしいO 磯 ケ部 ・大窪 ・汐土手 ・汐見橋 。櫓津 ・山崎 等の地名はその逝 名で はない か と推察され るOまた吉 備 の中部に位健 していて .吉備 文 化の発祥の地 とな り ,昔備津彦 命の御統 征以来 産菓文化が発遷 し , 交通 も頻軒で あ ったOそのことは古墳 の存 在 か らも知 ることがで き .また当時の遺 物 と認 め られ る
ものが発見 音TLてい る
O
豊亀元年 (7 1 5)備前 国粋高郡馬屋郷 に属 してい たので あるが ,,喝息の 輝 名は辛川市場 に津 高駅 が但 かれたのでその駅家 (まや )に起因 す るといわれ る。奈良時代か ら室町時代の末頃 までは ,町の 中央 を東西 に通 じてV,た山陽道 の辛川の宿 として栄え てV,た.そして多 くの寺院 があ った と考 え られ ,その追跡 が現在確 認 されてV'る。i た源平 ・南北 朝 ・戦 国時代には 戦場 と もな ったO鳴谷Jr施 跡 な ど歴 史的 に も有 名女 史餌がみ られ る。
江 戸時代には 岡山薄 の所領 とな り .藩主池 田公 VCよ りこの地に馬市が開 かれ .遠 くは奥州 か らも 参集す るほ どに栄えていた と言 われ .現在市場の地 名が存在す るのはその た E:りであ ると考え られ る。
明治 絶新 に至 り .町村制が施行 され .明治22年( 18 8 9 )尾上 ・一 宮 ・西辛川 ・辛川市 場の 4ケ村が 合併 して一宮村に ,大窪 .松尾 ・芳賀 ・福谷 ・長 野 ・横尾 の 占ケ村 が合併 して馬屋下村に,
‑ 2‑
今岡 ●佐山 ・山崎 ・櫓津 ・首部の5ケ村が合併 して平静村 とな ったo以来 これら三 村は共に発展 し てきたので .昭和29年(1954)4月に合併 の敦 が起 り .同50年(1955 )1月1日 .上 記5ケ村が合併 して一 宮町が発足 した. そして一宮町は岡山市 の郊外住宅地 としての地 理的好条件 のため人 口増加 をみ .それVC伴 V,住宅団地の開発や交通の兼備 が なされ .産業 も発展 をとげ ているO そ して現在では岡山市 と生活圏 や続 開 をひとつに してvlると考え られ .昭和40年( 19占5 )
10月の岡山市お よび周辺 町村広域行政連絡会譲が結成 されて以来 ,同市‑ の合併が 推進され .そ の合併が成立す るの も間近に追 ってい る。
(2) 一 宮 町 の 成 立
前述の通 り一宮町は 昭和50年1月1日 .一 宮村 ・席屋下村 ・平津村 が合併 して発足 した もので ある
。
「一宮町合併話」に よると .合併の理 由 ・経過はあ らま し次のよ うであ るO(a)合併 を必要とした理 由
一 宮村 ・馬屋下村お よび平 津村は地理的VC舛凄 し ,人情 ・風俗 ・習慣お よび生活状態 などを同 じ くLてお り .特に これ ら鞠係村は小学校 ・中学校 VC関す る教育委員会 を一部事務組合 を組織 Lて 共同設置 し .中山中学校 を共同管理 し .なか金川 高等学校親合 (定時制 )を組級す る関係村であ り, 金川高校 御南分校 中山校舎 を共 同で管理してV,る現状7kどな考慮 し.この際規模 を大 きくして強力 な地方 自治体制 を確立 L ,住民福 祉の増進 を図ろ うとす るもの であ る .と御津郡合併 申請苛に記 事 れてvlるC,
(I))合 併 に 関 す る 交 渉 経 過 の 概 要
昭和28年(1955 )7月8日 ,岡山地方 事務所の指導に よ り .関係5ケ村の村長 (一 宮村 長草野 八郎氏 ・馬屋下村長岸静 夫氏 ・平津村長丹原倍氏 )お よび蕎長の合同協議を発端とし,5ケ村合 同の委員会 を設 けるとともに .一方先進合併町村の視察 ・村 内各球団体幹部お よび学取経験 者 との 協議会 ・部落懇談 会等 を開催 し .鋭意研究 をすすめつつあ ったか ,当地方は岡山市に舛接す るため 住 民の間に岡山市‑の綱 人 を希盤す るものがあ り ,5ケ村合併 問題の表面化に伴い俄然その要望が 高ま り ,ついに平 津村 におV,ては同年11月未 .一宮 ・馬屋 下両村 においこ(i昭和29年(1954)
2月1.日 .いずれ も岡山市 に対 し正式に解人 の 申し入れを行 な うに至 ったO LかL同年 5月開会の 市議会 において編入 見送 られ るに至 り .同年4月1 2日さ らに幽係 5ケ村の村長 ・議長 の合同協議 の結果 5ケ村合併 の線に もどり .委員会 を継続す ることとな り .5月 5日開会の第4回委負会にお いて一宮村 ・馬屋下杓お よび平 津村合併促進協憩会を結成す る ことに決 定し .5月8日第1回合併 促進協議会を開催 し .具体的協議 に入 ることにな ったo Lかし5月15日急に岡山市購入問題 が再 燃し ,翌 14日開催の第2回合併促進 協議会において笹藩の結果 .再度岡山市へ解人の陳情 を行な うこととな り .5ケ村合併問題 の上に‑頓挫 を来たす忙至 った。 LかL岡山市編入問題 も5月下旬 開会の市蛮会にかV,て再び見送 りとな ったため .6月4日第 5回合併促進協議会 を開催 し ,以来合 併の気運醸成に努 め .9月15日開催の第5回合併促進協訣 会において5ケ村の意見 が完全 に‑致
し ,合併条件協定等並びVC申合事項 を蒋場 一致決詠 ナる忙至 ったO 次に .合併条件協定審お よび 申合事項 を記す ことにす る0
‑ 3一・・
o 合 併 条 件 協 定 啓
1. 形 式 対等合併 2. 新町の名称
岡山県御津郡一宮町 5, 役場 の位懸
一宮駅付近 とす る.ただし庁舎新薬までは硯 一宮村役場 とす る.
4. 義貞の選挙区その区画お よび各 藩挙区に配 当すべ き観員定数 地方 自治法第9 1条第 1項の定数に よるO
‑宮町議会議員 の最初 に行なわれる選挙は 次の選挙区お よび議負数に よるもの とす る.
第1選挙区 (現一宮村の区域 ) 9人 第2選挙 区 (現馬屋下村の区域 ) 7人 第5選挙区 (硯平津村の区域 ) 占人 5. 助役 の定数 一人 とす る。
d
. 失職者 の処置助役以下職 月 はすべて新 町へ引 き継 (◆もの とす る。
7
, 財産 .営造物 お よび負債 の帰属処 分財産 ・営造物お よび負債に係 る権利 ・義務 の一切は新町へ引 き継 ぎ .使 用 ・管理お よび処分 に関 しては各 々硯村の慣行に よる ものとす る。
8・ 小学校お よび中学校の通 学区域 当分 現状のまま とす る0 9, 国民健巌保険串薬 の稽債
現馬屋 下村VEおいて施行 Lてい る国民健廉保険事業 は一宮町の内 ,現馬屋 下村の区域に お い
て引 き続 き施行す る ものとす る。
10・ 各 種団体の統合措置
合併後速 か忙統合す るよう勧奨す る もの とす る。
ll. 合併実施の時期 昭和5 0年1月1日 o 申 合 事 項
l・ 5村合併は昭和5 1年 ( 195 6 )を期し ,岡山市へ病人す ることを前提 とす る ものである ことを相互に確
認
し .新町発足後速 か忙その薬硯に最善の努力 を払 うもの とす る。2L 新町発足までに各 村にお V,て榛 力滞納生理 をす る ものとす るC.
5・ 旧村 から新町‑赤字 を引 き継がなV,ことは もちろん ,引 き継 ぎ事業が ある場 合はその財源を 持 ち寄 るものとす る。
4・ 開村諸費は各 々同様に協調 Lて過 大に支 出Lない もの とす る0
‑ 4‑‑・
5・ 新町に対する旧村の尊重蔀項があれば相互に確密す るもの とす る。
占. 合併に より退職す る職員がある場合は特別手 当を支払 うもの とす る。
7・ 平 津村大字首部は合併後首部部落 自体の遊動に より ,岡 山市が解人 を認めた敏 合は分離す る ことを承認す るもの とす るO
この ようにして新 し く一宮町が発足 したのであるが新町 名を一宮町 とLたのは .古来備前の国一 宮とLて吉備 津奄神社 を紀 り .広 くその名を知 られてい るため と思われ る。
(3) 関係 5村の概 況
合併以前の 5村の概況は 「岡山県御津郡誌お よび鹿屋 下村酷」 に よると次の ようであ った。
(a)一宮村の概況
一宮村は蛮亀元年 (7 15)塁 5・改 めて郷 と在 った馬屋郷 に属 L .帝政 時代は尾上村 ・一宮村 ・ 芋川 市坂邑 ・西辛川村の1邑 5村で あ ったが ,辛川市場 巨は明治8年( 18 75 )に辛川市場 村に 改称された。明治2 2年 (18 8 9)柵 uが施行され .上記 4村が合併 Lて一宮村 とな り .庵上村 は大字尾上 とな り ,各 々大字一宮 ・大字早川市場 ・大字酉 辛川 とな って一宮町成立まで至 る。昭和
29年( 19 5 4 )4月1日現在の人 口5 752人。
(b).馬屋下村の概況
吉備 津彦 命の御統征以来 .吉備平野⊥帯は巷 政に忠まれていたが
,
特に この村 を中心とす る地 域は褒美文化が発達 L .これに伴 って交通 も頻繁であ ったことが うかがわれ る。銅の柵麻薬はその 著 しい ものであ った。盤亀元年 よ り駅 (まや )席 と称 したO駅 とは宿場 の意味であ る。 この村が交 通の草餅にあた っていたことが察せ られ るOその後文魚 d年 (1 5 9 5)の地方政治組級の変遷 . 明治4年 (18 7 1)の廃藩健 県 ,同1 1年 (18 7 8)の改革後 .明治2 2年大窪村 (旧称大久 保村 )・松 尾村 (松尾 村 ・松尾村内東谷 の合併 Lた もの )・芳 賀村 (滑 水村 ・芳賀村 ・下芳 賀が明 治8年に合併Lた もの )・福 谷村 (磯 ケ部村 ・池谷村が 明治8年 に合併 Lた もの )・長野村 ・横尾 村 が合併 Lて馬屋下村 とな り ,一宮町成立まで量る.昭和2 9年4月1日現在 の人 口27 2 2人 O(C)平津村の概況
この村は 津高郡 馬屋郷に属していたが .藩政時代に妊佐山村 ・東播津村 ・中槍津村 ・酉檎津村 ・ 山崎村 ・今岡村お よび首部村 に分かれていた。明治 1年 7月の廃藩 倍麻に伴い 区制 を菜摘 Lたが , 同1 1年
区制
は廃止 才れたQ 明治2 2年町村制 が施行 ざれ .佐山 ・槍津 ・首部 ・山崎お よび今岡のヽ5ケ村 が合併 子れ津高郡平 津村 とな った。同55年 (190 0)御津郡 とな り .一 宮町成立まで至 る。昭和2 9年4月1日.現在の人 口24 5 7人0
3 現 況
‖) 概 況
まず人 口に関しては ,昭和4 0年( 19占 5 ) 1 0月1日には89 0 4人 ・世帯数2 0 80戸で あ ったが,45年( 19 6 8 )5月5 1日には 10 5 42人・ 25 5 5戸とな り .さらに4 5年
( 197 0 )5月25日現在には1158 4人・2 9 19戸 と近年急増 の途VEあるo また産業別人
‑ 5‑
口梯成では昭和40年 1月現在 .総就業人 口4 89 7人 ,第一次産業2 24占人で4 6LO帝 ,第二 次産業 88 0人で1aO飾 ,第三 次産英 17 5 5人 で5519%とな ってお り ,生産所得 の面では各 々27 0 00万円で21.5啓,4 700万円5 8飾,9 5 60口万 円74・7車で ,計12 5 500 万円とな っているC (数字は一 宮町役場調べ と岡山県市町村勢要覧 昭和45年刊に よる )
(2)産業の現況 (a) 第 一次産業
‑官町の姓薬は .岡山県艶薬の縮図 とい った感 じで ,南部 は米 ・麦の他 蘭茸を生産 し .中北部 は米 ・蒙の他果樹園芸が盛んであるCまた平坦部 には疏菜 園芸があ り .促成栽培が盛んである。昭 和40年現在の曲家数は12 14戸 ,趨薬就業人口は25 47人 ,土地経営面概は .田 5 25,1ha・ 果描闇 1551ha ・畑8 0.8h aで .7 59.Oh aとなってお り ,一戸当 り6 0.9aで あるo蘭草 は良男で .僻にその赴晶である尾上産の中継表Vi高鞍 畳表 とLて広 く知 られているOまた マス カ ッ
ト・コール マン ・桃などの解産物の生産 に恵まれ .温 垂ぶ ど うは県下有数 の主産地である.加温 マ スカ ッ トは年末 頃か ら火入れをされ .5月下旬 から出荷 され .東京 や京阪神の市場へ 出荷 手れてい る。
また局部的ではあるが .東南苦随・よび北部では 酪姓薬が行 なわれ .昭和45年現在酪出家40戸, 乳牛25 0頭 を数 え ,一宮町曲協の経営の下に牛乳処理場 を設け ,町外 からの集乳 とあわせて市乳
として処理 されてい るo
林薬は衰退 してほ とんど行なわれていない.なか昭和4 0年 の保 有山林面桁vj:6 5 5haである。
(b) 第二 次産業
昭和4 1年( 19 日 )現在 ,一宮町 内の番務所は鉱業6・建設業15 ・灘造築 5 2で ,従業 者は各 々25人・占6人・5 5 8人でvlずれ も中小企業 に属するo鉱業 は石材関係 であ って ,大窪 お よび長野方面に採石場があ り .大盤石 として知 られ主 として建築 用石材 を産出L .特産 品 として ク レ‑粉場に使用す るフL/ットを送 り出してい るO避退造其 の内 ,食料品業 が35・5帝 ・金属触造薬
2 4・2虜 .鉄鋼業?.1解を占めている.
(C)第三 次産英
一宮町は .前述の ように岡山市のベ ッ ドタウンとして の性格か ら ,同市方面‑の通勤率は5 1 頭 (昭和4 4年1 0月1日現 在 )と高 く .商品の購入率 も8割 を占めてV'る。商業 はほ とんど小売 商で1 10余戸で あるが ,地域 の発展に伴い漸増の状勢に あ る。また一宮町は医療機 関に も恵まれ 内科3・外科 1・歯科 1・眼科 1があるo
(3)産 兼 基 盤
交通運搬は一澱 に便 利で ,主 要常道 としては町 の平坦 地帯 を東西に走 る国道 1 80号線があ り . 6線の県道が縦横 に通 じてお り ,子らにその糊を縫 って主賓町道が あるo鉄道 は国鉄吉備 棟が通過 し ,備前 一宮駅がある。
一 占‑
また丘便地帯か ら舌僻高原に至る地域の 自然緑地は .周辺 に散在 Lてい る史餌 ・文化財な どと ともに観光・レク リエーソ'ソ開発の戦痕 として恵まれてい る。 田畑の用水は ,旭川の用水 を引 用 し ,中北部地帯は油池に依存 してか 9 ,一般 に水虫豊富 であ ってほ とん ど早等 のおそれはなho
(4) 生 活 基 盤
教育施設 としては 中学校 1・小学校5・幼稚 園 3があ り ,社 会福 祉施設 として保育所1・児童 館 がある。また小 中学校 には いずれ もプール を備えて V,右。上 水道は昭和5 6年町 内ほ とん ど全 域に布設 され ,現在 も拡張=事が進め られ てVlるoまた町 内通倍連絡機関 として有線放送現蕗 が
あ り .町民か ら非常に重宝が られてい る。
し尿処理については ,収典 方法は全部 民営VC振 って卦 り .収集率が8 4帝であ る。
また町民の文化の度は比叡的高 く ,テ レビ普及の 当初にお いては県下第一位の普及率 を示 Lた ほ どである。
(5) 一 宮 町 の 観 光
一宮町は 自然 の眺望 がすば らしvl上 に .幾多の史掛に恵まれてV,るOその代襲的夜 もの を次に 記 してみ よう。
(a) 吉 備 津 菅 神 社
吉備 中山の
寮
健 に位思 してお り ,吉備 国総額の銀 所 として古 くか ら噂 崇されてい るO 日蓮宗勧請のことか ら金川城主松 田氏に焼 き打 ちされたが .元禄1 0年( 1占9 7 )池田飼 政の 造営 にかかった。櫓 皮茸 の代表的な備前 の神社建轟 で三間社流 れ造 りの伝統 を伝え .白木造 りの 質素 で格調高い本邦まれの優雅な ものである。拝殿 ・汲殿 ・祭文 殿等は 昭和1 1年 国費で もって 改築 された もので近代神 社建築 の粋といわれている。境 内の大石燈屯 は安政6年 (18 5 9)痩 立 された ものであ り .高さ1 27n余 ,笠石の広子 8畳 とvlう明神造 りで全Ejjiに稀夜 ものである。また毎年10月22日か ら1 1月7Elまで奉納菊花大会が盛大に開催 され るO (b)御田柏祭 と御 幡行串
各 年8月2日と 5日に書備津彦神社で行 なわれてVlる。御田植祭は桃 太郎 (舌傭 津 彦爵 )の 鬼征伐にち女人だ ものと伝え られ ,貞盛哀 民俗獲勅である。
(C)鳴谷井姐 跡
天正10年( 1 58 2 )秀吉の高松城 水攻の言い のせ き止め跡がある。長野川 (鳴谷川 )は 難工 giiで水奉行が 背任 を負い切腹 した とい う悲話が裁 って いる。 また鳴谷峡は
仙
境で竹 沢 のせせ らぐ渓谷美がす ぐれてい る。近 くには稲荷 山奥 の院な どが ある。‑ 7‑
(a̲) 茶臼山御陵
大 吉備津琴 余の御釜で吉備 中山 の山頂にあ り .⊥面芝生 の地で岡山市街 ・瀬 戸内海 を一望の中 に眺め られるO
(a) 車山 (ぎ りぎ りやま )古墳
尾 上の南端IKあ って古墳前期 に属 し ,見事夜前方後円墳 で美 Lv,I/ル エ ツ トを作 ってV,るO (ど)石 舟 古 墳
尾上 .吉備 中山Rt帝の山腹にあるo穴 の中VC石棺があ り ,たえず油 水 をたたえてい Z,Oこの石 棺の墓石は備前一宮駅前 に展 示革れてV,るO
(g)そ の 他
辛川市場の小丸 山古拙 ・天神山古墳 ,上芳賀の里人 ヤコがキサ イ (市川喜左術門 )の益 ,辛川 の古軸 ,西芋川大党寺石塔 ,報恩大師産Bi.の井戸 など上げれば多数 あ るO
(6)岡山市 との合併 問題 と地区開発
岡山市に隣接 した西 ・北部町村は社会経済 関係 ,行政的な緋題 ,開発進 展の方向な ど行政の一体 的な運営 を要請す る要因 を多 く抱 えてい るので ,一 宮町お よび周辺町村 と岡山市 の間に合併が推進 されてい るo
昭和4 5年4月2日連 出の岡山市 との合併 推進決議 を以下 に記す。
o 凍 案 理 由
東漸 戸圏の中核 として発展 しつつ ある岡山市との合併構想は正に時代の普請で あると思考 さる るにつ き,この際 本町議会 の意志決 定を願 うため本決議案 を提 出する。
o 岡山市との合併 推進vc関す る決議
岡山市 を中心 とす る岡LrL都市圏城 は .所産峯都 市の指定以来全 国的 な開発拠点 として注 目をあ ぴつつ あるが .子らに東湖 戸圏の中核 として新全総 時代を象徴す る福祉 と市建設 の共謀 を図 るべ き 時期 を迎 えてV,ち.この ような時代の流れの中でわが一宮町は岡山市た ちびに近隣 町村 と相協力 し て町繁の福祉増進 と産策発展VC努力 して きた ところであるが .生活交流 ,行政交流等の実態 な らび に将来 を展望 し ,予測 され る急散 在都市化と地域 開発 が もた らす行政需要の増大お よび最近にかけ る岡山市な らびに近隣 町村 との急速 な一体性の高ま りにかんがみ .かつ岡山市が長期的総合的な福 祉都市建設構想 を樹立す るに当 って .近隣 町村 との一体化を強 く要請 してvIZ'現実 か ら .今こそ
10 0年 の大計に立 って近隣町村 とともに遊 んで新 Lv,大岡 LLl市の一発 を担い大 き く飛 野を図 る好 機であ り ,またそれが束に町 民の生 活安 定 と福祉向上 をぬ か るための最良の方途で あ ることを確信 す る。 よって ,町 民の理解 と協力 を得つつ近隣 町村 とともVE岡山市との合併を推進すべ き旨決議す る。
以上のことか らもわかる ように一宮町は .岡山 市と合併す るこ とに ょって住 民の福祉向上 を期L てV'るO また道路網 の整備 ・有線放送設備 ・上 水道の施設 ・教育施設の建設整備 ・住宅 団地の誘致 . 吉備 高原総 合開拓 パイロ ット職 ・湛 水防除職 などの大宙薬 が完成 または進捗 しているo
( 桁 本 玲 子 )
‑ 8̲
第 2 葦 自 然 環 境
1 花 梅 岩 の 山 地 と 砂 味 届 の 丘 陵
槍醇の背 山に登 って一宮町 の北方 を連盟す ると ,性は 中川のあた りを境 として ,午)I以 西の山地 と中川以東の山地 とでは一見 してその山容 を具にす るととがわ かる.す なわち中)r以 西の山地 はか な り急峻夜山 々が峰 をつ らねてお 9 ,それVE対 して中川以東の山地は ,山地とい )よ り丘陵 とvlっ た方が適切 と思われるほ ど低いなだ らか夜山地がほほ南北 につ ちか ,てい る。
写真2‑ 1‑1 なだ らかに遠慮 する砂環層の丘陵
( 芋
川市tBの道路 よb
東方 の砂蹄属地故を遠望 ) 砂棟層地域 は低 くてなだ らかな丘膜 状 を皇 してい ることが よ くわか るO昭和4 5年4月5日 森山伸一撮影
写実 2‑ 1‑ 1を見ると中川以東の山地が低い丘陵状であることがわかるてるろ Do この ような 中川 を攻 とした東西両山地の山容 の差異は .その山地 を耕成 してVlる岩質 と対応す るようである0 回 2‑ 1‑ 2の地文図 に示 した ように .中川以西の大部 分は花 樹岩地域であ り(この地域の花樹岩 は中生代末 か ら第三紀初期に迷入 した もので鼎聾母花尚岩 を主体 とLてvlる ),中川以東 の大部分 は砂篠原地娘である。また秒庶届けL^わゆる 「山砂弄順 」 と呼ばれてV,る もので .花 梅岩 ・石英斑 岩 などの火成岩薪 を主 とし .古 生屈や 中生 fiの砂岩
・
展着を どの各確の唯硬岩や変成岩新 たと も含 めて .多種類の丸ま った様 な含んだ厚 さ赦 10m‑ 1 U0m以上に も及ぶ堆棟周であるO疎 の大 き さは差異があ って一缶には首 えか へが .直 径 1ロ〜 40C允の大 きさの もの も多い.そ して唯壊 し た時代につvlてほ 明瞭で ないが .第三紀後期 一洪現世の ものと考え られてい る.礎 が角が とれ てか た り丸 くな ってvlる ところか ら .退去の参る時代にかなり大規模な河川によって耕 され .唯 耕 さ れた ものと考え られ る。この花 聞岩 と砂礁 屑の両地故の山地は対照的を様相 を皇 しているO先述した ように ,花樹岩 地 峡 の山地は かな り急峻 で谷 も羅いが ,これVC対 して砂俵層の山地はなだ らかな丘陵 で谷 も淡い皿状の 谷であ るOこの ことは 図2‑ 1‑ 3の起伏生国 (5万分の1の地形図vc‑一辺5007W 方限 をかけ・
十方眼 内の投高点福豆 と癒低点高庇 を耽み と り .その高度差 を出 しそれ を7段帝に区分 した図 )か らも款み とれ る。す表 わち西部 から北西部 にかけ ての花樹岩 地 政は轟伏量が東部の砂藻屑地城 と比
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担12J ‑1 一 宮 町 概 念 図
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図2‑1‑2 地 質 図
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図2‑1」 水 系 図
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図2‑1‑5 切 峯 面 図
‑ 14‑
0 1500m
5万分の1の地形図で500m節以下の 谷 を埋めて作 った埋 横切生面で ある。
ベて大 きいOこの ことは花 鞄賢地 域の山地は急峻であ り .砂鉄 層地 域の山地は低 くてなだ らかで .千 の谷は洩いとと告示 している。
この低 くてをだ ちかを砂横膚の 丘陵は山済まで開生 され .主 に果 樹園などに利用ざれてvlるところ が多t^。
写共 2‑ 1‑ 2 秒政層の露帝
大′J、さまざまな疎が混入 して堆研 してい る。
それぞ れの取はかな
b
丸 まってい る。昭和4 5年4月5日 森 山伸 一撮影
写其 2‑ 1‑ 5
秒取
屑の丘陵の土地 利用 (佐山付近) 丘陵 は頂上 まで よ く開かれ.頂上 は温室浪増 に,斜面 は果樹園に利 用されてい る。昭和4 5年4月5日 森山仲「投影
写捉 2‑ 1‑5の よ)吃 .山頂 まで よ く開 かれてVtて .ぶ ど うの 温壷栽培 が行なわれてい る0秒韓 屑の且 変では この よう75光景が L は しぼ見 られ る.帝 に佐山 ・芳賀 毛 どの果樹農 薬の卓越 してい る地 域 では .砂牒 層の丘酸 を頂上まで 開墾 し ,温 室を建て7tり ,果 樹園 にして モモ ・カキなどの果樹 を栽 培 してい る. これに対 Lて花 樹岩 の山地は .急按 で閉鎖 しに くいた め山hH乏とん と松や経木でかか わ れてお り ,山すその‑部が閑藍 子 れて畑に利 用されてい る忙す ぎた いOとの ように花 偽者地峡と砂襟腐地検 では .その土地利用 とい う面 からもかな り対照的 とvlえ るC
また花 樹岩地域 の山肌 には ,しば しば直径 2‑ 3何
奴
上 もあ る岩塊 がJB出 してV,るのがみ られるO これは花樹岩 はその飾理 から風 化侵蝕が及ぶ ので .風化の及ぶのが遅れ る中心部分が宕塊 として残 った ものであるQ周囲か ら風化手れ 中心部分が裁 っているため岩塊 はかをり丸 ま ってい る。岩石は 大気や水に よって破轟作用 5・受け土壌になる。 これを良化 とい )のである。一一般 に花尚岩は結晶贋 であ り耕成物賓の鉱物が かな り大 きく .それぞれの鉱物は勲に対 す る膨張率 を異にす るので温 度変 化の長期にわたる くり返 Lにより .鉱 物粒子間の蘇びつ きがゆ るんでば らば らの粒 子にな りやす い‑ 15‑・
傾向がある。風化作 用VCtdこの温度 だけでな く ,水の硬結融解 も大 きな要因 となるL ・また花尚岩 の中の黒蛮母や長石は 水中の化学物質に
よ
り化学的風化作 用を受けやすい性質 があるO以上の よう な理 由,/Cより ,「殻に花梅岩は他の岩石よ
9も風化 ・糊壊 しやすい とvlえる0秒疎屑は先述 した よう
に
,いろいろな概 の即 ;砂や粘土な どの堆程物 と混 じって堆壊 した もの であるか ら ,その風化の梯子 も花 樹岩 とはかな り異な った もので ある.すなわち砂棟 層の風化は ・ 個 力の脚 ;風化苗れ もろ くな って士邸化してV,くので .花 樹岩地域の場合の ように中心部 が大 きく 残 って岩塊 となるようなことはなvl。だか ら砂硬屈 の且 敦の乗面には小 さな喋が多抽 出してい る が ,花梅岩地 域で見られ るよ!?E岩塊は見ることはで きないoiた花 触 地域では等尭 2‑ ト 4の よ9夜曲 鮭がみ られ ることがあるo先述 した ように花尚岩 は風化されやすいので ,山地の斜
写泉 2‑ 1‑ 4 嶺錐地形 (砂川 中流部 ) 息奴 な斜面 と谷のさかいにで きてお り巨岩の堵
他がみ られ る。
昭和4 5年4月5日 森山伸一撮影
面 が急峻な場合vcは ,表層近 くの よ く風化された物質 が .降水や 出 水時に くすれ落ちて運搬 ・堆穣 さ れてできた地形が崖錐 である。だ か ら崖錐は急峻な谷鮭斜面 の下や, 小 さな谷 の出口にで きることが多 V,。写爽 21 11 4の ように この 地形は開生 されてモモ ・カキな ど の果樹園に利用され‑L‑いる ところ が多いOまたとの地形 には大 きな 岩塊 が昇 出しているのが よくみか け られ るが ,a.れは風化手れた土 壌が くずれ るさい ,風化に耐 えて 地表近 くに残 っていた花間貸 がま わ りの士敏 とい っL Lに くずれ落 ちて他
罪
に露出した ものであ るO‑方砂傑屈の丘陵 では .先述 Lたように谷が皿状 で洩V,ので花 園岩地域 でみ られ るような崖錐は み られないO
図2‑ 1‑ 4の水系図なみれば .花属岩 地故の 水系 と砂礎 屑地域の水系の様 子がかな り異な って い ることがわ かる.この水系園は航空写英 と5万分の1の地 形図 を もとにLて ,自然河川 と降 雨の と車には 水が流れると思われ る明般復啓 をと って記入した ものである。 これに よると花 樹岩 地域 と 砂礁屑地域 とで総 ,谷 の発蓮 の春 慶 と谷 の方向性にお V,てかな 9異 な ってvlるO花樹岩は一般 に風 化 ・侵蝕に対す る抵抗 力が弱いため ,よく風化されたところは降雨に よ り侵蝕 ・漣施 されて谷が生 じやすいoまた花樹岩には節理など岩石 の削れ方vc十 定の方向性があるOだ からその割れ 目にそ っ て谷が発生 しやすい とV,う傾向がある。そのため花尚岩地域 の谷 には一定の方向性 がみ られ る場合 が多vt.図2‑ 1‑ 4の 水系図 をみ ると ,接尾 か ら長野 付近にかけての谷は ,ほほ 東北か ら西南の
‑ 1C, ‑
方向に走 っている谷 と .ほほ これに底 交す る方向の酉北 か ら凍丙に走 って V,る谷 との唐合に よ って 柵成されている。 この ように正交 する谷の組み合せ を格子状の谷系 と呼んでい るO格 子状の谷は花 崩岩地域 の谷系模様の僻色 ともV,える。この 上)に花博営地域 では谷が発達Lやす く ,そ の谷に方 向性 がある場合が多い といえる。
一万秒硬層地域では ,山地は丘陵株 で著 しい比福をもたず,ルーズた椎棟地屑 よ りなるので深V, 谷は数多 くは発適 LてVlない。壕た この砂棟 屑地域の谷には特定の方向性は75く樹櫛 班の河系模 様 を畳 LてvIZ'O
以
上
述べたよ うな両地域 の谷の様子の差異仕両地 故の地形的紫観 を異にす る重要な要素 とvlえよ
う。
図2‑ 1‑ 5は5万分の 1の地形図 上で50 077L帖以 下の谷 を埋 めて描V,た放縦切 峯両国で あるO 切宅面 とは谷 を無視 して尾根 を迎ねた仮想の百で あるovlわは 山地の模型に布 を聴 くかぶせ た とき の布の起伏と もV,えるo この図上の作乾把 より ,山地 が侵 蝕され て現 在の よ うな谷 がて卓Z'以前の 地形忙近い もの を御元す ることがで きる。
この切端面 を見 ると一 宮町 の範囲では .二つの山地両 と一つの丘陵 面 を訊み とることがで 薄るO すなわち柏尾付近の2 4D‑ 2占07n前後 と ,飯盛山 一.聯あの尾にかけての10 0‑ 1207乃前 乱 それに砂礁屑 の丘陵地城の2 0‑ 807n前後にかな り広い 平坦面がみ られ る。そ してこれ らの面は 北方 よ9南方に僧 段状 倒 重くな ってお り.この ことは また書傭市原形成 の造地形過 勤の機構を示 唆 しているし ,また一考町 が膏傭 高原 と岡 山平野 の墳 VE位圧 してV,ること5・表わ Lてい ると もvlえ よ う。
また図2‑ 1‑ 5の切払面 の†卸篭と長野のni]把等両軸の髄な ところが あるが .現在 の砂川 の遵息 点 もこのあた りVC位催 してVlる。このことは .現在 の砂川 の谷頭 蝕 が下流 よりこの超急点まで進
‑ ‑ ‑‑ ‑
写凍 2‑ 1‑ 5 旧輪四の掛 、谷 (横 尾付近 ) 谷 が淡 く.山容 もなだ らかであるO掛 、谷 の
か くの‑方 まで水田に利用 されてい る.
昭和4 5年4月5日 嵐 山伸一 政財
‑ 17‑
んで きてV,ると考え られ る。した が ってとの適意JR以 北は ま7t'現在 の砂川の谷頭侵蝕の及んでV,ない 旧諭裾 の地形 とい うこ とがで きる。
だ からこの遜急点以北 に位置 す る 樺尾周辺 の地形は旧倫裾地形であ り ,書傭高原の延 長とV,A ,吉備 石原 VE似た様相 5:皇す るO相馬 周 辺 も花 樹宕地 域では あるが .今ま で述 べて きた エう75花 樹砦 地域 と はV'くらか地形 の様相 を鼻にす るC す なわち挿尾 周辺の谷は旧輪 廻の 性 格 を襲わ してV,て ,皿軟で放 く 山 も急峻では たい。写 其 2‑ 1‑
5をみ ると谷が浅い ことが よくわかる。そ Lて この谷は浅 くて かな り広V,ため ,かな り上部の方ま で 水田に利用手れてい る.
一宮町 と高松町の境 と在 ってVlる花尚岩 山地の山稜は .亀王山 (287m )一三光山(1847n) 一大平 山( 19 27n)と南Kのぴて ,その両端の名越 山付近は古生層 山地 とな り急斜面 をなして吉 備津 一境 目の谷に落 ちこむ。その南の吉備 中山 も主 として古 生眉 よ りな る山地 で一
部v
c花 樹岩が侵 入 してい る。一方束の津高町 と境 をなす砂喋 屑丘陵の 山稜 も .南にのぴ るK Lたが って高匿 を戚 じ杭坂の南東 では5 07nほどVCなるが .山浦 の商で西南
西‑
東北東にのぴ る古生層の 山地 ,相 棒の山 (9 5nL) 一坊 主山( 12 0m )で さえ ぎられ るOこの古生層の 山地 の爾面は花 尚岩が露出 して ,ところ とこ ろ励塵地形 をみせ て ,ここでは常北7JIか ら西南西 に流路 をとる笹 ケ瀬川の谷 に落 ちこむ。この笹 ケ 瀬川の谷を越えて南には失坂山一京山のBad̲land.化している花樹岩 山地がみ られ る.一 宮町南部の山地を構成す る古生屑は山 口層群 に対比されてい るもので .灰黒色夜vIL熊色で撤 密 ・堅硬夜粘板岩 よりな り .ところによって は 砂 貿 枯硬岩 ,砂岩 を含みまた ホJL,ノフェルス化 し てい る部分 も多い.この地域の古生 膚の走 向は西爾西 一束北東であ り ,北藩の傾斜 をもってい る。
この走向は古生屑山地の山稜の方向と近似の ようである。ま た西帝酉 か ら東北東 を示す古生屑山地 の山稜方 向は .それ と平 行する昔備津一境 目の谷 .棟木⊥首都 の谷の方向 とと もに ,一 宮町両部 の 地形桃造の主 方向である。 この方向は昔備高原再縁地域VCみ られる主賓夜方向 であ り ,吉備高原 形
成の梢造過 勤 の表現 と考え られ る。 (森山 伸‑ )
2 対 照 的 な 砂 川 と 中 川
一宮町を耳流 する砂 川 と中川 とは ,その河川の状況 ・流域 の地形 ・地JEなど ,きわめ て対 照的でi ある.今岡付近 から両河川流域の山容 を眺め ると .その対照拘な差異に気付 く。砂川流域 の山容は 急峻 で .中川流域の山容 はなだ らか夜地形 を呈 してい る0 1で述べた ように.この差異は両河 川流 域の地質構成に起因 して い る。 15万分の1の岡山県地 懲図 を使用Lて .砂川 流域の剤 地JE を区 分す ると ,花 嵐岩地域8 7留 。沖概層地域15好と主に花 闘岩 で占め られてV,る。 中川絶域 では . 花 樹岩地域4 8多 ・砂襟 屑地域5 6帝 ・沖 税同地域1占帝と砂磯眉地域の 占め る削合が多vl.この
よう七両流域の地賓構成 の差カi山容 を対 照的 な ものにしてV'る原因の一つであろ う0両流域の・LJ客 が対照的なこ とは .国土地 理院発行の地形図か らも靴み とれ るし .また この車の1で示 されてV'る 切峯面図 ・起伏立国に も表現 されてい るO図2‑ 2‑ 1に一 宮町 をrr流 LてV'る砂川 と中川の両河 川の概略図 を示す。ただ し ,両河川 の津南町を流れている部分は省略 Lて ある.
砂川は ,源 を津高町 日応寺 fl近忙発 し ,笹 ケ瀬川 に合流す るまで約 15Kmの延長距敵 をもち ,流 域面柿は砂川 が山地域か ら沖放平 野に出る出 口の大窪までVCついて地形図上 で書棚 け ると約14.4万 m'であ る.そ Lて砂川は ,高清 水山から流 れ出 している支流 と ,梯尾盆地 から流れ 出している両 支 流が .津南町 El応寺付近 に涼 を発 L ,績局地 を通 って流れてV,る砂川 本流 に長野 上流付近で合流 L ているo接尾盆地は .青備 島原上のノJ壇 地 を想超 させ るような旧輪廻の盆地ち・その 山容 は別含状 ら
‑ 18̲
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響図2‑2‑1
か石 谷も皿 郎 逸る。盆地 内の支流 の河床VEは,抄の堆顔 はほ とん ど見 られず .ところに より花尚岩 の甚盤 が見られるO との ことは ,旧輪 増の谷が新 しい侵蝕をうけてV,ることを示L ,旧輪廻の谷そ の ものでなV,ことを意味す る。砂川の本流は古尾 よ り少し下流VCKnick point(遷 亀点 )を も ち ,構尾盆地 から流れ 出してV,る支流は .新屋故 より少 し下流 の八大屯王 の御滝 付近に knick pointを もっている (等充 2‑ 2‑ 1)o
写其 2̲‑ 2‑ 1 砂川支流のknick point 付近の急流 (御滝の茶上 ) 韻尾盆地 か ら流 れ出 してい る支流の遊息点 で河 床には花樹岩の基盤が諸 出してい る。傾斜12
‑ 15 0 0
昭和45年4月 三宅精一機影
図2‑ 2‑ 2は.2万5千分の1 の地 形図 より吉相りLた砂川の縦断 面図であるO との図 か らも
Knick pointが判 祝できるo 砂川 はknick poinC 付近で は ,花闘岩の基盤の上 た柑れつ な 流れが岩 をかんで流れ .そのせせ らぎに野鳥の快い メロデ ィーが莫 L く‑ーモニーLて ,繰 Lたた る よ うな谷間 VCさわやかに広が る。
この車の1て示 された,‑Jk系図 を見 ると ,長野付近までけ
乱
交す る水 系が 目立 ち ,格子型 水系てあると 雷 え よう。 これは .長野 付近 より 上流の花 樹岩地域の割 れ 目の方向 性に起因 してい るものと思われる。1
̲ I ‑i ‑ I‑‑ I‑‑
5 10
図2‑ 2‑ 2 河川縦断面 (砂川 と中川 )
‑ 2ロ ー
長野 より下流の河 床では .環 が散放 して砂の堆棟が顕著 にな り ,砂川は 次第 に天井川の性質 を帯び て くるo Lたが って ,砂川 を天井化 Lてい る砂 の供給は .knick pOiut より下流部の急峻 な 粕 裾の地形 を皇 す花 憐岩 の地域 か らの もの であると思われ る。そ して.この地域 の山鍵 には崖錐 地形と思われ る巨硬 が Elにつ く (この牽 1の写共 2‑2‑ 4を参照 )。砂の唯横が見え始めた
knick poir]t より下統部で採処 した河 床抄硬の分析結果お よび砂 川の焼断 面図 を図2‑2‑5・
図2‑2‑4・図 212‑5に示す。河床か疎の採如 ,その場所の平均的な状況 を表わす とみ られ る 部分 をとったが .少丑であ るので戯解才にはい くらか欠 け ると思 われ る.なお ,砂の採典屯所は図
2‑2‑1VC官己入してある
。
¢尺度 と粒径 との対 比未 を葬 2‑ 21 1に示すo 襲 2‑ 2‑ 1 粒 径 と ¢尺 度 と の 関 係粒 径 (加 ) ¢ 粒 径 (h2m )
¢
1 占 ‑ 4 1
0
8 ‑ 5 0.5 1
4 ‑ 2 0.25 2
図2‑2‑5 ・図2‑ 2‑ 4の累加 曲線 ・粒径 ダイヤグ ラムを注意して見る と .特異な現象に気 付 く。「
投
に .河川の砂 の堆原物は .̲上流 か ら下流に行 くほつれて砂 の粒径は次第に小 手 くなるの が普通である。砂川 の場合 .砂 の粒径が次第に小さ くな ってVlるのは調査地点7までであ るo ところが ,調査地点8‑ 1 2では .粒径の大 きい ものが次第に増 L .,Jq い粒径 の砂が減少 してい るo この現数は何 に頓 司す るのであろ うか. この原因について .解明す る具体的夜 祭科はまだ持 ちあわ せていないが ,大窪 より少し下流付近の宅地造成に一つの原因があるのでは なV,かと思われ る節 も
ある。また前述 Lたように砂川流域は主忙花 尚岩で 占め られてお り .knick pcintより下椎 の河床vE堆概している花 樹岩 の砂は ,川 水を大変最速 させやす い。横断面 図2‑2‑7を見 る と砂川 は .完全に天井川 とな ってい るo Lたが って .僻に新田付近 より下流 において .川 水は かな り浸透 している もの と思われる.大聾付近 では .砂川の耽連結遅 くた り ,辛川市場付近 では ,砂川の水は 全 くな くな り伏流 してV'るO以上述べた ように ,調査 地点8‑ 1 2は ,流れが遅 くな ってV,ること や伏流 Lてい るため .大 雨の時は (この時 は砂川は下派 まで 水が流れる)流速 が増すため ,そこに 唯耕 してvlた粒径の小さい砂は迎び去 られ ,粒径の大
き
い砂は遊ばれた 9 ,そこに唯練す るのであ ろ うOそLて .大雨が過 ぎると砂川は .再 び元の砂川VEもと り ,粒径の大 きい砂の堆伊 がそ こに見られるもの とも考え られ るが .まだ政測忙す ぎない。
一方中川 は .源5滴 高町富盲に発 し ,笹 ケ瀬川に合流す るまで .延長臣松約9b ,松尾橋まで流 域面研約7.7万秒 を もつ (図2‑2‑1を参照 )oただし .図2‑2‑1でVi .浄
高
町 を流 れ てV,る部 分を省V'てV'る。砂疎 剛 傾 城面所の5絹 も占め も中川 は .河床砂碇の唯凍結.砂川ほ ど著 し く 夜vlようであ る。川 水は伏流す ることた く常時凍れてい もO そ Lて .中川流域は .地形がなだ らか‑21‑
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図2‑2‑4 粒 径 ダ イヤ グ ラム (砂
川)
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図2‑ 2‑ 5 砂 川 の 横 断 面 図
‑ 24‑