が ,その決君は現地 iで出張 して来た有音宗右衛門 ・中山又次郎の雨下役人 に よって I,L・された砂川筋 の野 面や離解 お よび井 関の調査吟味 の上 .つ ぎの様 に砂川筋の 「掻 き水」 についての儀が まとまるこ とVCi:Dか てlハる.その決着 の状態は上記4カ村の 4児寄 "とい う形で残 ってい る。それに よれ ば .
大敵 寸之内抜 キ所‑ Ej一夜‑勝 手次第こ水掻 ,一 日一夜 ‑掻キ不 中林 二可仕事。
‑ 154‑‑
と記 されているOつまbこの場合 、大臣村か らの甲 し出に上ると .われわれが砂川
エ
b氏
に水 を掻 い た ら川下の村 々 (前記5カ村 )か ら .大建村 に用水 を取 られ水が流れ てこすたいへん迷芯 していると の ことであったD一方 .川組か らの申 し出に よると大韻村 は五反田井閑か ら播 き水 を してはだめであ るとい うことであったD雨下役人比双方に用水 に解する させ Dの碓配たる証拠が見当た らをVlので . 上記の様に重松井関 まで水が乗る時は大運村の円で播 き水 をすることを一 日か きに許す ことJ.A=決めたO つ甘 B .実質的 には .両村 に用水権 を5分ずつ与えた ことになる0 号らに .概ケ部之内大匹村堤/J、領有え候o此所 ヨ1)大窪村へ用水取偉容以 後仕 間数候O 江①
と記されている様 に .慨 ケ部部落 の内IT
姫
に塊 めてある樋か ら大陸村へ用水 を凝 るのを類 止 してい る0 両下役人の以上 の様 を教許に対 し .関係4が野の名主 ・五 人組索 ・判旗 .首姓等すべての村民が釆 詳 しで連印 しているo (襲 1参照 ) けれ ども用水問題 はその後 も起 った様で ,記容
に 上る と9 1年 複の轟永占 ( 1855 )年5月に起 った ものが ある。表5‑ 2‑ 1 重層 12年の水論 「先番」 に連印の相投人名と百姓教
村 名 名 主 五 人 組 頭 制 覇 (人) 首 姓 (人)
大 窪 伝 介 操 四郎 .庄次郎 4 4 0
芋 川 市 場 藤 九 郎 し‑宮村 )!伝右術 門 .伝耽 8 6 1
西 草 川 藤 左 衛 門 助 八 郎 2 l l
連 印す るにあた b引討大庄屋 として尾上 村の与四郎 とな原村の園右衛門 ・立合大庄産 と して栖谷村 の有盲 ・中山の両氏が臨席 したQ
(b)嘉 永6年 し1 85 5 )の争い
との争いは ,大建村名主服部月介 か ら山崎村大庄屋児子三石術門に送 った芋川市場 の理不尽 75行為 を訴えた御牧顎によって .知ることがで きるQ
即 ち .砂川筋 にある重松井関の砂止めに去 8月の大雨の際の洪水に よって欠所 がで きたoそ こで川 組の内の芋川市場か ら大岸村に対 して用水路 の妨げに茂るので
息
に井関 を取 b払 うi:う要求 してきた0‑万 .大窪村は重松井鮒の儀は昔か らあ b今 壬 ら取
b
払 うととはで きないと拒否 したO大運村 には元 来砂川
崩における井関の儀 とい うものは72く二百年前 まで堤 とい うもの もをか ったD現在の砂止 めの 所 に井朗があってそ こか ら用水 を取 っていた。けれ ども .上流の捨石山が崩れ土砂が川筋に堆横 し井 関の砂底 に埋 もれたため,90年前の宝麿 12年の契約 で決 まった重松井関 まで水が育 ち流れ る時は 1日お きに大窪村用水にす るとvlう約束 を破 ったのであるE.年 々川 の秒の流れが増大 してゆ き .それ ぞれが川底に堆鼓 し姥防が危険 にさ らされる上 うにそった。文化2年(1 80 5 )には小川冊兵衛 に 命令 して捨石山 ・御留山へ植林 させ砂の流れを止めさせた一 秒の流れを止 めると今度は逆に ,川底が 掘れて深 くなbもはや土手に沿 ってい る田地へ さえ も全然引水 で き攻く7lるとい う現象が起 きたのでT あるO勿論そ う在ると池水の方 も乏 しくなD .生々木地 5舟 ・宗形池 2分 ・猿谷池 2分 とい う状態 で‑135‑ 荏(む
あった。 もっとも中流 に央 包池 があるが t砂川掛全域 にまで用水は とて も行 きわた らず ,池か ら遠 く 彫 れているEElは井手水 とか催合 池に額 ‑Jていた。当時稲作 を して も早魅にな D易 く大窪村2 6町 の う ち12町 は畑 作 を していた といわれ る.早川市域 村に比重松井幽 しかなか ったが .新 しく柾 をその上 流 の牡に埋 めれば大槌村が猛反対す るととは明 らかであ った。そ こで とbあえず大 陸村名主与 一郎 と 辛 川市場 村名主嘉兵術 が相牧の上 .先 の洪水 で蟻 われ舟雷松井牌 を念入Dに修理す る とい うことで‑
jc講n解 した。
重松井関は投込石 であるが潜 る水温が少 な く樋 としての機能 を十 分果 たさなか った。又そ こか ら下 流 にかけて伏流 す ることが多いD下流 のJl胤 の和 々の間で 言えも容易
に
和解が成立せず .年 々開店 が 複雑化 してL^ったの もーつには五枚井関で辛川市場 と西準用‑ 分水す るとい うこと .もうI.つ は伏流 に 上る水不足か らだん だん掻 き水が困難 にな って少 しの水て も争 って蒋 うようにな ったためで あろ う。過 去教 官年 とい う長 期 にわた って宿命的 怒大窪村 と芋川 欄 外 2カ村の対立がみ られた瓜 明治2 7 年 7月県下 を取 った大京 鵬は福谷 ・長野 に教 カ所の山切れ を起 し .砂川 は土砂 に埋 もれ重松井関吐上 下 を辞 せぬ程 になったが .その彼旧にあた っては投込石 を基盤に して万代韓 がぬ石巻 がで きあがbや
っと対立 も解 消 したのである。
江④
この5カ村 を川組 とい うQ江◎ 小樋 とV,うのは .用水路 に引水す るため土
擬
に仕込んで あろ水門の ことを享ナo 琵⑥ 約の2つの池 は .大窪刊が利用 していたが .昭和 25年津芯の古書村‑与えたB つtbその頃は用水の供絵が十 分にな ったとい うことの証拠 であろ う。
表5‑ 2‑ 2 嘉 永6年の相 投人名
村 名 名 主 五 人 組 頭
大 罪 月 介 I林 蔵
辛 川 市 場 滋 兵 術
西 辛 川 l林 右 衛 門
‑lsd‑
ヽ
図5‑ 5‑ 1 油弛 ・井関分布図
‑157‑
(2) 中川にかける水利 の争vl
中
川
には .享保15年(17 28 )には井的が4カ所 にあ ったQ その中で僻に争 いの中心 となった。が折 井 閑 と松。井手 である
。
(馴 紳 )輸所温 名称の示 す様 絹 も争 いの頻発 した所 であ るが .これは臨時 に設 け られた井 関で あ って設悦 のたびに下寄賀村 と松尾村 とが健棒 に関 して対立 し たのであ ったO現在 をか この開延 は完全 に解 決 していない ようであるaもともと松 の井手 の用 水確は下芳郎 寸にあ ったが松尾 ‑ は全然水 を流 言をい とV,うことではな くて . 日照 Dや早魅 の時には撒 き水 を許 してV,る。 この井手 が作 られた時は上菅賀 ・下芳賀両村 の井 腕で あ ったが ,やがて砕尾村が水不足 を理由に余 b水 を流 して くれ るよ う申 し出た ことに エb ・井関か ら松 尾 の田へ水が流れ る梯 k:脚 を
相
b継いで .余水だけは松尾村へ流 れ るように したので あ ったDそ の時の きま 加は上 記の史料典の 古文