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Research Society for 15 years War and Japanese Medical Science and Service 1(1) November 2000 * From the memorial lecture at the General Assembly esta

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Vol. 1 No. 1

ISSN 1346 – 0463

November 2000

Journal of Research Society for

15 years War and Japanese Medical Science and Service

15年戦争と日本の医学医療

研究会会誌

第1巻・第1号(創刊号) 2000年11月

目 次

十五年戦争と日本の医療 莇 昭三・・ 1 日本産業衛生学会および日本衛生学会の日本の侵略戦争へのかかわり 西山 勝夫・ 18 日本における近代戦争と出産の歴史 石原 明子・・ 25 医学と戦争−通史的に 水野 洋・・・ 34 京都府立医大吉村寿人元学長と731部隊 門脇 一郎・・ 39 十五年戦争下の軍医について 竹内 治一・・ 44 「15年戦争」を考える視点 中塚 明・・・ 46 15年戦争と日本の医学医療研究会研究会会則・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 50 編集後記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 50

Content

Fifteen Years War and Japanese Medicine

From the memorial lecture at the general assembly establishing the Society

Shozo AZAMI・・・・ 1 The Commitment of Japan Association of Industrial Health and

Japan Association of Hygiene to the Japanese Invading War Katsuo NISHIYAMA・・ 18 History of Birth Control in Relation to Modern War in Japan Akiko ISHIHARA・・・ 25 Medicine and War – Historical Review Hiroshi MIZUNO・・・・ 34 Kyoto Medical College and Unit 731 of Japanese Kwantung Army Ichiro KADOWAKI・・・ 39 For the Japanese Army and Navy Doctors of the 15 Years War Jiichi TAKEUCHI・・・ 44 Viewpoints to consider “Fifteen Years War” Akira NAKATSUKA・・ 46 The Regulations of the Research Society for 15 years War and

Japanese Medical Science and Service・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 50 Editorial note・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 50

15年戦争と日本の医学医療研究会

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[一]はじめに  私たちの呼びかけにご多忙な中を応えていただ き、このように多数お集まり下さって感謝してい ます。  日本のあの十五年の侵略戦争後、すでに五五年 を経過し、やがて二一世紀を迎えます。  二〇世紀は、日本にとってきわめて特異な世紀 であったと思います。その前半の歴史は清国の義 和団に対する干渉戦争からはじまり、その後連綿 と続くアジア諸国への干渉と侵略の戦争に終始し ました。その後半は、日本の固有の国土に有史以 来はじめて外国の軍隊に「基地」を与え、その「基 地に守られ」た五十年であったわけです。  そして、かって侵略した諸国に対し政府として 正式に謝罪を表明しないまま、そして「基地に守 られ」ることの意味の議論が十分国民的になされ ないまま、やがて日本の二〇世紀が過ぎ去ろうと しています。  これまで幾つかの分野から、戦争責任について 真摯な論議と反省がされてきました。しかし、日 本の侵略戦争の責任を日本政府としてとらえた論 議が浅く、戦争の惨禍をひきおこしたことに対す る責任が国民的に明確にされないまま今日に及ん でいます。そのために日本の戦後の歴史には好ま しくないさまざまは現象、たとえば戦争賛美の意 見や「自虐史観」論、「神の国」論などと、今日 の世界の平和と人類の安全を脅かすような問題提 起がなされ、いまだに世界、特にアジアの諸国か ら日本は警戒され孤立する状況にすらなっていま

十 五 年 戦 争 と 日 本 の 医 療

「15 年戦争と日本の医学医療研究会」設立総会 (2000・6・17 於・同志社大学 ) での

記念講演より

莇 昭三

*

十五年戦争と日本の医学医療研究会代表世話人

城北病院名誉院長

Fifteen Years War and Japanese Medicine

From the memorial lecture at the General Assembly establishing the Society

June 17, 2000, Kyoto

Shozo AZAMI

*

President of the Research Society for 15 years War and Japanese Medical Science and Service

す。今回の森首相の「神の国」発言もそれであり ます。  日本の戦争責任という場合、日本のアジア諸国 への侵略行為の責任がどうしても中心となりま す。それは当然であり、侵略戦争の責任の所在、 侵略行為の具体的内容、そしてその被害に対する 正当な償いを明確にすることは重要であります。 しかし、多くの日本兵士の戦死、原爆や空襲での 国民の被害、食料難での悲惨な「銃後」の国民の 生活など、十五年戦争が国民自身に与えた被害に 対する日本政府の責任も問題であるわけです。ま た十五年戦争が野蛮な侵略であり、人権侵害であ ることを意識しながら、知らず知らずにそれに荷 担した一人ひとりの国民の反省も、戦争責任の論 議には欠かせない課題でもあります。  東京都の松沢病院は戦前から有名な精神科病院 であります。そこの記録をみると、終戦前の数年 間の入院患者の死亡率が極端に高くなっていま す。一九四五年には入院患者の四一%が死亡して います。原因は食料不足からの栄養失調症からで す。この極端に高くなっていった死亡率が、当時 の日本の医療の実態―戦争行為による自国民の生 活の破壊の実態を端的に示しているようでありま す。  推計によると、十五年戦争では、アジアの約二 〇〇〇万人以上、日本の約六七万人以上の人々が 犠牲となり、財的損失は約一億ドルとされていま すが、この数字の中にはこの松沢病院の異常な死 亡者の数などは入ってはいないわけです。考えて * 連絡先 : 〒920-0848 金沢市京町24番14 号 城北病院

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みれば、近代の戦争はそれこそ敵も見方も被害を 被る、そして戦闘員も非戦闘員も被害を被るので す。松沢病院の患者の死亡状況をみると、戦争は 戦場以外でも「戦死」者をつくり、その生贄はま ず社会的弱者からはじまることを示しています。  これまで戦争が語られたり、戦争責任が論じら れても、この松沢病院の患者などのような死亡を 論じたり、それに対する責任については一切ふれ られてはこなかったと思います。戦争で日本の医 療や患者がどのように影響をうけ、それがどのよ うに人びとを苦しめたかの分析はほとんどされて はいません。  米紙ロサンゼルス・タイムは一九九九年三月一 日付で、「歴史の記憶を喪失した日本」について 社説で論じています。「日本は第二次世界大戦前 やその最中に軍隊と秘密警察によって引き起こさ れた犯罪を認めることを、終始一貫して渋ってき た」と指摘し、さらに「日本の問題は、みずから の過去を思い起こさせないということ ではなくて、戦後世代が過去を学ぶ機 会さえほとんど拒否されてきたという ことではないだろうか。みずからの現 代史にまじめに向き合うことを渋る日 本は、その犠牲者を侮辱し、自国民に も深刻な被害を与えつづけている」と この社説で述べています。  二十一世紀を目前にして、日本の未 来に希望を託そうとするならば、医 学・医療界でも十五年戦争時代の狂気 の時期を、今あらためて振り返り、再 びそれを繰り返さない糧としなければ ならないのではないでしょうか。  以上がこの研究会の設立の主旨であ り目的でもあります。  この研究会の発足を準備している段 階で、「遅すぎた」と何人かからお叱り をうけました。そのとうり私も遅すぎ あたえていたのか? ・どのようにして、医療従事者や医学者は戦争に 翼賛させられていったののか? ・「戦争と医療」についての無反省は、戦後の医 学・医療界に何をもたらしているのか? [二]十五年戦争は国民の医療や健康にどん な影響をあたえていたのか? (1)身長縮み、体重が減少した子供たち  図(一)は児童生徒の身長の年令別年次別の推 移をみたものです。この表をみると、明治以来日 本人の身長はこの百年間、一貫して年々伸びてき たことが分かります。生活環境や食生活の向上の 影響でしょうか。しかし一九四〇年から一九四五 年の間が点線です。それは当時児童、青年の身 長・体重の平均値は軍事上の秘密事項として公表 されなかったからです。従って点線でしか結べな いのです。しかし一九三九年と一九四六年を比較 たとも思います。しかし咋今の「国体」論が発言 されていることを考えると、これからでも遅くな いと思う次第です。  今日は「記念講演」などと晴れがましい立場で 話すわけですが、非才を顧みない自分自身に非常 に恐縮しています。しかし言い出しペですので責 任をとってこんな役回りを担ったわけです。  これからお話する問題は、今後の研究会の研究 テーマとなる課題を網羅的に話すことにもなりま すが、短時間ですので話の順序をのべます。 ・十五年戦争は国民の医療や健康にどんな影響を すると、どうもこの間だけ身長は低くなったので はないかと気になります。  図(二)は仙台市の六年生の身長・体重ですが、 この抜けた期間の実測値がわかります。この図を みると一九四一年から一九四六年の間は六年生時 の子供達の身長と体重が前年の六年生より身長が 明らかに縮み、体重も減少しているのです。図一 からの推測、つまり十五年戦争の末期には成長ざ かりの子供達の身長も体重も十分伸びることが出 来なかったという推測を実証しているわけです。  それではどうしてそうなったか?当然栄養の問

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題です。主食が配給制度になったのは一九四一年 四月からでした。成人一日米二合三勺、一一四八 カロリーの配給です。当時は戦争で農村から若者 が戦地や軍需工場に引きずりだされて労働力が減 少し、米の生産が年々減少していました。そのた めにこの配給制度もすぐに「総合配給制」となり ました。  総合配給制とは麦や大豆を含めて二合三勺とい うことです。そして一九四五年にはこの配給制度 も成人一日米二合一勺に減らされ、やがて遅配、 欠配が常態化してゆきます。ひもじい思いの子供 達のために母親たちの米の買出しや山菜採りがは じまったのです。そして最後は子供達の集団疎開 です。このような状況では子供達の成長がストッ プするのは当りまえといえます。  出生年度別に、子供達の一歳から毎年毎の平均 体重と平均身長の記録があります。それを調べる と驚くべき事実が明らかとなります。それは上述 のことと同じことですが、一九四三年頃から、当 時六才から十六才頃までの子供や青年、つまり昭 和一桁生まれの子供たちの身長と体重が前年生れ のそれより低下している事実です。従来なら前年 と同じか、やや大きくなっているのが当然です が、それが減っているのです。成長にダメッジが 与えられたのです。  しかも驚くことに、このダメッジから回復する のに、戦争末期に十二才∼十六才の青年たちは終 戦後約五年間が必要でしたし、より幼かった六才 から十才前後であった子供達はその回復 に約十年間もの時間が必要であったこと です。つまり子供達の身体に与えた侵略 戦争の傷跡は、終戦後約十年以上も後を 引きずっていたというわけです。 (2)主食の欠配―「戦争浮腫」の多 発、徴用労働の強化―健康被害の拡大  戦争の末期には主食の配給も欠配続き となっていきます。それによる子供たち への影響は当然でしたが、働いていた都 市の労働者もひもじさは同様でした。第 二四回国民栄養集談会(一九四四年)で 「給料生活者の自覚する栄養障害」とい う発表がありますが、それによると工場 における労働者の欠勤率も年々増加し、 一九四四年には七.八%にまでなってい ます。おそらく栄養不足が病気を多発さ せて欠勤者を多くだしたのでしょう。当 時の医学雑誌には「最近電車のなかで顔 のむくんだ人が多くなった」という記事がみられ ますがこれは栄養失調のはじまりです。この栄養 不足をうらずける別のデーターもあります。昭和 二〇年三月に実施された某百貨店の検診結果で す。六〇一名を検診したら、浮腫患者は男三〇. 〇%、女七.五%であったという記録です。三人 に一人が重傷の栄養失調症ということです。男た ちは子供に米を食べさせるために自分の食事を我 慢して働いている様子がこのデーターから読み取 れそうです。こんな状態ですから健康保険での傷 病手当金支給状況をみると、表(一)のように休 業日数が年々伸びていたわけです。休業した病気 では脚気、トラコ―マ、肋膜炎などが急増してい ます。  当時の工場での過酷な労働条件をしめす表があ ります。表(二)ですが、負傷百分率をみますと 「半島労務者」が断然高く、その次が「報告隊」と 表(一)健康保険での傷病手当金支給の状況 (被保険者年間 1人当り) 年度 件数 休業日数 1937 年 0.458 7.99 1938 年 0.376 7.899 1939 年 0.364 8.022 1940 年 0.342 8.532 1941 年 0.324 8.412 1942 年 0.714 13.916 (「戦時医学」誌・ 1巻、太田長次郎論文より)

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なっています。朝鮮半島から拉致してきた韓国人 に最も困難な作業を押しつけていたことを示して います。また四〇∼五〇歳で軍需工場へと徴用さ れた徴用工(報告隊)の労働災害がそれに次いで います。  このように「銃後」で沢山の人がさまざまな 「戦禍」の影響をうけていたのです。 (3)蔓延する結核 ―死亡率は統計開始以来 の最高値に  図(三)は結核死亡率の各国の比較です。一九 四〇年頃からすべての国で死亡率は激減しはじめ ています。日本も全体として同様に減少はしてい ます。しかし日本の曲線には幾つかの特徴があり ます。明治時代から断然世界のトップであったこ 人員 一般工員 2588 人∼2441人 2.18% 半島労務者 164 人∼ 242人 14.60% 報 国 隊 620 人∼ 291人 6.66% 合計 3372 人∼2974人 3.66% 負傷百分率 昭和17年1 月末∼昭和17年3 月11日 表(二)一般工員・半島労務者・報国隊別負傷率の比較 この時期に鉱山も軍需省の管轄の入り徴用制が適用されることとなる。 これまでも勤労手帳で移動が防止されてはいたが、ますます移動が困 難となった。(「戦時医学」誌・ 1巻、石西進論文より) と、大正初期に死亡率がス ペイン風邪の影響で上昇し ていること、一九四〇∼一 九四五年のそれが欠けてい ること、等であります。   日 本 の 結 核 は も と も と 「女工哀史」が示したように 紡績工場を中心に感染を広 げて国民病となったもので した。しかし一九四一年の 第一一回日本医学会総会で 暉峻は、産業の近代化と軍事化により結核は紡績 工場から陶業、食品工業、機械工業の労働者に急 速に増加していると指摘しています。そして、劣 悪な労働条件で働く、結核になる、健康保険で治 療する、期間満期となり自費で治療、やがて家計 は赤字となり治療中断、そして一家離散し療養所 に入る、そこで死亡する、そんな当時の状況を報 告しています。  日本の結核死亡率のデーターは一九四〇∼一九 四五年は欠けていると申しましたが、それは当時 戦争でそのようなデーターを収集する能力がもは や日本になかったことによります。しかし「現代 医学」誌で岡田博は一九四四年∼一九四六年の結 核死亡率は二八二.〇であった指摘しています。 とこの数字が正しいければ日本で統計がとられ はじめての最高値で、世界の結核死亡率の金字 塔を十五年戦争で日本は打ち立てたわけです。  政府は徴兵検査の甲種合格率を向上させる ためにも、次々と結核対策をうちだしました。 しかし無効だったようです。そして逆に沢山の 結核患者が発病し、死亡しています。某療養所 の「年度末入院患者数」に対する「年間累積死 亡者数」の比率をみますと、一九四一年八.六 %、一九四二年一七.四%、一九四三年一〇. 三%、一九四四年二八.一%、一九四五年六六. 九%となっています。終戦の年、一九四五年の 六六.九%ということは入院患者の三人に二人 が死んだということです。恐ろしい時代だった わけです。 (4)伝染病の流行―明治時代に逆行  多くの伝染病は明治以降の日本人の生活、 環境の近代化のなかで消滅しはじめていまし た。ところが図(四)でみられるように結核の 蔓延と同様な条件から、満州事変以降再び多く の伝染病がぶりかえしています。そのカーブは 十五年戦争の経過にしたがって上昇しているこ

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とが特徴です。伝染病の流行は環境や生活条件に 決定的に影響をうけます。国民の環境や生活条件 が明治時代に逆行したからです。 (5)餓死させられた精神病院の患者たち  表(三)は松沢病院(現在の東京都立松沢病院・ 精神科病院)の戦時中の入院患者の死亡者数で す。一九四〇年頃から次第に死亡率が上昇し、一 九四五年終戦の年には入院患者の四一%が死亡し ています。二人に一人の死亡であり、この年は四 七八人の死亡です。これでは一日に一人∼二人の 死亡者がいたこととなります。火葬も出来なく埋 葬したそうですが、埋葬の場所、作業も大変で あったと想像されます。  当時の病院の医師の立津や厚生省の発表によれ ば、この死亡率上昇の主因は「栄養失調」である という。一九五〇年度の国立精神・頭部療養所の 患者一人一日当たりの平均給食カロリーは二二三

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三カロリーですが、当時一九四一年の病院への米 の配給量が三三〇グラム(一一四八カロリー)、 一九四五年からは二九七グラム(一〇三四カロ リー)であったことを考えれば当時の栄養失調が うなずけます。  この病院の看護長によれば「栄養失調の一番は じめは一九三八年ごろ」、「死にだしたのは一九四 三年の暮れころ」からであるといいます。一般の 人びとはそれでも着物と交換の食料の買い出しに でかけたり、山野を歩いて食べられる草木を採集 して飢えをしのいだ時期ですが、拘束されていた 精神病患者にはそのような自由もなかったので す。「我邦十何万の精神病者は実に此病を受けた るの不幸の外に、此邦に生れたるの不幸を重ぬる ものと云うべし」(呉秀三)であるが、戦時下で はさらに「食べ物も与えられないという不幸」が 加わり、日本の精神病患者たちは「三重の不幸」 を背負って死んでいったのです。 (6)軍から追い出された一般の入院患者  「医制百年史」によれば終戦の年の一九四五年 の日本の総病床数は約三万一千床となっていま す。この数字は一三の府県からのみの厚生省への 報告数の集計であり、当時の日本全体の病床数で はありません。厚生省の衛生年報には京都など六 県の当時の病院数の正確な数字があるので、その 病床数の年度別変化の率から、私流に一九四五年 頃の日本の総病床数を推測すると約二四万床とな ります。  一九四五年八月上旬の「内地陸軍病院収容力」 は一九七施設、八万六三八四床といわれていま す。当時陸軍は続出する傷病兵のために病院を新 設していたが間に合わず、「民間借上施設」でそ の需要に対処していました。京都では第一日赤病 院、第二日赤病院、富田病院、国島病院、福井で は福井療養所、芦原温泉開花亭、横浜では国際親 善病院、香蘭女学校講堂などがそれです。これら を合計すると七三施設、三万四八一八床であり、 内地陸軍病院収容力の四〇%が民間借上施設とな ります。つまりそれだけ一般国民のベットがなく されたことになります。  日本赤十字病院は一九三六年には全国で二七病 院が設立されていました。この赤十字病院は勿論 一般患者の病院ですが、明治時代の設立当初から 戦争での傷病兵治療の役割をも分担することと なっていました。  一九三七年一一月になると陸軍大臣から日赤病 院に対し「戦時幇助」が改めて求められました。 「各病院は一般地方患者の入院を停止しその収容 力は非常収容力に達せしむるものとす」とされ、 各病院は一般地方患者の入院を停止せよと軍から 指示されました。この指示で一九三七年には一七 病院が「戦時幇助」病院となり一般患者の入院は 停止されたのでした。このようにして一九四五年 には、日赤病院三六病院(総病床数一万五六五〇 床)のうち軍病院となっていたものは三二病院 (病床数一万四七八〇床、病床数の約九五%が軍 に接収)、ほとんどすべての日赤病院は軍の病院 にされていたのです。  一九三八年、戦地での戦傷病者の対策として軍 事保護院が設立されました。軍事保護院は国立結 核療養所を管理施設に組入れ、新たに傷痍軍人療 養所二五カ所、国立結核療養所二カ所を設け、総 病床数を一万四〇〇〇床としました。その後更に 軍事保護院は病床を増やしました。一九四五年一 二月現在の日本全体の結核病床総数は六万二〇二 一床ですが、このうち約半数が軍事保護院関係の ものでありました。国民病対策として国立結核療 養所が作られたのですが、結果的には一般国民用 ではなく、傷病兵用のものとなっていったので す。 (7)焼け出された入院患者―戦災による医療 機関の消失  当時、庶民の医療を困難にしたもう一つの問題 があります。それは戦災による医療機関の焼失で す。  一九四四年一一月二九日、アメリカはマリアナ 基地からB29による東京初空襲を行ないました。 この頃から日本全土の本格的な空襲がはじまった わけです。特に「東京大空襲」は、広島、長崎へ の原爆投下とともに、十五年戦争中の重要な戦災 のメモリ―の一つであります。一九四五年三月九 ∼一〇日の東京大空襲で約二三万戸が焼失し、死 者は九万二七七八人、傷害者一五万九四八人、不 明者は六九四四人、罹災者は三〇四万人と言われ ています。同月の一八日には大阪も大空襲を受け て、ここでも約二三万戸が焼失しています。大阪 が最初に空襲をうけたのは一九四五年一月三日、 最後の空襲は八月一四日で、合計三三回の空襲を うけています。これらの空襲で合計一万二六二〇 人が死亡し、約三二万二〇〇〇戸が消失し、罹災 者は約一二二万四五〇〇人を数えています。  空襲による大都市の家屋の消失率は、京浜地方 五六%、名古屋市五二%、阪神地方五七%で、消 失家屋の合計は約一四三万軒とされています。

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爆撃により多くの医療機関も被災し、機能が 破壊されました。表(四)は、十五年戦争末期の 病院・診療所別の罹災状況です。  病院の焼失の意味を考えてみましょう。  前述しましたが一九四四年当時の日本全体の病 床を約二四万床とすると、五万三四二〇床の焼失 は全体の約二二%にもあたります。単純に考えれ ば、当時入院していた患者の約四人に一人が戦災 で病院から追い出され、療養の場所を失ったこと となります。  しかし、秋田、山形、石川、長野、滋賀、京都、 奈良、島根、鳥取、佐賀、大分の一一県が医療機 関の被災を受けていないので、平均で判断するの は正しくありません。東京では二五七病院、一万 六七〇五病床が焼失と報告されていますが、これ はほぼ一〇〇%の病院が被災したことです。大阪 では五〇%ちかい病院の被災があったとおもわ れ、したがって東京、大阪では大半の入院患者が 病院から追い出されたわけです。ほかに比較的病 院被害の多かった県は、神奈川、愛知、兵庫、福 井、長崎、山梨、広島、愛媛などでした。  次に、診療所の焼失の意味を検討してみます。  全面的に空襲をうける以前の一九四四年当時の 日本全体の診療所数を一九四一年当時の約九〇% (医師の徴兵による減少)と仮定すると約三万二 〇〇〇となります。かりにこの数字を正しいとす ると、八六一七の診療所の焼失は全体の約二七% にあたります。しかし、上述のように一一県で医 療機関の被災がないので、ここでも平均値での分 析は正しくありません。たとえば、東京都の報告 では罹災診療所数は四二五一となっていますが、 東京の中心部では一〇〇%にちかい診療所が被災 したこととなります。戦争が終了した翌年の一九 四六年末の東京都の診療所数は三三七六ですが、 戦後一年半後の時期にも診療所数では戦前に復帰 していなかったのです。  神奈川、愛知、大阪、兵庫、愛媛、福井などの 県も被害が多かったようですが、このような地域 では、一九四三∼四六年の間は病気になっても近 所に診療所がなくて医師にかかりにくい時期が長 く続いたわけです。 [三]どのようにして、 医師や医学 者は戦争に翼賛させられていった のか? (1)侵略戦争は 「富国強兵」 から 始まった  一九三〇年代、アジア諸国への帝 国主義的侵略を意図していた政府の政策遂行上で の解決しなければなならい重要な課題は二つあり 1922年 (大正11) 36.20% 1926年 (昭和 1) 35.40% 1936年 (昭和11) 30.0 %前後 1937年 (昭和12) 40.0 %前後 1938年 (昭和13) 27.00% 1940年 (昭和15) 26.80% 1943年 (昭和18) 25.80% 1944年 (昭和19) 21.00% 1945年 (昭和20) 20.50% 表(五)徴兵検査の甲種合格比率 の年次変化 ました。そ れは青年の 徴兵検査の 甲種合格比 率の年々の 低下をどう 防ぐかとい う問題と、 日本人の出 生率の低下 にどう歯止 めをかける という問題 でありました。  表(五)は当時の徴兵検査の甲種合格率の年次 変化であります。年々低下していますが、当時そ の原因は青年の結核罹患率の増加と世界恐慌の波 での不況、低賃金、失業が青年の体力を低下させ ているからであるとされていました。しかも、農 村青年の都市集中により「都市壮丁の増加は今後 一層不合格者の数を増加せしむることを予想」さ せたので深刻でした。  政府はこの青年の体力向上をめざしてスポーツ 振興をまず考えました。一九二四年の「明治神宮 競技大会」の開催がそれです。この大会はその後 「明治神宮体育大会」、「明治神宮国民体育大会」、 「明治神宮国民練成大会」と名称を変更しながら、 次第に国家的行事としての様相を昂めていきまし た。  この前後の保健所や厚生省の誕生も、徴兵検査 の甲種合格率の上昇をめざした陸軍の強力な主張 から生まれたものです。したがって誕生したばか りの厚生省の最初の重要な仕事は「国民体力法」 (一九四〇年)の制定であり、青年の体力検定で の平均以下の者を軍隊的に管理することでした。  「体力検査」は一九四〇年九月から開始され、 男子一七才∼一九才が受けることを義務づけられ ました。その後「興亜の赤ちゃん検診」、「女子体 全焼全壊数 半焼半壊 合計 収容定員数 病院 1,008 58 1,066 53,420 医科診療所 8,617 歯科診療所 6,092 表(四)医療機関別・罹災状況別全国合計 (昭和20年9 月10日現在調査、岡山県、鹿児島県、沖縄県は不明) (厚生省「衛生年報」・昭和21年度版より作成)

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力検査」も実施されてゆきます。多くの国民は 「体力増強はよいことだ!」と体力検定に応じて、 医師たちも各医師会の指示にしたがってこれらの 検定や検査に協力しはじめました。  しかしこのように大々的に青年の体力向上のた めの施策を宣伝しましたが、逆に甲種合格率は減 少し、戦争の進行とともに「肉弾」の必要性から 満一七才からの徴兵がはじまったのでした。 (2)出生率の低下をどう防ぐか?  日本の出生率は昭和年代に入って急速に低下し ています。一九〇〇年(明治三三) ∼一九二六年 (昭和一) までは三六.二∼三一.二(人口千対) でありますが、昭和年代(一九二七年以後 ) に なってから急激に低下し、一九三九年には二六. 六と落ちこんでいます。  当時この原因として、職業婦人の増加、男子の 出稼ぎ労働の恒常化、青年の軍隊への入隊や戦地 への出征などが考えられていましたが、「日本社 会衛生年鑑」は次のように述べています。工場法 で妊婦保護規定があるが現実には賃金のために妊 婦は臨月まで働かざるをえない、農村では妊婦は 働くか働かないかは自由だが実際は家族をあげて の強制的労働に転化している、従って工場で働く 婦人労働者の二∼三割が異常分娩であり、農村婦 人では流産・死産が多発している、また農村では 臍帯の切断には縫裁鋏が使用され結索は縫裁箱の 糸が使用され、繃帯は有り合わせのボロが使用さ れており、これが乳幼児死亡の原因である…と。  また一九四二年一一月に開催された第六回人口 問題全国協議会で、当時厚生省の技官であった金 子光も結婚五年目で妊娠しない婦人は全体では約 一割であるが、婦人労働者ではそれは約四割とな る、さらに婦人労働者の場合は妊娠しても流産が 一割二分、早産が一割もあり、母乳の出ない婦人 が一般婦人の二分に対し労働婦人は一割六分とな る…と述べています。この時期、多くの青壮年の 男子が戦地への出征を強制されたこともあって、 出生率の低下に拍車をかけていたのでした。  以上のような要因から出生率が次第に低下し、 昭和年代に入って急激に人口の増加率が停滞し始 め、一九二五年から一九三五年の間の年平均人口 増加率は約一.五%であるが、それ以降は一%を 割り、特に一九四〇年から一九四五年の間はわず か〇.二%にまで落ちこんでいったのです。  このような状況は、アジア諸国に日本人を増殖 させようとしていた政府にとっては大変な事態な わけです。そこで一九四一年一月に「人口政策確 立要綱」を決定し、「生めよ殖やせよ」のキャン ペーンを開始したわけです。  「人口政策確立要綱」の「目標」は、「人口ノ永 遠ノ発展性ヲ確保スルコト、増殖力及資質ニ於テ 他国ヲ凌駕スルモノトスルコト、高度国防国家ニ 於ケル兵力及労力ノ必要ヲ確保スルコト、東亜諸 民族ニ対スル指 導力ヲ確保スル為其ノ適正ナル 配置ヲナスコト」となっていますが、まったくナ チスばりの人口政策であり、侵略性むき出しで す。  この決定にしたがって「結婚推奨に関する件」 が通達され、夫婦は平均五人の子どもを生むこ と、男二五才・女二一才までに結婚をすること、 十人以上の子寳部隊を表彰する、が決められまし た。  しかしそんなに簡単に子供は生まれません。政 府は今度は「大東亜建設に伴う人口政策」を立案 しました(一九四二年五月)。それは結婚推奨の 徹底(結婚年令を三年早めること)、乳幼児・妊 婦の保健の徹底(「妊婦届出制」、「乳幼児体力手 帳制度」「赤ちゃん表彰」)、出産の増加方策の徹 底強化等でした。  このような人口政策の立案に当時の「日本民族 衛生学会」の幹部医学者は積極的に参与したこと は重要です。しかし同時に「今から生んでも間に あうまい」とこのような施策を批判した経済学者 寺尾琢磨氏は逮捕されたことも記憶さるべきこと です。 (3)「国民医療法」の施行  十五年戦争を遂行するための「富国強兵」政策 では、特に結核対策がその鍵であると考えられて いました。その理由は当時満州へ派遣した二万人 の兵隊のうち約五〇〇人一個大隊分の兵隊が結核 を発病して送還せざるをえなくなったりして、年 間約三千人の兵隊が結核で除隊せざるを得ない状 況でしたからです。  当時侵略の拡大で軍医が不足してきたので臨時 医学専門学校を新設して軍医養成をはじめました がまだ間にあいません。そこで開業医を徴兵しま した。当時も開業医は経済的理由から農村より都 会に開業する率が多く無医村が多かったのです が、開業医の徴兵によりますます無医村を増加さ せる結果となっていました。一九三六年には無医 村は三二三四でしたが、一九三九年には三六〇〇 と増加しています。  このような状況から、政府は医療機関の配置を 富国強兵の国策に対応したものにするために、従

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来の医師法、薬剤師法を改正して、医師や薬剤師 の配置を統制できる「国民医療法」を制定(一九 四二年二月)しました。  この国民医療法の第三条は医師の任務を規定し たものですが、従来の「医事衛生の改良発展を図 る」から「医師及び歯科医師は国民体力の向上に 寄与するを以てその本分とす」となって、はっき りと医師の役割は国策遂行に寄与することとされ たのです。そして開業の制限、新医師の配置につ いての政府の権限なども規定されました。  医療機関については「日本医療団」がすべての 医療機関を統合経営し、日本全体の医療施設構想 や無医村対策、結核対策をするとされました。  また従来の医師会、歯科医師会及び薬剤師協会 は解散させられ、厚生大臣がその会長の任命権の ある日本医師会、各府県医師会という「官制医師 会」が誕生させられたのです。  この官制医師会の誕生を契機として医師会は 「大東亜戦争の完捷を祈念して医界総力の結集を 図る、新生医師会の使命を認識して国策協力の遂 行を期す」と決議し、行動を開始したわけです。  官制医師会の誕生を機に、後は一瀉千里にマイ ンド・コントロールです。国民体力管理医、健民 修練所指導医、産業戦士に対する優先受診方実 行、重要工場事業所の医療保健への協力、勤労報 国隊員の健康管理、健民運動耐寒心身鍛錬への協 力、町内会の耐寒心身鍛錬への協力と次々と国策 にそった活動が開始されました。  当時は開業医の約一〇∼四八%が戦場へ徴兵さ れていますが、私の推定では戦争末期に一般開業 医などの医師会員の七〇〇〇∼一万人が戦争の現 場に召集されていたようです。  残った医師たちは各地で「決戦医療班」などを 組織させられ、「国民義勇隊医療救護教育訓練要 項」などにより集合教育をうけています。さらに 戦争末期には徴用で軍病院で働かされた医師もい ました。  当時都市では医療関係者は「疎開」禁止でし た。それは「防空業務従事令書」によって地域の 防空業務に参加することを義務づけていたからで す。医師会は国土決戦に備えて「医療報国の誓」 を各地で決議したのでした。 (4)日本医学会総会―権力の前に屈したと いう意識もなく侵略戦争に協力  第九回日本医学会総会は一九三四年四月、東京 帝大で開催されています。各学会の演題そのもの にはまだ戦争の気配はありません。しかし会場に は「石井式無菌濾過機」や陸軍の衛生車が展示さ れていました。医学会総会の第三〇部は「軍陣医 学」分科会ですが、ここでは三等軍医正石井四郎 の特別講演―「防疫上より見たる野戦給水につい て」がありました。しかし奇異なことにこの講演 抄録だけが医学会総会誌に記載されていません。 多分細菌戦関係の「秘密」が話されたのでしょう か?関東軍がハルピン近郊に防疫班・加茂部隊 (後に七三一部隊と改名)を設置したのはこの前 年一九三三年でした。  第十回日本医学会総会は一九三八年四月、京都 帝国大学で開催されています。この総会のキャッ チフレーズは「戦時体制下医学講演会」となって います。日本、ドイツ、イタリアのファシズムの 三国同盟が結ばれる前夜ですが、学会の外賓とし てドイツのケーファー軍医中将一行を迎えて華々 しく開催せれています。そして総会の昼食時には 看護協会の献納した陸軍の衛生飛行機を京大出身 の軍医に操縦させて時計台上空を旋回させていま す。時計台の広場に参加者を集めて歓迎の拍手を 贈っていました。医師の洗脳セレモニ―そのもの でした。この回は戦時体制下の戦場外科や防毒ガ ス医学などの教育講演が一つの柱でした。  第十一回日本医学会総会は一九四二年三月、東 京帝大で開催されています。この会の主題は「戦 場医学の確立」「大東亜医学会」の結成となって います。全体総会講演でも、各分科会での応募演 題でも戦争に関連した演題が多くなっていいま す。戦場での感染症治療、低圧・加速の病理、骨 傷治癒器機の開発、精神分裂症と優生学、等など です。またこの会は、これを契機に侵略した韓 国、満州、支那、ビルマなどの医師を参加させて いますが、「大東亜医学会」を結成する機運を作 ることでもあったようです。 このように日本医学界はなし崩し的に、全体と して侵略戦争に翼賛していったのでした。 (5)医学研究の国策化、軍事化  一九三二年に「日本学術振興会」が設立されて います。昭和の初めに襲った世界恐慌は日本にも 被害を与えましたが、そこからの立直りを意図し た政府の方針から設立されたものです。しかし研 究の課題について産業界の意向を配慮しているう ちに次第に研究自体に国家的統制がかけられて いったといわれています。  やがて日中戦争が開始され、翌年一九三八年二 月には「国家総動員法」が施行され、総動員法に 従って研究分野についても「科学動員協議会」が

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組織されました。戦時下における科学者の組織的 な統制のはじまりです。  一九四〇年四月には国策上必要な研究の成果の 早急な達成をめざして科学動員実施計画が作ら れ、研究者のグル―プ化による統制の強化がはじ まります。そして同年八月に全日本科学技術団体 連合会が創立されて科学者の統一的支配体制がで きあがったわけです。  アメリカとの戦争を開始する直前、一九四一年 五月にはいよいよ「日本的科学の唱導」を柱にし た「科学技術新体制確立要綱」が策定されまし た。そこでは「高度国防国家完成の根幹たる科学 技術の国家総力戦体制を確立し…以て大東亜共栄 圏資源に基く科学技術の日本的性格の完成を期 す」「研究余力をもつ学者に対して協力を要請し、 協力者には研究費を優先的に充当し、また研究用 材料を優先確保し極力支援する」と述べていま す。完全な科学者の国家統制体制です。  以上が研究者が国家統制体制へ組み込まれて いった経年的、組織的な経過ですが、医学分野の 研究内容自体の国策化、軍事化の経緯は次のよう です。  「日本学術振興会」の一九三五年の特別委員会 の研究課題をみると、「新日本人口政策に関する 研究」「社会政策に関する研究」「国民栄養基準に 関する研究」「国民体力問題に関する研究」「航空 医学に関する研究」となっています。これまで述 べてきた当時の富国強兵という国策と符号する研 究課題が並べられています。  次に、一九四一年度の文部省科学研究費の配分 重要項目をみますと、第一種研究として結核、悪 性腫瘍、癩、乳幼児保護、近視、気候医学、航空 医学、濾過性病原体、免疫、ホルモン、ビタミン、 放射線、温泉等が挙げられています。  一九四二年頃になると、迅速な研究成果を期待 して研究者が集団的に取り組む総合課題を提起し ています。この年の学術研究会議の総合課題(関 連分野の五カ年共同研究計画)は「日本人の南方 に於ける生活に関する科学的研究」でありまし た。ベトナム、マレー、ビルマ等への侵入との関 係からの研究課題のようです。  当時の医学研究課題を貫く一つの柱は前述した ように人口問題でした。いちはやく一九三三年に 人口問題研究会が発足していることでも明らかで す。この研究会の答申をえて一九四一年に「人口 政策確立要綱」が閣議決定されるのですが、これ らの一連の人口政策立案に「日本民族衛生学会」 (一九三〇年設立)が大きな役割を果たしたこと を見逃すわけにはいきません。積極的に日本のア ジア侵略政策に荷担したといえます。  また「国民優生法」をめぐる当時の論争も重要 です。一九二七年に政府は日本医師会に「民族衛 生施策に関する意見如何」と諮問してこの問題が 表面にでてきます。この問題では行政官、衛生学 者、精神科医を中心に論争されましたが、ここで も日本民族衛生学会は国民優生法成立(一九四〇 年五月一日)に積極的役割を果たしています。  当時をふり返ると、この「国民優生法」をめぐ る論争の時期が、研究者の「権力への迎合」か「沈 黙」かの分かれ目であったようです。  数学者、小倉金之助は「ナチス・ドイツの科学 政策は科学の国際性の代りにドイツ精神を極度に 誇張し、多数の自然科学者を放逐し、科学教育を して軍事的色彩を帯ばせているではないか。… ファシズムの嵐の襲来は、外国のみのことではな かった。今やわが国に於ても、わが国に特徴的な 型を辿りつつ、反文化主義が刻刻迫らんとしてい る。しかも此の危機を目前にしながら、わが自然 科学者は如何なる態度を採っているか。…」と発 言(一九三六年一一月八日)しています。ドイツ では「権力への迎合」を拒否した人は海外へ逃亡 した人がいましたが、日本では権力への迎合に反 対した人びとは「沈黙」したのでした。 (6)戦争と知識人  以上、十五年戦争と医師、医学者のかかわりを 当時の国の政策動向との関係でみてきました。巨 大な力で滔々と流れて行く社会集団のなかで、人 びとはどのように対処できたのであろうか? 選択枝として考えれば、人びとの選択は当時の 状況―ファシズムに賛成するか、賛成の意志を表 明しないか、反対の意志を表明しないか、あるい は又反対するか、このいずれかを選択しなければ ならなかったわけです。しかしこのような選択の 判断を自らに荷した知識人はいたのであろう か?。それはごく少数であったのでしょう。  多くの当時の日本の知識人は、それまでの生活 様式であるムラ、家族、教室・研究集団、地域社 会などの小さな集団に組み込まれた生活のなかで 自分を判断してきたわけです。従って、自らの 「思想」を確立していなかったので、選択の判断 を自らに荷するまえに、属する集団の方向に傾斜 していったのではないかと考えられます。  日本人には思想がなかったのです。それは日本 の原始的神話思想の伝統が、日本に近代的な思想 を育てさせなかったのだと私は思います。

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 ドイツやイタリアのファシズムは当時の権力外 から影響を広めてファシズム権力を打ち立てた が、日本のファシズムは既存の権力内の変質で あったので、その本質が把握しにくく、知識人が 根こそぎ翼賛化させられたのであると加藤周一氏 は指摘しています。この点では医師や医学者も同 様であったと考えられるが、もう一つの特徴があ ると思います。  それは技術者の特質とも関係するのですが、好 奇心を満たしたり、さしあたり一人の患者の病気 を診断し治療するという、目の前の事象を即物的 に解決する、解決できないまでも一定好転させる 仕事は人びとにとっては非常に興味あるもので す。この場合、その行為の道義的問題や社会との 関連などを意識しない場合がしばしばです。この ような状況の習慣化が、自然科学者から社会現象 としての戦争準備や戦争そのものへの批判をしに くくしている理由でもあるように思います。その ことは逆に「科学には国境がないが、科学者には 国境がある」としてファシズムに巻き込まれてい くことの正当化とも関連するようです。  以上のことを私たちは今日に転写して考えてみ る必要があります。目の前の事象を即物的に解決 することが人類にとって有意義であり、それ自体 としても興味深いものである、思想がなくても科 学はできる、それは体制が変化しても同じであ る、という立場、考え方の問題です。このような 立場、考え方があの侵略戦争に医師や医学者がこ ぞって翼賛し、結果として多くの国民に被害をも たらしたのであるという反省が、今こそ求められ ていると思います。 過去の反省がない限りは思想 は生まれない。思想のないことは恐ろしいことで ある。 [四]「十五年戦争と医学・医療」についての 無反省は、日本の戦後の医学・医療に何をも たらしているのか? (1)戦前、戦後、 「七三一部隊」を黙認して きた日本の医学界 ①「七三一部隊」のもう一つの役割  軍医団雑誌の三六四号をみると、「慢性マラリ アニ於ケル内臓ノ病理解剖学的研究」という原著 が掲載されています。症例は偶然手に入った慢性 マラリア患者の五例とあるが、病理解剖を目的に した意識的な中国人捕虜の処刑による症例のよう です。  「駐蒙軍冬季衛生研究成績」という出版物があ ります。これは蒙古派遣軍の大同病院の軍医が一 九四一年三月、内モンゴル西蘇尼特において実施 した八名の中国人捕虜の生体実験の克明な記録で す。「消せない記憶」(軍医・湯浅謙)、「細菌戦与 毒気戦」(中国・中華書局刊)、「従軍兵士の証言」 (中国帰還者連絡会編)―これらには十五年戦争 のなかで日本軍が侵略した各地でいろいろな人体 実験を行った記録が沢山記載されています。術者 が初めに冷汗をかきながら、そしていつの間にか 慣らされてゆく「生体実験」の記録です。  「駐蒙軍軍医将校軍陣外科学集合教育過程表」 が上記の「駐蒙軍冬季衛生研究成績」書の付録と して掲載されています。当時陸軍の衛生隊が行っ ていたであろう軍医の定期的な集合教育の日程表 の一つのようです。この表の末尾に「5 〇〇資 材六體準備使用ス」という記載があります。〇〇 とはおそらく「生体」なのであろう。当時の集合 教育にはほとんど「生体」が使用されたのであろ うか?  このように、生体実験が当時の戦地での軍に一 般的となっていった経緯に、例の七三一部隊の役 割が大きいと考えざるをえません。  石井四郎の細菌戦研究が公認されたのは一九三 二年からであり、一九三七∼三九年のノモンハン 事件は石井の実験にいっそうの大儀名分を与え、 実験拡大のために長春郊外の孟家屯に関東軍獣医 学細菌実験部隊が作られました。  一九三七年七月の日中戦争を契機に、日本陸軍 は海林に満州六四三部隊、林口に満州一六二部 隊、孫呉に満州六七三部隊、ハイラルに満州五四 三部隊、大連に満州三一九部隊、そして一九三九 年以降には北京に甲一八五五部隊、南京に「栄」 一六四四部隊、広東に「波」八六〇四部隊(多摩 部隊)、シンガポ―ルに威九四二〇部隊と各地に 細菌戦部隊を拡大していっています。  「七三一部隊」はハルピン近郊で隠密裏に人体 実験をしていた部隊には違いないが、その補充実 験や各地での細菌戦準備とその実施部隊の配置は アジア全域に及んでいたようです。一九三九年、 ノモンハン事件でのホロステイン河への腸チフス 菌の散布,一九四〇年、寧波付近でのベスト菌の 散布、一九四〇∼四二年中国中部地方での細菌戦 の実施などがそれです。 細菌戦実施部隊の戦線全域への展開の過程で、 七三一部隊の生体実験が言い伝えられ、第一線の 医師たちが「人体実験」を公認された秘密として 黙認していった最大の原因が、そこにあるようで す。

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②「七三一部隊」を黙認した日本の医学界  石井四郎は一九二〇年に京大医学部を卒業し、 陸軍軍医となり、その後も京大に研究派遣されて います。七三一部隊には京都大学関係者が多い が、石井の京大での指導教授・清野謙次の了解の もとで、石井が京都大学関係の医学者を選択して チ―ムを編成したからでしょう。七三一部隊が編 成されてから、清野謙次と鶴見三三(教授・名古 屋医大)が満州・平房に招待されています。当然、 現地での「マルタ」実験を目撃しているはず。し たがって当時すでに医学界の一部ではそれは知ら れていたことになります。  当時の軍医はしばしば部隊間を転属させられて います。上級幹部は戦地と日本の間の往来もしば しばだったようですから、上述した戦地での生体 実験は公然の秘密として日本の医学界でも一部で は知られていたはずです。  戦争が終了してから二十年以上もたった一九六 七年一二月と一九六八年八月の日本伝染病学会雑 誌(四一巻九号、四二巻五号)に、「流行性出血 熱の流行学的調査研究」という原著を池田苗夫 (元七三一部隊・軍医中佐)が発表しています。当 時大阪の一部で発生した流行性出血熱との関連で 掲載されたようですが、一九四二年頃満州・黒 河、孫呉地方で流行した流行性出血熱に関する七 三一部隊の調査記録です。論文の結論は、毒化シ ラミ(コロモジラミ)を「有志健康被検者四人」 に付着させて流行性出血熱を発病させることに成 功した、それは北野政次博士の成果を発展させた ものであるというものです。  「有志健康被検者四人」とは「マルタ」かどう かは別にしても、七三一部隊の部隊長をしていた 北野政次のことが、戦後「七三一部隊」が問題視 されているさ中に学会で公然と発表され、しかも 学会雑誌がそれを掲載したことに問題がありま す。発表された時に学会会場でどのような討論が あったかはわかりませんが、学会の機関雑誌に掲 載されたということは日本伝染病学会としては 「七三一部隊」の犯罪性、非倫理性についての反 省がまったくなかったことを証明しているといっ ても過言ではないと思います。  一九五二年十月の第一三回日本学術会議総会 で、「細菌兵器使用禁止に関するジュネ―ブ条約 の批准を国会に申し入れること」が提案されてい ます。当時の朝鮮戦争での細菌兵器使用の危惧と 七三一部隊の教訓から、日本としては当然なこと として、松浦一、平野義太郎、福島要一らが提案 したものですが、否決されました。この否決には 第七部会に属する戸田正三、木村廉などの意見が 大きく影響していたようです。戸田正三、木村廉 は、十五年戦争中には京都大学医学部の教授で、 石井四郎を直接、間接に指導した教官であり、七 三一部隊への研究者の補給に関係した可能性のあ る人々です。この人たちの反対意見は七三一部隊 の犯罪をまったく反省するものではありませんで した。  一九九〇年代、日本で血友病HIV感染が大き な社会問題として浮かび上がりました。この犯罪 的とも言える薬害事件には製薬会社ミドリ十字社 が深く関与していたことは知られています。ミド リ十字社の創設者、内藤良一はかって陸軍軍医学 校防疫研究室主任であり、七三一部隊石井四郎の 片腕であり、しかも戦後アメリカ軍と七三一部隊 問題を一手に受けて処理している人物でありま す。このような企業に、七三一部隊の技術と精神 が何の反省もなく受け継がれたことが、血友病H IV感染事件を引き起こしたことと強く関係して いると私は思います。  人権を尊重し戦争を放棄することを宣言した新 憲法のもとで、学術会議での戸田正三らの上記の 発言やミドリ十字社の非人間的な行為には、背景 があると思います。それは、七三一部隊で犯罪を 侵した医師たちを日本の医学界がそのまま黙認 し、戦後には医学界が何のこだわりもなくこれを 受け入れてきたという歴史です。  しかも、彼らが戦後の日本の医学会をリ―ドす ることを許してきました。一例をあげれば、石川 大刀雄は金沢医大教授に、岡本耕造、田部井和、 吉村寿人は兵庫医大教授に、そして林一郎、斉藤 幸一郎は長崎医大教授に就任していることです。 また、南京に作られた「栄」一六四四部隊の技術 者は、主として東大伝研(後の「国立予防衛生研 究所」)に住み着いたことです。  周知のように、「七三一部隊」の犯罪は戦後ア メリカ軍によって利用、隠蔽されました。しか し、だからといって日本の医学界がそれを不問に したり、隠蔽していいはずがなく、いわんやそれ を正当化することはできないのではないでしょう か?  日本の医学界・医療界に「七三一部隊」が侵し た人権に対する犯罪性、非倫理性についての追求 がない限り、また再び同じ過ちを繰り返さないと いう保障はないし、ましてや医の倫理を云々する 資格はないと考えます。

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(2)「九州大学生体解剖事件」 ①事件の発端  「九大生体解剖事件」とは、十五年戦争の末期 一九四五年に大分県竹田市山中に墜落して捕虜に なったアメリカ軍B 29 爆撃機の搭乗員八名を、 九州大学医学部の外科医たちが次々と生体解剖し た事件のことであります。  一九四五年五月五日、早朝に北九州を空襲した アメリカ軍B 29 爆撃機ワトキンス機が、日本軍  連合軍の捜査が入ったことを契機に、一九四六 年二月五日には医学部の助教授、講師の全員が医 学部の封建性打破の要求などを中心にして辞表を 提出します。この収拾のため神中正一医学部長は 二月六日に緊急教授会を開催し、一八日付で教授 総辞職を決定しました。辞職の名目は医学部の封 建性改善となっているが、背景には生体解剖実験 の捜査があったことは確実です。こうして三月二 〇日に「医学部刷新委員会」が発足しました。 の攻撃で大分県竹田市山中に墜落し、十二名が捕 虜となり、福岡の西部軍司令部に送られ収容され ます。その後、西部軍司令部の防空作戦室佐藤吉 直大佐の発議と、陸軍偕行社病院詰見習軍医の小 森卓の仲介で、生体実験を目的に九州大学医学部 外科第一講座石山福二郎教授のもとに送られまし た。 ②生体解剖の実施  生体解剖は医学部解剖学教室の解剖室で行わ れ、外科第一講座石山福二郎教授が指揮し、多く の教室員の参加のもとで行われているが、その概 略は表(六)のようです。 ③その後の経過  戦争が終わって日本が連合軍の占領下に入る や、アメリカCID(犯罪捜査部)やCIC(陸 軍情報部)がこの事件について捜査に入り、九州 大学へ質問状を送っています。  同年七月一七日に戦 犯容疑者逮捕令状で石 山福二郎教授は逮捕さ れます。また石山とと もに「教室から鳥巣、平 尾両助教授、森、森本 両講師以下数少ない幹 部医局員のほとんど全 部が拘置されたため、 教室は運営上存亡の危 機に直面し」ています。  「生体解剖事件」とい うかつてない問題と大 量の逮捕者を出した医 学部では、急遽七月一 六、一八、二三日に、医 学部の助教授以下で構 成する「基礎臨床委員 会」が開催され声明を 出しました。石山は、逮 捕された翌日早朝(一九四六年七月一八日 ) に、 獄中で遺書を残して自殺しています。  その後、一九四八年三月一一日に横浜軍事法廷 において生体解剖事件初公判が開かれ、同年八月 二七日に判決が行われました。  「生体解剖事件で起訴されたものは、西部軍、 九大と合わせて三十名に及び、横浜軍事法廷史 上、石垣島事件に次いで最大の裁判となった。・・ 九州大学関係者で判決を受けたものは合計一四 人。うち絞首刑三人、終身刑二人、重労働二五年 二人、同一五年三人、同九年・六年・五年・三年 各一人」(「九州大学五十年史」)であります。  判決をうけて、一九四八年九月一五日に九州大 学医学部中央講堂で「反省と決意の会」(学部・附 属病院・専門部共催)が開催されました。出席者 は職員、学生、看護婦などです。そこでは論議の すえ、「医学研究および研究のありかたについて 反省し、われわれは医師として人間の生命及び身 体の尊厳についての認識を一層深くするととも 生体解剖実施の日時とその内容* 摘要 一九四五年五月一七日 ―二名 一名、右肺切除の手術** 一側肺臓全摘出実験(+海水注射実験) 一名、肺に損傷あり*** 肺臓部分切除実験 一九四五年五月二二日 ―二名 三名** 胃全摘実験+心臓切開実験(+海水注射実験) 肝臓切除実験 一九四五年五月二五日 ―一名 脳の手術** 開頭脳切除実験 一九四五年六月二日 ―三名 代用血液としての海水注射実験   縦隔部切開実験 肝臓左葉切除実験 表(六)「九州大学生体解剖事件」の「実験」内容 [注] * 上坂冬子:「生体解剖」,毎日新聞社,1979年12月. ** 平光吾一:「戦争医学の汚辱にふれて」,文芸春秋・1957年12月号. *** 東野利夫:「汚名」,文芸春秋社,1979年9月.

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に、その天職をまもりぬくためには、たとえ国家 の権力または軍部などの圧力が加わっても、絶対 にこれに屈従しない」と声明しました。  判決をうけた被告は服役していたが、一九五〇 年の朝鮮戦争開始で減刑となり、漸次釈放され、 死刑執行はありませんでした。  「九州大学五十年史」(一九六七年一一月発刊) は「同事件はなお究明さるべき多くの問題を残し ている。ただこの事件を大学に即して見れば、… 大学とくに医学部の再出発に当たって、大学にお ける学問研究の姿勢を正し、大学内の封建的諸関 係を揚棄するうえに大きな警鐘となった」と述べ ています。 ④事件とその判決をめぐる大学当局や医学部 の対応  この事件は発生後すでに約五五年を経過した過 去の事件であり、極東軍事裁判で判決が下された ものであり、しかも被告は服役をすでに完了して 潔白の身となっているから、今さら問題にする必 要はないという考え方もあります。  この事件は、「九州終戦秘録」(上野文雄)、「海 と毒薬」(遠藤周作)、「生体解剖」(上坂冬子)な どで紹介されましたが、連合軍による極東軍事裁 判という関係もあって、この事件は広く国民の間 に報道されず、従って多くの人々には記憶されな いで月日が経過してきたようです。しかし、十五 年戦争と医学・医療を考える場合、無視して通る わけにはいかない問題です。  今の時点で何が問題か? 「捕虜に対する戦時 国際法」の立場からの問題や、勝者が敗者を裁い たと言われた「極東軍事裁判」の位置づけについ ての問題などもありますが、ここではこれらの問 題にはふれずに考えてみたいと思います。 ・第一の問題  まず、事件とその判決をめぐる大学当局や医学 部の対応についてです。  前述したように、九州大学医学部がこの事件を 公に問題視したのは、終戦の翌年一九四六年の二 月五日、医学部の助教授、講師全員が医学部の 「封建性打破」を要求して辞表を提出した時期と いえよう。事件の約九カ月後であり、しかもアメ リカCIDやCICが捜査に入り、九州大学へ質 問状を送ってきてからです。  終戦直前・直後という異常な状況下とはいえ、 このような特異な事件であるから事件の発生した 頃は医学部内では知れわたっていたに違いありま せん。にもかかわらず戦争状態が終了しても長い あいだ問題とされなかった理由は何か?  それは、「捕虜虐待」という明らかな国際的犯 罪とかかわりたくないという思いと、医学部特有 の封建制からくる各教授を頂点とする主従関係、 絶対服従と密室性の構図からではなかったかと推 測できます。そして、一九四六年二月一三日に 「医学部基礎臨床委員会」、同年三月二〇日に「医 学部刷新委員会」が発足していますが、この事件 については正式には触れられていないことでもそ のことは明らかです。どうして医学部として自発 的に事件を反省する発議がこの時期に起こらな かったのか? が第一の問題と思います。 ・第二の問題  一九四六年七月一七日に石山は占領軍により逮 捕され、それをきっかけに医学部で「基礎臨床委 員会」が開催され、はじめて事件について医学部 としての公の見解がだされています。その委員会 の声明の主旨は、「それは当事者が勝手に大学の 施設を用いてやったことであって、われわれは全 く与り知らない」というものです。この声明の内 容のかぎりでは、生体実験という事件の本質につ いての真摯な反省や問題点の解明は微塵もなされ ていないといわざるをえません。  さらに、事件の判決が一九四八年八月二七日に 下されたが、判決をうけて九月一五日に医学部中 央講堂で「反省と決意の会」が開催され、声明が 出されています。声明では「たとえ国家の権力ま たは軍部などの圧力が加わっても、絶対にこれに 屈従しない」としていますが、それはニュルンベ ルグ裁判にみられるような人間・生命の尊厳や医 の倫理についての認識や論議をほとんど欠くもの であったようです。この点が第二の問題といえよ う。 ・第三の問題 「九州大学五十年史」もこの事件にふれていま す。そこには「同事件はなお究明さるべき多くの 問題を残している」としてきわめてあいまいな、 場合によっては生体解剖を肯定しているのではな いかとすら思わせる記述があります。「大学にお ける学問研究の姿勢を正し、大学内の封建的諸関 係を揚棄するうえに大きな警鐘となった」とはし ていますが、「石山の許されざる『世紀のメス』が 捕虜を徒殺したものでなかったにせよ、この手術 に関する記録は全く残っておらず、結果として単 なる戦争医学の汚辱にしかなっていない。敗戦直

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前の、日本の異常な戦争状況下における、悲しむ べき戦争悪のひとこまであった」と述べられてい ます。  事件は「捕虜を徒殺したものでなかった」と し、しかもそれは「戦争悪のひとこま」であった と一般化さえしているのである。このような九州 大学史の記述からすると、捕虜に対する国際法の 尊重、人権の尊厳、人命への畏敬と医療者の倫 理、これらのいずれにも真摯な反省がないかのよ うに思えてなりません。  以上のように、大学や医学部の組織的な対応は きわめて不十分なものであったと言わざるをえな いようです。 ⑤記録さえあれば『世紀のメス』だったの か!  平光吾一は事件当時解剖学教室の主任教授で、 生体解剖事件の舞台となった解剖室の使用を許し た人物です。彼は自ら「異様な手術場の光景」と 記述しているように、事件を目撃しているので す。横浜裁判では二五年の拘束の判決をうけてい ますが、彼も朝鮮戦争を契機に釈放されました。 その後「文芸春秋」誌に「戦争医学の汚辱にふれ て」という一文を載せたのです。  その中で、「検事は『この事件は何も学問的に 価値あることは行っておらず、徒に捕虜を虐殺し た』と論じているが、肺臓全摘出とか、現在行わ れている方法の心臓の手術、さらに癲癇療法のた めの脳切開の課題に石山教授は文字通り世紀のメ スを振るったのである」「決して捕虜を屠殺した わけではなかった。ただ惜しむらくはこの手術に 関する記録を全く残しておかなかったことであ る」「医学の進歩はこのような戦争中の機会を利 用してなされていることが多い。…その許されざ る手術を敢えて犯した勇気ある石山教授が、自殺 前せめて一片の研究記録なりとも残しておいてく れたら、医学の進歩にどれ程役立ったことだろう か」と記述しています。これではまったく生体解 剖の肯定ではないか!  「九州大学五十年史」もこの事件にふれている と前述したが、そこでも、この手術に関する記録 は全く残っておらず、結果として単なる戦争医学 の汚辱にしかなっていないと書かれている。記録 さえ残っておれば「犠牲者の霊も幾分なりと浮か ばれたであろう」という考え方なのであろうか?  裁判の判決に服するとは、自らが犯した罪を認 め、反省し、今後再びこのような過ちを人類に対 して決して行わないということです。平光吾一や 「九州大学五十年史」のこの事件関連の記述をし た人びとは、判決をどのように考えているのであ ろうか? ⑥「当時として権力に抗することは不可能」 であった?  前述したが、事件の判決が下った直後に、医学 部中央講堂で「反省と決意の会」が開かれまし た。そこでは生体実験を軍部の圧力とみる意見が 強かったのか、論議の後「たとえ国家の権力また は軍部などの圧力が加わっても絶対にこれに屈従 しない」と声明しています。  戦争という暴力の時代には、権力の国民抑圧の 暴力機構は軍隊と裁判所であります。十五年戦争 中の「軍隊の命令」は暴力そのものであったので あろう。したがって、この事件の始まりに暴力機 構としての軍部の権力の発動があったことは間違 いない事実です。  しかし、私たちはかつてのライプチヒ最高裁判 所の判例や、ニュルンベルグ国際軍事裁判所の判 決を想起する必要があります。命令が存在したか どうかではなく、道義的選択を追求したのかどう かということです。「軍の命令」だからとして医 師の道義的選択が不問に付されることはないとい うことです。  今問題なのは、かっての日本の医学・医療が犯 した事件を裁くことではありません。問題は過去 の問題を不問にして忘れ去ろうとすることであり ます。過去を忘れるものは必ず同じ過ちを起こす からです。 [五]おわりに (1)「兵站」は戦禍をうけないか?  日米安保条約にもとずく「新ガイドライン」関 連の法案、周辺事態法などが多くの国民の反対を 押しきって昨年成立しました。「新ガイドライン」 は、戦争放棄の憲法第九条があっても、日本はア メリカの行う戦争に協力しなければならないとい う決め事であります。日本を再び「戦争をする 国」にする決定なのであります。  この「新ガイドライン」関連法の大きな論争点 の一つが「兵站」という概念をどのように受けと めるかでありました。「兵站」は戦争の最前線で はなく「後方」であるので、そこへの日本の支援・ 参加は戦闘行為ではないと政府はいうのです。  昔の戦争ならいざ知らず、今日の戦争は後方か らの支援なしには戦争は不可能であります。十五 年戦争の時ですら、「兵站」どころか「銃後」と

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〔付記〕

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十四 スチレン 日本工業規格K〇一一四又は日本工業規格K〇一二三に定める方法 十五 エチレン 日本工業規格K〇一一四又は日本工業規格K〇一二三に定める方法

一 六〇四 ・一五 CC( 第 三類の 非原産 材料を 使用す る場合 には、 当該 非原産 材料の それぞ

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