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Kyoto Medical College and Unit 731 of Japanese Kwantung Army Ichiro KADOWAKI *

Health & Medical Care Center for Kyoto Min-Ire n

15年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 1巻第 1号 39-43

* 連絡先 : 〒 京都市伏見区竹田真幡木町116  京都民医連 保健医療センター

 Address:Health & Medical Care Center for Kyoto Min-Iren, 116 Mahatagi-cho, Takeda, Fushimi-ku, Kyoto       JAPAN

20年間生理学研究者、大学教員として、教育研 究に従事しました。

 1967年 (昭和42年) 3月に、 京都府立医 大の学長に選出されました。1968年(昭和4 3年)学生自治会を始め、学内各層の「大学管理 体制解体闘争」(所謂大学紛争)が始まり、19 69年(昭和44年)になって、教授会への学生 デモ隊の乱入、徹夜の「大衆団交」、学生のスト ライキ突入、全教授の軟禁、警察機動隊導入と学 生逮捕から、大学によるロックアウトと「全共 闘」による臨床教室占拠封鎖等が続きましたが、

1969年(昭和44年)7月17日に、大学管 理職全員と共に、京都府知事に辞表を提出して、

任期途中で学長を退職しました。

 1970年(昭和45年)3月に京都府立医大 を停年退職して、神戸女子大学教授と 京都救世 会館の公害研究所(後に環境科学総合研究所と改 称)の所長に就任しました。

 1972年(昭和47年)に兵庫医大の教授に なって、パプアニューギニア高地住民の栄養摂取 の研究等を行いました。

 1978年(昭和53年)勲三等旭日中授章を 下付されています。

 1980年(昭和55年)に兵庫医大を停年退 職して、再び 神戸女子大 教授に転任した。

1984年 (昭和59年)に77歳の誕生を迎え て、12月 に喜寿回顧」出版を出版しています。

 1990年(平成2年)11月29日83歳で 死去しています。

2.吉村寿人と執筆者との関係

 吉村寿人と本稿を執筆しています門脇との関係 と、2000年(平成12年)6月「15年戦争 と日本の医学医療」研究会の創立総会で、研究報 告として、吉村寿人を取り上げた根拠の説明を述 べてみます。

 執筆者は、1945年(昭和20年)に京都府 立医大予科に入学しました。3年間で予科を卒業 して、1948年(昭和23年)4月に京都府立 医大本科に入学しました。生理学の講義を、吉村 教授から直接聞きました。従って、著者にとって 吉村寿人は、世に言う恩師です。

 吉村寿人が府立医大へ教授として、着任された 敗戦2年後の頃には、「吉村寿人が戦争中,当時 の「満州」の731部隊で,人体実験等の手段を 使って,研究活動をしてきた」という趣旨の所謂

「バクロ記事」が、市販の雑誌等で報道されてい ました。府立医大の学生の中でも、このことか

ら、吉村の戦争中の研究について、批判するもの も多くいまして、大学内の掲示板で、吉村教授批 判が「壁新聞」として書かれていたこともありま す。従って、著者も当時から吉村寿人に対して、

彼の戦争中の研究方法に対して、医学医療の倫理 上の批判的意見を持っていました。

 また、著者自身には、吉村寿人教授と個人的に 接しました、思い出深い記憶がいくつかありま す。

 一つは、1949年(昭和24年)の春、生理 学の終了による学士試験のことです。

 当時の試験形式は、筆記試験ではなく、口頭試 問で、1時間ごとに学生4人宛が、教授の諮問を 一対一で受けるというものでした。従って、一人 平均15分間の面接諮問と言うことになります。

わたくし達4人の学生の先頭がわたくしでした。

吉村先生は、開始と同時に、「門脇君勉強してき たかね」と聞かれて、「はい」「どこが難しかった」

「ホルモンです」「じゃーホルモンから聞こう」と いうのが始まりの問答でした。そのあと、あれこ れと試問を受けて、不図時計を見ると、先頭学生 のわたくしの時間は、開始から40分を回ってい ました。わたくしは、耐えられずに、「先生、先 生も図書を見ながら質問しないで、わたくしと一 緒に、本を見ないで、質問してください」と言い ました。先生は、「学生運動を止めるか、教授会 の傍聴をやめるか?止めるのなら、合格させてや る」と言われたので、わたくしは「それは生理学 の試験とは関係ありません」と言って、「それな らいいです」と言って、退席しました。とうとう、

わたし一人に45分掛かってしまいました。他の 学友は、3人で15分ですから、一人5分で、わ たしと比べて、45対5、9対1です。試験の後 で、他の学友連中から感謝されました。何日か後 で、学生課に行きますと、吉村寿人先生の生理学 は合格していました。

 もう一つは、1969年(昭和44年)の学生 ストライキ、研究室占拠中のことです。府立医大 の暴力学生集団が同志社大学や、立命館大学な ど、他大学の学生の応援を受けて、当時、教職員 の努力で、不法占拠を免れていました、基礎2号 館という建物を攻撃してくると言う情報で、当時 の吉村寿人学長とわたくしの2人だけで、基礎2 号館に立てこもって、暴力学生に退去を命じると いう事になったときです。何時間か、吉村学長と 二人きりで、立て籠もって、無事に、基礎2号館 を守りきった後、吉村学長は、わたくしの手を 握って「有難う」と感動の面もちで感謝の言葉を

口にされました。その後、「もし、外国へ留学し たいなら、アメリカは嫌いだろうから、メキシコ でもどうだ」と言われました。わたくしは「別に アメリカが嫌いな訳ではありません。アメリカの 自然や、アメリカ人は好きです。ただ、アメリカ 政府は嫌いです」と答えました。大学紛争が終 わった後も、留学の話はありませんでした。

 このような、エピソードも含めて、吉村寿人と 筆者の間は、京都医大時代には、公私ともに可成 り身近なものでした。著者は1955年(昭和3 0年)に大学卒業後、府立医大の衛生学公衆衛生 学教室へ入りましたが、当時の建物は、吉村寿人 教授の生理学教室の建物と隣接していました。ま た、両教室が基礎医学2号館に移転した後も、生 理学教室は3階で、筆者の衛生学公衆衛生学教室 は、真上の4階で接近していました。

 著者が大学卒業後、最初に従事しました衣服衛 生学の研究で、体温測定に使った銅コンスタンタ ンの温度測定用のセンサーも吉村寿人の作品だと 聞いていました。また、今日でも、労働者の振動 病健診等で使っています冷水浸漬テストについて も、吉村先生に直接、質問して、助言を受けたこ とがあります。

 今回,「15年戦争と日本の医学医療」という 研究会に参加するに当たって、筆者がなにを置い ても、吉村寿人を研究対象に選んだ根拠がここに あります。

 3.関東軍731部隊の経歴と京都大学出 身者

 731部隊の創設と創設者、指導者であった石 井四郎と731部隊の創設について、常石敬一の

「医学者達の組織犯罪」を基に簡単に述べておき ます。

 1892年(明治25年)千葉生まれの石井四 郎は、金沢の第四高等学校を経て、京都帝国大学 医学部を1920年(大正9年)に28歳で卒業 しました。卒業後直ちに陸軍に入って、二等軍医 に任官しました。卒業して4年後の1924年

(大正13年)に京都大学医学部の清野健次教授 の微生物学(細菌学)教室へ、陸軍から派遣され て大学院生として入室しました。木村廉助教授の 指導で、研究生活を送りました。清野健次教授 は、当時病理学教授を兼任していましたが、4年 後の1928年(昭和3年)から病理学教授に専 念して、後任教授は木村廉(1944年(昭和1 9年)医学部長)でした。

 1925年(大正14年)に生物(細菌)兵器

と化学兵器の使用を禁止した「ジュネーブ議定 書」が締結されました。日本政府代表も署名しま した。石井四郎はこの条約の成立に刺激を受け て、その後の生物兵器の研究・開発に取り組むよ うになりました。

 1926年(大正15年)4月から大学院の研 究生活を終わって、京都衛じゅ病院勤務になった 石井四郎は、しばしば上京して、陸軍参謀本部を 訪れて生物戦への準備の必要を説いていました。

1930年(昭和5年)石井四郎は2年間のヨー ロッパ、アメリカ旅行から帰って、8月に三等軍 医正(陸軍少佐相当)に昇進して、軍医学校教官 に任命されて、防疫部・防疫学教室に配属されま した。

 1931年(昭和6年)日本は、中国東北で侵 略戦争を開始しました。日中15年戦争の開始で す。陸軍防疫部の赤痢予防錠の生産のために、石 井四郎は細菌の大量生産用「細菌培養函」を発明 して、特許を得ています。

 1932年(昭和7年)軍医学校内に石井四郎 を主任とする「防疫研究室」が設立されました。

ここでの研究によって、石井四郎は、戦場での給 水用の「濾水機」を発明して、特許を得ています。

 1932年(昭和7年)に、中国東北部背陰河 に陸軍防疫部防疫研究室の機関として、東郷部隊

(後の731部隊、石井部隊の変名)が発足して います。ここで生物戦(細菌戦争)兵器と医学の 研究開発活動として大規模な「人体実験」が行わ れ始めました。

 1936年(昭和11年)8月に、関東軍防疫 部731部隊(加茂部隊、石井部隊)が正式に発 足しました。1938年(昭和13年)背陰河(ペ イインホー)から平房へ移転しました。この移転 は、設備の整備拡充と共に、研究の中心が、軍医 の研究者から大学出身研究者、技師達に移って行 きました。平房の技師研究者の中心は、第一陣の 京都大学から派遣された、吉村寿人を含む8人の 研究者でした。彼らは、1938年(昭和13年)

春に平房へ到着しました。こ8人の研究者たちの

「満州」行きは、石井四郎が京都大学で大学院生 生活を送っていた時の京都大学の人脈が深く関係 していまして、大きい影響を持っています。

 4.医学医療の倫理と人体実験

 731部隊の生物戦、細菌戦の準備研究と人体 実験は細菌投与実験が中心でありましたが、吉村 寿人が行ったと言われる寒冷暴露の人体実験と凍 傷対策の研究が含まれていたことが知られていま す。

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