第42号
体育館落成記念号
、昭和45年3月
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第42号
宗宣言おぼえがき⋮⋮⋮.:⋮⋮・⋮⋮・⋮⋮::⋮:.⋮:⋮⋮⋮⋮⋮・⋮:⋮室住一妙︵磐
日伝上人堂供養法則について⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮::・・・⋮⋮⋮・⋮秋山智孝励︶
遠師法華経音義発刊と読調について:.⋮::⋮・⋮⋮⋮⋮⋮・⋮・⋮⋮:⋮⋮長谷川寛慶品︶
仏殿納牌堂建立記⋮⋮.:⋮⋮・⋮⋮・⋮..⋮:。⋮・⋮⋮・⋮⋮::⋮・⋮⋮⋮⋮林是幹励︶
資料’一妙院日導著安心問答落居⋮・・:⋮⋮⋮・⋮⋮:⋮:。⋮.::⋮⋮・⋮.:⋮⋮⋮⋮・⋮⋮:.⋮⋮耐︶ 御紹介のことば・・⋮⋮・⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮・⋮・・⋮⋮・⋮⋮室住一妙︵鯛︶言語学上の転移について.⋮・⋮・⋮..⋮⋮⋮:⋮⋮:⋮・⋮⋮⋮:⋮⋮;:.⋮大森孝励︶
学園だより・学会奨報⋮⋮⋮..⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮・・⋮..⋮・・・⋮⋮・・、.:⋮・⋮⋮・・・⋮⋮⋮⋮・⋮⋮︵郷︶随想
八研究ノートV 日蓮聖人の宗教理念について.⋮::⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮・⋮⋮⋮・・・⋮⋮⋮:町 日蓮聖人身延御入山以前の七面山と身延・⋮・⋮⋮。.⋮・⋮⋮⋮⋮:.⋮⋮⋮・中 松木本興先生の教化と近代宗学。:⋮⋮⋮:⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮:⋮・上 因果論考序説⋮::。.⋮・⋮・⋮:⋮・⋮・⋮⋮:。⋮::.・・・⋮⋮:⋮⋮:⋮ 体育館落成に思う⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮:⋮⋮⋮・⋮⋮.:⋮⋮・⋮⋮⋮⋮⋮後記
落成した体育館棲神第四十二号目次
学長祝下近影と御染兼 里望月日
兄泰
田里田 本日是 応箙 へへ 32J6 当し 雄︵3︶ 穏?︶ 日日︵ぬ︶月に振興した。 オリンピック後も政府は体育に力を注ぎ又国民も体育に憧れる者が多くなり各械の競技は磯になった。 右の様な社会状勢により身延山大学当局並に学生は体育館の建設を熱望されたが、当時の本川としては諸種の事情 から残念ながら建築することは出来なかった。 私は身延山の学生に学生らしい若さや、明朗な精神に欠けて居るのは、行学二道の修行に専念して居るため、スポ ーツ精神がない事に原因して居るのではないかと杷憂して居た。 昭和四十一年十月大学の校舎・講堂が新築されるや復々体育館建設が再燃したがこの時は建築の可能の見通しもつ き、殊に全国御信者並に同窓の和身会の各上人方の御丹精もあったので、学校、学生聯に建築を約し一昨四十四年春 工事に着手、秋の文化の日迄に無事完成したのである。 身延山の学校は体育に関しては、永年の間殆ど申訳け程度の体育しか出来なかった。これも施設が全然なかったか ら仕方がなかったが、柔道だけは相当一生懸命に稽古をしていた。然しその稽古はちょうど芋を洗う様な有様だった から稽古らしい稽古は出来なかった。昭和三十八年にオリンピックが日本で開催されることが決定するや体育は日に
体育館落成に思う
理事長望月
日
丁度外に遊んで居る子供の声を聞いて親が安心する様な心境である。 昨年の十一月文化の日に体育館落成記念として柔道の大会を開催した。この大会に対しては兵叩県の同窓小平慈悦 師の斡旋により来賓に八段依田徳蔵先生を招聰され、山梨県柔道連盟会長八段浅川源澄先生と共に、古式に則る柔道 の凡ゆる型を約一時間披露されたが、規律の正しい厳粛なる動作に満場寂として声なくその減技に只々感服された。 引続いて山梨県柔道連盟理事長河野友男先生の審判長の下に、山梨大学、都留文化大学、大月惣大、本校等の対抗 試合が行なわれ、体育館落成記念としては実に有意義な催であったと轡びに堪えない。 因みに体育館工事に就いて簡単に御報告致します。
一、面積六四四・九二㎡︵一九五坪○九︶
一、構造鉄骨建築
イ、器具室ロ、控室ハ、更衣室
二、便所ホ、湯室へ、ブロバンボンベ室
一、建築費総額金二千百五十万円也
一、工事請負者佐伯建設工業K・K以上
まる思いがする。 最近体育の時間や放課後に、学生達の大きな掛け声が体育館から浮いて来るのを剛くと、何となく焔しく且つ心の安 ︿蝦唾 山山趣識鑑轄露︶
( '4 )因果論は、有部の教理の伝統の中で、六因四緑五果として談ぜられてきた。ほかに因について論ぜられたものもあ った。二十四縁が説かれたり十縁が談ぜられたりしているので六因四緑のみが仏教の原因の分類と云うことはできな いが、今は六因四緑によって因果論を考えてみたいと思うのである。六因は、原因を六種に分類したものであり、四 縁も同じく原因を四極に分類したもので、六因が原因として主体であり、四緑はその助縁というのではなく、原因に ついての異なった二種類の分類である。六因論は迦多術尼子︵厩ご等画昌ロ昌愚︶がその著発智論︵巻第こに述べ たのが、最初であると言われている。それ以来、有部教学のうちに定著したものと考えられる。六因が有部の教学の 一琴一言の観を呈しているのに対し、四縁は広く、大・小乗教に用いられているもので、その起源も経説にあったと認 められているものである。六因論と四緑論は、その起源、発遠の経過も異なるものであるが、有部教学のうちに六因 四縁五果として定著し、四緑のなかの因縁を開いて六因とし、六因を以って四縁をそのなかに摂するに至り、六因。 四縁の二種類の分類を併川するようになった。六因という原因の分類法は仏教のなかでも有部に特用のものの感を抱 4A10,6,f
因果論考序説
■■■■■ 、里見泰穏
かせるものであるが、今は、この六因論を中心とし、而も倶舎論の妓述について︵発智論、大毘婆娑論等を一応圏外 において︶その因果論の様式や領域とその性格について考えてみようと思う。 六因論のうち先づ能作囚︵面目急1房目︶は、倶舎噸に﹁自を除いて、余は能作なり﹂と規定される。﹁生ずるも の﹂それ自体を除いた他の一切のもの︵有為法︶は、その﹁生ずるもの﹂が生ずるとき、陣を為さないという理由に より、その﹁生ずるもの﹂の原因であるとし、その原因を能作因と呼ぶのである。 ﹁存在するもの﹂が﹁生ずる﹂ことに対して障磯とならないという﹁存在するもの﹂の存在様式が、能作因であり その領域は、自体を除く他の一切の﹁存在するもの﹂である。 然しここに、疑問が提出せられる。自体を除く他の一切の﹁存在するもの﹂即ち有為法が障擬を為さずというが、 有為法にして、陣臓をなす場合があるではないか。例えば、智懲は煩悩が生ずることに対して障擬を為すものであり 日光は衆星を観ることの障擬となる。このように、有為法にして障擬をなす場合があるのに、どうして、自体を除い て、他の一切の有為法を能作因となすことができるかという疑問である。この疑問に対する答えに注意し度いのであ る。これに対する倶舎論に於ける答えは、﹁此れ生ずる時、彼れ皆障うること無くして住するが故に、彼は此れに於 て是れ能作因なり﹂というのである。この答えの要点は結果を中心にして、因と果を規定していることである。﹁何 か﹂が生じたとき、その生じた何かを結果と考え、その結果に対する原因を考えるという態度である。先の智慧や日 光の例も、たしかに智慧は煩悩を生ぜざらしめる力を有ち日光は衆星の光を見えざらしめる力を有つが、既に結果と 一一、 ( 6 )
して煩悩を生じた場合、或は衆星の光を現に見ている場合、御慧や日光は生じた結果に対しては障擬とならなかった のであり、同じく能作因としての効用があったと言はなければならないわけである。 このことは、結果を見て原因を定める態度であり、﹁結果があれば必らず原因がある﹂との原則に立っているのを 思はしめる。 倶有因︵の島§言冨冒︶は、﹁瓦に果と為る﹂と頌に規定せられている。更に長行には﹁若し法にして更互に士 用果と為らば、彼の法は交互に倶有因と為る﹂と説明している。同時の因果関係と言はれるものである。 此の因果関係をなす﹁存在するもの﹂は如何なるものであろうか。此の関係にあるものとして、物質即ち色法の構 成要素と考えられた地水火風の四大極が先づあげられる。この地水火風の四大穂は﹁更互に相望めて倶有因と為る﹂ と言はれる。その他生住異滅の能相と所相の法との関係、心と心随娠の法との関係も史互に因と為り果となる関係に ある。然し似有であるものが必らずしも倶有因と士川果の関係にあるわけではなく﹁倶有因なるに由るが故に因と成 るものは、彼は必らず倶有なり。或は倶有なるも倶有因に由るが故に因と成るに非ざるものあり﹂と言ってその械域 に限定を与えている。例へば、随相の本法に対する関係の如くである。又随相を更互に望めた場合の如きも倶有であ るが倶有因士川果の関係ではない。その他合計八項目にわたって倶有であるが倶有因でないものが説かれている。 倶有因の様式とその領域は、大体以上の如くであるが、この倶有因に対しては、重要な疑問がなげかけられてい る。﹁極成の因果扣生の中には、未だ斯の如き同時の因果を見ず。故に今応に説くべし。云何にして、倶起の潴法の 一 一 一 、
うるには、心の体雌 するとは言えない。 倶有と同じく、同時の因果関係である相応因︵切画昌胃画旨富農農①目︶は、心・心所に領域が限られる。倶有因は 互に果となるというだけの条件で立てられたが、相応因は五義平等という条件を加えて成り立つものである。即ち㈲ 所縁平淳︵心と心所とが同一所縁即ち同一対象を認識しなければならない。口行州平等︵心と心所が同し遮味を行解 しなければならない。心王が赤と理解するときは心所も同じく赤と理解しなければならない。︶日時平等︵心王と心 所とが同一刹那に作用しなければならない︶四所依平等︵心王と心所が同一根に依止していなければならない。心王 が眼根を所依としている時は心所も同じく眼根を所依としていなければならない。︶田事平等︵相応していると言い うるには、心の体が一であるが如く、諸の心所法の体も各々一でなければならぬ︶此の五義平等の一を畝いても相応 られるのである。 める。このことは差異法が経験法則であるに応じて倶有因も、経験的実践的基雌の上で発想思考されているのが感ぜ ぐのgpopい◎圃且ロ28口︶を想起せしめるものがある。特にその差異法︵日の農且具島顛の3国8︶を想ひ起さし も随って有無ならば、此れを定んで因となし、彼を定んで果と為す﹂この説明を見ると、ミルの帰納法の五原理Q︾ る。即ち結果の共存ではないかというのである。これに対する答は次の如くである。﹁若し此れの有無なるとき、彼 っているのか、前に生ぜる因縁の和合に由って焔と因とが共に結果として起っているのではないのかと問はれてい が又芽と影とか川時の関係にあり因果関係にあると答えられている。この灯焔と灯明との関係では、焔が明の因とな 聚の中に因果の義あるかを﹂と同時の因果関係に対する説明を求めているのである。此の問いに対して灯焔と灯明と (8)
同類因︵“画昌農農の目︶は﹁同類因は相似なり﹂と規定せられる。祁似の法が相似の法のために同額となる。善 の五穂は善の五穂のために、染汚は染汚のために、無記は無記のために同類因となる。その絲果を等流果という。同 類因と等流果の因果関係であり、因と果が同じ性格である場合をさしている。而も見苦所断、見集所断、見滅所断、 見道所断、修所断の煩悩断滅の五段階である五部があるが同類因I等流果の関係を取り得るのは各々自部のうちだけ であり、又有情の棲む世間は三界であるが、三界は、欲界と色界の四禅と更に四無色とに分けられ九地と言はれるが 同類因I等流果の関係は各々自地の間にのみ行はれ他地と他地との法の間には通じない。唯即ち欲界地は欲界地のた めに同類因となり、初静慮地は初静恵のために同類因となるというのである。かく同類因は自地に限定されるという のは有漏法の場合についていうのであって、無漏道ならば、展転相望して、二皆九地のために因となるのである。 無漏道は、各九地に於て、その諸地が愛執して己が有となすものでなく、界の摂でないからである。唯、等と勝との ために因となるので劣の因となることはない。蓋し無漏は加行生のものであり、向上発腱して行くものだからであ る。この同類因は遍行因︵閏2昌愚隠胃目︶と共に異時の因果と言はれる。 同類因は等流果を引いて異時の因果関係をなすが、その他の能作因と増上果、倶有因と士用果、相応因と士用果、 異熟因と異熟果などと性格が異なるものとして考えられている。未来世には同類因はない。H未来には前後がないか ら口已生の法は未生の法の結果︵等流果︶となることはできない、日過去の法は現在の法の果とはならない。 これ等の理由によって、未来には同類因なしというのが毘婆沙師の主張である。この未来に同類因がないとの主張 四 、
に対して、本無今有の雌と言はれる疑雌が出される。同類因が未来にないとすれば、三世実有の主張に反し、無から 有が生ずることになる不合理を生ずるというのである。これに対し同類囚は位に約して説くのであって作川の上で論 ずるものであり体に約して説くのではない。異熟因の如きは同じく前後関係の因果関係に属するものであるが、同類 と等流果が、因と果と相似するのに対して、前者は因と果が相似せず、未来に異熟があっても差支えがない。而も異 熟因は体相について建立するものであって同類因の如く位により作用︵現象︶によって建立されているのではない。 同類因は、六因のうちで性格が異るようである。 遍行は、同類因と同じく異時の因果関係をなすが、同類と異るところは、同額因は自部に限られていたが、遍行因 は余部の染法の因ともなるので、染法のために通因となると言はれる。遡行の諸法とは苦諦下の五見︵身見、辺見、 邪見、見取見、戒禁取見︶と疑と無明の七及び集諦下の邪見、見取見、疑と無明の四、合して十一の煩悩を十一週行の悪 と言ひ見苦所断、見集所断、見滅所断、見道所断、修所断の五部の染汚法を生ずる用あるものとされる。この十一逓 行の惑と此れらの惑と相応してはたらく心心所と生住異滅の四相とを遡行の諸法というのであるが、これ等通行の潴 法の已生のものが後の同地の染汚の諸法のために通行因となるのである。かく染汚法のために通因となること、自部 に限らず余部の染法の因ともなることから、同じく異時の因果関係ではあるが同類因とは別に六因の一つとして列挙 かく見てくると、 ことが観取される。 したのである。 過行悶は勿論同類因も、深く煩悩や修道実践に関聯して、因果論の様式や賊域が論ぜられている 五 、 (〃)
以上六因について述べてきたが、因が果を生ずるについて、取果亀冨両昌胃昌男盲目目︶及び与果︵昌巴色昌 監尉sということが説かれている。﹁能く彼の種となるが故に取果と名け、正しく彼に力を与えるが故に与果と名 く﹂と定義されるが、取果とは因に於ける果の指向性或は可能性であり、与果とは因が果を実現することを指すもの 異熟因︵くぎ騨島解ロ︶は異熟果を引く原因に名づけられたものであるが諸の不善法と有漏の善法とが異熟因とな る。無記の法はその勢力が劣であるために異熟因とならない。又無漏法は、愛に潤ほされず、三界九地に繋縛される ものでなく、従って地に繋縛される異熟を招かない。 異熟因は異類にして熟すということであり原因は善悪であって無記の結果を招くという意味であり、倶有因等は之 に対して同類にして熟すものであり、能作因のみは、同類と異類の場合を兼ねており、異熟因のみ一義的に異類にし て熟すので異熟因と名づけるのである。尚﹁異類にして熟す﹂と説明する有部の祝に対して一︲変異にして熟す﹂と説 く経部の説もある。倶有因と相応因の二因とそれから生ずる果︵士川果︶とは同時の因果関係であるから、相続の転 変差別によりて、生ずるのではなく、能作因、同類因、通行因の果は増上果、もしくは等流果であるがこれ等は因の 勢力の勝劣によって時間的に限定があるというような性格のものでないが、異熟因と異熟果の関係では、善悪等の因 の勢力によって時に分限がある。即ち異熟果は倶有因、相応因より生ずる士用果と異って、相続の枢変篭別によって 生じ、又能作、同類通行の三因の果︵増上果と等流果︶と異って、因の勢力の勝劣に随って時に分限があるという のである。この二義を兼ねて、変異にして熟するが故に異熟と称すると主張する。 ︷ハ、
因果論は因あれば果あり、果あれば因ありと簡単に言えるとは限らない。その因の在り方様式とその領域によって 必ずしも因あれば果あり、果あれば因ありとは言えない。 このことを示すものとして、同類因についての四句分別が示される。倶舎論に示された同類因の、四句分別を見よ う。因の取果と与果の立場から次の四極の場合が区別せられる。即ち﹁善の同類因﹂、﹁不善の同類因﹂﹁有覆無記 の同類因﹂﹁無覆無記の同類因﹂に分けて四句分別をしている。 なく、叉等無間縁の如く因の無間に果が生ずることもない。従って異熟因の与果は過去なのである。 である。異熟因、異熟果は、倶有因、相応因の同時なると異り、異時の因果であるから、異熟果は異熟因と倶時では ての法が等流果として無間に生ずる時は現在に於て与果するのである。異熟因は取果は現在であるが、与果は唯過去 は異時の因果であるので前の法が後の法の因となるので、前の法が過去になってから与果する。又此の二因の果とし 時に取果し与果するものだからである。異時の因果である同類因遍行因の二因は過去と現在に与果する。此の二因 あるが、倶有因と相応因との与果は唯現在に於てすると規定せられる。此の二因は同時の因果関係にあるもので、倶 為法、未来法が含まれるのであるが、これら無為法、未来法は取果しないので前の五因とは区別される。次に与果で であり、未来法は用なきものであるからである。能作因は同じく一般には現在に取果するが、能作因たるものには無 て、六因の中で、能作因を除いて余の五因は現在に於て取果し、過去未来に取果しない。過去法は巳に取果したもの であろう。因中有果、因中無果の伝統的な議論を想起せしめるものがあるが、今は間はない。この取果と与果につい 七 、 (J2)
善の同類因について、第一単句は取果はするが与果はしないものを挙げている。﹁第一句は、謂く断善根の時、岐後 に捨する所の善の得なり﹂と倶舎論に実際の場合をあげている。邪見を起して善根を断ずるとき、最後の善の得は、 現在世にあり、因として取果はするが、その瞬間に断善根するが故に、後の普心を引くことはないわけであるから、 与果することはないわけである。簡単に言えば、因があって果の実現がないということである。かく実際に当って因 の取果与果に限定を認めて因果論を考えている点に制意すべきである。第二単句は与果して取果しない場合であるが ﹁謂く、続菩根の時、最初に得する所の得なり﹂と説かれる。即断菩根のものが、更めて、初めて菩根を得る時の得 は、与果にして取果でないと言はれるのである。因の志向性としての取果はなく果の実現としての因の与果のみがあ ると言はれるのである。然しこれは、断菩根して以後と続普の時だけを考恵しての立言であって、断普根の時の取果 のみして与果しない善の得が、更に続菩の時の善の得の取果であると考えれば、取果与果共にあることになる。一応 統菩根の時の般初に得する善の得は与果のみと考えられ得るが、測ってよく見れば、過去に取果していると言うので ある。故に世親は、この第二単句に﹁爾の時続くものは、前の得なり﹂と条件につけているのである。このことは、 果の実現としての与果があれば、必らず取果があることを示していると言える。換言すれば、果があれば必らず因が あることを示している。第一単句は取果して与果しない場合であるがこれは因があっても果の実現のない場合を示し ているものである。かくて第一単句は因あるも必らずしも果があるとは限らないことを示しているに対し、第二単句 は、与果があっても取果のない場合を示しながらも、究極的には、与果あれば、何等かの意味で、必らず取果がある ことに修正されていると言い得る。簡単に言えば果があれば必らず因があることを示しているものである。 次に第三倶句は取果にして与果の場合であるが、これは﹁善根を断ぜざるものの所余の諸位に於けるものなり﹂と
言はれる。続菩の場合善の得が相続して起るときである。この場合は取果、与果共にある場合で、股も普通の因果関 係の上で考えられたものである。 第四倶非句は、取果もなく与果もない場合であり、断菩根したるものが、更に再び統善するに至らざる間の善の得 は取果も与果もしない。これは第四倶非句に当る場合である。以上側類因についての四句分別を総合すると周取果 して与果せず口取果なく与果のみあり、日取果し与果す細取果せず与果せずの四句となるが、これを換言すれば ㈹因があって果の実現がない。口果の実現たる与果があれば、必らず因がある。日因あり果の実現がある四因な く果なき場合。以上四つの場合があるが、これを更に要約すれば、﹁因があっても必ずしも果があるとは限らない﹂ こと。及び﹁采があれば必ず因があること﹂を示していると言える。因と果に対する此の如き考え方は、帰納的性格 を示すものであり、実際修道の事実の中から因果の法則を帰納せんとする態度が何はれるのである。 以上は善の同獺囚について述べてきたが、不善の同類因、有覆無記の同類因についても同様のことが述べられる。 更に無榎無胆の拠明については﹁与果の時は必りず亦取果すれども、或る時は取果にして与果に非らざるあり﹂と説 明される。その実例は阿羅漢が無余混桑に入る時である。その岐後の諸慈は取果するも与果しない。無余混桑は後有 がないからである。これも前述の因果論の性格を示すものである。 以上六因について、阿毘達磨仏教が、実際修道の上で、存在するもの︵諸法︶に密着しつつ因果関係を立てようと 努力した跡を詠れて見たのである。経験法則としての因果関係とも言うべき様机を呈していることが感じられる。か 八 (14)
かる因果論に対して大乗では、拠った形而上学的械域で因果論が論じられたことが考えられる。中諭に於ける因果否
定の弁証、唯識思想に於ける初能変は自相としては阿頼耶識、又果相としては異熟識であり、因相としては一切種子
識である。又華厳では、五教章の縁起因門六義法の立論、天台に於ける因果不二の論法など、各々立場を異にする
◇研究ノート◇
鎌倉仏教成立の時期を那辺に設定すべきか。これは日本仏教史上の一課題である。従来、この問題の究明に当って、教理学的に 乃至は思想史的立場から論議は盛んである。しかし大方の妥当的見解としては、法然の﹁選択本願念仏集﹂及び栄西の﹁興禅護国 論﹂の両譜が成った建久九年︵二九八年︶を以って、鎌倉新仏教の成立宣言とされている。 然しそれにしても、法然の﹁他力本願・専修念仏﹂或は栄西の﹁戒律為宗・不立文字﹂の立教をめぐって、それを伝統仏教の思日蓮聖人の宗教理念にっ
七五三一 、 、 、 、 一 、 序目次
序言
末法と日蓮聖人 ﹁末法為正﹂の意味 ●●●■口 。L■■■ ◇華小 郡町 言 六四二 、 、 、 みちのり 菩薩道の道程 日蓮聖人の﹁時﹂の意味 ﹁末法正機﹂の意味町田是正
い
て
(I6)①家永三郎氏︵東京教育大学︶に依れば、法然・親驚が唱導した悪人正機・在家往生・専修念仏など、他力本願浄土系の重要概 念の悉どは、平安朝の欣求浄土・厭離穣土の往生信仰を継承したもので、それは決して法然・親鴬が開拓した思想ではないと主張 される。︵家永三郎﹁中世仏教思想史研究﹂︵昭和三十年・宝蔵館︶ ②井上光貞氏︵東京大学︶に依れば、平安朝の浄土往生信仰は観想的・情緒的である。これに対して鎌倉仏教の法然・親驚の専 修念仏は他力本願の易行門であるとは云え、そこには現実との対決を迫る意志的・決断的一面が強調されている。従って平安仏教 との間に、訣別を宣したものであると主張される。︵井上光貞﹁日本浄土教成立史﹂山川出版社︶ ③田村凹澄氏︵九州大学︶の主張は、法然の往生念仏は平安八宗体制に対抗して古代的伝統仏教の打破を宣したものであるとす る。法然浄土宗は八宗体制の枠外に立てられた最初の新宗であり、そして、栄西・道元・親驚・日蓮が続いて非八宗の仏教を開い た。それは平安仏教の継承ではなく、飛蹄である。既に古代的ではなく中世的であるとされる。︵田村側澄﹁鎌倉仏教の歴史的評 価﹂日本仏教学会年報第三四号所収︶ 鎌倉新仏教の形成をめぐる代表的論説の三つを要約紹介したが、雛者としては井上・田村両氏の見解に賛意を示したい。筆者が 理解するところでは、平安浄土思想は﹃あれも。これも﹄すべて容認してしまう妥協的・情緒的で、而も消極面が強く濠み出てい る。然るに法然浄土の﹁選択﹂は﹃あれか。これか﹄という二者択一の厳しい一面が強調される。この﹁あれか。これか﹂の選択 の態度は親駕・道元・日蓮に継承され、現実と対決する道が選択され、民衆と共に生きる宗教を建立していったのである。 鎌倉仏教を特色ずける﹁専修﹂の概念は斯る厳しい選択の中から生み出されたものであり、この選択の志向が末法の厳しい現実 を克服する理念の形成にあずかったと見ることが出来る。ここに、末法思想の克服をもって宗教的使命として興起した鎌倉新仏教 介を試てみおこう。 想的継承とみるか、 又は新仏教の成立宣言とみるか、その評価は当に汗牛充棟の現況である。いま代表的見解を要約して二・三紹
染らのり
二、菩薩道の道程
● 日蓮聖人が﹁日蓮﹂と名乗られた文字的根拠を、法華経神力品﹁如日月光明。能除諸幽興⋮⋮﹂の﹁日﹂と、涌出 ● 砧﹁不染世間法。如蓮華在水・⋮..﹂の﹁蓮﹂とに依って、名サとされたことは周知のことである。 ○﹁明かなる事日月にすぎんや。浄さ事蓮華にまさるべきや。法華経は日月と蓮華となり。故に妙法蓮華経と名く。日蓮又日月 と蓮華との如くなり。﹂︵四条金吾女房御書・昭定遺四八四︶ すなわち、末法濁悪の間中に脚く日月と、泥沼に在って袖郁と芳香する蓮華とに象徴される理想を大願とされ、日 、、、、、 蓮と名乗られたのである。この﹁日並﹂とり名された当にその時にこそ、求通者蓮長から低道者日通へ、更には法準 ︵あれか︺︵これか︺ 経行者への契機が秘められていたのである。型人自身の﹁易行門か聖道門か﹂の選択の煩悶、そして法華正法の弘教 者たらんとされた固い決意は、その後の捨身弘教の誓願と実践となって見事に結実昇華されていったが、それらの契 機はすべて﹁日蓮﹂の名号に集約されるものである。 ●●●●●● 聖人の忍難弘教の宗教的実践は、法華経行者としての資格を問うた我不受身命の人間的苦斗と、但惜無上道の﹁宗 教信﹂の展開であった。末法濁悪の現実のなかに立正安国の実現を標旗となし、法華経色読の体現者としての生涯は とは そこに時代を超えて永遠の生命が躍動する宗教を形成していったのである。 日蓮聖人の生涯を佐前佐後とに大別する所以は、型人の思想・教義。そして、人間的にも一線を画することが可能だからである は、明かに平安伝統仏教からの訣別を宣したものである。以下、斯る視点を踏まえつつ、日蓮聖人の宗教理念に立ち入って考察し たい。諸先生の御批判と教示を賜わらんことを。 (18)う。およそ大別する所以は、佐前は専ら法華経行者としての資格の追究︵教証から現証へ︶にあったのに対して、佐後は法華経行 者としての自覚・仏使上行の開顕にあるとするからである。
レハノワンハサノワノースハノレトモハンワ
○﹁見二此等本文一不し顕二三類敵人一非二法華経行者一。顕し之法華経行者也。而必喪二身命一歎﹂︵教機時国妙・昭定遺二四五頁︶ ○﹁日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし。これをもってすいせよ。漢土・月支にも一間浮提の内にも肩をなら ぶる者は有︾からず﹂︵撰時紗・昭定遺一○四八頁︶ いま前掲二鱒の文意には明らかに文脈と宗教意識に於て大きな相違が見られる。伊豆配流より身延在山に至る十有余年の歳月の 中に、人間的に、宗教的に、思想的に、あらゆる角度から﹁受雌﹂の意味が深く追求され、﹁文証から現証﹂へと、その帰結が日 本第一の法華行者の自覚へと昇華されていったのである。 法華経行者の自覚とは、不動なる宗教信の発露であり、体現のことである。 ル レ ○﹁而に法華経の第五巻勧持品の二十行の偶は、日蓮だにも此国に生ずは、ほとをど︵殆︶世尊は大妄語の人、八十万億那由陀 ク の菩薩は提婆が虚証罪にも堕ぬくし。経に云有諸無智人悪口照晋等、加刀杖瓦石等云云。今の世を見るに、円蓮より外の諸僧、 う小 たれの人か法華経につけて諸人に悪口蝋署せられ、刀杖等を加る者ある。H遮なくぱ此一偶の未来記妄語となりい﹂︵開目抄。 右の開目抄の執筆は文永九年二月佐波塚原にてなされたが、その前年の九月には竜口刑場にて﹁今度法華経の行者として流罪死 罪に及ぶ。流罪はたつのくち、相州たつのくちこそ日蓮が命を捨たる処なれ。仏土におとるべしや。片瀬の中には竜口に日蓮が命 をとどめをく事は、法華経の御故なれば寂光土というべき欺﹂︵四条金吾殿御消息・昭定遺五○四頁︶と。又佐渡へ配流の身とな るや﹁魂晩ここにとどまりて﹂と述懐されているが、この竜口・佐渡の刀杖遠流の体験が聖人当身の大事であったことは確かであ る。法華経行者の自覚とは、調うなれば仏使上行としての殉教使徒の意繊の硫認である。聖人自身、佐渡四ヶ年は厳酷の生活では 昭定遺五五九頁︶あった。しかし内観の期間であったことは、開本両抄の述作、その後の身延在山時の著述をみるときこの感を深くするのである。 立正安国の実現が為に全生命を賭した宗教的実践、その実践の故に象むつた値難弘教の生涯こそ、当に菩薩道を迩 進する祈りの姿であった。従って、法華経行者の自覚とは、忍難弘教の菩薩道に依って培かわれた宗教信の帰結で 、、、、、、、、、、、、、、 ある。﹁末法﹂が意志的に体験せられたとき、当にその厳しい末法の現実を堪え抜かしめた宗教倍と、堪えさせた英
、、、、、、、、、
知と、堪え抜かれた実践とが見事に結実したとき、堪雌きを堪え、そこに仏使上行菩雌、末法の法華絲行者が誕れ出 でたのである。 ●●●●●●●●● ○日蓮聖人の忍難弘教の菩薩道とは一体何を意味するのであろうか。聖人の値難弘教とは文字通り自己の存在を捨て、自己の資 ●●●●●● 格を無にするものではなかったか。かって田辺元博士が﹁懐悔とは自己の存在資格を自ら放棄することである﹂︵懐悔道としての 哲学︶と云われたが、当にそれは人間性の限界に迫る宗教的回心にも通ずる境界であり、聖人の法華経色読とは自己の存在を無資 格に至らしめた俄悔菩薩道とも云うべきものと讃仰いたすのである。 さて聖人が末法の﹁時﹂のなかに在って、忍難弘教の途を選択された意味は何か。およそ型人ほどに末法の中で積 極的に、能動的に行動された弘教者は他になかろう。つまり法華経色読の忍難弘教の菩薩行は、そのことに於て、末 たことである。 日辿聖人の生涯は、勧持品二十行偶の真文そのままの忍雌弘教の菩薩行のそれであり、神力仙別付眠の勅使上行再 誕の境派であった。そして大事なことは、その醤薩遊のすべてが末法の﹁時﹂と深い関りに於て、通志的に股Ⅲされ三、末法と日蓮聖人
(20)法の時に能動的に働きかけた所謂、歴史の中で主体的に行動した歴史の創造者でもあった。 人間が歴史の意味を思考し、その意義を発見しようとするとき、人間は歴史の枠外に存在することはできない。人間は歴史的時 間の中に被投的存在であるにせよ、また企投的存在でありたいとするにせよ、歴史的時間から離れて存在することは出来ない。 歴史の只中に行動する人間が、歴史の主体者・創造者であるということは、歴史のなかに存在する﹁もの﹂ではな くて、むしろ存在する﹁こと﹂に強い意味がこめられているからである。末法なる時のなかで、忍難弘教の菩薩道の 実践者であった﹁こと﹂に注目せねばならない。人間は歴史的時間から断絶して存在することはない。常に現に在る 存在である。人間の存在は、この歴史的時間に基いてその意味が間われなければならないし、また、存在することを 通して雁史の意味も間われなければならない。 そこで﹁末法の法華経行者日蓮﹂の意味も、その歴史的時間との関りに於て、その存在することの意義が問われね ばならない。 日蓮聖人は末法の法華経行者であったと云われる。では法華絲行者といわれる外的条件は何か。帷うに、第一に末 法斗評の時であること。第二に三類の強敵に適遇すること。第三に刀杖遠流野の肉体的危難が加えられることであ ●● 繰返せば、たんに所与の末法当今の渦中に決然立って積極的に実践されたことだけではなく、その実践されたこと が、果して雁史のなかでどれほどの意味をもつものか、改めて考えられてもよいのではないか。次醐に論をゆずりた い 。
四、日蓮聖人の﹁時この意味
さて、H述聖人が末法の法華経行者として、その弘教に当っての﹁時﹂の概念を飛要視されたことは云うまでもな い。このことは、教義の根韓をなす五綱教判の中に﹁時﹂の概念を組成していることからも袈付される。因に弘教と 関述して﹁時﹂に言及されている簡処を二・三摘出すれば左の如くである。 orfソリ
ンワシテプノハ午子スル二
○﹁時者弘一仏教一人必可し知レ時:・・・・不し知し時弘し法無し益上還堕二悪道一也﹂︵教機時国紗・昭定避二四二頁︶ ○﹁仏法は時によるべし﹂︵開目抄・昭定遺六○九頁︶ ○﹁正法を修して仏になる行は時によるべし﹂︵日妙聖人御書・前同六四五頁︶ ツス ツ ○﹁法華経を持と中経は一なれども持事は時に随て色色なるべし﹂︵法蓮紗・前同九五一頁︶ ス上.ノ。リ ○﹁知者と申は如レ此時を知て法華経を弘通するが第一の秘事なり﹂︵前掲密・前同頁︶ し ○﹁夫仏法を学せん法は必ず先づ時をならうべし﹂︵撰時紗・前同一○○三頁︶ ○﹁仏眼をかって時機をかんがえよ﹂︵撰時紗・前同頁︶ 不動なる信念。 て可能である。 さて、H述耐 聖人は弘教に際して、その所与の﹁時﹂を何故に重要視されたのか、何故に時を選ぶことを大事とされたのか。し てだて ばらくその意味を考えたい。いまこれが考察の手段として、伊豆配流の直後の縦になる﹁教機時国妙﹂の一文を拝借 不動なる信念。②自己の現在的立場と将来を洞察する英知。③揺ぎなき実践力。この三者を具備することによって始 の三条件を克服することは、肉体的にも精神的にも極めて至難な道である。若し、克服するとすれば、①強靱にして る。つまり、法華経に予言される﹁仏在世猶多怨疾・況滅度後﹂の聖文にまさに適中されることであろう。然し、こ 1 レ ト ︽ 、 可 〃 ◎ (22)ハテニ
キフワ
○﹁当世入二末法三百一十余年也、椛経念仏等時欺。法華経時歎。能能可レ勘二時国一也﹂︵教機時国妙・昭定遺二四三頁︶ キ 右の﹁能能可ン勘二時刻匡との﹁時刻﹂とは、所謂、物理的時間を意味するのではない。この﹁時刻﹂とは、聖人 が被投されて在る客観的実在としての﹃時﹄であって、それは歴史であり、末法なる時なのである。従って﹁可レ勘二 時刻こと云うのは、被投的に存在たらしめられている末法の﹁時﹂そのものの考察と認識なのである。つまり末法 の﹁時﹂という客観的な歴史の中へ否応なしに被投されている自己と、その客観的実在としての﹁時﹂の中で、企投 的存在たろうとする自己を発見しようとするものである。少なくとも、法華経行者であろうとするならば、﹁時﹂を 考えなくして存在価値はないのである。 前述のことから、日蓮聖人の﹁時﹂とは、他から﹁与えられた時﹂又は﹁選び与えられた時﹂ではなかった。それ は聖人の愈志によって﹁選ばれた時﹂であった。被投性の時ではなく、企投性の時であった。当に﹁時﹂を選択する という意志の自由性に強い意味がこめられているのである。従って、偶々、末法時に生を受けた弘教者というのでは ない。法華経行者の実践弘通が行われる時であるという、聖人の主体性が強調されているのである。末法の法華経行 者の自覚とは、当に﹁時﹂を選択する企投性に立脚したものであった。 日蓮聖人の宗教理念の形成に於て、極めて深い関りをもっていたのは末法思想であった。当時の人々が末法思想に よって大きく揺振られたことは周知の事実である。然し、その受容意識︵末法観︶は必ずしも一様ではなかった。 我が国での末法当来の初年は永承七年︵一○五二・扶桑略記︶とするのが通説となっている。いまその算定の正否を議論する余地五、﹁末法為正﹂の意味
はない。ともかく爾後二百五十年の間有為転変の世相が錯綜するに及び、日本仏教との深い関連を持って、末法思想が問題となっ ていることを認めざるを得ない。因にこの歴史を背景として、慈円僧正は﹁愚管抄︵二三○年︶﹂を著し﹁マコトニハ末代悪世 ・武士ガ世ニナリハテ、末法ニモイリタレ・ハ﹂︵愚管抄・附録︶と末法観的立場を打出している。然し惟うに、慈円が生涯強調し たものは﹁滅罪生善・遮悪持善・諸悪英作・諸善奉行・利益衆生・抜苦与楽﹂の仏教倫理の建設ではなかったか。従来、愚管抄は 仏教的道理に基く史論を展開し、併せて平安末から鎌倉時代にかけての﹁末法観﹂を論ずるのに不可欠の史論書とされてきた。確 かに優れた史論書ではあるが、愚管抄の全篇を通すとき、そこには仏教倫理﹁道理﹂の建設は強く主張されてはいるが、積極的に 末法思想を克服する理念なり方途についての探究はみられない。ここに、末法思想超克の方途と、建設は鎌倉新仏教の祖師の出現 をまたねばならなかった。法然・親鴬・道元・日蓮の各祖師によって末法思想の意味が徹底的に究明され、而も民衆の生活と直結 した中で克服理念が形成されていったことは、日本仏教史上に占める鎌倉仏教の史的意義を画期的ならしめるものである。 鎌倉仏教を概観したとき、肢も﹃末法﹄が危機意識として惨透した時期は、所調、自界叛逆・他国侵逼・天変地天 連年に亘った建久・建仁・承久・貞永・建長・弘長・文永・弘安・永仁・正安の百余年︵二九二’一三○○︶の間 ではなかったか。謂うなれば、日蓮聖人︵三二’三全︶を含めて鎌倉新仏教の開祖、法然︵一三一’三三︶・栄西︵二 空’三三︶・親鷲︵二望’三童︶・道元︵三81三菫︶等の活動された時代がこれに当るのである。然るに何故に、 日蓮聖人の末法時の受容意識に於て、或は末法克服の理念に於て、他の祖師との間に大きな相異がみられるのであろ うか。吾々はここに焦点をしぼり考えてみたい。 日蓮聖人の宗教理念である﹁末法為正﹂とは一体どんな意味を有っのであろうか。調うまでもなく﹁末法為正﹂と 。●● は、立教開宗の基本精神であることは論を俟ない。いま文字通に﹁末法為正﹂を読めば、﹁末法の時をもって正とな (24)
す﹂と云うのである。そして、その﹁正﹂とは、正意・正時・正理・正道・正機・正法・等々多義に解釈することが できる。聖人の御文書の中で﹁末法為正﹂の字句が適格に示される箇処は次の二書であろう。
ノノハルニワチワシテヂ又・Pし︽ナヲスト
○﹁迩門十四品正宗八品一往見レ之以二二乗一為し正以二菩薩・凡夫一為し傍。再往勘咳之以二凡夫・正・像・末一為し正。正・像・末三チクニクモハノスラシ
ヤノザヤニクムワシナセ 時之中以二末法始一為二正中正一。問日其証如何。答日法師品一云而此経者如来現在猶多二怨嫉一況滅度後。宝塔品云令二法久住一乃至 ニモナノワスカノトチク シルワシテワスレハワニテワスーr
所し来化仏当レ知二此意一等。勧持・安楽等可し見し之。迩門如し是。以二本門一論し之一向以二末法之初一為一正機一・⋮⋮本門序正流通倶ノし小ニルワ
ワストノト.
、二 以一末法之始一為し詮。在世本門末法之初一同純圃也。﹂︵観心本尊抄・昭定遺七一五頁︶卜ニメハ▼ナノワストノハ
サワスレハワ ○﹁自二安楽行一勧持・提婆・宝塔・法師逆次読し之以二滅後衆生為し本。在世衆生傍也。以激後一論し之正法一千年像法一千年傍ワストノー︽チワストテクテクノテクワストテ夕
也。以二末法一為し正。末法中以二日蓮一為し正也。問日其證拠如何。答日況滅度後文是也。疑云日蓮為し正正文如何。答云有諸無智 ナタハチタヒルカニニヶシテヘ又小 人悪口罵督等及加刀杖者等云云。問云自讃如何。答日喜余し身故難し堪自讃也。﹂︵法華取要抄・昭定逝八言貢︶ いま﹁末法為正﹂の概念をコトバ通りに受けとめれば、末法の時をして正法時代へと還元し、以って歴史的同時性 と宗教的同質性を同権の立場で認めようとしている。 然しこの論理的主張は、末法と正法という全く対立する異質の概念を同等の椛利に於て、同等の時占慥於て認めよ うとする二律背反論理であり、論理的矛盾をおかしていることは自明である。 また、末法と正法の雁史的同時性を認めようとするのは、歴史的時間の経過を否定する時間倒錯の論理でもある。 ロジカル 聖人の御文書の内容の趣旨を、論理の型にはめこんで思惟する心要はないかも知れない。しかし聖人は、この矛盾の 論理と時間倒錯の思考を克服して﹁末法為准﹂と強調してやまないのである。当に﹁末法為正﹂とは、矛盾論理を揚 棄した弁証の理論ではなかろうか。※﹁末法為正﹂の思想的論拠について ※歴史的時間の倒錯論理について。 この大科学者の言葉は、時間の可逆性と不可逆性を思惟するうえで示唆に富むものである。時間n.瞳・鮒︲・・燭の事象の順序関係 は必ずしも正のh・睦・均.⋮魚の順序のみ示すものではない。若し時間tに負の符号をつけてや・趣・油⋮・もとしても成立す る。即ち数式計算上の或る時間tに於てその連続を逆にしたとしても、事象の順序関係は成立するのである。この意味で数式上の 時間は可逆性である。然し実測される物理的時間は不可逆性である。ここに﹁末法為正﹂の理念を理解するに当り、どうしても日 常的な時間とか物理的な時間という観念が打破されねばならない。﹁末法為正﹂という末法と正法の対立概念を同時点で認めるた めには時間の倒錯論理。つまり時間の可逆性の思惟が導入されなければならない。﹁末法為正﹂の理念が永遠の時間とか無限なる 生命を志向するものであるならば、少なくとも史的時間の可逆性が肯定される論理が認められなければならない。 概念と方法・九二頁借引用︶ ﹃末法為正﹄の意味を理解するためには、史的時間の質的変化を沓定する論理を理解せねばならない。ここに物理学者アインシ ュタインの興味ある一文を参考として考えてみよう。 ﹁時間は、物理学的な式では文字tであらわされていて、もちろんそれは負の符号をつけても方程式に導入されうる.このこと は時間を逆方向に計算する可能性を与える。しかし、ここでわれわれはただ単なる計算にのみかかわっているのであって、そのこ とから、時間の流れそれ自身も負になりうることを、決して結論してはならない。ここに一切の誤解の根本がある。ここには許さ れうるものであり、必然的でさえあるもの、たとえば、計算と現実界において可能なものとの混同がある﹂︵岩波講座7.哲学の 日蓮聖人立教の基本精神が﹁末法為正﹂にあったことは否定することは出来ない。そして忍難弘通の菩薩道の実践は、﹁精神﹂ (26)
この観心本尊抄の要文こそ聖人畢生の要諦であり、宗教思想の根幹である。既にみた如く﹁末法為正﹂とは、二律背反的矛盾・ 時間倒錯論理を内包しつつも、それを克服することが強く示唆されている。要は永遠なる生命とか無限なる魂を肯定し開顕しょう とするところに意義を有っている。斯る意味に於て、本尊抄の﹁今本時娑婆世界云云:.﹂の聖文こそ﹁末法為正﹂と主張される宗 教理念の裏付であり、そして、本尊抄にみられるその永遠なる生命︵久遠仏︶思想の客観的教証として、それを法華経にもとめて いることは云うまでもない。本尊抄の﹁今本時娑婆世界離三災出四劫常住浄土﹂なりとの国土の常住・娑婆世界の肯定・末法世界 を肯定する論拠として寿量品の﹁我常在此娑婆世界﹂・﹁我此土安穏・天人常充満﹂の経文を指摘できよう。また本尊抄の﹃仏既 過去不滅未来不生﹄との文は、化城畷品の﹁彼仏滅度己来・復過是数・無量無辺・百千万億・阿僧祇劫・我以如来・知見力故・観 彼久遠・猶如今日﹂の一文を証としつつ、寿鼠品の﹁無有生死・若退若出・亦無在世及滅度者・非実非虚・非如非異﹂との久遠の 仏身思想を典拠とせるは明らかである。 さて﹁末法為正﹂とは、かかる時間的空間的限界を超克した絶対者久遠本仏の存在・常住不滅の永遠存在・無限なる生命を開顕 したる法華経の幽遠なる思想を背景として、この末法濁悪の時なればこそ、法華正法の興陸まさに当今なりとの確信、こうした時 いのら 間と空間の永遠性を内包した永遠の生命・生命の宗教を主張するものなのである。聖人の不動なる信・歴史を洞察した英知・蕎薩 道の実践という三者の見事な融合の中から確立されたものこそ、当に﹁末法為正﹂なる宗教理念であったのである。 次の御文撚であろう。 乗の思想と信仰にあったことは事実である。因にここに﹁末法為正﹂のコトパが理念として開陳される御文書を指摘するとすれば を﹁宗教理念﹂にまで昇華していったのである。その宗教理念として見事に開花結実に至らしめたものは、調うまでもなく法華一 ○﹁今本時娑婆世果離一三災一出二四劫一常住浄土。仏既過去不漁未来不し生。所化以同体。此即己心三千具足二蔵世間也。﹂︵観 ノ タ応
ノ歩りニニモセニモ
テナリレ ノ 心本尊抄・昭定遺七三一頁︶すでにみてきた如く、日巡聖人の忍難弘教の生涯を支えた宗教理念には幾つかのすぐれた要素が内蔵されている。 ①建長五年暁曙の法華経宣布の大願と末法当今の衆生済度の悲願が秘められていること。②正法と末法の異質の対立 概念を同質的に認めようとする二律背反論理・時間倒錯・論理を内包するも、この矛盾論理を克服する発想と思惟が くみこまれていること。③そして法華一乗思想の開顕と、それに立脚しつつ、・水遠なる生命・無限なる魂の存在を肯 定する理論が展開されていること。④更には﹁我不愛身命・但惜無上道﹂の教証から現証へと菩薩道の実践が強調さ れている。こと等々、日蓮聖人にとって当に﹁末法為正﹂の理念は、久遠の生命が躍動する宗教に不可欠なる支柱で あったのである。ここに聖人の宗教とは、人間の有限なる世界と時間を超えて、永遠に生きる生命の教えとなってい るのである。 日蓮聖人立教の基本理念である﹁末法為正﹂の意味について、如上に於ては専ら膝史の中で主体的に創造的に活動 する企投性の人間に焦点をしぼりつつ、その意味を思考してきた。然し、如上にあっては歴史の中で何故に創造的で 企投的であらねばならないの・か、人間の主体的行動が如何なる意味をもつのか、と云った宗教的実践の重要性に関し ては余り論及しなかった。つまり、日蓮聖人が末法の時の中に在って、何に故の忍難弘通であったのか。単に聖人一 人の宗教的昇華の為の弘教であったのか。以下こうした内容に立入って少しく考えてみたい。 勿論答えは出ている。﹁末法為正﹂の理論的帰結としての﹁末法正機﹂を唱導された聖人にとって、末法の衆生 済度の悲願を秘めての忍難弘教の実践であったことは、云うまでもなかろう。だからこそ、その宗教的実践によって
六、﹁末法正機﹂の意味
(28)培かわれた聖人の﹁教え﹂を看過することは出来ないのである。 さて﹁末法正機﹂とは、末法の下根劣機と云えども、仏果証乗の﹁正機﹂となりうる可能性を積極的に示唆された ものである。因に本尊抄の一文を参照しよう。
テワスレハヲニチ▼ストーテヲストノト︿二
○﹁以二本門一論し之一向以二末法之初一為二正機一⋮⋮本門序正流通倶以二末法之始一為し詮。在世本門末法之初一同純圓也﹂︵観心本 すでに述べた如く、﹁末法正機﹂とは、﹁末法為正﹂と主張する理念的帰結であって、そこには末法の鈍機劣機と 云えども得脱の証が与えられるものでなければならないとする、積極的救済の立場が強調されている。然しながら、 その﹁正機﹂とは末法中の﹁正機﹂であるが為に、その﹁正機﹂たらんとするには宗教的﹁信﹂の裏付がなければな らない。即ち、﹁末法正機﹂と云うのであるから、末法の時に在っても仏界証乗の世界に得入することが出来ると云 う簡単な理論ではない。末法の中でも証果を得ることが出来るが、その証果を得るための努力、宗教的実践がなくて はならない。﹁正機﹂となる為めの﹁信﹂が必須の条件とされるのである。聖人によれば﹁証﹂とは、与えられるも のではなく、自己の厳しい受持信行によって証得されるとする。末法なるが故に、本未有普の鈍機には受持信行の厳 しさが要請されるのである。たしかに、末法当今の衆生にとって受持信行は苦しく、厳しい修行の道である。然し、 ﹁末法正機﹂なのである。必ず法華一乗の﹁証果﹂の世界へと得入されるのであると、日蓮聖人は保証を与えられて ﹁末法正機﹂上 いるのである。 日蓮聖人の聖意を拝しよう。有名な﹁自然譲与﹂の段りを参考にして考えてみよう。 ノハノニス
スレハヲ二リヘクマプノブ ○﹁釈尊因行果徳二法妙法蓮華経五字具足。我等受二持此五字一自然譲一与彼因果功徳一。﹂︵観心本尊抄・昭定遺七二頁︶ 尊抄・昭定逝七一六頁︶さて親鴬上人には﹁悪人正機﹂の思想がある。それは﹁善人なほもて往生をとぐ、況や悪人おや﹂と、云うのであ る。絶対他力の阿弥陀仏の本願は善人よりも、善を行じ得ない悪人に対して深く、悪人の自覚ある者ものこそ往生が 可能であるとするのである。然し親驚の﹁正機﹂とは絶対他力の救いであって、そこには﹁与えられる﹂ものという 易行の立場が表現されている。然るに聖人の﹁末法正機﹂の思想は、末法の時であるから善人も上根も、況んや下根 ●●●● も悪人もすべて証乗の世界に得入されうると云う単純な論理ではない。そこでは、末法の時に強い意味をもたしめっ 。●●●●●● ●●●●●○ つ、本未有善の鈍機は法華経本門の要諦たる題目を受持信行するところに証乗の果が得られるとする、信行する人間 ●●●●● の主体性が強い意味をもって強調されている。従って、本尊抄の﹁自然譲与﹂の意味は、文字通りに談り与えられる 他力本願のことではない。法華経本門観心の﹁行﹂を本門の妙法五字として如説修行するところに、末法当今の衆生 と云えども仏の大慈悲の譲与にあずかりうるとされるのである。つまり日蓮聖人にとって、忍難弘教の菩薩道の実践 そのものが仏因仏果の﹁証﹂の世界そのものであったのである。 如上のことから、﹁末法正機﹂の﹁正機﹂とは、歴史の中に投げだされた人間ではない。放職されている人間では ない。当に﹁正機﹂とは、仏果証乗の世界を目標として、宗教的実践にいそしむ人間なのである。末法なる厳しい現 実の中に在って、自己をみつめる人間なのである。末法の時なるが故に、歴史の流に対処しうる人間︵正機︶となら ねばならない。末法の渦中に在って、自己を見失わない人間︵正機︶とならなければならないのである。
ズレ︽ナリバヲハキヲ絶ラヲ二︽シヲノーミヲシメ々マフサノ二
○﹁天晴地明。識二法華一者可し得二世法一歎。不し識二一念三千一者仏起二大慈悲一五宇内褒二此珠一令ソ懸二末代幼稚頸一。﹂︵観心本 尊抄・昭定遺七二○頁︶ (”)日蓮聖人の忍難弘教の生涯が意味するものか何か。斗課末法中に在って、﹁存在する人間﹂としてではなく、その 時のなかに﹁存在すること﹂の為に、自己の内的追究︵内証を求めて︶の実践であった。就中、その実践に於て強調 されたものは、人間日蓮の生身の肉体を無にしての護法運動、自己の存在資格を捨てての広宣流布の大願、当にその 捨身弘法の故に、かえって﹁法華経行者日蓮﹂として生きられたのである。まさしく、上行菩薩の再誕であった。 クメテ ヲニセ訪
二レヘハ
レンヤ ︽ク ソレンニク ○﹁汝早改二信仰之寸心一速帰二実乗之一善一・然則三界皆仏国也。仏国其衰哉。十方悉宝土也。宝土何壊哉。国無二衰微一土無二破 ︿ニシテ︿ナラン クスシ 壊一身是安全心是禅定。此詞此言可し信可咳崇突。︵立正安国論・昭定遺一三六頁︶ ●●● この立正安国論のコトバを何と受けとめるか。この聖文中、大事なことは、信仰の﹃寸心の改め﹄が強調されてい ることである。﹁改める﹂という人間の意志的行為。改めの熾悔の行為に深い意味がもたしめられている。この﹁改 める﹂ことの信行こそ、仏道者にとって肝要とすべき事である。 日越聖人の宗教を支えたものは、深い内省から誕み出された絶対信。忍難弘教による教証から現証への昇華。激動 する歴史を洞察した冷徹なる英知。末法の渦中に意志的に、人間的に、創造的に実践された行動。これらの要素が融 合されて聖人の宗教は形成されたのである。これこそ、時代を超えて永遠に師く生命の宗教なのである。 七、 結 諏 胴 ︵“・皿・羽︶はじめにlこの小論は昭和四十五年二月十一日発行の身延町誌所職の歴史細鎌倉期の南部実長から一族の直系︵南部
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家文書︶と見られる、実継、長継、師行、政長、信政、政光の七代の孫が、波木井郷及諸邑の地頭として、此地を根 . 拠として、南北朝の動乱期を中心に王事に挺身した、波木井南部1︵甲南部︶一族の精神史を綴るにあたり、地頭南 部実長が身延山を中心とした十三里四方︵六丁一里︶を日蓮聖人に寄進したと云われる関係上、勢い身延御入山以前 の﹁身延と七面山﹂とに言及せざるを得なくなり、偶々左に記す日蓮宗新聞所栽の記事を手がかりとして推論をすす この一論は身延町誌雁史細中の一項として稲を起したものであるが、町誌は身延町の全般に、っての編集のために 頁数に限定があり、為にこの項も大幅な削減割愛の止むなきに至ったため、稿を補足して転栽したものである。 然し今まで、御入山以前の身延及七而山については、殆んど未知の領域として又知る必要もないものとして当然の 如く等閑視されて来たが、身延や七面山は日蓮聖人時代に、突如として現われ出でたものではなく、紗くとも身延の てらだいら 寺平、旧蝦岡の大久保、消子丸山、旧大河内の桜井地区には繩文期の土器、石器呼が出土しており、五○○○年以上 の昔からの先住民族の逝跡が証明されている。 めて見た。 この一率日蓮聖人身延御入山以前の七面山と身延
中里
日
應
(32)即ち有史以前に遡及することも亦、身延に於ける人類生存の歴史を知る意味に於て、必要なことであると思い、こ の稿を起したものであるが、原稿の提出期限に制約されたために、文献の寄せ集めのような結果となってしまったが これが幾分でも読者諸賢の参考ともなれば幸甚である。
第一章七面山と七面大明神
第一節日蓮聖人御在山当時の伝説
第二節日蓮聖人身延入山以前の七面山
第一項日蓮宗新聞掲載の﹁身延七面山﹂と大峰七面山との瓶似点第二項修験道
第三項役小角と修験道の歴史
第四項甲斐国修験道
・甲斐国修験の起原 ・信玄時代に於ける修験行者の役目 ・明治維新に於ける甲斐修験の活蹄 ・本宗転宗の修験の巨刹第三節七面大明神が史実に現われた時期
第四節身延鑑に現われた七面天女
第五節混同された弁才天と吉祥天
・印度神話に現はれた弁才天と吉祥天 ・金光明経に現はれた弁才天と吉祥天 ・金光明経の説相これは勿論信仰体験から生れた伝説として一般に伝えられているものである、即ち
第六節七面大明神は弁才天なり
第七節厳島弁才天と七面天女
第一項日本の弁才天信仰
第二頂厳島の歴史
・神仏習合 ・天台宗との習合 ・本地垂遊説 。﹁縁起残簡﹂に現われた厳島の本地 ・修験道と厳島 。﹁臥雲日件録﹂に現われた厳島の本地第二章身延と七面山
第一節身延の名称について
第二節箕面山と身延山
第三節寺平長編寺と七面山
第一章七面山と七面大明神
第一節日蓮聖人御在山当時の伝説
(34)﹁雄端三年︵一二七七︶型人身延入山四年の後、五十六才、聖人は常のように弟子檀方のために脱法されていた、 その日の参詣聴衆の中に、歳のころ二十才前後の優雅な粧をこらし、気品に満ちた佳人が居り、つつましやかに、 而も熱心に聖人の説法を聴聞していた。同じく聴聞していた檀越の波水井公南部実長は、この美女を見て、そもそ も何人であろうか、と心に疑惑をいだいた、聖人は実長その他一同の者の疑を知ってか、その佳人にむかい、﹁そ なたの本当の姿を見せてやってはどうか﹂と申された。佳人は答えて.滴の水をいただければ﹂と申されたので 聖人は侍者に命じて花瓶を執って佳人に授けたところ、忽ちにして一丈余りの碓蛇となり、花瓶にまつわりつき、 首をもたげ、舌を吐きその形相まことに怖ろしい限りであった。実長はこのありさまを見て疑は賄れたけれども、 余りの意外さに、身がちぢみ口中渦きて、心中傑然たるものがあった、実長はこの有様を永く後世に伝えん。﹂ とて画工に画かせたのである。 すみお上くら 現在大野山本遠寺に戯する狩野大蔵︵遠野南部三十代怡顔と親交ありたる攻の狩野派山師角大城?︶の画けるもの ︵山梨県文化財︶最も古く、又身延山妙石坊にも篇額として掲げられている。 ﹁稚蛇再び形を元の佳人に復し、日越聖人に﹁聖人背印度惑鷲山に於て釈迦世尊より命を受けられ、法華経弘通の め 大導師として日本国に再誕され、この身延山を棲神留魂の根本道場と定められました、妾も又仏様の命に従い、捜 法神となって、身延山をして水火兵革の難を受けることなく、又後の世の人々がこの法華経を階じ行じたならば、 その願うところ悉く満足せしめるでありましょう﹂ と醤い終って七面山を指して風の如く立去って行った。 これは草山元政上人が、寛文六年︵一六六六︶旧暦五月十六日に、僧某のもとめに応じて肥した﹁七面大明神縁
起﹂で、これ以後、別頭高僧伝、別頭統記等は皆この説を受け、貞享年間に集められた謡曲﹁現在七面﹂にもこれを 取り入れられており、又、七面大明神の神体については﹁七面山は吉祥天の垂迩なり﹂とし、吉祥天を説明するに、
とくしやかしりまかだいぴや
﹁鬼子母尊天の女なり、父を徳叉迦と名く︵華には円満具足と言う︶、天女梵語は室利摩訶提毘耶、華には吉祥天女 と称す、又、第一威徳成就衆事大功徳天と言う、諸経の中略して功徳天と沙する廷れなり﹂とて鬼子母神の子である と称す、又、鐸 但し日蓮聖人の現存の避文中には﹁七面大明神﹂に関する記事は見あたらず、これは﹁明神示現を聖人と結び、権 威づける﹂ための所論であると速断する向もある。 しもやき 又、南部実長は永仁五年九月、鎌倉から身延に参詣された、日朗聖人と十八日早朝、身延梅平の隠築を立って下山 に道をとり、早川に沿うて雨畑に出で、土地の人の案内を得て七面山に登り、山上に一泊して新たに祠を建て、末法 総鎮守七面大明神と号した。七面山より帰宅した実長は、その疲労のためもあったか、俄かに病の床に臥され、同月 廿五日七十六才の天がを全うして入寂された﹂とも伝えられている。 と記している。 第一項日蓮宗新聞掲載の﹁身延七面山﹂と﹁大峰七面山﹂との類似点 日蓮宗新聞︵昭四三、一○、一○発行五四二号︶によれば、日蓮宗の現代宗教研究所が吉野大峰山を中心として、 修験回峰行の調査を行なったが、その中に﹁大峰山にも、七面山と名付くる山があり、曾て回峰修行のコースであっ た﹂ことが知られた、以下報道記事によると、第二節日蓮聖人身延入山以前の七面山
(36)﹁大峰七面山は山上岳から大日岳へいたる道程から遥拝することの出来る位侭にあるが、現在は登山道が壊れ危険 が伴うため、大峰回峰行のコースから除外され、通行を禁じられている。しかしセツ池のひとつは遥拝所の近くに ある。また筋くべきことに断雄の切り立った山容は、身延七面山ときわめて類似している。身延七面山は七面大明 神を神体としているが、大峰七面山の神体はつまびらかでない、山の位置から推定するところ、釈迦、大日、弥勅 とならぶ何れかの菩薩を祠ったものと思はれる。 身延七面山にとって重要な問題は﹁池大神﹂として祠られている尊像は﹁役行者﹂像か、少くとも、後世それを神 仙思想によって修正せしめたものであろうと推定されることである。 また山麓の神力坊、十万部寺、妙石坊等に祠られている﹁妙法大善神﹂はもと﹁太郎ガ峰﹂﹁次郎ガ峰﹂の天狗で あるとされるところから、これは関東修験の特徴を示すものと考えられる、赤沢の妙福寺はもと真言宗の寺であり その管理下にあった七面山と六ケ坊を率いて転宗したものである。この史実に基づくかぎり、身延七面山は大峯真 言系修験と関東修験の集合したものが初期の形態であったものと推定されるのである﹂ とあるように、日蓮聖人身延入山以前の七面山の信仰的な存在点について貴重な示唆を与えている、そこでこの立論 を本として推敲を試みることにする。