• 検索結果がありません。

江◎

ドキュメント内 一 宮 町 の 歴 史 と現 代 (ページ 156-166)

I ことOそ うすれば松尾 村の用水 も自然 と不足 しな く75るO この井牌 の 普甜夫役諸入用の半 分は当細 尾村が負担す ることb

その他 .1覇 の池 "は .万延2年( 18 62 )に完 成 し .守賀村が利用 する ことに72ったD大槌村 については .過去畳 々木地 ・家形池 ・どうどう鞄の5つを利用 していたが .きっと横尾池が完 成 して 水虫 が十

に在 ったのであろ うoそれは ち 上うど完成 した年 に最 も北 の堂 々木地 を浄福の留書村へ討

っていることか らそれがわか る。

71L=(i) 上 か ら題 目井関 ・旅所井関 ・松 の井手閑 ・下の井手関 の順にあ ったO下菅 賀村 は倣 自井関 か か ら松尾村は松 の井 手齢か ら用水 を取 ってvlたので あるが .水不足の時には:,2つの井鵬 の中間に臨時に論所井関 を設けて下菅賀 が用水 を取 った

D.

あるV,は題 目井関 の下方を菊 堀 Dして掻 き水 をす るので ,松尾はそのたびは紛争 を起 こしてい るO

注㊥

水内昌鹿氏桐典 の

「F

背賀 ・松尾両村水輸史料典」 である。

(C)俄か水 の争い

福谷五 反田にある五反 田井関の用水権 は宝暦 1 2年 には大国村 と芋川市場村5分 と5分で 日替 えに 使用 していたQ 明治2 7年夏の 日照 力続 きの後 .8月1 4日雷雨に よって猿谷 池に久 しぷDに水が潤 ったQそ こで n我か水は上 か ら」 を主張す る大犀 と 「随番」 を主張 す る辛川市場 の対立 が生 じ .大乱

のため俄二出水せ し時大毘地内手桶 ノ木 の細管 を開放 し辛川市場 村‑流水の俵 を与 ふ る

但 し,この場合 ,辛川 市場

上b

大陸 k:通知 し其美 認 を受 くる襲 .

1. 前額 の流水 ,取入 れのため土 砂水路 に理研 す るエbこれが汝滞幾用 と して海年金四円を辛川市 場 上b大操へ支払 うことO

以 上の一宮 にかけ る濯政用水獲得の争 L^はその地域の曲民の歴史で もあD ,細 か く分析 してい くと 耐白V,点がつ ぎつ ぎとItiて くる。 ち 上 つと日照

D

が続ければ水不足 で田畑が早

鹿にT r

b ,そ うか とい って峰水丑 が少 し多 (なれげ洪水が

廼b

易いとい う恕条件の河川で あった。前 にも述べた様 に械罷池 が完成 してか らLd:,砂川筋 は勿論 の こと中川筋の南部地域 ま

櫛板で きる よ うV̲覆 ったのであるO現 在は井 鮒につ いての争 いは殆 ん どおさま ってい るが論所井 鵬だけは ,設鑑のたびに少 々争 議 が起 って

いる様 である。 (浅 野 京 子 )

任◎ その 日は ち i・うど樋番の 日割 が辛川市場村に あた っていた。

引 用 文 献

1) 水内 昌康 : 「下苛%'・松尾 両村水論史料集」

2) 大陸村f7比部 光夫氏所恋文脊

5) 片 山yl舌 : 場 屋 下村誌 ・歴 史鰯」

4) 5),占)比 1)と同 じ

参 考 文 献

児 玉 辛 多 (1962 ) :「産業史打」 P125‑ P155

4

備 前 に お け る 自重 宗 の 興 亡

南北朝の頃 ,大兇大僧正が備前 に来 て 日簿宗 を布教 し ,豪族 の多 くが此の宗 を信仰 し ,衆庶帰依す る者多 く ,と くに西備前の守漸 く金川城主松 田氏 は これを噂 惜 し ,威力 を もって同素tR:改宗せ しめ る にいた った。

松田元賢 は西国第一の道場 を岡山に興 し ,自己の法号を もって蓮昌寺 と称 した。

松EB氏液亡後事 を多直家 もまた 日藩宗 に帰依 して蓮昌等 を再興 し .世

備前法華」の称 あるに至 った。

‑ 142̲

寛永 9年 (1652)池田光政は備前 忙封を受け てか ら席数 を奨励 し ,その思想 ,学 問の立場か ら 寛文 8年 (1日 6)大胆 を寺社対兼を行 をった。その主 をものは ,寺院淘 汰 ,神社整理 ,キ1)シタ

ン神道諸制度の採用 72どである。その絵果 ,寺院 の転退 ,僧侶の選俗が相つづいたO

せた幕府の方で も日蓮宗の不受不施qt1)を禁止 した。す なわち ,男文5年(1‥ 5 )に幕府 は同 派の寺院 に ,今後寺領 は三宝 (仏 ・法 ・僧 )への散 田供隼 として下すか ら受領の即 勿を凄出せ よと発 合 したOこのとき受領辞 を出 して ,不受不施沢か ら転向 した ものは許 されたが ,抗争 して受領 番 を出 さなvtで転向 しなか った もの比追放 召九 ,寺院の寺神 も停止 賃九で楽圧 される ことに75:ったO当時多 くの僧侶が ,斬首 ・入牢 ・入水 ・自刃 ・断食 あるいは流浪の ぎせいにあった. 中世以来 「備前法華」

の名で知lられていた ように備前の園は岡沢の寺院や信徒が多か ったので ,不受不施派の禁教 に よって 激 しい弾圧がこ75:われた。

「郷土 vlちのみや稲本」に よれば ,当時国内寺院の教 1 a 4 4寺 ,僧侶1 9 5 7人で あ ったが ,寛 文7年(1d6 7)までに不受不施の嫌疑 あ るい比邪寮のため追放 された もの5 15ケ寺 ,僧侶585 人の多 きにか よんだ.

この中には尾上 村の明光専 ・⊥宮村の妙法寺 ・西辛川村の妙遵奉 ・辛川市場村の元妙寺 ・今 岡村の 妙敢寺 ・山崎村の運教 寺 ・や檎砕村の宝仙寺 .酉倫粋村 の道仙寺1・首都村の法久寺 ・佐山村の法林寺

・大窪村の妙泉寺 ・長野村の長宝等 ・背賀村の妙典寺 .寄賀の功 ・探額村の正林坊 ・下芳賀村の当福 寺 などあわせて16の寺がはい っている.

信徒の中には ,表向 き/.・i他藻の信徒 と怒って寺請 をとって判 を押 したが ,内心では不受不施派を信 ずるとい う 「内借」になった ものが多 く ,と くに一部 の強信 者は鈍感 とな って

,

「島中」 といわれ た 不受憎 に従 って内借 と法 中 との仲介 TTつ とめた。 これを r% 申」I

,

「施主」 75:どと

い ,各地 の 「法 磨(顔 )」 に よって統率 された。 この ように して不受不施 派は ,法虚 一法中一施主 一内借 とつながる 特殊 を組織 を形成 して地 下に潜み ,たび重 なる弾圧 ,迫等 をのbこえてVl・くことに覆 ったo

そ して明治維新 にか よんで秋 日正が岡沢の再興 を くわだて ,明治 9年(1876)4月に許可 を得 て ,金川の妙党等 を故山 と して独立 し今 日にか よんでいるo

5

一 宮 社 と岡 山 藩

岡山帯 は備前 の鎮守であb一宮 と しての吉備津彦中性亡を崇敬 し ,代 々の藩主 は5 8 0石の社領 を寄 進 してい る0

‑145‑

f l‑,

′写溌 5‑‑ 51 1

吉 備印彦神礼 (S45年4月藤 沢常雄 影 )

写寅 5‑ 5‑ 2 池 田忠継寮進状

忠継 が舌備 酔夢神社に 500石の社蘭を寄進 した こ とが わか る (S45年4月藤 沢省 粒形 ) そのほか に寛文 5年(1665 )には .家老連 署 に て大壷 内左禰門 に あてて ,

備前一宮為造営 渦 中勧進破 成御免償間 ,可有奉加候 為如 噺 % 2)

とV,う勧 進免許状 を与 え る72ど他の神社 には与 え なか った特別 の造営碍 促 を と ってい る.

吉備 津蕎神社 は江戸時代 に72ってか らも代々の天皇 の命 に よって もたびたび修繕 されたが ,光政 拙 文文8年(1668 )に仮 の趨 物 に祭神 を移 して全 部 の建物 奇 とbこわ し,50年 をか けて元醸 10 年し1697)光政 の子鯛 政 の とき完成す るとい う大造営 を行 在 ってい る。 現存 す る吉備粋彦神 社 の 本殿 はそ のと きの建物 が昭和5年 に焼失 して再建 それ た もので あるo

なお ,文政 12年 し1829)治政 の世 には本 殿 の屋根のふ きかえを してV,るO

ほかに も祈願成就 したあかつ きには木 を どを寄進 し ,神社 の竹 木 を切 るべか らず ,鳥猷 を殺すべか らず とい った意味 の立 て札 を立て て ,神 社の菜化 ,歌 境づ くDに努めた.

次に寄 進状は延宝 占年(1占7a )に境 内の樹木を寄進 した もので ,その‑例 を示す もので ある。

‑144̲

池 田家境内樹 木寄進状 寧 権 千

七 曲 神 社 御 宝酌 広 庭

‑1 榊 十 八 本

、 桜 十 八 本

「 杉 十 八 本

右 祈 願 乃 趣 成 就 平 ,奉 朝 鮮 而 也 ,仇 如 件 , 延 宝 六 草 正 月 元 且5)

また ,竹や木 を切るべか らす ,鳥献 を栽 すべか らす ,お宮 の近 くで牛や鷹 を放 し飼いにす るべか ら す ,この ことを守 らぬ者は見つけ次窮厳

に処す旨の立 て札は座長 8年(1dos )5月19日の も のが もっとも古 く .これ と同 じ内容 の立 て札 結果永4年(16 27 ),冗文 5年 (1655),貞軍

2年(1685 )に も立て られ てい る。

藩主池田家 お よびその領 国備前の国に ‑なにか不安 .憂慮 すべ きことが雇 ったと きは青備 津彦神社 に も うでて祈願 するのがつねで ,次の寛文 8年(1645 )の草

に雨乞 V,の所願 が行 なわれた際の

『池田家履歴略記 』の記串 はそれ を示 してVlる。

(前略 ) 五月末 よb八月に至 る迄備前大いに早 して民愁菅 に堪 えず同 月15日よb 1 5日迄 一宮 にかいて神職共千座の祈雨 を執行 ナ然 るに其験 なれは同 16日17日同所 の山上 にて雨 を祈 る大守 筑後守司耽た bす てに16日の味舞

b執行せん とせ し所 に俄 に一村雨あ如哲の刻 の刻 エb雨甚 し

く亥

上D

璽味覚迄は殊 に大雨也此 日よb 19日蓮間断 な く降 bければ白

に酒肴 奇癖 て神前 に奉 ら れ神職共に(璃 服 白かね等 を賜 う04)

写 真5‑5‑ 5 万延元年 に建 て られ た高 さ1 17'Lの腰 沌

(S

45年4月 藤井敏文撮影 )

また ,元礁元年(186 0)5月には境内に 日本 で一 番大 きな惣高三丈 ,石 ガキ高五尺計三丈 五R5)(約1 1 m)の一対 の古層範が立て られた これは岡山藤 が ます ます栄える エうに ,備前 の国中の^ 々が皆也 かて幸福 で あ るように ,そ して また米 や麦 などの作物 が よ くできる 上うにとvlろV,ろの願 いを こめ たものであった ことは以 下の投科上b明 らかである。

範 か ね ふ く ,吉備 の中山乃大御社 に御執座大御神 は , かけま くもか しこき孝寝天皇等三皇 子に ま しま して , 御名 をは書傭 坪を命 と申玉ふ ,V,忙 しへ この舌備 国に

て ,大御神の神罷 永 くこの大宮 に御銃座 て ,国中 を守 b玉 ‑‑ ,国人一宮 とた 1へ

革b

て噂 させつる大御神 をbけ D ,それか しらこたひ力 を合 せ て ,石 もてつ く れ る虐屯 を .大前 に零 らん とす ・.・・・・(後略 )‑‑0

(前略 )右之通法定仕億俵 ,何卒 国家繁栄 ,奇櫓 面 々 御家運長久為祈 ,永代 常夜燈 ヲさ ゝけ (後略 )od)

‑145‑

『膏燐 酸を神社史料 』に よれば浄福郡 ・児島 ・三野郡 ・上道凱 ・赤坂郡 ・着 生郡 ・和気郡 ・上 京郡 .邑久郡 ・備 中あそ ・か 複監村 など領内の各神社 の祭儀 には必ず‑・Jg よ9神人方 ・社入方 ・神主衆 ・ 社務衆 ・祝 部衆 などが出席 し .それに対 して各神社 では一宮‑供物 を送 った ようであるO

‑例 を掲げ ると ,

奈良紐村三社 ノ官 ノせつ 上

こ,‑宮上Dとんの‑ ミ子楽 と うノ衆 ‑3:ひDかbかたの壊 ,

○け うの御め し六せん , 0お、んへん ノたいの う!・i六 こん , 0小か ゝみ六 まひ , o くつかた榊

三,

oみ き三升二合 , ○御 とう明ノV,わひあぶ ら一升二合 , OLゝば

L

bとて ,ぬの十二 ひ ろこ尺,○御儒 かけ とて ,ぶ ちの しろ廿 疋 ,

以上正 月 ,八月三監つ ゝ也7)

以上 のこと く岡山帯 は壱備 拝啓神社 に藩 政の発展 を祈願 しつつ これ を崇敬 してその実 をあらわすた めの諸施設 を し ,吉備津彦神社 は岡山瀞の崇敬 と保 護 とに よって神社 を断 utして ,互 VC維持 し .もち つ もたれつの状態 の関係 にあ ったo

明治 維新 に及んで社緑 は廃止 されたが明治5年8月96新 たに県社 に列せ られたo

6

山 陽 道 と一 宮

片山峯吉編 『馬屋T村託 軽科 』に よる と .字音多面家 q:1備前 を統一 し ,招城 エ b岡山城 に巻 D ,千 こVC城 下町 缶つくるにあたって ,その繁栄策 として山IS抜道 を商へ蓬廻 させ城 下5.通過 させようと企 て ,藤井エD西 南に宍甘・長岡・乙夢見.原尾 島、森 下を経 て岡山に入り,内山下転 の馬場 から中之 町.下之町 の岡 をすぎ , 中山下から

忙出て ,万戚 山を越 え西芋川 に乱 正路醐 いたとtJq・じれる。さら脚 子秀家7)ちとをつぎ 城 下繁 栄兼 としての新 国道 を完成 した といわれ てい る。傭 船記

「大正 の始字音多中納言秀家 岡山城郭 を完 成 して .領 分備前 ,乗作 両国の大身 なる侍共を城下 に住居せ しめ城 下の繁栄 を願 う。共噂家 臣戸川 肥 後守 ,花房助兵衛 ,岡越前守 ,長 船越中守 の四老評誰 して秀家に申すは王君城 下の繁 昌を倒好み あ ら ば四国の往還 を香 え ,城If'を筋道 とせば地 雷み繁 昌すべ Lと申す に より ,甚 だ是 を悦ん で山階 の道路 を城下 に通 じ ,万成 山を越 えて西早川に通 じけ る奇 ,今如此旅人 古道 をば不通城 下を往選 とせb」 と ある。

その後方成山 ',・避けて三門 ・大安寺 ・封殿 上9‑官 ・酉芋川 に通 していた こともあ ったが ,江戸時 代にな って宿駅制鑑の確立 に伴 い山陽道は前述 の ことく確定 した。

この山陽道 を通行す る ものの うち ,幕府御用 の継飛脚晴が西辛川村 におかれ ていたので ,次vL‑それ に関 して藤沢晋教授の研 究に よって記 してか こう。

#府御用 の御状箱御用物 は 主二丈人馬無賃過行 と して継 送 られ .十枚にこれを継飛脚 と称 した。

ところで .継飛脚 を勤 める楢は五街道 では宿駅が これを束 ねていた。 この ことは ,背 江務氏 がその 著 『大 日本交通史 』に 「宿村大概帳」か ら作成 した 「諸道継飛脚給米 .問屋冶米概衷」 に よって鮭飛 脚給米 を支給 された東海道 と中山道につVtてみれば ,鮮飛脚宿はすべて宿駅 と「致 してvlた ことか ら

‑146‑

ドキュメント内 一 宮 町 の 歴 史 と現 代 (ページ 156-166)

関連したドキュメント