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補訂版『萩原朔太郎全集』「年譜」を見て : 萩原朔 太郎年譜考・補遺
國生, 雅子
九州帝京短期大学講師
https://doi.org/10.15017/15487
補訂版﹃萩原朔太郎全集﹄ ﹁年譜﹂を見て i萩原朔太郎年譜考
・補冊豊想一國藤工 雅 エー
︵一︶はじめに
筑摩書房版﹃萩原朔太郎全集≒の補訂版が﹃補巻﹄ ︵RT二︶の
祠行をもって完結︑した︒より充実した形での新しい全集が期待され
たが︐十五巻までは従来の第一刷とほとんど変わるところはないと
いってよい︒しかし十五巻に付された補訂版の年譜と︐十六巻目の
﹃補巻﹄は︐資料整備という意味では大きな成果と言えよう︒
さて︐その補訂版年譜であるが︐萩原栄次宛書簡集﹃若き日の萩
原朔太郎﹄ ︵筑摩書房S蔦四ニハ︶によって判明した事実が記載された
ことは︐何よりも幸いとしなければならない︒これで研究者は全集
の年譜と︐ ﹃若き日の萩原朔太郎﹄をつきあわせるという煩わしさ
から解放されたわけだ︒その他にも多くの新資料が盛り込まれ︐ま
た誤りは訂並されて.先の年譜より精密なものとなっている︒だが︐
残念なことに︐過去三回にわたり本誌に発表した﹁萩原朔太郎年譜
考﹂中に指嫡した問題も含めて︐明白な誤り︐若しくは単純なケア
レス・ミスであることが明らかでありながら︐チェックからもれた
事項が残されている︒あるいは︐新しく付け加えられた記事の中に
も︐いささか首をかしげざるを得ないものが二︐三に留まらず見ら
れる︒ 例えば︐大正四年六月下旬︐ ﹁上京︒北原去秋を訪問︒白秋︐麗
星︐竹村俊郎等とメエゾン鴻の巣などで歓談﹂といった記事など︐ 新潮祉版全集第五巻︵S壷∴二︶付載伊藤信吉氏編年譜が世に出た時点で︐久保忠夫氏より︐このとき犀星︐竹村が上京していなかったことが指摘されていた蓮←にもかかわらず︐先の年譜に引き継がれ︐今また訂正されることなく三十年近くも見過ごされている︒因みに.﹃室生犀星文学年譜﹄︵室生朝子・本多浩・星野晃一編 明治書院sπ七・§所載の室生膿星年譜﹂にも︐﹃竹村俊郎作品集下﹄
︵文化総合出版S五九充︶所載﹁年譜﹂にも︐大正四年六月上京の事
実は記されていないし︐前後の状況からそのように椎駕することも
困難である︒年譜作成は一人や二人目力でできるものではなく︐多
くの研究者の︐それぞれの視点からの成果を総合して初めて可能に
なるものであろう︒全集という権威ある出版物に付される年譜の編
者に何よりも望まれるものは︐多くの文献への生き届いた目配りで
はなかろうか︒
とまれ︒今更重箱の隅をつついて些細なミスを取り上げ︐鬼の首
を取ったようにはしゃぐ気は毛頭ないが︐本誌編集部との約束もあ
り︐補訂版年譜について気付いた点をいくつかメモふうに記してお
きたい︒ 尚︐以下次のような略称を用いることとする︒
初版年譜備筑摩書房版﹃萩原朔太郎全集﹄第十五巻︵S瓦三・四︶伊藤
信吉・佐藤房儀編年譜
補訂版年譜縫嗣﹃萩原朔太郎全集﹄第十五巻︵S六三.六︶傍藤︒佐藤
編年譜
︵二︶大正三〜四年
ここで取り上げるのは︐本誌七号﹁﹃詩の青春﹄一朔太郎と摩星
の交流−藤朔太郎年直下﹂︹S蓋∴一一︶に関連した問題である︒
● 大正四年二月︐ ﹁下旬から三月一日にかけて旅行﹂とある︒細
かな日程は三年三月十七日付栄次宛書簡によって明らかとなってい
る︒補訂版年譜に示されたそれは正確さに欠けるが︐今は置いてお
く︒さらに注記を示す﹁*﹂印の後に︐初版年譜と岡じように︐東
京で一Bのうちに二︐三度北原白秋を訪ねたことや︐二人の交友の
エピソード︐ ﹁当時の生活から﹂︑﹁東京遊行詩篇﹂が誕生したこと
が記されている︒しかし七三で述べたように︐ ﹁*﹂以下は﹁明確
に時期を決定できないエピソードをはさんで︐後は全て大正三年十
月上京時の事項なのである﹂︒一度論議した問題を繰り返すつもり
はないのだが︐私が年譜研究という厄介なものに手を染めたきっか
けが初版年譜のこの誤りであり︐十年後同じ記事を目にしていささ
か複雑な思いに駆られ︐ついペンを取ってしまった︒
● あの七号における最大の問題は︐後に犀星が﹁詩の青春﹂と名
付けた大正三年春から夏にかけての上京時期を確定することであっ
た︒初版年譜は︐三月下旬から四月上旬︐五月初旬︐六月十日の三
回上京説をとり︐久保忠夫氏は四月から七月にかけての長期滞在説
を主張している︒私も久保氏と同じ立場を取り︐四〜七月朔太郎の
生活の本拠地は東京にあったと見ているが︐補訂版年譜は従来の立
場を守っている︒五月初旬新たに上京したのではなく︐五月一日時
点で既に東京に居り︐しかも四月より継統して滞京中であったこと を証明する前田夕暮の書簡が﹁萩原朔太郎研究会報﹂西︶に紹介されているので引いておこう︒
前田夕暮より 絵葉書 所蔵・萩原愛子
発・西大久保二〇一 宛・本郷区千駄木百二十萩谷方萩原朔太
郎︵消印︶大正3・5・1︿年は判読﹀
先日は折角おいで下さいましたのに何のおかまいもいたさず失礼
いたしました︒あれから忙しかったのでつひ御無沙汰いたしまし
た︐近いうちに又おまちいたします︐是葬おいで下さい.︵下略︾
千駄木=一〇萩谷方からの発信は大正三年以外には考えられない
ので︐発信年の推定はこれでよいだろう︒文意は明らかで︐数臼前
訪れた朔太郎に非礼を詫び︐再訪を乞うている︒彼が四月より引き
続き滞京中でなければこのような書簡が書かれるはずはない︒
○嶋岡農氏﹃伝記萩原朔太郎﹄ ︵上1︿欲情﹀の時代 下⁝︿虚妄
﹀の時代 春秋社 S憂・九︶も︐年譜改訂のための参考資料とされ
ている︒ ﹁嶋岡展氏調査﹂と注記の上︐大正三年九月十三日︐ ﹁﹃
株儒﹄同入で音楽会を開く︒雨の中かなりの盛会で︐朔太郎は倉田
健次とマンドリンを合奏︒また朔太郎は同人による劇﹃お貞殺し﹄
の鳴物をひき受ける﹂とある︒嶋岡氏は同書上巻第八章︒その音楽
会に触れた部分で﹁﹃條儒﹄第三号の会合記事による﹂と出典を明
確にしているわけであるから︐原資料に当るべきであろうもし﹁
珠儒﹂が発見できない場合でも.手遮に格好の資料が存在している.
木下謙吉民﹁株儒とキツネの巣の周辺﹂ ︵﹁萩原朔太郎研究会報﹂
二七号 S互二〇︶がそれで︐同誌二暑︐三号中から朔太郎に関す
る部分が抜粋され︐また同人達から氏に宛た私信の一部が引用され
ている︒音楽会の記事も含まれているが︐それ以外の補訂版年譜に
記されていない事実が明を︐追跡調査は完了七ていないが以下に掲
げることとする︒
志八正一二年八月十山ハ糊口
五色館にて﹁烏豆﹂第二図小集が行われ出席︒
同年十一月二十ニヨ
河口政之助︐梅沢英夫等と﹁前橋バア﹂で豪飲︒これは書簡番号六
九同年十絹月二十三日付木下謙二︵本名︒謙吉︶宛の朔太郎書簡の
内容と呼応する︒
大正四年十月二十三日
新昇にて室生犀星を歓迎する大招待会が開かれる︒
(一︶︐大正⊥ハ〜八年
ここでは本誌十七号﹁﹃月に吠える﹄刊行前後−萩原朔鼠輩磐三己
六マ三︶で考察した事項に関連して述べることとする︐ ︵S
●大正六年十一月の詩語会成立について︐初版年譜には︐十一月二
十一日﹁万世橋﹃レストラン・ミカド﹄の会合で総合的詩人団俸﹃
詩話会﹄設立され︐会員となる︒/*この折︐毎月二十一日ミカド
での集会と︐年刊アンソロジー刊行を決める︒朔太郎は第三図あた
りから出席﹂と記されていた︒今圃はこれが︐十月二十一日・﹁万盤
橋のレス︸ラン・ミカドで﹃詩人魅 ﹃伴奏﹄ ﹃感情﹄の三期発起に
よる詩談会が開かれ出席︒/*この折︐贈名を﹁詩詣会﹂とし毎月
二十一日ミカドでの集会と︐年刊アンソロ.ジー刊行を決める︒十一
月の幹事に智慧柳虹と朔太郎がなるが︐十一月は欠庸の模様﹂と改
められている︒つまり︐十七号で紹介した﹁感情﹂大正六年十一月 号の無署名﹁消息﹂記事を朔太郎執筆と断定したわけである︒
十月二十一巳の夜に万世橋駅楼上のみかどで﹁詩入輪﹁伴奏一﹁
感情﹂発起の詩談会が開かれた︒室生君が喪中で行かれなかった
から私が出席した︒ ︵中略︶愈愈︐詩話会といふ名で来月から毎
月二十一日夕刻よりみかどで開く事にした︒会費は六十銭で幹事
は二名つつ交代︵十扁月の会には川路氏と私︶と定まった︒
︵後賂︶
詳しくは十七号を参照願うとして︐測路が羅星の代理で多田不二
が出席したと後に書き残していることから︐朔太郎執筆の可能性は
極めて薄い︒乙骨明夫氏も多田と見ているが窪&︐唯一朔太郎と考
えられなくもない点は﹁室生.君﹂という表現であろう︒例えば﹁感
情﹄大正六年十月号﹁編集の後に﹂で︐多田は﹁室生兄﹂と敬称を
用いている︒彼と犀星の関係からすれば当然のことで︐ ﹁感情﹂同
人中犀星を﹁室生君﹂と呼び得るのは朔太郎ぐらいのものだ︒しか
し︐それだけの理由で即断するわけにはいくまい︒彼が十一月の詩
話会に欠席したことは︐当巳付のB夏駄之介書簡が前橋の朔太郎へ
宛て発信されている事実から明らかだが.﹁回外会は本臼開きます﹂
︵﹁萩原朔太郎研究会報﹂一四号S四三・四︶といった手紙の中で︐彼
の欠席については一言も触れられていない︒もし朔太郎が本当に幹
事なら︐何らかの言及があってしかるべきではなかろうか︒
いったいに︐今回の補訂版年譜では﹁感情﹂の消息記事が随所に
活用されている︒ということは︐初版年譜編纂時︐ ﹁惑情﹂すらも
精査されていなかったことになるが︐一つの資料を絶対視していて
は思わぬ落とし穴に陥ることもあるだろう︒資料への複眼的目配り
⁝勿論これは自戒の言葉でもある.
●もっとも︐もう一度﹁感情﹂を良く調べていたならば︐こんなこ
とにはならなかったという例を一つ.
大正八年六月二巴︐若山牧水が朔太郎を訪問している︒この記事
が初版年譜では七月二日になっていたことは︐十七弩で指摘した.
今回きちんと訂正されたのはよいのだが︐同じく六月の十日に行わ
れたはずの犀星﹁愛の詩集の会﹂の方は︐七月になっている︒︿七
月二日 牧水来橋 二月十日 ﹁愛の詩集の会﹂Vといった初版年
譜の記述を見て︐誤りが後者にまで及んでいるのに気付かなかった
わけであろう︒ここはそのまま﹁同月﹂としておけばよかったのだ.
﹁感情﹂大正入年七月号を確認する手間を惜しんだのだろうか︒
●谷崎潤一郎との出会いに関する記事もまた︐ ﹁感情﹂大正六年六
月号﹁犀星の感想﹂を資料として︐肉付けされている︒儲香保に谷
崎を訪ねた朔太郎と犀星は︐その日そこで一泊し︐翌巳谷崎同道う
え繭橋まで帰り︐・犀星は対岳館へ宿泊︐翌日帰京したとのこどであ
る︒谷崎﹁萩原講の印象﹂ ︵﹁臼本詩入﹂T三・八︶には︐ ﹁君が初
めて伊香保の宿屋へ私を訪ねてから三Bの後︐忘れもしない大正六
年の五月十四Bに私の母は東京で死んだ﹂とある︒母の死という衝
撃的な事件を起点として記憶された日付には︐比較的信頼性が認め
ちれよう.とすれば三者の出会いは五月十一日.犀星帰京は十三日
ということになるはずだ︒初叛年譜︐補訂版年譜ともに十一日に問
題はないが︐補訂版年譜では新たに︐十四B犀星帰京の記事が付加
された︒これは単純な計算ミスか︒ ﹃室生犀星文学年譜﹄でも十三
目になっている︒
わずか一日のズレをごとごとしく取り上げるのも大人げないが︐
他にも数ケ所日付の算定に疑問が感じられるので︐一例まで︒ ㊤﹃補巻﹄には︐栄次宛書簡を含めて︐新たに発見された百余通の書簡が収められた︒数年来古書目録に竹村俊郎宛書簡がしばしば紹介されていたが︐彼宛ての書簡も数多く収録されている︒補訂版年譜︐大正八年四月﹁同月頃 結婚を決意﹂という記事は︐ ﹁僕もいよいよ近日中︐結婚します﹂という大正八年四月十七日付新収竹村宛書簡に根拠を持つものかもしれない︒しかしこれは結婚予定の報告であって︐決意の表明とは読み取れない︒もっとも︐結婚のことならすでに発表済みの書簡にも触れてあった︒同年四月十三五音多田不二宛書簡と︐同十七日付犀星宛書簡がそれで︐犀星宛書簡などは.結婚に際した夫の心線えを問い合わせた︐誠に傑作なものだ︒だいたい四月頃決意していては︐五月一日に式など挙げちれるはずはない︒ここは. ﹁結婚の予定を友人たちに報告﹂と改めるべきだろう. それにしても︐上目稲子との結婚の経緯はどうなっているのだろうか︒補訂版年譜︐大正七年十二月︒ ﹁上田稲子と見合いのため母と共に上京﹂とある︵誉︾︒嶋岡長氏は﹁僕の瞑想生活もいよいよ此の四月までには終る筈です﹂という大正八年一月十八日付多濁宛書簡を引き︐五月の結婚式までに︐執筆中の詩の原理論を仕上げる予定があったと推定している︒ということは︐八年一月の時点で結婚が決まっていたことになろう︒私もその可能性は極めて高いという気がするが.﹁瞑想生活﹂を詩論の執筆に張定する必要は感じない.
﹁感情﹂大正八年二月号﹁編集記事﹂一 ﹁萩原は四月置り作品発
表﹂1を︐先の多田宛書簡と何ちかの関わりを持つものと仮定す
ると︐結婚を契機として沈黙生活からの脱却を意図していたことに
なろう︒私がここに記しているのは︐もちろん単なる憶測に過ぎな
い︒だが︐朔太郎にとっての結婚の意味付けを探る上では︐重要な
ポイントなのだ.作品発表再開.評論活動の活発化.雑誌発刊計画︐
詩集の刊行︐上京といった大正十年に始まる一連の動きを︐外的活
動の活発化としてトータルに捉え︐朔太郎の内面に何が起こったか
を明らかにしなければ︐ ﹃青猫﹄という詩集は見えてこないのでは
なかろうか︒ 呵月に吠える﹄も﹃雄猫﹄も︒沈黙選書という死一再
生のメカニズムを経なければ誕生できなかった︒ ﹃青猫﹄期の再生
にとって︐結婚はどのような役回を果たしたのだろうか︒
︵四︶雑誌発刊計画をめぐって
実のところ︐作品発表再開から上京までの経緯を調査中であった
が︐今のところまとめるまでに至っていない︒最後に︐一通の書簡
を通して雑誌発刊計函の時期を探り︐次へのスッテプとしておきた
い︒ ゆ の工合の悪い時は︑しばらく焦燥せずに放遙早々する方がよかろう︒生理上のことは︑自分の自由意志でどうにもならないから︒ そこでいよいよ翌翌盈行をしたいのだが︑まるで無二瞼 のの僕には︑どこから手をつけていいのかわからない︒そこで一つ小學生從でも相手にする氣になって︑初手からの順序をプログラムにして書いて下さい︒プログラムの一は︑.竹村︑多困等の藩同人諸露に相談をかけることであろうが︑ り るその二から先がわからないのだ︒第一︑これはその筋へ届けるものでみるか︒届けるものとすれば︑どんな手績きが必要か︒印覇所とのかけ合は︑紙を買ってから後であるか︒それらすべての順序を︑ヒ一々箇條にかいて教へて下さい︒ 萩原朔太郎︑ 禺妻より兄によろしくとのこと︑爾御夫人にもよろしく︒ *いよいよ雑誌獲行をしたい⁝⁝ 大正十一年十二月に蒼 ﹃惑星﹄同人が築って雑誌獲行の協議をし︑﹃第二感情﹄ ﹃猫逸黒﹄などの誌名を話題にしたが︑實現しなかった︵書
簡二五六募照⁝︶︒
まず︐大正十一年七月上旬と推定された犀星宛書簡を補訂版全集
からそのまま引いておく︒
昌七
室生犀星宛七月上旬︵推定︶封書︵封筒なし︶
室生兄︑
寸志に堕し︑君が挽んでくれたのは何よりだった︒今年
また君と逢ふ機會のとぼしいのを考へると寂しい︒
別紙二濡の詩編は︑鮎と一駈にお贈りする筈のところ︑
急いで封入を忘れたから︑瀦に書き直して御届けする︒い
つれ﹁感情﹂でも公表するつもりであるが︑他に要求者が
あったら︑兄からその方へつかはしても差支へない︒頭の 初版全集では︵ ︶内が﹁書簡二五七参照﹂となっているが︐書簡二五六も二五七も同じく大正十年十一月三十日付今村清宛書簡である︒差し出し年の惟定が訂正され︐順番が変更された書簡があるため︐書簡番号に異同が生じただけの話だ︒この書簡については後で触れる︒ さて︐畢星宛書簡がこの時期のものと推定される根拠は何だろうか︒内容からはっきりするのは︐鮎を贈ったことと︐ ﹁感情﹂の復刊を計画していたことのこ点である︒後者に関して注が付けられているが︐これについては既に久保忠夫氏が︐ ﹁朔太郎書簡覚え書義原朔太饗辮尋鐘を碗む−﹂ ︵﹁季刊芸術﹂S五二・七︶においてその不備を指摘
しているにもかかわらず︐何ら改められることなく見過ごされた︒
久保氏は触れていないが︐私は年月の推定そのものに疑問を抱いて
いるのだ︒とまれ︐先に久保氏の説を紹介しておこう︑
二五六もしくは二五七の今村宛書簡には︒﹁ロシヤ歌劇は見に行.
き濠せんでした︒それに此頃しばらく音楽の練習を廃してゐます︒
新しぐ雑誌﹃独逸黒舳を出版するため︐多忙で出来ないのです﹂と
あるが︐︿雑誌.﹃独逸黒﹄﹀ に﹁﹃感情﹄復刊についての田士人
会︵大正十一年十二月︶で話題にのぼった誌名.結局復刊されなか
った﹂と注が付けられている︒犀星宛書簡も︐今村宛のも大正十一
年十二月の旧同人会が関わるらしいが︐どうもすっきりしない︒数
ケ月から一年先のことが︐︿今Vを規定しているように取れる︒久
保氏の言うように﹁歴史が逆流している﹂のだ︒考謹の経過は直接
論文を読んでいただくとして︐結論のみ記せば︐ ﹁﹃感情﹄復刊を
議する相談があったのは大正十年十月ごろのことであったちしい﹂.
竹村俊郎が前橋を訪ね︐話し合ったという.﹃竹村俊郎作品已下﹄
収録久保和子編年譜にも︑﹁十月︐明確ではないが︐この頃前橋に萩
原朔太郎を訪ね︐第二岡感情﹄発刊の稲談をし︐室生犀星がこれに
反対の意を示したと伝えられる﹂との記事が見える︒全集年譜では
その当りの事情がどのように処理されているろう︒不思議なことに
初版年譜でも補訂版年譜でも︐話し合いは十一年唱月の事として伝
えられているのだ.つまり︐同じ全集の書簡の注と年譜とがくい違
っ.たまま再版されている︒補訂版年譜には.大正十年十月頃︐ ﹁竹
村俊郎来橋﹂の記事が付加されたが︐ 復刊の相談と関連するのかは
不明.十一年十二月または一月とした根拠ゐ掴み得ていない︒もち
ろん︐久保氏が根拠とした竹村俊郎遺稿のメモを実際にみないかぎ
り確信はできないにしても︐溺の面から考えて︐十年十月という時
期は極めて妥当なものと考えちれる︒それがあの十﹂年七月上旬と
推定された書簡をめぐる問題なのだ. ・まず.あの書簡はその前後におかれた犀星宛書簡の内容と大きく齪煙するものである︒一つ前のものは犀星の長男・豹太郎の死に際して郵送した香典に同封されている︒六月下旬とこれも推定だが︐豹太郎の死亡した大正十一年六月二十四欝から見て.疑う余地はない.愛児を失ったばかりの親が︐あのような書簡を見てどう思うだろうか︒子供の死にはこ言も触れず︐呑気に雑誌の相談をして︐最後に﹁御夫人にもよろしく﹂とは︐信じられないぐらいの無神経さだ︒鮎のようななまぐさものを送ったの.は︐好物.で友を慰めようとしたと取れなくもないが︐それにしてもひどすぎる︒だが朔太郎はそんな不人情な男ではない︒現に六月下旬のものは︐ ﹁ただ遠く哀傷をおったへしたい︒しかし幸ひに元気を落さないやうにしてくれ給へ︒今はむしろ君自身の自愛を切に祝ってみる﹂と︐傷心の友を思う真情に溢れた文面だ︒また︒旅先かち葉書を寄越しては︐悲しみを慰めるために湯河原へ誘い︐旅程を詳しく書いて送るほどの思いやりを示してもいる︵書篤二七三及び二七四︶︒︑雑誌発刊を稲透した書簡が七月上旬に書かれたとはどうしても考えられない︒では何故この位置におかれたのか︒もしや︐香典同封の書簡の最後に﹁失礼乍ら取りあへず香典を同封でお送りした︒些少で甚だ失礼乍ら寸志として受けて下さい︒いつれ手紙を書きます﹂とある﹁寸志﹂を︐先の書簡冒頭部分の﹁寸志に対し︐君が悦んでくれたのは何よりだった一に短絡的に結び付けたのではなかろうか.今のところ私にはそれ以外に考え及ばない︒が︐素直に文面を読むならば︐先の書簡にいう﹁寸志﹂が︐香典などではなく朔太郎が送った鮎を意昧するのは明神だ︒この鮎を手がかりに︐書簡の正しい位置を探ってみたい︒ 鮎の上り物に関わる犀星宛書簡が︐この時期全集中に計三通発見
される︒大正十年九月十二日付け︐翌十一年八月十四B付け︐同九
月上旬︵推定︶がそれだ︒この近辺にあの書簡は置かれるに違いな
い︒ところで十年九月の書簡には.﹁詩稿のこど︐御世話様でした.
福士の番地︐往所.ついでの節教へて下さい﹂との追伸が認められ
る︒察するところ︐詩の発表に関して犀星に何かの世譜をかけたら
しい︒嗣年九月一日の別の書簡にも﹁﹃表現﹄.に紹介してくれたこ
とを感謝している㌧と︐百田宗治主催の雑誌の名が見える︒朔太郎
の作品発表再開はこの年の十月号から︒十二月には﹁表現﹂にも四
作を掲載している︒さらに翌年三月二十七日の書簡では﹁都会人﹂
誌への紹介に対する礼が述べられている噂詩壇から遠ざかり︐雑誌
にコネを持たない彼は.羅星からの紹介で発表機関を得るはかなか
ったのだろう.この場合︐福士幸次郎の名が見えるところがら︐犀
星が紹介したのは﹁日本詩人﹂であったのかもしれぬ︒さて︐この
ような事情を確認した上で︐もう一度問題の書簡を読み返しでみよ
う︒朔太郎は詩篇を犀星に送り︐発表先を一任しているのだ︒大正
十年から十一年の動きの中に︐実にすんなりとはまり込んでいくだ
ろう︒つまり大正十一年七月上旬と推定されている書簡は︐ ﹁明朝
一番列車にて﹂鮎を送りますから﹂という大正十年九月十二臼付書.
簡の次におかれるべきなのである︒
このように置者替えると︐雑誌発刊計画の経緯が実に明瞭に浮か
び上がるのだ︒あの書簡を十年の九月かあるいは十月の初めに犀星
が受けとり︐その.命を受けてただちに竹村が前橋に赴いたというわ
けだ︒実現に至らなかった理虫は不明だが︐作品発表の再開に際し
て︐思いきり筆がふるえる場が欲しかったのだろう︒﹃月に吠える﹄
期の沈黙から甦った朔太郎が﹁感情﹂を創刊したのと岡様に.そし
ていよいよ︐彼韓郷里を捨てようとする︒この上京計画をめぐる問
題点は次の課題ということにして︐今回はこれでペンを置くことに
する︒ ︵1︶︵2︶︵3︶ ︵注︶ ﹁傍藤信吉琉編﹃萩原朔太郎年譜﹄を見て︵一︶﹂ ︵﹁東
北学院文芸﹂S三七豊︶
﹁﹃詩話会﹄についての考察﹂ ︵﹁白百合女子大学研究紀
要﹂S四五・三︶
かつて新潮社版全集付載傍藍鼠譜に記されていたこの記事
は︐初版年譜では消され︐今また補訂版年譜において復活し
たわけだが︐その根面は掴み得ていない.
引用に際しては︐原則として仮名遣いはそのまま︐字体
は現行のものに改めた︒尚︐傍点などは全て省略してある︒
一九州帝京短期大学講師⁝