泉
鏡
花「年
譜」補
訂
(十一)
吉田昌志
本稿は、
先年刊行した岩波書店版『新編泉鏡花集』
別巻二
(平成十八年 一月二十日)収録の泉鏡花
「年譜」
の補訂で、
本誌七九五号
(平成十九年一 月一日)掲載の
「補訂
一」、
七九七号
(平成十九年三月一日)掲載の
「補訂
二」、
八一九号
(平成二十一年一月一日)掲載の
「補訂
三」、
八二一号
(平成二十一 年三月一日)掲載の
「補訂
四」、
八二六号
(平成二十一年八月一日)掲載の
「補訂
五」、八
四
三
号
(平成二十三年一月一日)掲載の
「
補訂
六」、八
四
五
号
(平成二十三年三月一日)掲載の「補訂
七」、八五〇号
(平成二十三年八月一日)掲載の「補訂
八」、八五五号
(平成二十四年一月一日)掲載の「補訂
九」、八
五七号
(平成二十四年三月一日)掲載の「補訂
十」に続くものである。
内容は、
[誤記
誤植の訂正]
、[本文の訂正
追加]
、[典拠の訂正
追
加]
、[新たな項目]
、の四部に分かち、書式を次の通りとする。
一、表記は、原則として右「年譜」に準じた。
一、
「年譜」本文の後に、
典拠
として、文献の原文、未公刊資料の翻
字等を示し、
典拠が複数の場合は番号を付して併記した。
注記
の項には、内容の解説、考証等を記した。
一、引用文の仮名づかいは、原文のままとし、字体は概ね現行の印刷文
字に改め、読解に必要なルビを残した。傍点、圏点は概ね原文のま
まとした。
一、引用文の中略部分は、総て「
(…)
」で示し、前略、後略はいちいち
断わらなかった。引用文の誤記
誤植は、
[
]内に補正した。
一、典拠文献が複数項目に重出する場合も、そのつど項目ごとに示して、
書誌的事項の記載を省かなかった。
一、
[本文の訂正
追加]
では、
訂正部分、
新たな追加部分に傍線を付
して区別した。
一、文中の敬称は、原則として省略した。
一、必要に応じて、
「*」のあとに注記事項を補った。
[誤記
誤植の訂正]
*
↓
の下が正しい。
「年譜」
●
52
頁上段
21
行目
同誌
「時報」
欄には、
↓
同月の
「新小説」
の
「
時報」
欄には、
― 1 ― 学苑 第八六二号 一~一七(二〇一二 八)●
68
頁下段
2
行目
板東のしほ
↓
坂東のしほ
*「補訂」
六50
頁下段
6
行目も同じ。
●
69
頁下段
12
行目
長嶋隆二
↓
長島隆二
●
74
頁上段
12
行目
待つてゐる
↓
待ち切つてゐる
「補訂」
九●
57
頁上段
22
行目
昭和六年
↓
昭和十六年
[本文の訂正
追加]
大正八年(一九一九)
己未
四十七歳
七月
十九日、両国川開きの夜、向島百花園(喜多野家茶荘)で催された
怪談会に出席した。発起人は鏡花、喜多村緑郎、平山蘆江ら。参会者は、
久保田万太郎、伊井蓉峰、花柳章太郎、錦城斎天山、福島清、伊勢虎、
伊藤晴雨、
鹿塩秋菊をはじめ、
総勢百六十人が集まった。
会の模様は
「都新聞」
(二十一日―三十一日、八月五日―十四日付
各三面)紙上に
連載されたが、その二十回
二十一回(最終回)では、会の最後に鏡花
の語った怪談が紹介された。
典拠 1 「怪談お祭り(一) 」 (「都新聞」大正八年七月二十一日付 三面) 十九日の夜、 向島百花園の喜多の (ママ) 家茶荘で納凉怪談会があつた徹夜といふの だから来会者も尠く可成 ▼物凄い物 が出来るつもりだつたのが、 意 外にも大人気を湧き立たせ総数 百六十人といふ多数の来会者があり、 殊にそれが帝劇から女優が一組柳橋、 芳町、 赤 坂、 浅草から芸者が一組づゝといふ風に派手やかな事も一通りでな かつた為め、宛ら怪談会といふ凄みよりも怪談のお祭りと云つたやうな ▼賑やかさ であつた、それほどに賑はつて来ると、造りものを一切止めて、 只何となく気味悪くしやうと目論んだ幹事側の苦心は水の泡になつて了つた、 扨て会員の顔ぶれは伊井蓉峰、 福島清、 花 柳章太郎、 武村新などの役者たち 六左衛門、 勝四郎の長唄連、 麒麟太夫其他の常磐津連などを始め、 各 料理屋 の主人連で、十一時頃から余興として ▼新内明 烏 が始まる、 太夫は 春 太夫、 そ れが 済 む と、 幹事の一人喜多村緑 郎が 挨拶 をして、 当 夜の 第 一の 呼び 物、 錦 龍 斎典山の怪談 小 夜 衣 が始まる、 ( … ) 是 れから各 自 が怪談の 経験 を 持 出し 順次 に 済 んでから、 会員は一人づつ、 二 階 の大 広間 を下り 暗 い 廊 下 伝ひ に 骸骨 の 軸 をか け た 小 部 屋を通り、 庭へ 下り て ▼ 萩 の 細道 を 約 一 丁 余り、 曲 り 曲 つて百花園の 亭 まで行つて 亭 で 線 香 を立 て、 名 を 画帳 に 書 いて 元 の 道 を 戻 るといふ事になる、 典拠 2 「鏡花 氏 の怪談 /◇ 向島の怪談会 (二十) 」 (「都新聞」 大 正八年八月十三日 付 三面) 泉 鏡花 氏 がかういふ賑やかな人 前 へ 現 はれる事は 異 数な事である、 其 れほど 羞 みやの鏡花 氏 を こ の 場所 へ 引 出したのもつまり ▼怪談の 力 であらう、 尤 も 泉 さんは 少 しお 神酒 が 廻 つてゐたそして心 持 に 充分 の 脂 が 乗 つてゐた 泉 さんが 床 の 間へ 現 はれると赤 阪[ 坂 ] の 幇 間 米 平が 湯呑 に茶の 色 をした 液体 を 注 いで すす めた、 実 は 酒 である、 泉 さんは其れを 横 目に 見 てに こ と 笑 つた、 突 如 としてあれは、 あの 男 は 私 の 幽霊 で す 、 いや 私 の 幽霊 のやうな 男 で す 、 私 の 往 く 処 へ は 随 分 付いて 廻 る、 今私 は怪談 会 へ 出席してゐるから ▼ 幽霊 の 名 をあの 男 に 背負 はしたが、 云 ひ か へ れ ば隠 し目付でありま す 、 隠 し目付だから 私 の 影身 に 添 つて 歩 きま す 、 私 にあの 男 を付 け たのは 無 論 私 ― 2 ―の家内です、 私がかういふ風に酔つて来ると、 ふら と歩きたがる、 だ か ら私が悪い処へ行かないやうに、 あの男が私に付けてある、 悪 い処へ行つて もよいが、悪酔をしては不可 いけ ない悪酔をしてもよいが、 ▼介抱人を 探しては不可ない、 介 抱人を探してもよいが不仕鱈をしては不 可ない、 不仕鱈をしてもよいが、 其尻拭ひの仕手がないと不可ない、 即ちあ の男が私の尻拭ひをする為めに差添人となつてゐるのです、 其 処で今こゝで 話さうと思ふ怪談はあの男にも引かゝりがある、 あの男に引かかりがある [の]が芸者でせう、そして橋場の大将にも引かゝりがある、だから名前を云 ふ訳に行かない、橋場の大将といふのは即ち ▼喜多村君 の事なんですが、 まア其 様 そんな 事は何うでも好い、 兎 に角怪談の本 題に入ります、 尤も怪談とは云つてゐるが、 実際怪談だか何だか別 [判] ら ない、 私 には怪談と名を付けられるものと思ふから話すのです、 と 云つた風 に、 泉さんの言葉がすら と、 面白いほど滑り出る、 泉さんといふが 人 [ 人が] 怪 談じみた小説ばかりを書く事は今更云ふまでもないが、 泉さん に云はせると、人と人とが相 ▼差し向ひ で話をしてゐる 三尺の空 間 あきま にさへ、 人間界以外の別世界があ る、 其別世界がお化の世界かも知れない、 人は知らないから平気でゐるが、 人の着物の袖にさへ怪 ば け物が隠れてゐるかも知れないと云ふ、 実に極端です からねえと、 仲よしの喜多村君も裏書をつけてゐる位だから此話はどんな奇 怪な話であらうと聴衆の膝は思はず進んで来る、 典拠 3 「幽霊の葉書/◇向島の怪談会 ( 二十一) 」 (「都新聞」 大 正八年八月十四日 付 三面) そも 話といふのは常磐津の女師匠が死んだ事なのです、 橋場の大将の知 り合で、 いや、 知 り合といふより、 もつと深いのでせうが先づ知り合には違 ひないから、 知り合として置きませう、 其知り合の芸者が稼業を止めて家を 持つたんです、そのところへ ▼昔の友達 が一人訪ねて来た、 尋ねたのが即ち常磐津の女師匠で、 何 いづ れ昔 は、 褄をとつた身の上である事は云ふまでもない、 女同士、 而も、 経 歴を同 じくした年頃の女同士が久しぶりで落合つたのだから話は其からそれと盡き る様子もない、まア一寸訪ねるつもりだつたのに、つい日が暮れかゝつたわ、 どうも、誠に済みません、と云つたやうな工合式で、左様ならを云つたのが ▼日の暮方 何のお構ひもしませんね、 又屹度来て下さいね私も其中にお邪 魔に行くわと云つたり云はれたりして、 女 師匠は帰りました、 それつきりで す、 其れつ限 き り便りがないので、 何うしたかと思つてゐる矢先に葉書が来た のです、其の葉書が、誠に ▼妙な葉書 で、 宛名は書いてあるが、 ところ書が書いてない、 加 之 おまけ に出し た人の名前もところも書いてない、 といふ有様で、 一体誰から寄起したのだ らうかこれぢや何だか判らないが、 それにしてもよく届いたものだ、 と 橋場 の大将の知り合の芸者は首を捻つて考へました、 そこで、 用 向はと云ひます と、 紛 れもなき ▼女 文 字 で 何 月何日の何 時 頃お 暇致 しますから、 さ よならとあつた、 さあ いよ 判らない誰れからも其 様 そんな 葉書を 受取 るお ぼ えがないのですが、 葉 書 に書いてある日付は其の葉書が着いた日の 翌 日になつてゐましたから、 翌 日 になつたら、 何処かで、 何かの便りがあるだらうと思つて 居 ましたすると其 当 日の其の 時 間になると 件 くだん の常磐津の ▼女師匠が 死にました、 無論 あとから知らせを 受 けたのでせうけれど兎に 角、 常磐津の師匠はこの 無 名で 無住 所 の ハガキ に 示 した 時 間に死んだのです これが 所謂 前 兆 といふものだか、 不思 議 と云ふものだかは知らない、 怪 談と ― 3 ―
いふ名前をつけるにしても、 話 らしい話になるのは是れからで、 つ まり此話 が (私の筆で) 幾何 いくら かになるんだけれど、 まアこゝで種を割つて了つたわけ ですとすら と弁じ立てた、ツツと席を立つ時何番鶏かが高らかに啼いた、 そして喜多の (ママ) 家茶荘に於ける賑やかな怪談祭りの夜は明けた (をはり) 注記 「年譜」 では、 田中励儀 『泉鏡花文学の成立』 (双文社出版、 平成九年十一月二十八 日) に拠って記したが、 そ の後、 第 五十三回泉鏡花研究会 (於慶応義塾大学、 平成二 十二年七月十七日) における東雅夫氏の講演 「 鏡花と百物語 おばけずき作家の誕 生をめぐって 」 の資料により 「都新聞」 の記事を教えられ、 日付を訂正し、 参 加者、 人数と鏡花の語った話のあることを補った。 この怪談会については同氏の 一 『江戸東京 怪 談文学散歩』 (角川学芸出版、平成二十年八月十日) 、 二 『遠野物語と 怪談の時代』 (同、 平成二十二年八月二十五日) 、 三 『なぜ怪談は百年ごとに流行るの か』 (学研パブリッシング、 平成二十三年八月二日) にも、 と りどり言及がある。 一 に は典拠 3 の全文が引用されているが、 仮名づかい、 句読点を直してあるため、 典 拠 2 と併せ、あらためて全文を引用した。 前記 一 には、 会場となった 「喜多野家茶荘」 の絵葉書写真が載っているが、 名 前からして京橋区築地二ノ三十にあった茶料理店 「喜多野家」 の分けではないか と思われる。 この記事の執筆は、 会の発起人で 「都新聞」 記者でもあった平山蘆 江であろう。 なお、 典 拠 3 の 「幽霊の葉書」 の類話が、 後 年 「幽霊と怪談の座談 会」 (「主婦之友」十二巻八号、昭和三年八月一日) で鏡花の口から語られている。 鏡花が喜多村緑郎を 「橋場の大将」 と呼ぶのは、 彼が浅草区橋場町十一番地に 住していたことに因むが、 演芸画報社版 『日本俳優鑑』 (明治四十三年三月一日) で は 「下谷区中根 岸 町九十番地」 となっており、 「演芸 楽部 」(三巻一号、 大正三年 一月一日) 附録 の「 現 代俳優 録 」の 住 所 は橋場町であるから、 転居 はこの 間 のこと になる。 本怪談会のことは、 久保 田 万太 郎作「 春 泥 」 (「大 阪朝 日新聞」 夕刊 石井鶴 三 挿 絵) の第八回 (「 向島 (八) 」同 紙 昭和三年一月十三日付 一 面 ) に、 震災 のあと 役 者 仲 間 と 向島 百花 園 を 訪 れた 「三 浦 」 (新 派 の俳優 吉 岡啓 太 郎が モ デル といわれる) に「 こ ゝ で 「 怪談会 」 をやつたんだ。 大した、 また、 それが人 気 になつた 奴 だ」 「東京中 の新 派 といふ新 派 の 役 者は み んなあつまつた。 それ へ持 つて 来 て 河 岸 や 兜 町 の 客 筋 、 新 聞記者や文 士 、新 橋 柳 橋 葭 町から 手伝ひ に 来 た 連 中だけだつてすさま じいものだつた」ので、 「口のわるい 奴 はいつた、これ ぢ やア怪談会でなくつて怪 談祭だ」 と言わしめている。 その時 期 は「 日 露戦争 のすぐあと」 と 変 えられてい るが、 当 夜に参加した「文 士 」の一人 久保 田ならではの 叙述 になっている。
[新たな項目]
明治三十九年(一九〇六)
丙午
三十四歳
二月
一日より、名
古
屋音羽
座で「七本
桜
」(九
幕
)が
上
演された。
典拠 「演芸 界 」 (「新 愛知 」明治三十九年二月一日付 五 面 ) 本日より 替 る 各 座の 狂 言及 び 役 割場割 左 の 如 し ( … ) ▲ 音羽 座 在 来 の座 員 の 外更 に東京より 桜 井 武 夫、 大 坂 より 里見秀雄 、 松 本 一夫と 当 地 在 住の新俳優山本 薫 を 差 加 へ 泉鏡花 子 の 小説 「七本 桜 」九 幕 其 役 割 左 の 如 し 長 島 進 ( 伊 東) 岸 上 つな 子 、 女 将おこま ( 原 田) 桂庵 おとら ( 西 川) 須藤 一郎 ( 星 野) 林 田 妻富 子 ( 千 代 子 ) 久保 田 伴 作( 恩 田) 岸 上 祐助 、 石 屋 庄 平 (加 藤 )三田 刑 事( 染崎 ) 老母折 江( 永 井 ) 禅僧探 了( 楠 秀 ) 乳母 お 春 、大 迫 平八 ( 粂 田) 林 田 勤 一郎、 北畠博 士 ( 国 島 ) 竹垣医 学 士 ( 松 本) 車 夫喜 蔵 ― 4 ―(山本)令嬢きよ子(佐藤)喜蔵妹おしも、女髣 (ママ) おきん(桜井)熊澤國三(里 見秀)日下信夫(里見大)娘おはな(宮田) 注記 本項は 『 近代歌舞伎年表 名 古屋 』第 五 巻 (八木書店、 平成二十三年三月三十一日) に典拠として掲げられている「新愛知」に就いて立項した。 役割は原作 (明治三十年十一月発表) よりもよほど増えており、役名の共通する者 は (記載順に) 、 お駒、 探了、 清 子、 お欽であるが、 長島進が信之助、 岸上祐助が 岸田資吉に当るのであろうか。 俳優名の桜井武夫、 里見秀雄、 松本一夫、 山 本薫以外は、 姓のみで名前が判ら ないため、本文への記載を控えたが、前記『近代歌舞伎年表 名 古屋 』の音羽座 での他の興行を参考にすると、 伊東逸郎、 原田新之助、 星野清、 北川千代子、 恩 田得郎、 加藤孝之、 染崎五郎、 楠秀二郎、 粂田貞二郎、 国島敏良、 佐藤薫、 宮田 信らの名前を拾うことができる。 「七本桜」 については、 「補訂 八 」 で 、 明 治三十六年八月に藤澤浅二郎一座の花 房柳外脚色による上演の予告を記したが、 こ の名古屋での上演との関係は確めら れない。
明治四十年(一九〇七)
丁未
三十五歳
一月
十一日より十五日まで、名古屋歌舞伎座で「愛火」を脚色した「子
は宝」
(七幕)が上演された。配役は、伯爵柳澤忠臣=原(良一カ)
、男
爵花町蔵人=木村行秀、子爵園江譲=小磯文濤、伯爵未亡人まき子=花
岡章吾、令嬢綾子=新井競、馬丁権太=岩崎新之助、高取巡査=江川信
吾、玉川館主人=藤本金一郎、番頭喜七=伊井眠虎、嫡男一馬=濱田新
之助、園江令嬢雪子=芦邊澪子、園江玄哉後に行者生神=山岡如
萍
ほか。
典拠 1 「演 芸界 」 (「新愛知」明治 四 十年一月十日 付 五 面 ) ▲ 歌舞伎座 中京 成 美団 に山岡如 萍 、芦 邊 澪 子 等 の 合 同 一座にて明十一日よ り二の 替 り 芸 げ 題 だ い は前 狂言鏡 花小 史 原作 「子は宝」 七幕 切 小 波 山人の喜 劇 「 や か ずむ こ」 一幕なりと 又 山岡如 萍 は当 地 は 初 めての 由 にて音に名高き金 城 に 因 み 戯 れに下の発 句 をもの せ しと「 鯱鉾 の 眼 玉 凄 さよ 冬 の月」 典拠 2 「演 芸 だ より」 (「名古屋新 聞 」明 治 四 十年一月十一日 付 三 面 ) * 役割は典拠 3 に譲る。 ▲ 歌 ● 舞 ● 伎 ● 座 ● 中京 成 美団 と山岡如 萍 合 同 一座二の 替 りは 泉 鏡 花子の 『 子宝』 と小 波 山人の『 や か ずむ こ』にて 其 役割は 左 の如し 典拠 3 「演 芸界 」 (「新愛知」明治 四 十年一月十一日 付 五 面 ) ▲ 歌舞伎座 既 記 芸 題 にて 今 十日より 開 演役割は 伯爵柳澤忠臣 (原) 男爵花町蔵人 (木村) 子爵園江譲 (小磯) 伯爵未亡人 まき子 (花岡) 令嬢綾子 (新井) 馬丁権太 (岩崎) 行者 黒 澤 伴 作( 堀 田) 高取巡査(江川)松五郎(小 林 )玉川館主人(藤本) 占 者島原 宗 三( 石 上) 馬 鹿 娘おき ち ( 境 )平 森半 三( 巴 ) 番頭喜七 (伊井) 駅 夫 毛 野( 森 本) 嫡 男一馬(濱田)園江 家 令嬢雪子(澪子)嫡男園江立哉後に行者生神(山岡) 等 にて一番 目 「子は宝」の 中 う ち 高雄山 中 は大 道具 大 仕掛 なりと 典拠 4 「演 芸界 」 (「新愛知」明治 四 十年一月十五日 付 五 面 ) ▲ 歌舞伎座 泉 鏡 花子新作脚本 「愛火」 の一 節 を 別 に脚色したる 「子宝」 を 一番 目 に、 二番 目 には 巌谷 小 波 氏 の「 や か ず 婿 」を 据ゑ 、 十 一日より 開 場 せ しが 筋 の 不自然 とよりは 奇怪 に近きところ、 鏡 花 式 とでもい ふべく や 、山 、 岡 、 の園江立哉 何 が 何 して 世 を 憤 り、 自 ら 悪 魔 大 王 に 化 な つて 何 んと や らとい ふ 次 第にて 甚 だ 夫子 自 らの 溜 飲 を下 ぐ るに 適 す べ しなど ゝ皮肉 をい ふ 人もありし、 寧 ろ 欠 点 の シヤガレツ声 も 断食 行者には 尤 もに 聞 え、 科 し ぐ さ は 可 なり 詰 んで 居 た ― 5 ―り、 見せ場は五幕目兄妹対面の場なるべし、 澪 、 子 、 の立哉妹雪子は誠に可憐に 出来たり此女 優 ひと の芸風は孰 どつ ちかといへば余裕のある方なれば追々舞 台 いた に着く やうになるに従ひ十分技倆を発揮することが出来るならん小 、 磯 、 の園江伯爵老 功とて争はれぬもの別荘の場、 玉川楼 (ママ) 広間の場共好評、 慾 には成るべく大久 保彦左衛門にならぬやう御注意が願ひたし、 濱 、 田 、 の花町一馬損な役を神妙に して居たるは好し堀 、 田 、 の行者伴作舞台に凄味といふものゝなきは欠点なれど 煮え切らぬところに底がありさうにて先づ 、岩 、 崎 、 の馬丁権太 ける筈の 役が引立たざりしは如何、 花 、 岡 、 の伯爵夫人少し暢気過ぎたり、 新 、 井 、 の綾子は 無難、 木 村の花町子爵可もなく不可もなしといへば余程贔負目なり、 石 、 上 、 の 宗三危な気なかりしは結搆[構] 、江 、 川 、 の高取巡査は笑はせたり二番目の喜劇 は見ねば随て評なし 典拠 5 「演芸だより」 (「名古屋新聞」明治四十年一月十五日付 三面) ▲歌 ● 舞 ● 伎 ● 座 ● の一番目 『子は宝』 は意外に面白く例の山岡の理想の鬼となり 妹の雪子に ふ処などは男をも泣かすべく頗る好評なり又二番目の喜劇 『や かずむこ』泣いた後に見物を笑はせ配合頗る妙なり 注記 本項は 『 近代歌舞伎年表 名 古屋 』第 五 巻 (八木書店、 平成二十三年三月三十一日) に典拠として掲げられている「新愛知」 「名古屋新聞」に就いて立項した。 春陽堂 からの書 下 し 戯曲 『愛 火 』の 上 梓 は明治三十 九 年十二月十日。 同 書四 頁 には 「不 許 無 断興 行」 とあるが、 いち 早 く 刊 行の 翌 月に上場された名古屋歌舞伎 座 興 行が 原 作者の 許 可を 得 たかどうか 判 らない。 「子は宝」 への 改題 は「 無 断興 行」 を 示 唆 する。 本上演 で は、これに先立つ一月一日 初 日「 母 のかた み 」の役 割 (「名古屋新聞」明 治四十年一月一日付 三面) から、 おお かたの 氏 名が 同 定 で きるた め 、本 文 にも記 載 した。 両紙 の 報 を 手 がかりにすれば、 原 作と役名の共 通 するのは雪子の み 、立 石 秋 哉 = 祐 山に 当 る 玄 哉と雪子とが兄妹という 設 定 で あり、 鍼 医 大 原 玄 禎 、 かつら 館 女 中 お 瀧等 の 敵 役は 省 かれているよう で ある。 「子は宝」の 題 名からして、 原 作第五幕 「 其 七 」「 其 八」 の大 詰 を 主 に 組 立てた 脚色 らしいが、 もとより 「 愛 火 」 の作意の 全体 を んだものとは 言 い難かろう。 中 京 成 美 団 の 実態 は不明だが、 主 演の山岡如 萍 は、 岩井 創造編 刊 『新 派百 年 俳 優かが み 』 (平成二年 六 月十 九 日) に 「明治二年、 四 国 高知に 生ま る。 父 は、 土佐 藩 の 家 老を 勤 め ていたという。 」とある。しかし「山岡如 萍 死 す」 (「名古屋新聞」明 治四十一年十月十 九 日付 五面) に、 永 く大 阪 の劇 壇 にあつて人気を 博 したる新 派俳 優山岡如 茹 [ 萍 ]は 予 て 肺患 にかゝり本年 六 月大 阪 朝 日座に 於 て「 浪 よ 暴 風 あらし よ」 を演 じ たるを舞台の お 名 残 として 七 月十日より ドツ と 枕 につき 同 市北 区曽根 崎上三丁目の 自宅 にて治 療 中 なりしが 遂 に十 七 日 午前 六 時 永 眠 せり 享 年三十 九 、 同 人は 鳥 取 県西 伯 さいはく 郡 車 くづ 尾 も 村大 字車尾 の 農 山岡喜代三の 次 男にして本名を 節 といへり、 実 兄は 海軍 中 佐 山岡 豊 一 氏 とて 現 に江田 島兵学校 の 教官 たり、 妻 は女優 蘆邊 澪子こと本 名 荒 川たね 二十七 とて 世 に 矯 [ 嬌 ]名 隠 れなし ( … ) 葬儀 は十八日 午前 九 時 出 棺長柄 墓地 へ 仏 葬 するよし と出ているの で 、「四 国 高知に 生ま る」 云 々は 訛伝 で あろう。 右訃 報 に拠れば、夫 人は 蘆邊 澪子とのこと で あるから、 「子は宝」は夫 婦 が 主 演する劇だ っ た わ け で あ る。 そ の 他 出演 俳 優は、 前 記「 七 本 桜 」の そ れと一 致 する者が お らず、 お の お の 別の座 組 による 興 行だと 判 るが、 両 公 演とも女優の 加入 している点は共 通 する。 名古屋 で は、 「愛 火 」「 七 本 桜 」に 加 え、す で に「 補訂 四 」にも記した 通 り、 「 霊 象 」の 上 演 ( 音羽 座、 明治四十一年三月) もあり、 東 京 、 京 阪 で 上演の 確 認 されてい ― 6 ―
ない演目をもつ当地の新派興行の特異な位置は注目を要する。 現在明治四十三年まで刊行済みの 『近代歌舞伎年表 名古屋 』 の続刊によっ て、さらなる演目の追加される可能性がある。
大正三年(一九一四)
甲寅
四十二歳
七月
十二日より十七日まで、
「都新聞」
(三面)に、鏡花、喜多村緑郎、
鹿塩秋菊らの怪談会(於代々木山谷)の内容を伝える「怪談精霊
たま祭
まつり」の
連載(全六回)があった。うち、第二回から第四回に語られた「喜多村
の岡惚」の内容は、のちに「浮舟」
(「新小説」大正五年四月号)の素材
となった。
典拠 1 「怪談精霊祭(一) 」 (「都新聞」大正三年七月十二日付 三面) 場所は代々木の山谷、 宇 [盂] 蘭盆会を目先に控へた二三日前、 集まつた人 は妖 怪 おばけ の隊長泉鏡花氏と、 妖 怪好の喜多村緑郎、 そ れから会主は妖怪に六七 度も出会つたといふ歌舞伎新報の鹿塩秋菊君、 夜 と共に語り明かさうと人里 離れた一軒立の一寸地蔵堂かとも見誤られる空 房 あきや の十畳の室 へや で初更の鐘を合 図に始めた不思議話、聞くも凄じ、あなをそろし、 典拠 2 「怪談精霊祭(二) 」 (「都新聞」大正三年七月十三日付 三面) ▼喜多村の岡惚 喜多村緑郎君は取 置 とつとき の因縁話を始めた、 喜 多村が伊勢に行つた時、 二 見へ押 出した事がある、 客 はお客筋でもあり友達でもありといふ人で至極気楽に遊 んでゐる中一緒に行つた芸者の中で喜多村に好い妓 こ だなと思はせたのがあつ た、 (…) 其岡惚れの芸者が喜多村先生浜辺へ行つて見ませうよと誘ひます、 宜しいといふので一緒に湯下駄を突つかけて砂利の中をザク ゛ 手を引きな がら下りて行きました 典拠 3 「怪談精霊祭(三) 」 (「都新聞」大正三年七月十四日付 三面) 浜辺へ出ると黙つてぶらついても仕様がないから喜多村君は裸になつて泳が うとする、 芸者はお座敷着の儘でずん ゛ 波打 際 へ行きます、 オイ 着 物 が 湿 ぬ れる ぢ やないかと 云 つても聞かないで先へ と行く、 打 寄 する 浪 は 江 戸褄 を ぐ つしより 湿 らして 膝 のあたりまでも 湿 らして 了 ふ、 それでも 構 はず 進む ので喜多村君は 危 ない と 止 めたが聞かない 何 しろ ベロ に 酔 つてゐる のだからふらつく 足許 を 浪 がしらにさらはれでもすると取 返 しがつかない、 引 抱 へて連れ 戻 さうかと思つたが 自分 は裸だ 何 だか気がさして ね 、 真 ま 逆 さか 素裸 で 女 の手を取るのもま づ い ぢ やありませんか仕 方 がないから 宿 の 方 へ 声 を立 つて人を 呼び ました ね 、 とある、 喜多村君の 声 に二三人 駆 け付けた人がそれ ツ といふと芸者を引き 戻 さうとしたら 女 は 浪 がザ ア してゐるところへ ピ タリ と 坐 つて 了 つたといふのだ、 茲 まで話が済 む と 熱心 に聞いてゐた鏡花氏 がしみ ゛ 惚れて 了 つて好いな 浪 の中へ 江 戸褄 の着 物 で べ つたり 坐 つた 女 の 姿 が見えるやうだ、と 感 心 してゐる、 典拠 4 「怪談精霊祭(四) 」 (「都新聞」大正三年七月十五日付 三面) 翌 日はもう 本意 ない 別 れ、 又 縁があつたら はう ね と 切 めてもの手を取りか はして伊勢を出 発 したが其 翌 年 又 折 があつて伊勢へ行つたので 随 分 忙 しい中 を都合して其の芸妓に はうとすると、 女 中ががつかりした 顔 で、 ま ア 不仕 合せな妓 ひと ぢ やありませんかあの妓は 去 年 病 気で 亡 なりましたといふ話し 忘 れ もしない 裾模 様の 河原撫子 、一 枝 折 らうと思つてゐる中打 寄 する 浪 にさらは れた思ひでがつかりしてゐると 女 中も気の 毒 がつてあの妓に 肖然 そつくり といふ妓が 居 ますから 切 めて其人でも 呼 んで 上げ ませうかといふ、 仕 方 がないから 頼 む で、 やがて 来 た妓 こ を見ると 成 る 程瓜 二つ芸 妓 げいしや 、 話 しをさせれば 声 までが 似 て ゐるので 何 ど う やら気が取 直 せてま ア よかつたと 酒 事をしてゐる中 此 芸妓にも 余 ― 7 ―儀ない貰ひがかゝつてお座敷かぎりあかぬ別れをして了はねばならぬ始末、 似た事はそればかりに止まらずかうして別れた翌年又伊勢へ行く事になつた ので、 あ の妓を呼んでくれといへば、 まア重ね ゛ ですねあの妓も去年死ん で了ひましたよ、 とあつた、 私 わたくし はぞつとしましたね、 何といふ因縁事でせう ね、 私は世の中が味気なくなりましたよと喜多村君がしんみりいふと泉鏡花 氏は夢から醒めたほどの心持、 実に好い話しですね、 と今に小説にでも書い て見たいやうな顔をしてゐた 注記 右記事は、第五十三回泉鏡花研究会 (於慶応義塾大学、平成二十二年七月十七日) に おける東雅夫氏の講演 「鏡花と百物語 おばけずき作家の誕生をめぐって 」の 資料により教えられた。 「怪談精霊祭」と鏡花作「浮舟」との関係については別稿を準備しているので、 記事全文の引用を省いたが、 鏡花が喜多村緑郎の話に心を動かされている様子は 十分に窺えよう。 鹿塩秋菊のことは、鏑木清方『こしかたの記』 (中央公論美術出版、昭和三十六年四 月二十日) の川尻清潭について語った条に 「清潭君の実弟鹿塩秋菊は、 すみやの屋 号で、薬研堀に本屋を始め、ちよつと凝つた出版をしてゐた。 」と出ている。養子 となった経緯は明らかでないが、 鹿塩家は代々深川の名主で、 数矢町にあった深 川三十三間堂を所管していた。 こ の怪談会の前年の大正二年、 濱村米蔵とともに 「歌舞伎新報」を復活した。 喜多村の弟子花柳章太郎の 「鏡花のおんな」 (『わたしのたんす』 三 月書房、 昭和三 十八年六月二十六日) では、 堀 内鶴雄の二見の別荘で 「泉先生も御一緒の夏のこと」 として、 「山田の若い 芸者 で、 小 扇 という妓」 と喜多村の話を 録 し、 「浮舟」 の一 節 を引用している。
大正三年(一九一四)
甲寅
四十二歳
十一月
十
九
日
付
「
読売
新
聞
」(四
面
)
の
「よみうり
抄
」
に
「四五日前
箱
根
に
赴
き
目下滞在
中なりと」と報
じ
られた。
典拠 「よみうり 抄 」 (「 読売 新 聞 」大正三年十一月十 九 日 付 四 面 ) 泉 ● 鏡 ● 花 ● 氏 ● は四五日前 箱根 に 赴 き 目下滞在 中なりと 注記 本年の七月二十日には、 宮 の 下 奈良 屋に 留 中の 長島隆 二を 訪 ねて一 泊 してい るが、 この 時 の 体験 を一 素材 とする 「 紅 」 は十二月一日 発 行の 「中央公論」 に 発 表 された。 翌四年五月号 十二月号まで 「 女 の世 界 」に 発 表 の「 星 の歌舞伎」 の四、五章もまた 箱根 を舞 台 とする。大正三年(一九一四)
甲寅
四十二歳
十二月
この月、
滑稽
堂の美術木版
画
会(日本
橋区室
町三
丁
目
九
番地
)の
報
條
に、
「
賛助員
」として、鏑木清方、
池
田
輝
方、
池
田
蕉園
、
石
井
研堂、
笹
川
臨風
らとともに名を
列
ねた。
典拠 永 田生 慈 『資料による 近 代浮世 絵 事 情 』 (三 彩社 、平成四年八月二十日) * 第 三章「大正の浮世 絵 界 」三「版 元 と新版 画 」の一 節 。 大正 期 でみて ゆ くと、 元 年十一月には 古吾妻錦 絵 保 存 会という 頒布 会がで きて、 ( … ) 毎 月二 枚 の出版を 予告 している。 また大正三年の美術木版 画 会 ( 滑稽 堂)では、 当 時 の 著 名 人 を 賛助員 として、やはり 複製 の会 員 頒布 を行っ ている。その チラシ には 次 のようにある。 ( … ) 美術木版 画 会 趣旨 錦 絵 の名に呼ばるゝ 色 版 画 は、 わが 国 芸 術の 誇 にして、 また実に世 界 美 術 史 上 の一大 奇蹟 たらずんばあらず。 ( … ) 本会 空 しくこの 情 况 を 黙視 する ― 8 ―に忍びず、 すなはち材料を精選し、 技術を親切にして、 続々稀世の国宝を 刊して、 以て天下同好の士に頒たんとす。 冀 くは江湖の諸賢余輩の微衷を みて賛同の意を表せられんことを。 賛助員 (序列五十韻 (ママ) 順) 泉 鏡花氏 尾形月耕氏 (…) (…) 池田輝方氏 鏑木清方氏 池田蕉園氏 (…) (…) 笹川臨風氏 石井研堂氏 (…) 東京市日本橋区室町三丁目九番地 大正三年十二月 美術木版画会 電話本局五一四四番 振替口座東京二七一六四番 これらのチラシをみると、 大正初年頃の複製版画頒布会のシステムが、 ど のようなものであったのか、その一端を窺うことができるであろう。 注記 本書は 「 明治二十年代から大正期にかけて、 膨大な蒐集と自らも出版を行った 著名な人物」 (遺族の意向により 「 М氏」 と 表記。 松 井平七カ) の備忘録と資料に基づ く記述を中心とするが、この美術木版画会のちらしもその一部であると覚しい。 滑稽堂は秋山武右衛門の創業した美術木版の錦絵問屋で、 大蘇 (月岡) 芳年の 「月百姿」 (明治十八年 二十四年) をはじめとして、 水野年方の 「今様美人」 (十二 番続) 、「三井好 都のにしき」 (同) 等、 良心的な出版で数々の優品を世に送った。 引用を省いたが、 賛助員は全部で三十三名に及ぶ。 うちに名を列ねる池田輝方の 「千種花」 「江戸錦」 (同) 、 池 田蕉園の 「八重かすみ」 (同) も目録に登載されてい る。 鏡花の名があるのは、 年方門下の輝方、 蕉園、 清方との縁に由るものであろ う。
大正五年(一九一六)
丙辰
四十四歳
四月
四日より十四日まで、浅草遊楽館で新派連
鎖劇
「
通
夜
物
語
」の
上演
があった(出
演者
等
不
明)
。
典拠 1 上演広告 (「都新 聞 」大正五年四月四日 付 四 面 ) 典拠 2 「 芝居 と遊 芸 」 (「都新 聞 」大正五年四月七日 付 三 面 ) ▲ 浅草遊楽館 第 七 義 士 伝 大 高源吾 は松 之 助 得 意の表 情 と技 師 が 苦 心の 撮影 に 依 り大 喝采左 門一派の 実 演 に新派連 鎖 「 つや 物 語 」 泰西活 劇 「大 疑 問」 等 好 評 なり 注記 遊楽館は、 米 山 蟻兄 「浅草 公 園 観 せ物 総 り」 (「新 演 芸 」一 巻 三 号 、 大 正五年五月 一日) に、明治四十三年三月浅草国技館として 開場 、創 立 者 山中 亀太郎 死亡後 、 大正二年三月日本 活 動写真株式 会 社 が 買収 して 活 動専 門となし三年四月遊楽 館と 改称 した、 四 年十二月より新派 旧 派連 鎖 実 演 劇 と 青 柳捨 三 郎 坂 東 左 門等 が 此処 を 先途 と 努力 して ゐ る。 と出て お り、 時 期も同じで、 青 柳 ( 安政 二年四月八日 生 れ。 川 上 音 二 郎 一座の 古参 ) が ― 9 ―出演の可能性も高いが、傍証が得られないので、出演者不明としておく。 「大高源 吾」出演の「松之助」は尾上松之助である。 前年大正四年八月には、 連鎖劇に出演する新派俳優を抑圧すべく出された規約 (伊井蓉峰、 河合武雄らが主導したといわれる) に対して深澤恒造らが強く反発した、 いわゆる 「新派五ケ条問題」 も起ったが、 人気は衰えず、 このころ連鎖劇は浅草 を中心に全盛時代を迎えていた。 広告を見ると、 四月は遊楽館のほかに、 演伎座 (赤坂) 、寿 座 (本所) 、中 央 劇 場 (浅草、 モト柳盛座) 、 深川座 (富岡門前) 、み く に 座 (浅草) 、宮戸座 (同) で、新派旧派とりどりの連鎖劇が上演されている。 翌大正六年の七月には、 警視庁の発令した 「活動写真興行取締規則」 により、 劇場の防災上の制限が加わり、 「この年七月二〇日を限って、警視庁管内の連鎖劇 場は一斉に興行を中止した」 (田中純一郎『日本映画発達史』Ⅰ、中央公論社、昭和五十 五年二月二十日) とのことであるが、 全面的な中止には至らなかったようで、 八月 の寿座、 宮戸座、 世界館の興行では相変らず 「 連鎖劇」 が謳われている (「都新聞」 八月一日付 四面の広告) 。 これまで鏡花作品の映画化においては、 谷 崎潤一郎が関わった大正活映製作の 「 飾砂子」 (大正九年十二月) を取り上げるのが常であったが、 これ以前に製作 (上演) されたものでは、 「瀧の白糸」 (明治四十三年五月、 大 正四年二月) の二作に対 して、 「通夜物語」 が五作 (明治四十三年四月、 明治四十五年三月、 大正三年五月、 大正 五年四月〔本項〕 、大正六年三月) を数える。 「瀧の白糸」や「通夜物語」など新派の当り狂言をそのまま映画化に持ち込んで いた当時の製作事情をふまえるならば、 逆に未上演の 「 飾砂子」 を選んだとこ ろに、 活 動写真の未来を確信してその水準の向上をめざした谷崎潤一郎の面 目 を 認 めることがで き る。 「 飾砂子」 は、 大正活映 第 一作 「 アマチユア 楽 部 」 (大正九年十一月) に 続 く 「月の 囁 き 」の 代 替 として 急遽撮影 が 決定 したらしく、 脚 本も 残 っていないが (田 代 慶 一郎 「大正の ロ マ ン 」『大正 感 情史』 日 本 書籍 、 昭 和五十四年十月一日) 、「活動写真 の 現在 と 将 来」 (「新 小説 」二十二年十 号 、大正六年九月一日) で新派に上場されて 失敗 に 終 った 「高 野聖 」や「 風流 線 」 こそは 「 き つ と面白い写真になる」 はずである と 述 べ、 談話 「 改 造を 要 する日本の活動写真」 (「 読売 新聞」 大正九年五月九日付 九 面。 中央公論社 版 全 集 未 収録 ) でも 「その 何 れもがよい場面を持 つ て 居 る」 鏡花の作 物の中で、 再び 「 風流 線 」の 名 を 挙 げているほどの谷崎であるから、 未上演の 「 飾砂子」を選 ぶ のに 躊躇 はなかったろう。谷崎においての映画 表 現 は、それま での製作者のような新派の当り狂言の 延長 上には 無 かったのである。
大正五年(一九一六)
丙辰
四十四歳
四月
十四日付
「
東京朝
日新聞」
(五面)
の
「
十七代
目
の
宝生
大
夫
定
る」
において、
宝生
流
家元
九郎の
後継
者に松本
長
の選ばれたことが
報じ
られ、
その
従兄弟
として
下
村観山
、
泉
鏡花の
名
も
記
された。
典拠 「十七代 目 の 宝生 大 夫 定 る」 (「 東京朝 日新聞」 大正五年四月十四日付 五面) * 松本 長 の 肖像 写真 入 り。写真の 引用 を 省 く。 ▽ 九郎 翁 の 後継 者 能楽 宝生 流 家元 宝生 九郎 氏 は 既 に八十 歳 の 老齢 の 身 にあり 乍 ら、 其 相 続 者を 有せ ず全く 孤独 の 生 活を 営 み 居 れるが 実 は 疾 に相 続 者を選 定 し ▲遺 言 状 に 認 め ありとの 説 ありて世人は 其 選に当れる者の 誰 なる可 き か に 就 き 揣摩臆測 を 恣 にすること 多 年にして 野 口政吉 氏 、松 本 長 氏 を 初 め 或 は 宝生 勝 氏 ならんとい ひ 或 は旧 幕 時代に 其 例 多 かりし 他 流 よりの 養 子ならんと い ひ 諸 説 紛々 たりしが九郎 氏 も 意 を 決 する所ありたりと見え 此程重 なる門人 を 招 集 し相 続 者 決定 の 旨 を 披露 し 併 せ て 将 来の事に関し 懇篤 なる 訓戒 を 施 し ― 10―たりと聞く、其選ばれたる相続者は ▲松本長氏にて 野 口、 桐谷、 近 藤、 藤野の諸氏はツレ或は地謡方として 遇せらる可しと九郎翁百年の後に十七代宝生大夫たる可き松本氏は故松本金 太郎氏の二男にして本年四十歳、 同 流壮年中にての年長者なるが芸風は師匠 と亡父との薫陶により極めて堅実、 毫も軽佻の色なく其家名を継ぐに就いて も一人の異論なかる可し、 又資性頗る恬淡所謂芸人根性なるもの更に無く廉 潔を以て聞ゆ、 従兄弟に下村観山、 泉鏡花氏等ありて一族皆芸術趣味に富め りといふ、 尚氏が相続者と定まりたる事は当分発表せられざる可く多分九郎 氏の遺言として公にせらる可しといふ是れ恐らく九郎氏一流の周到を極めた る用意ありての事なる可し 注記 記事は、 観山、 鏡花ともに 「従兄弟」 とするが、 観山は長の祖父松本彌八郎の 弟下村又右衛門の孫なので、 鏡花と目細てるとの関係と同じく、 正 確には 「又従 兄」に当る。 宝生九郎 (幼名石之助、ノチ知栄 ともはる ) は天保八年六月八日、十五代宝生大夫友干 ともゆき の次 男として江戸神田に生れ、 嘉永六年十七歳で家督を継ぎ十六代家元となった。 明 治二十二年十二月に養子の豊喜を十六歳で喪って以来、 嗣子を得なかったので、 古稀を迎えた三十九年の四月に舞台を引退してからその後継が取沙汰されるたび に名の挙っていたのは、 高弟の双璧松本長と野口政吉 (ノチ兼資) である。 長の父 金太郎、政吉の祖父庄兵衛ともに幕末明治の家元九郎を支えた斯流の両輪だった。 股肱の金太郎は大正三年十二月に七十二歳で身罷り、 九郎は六年三月九日に深 川吉永町の自宅で逝去 ( 享 年八十一) 、 青 山 斎 場 に おけ るその 葬儀 (十四日 午 後三 時 より) では、 長 が 仮 喪 主 を つ とめた (「宝生九郎氏の 葬儀 」「 東京朝 日 新 聞」 大正六年三 月十五日 付 五 面 ) 。 しかし長は家元を 辞 退し、 二十日に 別 家宝生嘉 内 の次男 勝 ( モ ト英勝 、ノ チ 重英 。明治四十二年五月 入 門。当年十八) が家督を相続、松本長 (同四十一) 、 野口政吉 (同三十九) の両人が芸 道 後 見 人として 新 家元を 補佐 する こ とが発表され た (「宝生 宗 家の相続発表」 「 東京朝 日 新 聞」 大正六年三月二十四日 付 五 面 ) 。 典拠 記事 中に名のある、 桐谷 (正治) 、近 藤 ( 乾 三) 、藤 野 ( 濤平 ) は、 い ず れも長、 政吉に 次ぐ九郎門下の 俊英 であった。 こ の家元 問題 に関しては、 流 儀 の 運営団体 宝生 楽部 の 主 事だった本 間広清 『広清思出話』 ( わんや書店 、 昭 和 三十三年五月二十五日) に記 述 があり、 大 河 内俊 輝 『 撩乱 の花 ある 能役 者の生 涯 』 ( 角 川 書店 、 昭 和 四十八年四月二十日) でも二 章 を 費 して 述 べ られているが、 長が 辞 退した 経緯 は 複雑 で、 その 因由 もまた 臆測 が多く、 い まだ 詳 かにしえない。 直 近の「 能 楽 もの」である大正七年一月発表の「継三味 線 」の発 端 、「 世 になき 親譲 りの大 酒 を、 秋 霜烈 日、 覇王 の 如 くだ つ た、 故深川の家元から、 遺言を以て 禁 じられた」 「宝生名取りの お 能役 者」 宝生 半 之助が、 祖父 万 三郎遺 愛 の大 鼓 「 谺 」 を「 今 の流 儀 の家元」 に 譲 ろう と 図 る 設 定は、 如 上 金太郎の 死 、九 郎 歿 後の宝生 流をふまえた 叙 述 となっている。 家元 問題 そのものは 反映 されていないが、 半 之 助に 「宝生」 を 冠 らせた 命 名には、 長の従兄鏡花のそれなりの 反応 があると み て よいのかもしれない。
大正五年(一九一六)
丙辰
四十四歳
十一月
十五日、
春
陽堂
より
里
見
弴
の
短
小説第
一
集
『
善心悪心
』
が
刊行
された。
里
見
は
見
返
しに「泉
様
」と
書
いた
紙片
を
貼
付
し、
扉
に「
お
か
げ
様
で
や
つ
と人
様
に自分の本を
差
上
げ
るためにか
う
して
筆
を取
つ
たりする
身の
上
になりました
お
喜び下さいまし
山
内
生泉
先
生」との
識語
を
添
えて
献呈
した。
― 11―典拠 『扶桑書房古書目録』 平成二十一年夏季号 (扶桑書房、 平成二十一年六月二 十五日)*写真版の引用を省く。 里見弴は第一小説集 『善心悪心』 の刊行にあたって見返しに 「 泉様」 と書 いた紙片を貼付し、 扉に 「おかげ様でやっ ママ と人様に自分の本を差上げるため にかうして筆を取っ ママ たりする身の上になりました お喜び下さいまし 山内 生 泉先生」と識語を添えた(山内は本名) 。泉鏡花は『善心悪心』を春陽堂 に推奨したいわば生みの親だったし、 弴 にとって少年の頃からの憧れの作家 でもあった。 恐らく最も先に献呈署名を認めた相手の一人であろう鏡花への 言葉には、 処女作品集を出版する喜びと共に十五歳年長の大先輩との親しい 間柄が窺える。 (…) 本目録掲載 『善心悪心』 は本冊のコンディションがとてもよく、 ページの 開きも固いので鏡花は読まなかった可能性が高そうだ。 函 もしっかりしてい る。 注記 典拠の目録には、 こ の 『善心悪心』 の鏡花宛献呈本と 『 薬の歌』 の里見弴宛 献呈本がセットで登載された。 『 薬の歌』 については、 「補訂 七 」 大正八年三月 二十日の項を参照。 本文は、 扶桑書房主人 東原武文氏の執筆。 本冊の状態の良さから 「鏡花は読 まなかった可能性が高そうだ。 」としている点、興味深い。 里見は、 翌年刊行の第二小説集 『三人の弟子』 (春陽堂、 大正六年五月十五日) に も、扉に「泉先生 山内生」と署名し献呈している (架蔵本。 「年譜」記載) 。
大正六年(一九一七)
丁巳
四十五歳
十一月
二日の晩、このたび大阪へ赴任する水上瀧太郎の送別会の件で、
里見弴、久保田万太郎と相談する予定のところ、久保田が急病のため、
里見と二人で打合せをした。
七日、
「覚春会」同人の発起として開かれた送別会(於浅草大金)へは、
水上、鏡花、里見、吉井勇、小村雪岱、長田秀雄、田
中純
、小山内
薫
に、
久保田も病をおして参集した。水上は二十七日に
明治
生
命
保
険
大阪
支店
へ
着
任し、大阪
市
東
区嶋町
一
ノ
七
白樫
くに
方
に
仮寓
した。
典拠 1 久保田万太郎「覚えがき」 (「三田文 学 」大正六年十二月一日。の ち 『三 筋町 より』金 星 堂、大正十年 九 月十日、に 収 録)*引用は 初 出。 三日、 四 日、 五日。 五日になつて 熱 が七 度代 まで下つた。 痛 みもとれ た。 私 は 安 心した。 これなら七日の水上 君 の送別会にも出か け られると 思 つ た。 全体 送別会のことは里見 君 と 私 とがす べ てを引きう け た。 二日の晩に泉先 生のところへ 寄 つて相談することまで定めた。それが 私 が 寝 るやうになつた。 泉先生が 私 のかはりに里見 君 と日 ど りや 場所 のことを 考 へて下すつた。 里見 君 から三日の日に手紙が 来 た。 勿論 、 私 は、 それ ほど の 疾 病 やまひ とは 思 つて ゐ ない。 熱 さへ下れば 何 うに でもなると 思 つた。 七日あるために、 私 は 加 養 した。 あ ん まり 信 用しない 医 者 のい ふ ことに 盲従 した。 七日の 午後 になつて 熱 をとつてみると七 度 二分だつた。 身 体 の 工 合も ふ だ ん とかはらない。 支度 をして、 時 間よりすこし 早 く 私 は家 う ち を出た。 わ づ か五日 ほど みないう ち に 世 間は 驚 く ほど 冬ざ れた。 俥 の上でさう 思 つ た。 大金へ行くと、 巧 い 工 合に、 そ こであつてくれ ゝ ばい ゝ と 思 つた 座敷 がと つてあつた。 私 が手紙に五六人と書いて 置 いたま ゝ 蒲団 が正 直 に六 枚 敷 いて ― 12―あつた。 二十分ばかりして泉先生がみえた。 つゞいて水上君がみえた。 里見君はど うしたらうといつてゐると、 そ こへ全く思ひがけない吉井君が入つて来た。 ぢきに小村君と前後して里見君も見えた。長田君のあとから田中君もみえた。 最後に膳がでゝから、 小山内さんの姿が瓦燈口にあらはれた。 通知を出 した顔が残りなく つた。 吉井君のごときは、 今朝佐渡からかへつたばかりの人だつた。 私は無 理にも出て来て好かつたと思つた。 典拠 2 「昼の目夜の耳」 (「時事新報」大正六年十一月十三日付 八面)*□は欠字。 ★水 △ 上 △ 瀧 △ 太 △ 郎 △ 氏 △ は今回 「明治生命」 大阪支店詰として、 来る十七□ [日] 出発同地に赴任することゝなつたが、 是より先 「覚春会」 同人発起の下に、 同氏の送別会が浅草の大 金 だいきん に於て開かれた、 集まる者は泉 ● 鏡 ● 花 ● 氏を初め吉 ● 井 ● 勇 ● 、里 ● 見 ● 弴 ● 、田 ● 中 ● 純 ● 氏等の如き何れも一騎当千の酒□連であつたが、 驚く可 し、 最初から小 ● 山 ● 内 ● 薫 ● 、久 ● 保 ● 田 ● 万 ● 太 ● 郎 ● 氏等と共に、 甘 党の部類に見られて居 た水 ● 上 ● 瀧 ● 太 ● 郎 ● 氏は、 幾 何飲まされても少しも態度を乱さない許りか、 最 後ま で踏み止まつてヘゞレケ連の介抱をすると云ふ始末に、 一同舌を き「 此 れ ぢやあ何んな大金を委託しても安心なものだ」と 典拠 3 「文芸消息」 (「時事新報」大正六年十二月二日付 八面) ▲水 ● 上 ● 瀧 ● 太 ● 郎 ● 氏 ● 廿七日明治生命保険株式会社大阪支店次席として赴任した 典拠 4 「文芸消息」 (「時事新報」大正六年十二月八日付 八面) ▲水 ● 上 ● 瀧 ● 太 ● 郎 ● 氏 ● 大阪に赴任した同氏は同市東区嶋町一ノ七白樫くに方に仮 寓 注記 水上の送別会の経緯は、 幹事の一人であった久保田の 「覚えがき」 に最も詳し い。 同文は、 澤村源之助の評伝の原稿を依頼された十月の 「十二三日」 の頃から 始まり、 祖母の 死 (二十二日) の後、 十一月一日の発 熱 、 無 理に出た送別会後、 盲 腸炎 だと 判 るまでを記す。 十一月十 五 日付 「時事新報」 の 「文芸消息」 欄 にも 盲 腸炎 のことが報 じ られている。 送別会の会 場 「大金」 は、 浅草区千 束 町二ノ一三八にあった 鳥料 理 屋 。地 元 生 れの久保田が 贔屓 にした店である。 水上の送別会は 「三田文 学 」 関係 者によっても開かれ、 十一月二十三日正 午 か ら 烏森 「末 げ ん」 に、 澤 木梢 ( 四 方吉) 、 小山内薫、 山 仁 三郎 ( 庭 後) 、 南 部 修 太 郎、 小 島政 二郎、 三 宅周 太郎らが集った (「消息」 「三田文 学 」 大正六年十二月一日) 。 「文芸消息」 (「時事新報」 同年十一月二十 五 日付 八面) には 「▲水 ● 上 ● 瀧 ● 太 ● 郎 ● 氏 ● 一 昨 夜三田文 学 会同人を 自宅 に 招 いて 晩 会を 催ほ した」 とある。 この報の通りだと すれば、水上は同日のう ち に昼 間 の送別会の 返礼 をしたことになる。 水上が久保田に同 道 し 番 町の 家 を 訪問 、 初 めて鏡花と面 識 を 得 たのは、 この送 別会の一年前、 大 正 五 年十一月二十七日であった。 水上の 在 阪中には、 七年三月 十日から二十日まで鏡花が、 その後同月中に 自宅 類 焼 の 厄 に 遭 った久保田が、 そ れ ぞ れ 訪 れている。 本項 は、小 谷野 敦『 里見弴伝 「馬鹿 正 直 」の人生 』(中 央公論 新社、 平成 二十年十 二月二十日) に、 久保田の 「覚えがき」 を典拠とした記 載 があるのに 教 えられ、 さ らに 傍証 をもとめたものである。
大正六年(一九一七)
丁巳
四十五歳
十一月
四
日付
「時事新報」
(八面)
の
「
文芸消息」
欄
に、
止
善
堂
から出
す「六
百枚
の長
小
説
」を
執筆
中であることが報
じ
られた。
― 13―典拠 「文芸消息」 (「時事新報」大正六年十一月四日付 八面) ▲泉 ● 鏡 ● 花 ● 氏 ● 近く神田の至 (ママ) 善堂から出版す可く目下六百枚の長 小説を執筆 中 注記 この長 執筆のことは、 大正七年一月二十日付 「時事新報」 (八面) の 「昼の目 夜の耳」 欄にも報じられているが (「年譜」 記載) 、 同年六月二十七日に、 『鴛鴦帳』 として神田区美土代町一ノ四十二の止善堂から、 小 村雪岱の装丁により刊行され た。 その長文の 「序」 に、 大正六年の九月に執筆の約が成ったものの、 書きあぐ ねて書肆や装丁者の雪岱に迷惑をかけ、 水上瀧太郎を心配させたことが記されて いる。 本作の自筆原稿 (和紙二五一枚 墨書) は慶応義塾図書館蔵、 原題は 「あやせの よ」 である。 再版二種 (大正七年六月三十日、 同十月二十日) と三版 (同七月三日) が ある。 岩波書店蔵の編修資料中に 「一千部初版/五百部再版/五百部三版」 (自筆 墨) との記載のある奥付校正刷が存する (以上 「 単行本書誌」 「自筆原稿所在目録」 「編 修資料目録」岩波書店版『新編泉鏡花集』別巻二、平成十八年一月二十日、を参照) 。 広告を見ると「著者が十年の心血を濺ぎたる畢生の大傑作長 の創作小説出づ」 とある再版の広告 (「読売新聞」 大正七年六月三十日付 一面) には、 書名の横に 「 お しどりちやう」 と 振りがなのあるのが注目される。 この振りがなは三版の広告 (同七月三十日付 一面) でも同様で、 さらに 「◆表紙見返共木版二十数度刷り装幀 の善美を盡せる事真に出版界に類を絶す◆巻頭に添へたる一大長編の自序は新作 の由来を明かにし具に其苦心を述ぶ◆売行飛ぶが如く発行旬日にして初版再版売 切れ三版将に盡んとするの好况◆装幀製本共に異常の日子を要す三版売切後は容 易に入手の機を得ざる可し◆紙価其他諸雑 費 の 暴騰 は 今 後 斯 の如き 廉 価を以 つ て 頒 ち 難 きやも 計 られ ず 」 と説明が付されているが、 装丁者小村雪岱の名は記され ていない。 本作の 素 材 に つ いては、 長 島隆 二「 泉 鏡 花 君 」 (『 政 界 秘 話 』平 凡社 、 昭 和三年十月 二十五日) に、 鏡花との 交遊 を 語 って、 向 島 の「 香浮園 」に 遊 ん だ おり 「一 緒 の 席 に 始終 来た芸者は、 清 香だ の和 光 、 小夜子、 老松 、小 桃 、 音丸等 であ つ た」 、「鏡 花 君 はこの 頃 の事 実 を 「 鴛鴦 帖 (ママ) 」 の中へ 描 いた様 だ 。 恐 らくあの小説の 女主人公 江 月 園 の 主人萩 島 屋 照 吉 本名お新は 清 香 本名のお真を モデル にしたものであらう。 」 との 言及 がある。 長 島 との 関係 に つ いては、 か つ て岩波書店版 『新編泉鏡花集』 第 五巻 (平成十六 年三月二十四日) の「 解 説」 にも 触 れたことがあるが、 長 島 の「 末弟 」が 尾崎 紅葉 門 下であったことから、 鏡花との 縁 が生じたという。 紅葉 の 「十千 万 堂日録」 (明 治 三十五年三月二十五日の 項ほ か) を参照すれ ば 、長 島 の「 末弟 」 と は、 おそらく原 口春 鴻 (本名 豊秋 。明 治 三十四年七月二十一日に入 門 を 請 い、 三十一日に出 身地鴻巣 にち な み 、 春 鴻 の 号 を 与え らる。生 没 年 不詳 ) のことではないかと 思わ れる。
大正六年(一九一七)
丁巳
四十五歳
十一月
三十日付「時事新報」
(八面)の「文芸消息」欄の「
「中
外
新
論
」新年
号
の創作」
として
「
「菊
の
草
紙
」(泉鏡花氏、
四
〇
枚)
」
と報じられ
たが、
翌
年の新年
号
には「
黒髪
」が載った。
典拠 「文芸消息」 (「時事新報」大正六年十一月三十日付 八面) ▲「中 外 新 論 」新年 号 の創作「 2 と 3 」(田 山 花 袋 氏、六 〇 枚 [ ) ]「 毒 」( 岡 田八千代氏、四 〇 枚) 「 悔恨 」(長田 幹彦 氏、四 〇 枚) 「 菊 の 草 紙」 (泉鏡花氏、 四 〇 枚)以上四 を 掲 載 注記 同紙十二月二十四日付 (一面) 掲 載の 「中 外 新 論 」新 年 号 の広告には、 鏡 花 ― 14―「黒髪」 、 岡 田八千代 「仲間外れ」 、 田山花袋 「 2 と 3 」、 ラガレオーフ作 山縣螽 湖訳「銀鉱」が示された。 「黒髪」の自筆原稿の所在は未確認だが、現行の本文は予告題「菊の草紙」に通 う要素を持っていない。
大正六年(一九一七)
丁巳
四十五歳
十二月
一日発行「新小説」
(第二十二年第十三号)の「新年増大号予告」
に鏡花作
「雨の横町」
が掲げられたが、
翌年新年号の小説は
「継三味線」
であった。
典拠 「新小説新年増大号予告」 (「新小説」二十二年十三号、大正六年十二月一日) 老婆殺し 正宗白鳥 小 暁 闇 有島武郎 説 偽狂人 里見弴 六 悪僧了玄 長田幹彦 開化の殺人 芥川龍之介 雨の横町 泉 鏡 花 注記 「継三味線」 の自筆原稿の所在が未確認のため、 「雨の横町」 という予告題との 関係は判らない。 前月十一月の項にも 「黒髪」 のことを記したが、 本年年末は予 告題からの変更が度重なった。 予告 「小説六 」 の うち、 白鳥、 有 島、 長田のものは同題で、 里見のものは 「冬の或る夜」として載り、芥川は「西郷隆盛」 を掲げた。予告「開化の殺人」は 本誌ではなく、七年七月の「中央公論」に載った。大正六年(一九一七)
丁巳
四十五歳
十二月
六日付「時事新報」
(八面)の「文芸消息」欄に、
『紅梅集』の近
刊が報じられた。
典拠 「文芸消息」 (「時事新報」大正六年十二月六日付 八面)*□は欠字。 ▲泉 ● 鏡 ● 花 ● 氏 ● 新著小説集 「紅梅集」 を脱稿近□日本橋の春陽堂から出版と決 定 注記 『紅梅集』は「起誓文」 「舞の袖」 「神鑿」 「無憂樹」 「星女郎」の五 を収め、小 村雪岱の装丁により、翌大正七年一月一日に刊行された。 岩波書店蔵 「 編修資料」 に は、 「新 (選) 集」 と朱書き (または墨書き) で割付 指定された「起誓文」 「神鑿」 「無憂樹」 「星女郎」の校正刷が存するので、当初の 書名は「新 集」として進められたことが判る (「編修資料目録」岩波書店版『新編泉 鏡花集』別巻二、 平成 十八年一月二十日、を 参 照 ) 。 本書は 『 鏡花選集』 (大正 四 年六月二十一日) から 始 まった小村雪岱装丁の春陽堂 版袖 珍 本 (三六判。一名「鏡花文 庫 」) の七 冊 目にあたる。大正七年(一九一八)
戊午
四十六歳
一月
十
四
日、芥川龍之介は「無憂樹」を
読ん
で七
句
を作り、
久米
正
雄
宛
に書き
送
った。
典拠 芥川龍之介の 久米 正 雄 宛 書 簡 (大正七年一月十 四 日付 葉 書 書 簡番 号 407 岩波 書店版『芥川龍之介 全 集』十八巻、 平成 九 年 四 月八日) この間 蛇笏 の 句 を 少 し見たが 俗臭 があるので大に 軽蔑 した 彼 が 句 作の 上 で 完 成 したのはこの二三年の事らしい そ の前の 句 は 皆 いか ん 赤木 のい つ か 引 いた 句 は「 芋 の 露連 山 影 を正うす」だ これはい ゝ 句 だと 思ふ ― 15―秋風に金音高し志津屋敷 花あかり人のみ暮るる山路かな さびしさや棟の夕月庇の菜 太白の糸一すぢや春の風 宿に咲く藤や諸国の人通り ひきとむる素袍の袖や夜半の春 蝙蝠や口紅の色夕まぐれ これは鏡花の無憂樹を十頁ほどよんでその中から作つた句だ 俳品蛇笏の比 にあらず 外套は送つたよ 注記 文中の蛇笏は飯田。 赤木は桁平、 本名池崎忠孝。 芥川の読んだ 「無憂樹」 は、 時期からして単行本 (明治三十九年春陽堂刊) ではなく、前項に記した『紅梅集』所 収の本文であろう。 「十頁ほど」 とは、 同書該作の 「花鳥たがね」 の 「一」 から 「三」までの部分である。
大正十年(一九二一)
辛酉
四十九歳
二月
十日、久保田万太郎は松竹の新劇部から、翌月市村座に演出上場す
る「婦系図」の台本を受取った。
典拠 久保田万太郎 「『 婦系図 』 の稽古」 (「演芸画報」 八年四号、 大正十年四月一日。 のち『三筋町より』金星堂、大正十年九月十日、に収録)*引用は初出。 「婦系図」といふ芝居は、書下し以来、わたしの好きな芝居で、いろいろの役 者のやつたのをみてゐる。 三田文学へくはしい批評を書いたこともある。 わ たしならかうやるがと、 最近本郷座で柴田月岡石川でやつたのをみたとき、 一しよにみに行つた喜多村に話したのがそも の事の起り、 今度市村座で この狂言をやるに定つたとき、 改めて話があり、 わ たしが稽古を引きうける ことになつた。 二月の十日に松竹の新劇部から台本をうけとつた。 稽古をするためにはま づ、 その台本に手を入れる必要があると思つたから。 ところがその台本 が本郷座で使つた台本。 削りに削り、 約めに約めた悪台本だつた。 わた しは書下しのものをみたいと思つたが駄目だつた。 (…) 序でながら、 今度のこの稽古にわたしが関係したことはかなり友だちの間 の評判を悪くした。 そんな暇があるなら怠けないで小説を書けと 叱 られた。 わたしだつて 泉 さんのものでなけれ ば こんな 余計 な おせ つかいをしやしなか つた。 (十年三月) 注記 翌月の三月 五 日初日の市村座上演については 「年 譜 」に 記 載 し た が 、こ の「 婦 系図」上演は久保田の鏡花作品の初演出であるので、その 経緯 を 補 った。 文中 「三田文学へくはしい批評を書いた」 とは、 同 誌 大正三年十月号 掲載 「演 劇月評」 のうちの 「婦系図」 のことで、 伊井蓉峰 、 河合武雄 の明治座上演評であ る (のち『 駒形 より』平 和 出 版社 、大正 五 年十月十三日、に収録) 。 本郷座の 「婦系図」 は、 大正九年十月十九日初日の新 生 劇 団 による上演で、 主 な役 割 は、 お蔦= 石川新 水 、 早瀬主税= 柴田 善 太郎、 酒井俊蔵= 月岡一樹、 小 芳= 藤田 芳美 、 妙子= 小 栗 武雄 、 魚 屋 惣助 = 大 東鬼城 、 坂 田 礼之進 = 竹川 誠 一ほか (「芝居と 遊 芸」 「 都 新 聞 」 大 正九年十月十九日 付 五 面 。 役 者の名前は演芸画報 社版 『日本 俳 優鑑 』明治四十三年三月一日、 等 に拠った) 。 「『 婦系図 』 の稽古」 は、 のちに 「新小説 臨 時 増 刊 天 才 泉 鏡花号」 (大正十四年 五 月一日) へ「 『 婦系図 』」として 再 録されたが、引用文の「二月の十日に」が「で、 」 ― 16―の一語に変えられたほか、字句に修正が加わっている。 [付記] 資料の調査に関しては、 国立国会図書館、 日本近代文学館、 青山学院大学図書 館、本学図書館近代文庫のお世話になった。記して深謝申し上げる。 (よしだ まさし 日本語日本文学科) ― 17―