Hiroshi MIZUNO
*Workers’ Health Service Center, Osaka Prefecture Labour Division
15年戦争と日本の医学医療研究会会誌 第 1巻第 1号 34-38
* 連絡先 : 〒634-0842橿原市豊田町126-118(自宅)
Address: (Home) 126-118 Toyoda-cho, Kashihara City, Nara 634-0842 JAPAN 1、はじめに
「15年戦争と医学」を考えるにあたっては、
もう少し古くに遡って歴史的検討をしておくこと が不可欠と考える。医学はもともと、「生命をま もる」ことにある。それに対して戦争は、「いの ちを損なう行動である」し、またクラウゼビッツ が「戦争論」で説くように、政治の究極的場面で もあり、そのためには平時にも常備軍を持たねば ならない。
明治維新前後のわが国でも、開国と維新戦争の あいだに、近代日本軍隊が作り出され、同時に
「軍隊医学」が成立していく。「日本医学史大系・
医学(1)」で、中川米造氏は「・・軍隊は兵力 として戦闘において最終的には消耗されること、
軍隊医学が後になって化学兵器や生物兵器等の開 発にのりだしたことを除けば(実はこの二つの大 矛盾こそ最も強力な批判が向けられねばならぬ が)、軍隊医学は社会医学の方法論と、形式に関 する限りまったく近似したものであるといえる」
との指摘をされている。「軍隊医学」はそれまで の治療中心の医学と全く違う「集団医学」として の方法論と組織を必要としたのである。
同時に日本の医学にとっても、新しい欧米先進 国の医学を学ぶ必要に迫られたが、明治維新前後 の日本の医学教育の指導担当をしたのは、ヨー ロッパ先進国の「軍医」が中心であった。
2、近代日本の軍隊の誕生と徴兵制度
「戊辰戦争」の時期の新政府軍はまだ諸藩の軍 隊の連合であったが、このたたかいには戦傷兵の 治療に医師が参加し、その活動が評価されてい る。1868(明、2)年に、明治天皇の「親兵」
として、近衛兵が400名でつくられ、明治4年 には「薩・長・土」三藩からの献兵一万人からな
る「御親兵」が組織された。国家的統一のために は直属の軍事力の創設が必要という大村益次郎な どの意見が、「廃藩置県」の断行のもとでとりあ げられ、1869年11月に「徴兵規則」の太政 官・達が出された。その第一条は「兵卒年齢二十 ヨリ三十ヲ限リ、身体強健、筋骨壮健、長ケ五尺 以上ニシテ兵役ニ堪ユルベキ者ヲ推挙スベキコ ト。但、医官ノ検査ヲ受ケ合格セザル者兵役ヲ許 サズ」とある。医官による撰兵行為が必要とな る。1872年に「全国徴兵の詔」がだされ、翌 年1月「徴兵令」が発布され「徴兵ハ国民ノ年甫 メテ20才ニ至ル者ヲ徴シ、以海陸両軍ニ充タシ ムル者ナリ」と国民皆兵の制度が作られた。
3、明治初期の「軍医」制度
明治初年の近代軍隊の創生の動きとともに、
「軍医制度」も作り出されていく。明治4年、兵 部省に軍医寮がおかれ、陸軍卿に隷すとされ、松 本順が軍医頭となった。翌5年陸軍省、海軍省が 設置され、それぞれに軍医寮が設けられた。同時 に軍医(医学生)養成も開始され、陸軍では「軍 医寮学舎(林紀軍医監)」(明、5)、翌年「軍医 学校(緒方ニ等軍医正、ブッケマ)」に、海軍で は「海軍軍医寮学舎」(明、5)、同9年「海軍軍 医学舎」となる。こうした初期の軍医養成制度は 海軍では、最終入学は明治8年で、13年に全員 卒業し廃止となる。一方陸軍では石黒忠悳の「義 務兵制度においては、その兵、傷病にかかるや国 家は最上の治療を施すべき義務がある・・・・(軍 医は)普通医学は医科大学で学習させ、卒後軍陣 医学を学ばせればよい」という建議がいれられて 陸軍委託学生制度に変更した。
当初の軍医寮には権頭、権助が、各鎮台病院に は一等医正、二等医正が、各師団には一等軍医、
二等軍医が配置され、そのもとに一等軍医副、二 等軍医副、さらに一等軍医試補、二等軍医試補の 階級がつくられた。この官位の名称はしばしば変 更された。その後の軍医の最高官位は軍医総監で あったが最初は少将相当官で、のち軍医中将が最 高位となる。
「徴兵制度」の実施のなかで、「撰兵」が軍医の 当面の大きな仕事となり、「撰兵論」が軍陣医学 のなかでの大きな課題ともなった。
4、石黒忠悳の歩んだ道
石黒忠悳は、1845年福島・伊達郡に生ま れ、幼少年期は苦労をした。20才になって、「医 を業とする」ことを決意し上京、21才から24 才まで江戸医学所に学び、卒業後医学所句読師・
大学東校に勤務。27才のとき松本順のすすめで 兵部省軍医寮に出仕し、一等軍医正となり、佐賀 の乱では陣中病院を監督し、明治10年の西南の 役では大阪臨時病院長に就任。此の間、陸軍軍馬 監のとき米国視察をし南北戦争後の「廃兵院」の 視察も行っている。
石黒は長命で、昭和11年に東京博文館から非 売品だが「懐旧90年」を刊行している(1988、
岩波文庫)。
西南の役は国内戦争であったが、当時の医学界 の重鎮であった佐々木東洋、佐藤 進などの医師 が志願して、軍医として活動している。佐々木東 洋は陸軍に志願したが官位はいらぬと主張した が、治療をうける傷病兵からみると官位は必要と いうことで受けたが、佐藤進はすんなり軍医監の 官位をうけたという。
また、ポンペの日記をみると、10月4日「・・・
今日本土の南部と九州にあるほとんど全部の鎮台 にコレラが発生したとの報に接した。・・・(対 策には医師が必要)これが軍隊の方では足りない ので、政府はわれわれの学生の最上級生全部を徴 用した。学生たちは明日にはもう横浜で船にのせ られる。」とある。医学生が軍医代行で動員され ている。
5、軍医「森林太郎」
最近、中井義幸「鴎外留学始末」(岩波書店 1999、7)が刊行され多くの資料が提示され 森林太郎の若き時期の様子がはっきりしてきた。
明治13年11月森は東京大学医学部を卒業す る。卒業試験を経て翌14年7月に卒業証書授与 となる。卒業生は30名。その進路は内務省(地
方病院・医学校)へ15名、陸軍省へ8名、文部 省(東京大学)6名、私費留学1名。陸軍省の8 名は、東京陸軍病院 5、東京憲兵本部 3と なっている。森林太郎、小池正直、谷口謙、賀古 鶴所などである。東京大学のうち三浦守治と高橋 順太郎の二人がドイツ留学生で、教授候補生で あった。卒業試験成績が一、二位であった。明治 8年ころから「内務省官費生」制度ができ、引き 続き「陸軍軍医本部給費生」制度が実施されてい た。それに合格するにはには、学年次の成績が大 きくかかわっていた。森はこの制度には関心をし めさず、文部省のドイツ留学を望んでいたようだ が、これも卒業成績で決まり、やむなく陸軍入り を決めたようである。また西周を介しての姻戚・
家族関係のしがらみも大きかったようである。な ぜ森鴎外が若き時に軍医を選んだのかという事情 がよくわからなかったが、そうした事情のあった ことがわかった。
林太郎は陸軍軍医副として東京陸軍病院に勤 務、翌14年徴兵副医官として上信越にも出張し ている。翌年軍医本部付となり「プロイセン国陸 軍衛生制度取調」をへて、17年8月ドイツ留学 となり21年帰国し、軍医学校教官となる。「陸 軍衛生教程」「衛生新編」「衛生学大意」「Japan und seine Gesundheitspflege」の重要な著書を 書いた。しかし当時の軍陣医学上の大問題であっ た「兵食論争」では曖昧な態度をとっている。
6、博愛舎から日本赤十字社へ
西南戦争はわが国の軍医制度の試験期間でも あった。佐野常民は西南戦争における傷病兵の救 済のために悳悳、「博愛社」を組織した。戦役後 も皇后の支援で存続が決定し、軍医総監橋本綱常 の建議もあった。明治19年万国赤十字条約に加 盟した時「日本赤十字社」と改称した。23年に 日赤は「看護婦養成」を開始し、25年に第一回 卒業生が出たが、「卒後2年看護婦の業務に服し、
後20年間身上になんらの異動を生ずるも国家有 事の日に際せば、速やかに本社の召集に応じ患者 救済に尽力せんことを誓うべし」であった。
日清戦争時、広島陸軍予備病院にはじめて看護 婦が派遣されたが、これが陸軍病院への看護婦配 属のはじめであった。その後北清事変で赤十字病 院船に後送患者看護のため看護婦が乗船し、日露 戦争では本格的従軍となるが、派遣看護婦は軍人 ではなかった。
7、明治憲法の制定と軍隊
西南戦争終結直後の明治11年に軍隊の機 構として「参謀本部、軍令部」の制度が成立 した。いわゆる「二元主義」の成立であり、後 年の軍部独走の土台形成であったとされてい る。15(1882)年「軍人勅諭」が下賜さ れ、22年「明治憲法」が発布された。「国民 には兵役の義務」が課せられ、「天皇ハ陸海軍 ヲ統率ス(11条)」「天皇ハ陸海軍ノ編成及 ビ常備兵額ヲ定ム(12条)」となった。「徴 兵令」やその細則はさいさいにわたって改正 され「免役条項」もあった。明治15年から 29年の15年間で「非合法的徴兵忌避(逃 亡失踪者数)」は、7万4千8百8十名という 統計がある。
日本の明治初期の工場は官営工場が多く、
その後その多くは民間に払い下げられ、その 後の資本家形成の基盤にもなったが、軍需関 係の工場は軍が引き継ぎその衛生管理は軍医 が担当した。そういう意味で日本の「労働衛 生」は当初軍医が進めていった。明治29年
「陸軍砲兵工廠職工衛生調査」が石黒軍医総監 の命により江口龍男軍医が調査・報告してい る。(「陸軍軍医団報告」に掲載)当時職工数 は4、800余、うち16才以下の職工19 6名。少し後年になるが、明治3年陸軍軍医 学校衛生学教室の稲葉良太郎、小泉親彦軍医 による「陸軍省関連工場の労働者の生計と栄 養にかんする調査」の報告や、両名による「実 用工業衛生学」(大正5)の刊行などがある。
稲葉はのち理由不詳だが自殺し、小泉は後述 するような道をたどる。
特異な軍隊形式として「屯田兵」があった。
屯田兵制はもう一つの北海道民衆史ともいわ れ、植民地開拓方式の先例とも言える。黒田 開拓使次官の発案で明治7年「屯田兵例則」が 裁可され、翌8年「士族屯田」が東北から1 98戸、965人が琴似・山鼻・発寒に、24 年に「新屯田兵条例」のもと「平民屯田」が旭 川地区に入り、29年には屯田兵司令部が第 7師団(旭川)となる。対士族問題、対ロシア 問題にも対応するものであった。31年には 屯田兵募集を終了とし35年屯田兵現役解除、
予備役とした。日清戦争には屯田兵も出征・乗 船したが上陸することなく帰還したが、日露 戦争時は予備役にも動員命令が出て第7師団 に結集し、乃木軍に編入され激戦の二○三高 地戦に従軍し多くの戦死傷者が出た。明治3 9年「屯田兵土地給与規則」が廃止されいわ
ゆる屯田兵村は以後一般の町村なみの行政下に 入った。
8、日清(明治 27、28 年)、日露(明治 37、
38 年)戦争
1882(明15)年「陸軍大学校条例」で、
参謀本部のもとで参謀将校の養成が開始され、翌 年各地方庁に「平事課」が設けられ、18年に「徴 兵令」の大幅改正がなされた。陸軍外征軍隊が 着々と建設されて行った。日清戦争直前の明治2 6年の陸軍軍人総数は以下のように記録されてい る。将官48名、佐官450、尉官3405、准 士官8、下士8597、諸卒240501で合計 25万3千余である。うち、現役11万余、予備 役7万、後備役約6万である。この戦いでの軍人 の戦傷病死の統計は、戦死1116名、戦傷死2 85、病死11587で、服役免除は、傷痍15 84名、疾病2174、刑罰36となっている。
日清講和後台湾が日本の植民地になるが、台湾 では「平地ゲリラ」「高地ゲリラ」が10年は続 き「台湾植民地戦争」が続いた。平行しながら、
台湾における医療制度、医学教育が日本医学の植 民地展開のなかで進められていく。
十年後の日露戦争は、「本格的帝国主義戦争の 開幕を告げるにふさわしい規模の戦争であった。」 といわれるように、日清戦に比べ戦費総額は 7.6 倍、動員兵力は将校で3.84倍、准士官・下士卒で 4.55倍、軍馬総数3.48倍となっている。そして戦 死戦病死者の数は、将校クラスでは10.3倍、准士 官・下士卒クラスで6.2倍、喪失軍馬4倍と日清 戦に比べ大損傷をこうむった。日露開戦前に平坦 部と衛生勤務要員の決定的不足が予測され、問題 にされていた。
加藤健之助軍医の日露戦争時の日記が公表され ている。彼は明治10年岩手県平民として盛岡に 生まれ、盛岡中学中退後、養子縁組みしたり志願 兵となって貯金したりして上京、済生学舎に学び 2年間で卒業・試験合格、軍医少尉として弘前第 八師団に勤務し日露戦争では黒溝台、奉天会戦に 従軍した。第八師団衛生隊として参戦したが、将 官18、下士35、兵卒378、輸卒56、その 他2の計489名構成で、馬60匹も加わってい た。別に患者輸送部として兵員21、馬3匹が あった。帰国後は2年間旭川衛戍病院に勤務し、
明治40年から昭和23年まで盛岡で開業し、
「親切なもと軍医さん」として慕われた生涯を 送った。